項羽とは
秦 項羽
★歴史的観点から★
秦末期の英雄。姓は項、名は籍、字は羽。楚の人。少年の頃、書を学んでも剣術を 学んでも、途中で放り出し、「書はもって名姓を 記するに足るのみ。剣は一人の敵なり。学ぶにたらず。万人の敵を学ばん」と言い、 叔父の項梁から兵法を学ぶ。挙兵前、秦の始皇帝の巡幸を 見物し、「彼、とって代わるべきなり」と 言ったという。
紀元前209年7月、始皇帝崩御の翌年、陳勝・呉広の 乱が起きると、その年9月に項梁を助けて挙兵する。項梁が秦軍との戦いで敗死した後は、 首領として戦陣に猛威をふるい、怒涛の勢いで勝ち進む。項羽軍は各地で圧倒的な強さを 誇った。
しかし、その一方で、一旦敵対したものは、たとえ降伏しようとも殺し尽くすという 過酷さがあったため、敵対するものが降伏せずに必死の抵抗を見せることになる。 このため、咸陽占領を劉邦に先んじられる。これに怒った 項羽は、劉邦軍を攻撃しようとする。この時に開かれたのが 有名な鴻門の会である。
直接の会合で、項羽はあっさり劉邦を許してしまう。 軍師・范増は劉邦暗殺を進めたが、項羽は聞き入れず、 劉邦を殺さなかった。これが痛恨の失策となる。
秦を滅ぼし、覇王となった項羽の頂点がこの時であった。その後、項羽は次々と背かれ、 紀元前202年、すでに天下の勢力のほとんどを 味方につけた劉邦に、垓下で完全包囲されてしまう。 敵陣に楚の歌を聞き、彼は最初で最後の敗北を悟る。
力、山を抜き 気は世を蓋う 時、利あらず 騅逝かず
騅逝かざるを 奈何すべき 虞や虞や 若を奈何せん
寵愛する虞武人を前にそう歌ったとき、まわりのものの中で涙しないものは なかったという。
800騎の手勢を率いて、包囲網を破るものの、最後に烏江の渡し場まで来た時には、 26騎だけであった。
「ここに至ったのは、天が自分を滅ぼそうと しているからであり、自分が弱いせいではない」 彼はそう嘆き、自刎して 死んだ。享年30歳。偉大なる覇王は最後まで自分を信じて疑わなかった。
★私見★
項羽は偉大な男である。時の勝利者である劉邦以上に そのキャラクタ性には存在感がある。
「楚は三戸といえども、秦を滅ぼすものは 楚ならん」という激しい言葉があるように、楚人の感情の激しさが伝わってくる。 まさしく項羽は楚人であった。
項羽は20万人という秦軍を生き埋めにする一方、劉邦を 見逃してしまうという優柔不断さを持っている。紂王と 武王、項羽と劉邦。勝利者と 敗北者の関係はいつも同じだ。勝ったものが、歴史を、敗北者の人生を支配できる。
項羽と紂王の敗北者としての違いがある。項羽は好かれて いるという事実がある。。少なくとも紂王が好きという人に 会ったことがないが、(マイナーだからかも)項羽は好きだという人にはあったことがある。
私自身は、劉邦よりは項羽が好きだ。以前は、三国志演義の 影響で劉姓を好んでしまうという傾向があったが、今は違う。人としての強さ、 もろさを持っていた、しかも、誰よりも激しく持っていた項羽が私は好きだ。 30歳で死んだ、最後まで自分を信じて死んでいけた項羽は、私の憧れでもある。