三国時代のいい話・悪い話 -三国志スレ-
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、荒れるもとになります
該当する話題のスレ、もしくは別個の検証スレを立ててお願いします
戦国時代板の戦国ちょっといい・悪い話スレの三国時代版
後漢末~西晋あたりを対象に逸話を紹介していってください
いい話、悪い話で分離するほどでもないと思ったので統一しています
出典は忘れずに書いてください。
範囲は正史はもちろん演義平話などからも可。
ただ近現代作品は雑多すぎるので不可でよろしくお願いします
曹操は若い頃、鷹や犬で狩りをすることを好み放蕩の限りを尽くしていた。
曹操の叔父がそのことを曹嵩に告げていたため、曹操はそれに困っていた。
そこで一計を案じ、その叔父と偶然会うとわざと顔面を歪め麻痺症に罹ったと偽った。
叔父はそれを信じて曹嵩に報告した。
曹嵩は驚いて息子の曹操を呼び出したが、顔はまったくいつもの通りであった。
曹嵩はそのことを問いただすと、
「叔父さんは私のことが気に入らないからでまかせを申しているのです」と答えた。
こうしたことがあった為、その叔父が報告に来ても曹嵩はまるで信じなくなり、
結果として曹操は以前にも増して思い通りに振る舞うことが出来るようになった。
『曹瞞伝』より
華佗に診察してもらったところ、
「貴方の腹の中に寄生虫がおり、内部で腫れ物になっております。なま物が原因です」と言い、
煎じ薬を飲ませると三升(約200g)ほどの虫を吐き出した。
それらはみな頭が赤く蠢いており、吐いた物の半分はまだ生魚の刺身の形を残していた。
陳登の病状はそれで回復したが、華佗は三年後に必ず再発すると警告した。
三年後、はたしてその通りになったが、
その時には華佗はいなかったので陳登も死んでしまった。
(華佗伝)
よくも悪くもない話。分類するなら華佗の技術力のいい話。
韓徳は自身も万夫不当の大斧使いであったが、その四人の息子たちも武芸弓馬に精通していた。
長男・韓瑛(エイ)、二男・韓瑤(ヨウ)、三男・韓瓊(ケイ)、四男・韓琪(キ)の四人である。
第一次北伐で諸葛亮が来寇すると、西涼の大将であった韓徳は西羌八万を連れ夏侯楙の救援に赴いた。
夏侯楙は韓徳を先鋒に任命。韓徳は鳳鳴山へ進軍中に蜀兵と遭遇すると、挨拶代わりにと罵倒する。
敵将・趙雲(70歳)が怒って飛び出してきたので、長男韓瑛が迎撃した。しかし、三合で刺殺。
二男韓瑤はこれを見て刀で応戦するも趙雲の武威に気おされる。
三男韓瓊は方天戟で兄を救援するも、趙雲はまるで動じず。
四男韓琪は兄達の劣勢を見て一対の日月刀を構えて、趙雲を三人で取り囲んだ。
趙雲危うし! と思いきや、僅かの間に韓琪は槍に刺され落馬。
韓徳隊の諸将が救出に出てきたので趙雲は馬を返す。
それを好機と見た韓瓊は弓で三度射るが、すべて槍で払い落されてしまう。
怒った韓瓊が方天戟で打ち掛かろうとするところを、逆に弓を射られ顔面に命中し落馬死。
韓瑤が宝刀で斬りかかると趙雲に素手で生け捕られ敵陣まで拉致&諸葛亮へ引き渡し。
韓徳は四人の息子を瞬く間に亡くしたショックで陣まで逃げ帰ってしまった。
西羌兵も音に聞こえた趙雲の武勇を目の当たりにして誰も戦おうとせず、さんざんに打ち破られてしまう。
その翌日、夏侯楙は負けを取り戻そうと趙雲を討つべく蜀の陣まで兵を進ませる。
趙雲も兵を率いて門まで出てきたので夏侯楙が自ら(!)戦おうとするが、
韓徳が「息子たちの仇をとる!」と言って大斧を構えてまっすぐ趙雲に打ち掛かった。
しかし、やはり三合もしない内に槍で突き殺されて落馬したのだった。
後に趙雲は称賛する鄧芝に
「諸葛亮が俺を老将扱いするのが気に入らないから腹いせにやった(意訳)」と語ったという。
(三國演義・第九十二回 趙子龍力斬五將)
孫権は従弟の孫皎と呂蒙とで右軍、左軍の総司令官としようとした。
その布告を聞くと呂蒙は反対して述べた。
「もし孫皎さまが優れるとお考えなら孫皎さまを総司令官に、私の方が優れるとお考えなら
私を司令官にしてください。なぜかと言いますと以前、赤壁直後の江陵攻めでは周瑜と程普が
左右の司令官となり最終的には周瑜がことを決定しました。
しかし、程普は宿将の自負があり、地位も等しいということで両者の関係が上手くいかず、
危うく大事になりかけるということがございました。
この近年の事例をもって、戒めとしていただきたく存じます」
そこで孫権は呂蒙に陳謝し、呂蒙を司令官に、孫皎を後詰にした。
(孫皎伝より)
江陵攻め、実はけっこう指揮系統がgdgdだったという悪い話。
自分の腸が飛び出して呉の西門に巻きつく夢を見た。
これを不安に思った母は隣のおばさんにこのことを話した。
隣のおばさんは「それは吉兆かもしれないわ」と言った。
(呉書)
おばさんは夢占いに精通していたのか
それとも適当に言ったのかわからないがなんとなく良い話。
これを憂えた董卓の要請を受け、呂布勧誘の任を買って出たのは呂布と同郷の李粛だった。
李粛は早速贈り物を用意して呂布の陣に赴くと「弟よ、元気にしていたか」と親しげに声をかけた。
呂布「久々ですが今はどこで何を?」
李粛「今は虎賁中郎将だ。お前も官軍で働いていると聞いて土産を持ってきた。
「赤兎」という千里の名馬だ。これをお前の戦働きに役立ててやってくれ」
呂布はさっそく赤兎を見てみると、巨大な全身は熾火の如く赤く、いななきは天に昇るほどであった。
呂布は一目で気に入り、どうお礼をしたものかと尋ねると李粛は気にするなと断った。
その後は酒宴となり雑談していたが、丁原の話題となると呂布は顔を曇らせた。
呂布「丁原殿のもとにいると思うように出歩くこともできないのです」
李粛「お前の才は天下の衆がうらやむほどのものだ。なぜそんな奴の下で小さくなっているのだ!」
呂布「名君に出会えぬのです」
李粛「いま天下を見渡してみれば董卓さまこそその人だ。実は赤兎や他の贈り物も董卓さまからのものなのだ」
呂布「董卓さまにそれほど目をかけられていたとは! しかしどう報いればよいでしょうか?」
李粛「ちょうどいい方法があるが、しかしお前に出来るかどうか…」
呂布はしばらく考えていたがやがて「丁原の首を取り、軍勢を連れてくるというのはどうです?」と聞いた。
李粛「もしそれが出来ればこの上ない手柄だ! ただやるならすぐやるべきだ」
呂布は翌日決行すると約束し、李粛はそこで辞去した。
翌日の二更(21~22時)に呂布は書見をしていた丁原の幕舎に赴くと、一刀のもとに首を刎ねた。
そして、周囲の兵士に大声で叫んだ。
呂布「丁原は不仁ゆえに俺が斬った! 俺に従う者は残り、それ以外は去れ!」
その結果、士卒の大半は逃げ散った。
次の日、丁原の首を携え李粛の仲介で董卓のもとに訪れた。董卓は大いに喜び酒でもてなした。
董卓「将軍の行いはわしにとって乾地に慈雨が降ったかのようだ!」
呂布「董卓さまがお見捨てなければ、義理の父と仰ぎ仕えたく存じます」
董卓は褒美に黄金の鎧、錦の直垂を与え、以後董卓の権勢はいよいよ増していったのだった。
(議温明董卓叱丁原 餽金珠李肅説呂布より)
メジャーなエピソードから一つ。
李粛の知恵が輝いた(たぶん唯一の)瞬間のいい話。
老いた母を連れて呉に避難していた。
ときに曹休の祖父は元の呉郡太守であり、その肖像画が太守の官舎に掛けられていた。
曹休はそれを見ると長椅子から降り、拝礼して涙を流した。
同席していたものは皆感心したという。
(曹休伝、魏書)
曹休のちょっといい話。
いかにも儒教的でピンとこないけどなw
時は移り黄初四年(223年)になると、華歆の推挙によって文帝(曹丕)に招かれたため帰還した。
ところで、管寧は帰還してからは常に一台の木の寝椅子に座っていた。
それから50年以上経過したが一度もあぐらをかいたことが無かったため、
その寝椅子の膝にあたる場所はすべて穴が開いていたそうだ。
(管寧伝、高士伝)
しかし、建安十三年(208年)の劉表病死から長坂橋の戦いに続く動乱によって、
龐林は劉備側に、習氏は魏側にと離れ離れになってしまった。
それからというもの習氏は幼い娘を一人で養育していた。
ところが、黄初三年(222年)の夷陵の戦いで魏に降伏した黄権の部隊に龐林がいたため
夫婦は十数年の長い年月を経てやっと再会することが出来た。
曹丕はこれを聞いて習氏を賢婦だと思い、寝台、帳、衣服を下賜しその節義を顕彰した。
(襄陽記)
曹丕ってのがまた良いねw
人間的にアレなイメージの強い人だが当然善良な面も持ち合わせていただろうから
本当かな?
時の皇帝が下々の話に耳を傾ける
のか?
と思ってしまう
時期的にも気分が良くて気前も良かったんだろうな。
後に劉備が益州を治めると、龐統、法正らに評価され、劉備の信任を得て治中従事に抜擢された。
しかし、一囚人からの大抜擢ということで彭羕はしだいに驕り、それが態度に現れるようになった。
そのため、劉備は諸葛亮の進言や実際に観察してみた結果から、彭羕を江陽太守に左遷した。
彭羕は左遷の通達を内心面白くなく思いながら馬超のところに出かけた。
馬超は「貴方は才もあり主の信任厚く、孔明、孝直(法正)と共に活躍すると思っていたが、
いま、小郡の太守となるのは本意ではないのではないか?」と言うと、
彭羕は「あの老いぼれ(劉備のこと)では話にならん……君が外を受け持ち、私が内を受け持てば
天下は思いのままなんだがなぁ」と答えた。
馬超は自身が帰順者でいつも危機感を持っていたことから、大いに驚きそれには黙して答えなかった。
そして、彭羕が帰ると詳しくその言葉を上奏した。結果、彭羕は逮捕され役人に引き渡された。
(彭羕伝より)
彭羕の話というより、蜀での馬超は肩身の狭い思いをしてたっぽい話。
白獺はきれいで美しく可憐、人が来るのを見ると去っていった。
帝は再びこれを見ようと欲したが終に得られなかった。
そこで侍中の徐景山が進み出て
「獺は鯔魚が大好きで、これを捉えるためには死をも避けないと聞きます」といい、
板に2匹の鯔魚を描き岸に立て掛けた。
するとこれに獺の群れが競って赴いたので、遂に一時に執らえ得た。
帝嘉んで曰く「卿が絵を描くとは知らなかった。なんと妙技なことか」
徐景山答えて曰く「絵を描くのは初めてです。他の人がやっても同じように出来るでしょう」
帝曰く「これは長所をよく用いるということだ」
(太平御覽が引く続斉諧記)
曹叡と徐バクのちょっといい話のようなそうでもないような
鯔魚=ボラ
漢字難しくてググってしまった。
後の大儒・鄭玄と共に、扶風の馬融のもとで勉学に励んでいた。
ちなみにこの馬融という人物は学識抜群で数千の弟子が集まるほどであった。
ただ、外戚の豪族出身ということもあってか儒者にありがちな真面目さはなく、
女人を並べて歌舞させながら講義を行うほどであった。
しかし、盧植は数年馬融に師事したがその間に一度も歌妓の方を振り返ることはなく、
それをもって馬融は盧植を敬ったという。
(後漢書・盧植伝)
しかし、郤倹が州に課した税はでたらめで、その悪評は遠方まで広がった。
そしてついには霊帝の耳にも入り、かねてから州牧設置を希望していた劉焉を召して言った。
「前刺史の劉雋、郤倹らは貪欲で道理に背き、賄賂を受け取るなど無茶苦茶であった。
民草は頼れる者がおらず、怨嗟の声は野に満ちている。劉焉よ、益州に就任したらただちに
逮捕して万民に示せ。この事を漏らして災難を招くなよ」
劉焉は郤倹の罪を調査するべく益州へ向かったが、道が通じていなかったために荊州にとどまった。
一方そのころ益州では、馬相と趙祗という人物が黄巾と号して緜竹で蜂起した。
これに役務で疲弊した民衆が加わり数千の軍勢となった。
馬相らは緜竹県の県令を殺し、一万余に膨れ上がると雒県を落とし、ついには郤倹も殺害した。
その後も蜀郡方面まで陥落させたが、結局は益州従事・賈龍の活躍で乱は収まった。
(劉焉伝、漢霊帝紀より)
郤倹の自業自得だけどいろいろ詰んでた話。
祖母の葬儀のために東城(寿春あたり)へ帰郷し、孫策の死もあってかその地に留まっていた。
そこへ友人の劉曄から、
「乱世にこそ貴方の才は活かせるものであって、東城で無為に過ごすべきではありません。
お母上をお迎えして巣湖(合肥あたり)を拠点とする鄭宝と合流してはいかがでしょうか。
彼の土地は肥沃で一万余の衆を擁してさらに増加するでしょう。急ぐべきです」といった手紙が届いた。
魯粛は返書でこの計画への賛成を知らせ、曲阿で準備を整えると北へ出発しようとした。
ちょうどその時に周瑜が魯粛の母を連れて来たため、周瑜に詳しい事情を話した。
周瑜は「後漢の馬援は、主君だけでなく臣下も主君を選ぶと申しました。いま我が主君(孫権)は賢者を
尊敬し、才ある者を任用しています。また、先人の説によると劉氏を継ぐ者は東南の地から
出るとか。今情勢を占うにまさに呉の地こそそれに当たります。これぞ志ある者が龍や鳳凰を
支え活躍する好機というものです。どうか劉曄の言葉を意に介されませんように」と言った。
魯粛はその言に従った。一方で周瑜は孫権に言葉を尽くして魯粛を推薦したのだった。
(魯粛伝より)
わりと説得に弱い(?)魯粛の話。
光武帝に連なる皇族の劉曄は、魯粛の説得には失敗したものの自身は鄭宝のもとにいた。
その鄭宝は長江の南へ移動することを計画し、その首謀者に家柄の良い名士の劉曄を据えようとした。
劉曄は心中そのことを心配したが、身動きが取れずどうにもならずにいた。
一方その頃の曹操は袁氏と覇を競っていたが、揚州を調査すべく使者を派遣していた。
劉曄は渡りに船とその使者に会いにゆき、詳しく情勢を説きつつ無理にでも帰還の供になろうとした。
そうして数日間、滞在している間に鄭宝自身が手勢を連れて使者へ挨拶に出向いてきた。
劉曄は手勢を門の外でもてなすと、鄭宝とは中で酒を酌み交わした。
突然の来訪であったが、劉曄はこの時すでに鄭宝暗殺を決意しており、
息のかかった若者を使って鄭宝が酔ったところを斬ろうとした。
が、鄭宝は生来酒の味が苦手で全然酔わず、酌をしていた若者もなかなか行動を起こせなかった。
そのため劉曄は自分の佩刀でもって鄭宝を斬り殺し、その首を門外の手勢に示して言った。
「曹公よりのご命令である。逆らえば鄭宝と同罪だ!」恐れおののいた手勢は陣地に逃げ帰った。
鄭宝の陣地では部将や数千の兵が健在であったが、彼らの混乱を恐れた劉曄は鄭宝の馬で陣へ行き
おもだった者たちを集めて利害を説くと彼らは服従し、劉曄を主君と押し立てた。
劉曄は彼らが略奪を好むことと漢朝の衰退をかんがみて、配下を全員盧江太守の劉勲に譲ったのだった。
(劉曄伝より)
劉曄の、策の失敗は腕力で取り戻せばいいじゃん、という話。
魯粛伝では孫策死後に劉曄からの手紙が来たことになっている
でも、劉曄伝では劉勲へ帰属した時点でもまだ孫策生きてるんだよね。
時系列に矛盾があるのは百歩譲っていいとしても
陳寿と裴松之のどっちでもいいから本伝の記述の矛盾箇所には指摘があってほしかったな。
曹操は龐統から連環の計を進言され船酔いの心配もなくなり安心しきっていた。
諸将を集めた酒宴でも大いに酔い、一本の槊(槍みたいなもの)を取ると即興で賦(ふ)を吟じた。
いい気分で歌い終わったのだが、座から一人進み出てくる者がおり
「丞相はなぜ決戦間近のこの時に不吉な賦を歌うのか」と言った。見ると揚州刺史の劉馥である。
曹操がなぜ不吉なのかと問うと、劉馥は賦の後半部分の
「月は明らかに星まれなり 烏鵲南へ飛ぶ 樹をめぐること三匝(そう) 枝の依るべきなし」
(南へ向かった軍は寄る辺がないという意からか)この部分が不吉だと言った。
曹操は激怒し「貴様はわしが敗れると申すか!」と言って劉馥を槊で一突きし殺してしまった。
諸将は驚き恐れ酒宴はお開きとなった。
翌日、曹操は酒が抜けると劉馥を殺したことを大いに後悔し、
劉馥の子の劉熙に泣いて謝り三公の礼で葬らせたのだった。
(第四十八回 宴長江曹操賦詩 鎖戰船北軍用武)
劉禅「やつは〈演義被害者の会〉会員の中でも一番の小物」
曹操「我ら四天王の足元にも及ばぬわ」
呂蒙「いや、殺ったのお前じゃん…」
黄射は以前に禰衡と共に遊び、その際に後漢の学者・蔡邕 (サイヨウ)の作った碑文を読んだことがあった。
その文章を黄射はとても気に入ったのだったが、それを書き写さなかったことを後悔していた。
それを禰衡に話すと
「私は一度見ただけだがそれをよく覚えている。ただ、石碑が欠けて二字のみわからないだけだ」
と言いうと、すぐさまそれを書き出してみせた。
黄射は使いを遣って碑文を写させてきたところ、文は完全に一致したのだった。
(後漢書禰衡伝)
禰衡の貴重な良い話
新帝に擁立することで混乱した世を正そうと計画した。
そこで弟の袁術の協力を得るために使者を立てたが、どういうわけか断られてしまう。
二度目は書簡でもって袁術を説得しようとした。
袁紹の書簡に言う。
「以前韓馥と共に政道を正し、漢室再興を願っておりました。ところが現在は長安に幼帝がおりますが、
皇室と血の繋がりはなく、公卿以下も董卓に従うさまでとうてい信用が置けません。
我々は軍を東に置き、董卓の動きを止め、奴らの自然崩壊を待つべきです。
その一方で我々が徳の高い天子を戴けば太平を期待できます。なぜ悩むことがありますか。
また、家族を殺されていながら仇討ちを考えず、そのまま国家に仕えてよいものでしょうか。
天命に背く事は不吉です。よくよく考えられますよう。」
袁術の返書に言う。
「天子さまは聡明で、周の成王(周朝最盛期の王)ごとき資質をお持ちです。
いま董卓によって百官が圧迫されていますが、これは漢朝にとって小難に過ぎません。
それなのに今の混乱に飽き足らず、天子を替えることで更なる混乱を産もうというのですか。
また、いまの天子は皇室の血を継いでいないとは、これが誹謗でなくてなんでしょうか。
我が袁家は代々忠義を第一に考えてきました。
叔父の大傅・袁隗は、董卓から逃げることも可能だったのにも関わらず信義に殉じました。
一門は破滅しかけましたが遠近から救援が駆けつけてくれました。この機会に逆賊を討伐し、
家の恥辱を拭わないまま天子の廃立を計画することは承服しかねます。
また、『家族を殺されていながら~』と言いますがこれはまさに董卓の仕業であって
国家がなされたことでしょうか。天子の主命は天命であり復讐の仕様がありませんが
これは主命ですらないのですぞ!
私は心からの誠意でもって董卓を滅ぼすことのみを目的とし他の事には関与しません。」
(袁術伝引用の呉書より)
まだ険悪関係でなかったころの袁兄弟の話。
殉死者として埋葬された女が、生きた姿を保ったまま墓で見つかった。
その女は数日後に息を吹き返し、数か月後には話が出来るまで回復した。
年は二十ぐらいで、珍しがられ都に送られたところ郭太后(曹丕の皇后)に寵愛され養われた。
それから十年がたち太后が亡くなると、この女は悲観にくれ慟哭し一年余りで亡くなった。
(三國志 明帝紀が引く『啓蒙注』より)
各地を転々とする劉備に最初から最後まで付き従った古参中の古参である。
簡雍は劉備の話し相手や使者の役をこなし、
とくに益州攻めで劉璋に降伏を決断させたのは彼の功績であった。
そんな簡雍の人となりというと、のびのびとした態度で素晴らしい論を披露する一方で、
性格は傲慢で無頓着、劉備が来ても足を投げ出しだらしのない恰好で直しもしなかった。
相手が諸葛亮以下となると長椅子に寝そべって占領し、他者を気遣うことなど無かった。
(三國志 簡雍伝)
「職務にたずさわる者は、人々の意見を参考に主君の利益を上げるべきである。
もし不満から人を遠ざけたり、批判者の意見を取り合わず再検討しなかったりすれば、仕事を誤り損失を生むだろう。
異なる意見を検討し適切な施策を行うことが出来れば、それは破れ草履を捨てて珠玉を得ることと同じである。
そうはいっても、人というものはすべてに気を配ることはなかなかできないものだ。
ただ徐庶だけは人に意見を求めるのに迷いはなかったし、
董和は仕事上の不十分な点はなんども検討を重ね相談に来たものだった。
かりにも徐庶の十分の一の謙虚さと董和の充分に検討する態度を心掛け、
国家に忠誠をつくせれば私も過失を少なくすることが出来るだろうに。」
さらに言った。
「私は昔、崔州平と付き合いしばしば欠点を指摘された。後に徐庶にはいくつもの教示を与えられた。
董和と仕事をしたときはいつも意見を遠慮せず言ってくれたし、胡済はたびたび諫言して間違いを正してくれた。
私は暗愚で彼らの言のすべてを受け入れることはできなかったが、彼ら四人とは終始気があった。
これもやはり彼らの直言をためらわない態度を証明するものである。」
(三國志 董和伝)
諸葛亮のおことば。半分は追慕。
婚姻の儀が終わり娘のいる部屋へ入ると、まず言った。
「嫁殿は醜い容姿をしている。諸葛誕殿とは似ても似つかないな!」
婦人は答えていった。
「貴方こそ王凌様の面影も見えませんのに、よくも女人を英傑と比べられますね!」
(『世説新語』《賢媛》より)
どっちもどっちな話
王済がかつて一匹の馬に乗った時、その馬は連銭模様の泥除けを掛けていた。
その馬で川の前まで来たところ、いっこうに渡ることが無かった。
王済は「この馬は泥除けが汚れるのを嫌っているのだ」と言って
泥除けを馬から外すとすんなり川を渡った。
(『世説新語』《術解》より)
学識豊か、品行方正であったため孝廉に推挙され
済南郡(平原と北海の間あたり)東平陵県の令となった。
赴任して数年後、母の容体が悪化したため辞職して故郷の東莱に帰ろうとしたところ、
その地の住民や士人が集まり、劉寵の車を押しとどめ道をふさぎ辞任を阻止しようとした。
帰るに帰れなくなった劉寵は宿舎に戻ると
粗末な衣服に着替えてこっそりと身一つで抜け出し、母に孝行した。
(『三國志』劉繇伝が引く『続漢書』より)
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__ ‘!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLです。
ゝン〈(つY_i(つ http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
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1.趙雲
2.黄忠
3.張飛
4.関羽
5.馬超
6.魏延
7.厳顔
8.周倉
9.ピッチャー
原監督のオーダー
1.姜維
2.馬岱
3.趙雲
4.関羽
5.李厳
6.関平
7.王平
8.廖化
9.ピッチャー
医師であり仙人である董奉が、丸薬を一つ与えて士燮に飲ませるようにと言った。
家の者が士燮の口に薬を水と共に含ませ、頭をゆすってそれを飲ませたところ、
しばらくすると目を開き手を動かし、顔色もだんだん回復し半日もすると動けるようになった。
さらに四日後には言葉もしゃべれるまでに回復して、もとの体に戻ったのだった。
(『三國志』士燮伝が引く『神仙伝』より)
天子の為の船の試運転をしていた。
当時、尚書郎であった諸葛誕も同乗していたのだが、
この船が風で転覆、搭乗者はみな河に投げ出された。
近衛兵が船を出し諸葛誕を救おうとしたところ、諸葛誕は「杜侯を先に!」と言って救助を断った。
彼は運よく岸まで流れ着き、気を失っていたがやがて息を吹き返した。
なお杜畿は溺れ死んだ。
(『魏氏春秋』より)
「諸葛亮は大軍を率いて隙をみて裏切ろうとしていた節があります。
彼の死は皇室御一家にとって禍が去り安泰になった証拠であります。
これは国中で祝賀すべきことで、葬儀をすべきことではありません」と述べた。
激怒した劉禅は彼を即座に処刑したとある。
(『華陽国志』『広漢士女』より)
阿斗様の数少ない良い話やね
関羽や諸葛亮よりかなり早く神になっている。
ただ、後世は関羽らが高位の神になるにつれ何時の間にか劉備は神でなくなって只の過去の皇帝の一人に過ぎなくなり
曹操は地獄に堕ちて散々獄卒に責められる立場に転落する。
黄巾の乱がおこると褚燕は若者を集め盗賊団を作って各地を荒らしまわり、しばらくするとその勢力は一万人ほどにもなっていた。
同じころ冀州博陵郡出身の張牛角という者も盗賊団を率いていたが、これが褚燕の集団と合流した。
褚燕は張牛角を頭目に推し立てると、鉅鹿郡の癭陶(エイトウ)県を共に攻撃した。
しかし、この時の戦闘で矢が当たり張牛角が瀕死の重傷となる。
このとき張牛角は「必ず褚燕を次の頭目にせよ」と言って息を引き取った。
盗賊団は遺言通り褚燕を頭目に引き立てると、褚燕は姓を「張」と改め「張燕」と名乗るようになった。
(『三國志』張燕伝より)
秦邵は快く曹操を受け入れ家で匿ったが、賊の方も曹操を追って秦家に辿り着いた。
賊らが「曹操を出せ!」と迫ると、秦邵は「私が曹操だ」と偽って言ったため賊に殺害された。
曹操は九死に一生を得ると、秦邵の功を想って遺児を親族として引き取って養育した。
その遺児とは曹真のことである。
(『三國志』曹真伝が引く『魏略』より)
父の功から曹操に取り立てられたが、曹丕の側につけられた際に清廉公正な性格が災いして曹丕から恨まれることが多々あった。
曹操死後、曹丕が帝位につくと侍中として側に仕え、たびたび軍事と農業の重要性を説き、建設と狩猟は後回しにすることを言上した。
しかし、曹丕は狩猟に出かけようとしたので御車を押し止めて上奏した。
「古代の聖君主たちは考の規範を示して天下を治めたとか。今、帝の美徳は過去の君主に劣るものではありません。
私が希望いたしますのは前代の業績を継承し、模範を後々まで示すことでございます。それなのに服喪の期間中に狩猟に出かけるとはどういうことでしょうか。
私は死を賭して申し上げます。どうか御再考くださいますように。」と。
曹丕は上奏文を受け取ると、自分の手でそれを引き裂いて狩猟に向かってしまった。
文帝一行が狩場に向かう途中で休憩しているときに、曹丕は側仕えの臣下に「狩猟は音楽と比べてどうか。」と聞いた。
侍中の劉曄は「狩猟は音楽以上です。」と答えた。鮑勛は反論して言った。
「そもそも音楽というものは、上は神明に通じ下は人道を和し、政治の隆盛、教化の完成、また国を善く治める効果があります。
一方で狩猟は、御車を原野にさらし生物育成の道義を傷つけ、風雨の中に身を置きます。そうして時を忘れればどうでしょうか?こういったことは『春秋』で孔子も非難しています。
陛下は狩猟に励んでおられますが、愚かなる私はそれを希望いたしません。」と。また、「劉曄は佞言をなし不忠です。陛下がうっかり言われた戯れの言葉に追従しております。いにしえの梁丘拠の如き者と言えます。役人に罪を問わせ皇廟を清めるべきと存じます。」
曹丕は上奏を受けると腹を立てて帰還し、鮑勛を右中郎將に異動させ遠ざけた。
(『三國志』鮑勛伝)
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆