夷陵の戦いの戦いとは -三国志-
時代背景
魏は呉と同盟を結び、関羽を攻撃した。
関羽は呂蒙の策略で捕まり、呉への降伏を拒否し
首を刎ねられた。
この話を知った劉備は呉への復讐戦をしようとしたが
趙雲や諸葛亮の諌めで思いとどまっていた。
そんなおり、張飛は劉備に関羽の復讐戦をすると言う。
劉備も再び復讐戦をこころにきめた。張飛は部下に喪服を
三日で用意するように言ったため、部下は張飛の就寝を襲った。
部下は呉へと逃亡し、劉備は呉への復讐心を強めた。
図解・解説
劉備が攻めてくると報を聞いた孫権はあわてて、諸葛瑾を使者として
和睦を申し入れた。怒っている劉備は和睦を聞くはずがありません。
孫権は魏に劉備を攻めるように頼むが、孫権を呉王に命じただけで
援軍は送らなかった。
孫権は孫桓、朱然に出陣を命じた。しかし、関興と張苞の活躍で
孫桓と朱然は夷陵に逃げ込んだ。
孫権はこのことを知り、韓当、周泰ら十万の援軍を出した。
ここでは、黄忠が若い者には負けぬと奮闘する。しかし馬忠の矢が
あたり、関興と張苞に助けられたが、陣に戻ってから亡くなってしまう。
五虎将の三人目を亡くしてしまった。劉備は自ら大軍を率い呉と対峙する。
ここで、病をおして出陣していた呉の甘寧は、沙摩柯の矢で亡くなる。
関興は潘璋をうちとり、青龍偃月刀をとりもどした。
関羽を裏切って呉にいた傅士仁と糜芳は関羽の仇である馬忠の首を持って
蜀へ降伏してきた。しかし劉備は二人を許さず切り刻んで関羽の霊に捧げた。
孫権は劉備の勢いをおそれ張飛の寝首をかいた部下(范彊と張達)を
劉備のもとに送っり、再度和睦を申し込んだ。劉備は呉を許す気はなかった。
孫権は、[門敢]沢が推薦する陸遜を起用した。
陸遜はまだ若い。他の将軍達はこの人選に不満であった。
陸遜は決して出て戦わぬよう命じた。しかし、呉の他の将軍はこの命令に
不満であった。
蜀の陣では馬良が陸遜の才能を見抜き劉備に注意するが、劉備は取り合わない。
陸遜を甘く見ていたのだ。
炎天下、蜀の陣は暑さを避けるため、川沿いに陣を張っていた。
陸遜は動いた。劉備の陣に火を放った。劉備は脱出をはかったが、
呉の兵にとりかこまれた。そこに、諸葛亮の指示できた趙雲の援軍、
諸葛亮の石の八陣図で助かり、劉備は白帝城に逃げ込んだ。