始皇帝とは
秦 始皇帝
★歴史的観点から★
姓はエイ(漢字が出てこない)、名は政。秦の第31代の王にして、天下統一後、 秦国初代皇帝となる。
秦の王族、子楚は若い時に趙に人質となっていた。諸公子の一人でしかなかった 子楚を奇貨と見た商人呂不葦の後援によって、王になることが出来た。これが荘襄王である。 荘襄王の子として趙の都邯鄲で生まれたのが政である。荘襄王が即位からわずか4年で 崩じると、わずか13歳で政は王位につく。しかし政治の実権は宰相呂不葦と母太后が 握っていた。
政は成人するまで我慢し、成人後、呂不葦を廃し、法家の李斯を丞相に任命した。 こうして政は実権を手にし、天下統一という大事業に乗り出した。
韓、魏、趙、楚、斉、燕というライバル六国を滅亡させ、念願の天下統一を果たす。 統一後、王という呼称を改め、始皇帝と 名乗った。始皇帝は初めての皇帝、最初の皇帝を意味する。2代目は二世皇帝と、 3代目は三世皇帝と名乗るはずであった。
彼は度量衡を整え、文字と軌道を統一し、天下の武器を没収した。また天下を 36郡に分け、中央集権体制を施行した。また、北の国境を脅かす騎馬民族を防ぐために 「万里の長城」を築いた。
さらに医薬、農事、占い以外の文書類を焼き、紀元前213年には都にいた学者や 文人の多くを生き埋めにしてしまった。 これが有名な「焚書坑儒」である。
しかし、これだけの新しい制度による急激な変革は、人民の反感を招き、ことに 大規模な土木事業は民衆の生活を圧迫し続けた。
晩年には各地を巡幸し、泰山に登って封禅の祭りなどで自分の威勢を示した。また彼は 不老不死を望み、徐福にその探索を命じたとも言われている。
始皇帝は計5回の巡幸をする。最後の5回目の巡幸の途中で没した。死に際して、 扶蘇に跡を継ぐように詔したが、宦官の趙高に握りつぶされ、末子の胡亥が二世皇帝となる。 しかし、始皇帝死後人民の不満が爆発し、秦はたちまち崩壊していくことになった…。
★私見★
本当の意味での統一王朝を初めてつくったのが始皇帝である。彼は過去にないものを 作り、それを後世に伝えることを生き甲斐にしていたように思えてならない。
彼は荘襄王の本当の子でないと言われている。荘襄王の妻、始皇帝の母は、呂不葦の 愛妾だった。始皇帝は呂不葦の子であると言われている。そうであれば、呂不胃が いきなり宰相という高い地位につけたのも納得がいく。
始皇帝は正当な王位継承者ではなかった。彼は受け継ぐ人間でなかった。彼は 相続したものを次代に伝えるという保守的な性格はなかった。何故なら彼自身が正当な 相続人ではなかったからだ。
彼は彼が自分であり続けるために、革新的なことをしなければならなかった。 自分が歴史の始まりであり、自分から全ての歴史が始まるのだという、強烈な思いが あったように思える。それが彼のコンプレックスであり、逆にそれが彼の天下統一への エネルギーになっていたに違いない。
いずれにせよ、初めてのことを多くなすという彼は、偉大な皇帝であったことは 間違いない。