[1]人類の出現
絶対年代 地質年代 人類 考古年代 生活文化
石器 文化 経済 生活
250~200

万年前


{1}人類の誕生-文化を持つ
(1)直立歩行
(2)火の使用
(3)道具の製作
(4)言語の使用





礫石器
→自然石を打ち欠いただけの
最も基本的な打製石器。



◎道具の製作
◎直立歩行
◎野生の動物や植物を食料とし
社会生活を営む




(ホルド)




{2}猿人(アパ・マン)→アウストラロピテクス群
(1)南アフリカ各地で発見。「南方の猿」の意。
(2)脳容積500~700cc。
(3)いくつかのグループに分類
(a)ボイセイ型(石器は作らず、主に草食)
→ハラントロプス(南ア)、ジンジャトロプス(東アフリカ)
 (b)アフリカヌス型(礫石器を製作)
ホモ・ハビリス(オルドワイ渓谷出土)
50万年前 {3}原人(ホモ・エレクトゥス)
→アジア・ヨーロッパ・アフリカに広く分布
(1)ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)
(a)ジャワ島のトリニールでオランダ人のデュボワが、
頭蓋骨の一部、大腿骨などを発掘。
(b)脳容積約900cc。
(c)生活様式は不明。
(2)北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)
(a)北京から南西にある周口店にて出土。
(b)打製石器、火、言語の使用。
(3)藍田人-北京原人より古い時代。
(4)ハイデルベルク人-ドイツにて出土。下顎骨のみ。
握斧(ハンド・アックス) ◎川岸・洞窟にすみ狩猟、採集を行う。
15万年前 {4}旧人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス)
→原人よりさらに進化した形質を持ち、ヨーロッパ全土、
西アジア、北アフリカに分布。
(1)ネアンデルタール人
(a)ドイツにて発見。衣服の使用、埋葬の習慣。
(b)脳容積約1500cc。
(2)ローデシア人-アフリカにて発見。

剥片石器
→原石より脱落した剥片を使用。
用途次第に多様化。
◎火の使用が一般化。
埋葬の習慣-精神文化の発達による。
◎宗教の始まり-狩猟の成功を祈る呪術的儀式。
◎毛皮の衣服、炉を備えた住居-寒冷地に適応。
◎身体装飾の習慣起こる。
4~1万年前 {5}新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)
→洪積世末期の氷河期から後氷期(4万~1万年前)に出現。
(1)クロマニョン人
→南仏の同地名で発掘。洞窟絵画、弓矢の発明。
(2)周口店上洞人
→北京原人の発掘された洞窟の上部より発見。
(3)三ヶ日人-浜名湖北岸にて発見。
(4)ボスコップ人-アフリカで発見。
(5)グリマルディ人-仏伊国境付近で発見。

石刃技法
→石塊から石刃を取る特殊な
剥片石器製作の技法。
細石器
→剥片石器の小型のもので、木、骨の柄に
はめ込み、矢、槍、鎌などに使用。
◎石器の用途別高度化。
◎弓矢の発明-大型動物の狩猟始まる。
骨角器の発達-漁労への応用。
→槍、投石機、銛、釣り針など
洞窟美術
→大型動物との狩猟を題材とした絵画。
狩猟の成功を祈った呪術的所産。
ラスコー(南仏)、アルタミラ(西)など
※イベリア、北アフリカ、西アジアなどでは岩絵
女性裸像-多産豊穣を祈る呪術的所産。
屈葬の習慣始まる
→副葬品等あり、宗教的意識の深まり見られる。


中石器時代 磨製石器
→砂や砥石で研磨した石器。
石臼、石皿、石杵など。
◎自然環境の変化
○氷河期の後退により気候が温暖化、
海・陸ほぼ現在の形に。
○寒冷適応の大型動物の消滅、北上と
それに変わる小型動物が繁栄、
従来の狩猟は困難となる。
◎新石器文化の特徴
○磨製石器の製作
農耕・牧畜の開始
○土器の製作
○織物・編物の製作
○住居の改善
→土や日乾し煉瓦の小屋による集住。
◎新石器文化の伝播と地域的差異
○農耕・農牧民の文化
→西アジアから5000B.C.頃より東西に伝播。
(大西洋沿岸~黄河流域)
原始遊牧民の文化
→モンゴル高原・中央アジア・イラン・
シリア・北アフリカに至る草原地帯。
狩猟・漁労民の文化
→ユーラシア北方の寒冷な森林地帯。
◎ヨーロッパの巨石建造物
ドルメン、メンヒル、
ストーンサークル
(英のストーンヘンジが有名)




(農牧業)












世界史の上っ面より

◎先史から歴史へ
[2]文明への道程
{1}初期農村
(1)7000B.C.頃、イラン西南部~アナトリア高原南部~ギリシア半島部にかけて成立。
(2)代表的遺跡-ジャルモ(イラク、原始農耕生活の小部落)、イェルコ(死海西側)
(3)農法
(a)乾地農法(耕地に乾地を選び(樹木の伐採が困難)、天水に頼る)
(b)略奪農法(無施肥)
(4)農村の生活
(a)麦類などの穀物栽培
(b)肉畜等の飼育-羊、山羊、牛、馬、豚など
→生産性の向上、生活の安定、時間的余裕の発生、穀物の貯蔵、金属の発見
(5)農村の形態
(a)常に移転するため、集落規模は小さい
(b)地母神などの祭祀中心に集落を形成
(c)生活文化の基礎を形成(衣食住)
(d)彩文土器(5000B.C.頃)、銅製品の使用
(e)私有や権利の概念が発生{2}大村落(町邑)
(1)灌漑農業-3500B.C.頃メソポタミア南部に始まる。治水、利水による大規模農業。
→生産力の増大、共同作業の必要性が高まり、人口が集中。
(2)その他生活の変化
(a)銅器、青銅器の普及
(b)階級社会の発達
(c)精神生活の一層の充実

{3}都市(3000B.C.頃)から都市国家
(1)社会での役割変化-食料を他者依存する職業の発生(神官・戦士・手工業者)
(2)階級の成立
貴族(神官・戦士)-平民-奴隷

神殿が都市の中心で権威が高かった。
(3)都市国家の成立-宗教的・軍事的色彩強い。
(4)文字の発明-知識の蓄積と伝播が飛躍的に活発化。

※人種・民族・語族の分化
(1)人種-人類を生物学的特徴で分類(身長、皮膚の色など)
コーカソイド(白色人種)、モンゴロイド(黄色人種)、ネグロイド(黒色人種)
(2)民族-習得している文化的伝統が同一である集団
→宗教、経済形態(農耕民族、狩猟民族、遊牧民族など)、文化圏など
(3)語族-使用する言語により系統分類した集団
1.古代オリエント
[1]オリエントの風土と民族
{1}オリエント
(1)ラテン語(古代ローマ人の言葉)で「日の昇る方向」の意。地中海東岸一帯をさす。
(2)地域-小アジア以東の地。西アジア、エジプト{2}自然環境
(1)気候
(a)地中海性気候-夏:高温乾燥、冬:温暖多雨
(b)乾燥気候-高温小雨:砂漠、草地などが多い
(2)各地域の主な生活様式
(a)小アジア・アラビア半島-遊牧生活
(b)エジプト・メソポタミアの大河流域-毎年定時期に起こる氾濫が沃土をもたらす。
→穀物農業(主に麦)、高度な文明の成立
肥沃な三日月地帯-パレスティナ~メソポタミアに至る農耕文明の成立地帯
エジプトを含めることもある。
(c)地中海東岸-中継貿易が発達

{3}社会・文化
(1)定期的な増水・氾濫が広大な沖積平野を形成
→農耕民が定着、大規模な治水、灌漑、共同労働の必要性が増す。
(2)専制君主の統治
→神またはその代理者として統一国家を作り専制政治を行う。
(3)強大な王権を官僚、神官(知識人)が支える
(4)宗教的支配-宗教的権威者(王・神官)が政治的にも支配
祭政一致の神権政治
(5)文化の性格-専制政治と宗教の権威を象徴。自由な思考の発展は乏しい

 

1.古代オリエント
[2]エジプト
{1}エジプトはナイルの賜(ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉)
(1)ナイル川上流エチオピア高原での定期的な豪雨(7~10月に増水)
→肥沃な泥土が下流に堆積、施肥なしで年2,3回の収穫が可能
(2)交通路としての重要性{2}統一前の状況
(1)民族-ハム語族:新石器時代末期に侵入
(2)治水・灌漑の必要性-強い指導者、統一国家とその支配機構の整備進む。

{3}ノモス(小部族による都市国家)の分立(4000B.C.頃)
(1)上エジプト(ナイル川中流域)-22のノモス
(2)下エジプト(ナイル川デルタ地帯)-20のノモス
◎上下でそれぞれ統一の後、メネス王による統一
→第1王朝の成立(3100B.C.頃)
※メネスは伝説上の統一者で、出土したロゼッタストーンによると、
下エジプトを統一したのはナルメル王とある。

{4}古王国(第3~第6王朝、27~22B.C.)
(1)首都:メンフィス
(2)第3~第4王朝時に最盛期迎える
(3)王はファラオ(「大きな家」の意)と呼ばれ、全国土を支配
→「現身の神」として神権政治を行う
(4)神官・官僚-貴族として王より土地を与えられる
(5)農民-生産物の租税を納める。不自由な身分
(6)ピラミッド-王の巨石墳墓。
ギゼーの3代ピラミッドが有名(クフ王、カフラー王、メンカフラー王)
(7)第6王朝以降-神官・貴族の強大化に伴う王権の弱体化

{5}第1中間期(2190~2050B.C.頃)
(1)王朝乱立し、各ノモスが半独立化
(2)社会不安広がり、農地荒廃

{6}中王国(第11~第13王朝、2133頃~1786頃)
(1)都市国家テーベの豪族が全土を統一
(2)首都:テーベ
(3)秩序回復、一時的ながら文化、政治が繁栄
(4)庶民の地位が向上-庶民も死後ミイラ化

{7}第2中間期(1780頃~1560B.C.頃)
◎異民族ヒクソスの侵入
→セム系遊牧民を中心とする西アジアの移住民。馬と戦車で中王国を征服

{8}新王国(第18~第20王朝、1567頃~1085B.C頃)
(1)1570B.C.頃、ヒクソスをテーベ侯が撃退し全国を統一
(2)首都:テーベ
→ヒクソスより馬と戦車を導入、中央集権政治を行う
(3)ハトシュプト女帝-内政重視の平和外交行う
(4)トトメス3世-シリア、パレスティナ、ヌビア(エジプト南方域)を征服、最大領土を形成
(5)アメンホテップ4世(アクエンアテン)(位1379~1362B.C)
(a)宗教改革を行う-テーベの守護神アモンの国神化
→テーベ以外の諸都市の反発
→唯一神アトンの信仰を強制、
首都をアケアトン(現テル・エル・アマルナ)に移す。
自らもイクナートン(アトンに愛される者)に改名。
(b)アマルナ美術-革新的・写実的な芸術の発達
※ネフェル・ティ・ティ-アメンホテップ4世の妃。ミタンニ王国の王女で絶世の美女。
その胸像はアマルナ美術の代表例
(c)王の死後、首都は破壊され、テーベに首都が戻る。
→ツタンカーメン王即位の時、アモン神官と和解成立。
(6)ラムセス2世(1304~1237B.C.)
◎シリアに進出し、ヒッタイトと対立-カデシュの戦い(1286 or 1285B.C.)
→ラムセス2世対ムワタリシュ王。1280B.C頃に対等国家として和平条約を締結

{9}末期王朝時代(1090頃~525B.C.)
(1)海の民族(諸民族の混合勢力)の侵入に苦しむ
(2)アッシリアによる征服(670B.C頃)
→一時独立するも、ペルシアにより滅亡。

1.古代オリエント
[3]メソポタミア
{1}シュメール人の都市国家群(3500~2500B.C.頃)
(1)シュメール人-民族系等不明。紀元前4000年紀前半に村落定住生活を開始
(2)メソポタミア南部に都市国家建設
ウル(最大、城壁あり)、ウルク、ラガシュなど約20。
巨大な聖塔(ジグラッド)を持つ都市もあり。
(3)各都市国家の性格
(a)守護神を持ち、最高の神官、戦士である王が中心。
(b)神官、官僚、戦士が都市の神を祀り、自由民、奴隷を支配(階級社会と神権政治)
(4)シュメール文化-豪華。成文法を持つ(シュメール法典)
(a)壮大な宮殿、神殿、王墓を持つ。
(b)治水・灌漑による生産力の向上-外国との貿易、他都市との覇権抗争始まる
(c)支配者への富の集中が顕著
(d)青銅器の武器、彩文土器、戦車を持つ
(e)楔形文字を創始-広く西アジアに伝播{2}アッカド王国(2350頃~2050B.C.頃)
(1)アッカド人-セム語族。メソポタミア北部に定住
→2400B.C.頃、アッカド市にサルゴン1世が現れ、同族セム人の都市国家連合を率いて
シュメール人都市国家を次々と征服(初の全メソポタミア征服)
(2)約2世紀にわたって栄え、度量衡の統一、楔形文字の表音化などを進める
文化的にはシュメール人の影響強い
(3)第4代ナラム・シン-領土拡大し、「アッカドの神」として神格化
(4)ザグロス山間より進出したグチ族により滅亡

{3}ウル第3王朝
(1)ウルの代官ウル・ナンムが、シュメール人とアッカド人の連合の下、王朝を再建。
→中央集権により運河、道路を建設、法整備を行う(2000B.C.頃)
(2)1950B.C.頃、東方よりエラム人(民族系統不明)、
西方よりアラム人(セム語族)の侵入を受けて滅亡

{4}群雄割拠の時代(2025~1775B.C.頃)
◎イシン・ラルサ時代-首都ウルをめぐるイシン朝とラルサ朝の争い

{5}(古)バビロニア王国(バビロン第1王朝)(1830頃~1530B.C.)
(1)民族:アムル人(セム語族)。20cB.C.頃、バビロンに侵入し、定着。
(2)ハムラビ王(18cB.C.頃)-第6代の王。
(a)エラム人勢力を一掃、全メソポタミアを統一。小アジア、シリアにも勢力を伸ばし、
中央集権体制を確立。
(b)首都:バビロン
(c)大規模な治水、灌漑事業を行う。
(d)ハムラビ法典
◎シュメール法典を継承し、集大成した成文法。全282条。
◎民法、商法、刑法、税法、土地制度、家族制度、婚姻、職業などについて規定
◎特色
復讐法の原則-「目には目を、歯には歯を」(同害刑法)
階級法-被害者の身分により、刑罰に差をつける
(3)滅亡-16cB.C.はじめより、ザグロス山中からのカッシート人の侵入に苦しむ。
→最終的にヒッタイトの侵攻を受けて滅亡。バビロンはカッシート人の支配を受ける。

{6}印欧語族の3王国
→中央アジア、南ロシアの遊牧民が民族移動。紀元前2000年紀にオリエントに侵入。
馬と戦車による戦術で先住民を征服、融合。
(1)カッシート王国
(a)カッシート人がザグロス山中より進出。メソポタミア南部を征服
→バビロンを支配(16c~12cB.C.)。
(b)エジプト、ミタンニ、ヒッタイトと抗争(アマルナ時代のエジプトと交渉を持つ)
(c)1204B.C.頃、エラム人により滅亡
(2)ミタンニ王国
(a)16cB.C.頃、メソポタミア北部、シリアを支配、15cB.C.半ばに最盛期を迎える
(b)エジプト、ヒッタイトと抗争
(c)14cB.C.頃より衰え、ヒッタイト、アッシリアにより滅亡(1350B.C.頃)
(3)ヒッタイト帝国(ハッティ)
(a)20cB.C.頃、バルカンより小アジアへ侵入。
(b)1650B.C.頃、小アジアを支配する強大な帝国を建設
(c)ハトゥシリシュ1世が首都をボガズキャイ(ハトゥシャシュ)に定める
(d)16cB.C.古バビロニアを滅ぼす(ムルシリシュ1世)
(e)1400B.C.頃よりオリエントで最初に鉄製武器を製作、使用
(f)14cB.C.、シュッピルリウマシュ王の時最盛期を迎える
(g)エジプトと抗争(カデシュの戦い)
(h)12cB.C.、急速に衰え、滅亡

1.古代オリエント
[4]地中海東岸
西暦 シリア地方 フェニキア地方(現レバノン) パレスティナ地方 西暦
25cB.C. {1}カナーン人の侵入・定着
(1)語族:セム語族。25cB.C.頃より定住を開始。地中海東岸各地に都市国家を建設
→沿岸の都市国家-ウガリッド、ビュブロス、シドン、ティルス、ガザなど
→内陸の都市国家-ゲゼル、メギッドなど
(2)エジプト・メソポタミアを結ぶ通路かつ東地中海への出口にあたり、
通商業で発展(キプロス、クレタにも進出)
25cB.C.
{2}エジプト、ヒッタイトの侵入
15cB.C. {3}ヘブライ人の侵入・定着
(1)当初ユーフラテス川上流域における遊牧生活を営む
(2)15cB.C.頃、パレスティナ地方に侵入、
先住のカナーン人を制圧して定住生活に入る
(3)更に一部住民はエジプトに移住。
(4)出エジプト(13cB.C.)
(a)エジプトに移住していたヘブライ人が、
新王国のファラオ(ラムセス2世?)の圧政を受け、
モーゼに率いられてエジプトを脱出
 (b)シナイ山にてヤーヴェの神と契約(十戒)。
15cB.C.
14cB.C. 14cB.C.
13cB.C. 13cB.C.
12cB.C. {4}海の民族の侵入
(1)ギリシア・エーゲ海方面から東地中海の制海権を掌握(聖書の「ペリシテ人」(フィリステン人)にあたる)。
(2)13cB.C.末、ヘブライ人を圧迫し山岳地帯へ駆逐(ヘブライ人は12の支族に分裂)。
12cB.C.
{5}アラム人の侵入
(1)12c~8cB.C.頃にかけて
諸小王国を形成。
(2)中心都市:ダマスクス
(3)9cB.C.半ば頃よりイスラエル王国を圧迫。
また、アッシリアの南下を防ぐ
(4)内陸貿易で活躍、
アラム語が商業語として
西アジアに普及
(5)アラム文字-東方の緒文字の源流となる
→インド、マレー、チベット、満州、モンゴルなど
{6}フェニキア人の支配
(1)フェニキア人-現在のレバノンの海岸部に
定着したカナーン人の
ギリシア語名。
◎12cB.C.以後、都市国家を形成。
 →シドン、ティルス、ビュブロス、ベリトスなど。
(2)地中海貿易の利益を独占。
→黒海、大西洋(イギリス)、紅海、
インド洋にも進出
(3)地中海各地に植民市を建設
カルタゴ(ティルスの植民市)など
(4)フェニキア文字-22字の表音文字
シナイ文字とともに
アルファベットの起源となる
11cB.C. 11cB.C.
10cB.C. {7}ヘブライ王国
(1)1020B.C.頃ヘブライ人がペリシテ人を制圧。(サウル王)
(2)第2代ダビデ王(位1000頃~960頃B.C.)
 (a)首都をイェルサレムに定める
(b)四隣を従えて国力増大。
(c)シオンの丘に居城と宮殿を築く
(3)第3代ソロモン王(位960頃~922頃B.C.)
◎黄金時代迎え、王室の奢侈が増大
→苦役、重税を強いられた住民の不満高まる
(4)ソロモン王の死後、国は南北に分裂
10cB.C.
{8}イスラエル王国(北)(922~722B.C.)
(1)商工業の発展見られるも、
宗教体制は崩壊。
(2)首都:サマリア
(3)アッシリアにより滅亡
→異民族が移住。残存イスラエル人と
混血しサマリア人を生じる。
{9}ユダ王国(南)(922~586B.C.)
(1)遊牧業中心。
(2)ヤーヴェ信仰が強化される。
(3)首都:イェルサレム
(4)新バビロニアに併合され、滅亡。
9cB.C. 9cB.C.
8cB.C. 8cB.C.
(アッシリア帝国)
西暦 シリア地方 フェニキア地方(現レバノン) パレスティナ地方 西暦
1.古代オリエント
[5]古代オリエントの統一
年代 イラン メソポタミア 小アジア シリア フェニキア
(レバノン)
パレスティナ エジプト 年代
3000B.C. 1.ノモス分立
2.メネス王による統一
3000B.C.
3.シュメール人の都市国家
2500B.C. 4.古王国 2500B.C.
2000B.C. 5.カナーン人の都市国家 2000B.C.
6.アッカド王国
7.第1中間期
1500B.C. 8.ウル第3王朝 9.中王国 1500B.C.
10.(古)バビロニア王国
11.ヒッタイト帝国 12.第2中間期
1200B.C. 1200B.C.
13.カッシート王国 14.ミタンニ王国 15.新王国
1000B.C. 16.海の民族 1000B.C.
17.アラム人 18.フェニキア人
700B.C. 19.フリギア王国 20.ヘブライ王国 21.末期王朝 700B.C.
21.イスラエル王国 22.ユダ王国
{1}アッシリア帝国
(1)語族:セム語族
(2)北メソポタミアに起こり、25~20cB.C.頃には
ティグリス川上流域にアッシュール市を
中心とする小王国を建設。
(3)15cB.C.頃、ミタンニ王国に服属、朝貢。
→1270B.C.頃、ミタンニ王国を滅ぼす。
(4)1232B.C.頃、カッシート王国を滅ぼす
(5)12cB.C.頃より周辺域の征服を開始
→全軍装備の鉄製武器と戦車による
(6)ティグラト・ピルセル3世(位744~727B.C.)
→パレスティナ、シリア、バビロニアへ進出
(7)サルゴン2世(位721~705B.C.)
→イスラエル王国を征服
(8)セナケリブ王-バビロン市を破壊。
(9)エサルハッドン(セナケリブの子)-エジプトを制圧。
→小アジアとパレスティナの一部を除いた
初の全オリエント統一を達成(671B.C.)
→首都をアッシュールからニネベに移す。
{1}(アッシリア帝国)
(10)アッシュルバニパル王(位669~626B.C.)
→アッシリア最後の強大な王。
ニネベに世界最古の代図書館を建設(粘土板蔵書)
(11)政体
(a)中央集権的な専制国家。
(b)征服地を州に分け、総督を派遣、
(c)商業活動、軍の機動力を重視、首都から
各地に向けて公道を整備、
(12)支配政策
重税と圧政により、
服属民族を苦しめる。
強制移住なども行う。
(13)滅亡
(a)エジプトが反旗を翻し独立。
更に北方民族の侵入を受ける。
(b)メディア、カルディア連合軍の侵攻を受ける。
→ニネベ陥落し、アッシリア帝国滅亡(612B.C.)
{2}リディア王国(7c~546B.C.)
(1)語族:印欧語族
(2)首都:サルデス
(3)世界最古の鋳造貨幣を製作
{1}(アッシリア帝国)
600B.C. {3}メディア王国(8c~550B.C.)
(1)メディア人-印欧語族
→イラン高原西北部に居住
(2)首都:エクバタナ
(3)キャクサレス王が新バビロニアと
結んでアッシリアを滅ぼす
(4)4王国中最大の領土。
{4}新バビロニア王国(カルディア王国)(625~538B.C)
(1)語族:セム語族
→先住アラム人とアムル人の混血。
(2)支配者-アラム人カルド族
→カルディアのの名の由来
(3)首都:バビロン
→メソポタミアの大部分を支配し、
4王国中最強の国力。
(4)ナボポラッサル王
→メディア王キャクサレスと
ともにアッシリアを滅ぼす
{4}(新バビロニア王国)
(5)ネブカドネザル2世(位605~562B.C.)
→カルディアの黄金時代。
 (a)カルケミシュの戦い(605B.C.)
→北進するエジプト軍を撃破、
シリア、パレスティナの利権を獲得。
(b)シリア、パレスティナの諸小王国に厳しい制裁措置
バビロン補囚(586B.C.)
→ユダ王国滅亡時、主だったユダヤ人をバビロンへ強制移住
(6)壮大な建造物
→マルドゥク神殿、バベルの聖塔、空中庭園
{5}エジプト王国(第26王朝)
(1)サイス侯プサメティク1世が
アッシリア勢を駆逐。
→サイス朝をひらく
(2)首都:サイス
(3)第2代ネコ2世
→カルケミシュにて
新バビロニアに敗北。
(4)親ギリシア的政策。
600B.C.
500B.C. {6}アケメネス朝ペルシア(550~330B.C.)
(1)ペルシア人-印欧語族。イラン高原西南部に定住。その中のバサルカダイ部族の王アケメネスが王国を建設(7cB.C.はじめ)
(2)キュロス2世(位559~530B.C.)-大帝国の基礎を築く
(a)メディア王国を滅ぼし(550B.C.)、その支配から独立
(b)リディア王国を滅ぼし(546B.C.)、小アジア西岸まで支配下に置く
(c)イラン高原制圧、パルティア、バクトリア遠征成功。
(d)新バビロニアを征服(539B.C.)、補囚されていたヘブライ人を解放。故郷への帰還と神殿の再建を許す(このころよりユダヤ人(ユダ州の民)と呼ばれるようになる)
(3)カンビセス2世(位530~522B.C.)-エジプトを征服
ほぼ全オリエントを統一(525B.C.)
(4)ダレイオス1世(大王)(位522~486B.C.)-第3代皇帝
(a)各地の反乱を鎮圧。
(b)西インドに遠征。また、ボスホラス海峡を渡ってトラキアへも遠征。インダス川流域~エジプト、トラキアの一部にまで及ぶ大帝国を建設。
 (c)首都:ペルセポリス(形式上)とスサ(政治、経済の中心)
(d)統治体制:属州制(サトラップ制)-全領土をほぼ民族構成により約20の州(サトラピー)に分割、各州に長官(サトラップ)を派遣
長官は王が任命し、徴税、治安維持に当たらせる。更に文官、武官を配置して権力分散をはかる。
(e)各州に長官とは別に巡察使(王の目、王の耳)を派遣。
(f)交通網の整備-公道(王の道)を作り、早飛脚、駅伝制を実施。経済、軍事、治安維持に寄与。
(g)経済振興活動に積極的-金銀貨の鋳造、その統一を行い、税制を確立。フェニキア人の海上貿易を保護
(h)ギリシア遠征は失敗。
(5)ペルシアの統治体制-宗教、伝統などは各民族の風習を尊重して自治を認め、穏和な政治を行う。
(6)クセルクセス1世(位486~465B.C.)-ギリシア遠征に敗北。
(7)滅亡-アレクサンドロス大王の遠征の際、ダレイオス3世が敗北し滅亡。
500B.C.
年代 イラン メソポタミア 小アジア シリア フェニキア
(レバノン)
パレスティナ エジプト
1.古代オリエント
[6]古代オリエント文化
{1}エジプト
(1)伝統尊重、平和的、来世に対しての観念が発達
(a)宗教-太陽神ラーを中心とする多神教
→新王国時代、テーベの守護神アモンがラーと合体し、アモン・ラー信仰広がる
→アメンホテップ4世、アモン・ラー信仰をやめ、唯一神アトンの信仰を強制。
(b)霊魂不滅の信仰
→ミイラを作り、死者の書(死者の生前の善行や呪文を記し、副葬したもの
死後の世界を司るオシリスの審判の際添えるものとした)を残す。
(2)文字(エジプト文字)
(a)象形文字(絵文字)が発達
◎書体
神聖文字(ヒエログリフ)-神殿、墓などに刻まれる
神官文字(ヒエラティック)-神聖文字を簡略化、神官階級が利用
民衆文字(デモティック)-最も簡略化したもの
(b)ロゼッタストーン-ナポレオンのエジプト遠征の際発見
シャンポリオンが神聖文字の解読に成功。
(c)パピルス-文字の記録に使用
(3)その他の文化
◎洪水予報、治水、灌漑、建築技術から、天文学、測地術、太陽暦が発達
→ナイルの洪水がほぼ365日ごとに繰り返される(30×12ヶ月+5祝日)
→7月半ば(洪水期)、シリウス星が暁天に(エジプトの元旦)。シリウス星の
1回帰年が365日と1/4にあたり、ここから新暦を作った(2770B.C.頃)。
※名称は太陽暦だが、基準はシリウス星。後ローマでユリウス暦として採用。{2}メソポタミア
(1)宗教-多神教。現世的傾向。
(2)文字-楔形文字(シュメール人が原始的な絵文字より発達させる)
→葦の茎や金属で粘土板などに刻む。
ヒッタイト、ミタンニ、アッシリア、シリアなどへ継承。
(3)その他の文化
(a)60進法-天文上の円周分割より創始。角度、時間、度量衡の基準となる。
(b)太陰暦-バビロニアで太陰太陽暦に進化
(c)7日1週の法、占星術、天文学、数学、農学が発達。
(d)ギルガメシュ伝説-メソポタミアの叙事詩の主人公。

{3}ペルシア
(1)宗教-ゾロアスター教
→7c~6cB.C.頃、ゾロアスター(ツゥラトゥストラ)がペルシアの古代宗教を改革
(a)善悪二元論-善神アフラ・マスダ(光明神)と
悪神アーリマン(暗黒神)
◎2神が闘争し300年おきにその優越が交替するとしている。
→9000年目、あるいは12000年目の決定的闘いの結果、善神が勝利(最後の審判)
→ユダヤ教、キリスト教に影響を与える。
(b)火を清浄なものとする(拝火教ともいう)
(c)唐代の中国に伝播
(2)文字-ペルシア文字(楔形文字を表音化)
(a)ペルセポリス碑文グローテフェント(独)が研究、解読の端緒。
(b)ベヒスタン碑文ローリンソン(英)が解読
(3)公用語-アラム語

{4}ユダヤ教の成立
(1)背景-民族的な受難。
(a)出エジプト-モーゼの十戒がユダヤの律法となる
→唯一神ヤーヴェ(エホバ)の信仰
(b)バビロン補囚(586B.C.)-国家滅亡
(c)後のペルシア人の解放により、信仰の正しさを確信。
→帰国後、イェルサレムにヤーヴェ神殿を再建、教団の成立。
(2)教義
(a)祭儀とモーゼの律法の遵守
(b)思想
選民思想-ヘブライ人のみが救われる
メシア思想-救世主の出現で、最後の審判の後にヘブライ人に栄光
(3)パリサイ人(立法主義者)の出現-モーゼの律法、その他の
戒律を説き、かつ厳格に実践。
→後代、信仰が形式化し、イエスの改革につながる
(4)聖典
旧約聖書-ヘブライ人の伝承、神への賛歌、預言者の言葉などをまとめる。
最古のものは850B.C.頃成立。今日の形のものは2cB.C.頃まとまった

2.ギリシア世界
[1]地中海世界の風土と民族
{1}自然環境と生業
(1)地中海性気候(夏:高温乾燥、冬:温暖湿潤。年間降水量は少なめ)
(2)ギリシア、イタリア-石灰岩質で痩せる。大河、大平野もなく、穀物の生産性低い。
(3)基本的生業-オリーブ、ブドウなどの果樹栽培と羊の牧畜
(4)地中海の役割-西洋古代(ギリシア、ローマ)の文化的まとまりを形成させる
(a)海岸沿いの都市を結ぶ交通路
(b)穀物、オリーブ油などの各地の特産品取引
(c)文化の相互伝播に貢献{2}民族
◎ヨーロッパ側:印欧語族(ギリシア人、ローマ人)

{3}特色
(1)大河などの治水の必要なし
(2)地中海交易により個人の自立助長
都市国家などによる自由な市民文化の開花
※オリエント世界では大河流域の灌漑農業という生業の性格上、
強大な王権が発生したがそれとは対照的になっている。

2.ギリシア世界
[2]エーゲ文明
エーゲ文明
→20c~12cB.C.頃、オリエントの影響を受けてエーゲ海を中心に栄えた青銅器文明。
※エーゲ海-「多島海」の意。山がちで平野少なく、オリーブ、ブドウを主に栽培

{1}クレタ文明 {2}ミケーネ文明
(1)全盛期 2000頃~1400B.C.頃 1600頃~1400B.C.頃
(2)民族 クレタ人?(詳細不明)
→地中海・オリエント人種の混血?
アカイア人
→ギリシア人の一派。
(3)中心地 ◎クレタ島のクノッソス、ファイストス ◎ギリシア本土のミケーネ、
ティリンス、
、オルコメノス、
ピュロスなど
(4)政治 (a)都市国家を
クノッソス王が統一(1800B.C.頃)
→祭祀王の性格。
(b)クレタ王国の成立、東地中海の
海上交易を掌握
◎統一はなく、各都市国家が対立。
→萌芽的な官僚機構を整え、
民衆から貢納を徴収
(5)遺跡 クノッソス宮殿 ◎ミケーネの城壁、獅子門
(6)文化 (a)切石建築の宮殿、フレスコの壁画
(b)陶器-幾何学模様、動植物の絵
(c)写実的、流動的な海洋文明
(a)戦士、狩りなどの壁画
写実性後退、尚武的
(b)巨石を積み上げた城塞、円頂墓
黄金の仮面、金杯、銀杯など
(7)文字 ◎クレタ文字(エジプトに由来)
線文字A(未解読)
線文字B(ギリシア語の起源)
ヴェントリス(英)により解読
(8)発掘 エヴァンズがクノッソス宮殿発掘 シュリーマンがトロヤを発掘後、
ミケーネ、ティリンスを発掘
(9)滅亡 アカイア人により滅亡 ドーリア人の南下に
より滅ぼされる(12cB.C.)

{3}トロヤ文明(2500~1250B.C.頃)
(1)ダーダネルス海峡の小アジア側に位置。
(2)シュリーマンにより、9層の遺跡を発掘。
第6層がミケーネ文明圏に属すものと推定
(3)アカイア人により滅亡(トロヤ戦争)

2.ギリシア世界
[3]ポリスの成立
{1}ギリシア人の南下
(1)ギリシア人-印欧語族
(2)ギリシア人の第1次南下(20cB.C.頃)
アカイア人(クレタ文明を破壊しつつ、ミケーネ文明圏を形成)
(3)ギリシア人の第2次南下(12cB.C.頃)
ドーリア人(ミケーネ文明を破壊、鉄器を使用)
(4)定着後の分化
(a)イオニア人-半島南部、小アジア
(b)アイオリス人-半島北部、小アジア
(c)ドーリア人-半島南部、クレタ、小アジア
(5)暗黒時代(12cB.C.~8cB.C.頃)
(a)ミケーネ文明を無視、経済的、文化的に停滞期を迎える
(b)最初は王政で長老会が王を補佐、重要案件については民会で決定
(c)土地(クレーロス)をくじで分配
→クレーロスは「くじ」の意で、後私有地を意味するようになった
(d)鉄器の使用による生産力の増大
(e)王に対する貢納の消滅
(6)大土地所有者(貴族)の出現
→他の者より多くの土地、家畜、奴隷を有する
(7)シノイキスモス(集住)
→軍事、経済の全住民の移住進む(村落的分散と初期王政の消滅)
(8)ポリス(都市国家)の成立が進行。{2}ポリスの構造と市民の意識
(1)特質
(a)自由な市民よりなる独立した都市国家群。1000以上のポリスが存在し、
互いに対立抗争。
(b)貴族階級が政治を独占
(c)成員(市民)-クレーロスを私的に私有。経済的に自立。個人は自主独立の
人格を持つ。公共生活に官吏、兵士、裁判官として献身的に参加
(d)領域-極めて狭く、例外的に大きいアテネ、スパルタでも日本の県程度の大きさ
(2)構造
(a)中心市(貴族、商工業者、富裕な農民が居住)
アクロポリス(城山)-軍事上の拠点となる城。神殿を持つ
アゴラ(公共広場)-交易、集会、裁判、社交の場
(b)村落(一般の農民)
→田園地帯広がり、オリーブ、ブドウなどを栽培

{3}同胞意識
(1)ヘレネス-ギリシア人の自称。英雄ヘレンの子孫と考える。
(2)ヘラス-彼らの国土の呼び名。
(3)バルバロイ-異民族の蔑称。「聞きづらい言葉をしゃべる者」の意。
(4)共通の言語、宗教、神話を持つ
(a)オリンピア競技-主神ゼウスの祭礼。4年に1回祭典と競技を挙行。
祭典中は自動的に停戦。
(b)デルフィの神託-アポロン神の神託。全ギリシア人に権威。
(c)隣保同盟-神殿と祭礼の管理を共同で行うポリス間同盟。

2.ギリシア世界
[4]ポリスの発展
{1}アテネとスパルタ

(1)アテネ (2)スパルタ
(a)成立 ◎8cB.C.半ば ◎8cB.C.半ば
(b)種族 イオニア人 ドーリア人
(c)ポリス形成 アッティカ型(集住型)
→征服民と服属民が融合
ラコニア型(征服型)
→征服民が先住民を支配
(d)政治 ◎貴族政→民主政 ◎王政(実質は民主政)
◎後、リュクルゴス制へ移行
→市民優位のための
軍国的、鎖国的制度
(e)社会構成 ◎市民(貴族・平民、15万)
◎メトイコイ(在外留人、3万)
◎奴隷(10万)
スパルティアタイ(完全市民、0.5万)
→征服民、すべてを支配
ペリオイコイ(周辺民、2万)
へロット(国有奴隷、約5万)
(f)軍事方針 海軍中心 陸軍中心
(g)外交 貿易を振興 鎖国政策
(h)経済 ◎商工業中心 ◎農業中心
(i)文化 ◎学問、文芸ともに開花 ◎発達せず

{2}その他のポリス
◎ポリスの中には、権力の弱い王を戴く者もあった(貴族の第1人者的存在)
→7cB.C.頃から貴族政に移行(重装騎兵として国防を担い、政権を独占)

{3}植民活動の活発化(8cB.C.~6cB.C.)
(1)背景
(a)人口増加による土地不足
(b)商業上の目的
(c)政治的対立(貴族間の党争の敗者が移住)
(2)植民市-地中海、黒海各地沿岸各地に建設。母市からは政治的に独立。
→ギリシア文化の拡大と交易活動を促進
(3)代表的な植民市
(a)ビザンティオン(現イスタンブール)
(b)マッシリア(現マルセイユ)
(c)ネアポリス(現ナポリ)
(d)シラクサ(シチリア島東岸)
(e)タラス(タレントゥム)(南伊)

(4)経済活動の発展(遠隔地貿易の発達)
(a)貨幣経済の発達-リディア王国より流入(7cB.C.)
(b)商工業の発達-武具の量産化、価格低下実現。

{4}平民の台頭
(1)経済力を付けた富裕な平民が出現、価格の下がった武具を装備
→当時、武装の費用は自己負担
(2)平民の富裕層が重装歩兵として長槍の密集部隊を編成
→戦術の変化を促し、国防の主体となる。
(3)貴族政への不満、平民と貴族の対立
→平民の軍事的、政治的役割の増大-参政権を要求

2.ギリシア世界
[5]アテネの民主政
アテナイ人の国制(アリストテレス著)
→19c末、エジプトで発見。アテネ政体の変遷を知る上で重要な資料{1}王政から貴族政へ
(1)当初の身分制
(a)貴族-大土地所有者。武装権を独占。農民と工人を支配
(b)農民、工人-平民として貴族の支配を受ける
(2)政治形態
(a)アルコン(執政官)
→任期1年。9人で構成し行政、司法、軍事、祭祀等の各分野で全権を掌握
(b)アレオパゴス会議
→アルコンの前歴者で組織。国法の監視、重罪裁判、役人監督に当たる。
(3)貴族政への不満
(a)平民の両極化-参政権要求の拡大
◎富裕化した農民が重装歩兵化
◎安価な輸入穀物の流入-没落農民の増加
(b)貴族による裁判の不正(貴族による勝手な慣習法などがまかり通る)

{2}ドラコンの法(621B.C.)
(1)執政官ドラコンにより、従来の慣習法が成文化。
→私的な復讐を規制、公権による秩序の維持が目標。法の曖昧さを排除
(2)厳しい法律(たいていの罪に死刑を適用(「血を以てかかれた」))。
(3)平民の権利保障が目的だが、貴族政治そのものは変わらず、
経済状態も改善されなかったため、貴族と平民の対立は続いた。

{3}ソロンの改革(594B.C.)
(1)ソロン-貴族と平民の調停者として選ばれ、改革を担当。中産階級の賢人。
(2)改革の内容
(a)借金の帳消(重荷おろし)による債務奴隷の解放
(b)身体を抵当とする借財を廃し、自由民の奴隷化を防止。
(c)財産政治(金権政治:timocracy)
◎旧来の貴族政治を廃止し、財産の多少に応じ、全市民を4階級に区分
財産の多い者ほど政治参加の機会が増加
◎階級:500石級、騎士級、農民級、労働者級
(d)その他新法を制定、アテネの国法となる
(3)結果
(a)富裕層-借金を帳消しにされ恨む
(b)農民層-土地再配分の期待を裏切られる
→両者とも改革に不満。貧富間、党派間の争いが激化

{4}ペイシストラトスの僭主政治(561~521B.C.)
(1)ペイシストラトスが親衛隊を率いてアクロポリスを占領。
→貴族を追放してその財産を市民に分配、支持を得る。
(2)僭主-政治権力を非合法的に奪った独裁的支配者。英語の’tyrant'(暴君)の語源
(3)ペイシストラトス自身の政治は評価高い。
(a)土地の再分配-中小農民の保護育成
(b)商工業の奨励、振興
(c)アテネ市街の整備、美化
(d)美術、文学活動が活発化
(e)海軍力の充実
(4)ペイシストラトスの死後、その息子ヒッピアスの暴政に遭う。
→ヒッピアスが国外追放され、僭主政治倒れる

{5}クレイステネスの改革:民主政治の確立(508B.C.)
(1)僭主政、貴族政の再現を防止、民主政の基礎確立
(2)氏族ごとに分かれ、貴族の勢力基盤となっていた4部族制を解体。
(a)170の区(デモス)を基礎にしてそれらを30にまとめ(このひとつひとつを
トリッテュスという)、この30のトリッテュスを市部、海岸、内地の何れかに
所属させ、10×3の形に組織した。そして市部、海岸、内地から1つずつ
トリッテュスを選んで1部族とし(トリュテュスの組み合わせは抽選。
各トリッテュスは距離的に分離した)、10の部族を作った(10部族制)。
→氏族的な集団の形成を徹底的に排除し、貴族政の再来を防ごうとした。
(b)「何々家の何某」「何某の子、誰」という呼び方をやめて、
「何デモスの何某」と所属区名をつけて呼ぶようにさせた。
→家柄による貴賎の差を隠し、血縁的な貴族地盤を崩すことを意図した。
(c)ソロンの改革以降、4部族制を基礎として構成した400人会を解体し、
10部族から50人ずつ出席させて500人会を構成。
(3)陶片追放(オストラシズム)の制を採用。
→僭主の出現を防止するための市民による投票。
※オストラコン(陶片)を投票用紙として用い、
一定以上の得票のあった人物をアテネより10年間追放した。

2.ギリシア世界
[6]ペルシア戦争
{1}ペルシア戦争とその背景
(1)ペルシアの小アジア侵攻-リディア滅亡(6cB.C.後半)
→小アジアのイオニア植民市を支配
(2)ペルシアのフェニキア人貿易の保護-ギリシア系イオニア諸市の不満募る
(3)ミレトス(イオニア植民市の中心的ポリス)の僭主アリスタゴラスの反乱、
→ペルシアの支援で支配者となるも、失策の咎おそれる。
(a)ミレトスを中心としたイオニア植民市の反乱へ発展
(b)反乱軍、ペルシアの小アジア拠点サルデスを陥落させるが、反撃により壊滅。
→ミレトス陥落し、反乱失敗に終わる。
(c)この反乱の際、ギリシア本土が反乱軍を援助、ペルシアの反感を買う。{2}ペルシアの第1回ギリシア遠征(492B.C.)
(1)ペルシア皇帝ダレイオス1世が遠征軍を送る
(2)ペルシア海軍、アトス岬で難破し大損害を被る。
(3)ペルシア陸軍、トラキア鎮定に成功するが損害激しく撤退。最終的に失敗に終わる

{3}ペルシアの第2回ギリシア遠征(490B.C.)
(1)ダレイオス1世、再度遠征軍を送る(軍船600隻、兵力2万)。僭主ヒッピアスも同行。
(2)ペルシア海軍、エーゲ海のキクラデス諸島沿いに進軍。
→エウボイア島のエレトリアを占領、ギリシア本土マラトン平野に上陸。
(3)マラトンの戦い
→アテネのミルティアデス率いるアテネの重装歩兵部隊がペルシア騎兵軍を破る。
ペルシア軍、海路アテネに向かうも攻撃できず退く。
※伝令フィディピデスがマラトンでのアテネ勝利を伝える(マラソンの起源)
※この頃アテネのラウレオン銀山に新鉱脈発見、アテネの政治家テミストクレス
軍船を増強しアテネをギリシア第一の海軍国とする。

{4}ペルシアの第3回ギリシア遠征(480~479B.C.)
(1)ペルシア皇帝クセルクセス1世、ギリシアに親征、アトス岬に運河を建造、
大軍で遠征開始
→陸軍30万、軍船1000隻位と見られる。ヘロドトスの伝えるところでは総兵力264万名。
(2)ギリシア側、「ギリシア連合会議」を開催(481B.C.)
→アテネ、スパルタなど約30ポリスが集まる。
(3)テルモピレーの戦い(480B.C.)
→スパルタ王レオニダス率いるギリシア軍(スパルタ兵中心)が
隘路にてペルシア軍の阻止図るも、全員玉砕。
(4)サラミスの海戦(480B.C.)
→アテネのテミストクレス率いるギリシア艦隊(アテネ海軍中心、漕ぎ手は無産市民)が、
約2倍のペルシア艦隊を撃破。クセルクセスは帰国し、
マルドニオス将軍率いる約6万のペルシア陸軍が孤立。
(5)プラタイアの戦い(479B.C.)
→アテネ、スパルタ連合軍が勝利。
※この後もギリシアとペルシアの交戦続き、カリアスの和約(449B.C.)で最終的に講和。
※功労者テミストクレスは、その後陶片追放されてペルシアに逃れた(471B.C.)。

{5}意義
(1)東方の専制政治とその体制下で動員された軍隊に対する
ギリシア市民の自由の勝利。

(2)以後、ギリシアに自由な文化が発展
(3)アテネの覇権が確立。

{6}デロス同盟の結成(478B.C.)
(1)ペルシアの復讐に備える軍事同盟。デロス島が本部(どこの国にも属さず中立)
(2)アテネを盟主としてエーゲ海周辺の数百のポリスが加盟。
(3)同盟会議では1国1票だったが、実質的にはアテネの独断的支配
(4)加盟ポリスは艦船または資金供出の義務を有する(デロス金庫に保管)
→アテネが資金を流用してアテネ海軍の強化、アクロポリスの美化に充当。
後に金庫をアテネに移管(454B.C.)。
(5)スパルタは不参加(ペロポンネソス同盟盟主)
(6)アテネ帝国の成立
→ペロポンネソス半島のものを除く多くのポリスがアテネの帝国主義的政策に服した。

2.ギリシア世界
[7]アテネ民主政の完成
ペリクレス時代(443~429B.C.):アテネ民主政の完成期
(1)ペリクレス-461B.C.よりアテネ政界の指導者となる。443B.C.以降、
政敵も現れず、安定期に入る。富裕な名門の出身。
→アテネの全盛期(黄金時代)-ペルシア(カリアスの和約)、スパルタとの
講和成り、ギリシア政局安定化。
(2)無産市民の政治的発言力増大
◎ペルシア戦争で軍船の漕ぎ手として活躍。
→ペリクレスが大衆を制御して民主政治を指導。将軍職に就いて実権を握る。
表面的には民主政だが、事実上はペリクレスが第1人者として執政。
(3)政治内容
(a)民会
→立法、行政等の最高機関。年40日の開催。法案の承認、重要官職の選挙行う。
◎構成員
18歳以上の自由民男子全員(直接民主制)
婦人、奴隷、在留外人には参政権なし
◎定足数-6000人程度と推測される。日常業務は評議会(500人)が行う。
(b)民衆裁判所-市民からくじ引きで陪審員を選び、投票で判決を下す。
(c)公職(アルコンなどすべての職)は抽選制。ただし将軍職を除く。
→アルコンに変わって将軍職が政治的影響力を持つ(軍指揮権、
評議会出席権、民会召集権を持つ)
(d)役職を市民に平等に解放、役人、陪審員、民会出席者に日当を支給。
2.ギリシア世界
[8]ポリス社会の変質と没落
{1}ペロポンネソス戦争(431~404B.C.)
(1)背景
(a)強引なアテネの支配に対するデロス同盟諸市の不満が爆発。
(b)スパルタ側諸市のアテネ強大化に対する不安。
(c)民主政アテネvs寡頭政スパルタの政治的イデオロギーの対立
(2)直接的原因-アテネとコリントの争いにスパルタが介入。
(3)戦況
(a)初期-アテネはペリクレスの指導の下にアテネ籠城策を取る。
スパルタ王アルキダモスはアッティカへ侵攻。
(b)籠城中のアテネで疫病(おそらくペスト)が流行、
全人口の1/3を失い、ペリクレスも病死。
→以後、アテネの衆愚政治化進む(能力無く、無定見な
煽動政治家(デマゴーグ)による政治)民主政治が腐敗。
(4)結果
→ニキアスの和約(421B.C.)をはさみ、ペルシアの援助を受けたスパルタが
アイゴスポタミの海戦でアテネ海軍を完全に破り勝利、スパルタに覇権が移る。{2}スパルタのギリシア支配
(1)財力、人工不足により、指導力は弱体。
(2)他のポリスに寡頭政を強制、強圧的な統治。

{3}コリント戦争(395~387B.C.)
(1)スパルタがペルシアから離反したのに対して、ペルシアがアテネの援助を開始。
→アテネ復興し、テーバイ、コリントなどと結び、スパルタと敵対。交戦状態に入る。
(2)アンタルキダスの和約(大王の和約)(386B.C.)
(a)アテネの強大化をおそれたスパルタがペルシアと再び結ぶ。
→小アジアのイオニア諸市をペルシアに割譲、更に
各ポリスの自治独立(ポリス間同盟の解体)要求を呑む
(b)スパルタの優位再び確保される。

{4}レウクトラの戦いテーバイの台頭
(1)テーバイ(アテネから北西50kmほどにあったポリス)の将軍エパミノンダス
スパルタ陸軍を破り(371B.C.)、一時的にギリシアを支配。
(2)テーバイはペルシアに接近し、アテネを圧迫。
(3)ギリシア諸市はテーバイに敵対。
(4)エパミノンダスの死(362B.C.)により、テーバイの覇権衰退に向かう。
→以後、ギリシアポリス間の分立、抗争に突入。

{5}ポリス社会の変質
(1)ペルシアの干渉-ポリス間の慢性的抗争を助長。
→農地の荒廃著しい。
(2)貨幣経済の発達、奴隷制の普及-貧富の差が拡大、中小農民が没落
(3)ポリス内部の政争による亡命者の続出。
(4)個人中心の思想広まる
→ポリス社会の崩壊(市民意識の低下、傭兵制への移行、衆愚政治化)
ポリス社会の原則(市民自らポリスを守る、市民団の社会的、経済的平等)が崩壊。

2.ギリシア世界
[9]マケドニアの台頭
{1}マケドニア王国
(1)ギリシア北方の専制君主国(バルバロイの国だが、実際はギリシア人の一派)
(2)農耕牧畜を主として村落生活(ポリスは形成せず)
(3)忠誠心の高い中小農民を基盤とする王政で、それを貴族が補佐{2}フィリッポス2世の治世(位359~336B.C.)
(1)軍制改革-テーバイの斜線陣の応用(テーバイでの人質経験あり)
(2)ギリシア文明を吸収し四囲に勢力を拡大
※ギリシアの対マケドニア政策について

◎反マケドニア派(デモステネス中心) ◎親マケドニア派(イソクラテス中心)
○ポリス主義を貫き、
マケドニアの驚異を排除。
→デモステネスはマケドニアによる
統一後も抵抗し、最終的に自殺。
○アテネの政治に落胆、ギリシアの
統一とペルシア遠征を主張
→フィリッポス2世を指導者とする

{3}マケドニアによるギリシア世界の統一
(1)カイロネイアの戦い(ケーロネアの戦い)(338B.C.)
(a)マケドニアがアテネの同盟市ビザンティオンを攻撃したことにより開戦
(b)マケドニアがデモステネス率いるアテネ・テーバイ連合軍を撃破
(2)ヘラス同盟の結成(337B.C.)
◎フィリッポス2世を盟主とする。各ポリスの自治と自由を保証。
マケドニアによるギリシア世界の統一
※この後、フィリッポス2世がペルシア遠征を企図するも、暗殺され頓挫。

2.ギリシア世界
[10]ギリシア文化
{1}特質
(1)人間性の尊重
(2)合理的、客観的精神の発達、真理の探究
(a)宗教:人間的な神々
(b)歴史:真実を伝え、市民の立場からの記述
(c)文学:神々と人間との交渉を描く
(d)美術:人間美の極致を表現
(e)哲学:自然科学、自然、人間の合理的探求、解釈から{2}宗教
(1)オリンポス12神
→オリンポス山に住む神々。ギリシア神話の中心。
ゼウスを中心とする12神。

{3}文学
(1)叙事詩
(a)ホメロス-8cB.C.頃の盲目の詩人。小アジア出身
◎作品
○「イリアス
○「オデッセイア」-トロヤ戦争での英雄達の活躍と英雄オデッセウスの冒険
(b)ヘシオドス-700B.C.頃
◎作品
○「労働と日々」-労働の尊さをうたう
○「神統記」-神話の由来について
(2)叙情詩(植民活動などによる平民の台頭とともに発展)
(a)サッフォー(612B.C.頃~?)-レスボス島出身の女流詩人。
(b)アナクレオン-機知に富み、酒の歌多い
(c)ピンダロス-競技勝利歌など
(3)悲劇-ディオニソス神の祭礼より発生。後にポリスの行事となる
◎3大悲劇詩人
(a)アイスキュロス(525~456B.C.)-「アガメムノン」など
(b)ソフォクレス(496~406B.C.)-「オイディプス王」など。悲劇の形式を完成
(c)エウリピデス(485頃~406B.C.)-「メディア」「アンドロマク」など
(4)喜劇
アリストファネス(450頃~385頃B.C.)
→戦争を風刺、批判し平和を強調。
作品に「女の平和」(ペロポンネソス戦争中の反戦劇)「女の議会」など。

{4}歴史
(1)ヘロドトス(485頃~425頃B.C.)-「歴史の父」
(a)物語的な歴史記述(相手方の受け答えをそのまま記述する形式)
(b)ペルシア戦争史を記述(著書:「歴史」)。
(2)トゥキディデス(460頃~400頃B.C.)
(a)→広く史料を集め、科学的に歴史を記述(情報の信用性を確認する)
(b)ペロポンネソス戦争史を記述(著書:「歴史」)。
(3)クセノフォン(430頃~345頃B.C.)
→「アナバシス」(ギリシア人傭兵のペルシア従軍記)を著す
(4)ヘカタイオス(550?~475?B.C.)
→「地中海周遊記」を著し、ヘロドトスの先駆をなす

{5}哲学
(1)イオニア自然哲学-自然の本質や現象などを思弁的に研究、理解する試み
(a)ターレス(624?~546?B.C.)
→万物の根元は水であるとする。日食の予言なども試み、自然哲学の祖とされる。
(b)ヘラクレイトス(500B.C.頃)
→万物は火を根元とし、常に流転するとする。
(c)ピュタゴラス(582?~497?B.C.)
→哲学的には万物の根元として「数」を提唱。科学的にはエジプトの
実用数学を理論数学に発展させ、ピュタゴラスの定理などを発見
(d)デモクリトス(460?~370?B.C.)
→万物の根元は等質不変の原子(アトム)であるとする原子論を確立。
後にエピクロスによって広められる
(e)アナクサゴラス(500?~428?B.C.)
→万物の根元をスペルマタ(種子)とする。ペリクレスの友人としてアテネに滞在。
後に「陽は燃える石」説いてペリクレスに追放される。
(f)アナクシマンドロス(611~547B.C.)
→ターレスの弟子。万物の根元を無定限なもの(トアペイロン)と考える
(g)ヒポクラテス(460B.C.~375B.C.)
→それまでの魔法や迷信に反対して臨床の観察と経験を
重んじる科学的医学をうち立てる。「医学の父」。
(2)ソフィスト-弁論術と修辞学の職業教師。
プロタゴラス(481?~411B.C.)
→ソフィストの代表。相対主義に立脚(「人間は万物の尺度なり」)
後、ソフィストの中にその弁論を悪用する者が出たため、この言葉は
「詭弁家」を意味するようになった
(3)3大哲学者
(a)ソクラテス(469頃~399B.C.)
◎「汝自身を知れ」を根本信条とし、己の無知を自覚するとともに、問答によって
相手にもそれを気づかせ、人間の本質をよく「知る」ことが幸福への道と説く。
反感を持つ者の讒言で死刑を宣告される。著書はなくその言動は
弟子達の書により知られる。
(b)プラトン(427~347B.C.)
◎当初政治家を目指したがソクラテスの処刑で失望、アカデメイア学園
創始して生涯を真理の探究と弟子の教育に捧げる。
◎「国家」(哲人政治の理想)、「ソクラテスの弁明」(ソクラテスの言動)を著す。
(c)アリストテレス(384~322B.C.)
◎真の実在を個物に内在するとし、これを「イデア界」にあるとした
プラトン説から脱却。諸学の体系化を試み、後世諸学発達の基礎を作る。
◎皇子期のアレクサンドロスを一時教育。
◎アテネにてリュケイオン学園を創始。

{6}美術
◎写実的で均整と調和のとれた美術が発達
(1)彫刻
(a)プラクシテレス
→彫刻家。「プラクシテレスのS形」と呼ばれる流麗な人体表現。
(b)ミュロン
→激しい肉体運動の表現などを得意とした彫刻家。「円盤を投げる人」など。
(2)建築
(a)建築様式
ドーリア式(初期、荘重。パルテノン神殿など)
イオニア式(中期、渦巻き装飾が特徴的)
コリント式(後期、装飾細かく、華麗)
※エンタシス方式-柱上部を細く設計。法隆寺の回廊柱の設計に影響。
(b)フィディアス
→ギリシア最高の彫刻家。パルテノン神殿の建築監督。
他に「アテナ女神像」(現存せず)など。

3.ヘレニズム世界
[1]アレクサンドロスの大遠征
{1}アレクサンドロス3世(大王)の即位(336B.C.)
(1)アレクサンドロス3世-マケドニア王フィリッポス2世の子。アリストテレスに学ぶ。
(2)父王暗殺の後、弱冠20歳で即位。各地の反乱を鎮圧し、ヘラス同盟を掌握。{2}東方遠征(334~324B.C.)
(1)マケドニア陸軍を中心に、ギリシア連合軍を加えた総勢35,000名で
ダーダネルス海峡を渡り、小アジアへ侵攻。
→グラニコス湖畔の戦い(334B.C.)でペルシア軍を撃破。
(2)イッソスの戦い(333B.C.)
→シリアの入り口付近にてペルシア王ダレイオス3世の軍を破る。
(3)フェニキア諸市を平定、財源と交通の要衝を確保。
(4)更にエジプトに侵入、ペルシアの支配から解放
→ファラオの称号を受け、「神の子」として宣言される。
(5)アルベラの戦い(ガウガメラの戦い)(331B.C.)-ペルシア軍に完勝。
→バビロン、スサ、ペルセポリスを占領。(アケメネス朝ペルシア滅亡(330B.C.))
※ダレイオス3世はアルベラの敗北後、バクトリアに逃れたが、
その地の長官に殺された。
(6)軍を再編成後、更に東へ向かう。
→パルティア、中央アジア(バクトリア、ソグディアナ地方)を併合。
次にインド西北部に進軍、インダス川を下る。(ここで土着民の反抗に遭い、
兵士もこれ以上の進軍を拒否したため帰還)
(7)バビロンに凱旋直後、急死(323B.C.)
→急死するまでに一大帝国を建設、東西の諸民族を融合。

{3}東西文化の融合政策
(1)オリエントの専制政治を取り入れ、専制君主として支配
(2)被征服地の宗教、風俗、伝統を尊重
(3)ペルシアの宮廷儀礼を取り入れる(跪拝礼など)
(4)マケドニア兵とペルシア婦人との集団結婚。自らもペルシア皇女と結婚
(5)アッティカ貨幣単位による幣制の統一
(6)征服各地にギリシア風の都市アレクサンドリアを建設。ギリシア人を移民させる。

ヘレニズムとは
(1)ドイツ人歴史家ドロイゼンの造語で「ギリシア風」の意。アレクサンドロスの
東方遠征の結果、ギリシア文化がオリエント文化と融合したものを指す
(2)ヘレニズム時代-アレクサンドロスの東方遠征から
プトレマイオス朝エジプトの滅亡(30B.C.)までの約300年間。
(3)ヘレニズム世界-ギリシア、マケドニア、オリエントを併せた世界
→アレクサンドロスの征服地
3.ヘレニズム世界
[2]ヘレニズム諸国の興亡
年代 バクトリア イラン
メソポタミア
地中海東岸 小アジア マケドニア ギリシア エジプト 年代
{1}アレクサンドロス大王死後の混乱
(1)各地で内紛発生、皇族が次々と暗殺され、マケドニア王家が断絶。
(2)ディアドコイ(後継者)の争いに発展
→アレクサンドロス麾下の将軍(ペルディッカス、アンティパトロス、プトレマイオス、アンティゴノス、リュシマコス、エウメネス)が互いに分立し抗争を開始。
(3)イプソスの戦い(301B.C.)
→後継最有力のアンティゴノスが戦死、帝国の分裂決定的となる。領土の大部分は3王国に帰属。{2}ヘレニズム諸国家の興亡とその特徴
◎支配者層-ギリシア人、マケドニア人
◎専制君主制
◎貿易を主とした経済活動の振興
◎政治、文化ともギリシア的要素強く、土着民の反発を招く(次第にマケドニア人を圧迫)
(1)セレウコス朝シリア(312~64B.C.)
(a)セレウコス1世により起こる。
(b)首都:アンティオキアセレウキア
(c)当初は西アジアの大半を領有。
(d)ギリシア、マケドニア人の都市を各地に建設。
300B.C. (2)カッサンドロス朝マケドニア

  (301~297B.C.)
(3)ポリスの分立
(a)各ポリスは一応独立
→マケドニアの影響力強い
(b)3cB.C.頃ポリス間同盟結成
◎アカイア同盟
→ペロポンネソス半島部
◎アイトリア同盟
→ギリシア中部
(c)アカイア同盟がローマに敗れ
属州となる(146B.C.)
(4)プトレマイオス朝エジプト

(305~30B.C.)

(a)ギリシア人系の国家。
(b)首都:アレクサンドリア
(c)ギリシア人が軍、政府、
経済の中枢を独占、
強力な専制体制を敷く
(d)経済、文化とも著しく発展
(e)30B.C.、ローマにより滅亡。

300B.C.
 (e)東西交易で繁栄
(f)3cB.C.にパルティア、バクトリアが相次いで独立
→領土縮小し国力衰退
(g)プトレマイオス朝、ローマとの抗争の末、
ローマのポンペイウスにより滅亡。
(5)アンティゴノス朝マケドニア

(276~148B.C.)

(a)アンティゴノス・ゴタナスに
より建国。
(b)首都:ペラ
(c)ローマにより滅亡、
属州となる(148B.C.)

250B.C. (6)バクトリア(255~139B.C.)
(a)セレウコス朝より独立した
ギリシア形国家。
(b)首都:バクトラ
(c)第2代デメトリオス
→インダス流域へ遠征。
(d)交易活動が活発化
(7)アルサケス朝パルティア

(248B.C.~226A.D.)

(a)イラン系遊牧民族の長の
アルサケスがセレウコス朝
から独立して建国。
(b)2cB.C.以降強大化。
→メソポタミアにて
ローマと抗争。
(c)シルクロードの経由地
として繁栄。

(8)アッタロス朝ペルガモン

(241~133B.C.)

(a)小アジア西岸の肥沃な
平野部に建国。
(b)首都:ペルガマ
→ヘレニズム文化の
中心都市の一つ。
(c)壮麗な宮殿や大図書館。
(d)ローマに自ら編入。

250B.C.
150B.C. (ローマ共和国) 150B.C.
100B.C. (大月氏) 100B.C.
50B.C. 50B.C.
(ローマ帝国)
年代 バクトリア イラン
メソポタミア
地中海東岸 小アジア マケドニア ギリシア エジプト 年代

 

3.ヘレニズム世界
[3]ヘレニズム文化
{1}特色
(1)世界市民主義(コスモポリタニズム)
→ポリス社会の崩壊による市民意識の希薄化による個人の重視、
ポリスの枠を越えた「全世界の人々」の意識の発生。
(2)東西文化の融合
(3)中心地:エジプトのアレクサンドリア、ペルガマなど{2}自然科学:めざましく発達、後のイスラム文明に継承。
(1)ムセイオン-アレクサンドリアの王立研究所。中心機関として学者を輩出。
(2)エウクレイデス(300B.C.頃)
→アレクサンドリアで活躍したギリシア人。「幾何学原本」を著し、平面幾何学を大成。
(3)アリスタルコス(310?~230?B.C.)
→サモス島の天文学者。地球、月、太陽の大きさや距離の比などを算定。
(4)アルキメデス(287?~212B.C.)
→シチリア島シラクサの人。アレクサンドリアで学び、浮体の原理、てこの原理、
円周率の計算など数々の功績を残す。後ローマ兵に殺される。
(5)エラトステネス(275?~194B.C.)
→ムセイオンの館長を務め、子午線の長さから地球円周距離を初めて測定。

{3}哲学:政治からの逃避や個人の幸福を追求する傾向強まる
(1)ストア派
→開祖ゼノン。アテネのストアにて講義。心の平静が幸福をもたらすとし、
理性による感情、欲望の抑制を強調(禁欲主義)
(2)エピクロス派
→開祖エピクロス。快楽が最高の幸福で、死後の世界を恐れず、
永続的快楽を得て心の平静さを保つことを理想とする。
※ゼノンはキプロス島、エピクロスはサモス島の出身でいずれもアテネで活躍。

{4}哲学:美麗。細かな技巧を重視する傾向。
(1)建築-誇大な建築物多い(ペルガマの祭壇など)
(2)彫刻-調和均整の美が崩れ、劇的、激情的、官能的な主題が好まれる
ミロのビーナス(ミロ島)、ラオコーン(ロードス島)
瀕死のガリア人(ペルガマ)、サモトラケのニケ(サモトラケ島)など
(3)ギリシア美術の影響
→インド(ガンダーラ美術)→中国(雲崗、竜門)→日本(飛鳥、天平文化)

◎古代インドと宗教の発展
[1]インダス文明
{1}先史時代のインド
◎プレ・ハラッパなどの村落文化{2}インダス文明
(1)インダス川流域に栄えた青銅器を持つ都市文明
(2)民族:不明(ドラヴィダ人?)
(3)代表的遺跡
(a)下流域:シンド地方モヘンジョ・ダロ
(b)上流域:パンジャーブ地方ハラッパ
(4)特色
(a)整然とした都市計画(焼き煉瓦の住宅、街路、作業場、倉庫、浴場、排水溝)
(b)印章(牛の図柄)、象形文字(インダス文字(未解読))、彩色土器文化を持つ
(c)農耕、牧畜を営み、菩提樹や牛を神聖視する風習が発生
→後のインド文化の重要な要素となる。
(d)滅亡:不明(アーリア人の侵入、あるいは洪水?)

{3}アーリア人の侵入
(1)アーリア人:印欧語族
→イラン・インドに入った者がアーリア(高貴)と自称。中央アジアよりカイバル峠を越え、
インドのパンジャーブ地方に侵入(1500B.C.)
(2)初期のアーリア人社会
(a)ラージャ(部族長)の統率する部族社会(血縁共同体)を形成
(b)農耕・牧畜による生活-を神聖視
(c)ヴェーダの成立(1200B.C.頃~)
→インド最古の聖典の総称。自然崇拝の讃歌や儀式の内容を綴る。

(3)アーリア人のガンジス川流域への進出(1000B.C.頃)
(a)鉄器の使用-農具、武器の進歩
(b)社会、文化的に発展。次第に小王国を形成(マガダ国、コーサラ国など)
(c)ヴァルナ(種姓)制度の成立
→移動、社会発展の間に形成された階級制度。皮膚の色が身分を示した。
後にジャーティ(特定の職業、出身地、言語などによる分別)制度と一体化して
カースト制度を成立させる
バラモン(最上位、僧侶)
クシャトリヤ(武士、貴族)
ヴァイシャ(農民、牧民、商人)
シュードラ(奴隷(先住民が中心))
→身分は世襲化され、異なった身分間の通婚も禁止
(d)バラモン教の成立
→ヴェーダの宗教的儀式(贄を捧げて神を祀る)を基礎とし、
バラモンが中心となって発達させる。

{4}新宗教の成立
(1)背景
(a)バラモン教が祭式万能主義的で次第に形骸化。
(b)クシャトリヤ、ヴァイシャ階級の勢力が伸張
(2)ウパニシャッド哲学
(a)ウパニシャッド
→ヴェーダの「奥義書」のことで「近くに座す」の意。世界最古の思弁哲学
(b)概要
梵我一如
→宇宙の根本原理(ブラフマン)と個人の生命(アートマン)は同一。
輪廻の苦悩からの解脱
(3)仏教
(a)釈迦族の王子ガウタマ・シッダルタが創始(5cB.C.)。
→35歳にて解脱し、仏陀となる
(b)徹底した無常観と八正道の実践による四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)からの解脱
(c)精神的修行の重視と人間の平等を説く
(d)クシャトリヤ階級が支持
(4)ジャイナ教
(a)ウァルダマーナ(尊称:マハーヴィーラ)により創始。
→出家し苦行の末、大悟を得る(6c~5cB.C.)。ジャイナとは「勝者」の意。
(b)人生を苦と考え、禁欲、苦行による救済を説く。極端な不殺生主義
(c)厳しい戒律を持ち、カーストを否定。
(d)ヴァイシャ階級が支持。

◎古代インドと宗教の発展
[2]古代インド王朝
{1}古典16王朝時代
(1)マガダ国(ガンジス川下流域)、コーサラ国(ガンジス川中流域)が有力。
(2)マガダ国がコーサラ国を破り併合(5cB.C.)
→ガンジス川流域を支配、仏教、ジャイナ教を保護。
(3)アレクサンドロス大王の侵入(326B.C.)
→撤退後の混乱がインドの政治的統一のきっかけとなる{2}マウルヤ朝(317頃~180B.C.頃)
(1)建国者:チャンドラグプタ(位317頃~293頃B.C.)
(a)マガダ国のナンダ朝を倒して新王朝をたてる。更に西北インドを平定
(b)首都:パータリプトラ
(c)侵入したセレウコス朝シリアのギリシア人を撃退、逆にアフガニスタンを奪う。
(2)第3代アショーカ王(阿育王)(位269~232頃B.C.)
(a)カリンガ地方(現ベンガル地方)を征服、ほぼインド全土を統一し、最盛期を迎える
(b)仏教を保護:万人の守るべき理法としてのダルマ(法)に基づく政治
◎領内各地に磨崖碑、石柱碑を設置、ダルマや仏教による施政方針を刻む
◎サーンチー(インド中部)に仏塔(ストゥーパ)を建立。
◎(第3回)仏典結集-釈迦の教説を編纂。
◎王子マヒンダをセイロン島に派遣、仏教の海外布教に成功
(3)アショーカ王の死後、急速に衰退。
(4)バクトリアのギリシア人の西北インド侵入により国内分裂し滅亡

{3}外部異民族の侵入
(1)バクトリアのギリシア人(2cB.C.)
(2)遊牧イラン人のサカ族、パルティアなど(1cB.C.)
(3)イラン系クシャーナ族(1cA.D.)

{4}クシャーナ朝(1cA.D.~3cA.D.)
(1)大月氏より独立したイラン系国家。北インドに進出。
(2)カシニカ王(位130?~155?)
→中央アジアからガンジス川中流域に進出。全盛期を迎える。
(a)首都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャワール)に定める
(b)中国~インド~イランの貿易路の要衝を押さえて繁栄
(c)(第4回)仏典結集を行い、仏教を保護。寺院、仏塔を数多く建立
(3)カシニカ王の死後衰退に向かい、最終的にササン朝ペルシアに屈服
(4)ガンダーラ美術-ガンダーラ地方に興ったギリシア風仏教美術
→仏教では当初偶像を作る習慣はなかったが、バクトリアからのギリシア神像の
影響で仏像を作るようになった。技術的にはクシャーナ朝時代に発達し、
中央アジア、中国、朝鮮、日本へと伝播した。

{5}アーンドラ朝(サータヴァーハナ朝)(1cB.C.~3cA.D.)
(1)ドラヴィダ系民族がデカン高原からインド南西部を領土として建国。
(2)首都:アマラヴァティ
(3)ローマと季節風貿易を行い、ローマ貨幣が流入。都市が発達。
(4)仏教を保護(ナーガルジュナ(竜樹)が現れる)
(5)この頃より仏教に分化の傾向見られる
(a)大乗仏教(新仏教)
◎「大きな乗り物」の意。在家の生活を認め、慈悲実践を強調。万人の救済が目的
菩薩信仰
→全ての人を救済しようとする事で自らも救済されようとする行者(菩薩)を信仰
◎理論的体系-ナーガルジュナ(竜樹)が確立
◎西インドで流行、世界性を持ち北伝仏教として中国、朝鮮、日本に伝播
(b)小乗仏教(従来の仏教)
◎大乗仏教からの蔑称で自らは上座部仏教と呼ぶ。
◎戒律を守り、個人の修行を重視。セイロン島を中心に発展
南伝仏教として東南アジアに伝播

{6}グプタ朝(320頃~550頃)
(1)建国者:チャンドラグプタ1世(位320頃~335頃)
→マガダ国の故地で勢力をつけ、マウルヤ朝の復興を企図。
首都をパータリプトラに定める
(2)第3代チャンドラグプタ2世(超日王)(位385頃~413)
→インド北部を統一。領土最大となり、最盛期。封建的支配体制を確立。
(3)5c半ば頃から王統の後継争いが激化。
(4)6c半ば、エフタルの侵入を受けて滅亡
(5)この頃、ヒンドゥー教が成立。
→仏教、ジャイナ教、ウパニシャッド哲学の影響を受けて
バラモン教とアーリア以前の民間信仰が融合し成立
(a)ヒンドゥー3大神:シヴァ・ビシュヌ・ブラフマー
(b)一般民衆宗教の典型-特定の開祖、教義は無く、インド人の
生活習慣、社会習慣そのものが宗教化。
(c)マヌ法典-宗教的義務、日常生活の規範を定めた書
→カースト制とバラモンの優位を強調。
(6)仏教
→ヒンドゥー教の隆盛で不振。教学(学問として仏教を学ぶ)中心となる
(a)ナーランダ僧院の建立
→5c~12cにかけて、仏教教学の中心となる
(b)グプタ様式-ガンダーラから脱却した純インド的仏教美術
アジャンタ、エローラの石窟寺院の壁画が代表的
(c)東晉の僧法顕が来朝
(7)文化
(a)2大叙事詩
マハーバーラタ-ヒンドゥー教の聖典とされている古代インドの戦争叙事詩。
ラーマーヤナ-コーサラ国の王子ラーマの冒険武勇談。
(b)サンスクリット文字
→古代インドで用いられた文章語。印欧語系に属し、その最も古い形を残す。
カーリダーサ-サンスクリット文学の大成者。
→彼の作品「シャクンタラー」はインドで最も人気のある古典劇。
(c)10進法、ゼロの概念の確立。

{7}ヴァルダナ朝(6cB.C.~8cB.C.)
(1)ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)(位606~647)
→北インドを統一。古代インド・アーリア人最後の統一王朝となる。
(2)首都:カナウジ(曲女城)
(3)仏教を保護し、唐と友好
→唐僧玄奘がナーランダ僧院へ留学。
(4)ヒンドゥー教文化を保護
(5)ヴァルダナ王死後、王朝衰退。インド北部は分裂
→諸王国の分立、抗争の時代に突入(8cB.C.~)

1.ローマの盛衰
[1]ローマの成立と初期政体
国内情勢 国際情勢・その他
{1}都市国家ローマの成立
(1)紀元前2000年紀にイタリア半島へ印欧語系語族が南下。
(a)第1次:ウンブリア系
(b)第2次:ラテン系
→中部イタリアに定住(ウンブリ人、サムニウム人、
ラテン人。総称してイタリア人)
(2)その他のイタリア定住民族
(a)エトルリア人
→北部イタリアに定住。民族系統不明(小アジアより渡来?)。
7c~6c頃に隆盛。12の都市国家が分立。
その文化はローマ人に伝えられる。
(b)ギリシア人
→半島南部、シチリア東部に移住。
植民市群を建設(タレントゥム、シラクサなど)
(c)フェニキア人
→シチリア西部、コルシカ、サルディニアなどに植民市を建設
(3)都市国家ローマの成立
◎ラテン人の一派がティベル川へ移住、ローマ建設(600B.C.頃)
※伝説ではトロヤの英雄アエネアスの子孫で双子の
ロムルスとレムスが建国したとされる
→エトルリア人の王の支配を受ける
{2}共和政の成立(509B.C.)
(1)エトルリア人の王を追放して共和政を樹立。
貴族的共和政-貴族が政治の実権を握る。身分も閉鎖的。
(2)政治機構
(a)コンスル(執政官、統領)
→任期1年の最高政務官。貴族から2名を選出。
(b)ディクタトル(独裁官)
→非常時の臨時職。元老院がコンスルの1名を任命。
任期6ヶ月まで。重任不可。
(c)セナトゥス(元老院)
→300人の貴族より成る最高の立法・諮問機関。
任期は終身。後に増員される。
ローマの社会構成
(1)貴族(パトリキ):自由民
→完全市民権持つ。平民と婚姻不可
(2)プレブス(平民):自由民
→重装歩兵の供給源。参政権はなし
(3)隷属民(クリエンテス):不自由民
→貴族の保護下に入った外来者など。
人格的自由は所有
(4)奴隷:不自由民
→人格的自由なし
1.ローマの盛衰
[2]半島統一と共和政の変化
国内情勢 国際情勢・その他
{1}身分闘争:平民の参政権要求
◎軍事力の主体が貴族中心の騎兵から平民中心の
重装歩兵へ移り、平民の影響力が高まる。
{2}平民参政権の拡大
(1)聖山事件(494B.C.)
→参政権を求めて平民がローマ郊外の聖山に籠城。
護民官と平民会を設置するきっかけとなる。
(a)護民官-平民保護のための官職で、元老院やコンスルの
決定に拒否権を持つ。最初2名で、後に増員。
身体の不可侵を規定。
(b)平民会-立法に参与し、護民官を選出する機関。
(2)12表法の制定(450B.C.)
→貴族の法独占に対し慣習法を成文化することで対抗。
ローマ最古の成文法で、土地の抵当化の防止なども図る。
(3)リキニウス・セクスティウス法の制定(367B.C.)
→護民官リキニウスとセクスティウスによる。
(a)コンスルの1名を平民より選出。
(b)土地所有を1名につき500ユゲラ(125ha)に制限。
(c)平民の借金利息を事実上帳消しに。
→貧富の差の拡大を防止、農民を保護(=重装歩兵を維持)
(4)ポエテリウス法(326B.C.)-市民の債務奴隷化を防止。
(5)ウァレリウス法(300B.C.)-ローマ市民の被裁判権を保証。
→この頃より貴族の有力者と平民の上層部が結びついて
「ノビレス」(新貴族)を形成し、政局をリードするようになる。
(6)ホルテンシウス法の制定(287B.C.)
◎平民の反乱をきっかけに、独裁官ホルテンシウスが制定。
平民会の議決を元老院の承認の必要なく国法とする。
平民の法的平等が達成され、民主的共和政へ移行。
実質的には新貴族層に有利な体制ができあがる。
※ローマ民主政とギリシア民主政の相違点
◎民会の評決方法-1名1票は変わらないが、出席しなければ
行使できず、ローマの場合上層者に
有利。地方の下層農民は出席できず。
◎ローマでは非常時にディクタトルが全権を掌握。
◎ローマでは元老院が常に国政を指揮
{1}ローマによるイタリア半島征服
(1)ラテン都市同盟との戦い(5cB.C.~)
(a)ラテン都市同盟
→ローマ王政廃止期にラティウム地方の
ラテン都市が結成。ローマと敵対。
(b)最終的にはローマがラテン
都市同盟の盟主に。
(2)ウェイイ(ベイイ)戦争(396B.C.)
◎エトルリア人の都市ウェイイを滅ぼす
→ローマの対外発展の第一歩となる。
(3)ガリア人(ケルト人)の侵入(387B.C.)
→ローマ一時占領され、廃墟と化す。
(4)サムニウム戦争(343~290B.C.)
◎中南部イタリア人の一派の
サムニウムがローマと戦う
(a)ローマが勝利し、中部イタリアを征服。
(b)戦時中に反逆したラテン都市同盟を
解体し、個別に条約を結ぶ(338B.C.)
(5)ピュロス戦争(282B.C.~272B.C.)
◎イタリア南部ギリシア人都市を撃破。
タレントゥムを占領(272B.C.)。
イタリア半島の統一を完成
{2}征服地の分割統治開始
(1)植民市
→市民は主にローマ出身の無産市民。
屯田兵制を敷き、市民は完全な
ローマ市民権を持つ。要地に配置。
(2)自治市
→市民は参政権を除く市民権を付与。
納税と兵役の義務あり。
(3)同盟市
→自治権はあるが、ローマ市民権は
付与されず。納税と兵役の義務を持つ。
1.ローマの盛衰
[3]ポエニ戦争
国内情勢 国際情勢・その他
{1}ポエニ戦争(264~146B.C.)
(1)3回にわたるローマとカルタゴの戦争。
→ポエニとはフェニキア人に対するローマ人の呼称。
(2)背景:カルタゴとローマの対立
(a)カルタゴ
◎フェニキア人都市ティルスの植民市
◎強力な海軍で西地中海の貿易・制海権を掌握。
◎商業貴族による寡頭政
(b)ローマ
◎半島統一後、西地中海への進出を企図
◎南イタリアのギリシア人植民市の商業利権を保護
→ギリシア商人はフェニキアの商敵。
{2}第1次ポエニ戦争(264~241B.C.)
→シチリアのメッシナ市(最大の穀物集積地)問題が遠因
(1)ローマ軍、シチリアの拠点を制圧、艦隊を急増。
(2)エガテスの海戦にてローマ海軍奇策で勝利(241B.C.)。
→ローマ最終的に勝利し、シチリアを獲得(初の属州)。
更に混乱に乗じてサルディニア、コルシカを属州化
(238~237B.C.)

{3}第2次ポエニ戦争(218~201B.C.)
(1)カルタゴの将軍ハミルカル・バルカスがイベリアを制圧。
→植民市(カルタゴ・ノヴァ)を建設。
(2)ハミルカルの長子ハンニバルによるイタリア遠征開始
→歩兵5万人、騎兵9千騎、象40頭。
(a)アルプスを越えて直接イタリアへ侵入(兵は半減)
(b)トラシメネス湖畔の戦いでローマ軍を大破(217B.C.)
(c)ローマの独裁官ファビウスは正面衝突を避ける戦術。
ハンニバルも防衛堅固なローマを攻撃せず転戦。
ローマ側同盟諸市の離反を誘うが失敗
(d)カンネーの戦い(216B.C.)
→攻勢に転じたローマ軍を包囲殲滅するが弟が戦死。
カルタゴからの援助も望めず、次第に守勢となる。
(e)ハンニバルは結局15年間イタリアで戦い続ける
(3)ローマ軍、シチリアを奪還し(この時アルキメデス死)、
更にイベリア半島(ヒスパニア)を属州化(206B.C.)。
(4)ローマの将軍スキピオがカルタゴを急襲。
→ハンニバル帰国。
(5)ザマの戦い(202B.C.)にてローマ軍勝利。
→カルタゴは海外領土を失い、地中海の制海権を喪失。

{4}第3次ポエニ戦争(149~146B.C.)
(1)ローマの政治家(大)カトーの主戦論が優勢に。
→カルタゴの復興とローマの東方政策硬化が影響。
(2)小スキピオがカルタゴを滅ぼす(4年籠城後17日炎上)
→属州アフリカが成立。東地中海への進出と相まって
地中海最大の強国となり、地中海は事実上ローマの
内海(「われらの海」)となる。

東地中海方面への勢力拡大
(1)第1次マケドニア戦争(215~205B.C.)
→カルタゴと結んだマケドニアの王
フィリッポス5世と戦争状態。講和成る。
(ギリシアがマケドニアの勢力下に入る)
(2)第2次マケドニア戦争(200~197B.C.)
→マケドニアの干渉を嫌うギリシアがローマに
支援を要請。ローマは軍を派遣し、
ギリシアをマケドニアから解放、
自治権を与える。
(3)テルモピレーの戦い(191B.C.)
→トラキアへ進出したセレウコス朝シリアを
ローマが撃破。敗走するシリアを追って
ローマ軍が初めてアジアに入る
(4)マグネシアの戦い(190B.C.)
→小アジアのシリア軍をスキピオが撃破。
(5)第3次マケドニア戦争(171~168B.C.)
◎マケドニアがローマの属国ペルガモンを
圧迫。ローマはペルガモンに援軍を派遣。
ピドナの戦い(168B.C.)でローマが勝利。
マケドニアの王を廃し、自治を認める。
(6)マケドニアの属州化(148B.C.)
→マケドニアの反乱を鎮圧、自治権を奪う。
(7)ギリシアの離反(146B.C.)
◎自治を認めていたギリシアが反逆、反乱を
起こす。ローマはアカイア同盟軍を撃破、
コリントを破壊し全住民を奴隷として売却。
→以後、ローマの東方諸地域に対する
穏健政策は硬化し、対カルタゴ
政策にも飛び火。
(8)ペルガモン王国、ローマの属州に
組み込まれる(133B.C.)
1.ローマの盛衰
[4]崩れゆく共和政
国内情勢 国際情勢・その他
{1}共和政とその基盤の動揺
(1)背景
(a)有力者による土地の兼併が進む。
(b)奴隷制が最盛期を迎える(度重なる戦勝により大量に獲得)
→奴隷を大土地にて使役し農作物を生産(ラティフンディア)、
安価な穀物が属州から大量に流入
(c)中小農民の没落拍車(長年の従軍による疲弊と農地荒廃)
→市民皆兵制が揺らぎ始める
(2)結果
(a)中小農民の無産市民(プロレタリア)化が進む。
→都市に流入し(=遊民)「パンと見せ物」を要求。
見返りとして有力者に協力(没落しても市民権は持っている)。
(b)兵制の変化(市民皆兵制から傭兵制への移行)
(c)奴隷の反乱が散発的に発生
{2}グラックス兄弟の改革
(1)グラックス兄弟が相次いで護民官となり、自由農民の
没落防止と市民皆兵制の維持を図る。
(a)(兄)ティベリウス(位133~132B.C.)
→大土地所有制限(1人125haまで)、没収分は無産市民に分配
(b)(弟)ガイウス(位123~121B.C.)
→穀物法案(安価な穀物の配給)、市民権の拡大を提案
(2)諸改革は元老院の閥族派の反発を受ける。
→ティベリウスは暗殺、ガイウスは自殺。身体不可侵が破られ、
法の無力と実力主義の到来を体現、暴力行使の前例となる。
{1}ローマの属州支配
(1)各属州に総督と徴税請負人を設置
(a)総督
→属州統治の為の軍団を率いて
任地へ赴任。国庫から巨額の
支度金を支給、また任地では
属州民から搾取。中央政界
進出への足がかりとした。
(b)徴税請負人
→政府や総督と契約して徴税。
必要以上に税を徴収、余剰分を
私有。騎士階級へのステップ。
{2}新貴族の台頭
→従来の貴族と富裕化した平民が
融合し新階級を形成。
(1)新貴族(ノビレス)
→土地を兼併しラティフンディアを
経営。元老院の成員を独占。
(2)騎士(エクイテス)
→土地事業や徴税請負で財力蓄積

{3}ティベリウス・グラックスのことば
◎「イタリアを放浪している野獣でさえ、
それぞれの洞窟、塒を持っている。
しかるに、イタリアのために戦いかつ
死ぬ者は、まさに空気と光以外何も
享受できず、家も休息の場所もなく、
彼らは妻子を連れてさまよっている」

1.ローマの盛衰
[5]内乱の1世紀
国内情勢 国際情勢・その他
内乱の1世紀
→グラックス兄弟の改革失敗後の、平民派と閥族派の争いや
奴隷反乱などが相次いだ約1世紀間にわたる混乱時代。
{1}支配層の対立
(1)閥族派-保守的な元老院議員の集まり
(2)平民派-民会を基盤とした一派。

{2}マリウスの兵制改革(107B.C.)
(1)武装自弁と市民皆兵制を廃止。
(2)無産市民から募兵し、配属先の将軍が武具、給与を支給。
(3)退役後は従った将軍から農地の分与を受ける
→「ローマ軍兵士」よりは「将軍の兵」の意識が強まり、
兵士は「ローマ」よりも給与を支給する「将軍」に対して
忠誠を誓う。軍隊は将軍の私兵となり、
政争での権力基盤となる。

{3}同盟市戦争(ソキイ戦争)(91~88B.C.)
◎ローマ市民権を要求するイタリア半島の同盟諸市の反乱
イタリア半島諸市にローマ市民権を付与し(90B.C.)、
スラにより鎮圧される。
ローマは都市国家から領土国家となる。

{4}平民派マリウスと閥族派スラの争い(88~82B.C.)
◎それぞれ私兵を率いて争う。
→マリウスの病死後、スラが独裁官となり
恐怖反動の専制政治を行う(82~79B.C.)

{5}ポンペイウスの台頭
◎相次ぐ属州での反乱鎮圧に功績をあげる。

{6}スパルタクスの乱(剣奴の乱)(73~71B.C.)
→2年にわたりイタリア全土を震撼させた奴隷反乱。
(1)スパルタクス(トラキア出身の剣闘奴隷)の呼びかけで
一部剣奴が剣闘士養成所から脱走。
(2)反乱初期の緒戦に勝利、数万人規模の大奴隷反乱に拡大。
(3)故郷への帰還を目的としてイタリア南端から北上を開始、
行軍を阻むローマ軍を撃破し、アルプスを目前にする。
(4)反乱軍、ポー川手前にて謎の南進。シチリアを目指す。
(5)クラッスス指揮のローマ軍を撃破してシチリアを目前にするが
渡航に失敗、包囲される(この後スパルタクス戦死)
(6)ヒスパニアの反乱鎮圧から帰還したポンペイウス軍が
反乱鎮圧に参加、完全に鎮圧される。
→この後、クラッススとポンペイウス、相次いでコンスルとなる。

{7}第1回3頭政治(60~53B.C.)
(1)ポンペイウス、クラッスス、元老院の相互の対立強まる
→仲介する形で平民派政治家のカエサルが加わり、
3名による実力的支配を行う。
(2)3頭とその支配地域
(a)ポンペイウス-地中海世界を支配
(b)クラッスス-エジプトを除く北アフリカ地域を担当
(c)カエサル-未征服のガリア地域に遠征し征服。
(3)3頭政治の解消と残る2者の戦い
(a)クラッススがパルティア遠征にて戦死、3頭の1角崩れる
→カエサルとポンペイウスの対立強まる
(b)カエサルとポンペイウスの戦い
◎カエサルがルビコン川を渡りローマへ独断で進軍。
◎ファルサロスの戦い(48B.C.)にてカエサルが
ポンペイウスに勝利
→ポンペイウスはエジプトに逃れるが暗殺される
※カエサル、エジプトへ渡りクレオパトラと会見、小アジアの
反乱を鎮圧して後ローマへ帰還。

{8}カエサルの独裁(46~44B.C.)
(1)元老院よりインペラトルの称号を受ける
(2)貧民の救済と属州改革
(3)ユリウス暦を採用
(4)ブルートゥスらの共和派により暗殺される。

{9}第2回3頭政治(43~36B.C.)
(1)カエサルの子息、遺将たち3名による寡頭政治
(2)3頭とその支配地域
(a)オクタヴィアヌス-カエサルの養子。イタリア以西を担当。
(b)アントニウス-カエサルの遺将。ヘレニズム地域を担当。
(c)レピドゥス-カエサルの遺将。エジプトを除く北アフリカ担当
(3)3頭の動勢とその対立
(a)オクタヴィアヌスがブルートゥスら共和派を追撃。
→フィリッピの戦い(42B.C.)に勝利、カエサルの仇をとる。
(b)オクタヴィアヌスの姉とアントニウスの政略結婚成る
(c)アントニウス、パルティア遠征に失敗。
→この後訪れたエジプトでクレオパトラに魅了され
(後に結婚(37B.C.))、次第にローマを離反
(d)レピドゥス引退し(36B.C.)、残る2者の対立強まる

{10}内乱の1世紀の終焉
(1)アクティウムの海戦(31B.C.)
◎オクタヴィアヌス(将軍アグリッパ)のローマ海軍と
アントニウス、クレオパトラのエジプト海軍が激突。
→ローマ海軍の勝利。
(2)プトレマイオス朝エジプトの滅亡(30B.C.)
→クレオパトラが自殺。最後のヘレニズム国家が滅亡
ローマによる地中海世界の完全制覇。
内乱の1世紀は終わる。

{1}異民族、周辺国家との戦い(1)
(1)キンブリ・テウトニ戦争(113~101B.C.)
→ゲルマン民族のキンブリ族、
テウトニ族の侵入をマリウスが撃退。
(2)ユグルタ戦争(112~106B.C.)
→北アフリカのヌミディア王ユグルタの
反乱を鎮圧。マリウス、スラが活躍。
(3)ミトリダテス戦争(88~63B.C.)
◎小アジアのポントス地方の王
ミトリダテス6世の勢力が拡大し
ギリシアへ波及。3次にわたり
ローマと争う。
→ポンペイウスが平定。

(4)東地中海の海賊討伐(67B.C.)
→元老院がポンペイウスに命じる。

(5)ミトリダテス戦争に勝利
→同時にアルメニア、ポントス、シリアを
属州としユダヤ王国を属国化。

(6)カルラエの戦い(53B.C.)
→クラッスス率いるローマのパルティア
遠征軍が壊滅。クラッスス戦死。

{2}カエサルのことば
(1)「賽は投げられたり」
→元老院の許可無くルビコン川を
渡ってローマに帰り、ポンペイウスを
追うことについて
(2)「来たり、見たり、勝ちたり」
→ポンペイウス撃破後、小アジアから
送った勝利報告
(3)「ブルートゥス、おまえもか」
→暗殺者の中に親友がいるのを見て。
抵抗をあきらめる。

1.ローマの盛衰
[6]帝政ローマの出発
国内情勢 国際情勢・その他
{1}元首政の開始(27B.C.)
(1)オクタヴィアヌスが内戦中の諸大権を元老院に返却
→元老院よりアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ、
文武の要職を掌握(軍指揮権、護民官職権、コンスル命令権)
(2)自らはプリンケプス(第1の市民)と名のり、
元老院など、共和政の形式を残した事実上の独裁を開始。
→この政体をプリンキパートゥス(元首政)と呼び、
帝政の始まりとされる(前期帝政)。
{2}ローマの平和(パクス・ロマーナ)
◎アウグストゥスから五賢帝に至るローマ帝国の黄金時代。
広大な領域の政治、治安、経済、文化が安定。
(1)地中海世界、アラビア、中国、インドとの貿易活動
(2)都市を各地に建設
ウィンドボナ(ウィーン)、ロンディニウム(ロンドン)、ルテティア(パリ)

{3}ユリウス=クラウディウス朝の元首たち
(1)アウグストゥス帝(位27B.C.~14A.D.)
(a)属州統治を元首管轄域と元老院管轄域に分割。
(b)公共事業、特にローマ市の整備に尽力。
(c)ゲルマニア征討失敗後、旧来の膨張政策を戒め、守勢。
(2)ティベリウス帝(位14~37)
(a)ティベル川の改修工事。
(b)食糧事情を改善。
(c)緊縮財政
(3)カリギュラ帝(位37~41)
(a)処刑を多用し、恐れられる。(精神異常?)
(b)側近に暗殺される。
(4)クラウディウス帝(位41~54)
(a)ブリタニア、トラキアを征服、属州化。
(b)属州の一部で市民権を付与。
(5)ネロ帝(位54~68)
(a)哲人セネカなどの後見の下、当初は善政。
(b)暴政に転じて後、親族を相次いで殺害
(c)最初のキリスト教迫害
(d)ローマ大火(64)
(e)属州、元老院などの離反相次ぎ、最終的に自殺

{4}内乱の時代(68~69)
◎ネロ帝死後の帝位を巡る各地の有力者による争い

{5}フラヴィウス朝の成立
(1)ヴェスパシアヌス帝(位69~79)
(a)内乱を鎮定、元老院から元首としての権限を獲得。
(b)財政再建と有能な人材の登用に尽力。
(2)ティトゥス帝(位79~81)
(a)ユダヤ人の反乱を鎮圧しイェルサレムを破壊
(b)ヴェスヴィオ火山の大噴火でポンペイ市が消滅
(3)ドミティアヌス帝(位81~96)
(a)キリスト教徒を迫害
(b)ライン川、ドナウ川の上流域に長城を建設

{6}五賢帝時代(96~180)
◎有能な人物が養子相続により帝位を継承。帝国の最盛期を現出
(1)ネルヴァ帝(位96~98)
(a)ドミティアヌス時代に冷却した元老院との関係を修繕して善政。
(b)後継にトラヤヌスを指名し養子相続の端緒をなす
(2)トラヤヌス帝(位98~117)
(a)アウグストゥス以来ほぼ守られた防衛主体を改め、攻勢に。
◎属州ダキアを獲得。
◎パルティア遠征でクテシフォン占領。
ローマ帝国の最大領土を現出
(b)慈善活動、公共事業に尽力。キリスト教迫害を緩和。
(c)圧倒的人気で「最善の元首」と評される。
(3)ハドリアヌス帝(位117~138)
(a)再び守勢、各地に長城を建設。メソポタミアの一部から撤退。
(b)ユダヤ人の最後の反乱を鎮圧
(c)属州各地を訪問。
(4)アントニヌス・ピウス帝(位138~161)
(a)ブリタニア北方にアントニヌス長城を建設
(b)統治中、目立った内憂外患はなく誠に平和な時代となる
(5)マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(位161~180)
(a)パルティアとの戦いに勝利
→帰還した兵士から疫病が伝染、帝国に打撃を与える。
(b)相次ぐゲルマン諸族の侵入を撃退
→陣中にて「自省録」を著す
(c)キリスト教徒を迫害。

 

異民族・周辺国家との戦い(2)
(1)属国ユダヤ王国を属州化。(6A.D.)
(2)トイトブルクの戦い(9A.D.)
→ローマ軍、ゲルマン人により壊滅。
ゲルマニア制圧の企図を放棄。

(3)ブリタニアを征服、属州化(43)
(4)ユダヤ人の反乱(44)
→ヤーヴェ神殿破壊され
以後再建されず
(5)トラキアを属州化(46)

(6)ユダヤ人の反乱(66~70)
→ティトゥス帝により
イェルサレム破壊され、
ユダヤ人の流浪化始まる

(7)ダキアを占領、属州化(101~106)
(8)パルティアへの大遠征
→アルメニア・メソポタミアを征服。
クテシフォン占領し、
ティグリス川を国境とする。
(9)ユダヤ人最後の反乱(132~135)
→ハドリアヌス帝が鎮圧、ユダヤ人を
各地のローマ領へ分散移住させる
(流亡の民の歴史始まる)

(10)パルティアとの戦い(161~165)
(11)マルコマンニ族など、
ゲルマン諸族の侵入
(166~172、177~180)

1.ローマの盛衰
[7]ローマ帝国の危機
国内情勢 国際情勢・その他
{1}5賢帝以後の混乱(第2内乱期)(180~197)
(1)コンモドゥス帝(位180~192)
(a)父アウレリウス帝より帝位を受け、養子皇帝の伝統終わる
(b)政治を臣下に任せ、自身は遊興にふける。
(c)親類の陰謀で暗殺。
(2)コンモドゥス帝死後の内乱
各地の総督や元老院議員などが帝位を称し、激しく争う。
{2}セヴェルス朝:帝位を巡る内訌
(1)セプティミウス・セヴェルス帝(位193~211)
(a)優秀なパンノニア軍団を率いてローマへ進軍し帝位につく。
→最初の軍人皇帝(各地の駐屯軍によって推戴された
軍司令官などを出自とする皇帝)となる
(b)各地の異民族撃退に親征し、軍人の待遇改善に尽力。
(2)カラカラ帝(位211~217)
(a)アントニヌス勅令(212)
→税収増を目的に、帝国内の全自由民にローマ市民権を付与
(b)実弟で共治となっていたゲタ帝を暗殺。
(3)カラカラ死後の乱脈
→皇帝の側近や外戚などが相次いで皇帝を擁立するが
凡庸または暗愚。帝位継承も乱れ暗殺や暴動などが激増。

{3}軍人皇帝時代(第1期)(235~268)
(1)軍人皇帝時代
→軍人皇帝の乱立期であると同時に、ローマ社会の変動期かつ
政治的混乱期でもある。この時代約50年の間に26人の皇帝が
出現(うち自然死は1名)。
(2)社会、経済の変化
(a)都市の衰退
→帝国政府の重い税金による
(b)土地制度の変化:コロナートゥス制
→膨張政策が終焉して久しく、奴隷の供給が止まったため、
ラティフンディアに変わって導入。大土地所有者が
コロヌス(土地付小作人)に耕作させ、一定量の収穫物を徴収。
(c)貨幣経済の崩壊
→度重なる悪鋳により貨幣はほとんど価値を失い、
現物経済への逆行も起こる。
(3)国威の衰退
(a)デキウス帝(位249~251)
◎キリスト教徒を帝国混乱の原因として大迫害
◎ゴート族と戦うも戦死
(b)ウァレリアヌス帝(位253~260)
→シャープール1世治下のササン朝ペルシアの捕虜となる。
(c)ガリア帝国の成立
→ガリア駐屯軍が司令官を皇帝に推戴し、ローマから離反。
(d)パルミラの繁栄
→シリア内陸の都市パルミラがローマを離れ独立。
ゼノビア女王の下強勢となる

 

{1}セプティミウス・セヴェルスの遺言
◎「兵士を富ませよ。兄弟力を
合わせよ。あとは気にかけるな」
→息子のカラカラとゲタに対して。
息子達は前者はよく守ったが、
後者は全く気にかけなかった。

{2}国際情勢の変化
(1)ササン朝ペルシアの成立(226)
→パルティアを倒して建国。
イラン人国家として国粋につとめる。

(2)エデッサの戦い(260)
→ローマ皇帝ウァレリアヌスが
ペルシア遠征にてペルシアの皇帝
シャープール1世の捕虜となる。

1.ローマの盛衰
[8]ローマ帝国の逆襲
{1}軍人皇帝時代(第2期)(268~284)
(1)平民階級出身の強力な軍人皇帝達が相次いで即位。
各地の反ローマ勢力の鎮定を開始。
(2)ローマ帝国の回復
(a)クラウディウス2世(位268~270)
→ドナウ川を越えて侵入したゴート族の大軍を大破。帝国再建の
第1歩となる。唯一の「殺されなかった軍人皇帝」。
(b)アウレリアヌス帝(位270~275)
◎ローマから離反していたガリア帝国とパルミラを撃破して再び
帝国の勢力下に置く。
◎属州ダキアを自主的に放棄し撤退。
◎ローマ市に大城壁を建設。
(c)プロブス帝(位276~282)
→内外の敵に連戦連勝。{2}元首政の「陰り」と専制君主政の「萌芽」
(1)アウレリアヌス帝死後の後継者選出
→元老院と軍隊との間で皇帝選出における譲り合いが起こる。
軍隊による一応の元老院を尊重する姿勢の現れだが、
この頃には選出の主導権はほとんど軍部に移行。
(2)プロブス帝死後の後継者選出
→カルス帝が即位するにあたり、元老院の承認が行われなくなる。
これ以後の皇帝の選出に当たって、元老院は無視されるようになる。
1.ローマの盛衰
[10]ローマ帝国の決定的分裂
{1}コンスタンティヌス大帝死後の混乱
(1)コンスタンティヌス大帝の子息3人による覇権争い
(a)コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンスの3兄弟が抗争。
(b)最終的にはコンスタンティウス2世が勝利し単独統治者となる。
→ユリアヌスを取り立てるが反逆され、敵対中に病死。
(2)ユリアヌス帝(背教者)(位361~363)
(a)キリスト教を嫌って異教の復興を企図するも失敗
(b)ペルシア遠征にて戦死。{2}ローマ帝国の完全分裂
(1)ヴァレンティニアヌス1世(位364~375)
(a)弟のヴァレンスを共治帝として東部の統治を任せ、
帝権を地理的にも東西に分割。
(b)アドリアノープルの戦い(378)
→フン族の圧迫を受けドナウ川を渡ったゴート族と戦うも敗れ、ヴァレンス帝が戦死。
(2)テオドシウス1世(大帝)(位379~395)
(a)西部に割拠していた僭帝を倒して最後の統一帝国の皇帝となる
(b)キリスト教を国教化し、異教を厳しく弾圧
(c)死に際して帝国を東西に分割し2人の息子に与える(395)
→ローマ帝国完全に分裂(滅亡)

{3}東西ローマ帝国のその後
(1)西ローマ帝国(395~476)
(a)初代皇帝:ホノリウス
(b)首都:ミラノ→ラヴェンナ
(c)滅亡:ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによる
(2)東ローマ帝国(395~1453)
(a)初代皇帝:アルカディウス
(b)首都:コンスタンティノープル
(c)滅亡:オスマン=トルコの皇帝メフメト2世による

 

1.ローマの盛衰
[11]ローマ文化
{1}ローマ文化の特徴
(1)ギリシア文化の模倣的特徴が強く、独創性に乏しい。
→「征服されたギリシア人は文化でローマを征服した」(ホラティウス){2}文学:アウグストゥスの時代にラテン文学の黄金期を迎える
(1)ヴェルギリウス(70~19B.C.)
→アウグストゥスに仕えた宮廷詩人。叙事詩「アエネイス」はラテン文学の最高峰。
他に「田園詩」、「農耕詩」など。
(2)ホラティウス(65~8B.C.)
→ヴェルギリウスと並び賞される詩人。ギリシア詩に傾倒し、その韻律に特色がある。
「叙情詩集」、「風刺詩」、「書簡集」などの作品あり。
(3)キケロ(106~43B.C.)
→共和政末期の政治家。散文家でもあり雄弁であった。「国家論」、「友情論」を著す。
自身は共和主義者で、後にカエサル派と対立して暗殺される。

{3}哲学:ストア派哲学が普及
(1)ストア派3賢人
(a)セネカ(4B.C.?~65A.D.)
→ネロの師を務める。ストア哲学にエピクロス主義を取り入れた処世哲学を説く。
「幸福論」を著す。後に反逆の疑いで自殺を強要される。
(b)エピクテトス(55A.D.?~135?)
→奴隷の出身だが、ネロにより解放される。「語録」を著す
(c)マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121~180)
→「自省録」を著した哲人皇帝。
(2)ルクレティウス(94?~55B.C.?)
→エピクロスの唯物的哲学の影響を受けた哲学詩人。「万物の本性について」を著す。

{4}歴史
(1)ポリビオス(200頃~120頃B.C.)
→軍人で、ローマ軍の人質となる。「ローマ史」を著し、ギリシア語で
ローマの世界統一について記す。
(2)カエサル(102?~44B.C.)
→「ガリア戦記」を著す(自身のガリア遠征記について。簡潔なラテン語の
名文で書かれ、古代ゲルマン研究における重要資料)
(3)タキトゥス(55?~117?)
→西ゲルマニアの見聞記「ゲルマニア」を著し、ゲルマン人の素朴強靱な
生活を伝え、ローマの堕落を批判
(4)プルタルコス(46?~120?)
→トラヤヌスの知遇を受けたギリシア人著述家。ギリシアとローマの英雄を
比較した「対比列伝」を著す。
(5)リヴィウス(59B.C.~17A.D.)
→アウグストゥス側近文人のひとり。35年をかけて建国からアウグストゥスまでを
記した「ローマ建国史」全142巻を完成させた(現存は35巻)。
(6)スエトニウス(69?~140?)
→カエサルからドミティアヌスまでの伝記「皇帝伝」を著す。

{5}諸学
(1)ストラボン(63B.C.?~21A.D.?)
→ギリシアの地理、歴史学者。エジプト・ローマなど各地を旅行しその
歴史と地理に関する書を著した。「地理誌」全17巻は貴重な資料。
(2)(大)プリニウス(23A.D.~79)
→主著「自然誌」全57巻は自然・社会・人文にわたる百科全書で
中世の手引き書となる。提督としてヴェスヴィオ火山の調査中に窒息死。
(3)プトレマイオス(1世紀前半)
→アレクサンドリアの天文・数学・地理学者。天体観測を行い月の運動の
不規則性を発見。「天動説」は16世紀まで天文学界を支配。また経度、
緯度入りの地図も作成。主著に「天文学大系」がある。

{6}ローマ法
◎12表法から万民法へと至るローマ法律の総称。ゲルマン法とともに
ヨーロッパ諸法の源流をなす
(1)市民法
→ローマ市民権所有者に適用される法律。従来慣習法だったものが
12表法以後に成文化される。
(2)万民法
→帝国全住民に適用される普遍的法律。ローマ領の拡大に伴って生じるように
なった異なる国家の市民(外人)や、属州民とローマ市民間の争訟などに対応。
ストア哲学の自然法思想が影響。
(3)ローマ法大全(534)
→東ローマ皇帝ユスティニアヌスが法学者トレボニアヌスらに編纂させる。
古代ローマ法を集大成。12世紀にイタリアで復古し近代諸国の法に影響。

{7}土木建築
(1)アッピア街道
→ローマ最古の板石舗装の軍用道路。全長540km、幅8m。
(2)ガール水道橋
(3)コロッセウム(円形闘技場)
(4)パンテオン(万神殿)
→アウグストゥスの部下アグリッパが建立したが焼失、ハドリアヌスにより再建。
(5)凱旋門
→戦勝を記念する門形の建造物。ティトゥス帝、コンスタンティヌス大帝のものが有名。
後のヨーロッパの各地に建造される。
(6)公共浴場

{8}宗教
(1)キリスト教以前の流れ
→ギリシアの多神教を国家が主宰して祭祀を行っていたが、後の専制君主政への
移行に伴って皇帝の神聖化が行われ、次第に宗教化。
(2)密儀宗教
→エジプト起源のイシス神崇拝、ペルシアから伝播したマニ教など

{9}その他
(1)太陽暦
→ユリウス暦として採用(後にグレゴリ暦へと発展)
(2)言語
→フェニキア文字~ギリシア文字~ローマ字~ラテン形言語

1.ローマの盛衰
[12]キリスト教の成立
{1}成立の背景
(1)ユダヤ教の変遷
(a)新バビロニアの滅亡に伴いアケメネス朝ペルシアの
皇帝キュロス2世がユダヤ人を解放(538B.C.)
(b)イェルサレムにヤーヴェ神殿を再建(515B.C.)
→儀式、祭祀を規定し、ユダヤ教団が成立。
(2)ユダヤ教の特色
(a)ヤーヴェの一神教
(b)選民思想(自民族のみが救われるという排他的思想)
(c)モーゼの十戒に基づいた厳格な律法主義(後に形骸化)
(d)メシア(救世主)待望の概念
(3)ユダヤ教の諸派
(a)サドカイ派-祭祀における上層階級が属する
(b)パリサイ派-排他的律法主義者
(c)熱心党-民族の独立を志向する一派{2}パレスティナの政治的変遷
(1)ヘレニズム時代-シリアとエジプトの係争地となる
→ギリシア至上主義に基づく神殿破壊などが行われる。
(2)マカベア戦争の後、一時的に独立(142~63B.C.)
(3)ローマの干渉
(a)ポンペイウスが進軍し、ローマの属国として編入(63B.C.)
(b)ローマの援助によりヘロデ王がユダヤ王国を建国
→王はギリシア文化に心酔して国民に重税を課し苦しめる。
(c)ヘロデ王の没年にイエスが誕生(4B.C.)
(d)属州ユダヤが成立しローマの直接的支配下に入る(6A.D.)
(e)ユダヤの反乱(44)
→イェルサレムとヤーヴェ神殿が破壊され以後再建されず。
(f)ユダヤの反乱(66~70)
→ティトゥス帝によりイェルサレムが破壊されユダヤ人の流浪化始まる
(g)ユダヤ人最後の大反乱(132~135)
→ハドリアヌス帝が鎮圧。ローマ領内各地にユダヤ人を分散させる(ディアスポラ)。
流亡の民としての歴史が始まる。

{3}イエス
(1)イエスの布教
→30歳の時、ヨハネより受洗し布教を始める
(a)人類は神の前に平等である
→神の絶対愛(アガペ)の存在。
(b)隣人愛の実践を説く。
(c)律法の形式化とユダヤの支配層を批判。
(d)メシアを自覚しキリストを名のる
→「キリスト」とはメシアのギリシア語訳で、「油注がれし者」の意。
(2)民衆への伝播とユダヤ教の反応と弾圧
(a)当初教えは貧民層に広がる。
→現実社会の変革を期待したが、イエスの教えが内面的(精神的な神の王国)
であったため失望感広がる
(b)ユダヤ教のユダヤ教のパリサイ派、律法学者の反イエス運動起こる。
(c)ローマによる弾圧
◎ローマに対する反逆者として訴えられる。
→ローマの総督ピラトゥスのもとに連行され、
十字架の刑によりゴルゴタの丘にて処刑(30A.D.頃)
(3)イエス死後の信仰
◎イエスの復活に対する信仰が生じる
→処刑後3日目の日曜日の朝早く、聖母マリアとマグダグのマリアなどにより
墓石が開いて遺体が消失しているのが発見される。それ以後、使徒や弟子の前に
出現するようになったと伝えられる。

{4}使徒の活動
(1)使徒-イエスが自分の教えの伝道のために最初に選んだ12人の弟子
→ペテロ、大ヤコブ、アンデレ、ヨハネ、ピリボ、バルトロマイ、マタイ、
トマス、小ヤコブ、タダイ、シモン、ユダ(ユダの裏切りの後にマッテヤ)
イェルサレムの教会を中心にして活躍。
(2)パウロの伝道
(a)当初イエス死後の迫害の急先鋒であったが、復活したイエスに出会い入信。
東方各地を伝道(アンティオキアの教会で活躍)
(b)ローマ市民権を持ち、帝国内の異邦人への布教につとめる(「異邦人の使徒」)
(c)イエスの死は人類のための贖罪であり、神を信じる者に民族の差別はないと説く。
→パウロ神学、キリスト教義の確立。
(3)ペテロの伝道
→12使徒の最高位に位置して教団を組織。
晩年ローマに出て布教につとめ、初代教皇とされる。

1.ローマの盛衰
[13]キリスト教の苦難と飛躍
{1}ローマ皇帝によるキリスト教迫害
◎迫害を受ける理由
○皇帝崇拝を拒否。
○神像を持たず、ローマ古来の祭儀に加わらない。
→無神論者の烙印
(1)ネロ帝
→ローマ大火の責任をキリスト教徒に帰して最初の迫害を行う。
ペテロ、パウロが殉教。
(2)ドミティアヌス帝、マルクス・アウレリウス帝、デキウス帝などの迫害続く。
(3)ディオクレティアヌス帝
→東方的専制君主政を開始。「皇帝=神の子」としてキリスト教徒を大迫害(308){2}キリスト教徒の対策
(1)教会組織の強化
(2)カタコンベ(地下墓所)にて信仰を守る

{3}キリスト教の飛躍
(1)コンスタンティヌス大帝
(a)ミラノ勅令(313)
→キリスト教を公認。キリスト教徒の支持を集めて国家統一に利用。
(b)ニケーアの公会議(325)
→教義統一のために開かれた初の公会議(宗教会議)。
コンスタンティヌス大帝が召集、主宰。
◎2つの対立教義
アタナシウス派三位一体説(教父アタナシウスによる説で、
神、キリスト、聖霊は等質で不可分のものとする。
アリウス派-キリストには人性を認めて神とは異質のものとする。
→アタナシウス派を正統教義とし(以後「カトリック」(普遍的)と称する)、
アリウス派を異端とする(ローマ領域外、特にゲルマン人に伝播)。
(2)ユリアヌス帝(背教者)
→ギリシア古典に親しみ、異教の復興を企てるが失敗に終わる。
(3)テオドシウス帝
◎キリスト教を国教化(392)、異教禁止令により他の宗教を厳しく迫害。
→ギリシアのオリンピア競技も閉幕させられる。

{4}組織の整備と教義の明確化
(1)組織
(a)聖職階級制(総大司教、大司教、司教、司祭)-聖職者と平信徒の区別が生じる。
(b)五本山(総大司教の所在地)
ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリア
(2)経典
(a)当初は旧約聖書を用いる。
(b)新約聖書の成立(2c頃)
→4c末には現行の27巻が完成。ギリシア語による記述。
(c)四福音書(イエスの言行を記録したもの)
(d)その他書簡、詩経など。
(3)教父哲学の普及
◎教父-使徒の後を継いで、正統的教理を論証。異教、異端の攻撃に対して
キリスト教の正当性を証明した初期の神学者。
(a)エウセビオス(265~340)
→コンスタンティヌス大帝の信任を獲得。皇帝位は
神の恩寵によって与えられたものとする。
(b)ヒエロニムス(340?~420?)
→聖書のラテン語訳を完成。東方教会の文献を翻訳し西方へ伝える。
(c)アウグスティヌス(354~430)
→最大の教父。マニ教から回心。410年の西ゴート族によるローマ占領の際、
異教徒がキリスト教徒にその責を課したのに際して護教論を展開。
◎アウグスティヌスの著書
○「告白録
→アウグスティヌスの自伝。放逸の生活からキリスト教に入信するまでの記録。
○「神国論
→プラトン哲学を導入し教義を確立。教会権威をうち立てる。
(4)公会議による教義の明確化
(a)エフェソスの公会議(431)
◎東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世が召集。
ネストリウス派(コンスタンティノープル総大司教ネストリウスの主張。
イエスの神性を認めず)を異端とする(ネストリウス派はササン朝ペルシアを経て
唐代の中国に伝播(景教と呼ばれる))。
(b)カルケドンの公会議(451)
→前代までの教義論争に決着をつけ、アリウス派、ネストリウス派を異端とする。