三国志に登場する呉の人物
孫権
孫権は呉の国をつくった人である。
孫権、字は仲謀。孫堅の次男で、父の孫堅、兄の孫策のあとを継いだ。
目が青かったので「碧眼児」と呼ばれた。
まず孫権は、父の仇である、荊州の劉表の配下、黄祖討伐に乗り出した。
黄祖のもとで働いていた甘寧というものが投降してきたので、黄祖の首をとることができた。
やがて、劉表が病死し、曹操から「協力して劉備を滅ぼそう」との使者がきた。
配下の魯粛は劉備と手を結んで荊州をとるほうがよいとすすめ、諸葛亮孔明(以下孔明と表記)
に説得され、開戦に踏み切る。そして、赤壁の戦いとなる。
その後、孫権の配下の周瑜は、荊州をとりに行くが、毒矢を受けてしまう。
荊州はまんまと、孔明にとられた。
劉備に政略結婚として、自分の妹を嫁がせて、劉備を呼び寄せて討とうとしたが、孔明に見抜かれて失敗した。
後に、毒矢がもとで周瑜が死に、魯粛がホウ統を連れてきたが、ホウ統の風采が良くないため、
孫権はホウ統を良く思わなかった。このため、ホウ統は劉備に仕えた。
さて、次に孫権は劉備の子供・劉禅(阿斗)をさらい荊州をとろうとしたが、劉備の部下の 趙雲と張飛によって阻止された。
孫権は部下の張紘の遺言で秣陵に移り、建業と土地の名前を変えた。
やがて、曹操と濡須で対決、しかし戦いが長引き曹操と和睦した。
劉備は漢中王となり、孫権は孔明の兄の諸葛瑾をやり孫権の息子と関羽の娘の縁談を持ちかけた。
しかし、関羽は断った。孫権は曹操と手を結び、曹操を攻める関羽の背後をつかせ関羽を捕えた。
孫権は関羽を部下にしたいと思ったが、部下の諌めで首をはねた。
劉備は復讐にきた。連日連敗で諸葛瑾を遣って和睦したいと働きかけたが、劉備は聞かない。
孫権はすべてを部下の陸遜に託した。陸遜は、劉備を火攻めで破った。孔明は劉備の死後、 孫権と和睦した。孫権は帝位についた。
孔明は魏と戦う。孫権にも出兵を要請したが、孫権は兵を出すふりをした。
孔明はなくなった。蜀は、呉の真意を探った。孫権も、魏への牽制のため蜀と同盟を強調した。
やがて、魏では司馬一家が実権を握ていた。呉では251年秋、暴風雨のため洪水となり、 呉の代々の松柏も根ごと飛ばされ、建業の南にまっ逆さまに、突きささった。孫権は、病に倒れ、 息を引き取った。在位24年、71歳であった。
周瑜
周瑜、字は公瑾。孫権の兄孫策とは義兄弟の誓いをしている。
周瑜は巴丘の守りについていた。この間に孫策は亡くなった。
周瑜は孫権にも兄とかわらぬ忠誠を誓い、自分が以前世話になった魯肅を推挙した。
黄祖討伐のときは水陸両軍を率いた。大勝をおさめ、荊州の劉表に備え、水軍の訓練に入った。
孔明が呉に来て、曹操と開戦か降伏かで真っ二つになった。周瑜は、孫権から呼び出された。
開戦派も降伏派も周瑜の家でも言い合った。周瑜は自分の意見は言わずに
皆を体よく帰した。そして孔明と面会した。孔明は「曹操は大喬と小喬を欲しがっているので
くれてやれば引き上げるでしょう」と言った。(大喬と小喬は呉では花の二喬といって絶世の
美女だった。孫策は大喬を、周瑜は小喬を妻としていた)周瑜は怒り、開戦を決意する。
しかし、自分の意図を見抜き、呉を開戦に巻き込んだ孔明に対して殺意を持った。
孔明に曹操の食料基地をおそわせて曹操に孔明を殺させようとするが、孔明は「愚かなことだ」
と言って、周瑜を怒らせ巧みに策から逃げる。次に劉備を呼び寄せて、殺してしまおうと
したが、関羽が劉備の側を離れないので失敗。ここで、曹操からのスパイ、蒋幹が来る。
蒋幹は周瑜とは幼なじみなのだ。しかし、周瑜は懐かしいだけでこの陣に来るのはおかしいと
見事に見抜き、逆に曹操軍の水軍都督・蔡瑁がわが呉に降伏しようとしてるぞとの情報を流し、
曹操に蔡瑁を殺させた。孔明が気になり、魯肅に探らせるとこの策をお見通しだった。
益々殺意が大きくなり、孔明に十万本の矢を三日以内に調達せよと難題を与えた。
孔明は濃霧の夜、わらをたくさん積んだ船をだし、曹操軍に攻撃すると見せかけ矢を使わせ
わらに刺さった沢山の矢を持ち帰った。周瑜は孔明に曹操軍を破る策を聞く。
周瑜と孔明お互い自分の考えを手に書いて見せ合うと両方「火」の字。
周瑜は孔明の殺意を無くした。
曹操は殺された蔡瑁の族弟・蔡和、蔡中を偽り投降させ、呉の情報を集めようとした。
周瑜は蔡和、蔡中が家族を連れてきていないので、すぐにこの策を見破り、曹操に偽の情報を流すようしむけ、さらに、黄蓋をわざと百たたきにし、
苦肉の策を実行する。ホウ統を呼び、再度訪ねてきた蒋幹とともに曹操に送り、ホウ統に
船を鎖でつなぐ「連環の計」を実行させる。周瑜はこのあと血を吐き倒れる。
冬には北風しか吹かないのを憂慮してたのだ。
孔明はこれを見抜き南の風を呼んだ。
周瑜は風さえ吹けばもう孔明は不要ということで、部下の者に孔明を殺すように仕向けた。
しかし孔明はもう趙雲の船にいた。
さて、赤壁の戦い後、荊州南郡攻略に乗り出す。劉備も狙っていることを知り、魏の曹仁と
一進一退の攻防をし勝利する。しかし、孔明はこの隙に南郡、関羽に襄陽を取らせていた。
魯肅が劉備と「荊州は劉表殿のもの、長男の劉キ死後呉にかえす」と約束を取ったので
周瑜は柴桑にもどり、曹仁から受けた矢の傷の養生に当たった。
その後、なかなか荊州を返さないので、孫権の妹(孫夫人)と劉備を結婚させ、
劉備を人質に取る作戦に出た。
しかし、趙雲が孔明の策を実行したため、呉国太(孫堅の第二夫人)に
気に入られ、手が出せない。劉備が荊州に逃げる所を捕まえようとしたが部下の徐盛
らは孫夫人に一喝され果たせず、劉備は孔明のもとに戻ってしまう。
周瑜は陸上から追撃すると、劉備の兵たちは「周瑜は戦に負けた上に夫人も取られた」
とはやしたてた。周瑜は矢の傷が開いて昏倒してしまう。
曹操は周瑜に南郡の太守の地位を与えて、劉備と孫権を争わせようとした。
周瑜は劉備のため益州を攻めると見せかけて実は荊州を攻める作戦に出た。
しかし、これも孔明はお見通し。
趙雲や関羽に四方から攻められ、また矢傷が裂けた。
そうすると孔明から手紙が届いた。「周瑜殿、益州を取るおつもりのようだが、益州は要害
そう簡単にはいかないと思われます。曹操は赤壁の恨みがあるから、攻めてくるでしょう。
まことによい謀りごととは思われません。ぜひよくご賢察ください」
この手紙を読み、周瑜は天を仰いで長嘆し、「この世には周瑜がいながらなぜ、諸葛亮まで
生まれさせたのだ!」と繰り返し叫びついに息絶えた。
建安15年(210年)冬、12月3日であった。歳は36歳だった。
メールでは呉のファンのなかでは、かなりの人が好きな武将に周瑜の字があったです。
周瑜と孔明のやりとりが私は一番面白いと思う。
周瑜ももう少し長生きしてしてたら良かったのにと思う武将の一人です。
孫堅
孫堅、字は文台。孫権、孫策の父親。呉郡富春の人。
孫子の末裔。額ひろく、顔が大きい。虎のような体に熊のような腰。
武器は古錠刀(こていとう)。17歳のとき、盗賊を殺して名をあげた。
これで校尉に推挙された。会稽郡で反乱があったが、孫堅は義勇隊を集めこれを
打ち破った。これで、各地方の県の丞を歴任した。
黄巾の乱で郷里の者達を集め、朱儁に加勢する。孫堅は黄巾賊を斬り大活躍し、
別郡司馬となった。のち、長沙の太守となり、江夏一帯の賊を平定した。
袁紹・曹操の董卓討伐軍に参加した。シ水関では華雄を相手にし、一度は
勝利をおさめるが、食糧係の袁術が食べ物を送らなかったため、敗れさる。
袁術に抗議。袁術は部下のせいにして、孫堅に謝った。
陣に帰ると、董卓から縁談の話がきたが断った。
董卓討伐軍は焼け野原の洛陽にはいる。
この時、孫堅は古井戸から光輝くものを発見した。部下の程普聞き、玉璽(帝の印鑑) と判明した。
孫堅は仮病を使い、長沙に帰ろうとしたが、袁紹は仮病の噂は聞いていたので、
問い正した。しかし、孫堅はうそをいったため斬りあいになろうとした。
その場は諸将たちがなだめた。
孫堅はそのまま洛陽から去り、袁紹はおおいに怒り、荊州の劉表に孫堅の帰り道を
塞げと使者を出した。 劉表は孫堅を襲うが、何とか逃げきり江東に帰る。
袁術は、袁紹と不和になったため、劉表に食糧の借りを頼んだが、断ったため、
袁術は孫堅に書を送り、劉表と孫堅を戦わせた。孫堅も帰り道襲われていたから
、 劉表を攻撃した。
しかし、劉表の部下カイ良の策で待ち伏せに遭い、山の上からの石と矢を浴びて
死亡した。歳は37であった。時は、初平3年(192年)11月7日であった。
これで、孫一族と荊州の劉表は仇の間柄となる。
魯粛
魯粛、字は子敬。臨淮郡東城県(りんわいぐんとうじょうけん)の人。
周瑜が孫権に推挙した。
もともとお金持ちであったが、貧しいものには財産を分け与えた。
孫権は魯粛と一日中談論しても飽きなかった。
魯粛は曹操を討つのは難しいのでまず、江夏の黄祖、荊州の劉表を攻めるべきだ
と言い、一人の人物を推挙した。諸葛瑾(諸葛亮の兄)である。
後、曹操が江陵に入ったと聞き、孫権は重臣と協議した。
魯粛は、先ごろ劉表が死んだので弔問という名目で劉備の元をおとずれ、
劉備に孫権と誼を結ぶように言った。そこで、孔明は魯粛とともに孫権の元へ向かった。
魯粛は荊州でのことを報告し孫権に孔明を引き合わせた。
次に、周瑜に孔明を引き合わせた。
周瑜は孔明は殺してしまったほうがよいと言うが、(この辺は周瑜コーナー参照)
魯粛はあくまでも、劉備との連合を大事にし、「兄の諸葛瑾に呉に来るよう説得させて
みては」と言った。
どうしても孔明を殺したい周瑜は孔明に十万本の矢を調達するように言ったので、
魯粛は孔明の言う通り、草束を積んだ船を用意し、孔明とともに曹操の陣で
矢狩りをした。そして孔明の策に感服した。
蔡和、蔡中が投降してきたとき、魯粛は周瑜の心がわからなかったが、孔明に真意を
教わる。
周瑜が風が吹かないため、倒れたとき、魯粛は孔明に相談し、孔明の指示どおり、
山に壇を築かせた。
赤壁の戦い以後は、劉備が油口に陣取ったため、周瑜と劉備の元に行き、
呉が荊州をとると言い、取れないときは劉備が取ってもよいという証人になった。
荊州を取られて悔しがる周瑜をみて、魯粛は劉備の元に行った。
しかし、孔明に「荊州は劉表殿のもの。彼がいない今、長男の劉キ殿のもの。
劉キ殿を我が主人劉備が面倒をみているのだ」といわれ、仕方なく、劉キが
死んだら、荊州を呉に返すということになった。
のち、合肥では大小の戦いがあった。このとき、程普が到着する前に魯粛が到着した。
孫権は下馬して魯粛を迎え、「こうすれば、おぬしには名誉なことであろう」と言うと、
魯粛は「これくらいでは足りませぬ、我が君がすべての地を手におさめられましたとき、
良き馬車にて、召し出されたときこそ、私は光栄きわまります」(「どうか天下統一して
ください」ということ)と答えた。孫権は手をたたきたいそう喜んだ。
荊州では劉キが死んだので魯粛は弔問に出かけた。
しかし、又孔明に「蜀を取ったらすぐお返しします」と言われて、誓約書をもって
しぶしぶ引き揚げる。帰ると、周瑜は怒って、「君は人がよすぎる、いつ蜀を取ると
いうのだ、何十年も待つのか?」と言われてしまった。周瑜は策略をたてたので
孫権に報告した。しかし、周瑜の策は孔明に見抜かれ、周瑜は死んでしまう。
魯粛は周瑜の後継者となる。周瑜の葬儀が終わり、孫権にホウ統を推挙したが、
孫権はホウ統を用いなかったので、劉備への推薦状を書く。
後、孫権に言われ、荊州返還について関羽をよび、もし承知しなかったら殺そう
という計略をたてたが、関羽は魯粛から手を離さず、部下も手が出せず失敗した。
のち、曹操が漢中をとったため、劉備は荊州三郡(長沙・江夏・桂陽)返還を条件に
孫権に救援を求めたため、魯粛は陸口に駐屯した。
曹操の元にいた管輅が占うと呉は大将を一人失うとでた。
そのとおり、魯粛は陸口を守っていたが死んだとの知らせが来た。
呂蒙
呂蒙、字は子明。江夏の黄祖に仕えていた甘寧を孫権に引き合わせた。
赤壁の戦いでは曹操を追うが、張遼に食い止められる。
周瑜の死後、孫権に濡須に築城を勧めた。
魯粛が関羽と話し合うことになったとき、これに同行したが、関羽が魯粛の手を
離さなかったので、呂蒙たちは何もできなかった。
劉備は荊州3郡を返すから曹操を攻めるように申し出たので、呂蒙と甘寧は
先鋒で出陣したが、甘寧と凌統が仲間割れをおこしたので、仲裁した。
結局、張遼に負けた。濡須で曹操を迎かえ撃つが孫権が敵に囲まれ、孫権が逃げて
きたところを助け上げた。そして呂蒙も陸遜に救われた。
関羽は狼煙台を建てて呉軍に注意したため、呂蒙は何もできず、陸遜の知恵を借りた。
病気と偽って陸遜と交代し、関羽を油断させた。呂蒙は商人に扮装して狼煙台を
襲い、荊州城を落す。そして、荊州の民を安心させるため、一切の略奪を禁じた。
竹の笠を拾った兵士まで殺し、徹底させる。関羽は孤立していく。
麦城から逃げ出した関羽を待ち伏せ、捕えた。
荊州入手のお祝いの宴席の上で関羽の霊に取りつかれ、「碧眼の小児、紫髯の鼠輩
(青い目ヤロウ!紫ひげのねずみヤロウ!)」「我は関羽なり!」と言うと、
体じゅうの穴から(鼻とか耳の穴)から血を流して死んだ。
太史慈
字は子義。東莱群黄県の人。
母親の命令で北海太守・孔融を助ける。劉備とともに黄巾残党・管亥を破る。
孔融のもとを去り、揚州刺史・劉ヨウの配下となる。
そこで、孫策と激しい一騎打ちを行い、孫策に認められ、
孫策に帰順した。
孫策死後も,孫権に仕える。赤壁の戦いでは黄州境で曹操を待ち伏せる。
後に、合肥の戦いで魏の張遼と互角にわたりあう。
太史慈は合肥城内の戈定と内通しようとした。
諸葛瑾が注意するが、太史慈は聞きいれない。
城内に火の手を上げるまではうまく行ったが、張遼の冷静な判断で
逆に城内に誘い込まれ、矢を浴びてしまう。
太史慈は矢傷がもとで亡くなった。
41歳であった。
甘寧
甘寧、字は興覇。巴郡臨江の人。
もと、錦帆賊で、川や湖を荒らしまわっていた。
しかし、前非を悔いて劉表のもとに身を寄せた。
甘寧はしばらくすると、劉表が無能だと考え見切りをつけ、
江南へ行こうとした。
しかし、黄祖に止められる。黄祖が呉と戦った時、
呉の武将・凌操(凌統の父)を射るなどの活躍を見せた。
しかし、黄祖は元海賊ふぜいな者は重用しない。
甘寧はついに呉の孫権のもとに降る。黄祖の軍勢を相手に見事な働きを見せる。
その祝勝会で、凌統が父の仇として甘寧に斬りかかった。
孫権はこれを止め、甘寧を外勤にした。
後に、魏の水軍者であった蔡クンを射殺して、勝利する。カン沢と呼応して
蔡和・蔡中を欺く。甘寧は蔡中に案内させた後、蔡中を斬り殺す。
曹操軍の馬延と張ガイを斬って功を上げた。
のちに、夷陵の曹洪を攻めて城を取るが、逆に囲まれて周泰・周瑜に救われる。
周瑜の蜀取りをみせかけ荊州を取ろうとした策の時、先鋒をつとめるが、孔明に見抜かれて
不成功に終わる。合肥の戦いでも先鋒をつとめる。その祝勝会でまた凌統に殺されそうになる。
曹操の出鼻をくじくため、百騎で夜討ちをかける。百名にはがちょうの羽を目印と
していたので、一騎も失わずに帰陣した。
次の日、凌統が落馬し、楽進に刺されそうになったとき、甘寧は楽進を射て落馬させ凌統を助けた。
これより、甘寧と凌統は和解した。
のち、劉備が関羽・張飛の復讐戦の時、甘寧は下痢を起こしていたが病をおして出陣した。
蛮王・沙摩柯にであう。この戦いで、沙摩柯から矢を受けてしまう。そのまま馬に運ばれ
富池口までくるが、そこの大樹の下で座り込んで亡くなった。