日本の武将を紹介
日本史に登場する武将を紹介
武田信繁
(1525~1561)
~ 武田家副将として、兄・信玄を支えた名将 ~
・ 左馬助。 父は猛将として名を馳せた武田信虎。 兄は言わずと知れた晴信(信玄)。 幼き日より、自分に似て気性の烈しい晴信より、温厚な信繁を偏愛した父信虎は彼に家督を継がせたかったらしい。 しかし、一五四二年、これを察した晴信と信虎に反感を持つ家臣たちによって信虎は追放の憂き目にあう。 父から追放という形で家督を継がなくてはならなかった晴信の苦心を察して、信繁は真っ先に兄の元に臣下の礼をとった。
・ これ以後、弟としての分をわきまえ臣下の道を貫く信繁に対する家臣団の評価はすこぶる高く、また、近隣の諸将、北条氏康、上杉謙信、織田信長などからも「武田家の真の副将」として絶賛されている。
・ 一五六一年の第四次川中島合戦で、山本勘助(管助?)考案のキツツキ戦法を謙信に見破られ、武田の本陣が奇襲を受けた際、信繁は兄信玄を助けるために自らを犠牲とした。 信繁の死は、諸国を駆けめぐり甲斐の名僧・快川国師は信玄宛の書状に、「典厩公(信繁のこと。左馬助の唐名をこういう。信繁の通り名だった)の死は、惜しみても尚惜しむべし」としるしている。
・ 信繁の子、信豊に遺した九十九箇条の教訓は「信玄家法」と呼ばれ、江戸時代の武家教育に大きな影響を与えた。 なお、子・信豊も典厩を名乗ったため、父・信繁は古典厩と呼ばれる。
さて、第1回目は武田信繁です。 この人選に関しては、全くの個人嗜好です。 兄の苦心を察しいちはやく駆けつけ、以後弟として兄の片腕となり忠誠を尽くした彼の態度はとてもすばらしく思えます。 きっと日本人的美意識にもかなっているのではなでしょうか。 私は彼の”家臣”としての忠義に惹かれ、戦国武将の中でも一押ししたい人物です。
さて、「信長シリーズ」での彼の評価ですが、さすがは武田の副将、といったところでしょうか。 軒並み70代を超えてバランスのとれた能力値をもっています。 ”風雲録”では野望が少ないため、城主としては多少力不足ではないかと思いますが、国造りに、防衛に、また外交にと活躍の場を選ばない働きをしてくれくでしょう。 また”将星録”では、すべての能力値が80を超え、一段と男を上げたなと思わせてくれます。 ただ、寿命が短く特に”天翔記”、”将星録”では、身分があがりやっと戦場でも使えるようになったなと思った頃に寿命がきてしまう、というケースがあるのではないでしょうか。 ”将星録”では医学書を使って寿命を延ばすことができるので、できる限り長生きをしてもらって勢力拡大に貢献してもらいましょう。 一方”烈風伝”では多少評価が落ちたものの、やはり安定度は相変わらず。 寿命の短さも相変わらずですので(^^;、やはり医学書は必需品といえるでしょう。
宇喜多直家
(1529~1581)
~ 権謀の才で近隣の大名を恐怖させた謀略の人 ~
・ 宇喜多の名将として名高い祖父・能家は備前・美作・播磨の守護、浦上家に仕えていたが、一五三四年、隠居先で自刃してはてる。 というのも、能家と並び重臣・島村氏の嫡男、貫阿弥の不意討ちをうけてのことであった。 直家の父は暗愚だったため、その息子直家に宇喜多再興の夢が託された。
・ 祖父能家が非業の死をとげ、浦上家の家臣となってから八年、ようやく祖父の恨みをはらす機会が巡ってきた。 貫阿弥が毛利氏に内通しているという情報を手に入れ、直家は一計を立てて貫阿弥を討つと同時に二人の逆臣の本拠の二城を奪い、見事な名将ぶりを見せた。
・ その後も、謀略の限りを尽くして近隣の諸将を恐怖に陥れた。 攻城戦の際には城主を刺客にて葬り、美作攻略の際にも三村家親を刺客を用いて暗殺、翌年その息子元親の軍勢を撃破一五七三年、主家浦上氏が直家を疎み始め、先年撃退した元親と手を組み直家を討とうとする気配を見せると、直家は足利義昭を通じて毛利氏と結び、この動きをいちはやく牽制、逆に元親を討って挫折させている。 そして、一五七七年についに主家浦上氏を天神山城で討ち果たし、備前、美作を統一する。
・ ところが、その頃から始まる羽柴秀吉による中国遠征の際に、秀吉の要請を受けて盟友の毛利氏の属城を攻めたてる。 反信長をたてる毛利氏を後目にあっさりと信長に降伏を申し立てたのだ。 このときは、秀吉の独断で所領安堵の朱印状を出して信長に大目玉を食らったが、小西隆左を通して正式に降伏を申し立てて所領を安堵されている。 大勢力の狭間で生き残るための処世術の妙、宇喜多隆盛のため力を尽くすも息子・秀家の代で宇喜多の名は消えることになるのは、因果応報によるものだろうか。
さて、第二回目は宇喜多直家にしました。 このひとは、むしろ息子の秀家の方が有名になっています。 秀吉の養子になり、五大老の一人として名を連ねていますが、こうなったのも父の備前、美作の統一という大事業のおかげであることは言うまでもないでしょう。 同じ謀略の人として、一介の油売りから美濃国主にのし上がった斎藤道三、主君を殺し、将軍を殺し、南都の大仏を焼き払うとういう離れ技を演じた松永久秀らと並び賞されるわりには、前の二人と比べて知名度が落ちるように思えるのは、私だけでしょうか? なんにせよ、下克上のならいに従い、祖父に劣らぬ名将ぶりに疑う余地はないでしょう。
「信長シリーズ」での彼の評価は、シリーズを重ねれば重ねるほど高くなっていく傾向があるようです。 というより”風雲録”では、「知謀」というデータがないため、直家の正当な評価が難しいということもありますが。 しかし”烈風伝”では一転、謀将というイメージが突出した評価に変わっています。 とはいうものの、その数値はやはり高いものがあります。 また、史実どおりの能力・「暗殺」は彼を語るのには欠かせない技能となっているようで、敵にまわして戦うときには驚異の存在となるのではないでしょうか。 政治力も高く戦闘力も低くはないので、内政・戦・外交にと幅広く活躍してくれるでしょう。 ただ、忠誠値には気をつけないと、痛い目を見ることもしばしばある・・・というかありました(^^;。
島津義弘
(1535~1619)
~ 兄・義久とともに九州統一に邁進した猛将 ~
・ 兵庫頭。 島津貴久の次男。 島津氏の歴史は古く、鎌倉時代までさかのぼる。 祖先が薩摩、大隅・日向の守護となって鹿児島を本拠地にし、勢力を伸ばした。 しかし、各地を統治する際、それぞれの地に分家のものを地頭として赴任させたため、分家同士の争いが絶えない状況が続く。 これを統一したのが、義弘の父・貴久と祖父・忠良(日新斎)である。 祖父・忠良は分家に生まれたが、同じ分家筋を吸収し、本家、薩州家と同等の力をつける。 本家と薩州家とが不和になったことにつけ込み、長子・貴久を本家の養嗣子にすることに成功。 その後本家当主、薩州家を倒し島津氏統一を果たす。
・ このように名将とうたわれる祖父・日新斎に薫陶を受け、博愛の精神を受け継いだ義弘は、薩摩戦法を完成させる一方、質実剛健の薩摩気風に博愛の精神を植え付けた。 こうして薩摩魂をもった薩摩隼人の軍団を指揮し、義弘は九州を席巻することになる。
・ 一五七二年、日向の伊東義祐を木崎原(きざきばる)に破り日向進出を果たすと、豊後の大友宗麟と耳川で激突、これを壊滅させる。 八一年、水俣の相良氏を降伏させると、”肥前の熊”の異名をとる龍造寺隆信との間に緊張が走る。 島原の有馬氏と同盟を結び、八四年、沖田畷で隆信を討ち取り、大友氏の本拠地・豊後を除く九州の全て制し、九州制覇は目前と迫った八七年、宗麟の要請を受けた秀吉が九州に軍を差し向ける。 秀吉軍の強さを目の当たりにした義弘は、義久に続き降伏、所領大隅を安堵される。 ここに悲願の九州制覇の夢は潰えた。
・ 秀吉麾下になっても、義弘は猛将ぶりを発揮。 朝鮮遠征の際、明軍二〇万の軍勢を撃破し、「鬼石曼子(おにしまず)」と恐れられる。 秀吉なき後、石田三成と徳川家康が関ヶ原で激突する時には、西軍につくも、敗色濃厚とみるやわずかな手勢で、包囲網から血路を切り開き、東軍に島津軍の恐ろしさを見せつける。 戦後、家康家臣の井伊直政らの尽力により免赦され、所領も安堵。 息子家久の相続も認められた。
・ 義弘が島津に根ずかせた薩摩魂は、明治まで受け継がれ、明治維新の志士たちの基本的な考え方の根幹となったであろう。 これが近代国家日本を生んだ訳だが、薩摩魂の中核には質実剛健ではなく、他人を分け隔てなく慈しむ「博愛の精神」であることを、忘れてはならない。
さて、第三回目は「鬼島津」こと島津義弘です。 戦国武将の中で、「鬼」の異名をとる者数多けれど、やはり「鬼」のなかの「鬼」といえば、この人でしょう。 彼が島津氏十七代当主という説もあるらしいのですが、義久の後を継いだのが義弘の三男・忠恒ということからきているのでしょうか。 まあ、兄貴自体あんがい影の薄い人なので・・・、いや義弘が強烈なのかも・・・。 義弘以外にも優れた兄弟がおり、三男知謀の歳久、四男兵術の家久の二人も兄達にも劣らぬ才の持ち主であったことも、義久の影の薄さを強めている要因の一つとなっているようです。 しかし、これだけ個性の強い兄弟たちをまとめる手腕を持っていた義久もまた、器量の大きい人であったことは、疑う余地のないことでしょう。・・・て、なんだか義弘のこと書いてねーようなきがしますが・・・(^^;。
「信長シリーズ」での彼の評価は、まあ言うまでもないでしょう。 シリーズを重ねるごとに力をつけ、オールマイティぶりを発揮しています。 特に、”天翔記”で東北地方から始めると、立花道雪とともに、イカサマくさい強さを持っていて手に負えなくなっていることが多々あります。 おまけに鉄砲適性も高く、野戦だろうが籠城だろうが強いのなんの・・・。仕方なく暗殺という手口でけりをつけたりしたものです。 ”烈風伝”でも評価に変わりはほとんど見受けられません。 是非とも大将として起用し、戦場で存分に活躍させましょう。 最強のライバルも、味方に付けばこれほど心強いことはありません。 昨日の敵は明日の友というのを信じて、何とか味方に引き入れましょう。
蘆名盛氏
(1521~1580)
~ 伊達と並ぶ蘆名に育てた南奥州の名将 ~
・ 四郎丸。 修理大夫。 蘆名氏は、桓武平氏の流れをくんだ会津の名門である。 盛氏が十六代当主になると、居城・黒川を拠点にして、領内にふきあれる反乱を次々と鎮圧。 一五三七年伊達家の女を妻にし、田村隆顕と同盟を結ぶなど蘆名氏の安定化を図る。 その後、伊達氏に内紛(天文の大乱)が起こるとその間隙をぬって、近隣の諸豪族、二本松義継・田村清顕・二階堂盛義らを次々と傘下に加える。 他方、北条・武田・上杉と結び、姻戚関係のある結城義親を助けるという名目で、 常陸の雄・佐竹義重と戦うなど、 近隣に武威を張り、 会津から北越後に及ぶ蘆名氏最大の版図を築き、南奥州に伊達と並び蘆名の名を全国に轟かせた。
・ その後、家督を嫡男・盛興に黒川城とともにゆずり、自身は新たに築城した岩崎城に移り隠居の身となったが、盛興が嗣子のいないまま早くして亡くなったため、 二階堂盛隆を養嗣子に迎え、 これを蘆名盛隆とし、 自身が再び蘆名の舵取りをする。 しかし、その後の蘆名氏は衰退の一途をたどる。 盛隆に続きその子・亀王丸までが早世すると、かつての宿敵、佐竹氏から義広を迎えこれを盛重とする。 しかし、この相続で家臣たちに微妙な影を落とすことになり、そこに伊達政宗がつけ込む。 一五八九年、摺上原の地で伊達軍と衝突。 蘆名軍は大敗を喫し、盛重は佐竹に帰りここに蘆名氏は滅亡する。 蘆名氏の栄華は、盛氏とともにおとずれ、盛氏の死とともに去っていったのである。
さて、第四回目は蘆名氏中興の祖・盛氏です。 蘆名家は、盛氏の代に急激に勢力をつけ、盛氏の代の終わりとともに、 急激に勢いが消え衰退していきます。 盛氏が家督を嫡子に譲ったとたん、蘆名氏の歯車が狂いはじめます。 嫡子の若死に、養嗣子とその息子の夭折、伊達新当主政宗の台頭と、蘆名氏にはマイナス材料ばかりが続きます。 ことが決定的になったのは一五八九年・摺上原の戦いです。 蘆名軍は大敗を喫し、盛氏が一代で築き上げた蘆名氏は滅亡するわけです。 栄枯盛衰、蘆名の運命には、 一抹の寂しさを禁じ得ません。 やはり、一人の名将では、国は建てられても、国を保つことはできない、 ということでしょうか。
北条綱成
(1515~1587)
~ 外戚として北条を支えた「地黄八幡」 ~
・ 上総介。 綱成が北条を名乗るまでには、複雑な経緯があった。 綱成は父、今川家臣・福島正成が、武田家の猛将・原虎胤に討ち取られた後、家臣に伴われて小田原に落ち延びる。 時の北条氏当主は二代目・氏綱であったが、彼は綱成を援助し近習として用いる。 その後、氏綱は自分の「綱」という字と、父・正成の「成」を合わせて「綱成」と名乗らせ、自分の娘を嫁がせ北条一門に迎え入れる。 こうして綱成は、北条氏の外戚としてお家発展に深く寄与することになる。
・ 一五四六年、綱成の武名を上げることになる”河越合戦”が起こる。 当時、新興勢力北条の前に、山内・扇谷両上杉氏は次第に勢力削がれ、打倒・北条を胸に一大作戦を展開する。 すなわち、今川・武田と結び北条方駿河領を脅かせ、関東管領(山内)上杉憲政自ら大将として出陣。 各地に檄を飛ばし、それに呼応する板東武者は八万余の大軍となって、綱成の守る河越城に迫った。 この時、河越城にはわずか三千ほどの兵士かおらず、何とか持ちこたえつつ三代目当主氏康に救援を求めた。 今川と対陣中だった氏康は、この知らせを受けると今川と領土割譲を条件に和睦。 八千の兵を引き連れ、河越に向かった。
・ 川越に着いた氏康は、昼間は連合軍に和睦交渉を持ちかけ油断を誘い、夜襲にて一気に勝敗を決するという作戦を立てた。 夜半過ぎ、四手に分かれた軍を三手から攻め込ませた。 日中の和睦交渉に安心しきっていた連合軍は、夜襲の備えがなく大混乱に陥る。 それを城中でみていた綱成は、好機到来とばかりに打って出て、古河公方・足利晴氏の軍勢を撃退せしめた。 この時綱成は、黄色の地に「八幡大菩薩」と書かれた旗を翻すその姿を、人々は「地黄八幡」と呼んでその勇猛さを讃えたという。 後に、”日本三大夜襲”に数えられる河越合戦は、八万の軍勢をわずか八千の兵だけで退けるという奇跡的な勝利をもたらし、北条の関東制覇を大きく前進させる重大な勝利だった。
・ やがて戦場から離れた綱成は、武蔵の要衝・玉縄城の城主となり、各地の大名と小田原を結ぶ折衝役となり、今度は外交面から北条を支えた。 氏康死後、家督を嫡男・氏繁に譲り出家。 道感と号す。 戦場に、外交に、北条発展に捧げた生涯は、後世に”北条氏発展を支えた名臣”という名を残した。
さて、第五回目は「地黄八幡」こと北条綱成です。 歴史の教科書で、北条といえば第一代目・伊勢新九郎改め北条早雲の下剋上の始まりと、豊臣秀吉による小田原の陣、この二つぐらいでしょうか。 いかんせん京都から離れているため、関東制覇をしても天下を狙おうという気概はなかったようです。 そのためか、力的には武田・上杉らに引けを取らないのに、何となく地味な印象を受けてしまうのは私だけでしょうか? 綱成に関して、この人の父は今川家臣だったのに、子供は北条の娘婿となり、八面六臂の大活躍をするなんて人の運命は本当にわからないものだと、しみじみと思ってしまいます。 まさか家の家臣にこんな名将になる子がいるなんて、もったいねーと、義元はあの世で悔しがったでしょうね。
陶 晴賢
(1521?~1555)
~ 大内家を乗っ取った「西国無双の侍大将」 ~
・ はじめは隆房と称した。 陶氏は、長門守護代内藤氏、豊前守護代杉氏、らと同様に周防守護代を務め、代々筆頭家老の家柄であった。 彼の父・興房は大内義隆(晴賢の主君)の父・義興の代に活躍をした知勇兼備の名将であった。 晴賢もまた父に似て勇将であり、「西国無双の侍大将」と賞せられる武将となる。 しかし、名君であった義興に比べ、晴賢の主君・義隆は”文人大名”と呼ばれ戦国大名としての能力に欠けていた。 このことが、晴賢にとっては不幸だったのかもしれない。
・ 文人大名・義隆は、周辺の豪族の動きに対しまったく無頓着であった。 ”西の京都”とうたわれた山口で、文臣・相良武任(さがらたけとう)らを重く用い、文芸振興にばかり務めた。 そんな主君に対して晴賢ら武臣たちが、周辺の豪族を放置なされますな、と諫めるが、尼子との戦の敗北以来義隆には、”外征”の二文字は頭から消えたのだろう。 やがて、武臣と文臣・義隆の溝は深くなり、晴賢は謀反を決意する。
・ 一五五一年、国中の御家人、商人、農民からの支持をとり晴賢は謀反を決行。 義隆父子は大寧寺で自害して果てる。 主君無きあと、晴賢は北九州の雄・大友宗麟の甥、晴英を迎え入れこれを大内義長とし、傀儡政権を樹立させる。 ちなみにこの時、名を晴賢と改めた。しかしこの状況を静かに見守りつつも、密かに晴賢打倒を画策している者がいた。 毛利元就である。
・ 大内義隆の姉婿にあたる、石見三本松城主・吉見正頼の挙兵に対し、討伐に向かう晴賢軍の間隙を縫うように、毛利軍は佐藤銀山・草津・桜尾の三城を落とし、厳島を占領。 しかし、いかんせん兵力に差のある毛利軍に勝ち目はない。 そこで、大軍を一カ所に集め一気に叩くためには、晴賢本隊を厳島に呼び込む必要があった。 そこで元就の知略が冴えわたる。 まず、晴賢軍の安芸侵攻の先鋒を務める、江良房栄を内通の疑いがあると晴賢に密告し、これを除く。 さらに陶軍をおびきよせるために、厳島に城を築き「兵力を割いたことは失敗だったかも・・・」と言ったという噂を流す。 また、重臣桂元澄に、裏切りを約束する書状を晴賢に送りつけている。 水軍村上氏にも協力の約束を取り付け、晴賢軍の逃げ場を完全になくすという周到な計画を立てた。 機は熟したのである。
・ 一五五五年、晴賢軍は厳島に上陸、陣をはる。 毛利軍は、暴風雨の中を夜陰に紛れて厳島に上陸。 明け方、晴賢軍を挟撃し、海上に逃げ場のないことをさとった晴賢は同地で自害して果てる。 結局晴賢は、主家を乗っ取った謀反人、というレッテルを貼られることになるが、晴賢自身は、下剋上のならいに従ったまでのことである。 むしろ、主君に恵まれなかった悲運の将であろう。 そのことが、後世に「西国無双の侍大将」という批評が伝わったことににうかがえる。
今回は陶晴賢です。 主君の暗愚さに泣かされる勇将、知将は数多くいますが、晴賢の場合にもこのことが言えるのではないでしょうか。 大内家は代々周防を中心に勢力を持つ大大名ですが、義隆の父・義興はなかなかできた人で、管領となって勢威をふるった人です。 晴賢の父・興房もまたできた人で、義興のもとで辣腕をふるった名将だった・・・のだが、なぜ同じ名将の父を持つのに、こうも対照的な子になったのでしょうか? 義隆は父には似ず、和歌、連歌、儒学、漢詩文など、およそ戦国大名がたしなむ学問の度合いをとうに過ぎ、またそんな姿を見る晴賢にしてみれば、情けないにも程がある!!といったところだったでしょう。 文弱な義隆が悪いのか、こんな主君に巡り会った晴賢の運が悪いのか、ただ今は謀反という事実が残る
本願寺顕如
(1543~1592)
~ 信長を苦しみ続けさせた一向一揆の総本山 ~
・ 本願寺十一世法主。 光佐はおくりなである。 本願寺は親鸞を開祖とする浄土真宗の一派で八世法主蓮如の時、一向宗と称し急激にその勢力を広め、日本最大の宗教となった。 彼らの教えは簡単で、南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが極楽浄土に行ける、というもので、字の読み書きもままならぬ庶民にとっては、これほど手軽なものはない、ということで信者が増大していったわけである。 その圧倒的な信徒の数と強固な団結力は、守護を追い出し、「百姓の持ちたる国」と呼ばれるまでになる加賀一向一揆に見ることができる。 しかし、蓮如自身は「王法為本」(俗世では支配者の統治に従うこと)を説き、信徒たちの政治介入に否定的立場をとった。 だが、次第に戦国大名の支配力が強まるとともに信徒との間に衝突が絶えなくなり、法主自身の立場も微妙に変化する。 そして十一世法主顕如のとき、ついに俗世の権力の象徴・信長と正面から激突する。
・ 一五七〇年以降、十二年にわたる信長との戦いを「石山戦争」と呼び、一向一揆勢は特に畿内・濃尾で特に烈しく、伊勢長島の一向一揆では信長の弟・信興を討ち取るなどの激しい抵抗をみせた。 こうして信長は包囲網の中で苦戦を強いられていたが、包囲網の一角である武田信玄が上洛の道半ばで急死した頃から、信長は作戦を各個撃破に変更、一向一揆に対して容赦のない殺戮が行われる。 伊勢長島では二万人、越前を占拠していた一揆勢に対しては七万人もの大量殺戮を断行。 形勢が不利となり、顕如はいったん信長と講和する。
・ しかし一五七六年、将軍・義昭と謀り上杉・毛利と連携し再び信長に戦いを挑む。 この時は石山本願寺で籠城戦を展開。紀伊雑賀の一向勢、瀬戸内の毛利水軍らの援助を得て長期化を謀りそのうちに上杉ら、反信長の勢力を決起させようというものだった。 しかし上杉謙信は上洛準備中に急死してしまい、信長に刃向かった松永・荒木らも各個撃破されてしまい、またも形勢不利に陥る。 海上からの補給が頼みの綱だったが、補給に向かう紀伊雑賀衆や毛利水軍も、信長の前に屈し、一五八〇年ついに石山本願寺は落ちるのである。 石山から退去した顕如はその後、地方で抵抗を続ける門徒たちの宣撫工作をつとめた。
・ 顕如自身は「王法為本」を守ろうとした節が見える。 信長が上洛を果たしたときには、祝賀の使者とともに矢銭(軍事費)を献上しているのがそれである。 しかし門徒たちの団結は自治的気運をまし、戦国大名の領国支配の強化と対立し顕如の思惑とはかけ離れていくのである。 肥大化した門徒は、戦国という百姓にとっては辛い時代に信仰という名の下に団結し、一向衆という名を借りて自分たちを主張した農民の一揆である。また、この勢いに乗じて顕如は本願寺王国を夢見たのかもしれない。 しかし革命児・信長の前に信仰のみが残った。
今回は本願寺顕如です。 いつの時代も、宗教に政治を握られると、ろくな事は無いように思えます。 そういう点でいえば、中世から近代へ移り変わる過渡期に、このような俗世と宗教の対立は非常に興味深いことだと思います。 王法為本を唱える顕如が戦いに踏み切ったのも、決して不自然なことではないと思うのです。 古代・中世と権力が手から手へ移り変わろうとも、宗教世界はいろいろな形で権力者とかかわってきました。 しかしそれは近代の世界にはある程度区切りをつけなければならない、すなわち宗教は俗世の権力に介入してはならない、というけじめをつけなくてはならなかったのでは、と思うのです。 王法為本を貫けなかった顕如も、時代の波にのまれた一人といえるのではないでしょうか。
長野業正
(1491~1561)
~ 信玄の猛攻を防ぎきった知勇兼備の名将 ~
・ 信濃守を称す。 関東管領・山内上杉氏の重臣。 在原業平の末裔で知勇兼備の名将として、関東に知れ渡っている武将である。 上野国の利根川以西、西上野の旗頭として、対武田・北条の侵攻を長きに渡り防ぎきった。
・ 一五五三年、主君・上杉憲政が越後の長尾景虎の元に走った後も、上野国・箕輪城に立て籠もって執拗に守り続け、関東管領家の再興に力を尽くした。 これに対し関東をめざしていた武田信玄は上州攻略に乗り出す。 しかし西上野国に大小数十もの砦を築き大防御網を張り巡らせている業正に、信玄は何度も苦杯をしいられる。 業正自身の槍働きも見事であったが、小豪族の力を一つにまとめ上げる政治力も兼ね備えていたのである。 名将・業正は、強者揃いの武田軍の猛攻を六回にもわたって防ぎ、さしもの信玄でさえも、「業正が上州におる限りこれを奪る事はできぬ」と嘆かせたほどである。
・ それだけに一五六一年の業正の病死は、信玄にとってどれだけ朗報であったことか。 その二年後、業正の子・業盛を箕輪城に追いつめる。 この時業盛は父の遺言、「我死ぬるあとには一里塚を立てよ。 降伏するぐらいなら討ち死にせよ。 それが何よりの供養なり。」の言葉通りに武田軍にたいし徹底抵抗を見せ、箕輪城の陥落とともに自害して果てた。 親子二代にわたり、信玄を相手に一歩も引かぬ勇戦を見せた長野氏は”信玄の猛攻を防いだ名将”として後世に名を残すこととなる。
今回は長野業正ということで、この人、あの信玄の六回にもわたった猛攻を防ぎきったすごい武将です。 山内上杉氏の家臣ということで、普通ならはっきり言ってあまり目立たない大名の忠臣、というところで終わってしまうのでしょうが、この人はそんなスケールの小さい武将ではないのです。 当時二十四将の名将とうたわれた家臣団を中心に勢い盛んな武田家を相手にしての奮戦ですから、業正の名将ぶりは疑いようのないものでしょう。 彼らのような忠臣に限って報われないというのが寂しい限りです。
大谷吉継
(1559~1600)
~ 関ヶ原で友誼に散った義将 ~
・ 紀之助。 刑部少輔。 もとは九州の雄・大友家の家臣だったが若年の時、主家は滅び浪々の身となる。 十六才の時、姫路に流れ着いた吉継を秀吉に紹介したのが運命の武将石田三成だったのである。 浪々の身を救ってくれた三成に対し、吉継は兄として慕い、このときから終生変わらぬ友誼を誓った。 また秀吉の小姓として仕えることにより、彼の未来も開けたのである。
・ 吉継が名をあげたのが賤ヶ岳の合戦である。 この合戦では七本槍が有名だが、吉継は武功ではなく調略で秀吉を喜ばせる。 柴田側の重要拠点・長浜城主柴田勝豊の調略に成功したのである。 この調略により、秀吉側が俄然有利になり勝利に導く大功となり、吉継は秀吉の信頼する側近の一人となる。 天下平定後は、太閤検地など秀吉の諸政策に従事し功を立てる。 この次に有名な功績として、朝鮮の役時の兵站業務に辣腕を振るう。 その見事な采配に秀吉も舌を巻き、「吉継に百万の軍を任せて采配を振るわせたい」と言わしめた。
・ そして運命の関ヶ原の戦いが勃発する。 この時石田三成はまさに挙兵寸前で吉継にうち明ける。 このことを聞いた吉継は、挙兵中止を訴えたという。 しかしすでに戦いは動き出しており、逆に三成は事動く前に吉継に相談を持ちかければ必ず制止される、と考えまた、たとえ動き出してから持ちかけてもこの男なら乗ってくれる、と読んだのであろう。 計画を聞いた吉継は、そのあまりにも杜撰な内容にあきれ、ついには「こうなった以上家康に勝つ見込みは全くありません。 あなたと死をともにするだけです」と言い放ち、西軍の建て直しに奔放する。 しかし斜陽は立て直すことができず、関ヶ原にて討ち死にを遂げる。
・ 負けるとわかっていても、あえて三成と運命をともにした吉継は、戦国期にはめずらしい武将であることに間違いはないだろう。 三成に出会ったことが運命の矢なら、関ヶ原で散ることも運命なのだろうか。
さて、今回は大谷刑部ですがどうでしょうか、どうも目立たないような気がするのは、私だけでしょうか。 関ヶ原の時、小早川秀秋の裏切りに会い奮戦の上討ち死にというぐらいしか、彼の認識はないかもしれません。 しかし実状は優れた民政家でありまた優れた参謀でありました。 先に述べたように、太閤検地などの諸政策に携わり彼の業績は大きく、また関ヶ原の敗北を予見してもなお、敗色を少しでも薄くするように加賀の前田家を中立の立場にするなど、参謀の面でも才能を発揮しています。 それだけに、秀吉の言葉が悲しく響く…。 才ありしも、悲運にあい友誼に散った義将であると言えるでしょう。
小早川秀秋
(1582~1602)
~ 運命に翻弄された悲運の武将 ~
・ 金吾中納言。 秀吉の正妻・北政所の兄・木下家定の子。 秀吉の養子として三歳の時羽柴秀俊と名乗る。 秀吉は秀俊を寵愛したらしく、一時は秀吉の後継者ともくされていた。 が、秀吉に秀頼が生まれてから秀俊の運命が狂いだす。 愛情を秀頼に注ぐ秀吉にとって養子の秀俊は逆に後継者問題の火種になりかねなかったのである。 そこで謀臣・黒田官兵衛は、当時嫡子の無かった毛利家に養嗣子として秀俊を送り込むことを進言。 これを秀吉は承諾し話を毛利家に持ちかけようとする。 しかし嫡流の絶えることを危惧した小早川隆景はこれに対し先制をかける。 秀俊を自分の養子にしたいと進言したのである。 秀俊問題に早く片づけたかった秀吉は、この申し出を喜んで承諾。 こうして小早川秀秋が誕生したのである。
・ 朝鮮の役が始まると秀秋も出陣。 しかし若さの故か、敗走する明軍に対し深追いをし、秀吉に厳しく叱責される。 そんな秀秋を取りなしたのが家康である。 こんな所に運命の出会いがあったのだ。
・ 運命の関ヶ原の際は、松尾山に布陣し態度を決めかねていた。 そんな煮え切らない態度に業を煮やした家康は、小早川勢に鉄砲を喰らわせて寝返りを促したという話もあるぐらい、戦国武将としては能力を欠いていた。 戦後、戦功に対し備前・美作五十二万石を拝領するもその二年後病死。 世継ぎがいなかったため小早川本家は断絶する。 常に時代の中心にいたにもかかわらず、その人生は運命に翻弄され続けたといえよう。
今回は小早川秀秋です。 ちまたではこの人の評価は低いですが、私はこの人はそんなこと云々ではなく「秀吉の養子」となったことが、この人の人生の全てではないかと思うのです。 確かに武将としての資質がなかったことは、朝鮮の役の戦いぶりではっきりしていることですが、それ以上に秀吉の養子になったことが秀秋の一生の足枷になったのではないでしょうか。 二十一歳の若さで死んだのは、大谷刑部の呪いではないか・・・嘘でしょう(^^;。
上杉景勝
(1555~1623)
~ 家康に挑戦し、武門の意地を見せる ~
・ 弾正少弼。 中納言。 幼名卯松。 喜兵次。 顕景。 上野長尾氏の長尾政景と謙信の姉・仙桃院との次男。 実子のいなかった謙信の養子として、一五六四年に春日山城に入る。 上洛を目前に控えた謙信だったが、一五七九年に急死すると、北条氏から養子に来ていた景虎との跡目争いがおこる。 いわゆる「御館の乱」である。 争いの当初は、実家の北条氏及び義兄の武田勝頼のバックアップによって、景虎が優勢だったが、景勝は勝頼に対し多額の報酬と妹を迎えることを条件に和睦。 この外交戦略により、徐々に形勢を盛り返した景勝側が乱勃発後の翌年に景虎を自害に追い込む。 これに勢いを得た景勝は国内を一気におさめ、上杉家の家督を継承する。
・ が、それも束の間、今度は武田氏を滅ぼした織田家の猛攻にあう。 新発田氏の反乱や魚津城陥落など、窮地に立たされるが、上杉氏には都合の良いことに本能寺の変がおこり信長は殺害され、今度は織田家の家督争いがおこる。 これによりからくも滅亡の危機を脱した景勝は、山崎の合戦に勝利した秀吉と盟約を結び、賤ヶ岳の合戦において越中の佐々成政を釘付けにし、秀吉の勝利に貢献。 これ以後、小田原の陣、朝鮮出兵などで活躍。 これらの功により、五大老会津百二十万石の大大名に栄達する。
・ しかし秀吉の死後、家康の天下取りが徐々に進む中、景勝は秀吉の知遇に報いるべくあくまで家康に反抗する。 家康の再三の上洛の要請に応じようとせず、逆に石田三成と手を組み反家康の色を鮮明にしていく。 これが家康の狙い通りかどうかは定かではないが、しかし上杉氏としては謙信公以来の武門の名家として家康などに屈するものか、という意地もあったのであろう。 これにより家康の上杉討伐を招き、矛を交えず撤退していく家康を追撃しようという進言を退けた景勝は山形の最上氏を攻撃するも、関ヶ原での西軍敗退の報を聞くと会津へ撤退する。
・ 戦後、潔く降伏を申し出た景勝たちに感じ入ったのか、家康は米沢三十万石減封だけで景勝を無罪放免する。 その後は家康に反抗することもなく、大阪の陣では先鋒を務め功を立てている。 一六二三年没。 享年六十八。 天下統一の渦中に上杉氏という大大名の当主として生き抜いた景勝。 武門の意地と家名を守り抜いたその人はたぐいまれない”出来人”だったに違いないだろう。
さて今回は上杉景勝です。 私の中では”渋い人”というイメージがあるのですが皆さんはどうでしょうか? 幼少から仕えてきた直江兼続と連携をしながら上杉氏という名家を残すことは、大変困難なことだったでしょう。 この若い補佐役を認めない周囲の反感を一身に浴び続け、終生信頼が揺らぐことがなかった景勝は、やはり器量人だったのでしょう。 この主従がいなければもしかしたら上杉氏の名は江戸の世に無かったかもしれません・・・。
直江兼続
(1560~1619)
~ 謙信公の薫陶篤く上杉家を支えた股肱の臣 ~
・ 山城守。 幼名与六。 兼続は上田長尾氏・長尾政景の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長子として生を受ける。 幼い頃から利発な子供として政景の妻、仙洞院(謙信の姉)に認められ景勝の近侍となる。 一五六四年、政景の死にともない、二人は謙信の居城・春日山城に移り住む。 この頃から謙信の薫陶を受け、景勝の股肱の臣としてその能力を開花させていった。
・ その後、謙信の突然の死により、景勝と関東北条氏からの養子・景虎とのあいだに家督争いが生じる。 いわゆる「御館の乱」である。 この時景勝側は景虎側におされ、敗北が濃厚の状態にあったが、兼続の外交戦略によりこの状況を打破する。 すなわち、景虎側であった武田勝頼に多額の黄金と景勝が勝頼の妹を室に迎える事を条件に、景勝側につかせたのである。 これにより形勢が逆転し、ついに上杉家当主となる。 一五八二年、主君景勝の命により越後の名門・直江の名跡を継ぎ、この時より名実ともに上杉家の宰相となる。
・ それと時を同じくして京都に本能寺の変がおき、信長王国は崩壊。 秀吉と勝家との抗争が激しさを増し北越にまで及ぶようになる。 この時他家の下につくのをよしとしなかった景勝を説得し、秀吉との同盟を結ばせたのが兼続である。 謙信公以来他家の風下につくことのなかった上杉家にとっては大いなる方向転換であり、苦渋の選択である。 しかし上杉家存続のためには、どうしても必要な選択であったのである。
・ こうして秀吉政権下についた上杉主従は、奥州一揆征伐、朝鮮出兵などに手柄を立て、秀吉もその功績を讃えるとともに景勝を五大老の一人に任じ、上杉家を越後九十一万石から会津百二十石に加増。 家臣である兼続に対して、米沢三十万石という大録を与えたのである。 これは実質的には兼続一人に対する加増であり、秀吉の兼続に対する評価は並々ならぬものがあったことがうかがいしれる。
・ しかし秀吉の死後、五大老の一人徳川家康の横暴が目に見えるようになると、景勝は家康の上洛のすすめを拒否。 それどころか、城郭を修復し浪人を大量に雇うなどして徹底抗戦の構えを示したのである。 秀吉の知遇に報いる、という感情もあったであろうが何よりも、謙信公以来の武門の意地に掛けて家康ごときに屈するわけにはいかなかったのである。 家康は会津討伐の軍を起こし出兵するも、石田三成挙兵の報を聞くととって返し上杉軍とまみえることはなかった兼続は最上氏を攻めたてるもこれを落とせず、関ヶ原の結果を知ると会津に戻る。
・ 翌年、景勝と兼続の主従は謝罪のため上洛。 これに対し家康は米沢三十万石の減封だけで赦免。 兼続自身は五万石を所有したが、没落してなお上杉家を慕う家臣たちのためにそのほぼ全てを分け与えている。 さらに主家安泰のために、家康の謀臣・本多正信の次男を養子に迎え、大阪の役では家康側となって戦果をあげる。 兼続のこうした努力によって、上杉家は徳川の世に名を残すことができることとなるのである。 一六一九年没。
・ 兼続は日頃から学問を好み、農政や商工業などの発展に尽力している。 米沢三十万石に減封となったにもかかわらず、倹約を旨とし、様々な工業を興した結果、米沢の実収は五十万石ともいわれる豊かな国になった。 まさに文武兼備の名将と呼ぶにふさわしい武将である。
前回が上杉景勝ということで、今回は直江兼続にしました。 私は、直江か片倉か、というイメージを持っており、どちらも戦国末期に出現した名家老です。 二人とも主君に恵まれたこともあり、後世に名を残す活躍をしましたが兼続には全権を任されたという印象があり、やはりこの人を超える家老はいないでしょう。とにもかくにも、景勝との二人三脚で米沢藩をつくった名将でしょう。
堀 秀政
(1553~1590)
~ 信長・秀吉が讃え、愛した「名人・久太郎」 ~
・ 菊千代。 久太郎。 左衛門督。 侍従。 元は斎藤家の家臣であったが、信長にその才能を認められて側近に抜擢される。 時に十三才である。その若さにもかかわらず、越前一向一揆紀伊雑賀一揆・謀反人、荒木村重の討伐など主要な戦いに従軍、戦功をたてる。 一方で各武将と信長の連絡役を務めるなど、槍働きにとどまらない万能武将としての顔ものぞかせる。
・ 秀政の運命が変わったのが本能寺の変である。 この時、幸いにも秀政は信長の命を受け西国・毛利氏と戦う秀吉のもとへ、備中高松城の城攻めの目付として出陣していた。 難を逃れる形となった秀政は、その後秀吉の「中国大返し」に同行。 山崎の合戦では秀吉軍の先鋒となって明智軍と戦う。 清洲会議で秀吉対勝家の構図が鮮明になると、そのまま秀吉側について賤ヶ岳合戦に従軍、戦後、近江佐和九万石を拝領する。
・ 四国征伐、九州平定などの働きもさることながら、長久手の戦いでは一際素晴らしい働きをみせる。 池田恒興の提案のもと、三河軍強襲作戦に従うもこれを見破られ、総崩れ必至の状態にあった味方を秀政軍の奮闘によってかろうじて免れている。 膠着状態にあった時分、この敗戦が全体の敗北のきっかけになりうる可能性が高かっただけに、秀政の働きは大きかったに違いない。 これらの働きにより越前十八万石を加増されるも、小田原の陣中に病没。
・ その堅実な働きや律儀な性格から秀吉に最も頼りにされた武将の一人である。 北陸から京都に続く道である越前に彼を配置したことからも、秀吉の彼に対する信頼の高さがうかがえる。 それだけに秀政の若死には秀吉にとっては痛手であったに違いない。
秀吉の時代には、信長の小姓たちがその才能を存分に振るうケースが見られますが、今回取り上げた堀秀政もそんな一人ではないでしょうか。 彼らは丹羽長秀や池田恒興のような軍団長ではなく信長の側近であったため、信長王国のなかではかなり影響力を持っています。 それだけに、彼の支持は秀吉にとってかなりありがたかったに違いありません。 「名人久太郎」と呼ばれた才能とともに・・・。
津軽為信
(1550~1607)
~ 奥州津軽を席巻した文武に通じた名将 ~
・ 右京亮。 津軽氏はもとは大浦氏を名乗り、為信が津軽一帯を支配したときに津軽氏を名乗る。 大浦氏は強国・南部氏の支配下にあまんじていた。 というのも、為信の遠祖・光信の父祖三代までが、南部氏によって謀殺されるという過去があるためである。 代々の大浦氏当主に、復讐の炎が受け継がれてきたことは言うまでもない。
・ その復讐を果たすときが訪れたのが、五代目当主・為信の時である。 一五七一年、南部氏が支族の九戸氏の謀反に手こずっている隙をつき、津軽一帯をまたたくまに制圧この時に「津軽」氏を名乗る。 この動きに対して南部氏は討伐の兵を送る動きを見せるも、為信は時の覇者・秀吉に通じ、一足早く領土安堵の朱印状をとりつけることに成功。 こうして、正式に独立を果たす。 先祖からの悲願である大浦氏独立を成就させたのである。
・ その後は、九戸一揆討伐・朝鮮の役・伏見城の普請、関ヶ原の戦いでは東軍につくなど持ち前の先見の明を発揮。 津軽藩安泰に導く働きをしている。 またすぐれた民政家であり情け深い名君として民から称されたとおり、津軽の発展にも力を尽くす。 一六〇七年、没。 歳五十八。
今回は津軽に現れた名将・津軽為信です。 日本人は江戸時代に幕府によって奨励された朱子学の影響で、為信のような裏切り行為をする人を、毛嫌いする傾向が強いのですが、今回の為信の場合はどうもそんなことだけでは片づけられない事情があるようです。 大浦氏はもとをたどると南部氏にあたります。 つまりは同族の間柄になるわけです。にもかかわらず、大浦氏と南部氏の間では昔から争いが絶えないようで、それが当主謀殺につながっているのです。 まさに南部氏は大浦氏にとって独立を妨げる最大の障害であり、先祖代々の仇ともいえる相手。 これだけ知ってしまうと、為信の謀反はむしろ自然のことと思えてしまうのは、私だけでしょうか・・・。
立花宗茂
(1567~1642)
~ 実父は紹運・養父は道雪、斜陽の大友氏を救う ~
・ 千熊丸。 統虎。 鎮虎。 宗虎。 正成。 親成。 尚政。 俊正。 経正。 信正。 左近将監。
実父は高橋鎮種(紹運)、養父は立花道雪。 大友氏を支えた猛将にかこまれて育った宗茂は、まさに名将になるべくしてなった武将である。 宗茂は長子であったが、道雪に請われて、道雪の娘・闇千代(ぎんちよ)と結婚、婿養子として立花氏を継ぐことになる。ただ、花嫁の闇千代はすでに立花の家督を継いでおり、自身も武勇に優れた資質をみせていたため、宗茂とのなかはうまくいかなかったらしい。 道雪の死後、二人のなかはついに決定的なものになり別居、闇千代はその後早世している。
・ 道雪がこの世を去った八十五年、この頃になると大友家の斜陽ははっきりとし、もはや傾きかけた大友氏を立て直すことは、誰の目にも不可能とうつっていたこの時、宗茂は実父・紹運らとともに島津氏相手に必至の抵抗を試みている。 八十六年には紹運も岩屋城にて玉砕、いよいよ最後の時というところで、豊臣秀吉の援軍に救われる。 いわば高橋親子の捨て身の抵抗が、大友氏の家を滅亡の一歩手前で救ったのである。 この功により、柳川十三万石を与えられている。
・ その後は豊臣方の大名として、小田原の陣・文禄の役などに活躍。 秀吉から「西国無双の武将」と讃えられる。 しかし関ヶ原の戦いでは西軍に加わり大津城を落とすも、西軍の敗北により撤退。 戦後、加藤清正のすすめに従って開城。 しかしその人柄を知る幕府から許しを得て、奥州の大名に返り咲く。 大阪の役では先の恩に報いる働きをみせ、戦後旧領の柳川十一万石を回復。 老境に入ってもなおその衰えを見せず、島原の乱鎮圧に功を立てる。 一六四二年没。 歳七十六。
・ 関ヶ原にて西軍に加わり、その後旧領に返り咲きを果たした武将は稀である。 それを可能にしたのは、宗茂の器量もさることながら、その二心なき誠実な人柄にあったといえよう。 養子に出されるときに実父・紹運に持たされた太刀を終生離さず、立花家の当主として生きた宗茂に幕府をも揺り動かした誠実さを見ることができる。
今回は「西の立花、東の本多、東西一対の武将」ともよばれ、名将誉れ高い立花宗茂です。 上記の通り実父に高橋紹運、養父に立花道雪と、当時の武将のなかでも一級の武勇を持つ二人に薫陶を受けたであろう宗茂は、まさに武将のエリート中のエリートと言えるでしょう。 また、紹運からは「もし立花の嗣子として振る舞えない場合はこの太刀で命を絶て」と、太刀を持たされ終生それを離さなかったことから、その誠実な人柄を伺い知ることができます。 裏切りが常であった戦国の世で、ここまで忠義を貫きまた、家名を江戸の世にまで残すことができたのは、そんなところから来ているのでしょう。
山県昌景
(1529?~1575)
~ 信玄を驚嘆させ家康を追いつめた赤備えの名将 ~
・ 三郎兵衛尉。 信玄、勝頼の二代に仕え、武田二十四将のなかでも屈指の名将として内・外のあらゆる面に優れた手腕を発揮。武田四名臣にもかぞえられる。
「山県」とは甲斐の名門の名跡で、元の名は飯富源四郎。 信玄の近習として使番から信州伊那攻めで初陣。 以降、順調に功を積み、やがて三百騎持ちの侍大将・家老衆にまで出世する。 まさにエリート街道をひた走ってきたわけである。
・ しかし、一五六五年、昌景の兄である飯富虎昌が信玄の嫡子・義信の謀反疑惑のために罪をかぶって自刃すると、信玄は「飯富」を断絶させ、昌景に「山県」の名跡と飯富隊を継ぐように命じる。 このときから山県の名を名乗るとともに、近隣を恐怖におとしいれた赤備えを率いるようになる。 板垣・甘利の両家老の死後、武田家の最高機関である「職(しき)」をつとめ、駿河江尻城代に就き政治・外交・戦闘とあらゆる分野で信玄を強力にサポートしていく。
昌景が得意としたのが短期間での城攻めで、その駆け引きの妙では家中のなかで右に出る者はなしといわしめている。 黒地に白桔梗の紋を染めた旗指物、配下の者には朱色一色に統一させた軍団は「赤備え」と称され、昌景がひとたび突撃の檄を飛ばすと火の玉のごとく一丸となって突進する様に、敵は戦いもせずに逃げ出したと伝えられる。その活躍ぶりは、信玄の彼に対する無数の感状がなにより物語っている。
・ 特に昌景の名将ぶりが発揮された戦いが、三増峠の撤退戦と三方ヶ原の戦いである。
一五六八年、今川・北条・武田の「三国同盟」の禁を破り、信玄は駿河侵攻を開始。 これに対し北条は同盟破りを名分に駿河に援兵を出す。これにより信玄と北条氏康との全面戦争は、避けられない事態となる。 明けて一五六九年、信玄は氏康の本拠地・小田原城を攻めるも、さすがの信玄もこの難攻不落な城を落とせず撤退を余儀なくされる。 一方氏康はこれを好機とばかりに追撃戦を展開する。 すなわち撤退ルートの三増峠に別働隊を先行させ、自身は小田原の本隊を率いて挟み撃ちにする作戦である。 しかし信玄もこの作戦にいちはやく気付き、この別働隊の側面を突くよう、こちらからも別働隊を迂回させる。 この別働隊の指揮官こそ山県昌景である。 北条方の別働隊と味方本隊とが交戦中のなか頃合いを見計らって、側面から一気に突撃。 別働隊を大混乱に陥れ、散々に打ち破る大戦果をもたらす。 甲斐軍はこうして虎口を脱することに成功した。
一五七二年、信玄はついに上洛のために三河に侵攻。その三河には信長の盟友・家康が立ちはだかる。 とは言っても家康軍は、信長の援軍をたしてもわずか一万程の兵でしかなかった。 両軍は三方ヶ原で激突。 この時赤備えの山県隊は五千の兵を率いて家康本陣に肉迫する。 そのあまりの烈しい突撃に家康は一時は命をあきらめ、命からがら浜松城に逃げ帰り、「山県とはききしにまさる猛将ぞ」と心胆を寒からしめたという。
・ しかしその直後に信玄は病死。 昌景は「明日は瀬田に旗を立てよ」という遺言をうけ武田の後を託される。 しかし信玄の死後、武田家には微妙な不具合が生じてくる。 長篠の戦いでは二代目・勝頼に、好機を待つように進言するも取り入れられず、戦局は予想通り武田側劣勢となる。 死を覚悟した昌景は、手勢を率いて敵方に突撃。 体中に鉄砲をあびてそのまま絶命したと伝えられる。 歳、四十六。
今回は「武田四名臣」ということで、まず山県昌景からです。 実は先に書いた「武田信繁」とともに、自分のお気に入り武将として書きたかった武将の一人です。 やたらに文章が長いのがそのことをよく物語っています(苦笑)。 あらためて武田には有能な武将が多いなあと、書いていて思った訳ですが、家康を自害一歩手前まで追いつめた武将の一人として、彼は強烈に印象に残りますね。 兄が罪の連座で自刃した後、彼の出世が華々しくなっていく事に一部の者たちから、「兄が死んだから出世できた」という陰口をたたかれたこともあったそうですが、そんな事も彼の前には小さな事だったことでしょう。 彼の出世にはきちんとした実績がいつも伴っていたから・・・。 まさに信玄の飛躍には、彼は欠かせない存在だったでしょうね。
高坂昌信
(1527~1578)
~ 越後の龍・謙信を抑えた名将、人呼んで”逃げ弾正” ~
・ 源助。 源五郎。 昌宣。 晴昌。 晴久。 虎綱。 弾正忠。 豪族・春日大隅の子として生まれる。 もとは春日源五郎といい、16歳の時、信玄の奥近習として出仕。 信玄の奥近習のなかでも飛び抜けた美童ぶりで、信玄の寵童であったと伝えられる。 やがて使番を経て、百五十騎持ちの侍大将・重臣に列せられるが、これは信玄の寵童であったからだと囁かれた。 しかし長ずるにつれその才能を発揮するようになる。
・ 信濃・小諸城代、海津城代をつとめ、川中島の戦いでは上杉軍の殿軍(しんがり)を攻撃し、その戦功により北信濃の支配をまかされ、名族・高坂氏の名跡を継ぎ高坂弾正忠と名のる。 これ以後、戦国屈指の名将・上杉謙信から北信濃を守りきり、信玄の信頼もあつく武田軍のなかで一番の兵力を指揮したといわれる。 長篠の合戦では、相次ぐ諸将の討ち死にのなか、敗走する勝頼を八千の兵で出迎え、衣服を着替えさせ敗戦の見苦しさを民衆にさらさないよう配慮した。 その三年後に病死。 歳五十二。
・ 武田四名臣に数えられた昌信はまた、保科正俊の”槍弾正”、真田幸隆の”攻め弾正”とともに、高坂の”逃げ弾正”として戦国三弾正と謳われた。 この場合の”逃げ”とは、”慎重”をあらわし、全てにおいて確実に情報を集め何事にも慎重に対応・行動することを意味しており、その用兵の妙は武田家中随一と伝えられている。 また昌信は、武田家の歴史資料・「甲陽軍鑑」の作者ともいわれ、そのため彼自身のことは控えめに書かれている可能性があり、慎重派とおさまっているともいわれる。 しかし昌信の才覚は自他ともに認めるところであり、北信濃を謙信から守ったことが何より物語っている。 信玄が”寵童”というだけで昌信を起用したわけではないことは、昌信自らが証明したのである。
武田4名臣にして”逃げ弾正”こと高坂昌信です。 4名臣のなかで最後まで生き残った武将ですが、自分が為すべき事を心得ていた、と受け取ることができますね。 当時は男色が当たり前のようにあり、昌信のほかにも先に書いた堀秀政や蒲生氏郷なども、小姓からの出であるわけですが、これらの人は無論美童だったから愛されただけでなく、秘めた才幹を主に認められていたからだということ、お分かりいただけたと思います。 まさに”才色兼備”と言ったところでしょうか。 ・・・なんか使い方が違う気がしますが・・・(苦笑)。
馬場信房
(1514~1575)
~ 信玄の良き相談相手にして戦巧者の器量人 ~
・ 信春とも。 民部少輔。 民部大輔。 美濃守。 武田三代に仕えた老臣。 もとは甲斐の在地武士・教来石(きょうらいし)氏の遠江守信保の子。 武田家譜代の臣・馬場虎貞は信玄の父・信虎に諫言をていし不興をかい誅され、馬場氏は改易の処分をうけていた。 一五四一年の信虎追放劇にさいし、信房は重臣・板垣信方に従って裏方として奔走。 その功績を信玄に認められて重用される。 一五四六年、旗本組から騎馬五十騎持ちの侍大将に抜擢されると同時に、信玄の命で馬場の名跡を継ぐ。 この頃に信房と名乗るようになったといわれる。
・ その後も次々に功績を上げる。 一五六一年、川中島の戦いに際し、妻女山攻撃の別働隊を率いて越後軍に応戦。 一五六九年の三増峠の戦いでは、北条軍に対して先鋒として真っ向から戦いを挑み奮戦。 三方ヶ原の戦いでは、山県昌景・内藤昌豊らとともに先陣を務め、敗走する家康軍を浜松城まで追撃するなどの功績がある。 一五六四年、「鬼美濃」の異名をとった原虎胤が病死すると、「鬼美濃の武名にあやかれ」と信玄から美濃守を名乗ることを許される。
・ 信玄死後も勝頼をよく補佐したが、長篠の戦いでは一度兵を退き好機を待つよう進言するも聞き入れられず、武田軍は敗北。 信房は味方の殿をつとめ、勝頼が無事逃げ切れたことを確認すると、ここを死に場所とばかりに馬首を返し敵陣に突入。 壮絶な最後を遂げた。
・ 信房の戦巧者ぶりは右に出る者はなしと言われるほどで、四十有余の合戦にさいしても一度も傷を負うことがなかったと伝えられる。 また小幡虎盛に築城の技術などを学び、後に一度も傷を負うことがなかったという話もある。 かつその人徳の高さは、将士から民百姓にいたるまで慕われ、「一国の大守たる器量人」とうたわれた。 その人徳の高さを物語る逸話が「甲陽軍鑑」にある。
信玄が駿河城を落としたときのこと。 今川氏の居城だけに名物や財宝が多くあり、焼失することを惜しんだ信玄は、全て運び出すよう命じた。 その命を聞いた信房は、「敵の宝物を略奪するなど、貪欲な武将のすることと後世の笑い者になる」と、運び出された宝物を全て火中に放り投げた。 そのことを知った信玄は、財宝より武田の名を惜しんだ信房の行為に深く自分を恥じたという。
信玄より七つ年上にして、人徳家であった信房は信玄の良き相談相手として、また家臣団のまとめ役として信玄飛躍の大きな原動力だったのである。
さて、武田四名臣にして武田家臣団・筆頭家老の信房です。 どの組織にもいえる事だと思いますが、やはり組織のなかで重きをなす人の存在は欠かせないものではないでしょうか。 そういう観点から言えば、まさに馬場信房の存在は真の意味で「重臣」だったと言えるでしょう。 特に信玄にとっては父・信虎追放という辛い過去をともにしてきた信房だけに、なんでも腹を割って相談できる「重臣」以上の存在だったのではないでしょうか。 組織が強くなるかどうかは、こういった「重臣」が育つかどうかにかかっていると、信房をみていて感じます。
内藤昌豊
(1521?~1575)
~ 信繁亡き後の信玄を支えた副将 ~
・ 修理亮。 父は信虎時代の重臣・工藤虎豊。 その次男として生まれた昌豊は、初め工藤祐長と名乗る。 しかし、父が信虎の勘気に触れ甲斐を出奔すると、兄とともにこれに従う。 一五四六年の信玄による信虎追放後、呼び戻され家臣団に復帰するとともに騎馬五十騎持ちの侍大将に抜擢される。
・ これ以後は信玄の信頼に応え、各地で戦功をあげていく。 特に、関東進出をもくろむ信玄にとって、悩みの種であった長野業正の上州・箕輪城攻めでは抜群の功をたて、のちに三百騎持ちに昇格する。 箕輪攻めの二年後、これまでの功績を認められ甲斐の名門・内藤氏の名跡を継ぎ、修理亮を名乗るようになる。 長篠の戦いでは戦況不利を勝頼に進言するも聞き入れられず、他の将士らとともに出撃、戦死する。 五十四歳。
・ 昌豊は信玄の弟・信繁なきあと、武田家臣団の副将格として、主な戦場で活躍している。 川中島の戦いや、三増峠の戦いなどでは小荷駄隊を率いるよう信玄より命じられている。 補給部隊を任されるあたりなどは、信玄の信頼の厚さを物語っていると言えるだろう。 またこれだけの功績にもかかわらず、信玄は昌豊に対し一通の感状も送っていない。 「甲陽軍鑑」によれば、「昌豊ほどの弓取りの名人ならば常人を抜く働きがあってしかるべし」(信玄)。 これに対し、「戦は大将の軍配に従って勝利を導くもの。 いたずらに個人の手柄にこだわるなどくだらないことだ」(昌豊)と語ったという。 信玄の信頼の高さとともに、昌豊の大物ぶりをしめす逸話である。
最後はこの人、内藤昌豊です。 信繁の死後、信玄の副将として信玄飛躍に貢献した一人なのですが、副将という難しいポジションに着きながらの働きに対し、信玄は一通も感状を送らなかったという話には驚きます。信玄をして「あれぐらいの働きは当たり前」と言わしめたわけですから、昌豊の実力の程が伺えるのではないでしょうか。
藤堂高虎
(1556~1630)
~ 次々と主をかえ江戸の世に家名を残した名参謀 ~
・ 与右衛門。 佐渡守。 和泉守。 近江犬上郡藤堂村の土豪の出身といわれ、少年の頃は浅井家に仕えていた。 しかし時は1571年ごろ、浅井家は信長の執拗な攻撃にあい命運尽きようとしていた。 そんなさなか高虎は浅井家を逐電している。 朋輩との私闘によるものだと伝えられているが、実際は高虎の先を見抜く”鼻”が利いたのであろうか。 その翌年、浅井家は朝倉家と同時に滅亡している。 これ以後、高虎の「渡り鳥」人生が始まる。
・ 初め織田信澄に仕えた後、羽柴秀長に仕え三千石を拝した。 この秀長配下で頭角をあらわし、一五八一年の但馬一揆の平定や、一五八七年の九州征討において敵兵に囲まれた味方の城を機略を用いて救うなど秀吉からも信頼を得るようになる。 一五九一年に秀長が病死すると、翌年の朝鮮の役において水軍の将に抜擢される。 この朝鮮の役が藤堂家の隆盛に大いに貢献する。
・ はじめこの水軍の主将は九鬼嘉隆であった。 信長配下で水軍の総司令として大いに活躍したあと、秀吉配下となってこの大船団を指揮することになっていた。 はじめの戦いでは日本側の大勝利に終わり、陸海とも破竹の勢いであった。 九鬼はこの大勝利の後、三成らと軍議のため上陸するが、高虎は留守番にまわされる。 一方挽回の機会をうかがっていた朝鮮側の水軍は、九鬼のいない隙に日本水軍の本隊を襲い致命的な打撃を与えた。
しかしこの敗戦の後、九鬼司令が戻った日本水軍は劣勢を挽回する。 が、先の敗退にたいし九鬼嘉隆は総司令の任を解かれ、所領の鳥羽に引退。 実際に敗北した高虎らにはなんの咎めもなかったのである。 それどころか高虎は総司令の不在の間、よく戦ったことを賞され第二次朝鮮の役では総司令に任命される。 この時相手側の総司令が仲間の奸計により左遷されていたことが高虎に味方し、大勝利を収める。 高虎が大いに面目をほどこしたことはいうまでもない。
これより後、高虎は堂々と家康に近づく。 秀吉の病がいよいよ篤くなると家康への媚びはますます露骨になる。 家康の私用を引き受ける。 三成一派の情報を流す。 家康暗殺の噂が流れるなか大阪へ出てきた家康に対し、高虎は屋敷まるまる家康一行に明け渡し自分達は警護をかって出る。 高虎は将来天下は徳川家の物になると読んだのである。
・ 関ヶ原の戦いでは迷うことなく東軍につく。 高虎は小早川秀秋の調略を担当し、この成功をかって朽木元綱など小大名を次々と内応させていく。 この調略がなければ家康も関ヶ原の戦いに踏み切れなかったと推測すれば、高虎の役割は天下を動かしたといっても過言ではないだろう。 役後、高虎は伊予半国二十二万石を拝領する。 家康もまた高虎の働きの大きさを理解していたのである。
・ その後も徳川家のためにさまざまな功績を上げていく。 関ヶ原の役後、徳川優勢のことは周知の事実となったが、まだまだ豊臣になびいている大名も少なくなかった。 そんなさなか、高虎は家康にたいし妻子を人質として送った。 他の諸大名は、「また高虎のゴマすりが・・・」と内心は苦々しく思うも、自分達も出さないわけにはいかないので我も我もと人質が家康の元に送られた。 これなら家康が強要したわけではないので筋が立つ。 高虎の機略によって家康は易々と諸大名から忠誠を得たのである。 大阪の陣では高虎が先鋒を務め奮戦。 また伏見城や江戸城などの普請奉行をつとめ、二代将軍・秀忠の娘を入内させることに成功させている。 こうして「渡り鳥」高虎は家康という大樹を宿り樹として、藤堂家隆盛を果たしたのである。
・ このように先を見越して裏切りを繰り返す人物は戦国時代には数多くいたが、高虎のように後の世まで名を残せる将は数えるほどしかいない。 戦国の世といえど日本という国はこのようにな「裏切り者」を好ましく思わない風潮があったからである。 しかし高虎のようにアフターケアまでしっかりとしていれば、「裏切り」という行為も神業へと昇華してしまう。 一六一六年、家康は病に伏し高虎は寝所につかえ家臣とともに奉仕した。 いよいよ病が篤くなると家康は高虎をよび、「死後も貴公と話すことができるだろうか。 宗派が違うから無理であろうな」。 家康は天台宗、高虎は日蓮宗である。 高虎は別室にさがり家康の側近で天台宗の高僧・天海にたのみ、なんとその場で天台宗に改宗してしまった。 ここまでくればゴマすりも本物の忠節になる。 そこで高虎は重臣・土井利勝に「自分が死んだら国替えを・・・」と話した。 無論、家康に伝わるようにである。 すると家康が、「いや、そんな必要はない。 藤堂家は所領を代々たもってよろしい」。 高虎はこうして江戸の世において伊勢・伊賀藤堂藩を勝ち取ったのである。
ちなみに藤堂藩は維新の時に幕府を裏切って維新軍に味方している。 高虎の先見の明が伝わっていたのだろうか。
さて今回は「戦国の寝業師」藤堂高虎です。 主君を七人変えたといわれ、人によっては「変節者」ということで、あまりいいイメージがないかもしれません。 まあ逆に言えば先見の明があると言えるのではないかと思いますが、しかし次々と主を変えていきなおかつ藤堂家を残したのだから、ただの「寝業師」ではないことは先に書いたとおりでしょう。 家康から信頼を勝ち取ったアフターケア・・・皆様にはどう映ったでしょうか?