ユーラシア大陸から見た京田辺の古代歴史ルーツ ①竹取翁博物館 「国際かぐや姫学会」2014.1.10
日本人の古代史ルーツに大変詳しい和尚さんが住んでおられたので、竹取翁博物館の館長が対話形式でお話を伺うことにした。
今回は、京田辺が日本の「まほろば」であり奈良よりも遙か古い時代にユーラシア大陸の海や陸から色々な人達がやってきていた場所であると言うことをお話し頂いた。
和尚さんは、40年ほど前からイスラエルのユダヤや世界各地からきた人たちと寝食を共にして古代の歴史を調べられた方である。
日本人の祖先は、遙か西方のチグリス・ユーフラテス川のシュメールあたりからゆってきていて、日本列島の奄美にやってきていた。この「アマミ」はフェニキア語で「海洋民」という意味であり、ここが最初の日本の入り口であったという。
筒木の京田辺市大住で幼少期を過ごしたという藤原不比等もこれらの民族の人達で、大住三野にいた犬飼三千代や三野王(みののおおきみ)も一連の民族だという。
その後、藤原不比等が、「17条の憲法」を作り『古事記』『日本書紀』の編纂等を「中心となって完成させた」と述べられた。そして、に不比等は、聖徳太子というササン調ペルシャのタルトである「タリシヒコ」という人物をたてて一連の歴史を成立させて行ったという。
「国際かぐや姫学会」
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