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俳優からカリフォルニア州知事に転じ、その後1980年に大統領に就任した。なお、俳優時代にハリウッドでスパイとしての活動を行い赤狩りのため協力を行っていた。そのことでその後の為政者としての地位を高めたと言われている。1期目はアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復とともに双子の赤字をもたらした。外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命やニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく、レーガンは外交に関しては殊、強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行う等、「強いアメリカ」を印象づけた。
2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立ったものの、レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判。「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や日本の中曽根康弘首相、西ドイツのヘルムート・コール首相などと密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援した。前者はソ連の解体、後者はベルリンの壁崩壊に代表される東側諸国の民主化に繋がり、レーガンは冷戦の平和的な終結に大きく貢献した。
2期目の大統領に就任した時点で75歳に迫る高齢であり、また暗殺未遂事件にも遭ったが、2期8年の任期満了によりウィリアム・ハリソンの当選した1840年以降の「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」という、いわゆる「テカムセの呪い」にも終止符が打たれた。
大統領退任から5年後、自らのアルツハイマー病を告白。公の場には出ず、闘病に専念するようになった。2004年6月5日、長い闘病の末、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス市の私邸で死去した(93歳没)。