神の子どもたち
ユダヤ人 帰還法では「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人として定義している。旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウル から部族を引き連れて「カナンの地」 に移住したとされる。彼らは「移住民」という意味の「ヘブライ人」と呼ばれ、この付近で遊牧生活を続けた。
紀元前17世紀頃、ヘブライ人はカナンの地から古代エジプトに集団移住した。古代エジプトの地で奴隷とされ、その後、エジプト第19王朝の時代に、再び大きな気候変動が起こり、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす。
彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地 に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃から「イスラエル人」を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。
紀元前10世紀頃、古代イスラエル人はヤハウェ信仰 を国教とする古代イスラエル王国をカナン に建国した。ユダヤ人は、いまから3000年前のダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。ちなみに、日本列島の人口は、3000年前の縄文時代には、推定で10数万である[15]。ソロモン王の死後、紀元前930年頃、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされた。南のユダ王国は、紀元前609年にメギドの戦いでエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、紀元前606年にカルケミシュの戦い でエジプトが新バビロニアに敗れた。紀元前587年に新バビロニアの侵攻に会い 、翌年にはユダ王国が滅亡して多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われた。彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。
紀元前539年のオピスの戦い で、アケメネス朝ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人はキュロス2世によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国として復興された。ユダヤ教の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的にはローマ帝国領のユダヤ属州とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民 の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年代頃、ユダヤ属州北部ナザレの民から出たイエス・キリスト が活動したと伝えられる。
紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが 、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。132年、バル・コクバの乱が起こったが鎮圧され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。