49.ウィンストン・チャーチルの名言
1874年、政治家の長男として生まれる。母は米国人。祖父がアイルランド総督だったため幼少期はアイルランドで過ごす。成績が悪く、大学には進学せず、陸軍士官学校に入学する。
1895年にスペイン軍に従軍して初めて実戦を経験。1899年に除隊し、庶民院議員選挙に保守党候補として出馬するも落選。1900年の第二次ボーア戦争には従軍記者として従軍したが捕虜となる。しかし、捕虜収容所から脱走したことによりチャーチルは知名度を上げる。
1900年の総選挙で保守党候補として初当選を果たす。その後、自由貿易護持の立場を明確にしない保守党を見限り、自由党へ移籍。1908年、33歳の若さで通商大臣に就任。1911年に海軍大臣に就任。1914年に第一次世界大戦が始まると失敗もあり海軍大臣を外される。しかし、1917年に再入閣を果たし、戦車の増産に努め、英国の勝利に貢献した。
1923年、自由党が労働党に接近するとチャーチルは反社会主義の立場からこれに反発し、自由党を離党。1924年の総選挙には保守党候補として当選。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発。これを機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰。1940年に首相に就任。同時期に西方電撃戦を開始したドイツ軍に惨敗し、フランスは陥落。しかし、英国本土の制空権を狙うドイツ空軍の攻撃は撃退する。
1940年11月にルーズベルトが米国大統領に三選したことで米国の英国支援が本格化。1941年6月にヒトラーが独ソ戦を開始したことでスターリンのソビエト連邦と同盟関係になる。そして、1941年12月に日本が真珠湾を攻撃したことで米国とも同盟関係になる。1943年11月、チャーチル、ルーズベルト、スターリンの三巨頭によるテヘラン会談に基づきノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態が崩れる。
1945年5月、ドイツが無条件降伏。その後、解散総選挙を行うも、保守党は惨敗し、チャーチルは政権を失う。チャーチルは、その後も反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。また、チャーチルの回顧録『第二次世界大戦』は、1953年にノーベル文学賞を受賞。1965年、90歳の生涯を閉じる。
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