管仲とは
春秋 管仲
★歴史的観点から★
斉の宰相として、桓公に仕えた。姓は管、名は夷吾、字は仲。鮑叔牙との 「管鮑の交わり」は故事として名高い。 若い頃、管仲は非常に貧しかった。その頃から鮑叔牙には大変世話になっていた。 管仲は「私自身をもっとも理解していてくれたのは、 鮑叔牙であった」と語っている。
鮑叔牙は斉の公子小白に仕えていた。同じ公子糾のお守り役が引退するに当たり、 後任役を探している時に、鮑叔牙は管仲を推薦したのである。管仲は太子である諸児は 無能であるため、長くは国をもたせられないであろうことを予想し、「将来、必ず優れた二人の弟のうちどちらかが、太子に 代わって国主となる日が来るであろう。我々は幸い、その優れた公子のお守り役で ある。どちらが国主なるかわからないが、その時は我らも助け合おうではないか」と 鮑叔牙に言った。
その後、小白と糾の争いとなったが、小白が勝利し、桓公となった。鮑叔牙は熱弁を ふるい、管仲を用いるよう推薦した。敵側にいたにも関わらず、管仲は桓公の宰相と なったのである。
鮑叔牙は勝利しながらも、自分を管仲よりも位を下げ、管仲を宰相にしたのである。 これが「管鮑の交わり」である。
管仲は現実主義者であり、特に機会を上手く利用するのが巧みであったと言われている。 実際、管仲は斉の国力を増強し、桓公を覇者としたのである。
管仲の政治方針は、経済の振興を基本とする富国強兵方針であった。有名な言葉に、 「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて 栄辱を知る」がある。日々の暮らしが楽になれば、人は自然に礼儀をわきまえるし、 生活にゆとりが出れば道徳心も高まるという意味である。
管仲は人々にわかりやすい政治を目指した。彼は大政治家と言われ、法家の祖と されている。
★私見★
管仲は鮑叔牙の推薦により、宰相になることが出来た。十八史略によると、管仲が表舞台に 立ち、裏では鮑叔牙がその策をねっていたとある。管仲はすでに敗北者であり、死んだような ものであったから、思い切って行動できた。鮑叔牙は小心者で表舞台でのびのびと実行できる 自信がなかった。二人の思惑はぴったりはまっていたという。
これが本当だとしてもこの二人の友情には嘘はないだろう。私にはこれだけの友人はいない。 うらやましい限りである。
管仲の考え方は儒家からは非常に評判は悪かったという。儒家からすると、あまりに現実的な 管仲の考え方は決して受け入れられるものではなかったろう。しかし、彼は桓公を覇者にした。 現実に国を富ませ、覇王にしたという一面だけを見ても、彼が偉大な政治家であったことは 間違いないのである。