震災を伝えるラップ「あの日、アチェで 」
この動画をアップした翌日、アチェでまた大きな地震が起こり、多くの方が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。
海を越えて、伝えつづける「あの日」
若者の声や戦争体験、労働者や仮設住宅からの叫びなど、さまざまな「表現者」をフィーチャリングしてメッセージ性の高いラップを作りつづけているラップ⭐︎インクルージョン↓だが、その活動は「震災を伝える」ことから始まった。
2011年の東日本大震災からいまだ復興途上にある東北と、2004年のスマトラ沖地震による津波で壊滅的な被害を受けたものの、今では復興をなしとげたインドネシア・アチェ。このふたつを結ぶNPO法人地球対話ラボによる被災地間交流事業でアチェを訪れたラップ★インクルージョン↓の門脇篤は、現地の若者たちと交流する中でその震災体験を聞き、これまで東北のこどもたちと作ってきたラップ「あの日」と同じトラックを使って12年前の「あの日」を浮かび上がらせる。それは国や言葉を越えて共有できる、共有していかなければならない普遍的なメッセージだ。
ラップ★インクルージョン↓
ラップ★インクルージョン↓は、現代アーティスト門脇篤が、さまざまな「表現者」を発掘・フィーチャリングしていくコミュニティアート・プロジェクトである。
震災の翌年2012年1月に、その後「ラッパーKOSUKE」そして石巻の大学生となる当時高校生のコースケと、なんとなく始めたラップだったが、クリエイティブ・ディレクターに岡田智博氏を迎え、平成24年度内閣府起業支援金を得て、iPhoneアプリ「Garage Band」での制作から制作環境をレベルアップするとともに、東日本大震災後の多様な表現を発信していくアート・レーベル「STARTohoku」を設立。クリプトン・フーチャー・メディアの支援を受けてのネット配信や、CD制作のほか、各種ステージへの出演も精力的に行っている。
2016年2月に発表した仙台の復興住宅に住む88歳TATSUKO⭐︎88との「俺の人生」はYouTubeで再生12万回を突破。石巻のこどもたちや仙台の障がい者福祉事業所に通う表現者たち、インドネシア・アチェの若者たちなど、ますますそのフィーチャリングの領域を拡大しながら活動中。
2016年12月26日、フルアルバム4作目となる「Rap Inclusion 04」を配信限定でリリース予定。
http://startohoku.net
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「あの日、アチェで」
words by Isnan, Safrian, Raudah & Rap Inclusion
music by Rap Inclusion & Makoto Miyazawa(guitar)
小6の時に震災が起きた
朝早く起きてテレビを見てた
日曜の朝は日本のアニメ
プラモデルの車が出てくる番組
突然大きく家中ゆれた
お母さんにあわてて「これ何?」って聞くと
お母さんもあわてて「地震よ!」ってこたえた。
それからみんなで家の外に出た
近所の人たちと話していると
「トルネード!」って叫びながら走って来る声
ココナツ林が大きく揺れた
トルネードじゃなくてそれ津波だった
みんな散り散りになって逃げ出した
建物なぎ倒され 流されていった
両親とはぐれて泣き叫ぶこども
世界の終わりが来たんだって思った
みるみる瓦礫が迫ってきて
あっという間に津波にのまれた
目の前に流れて来た1台のトラック
みんながぼくをひきあげてくれた
でもそのトラックも津波で横転
夢中で何かにつかまったけど
背中にしがみつかれて浮いたり沈んだり
やっとの思いで助かることができた
それからいろんな支援が届いて
ぼくらのまちは復興していった
あれからもうすぐ12年がたつ
小学生だったぼくも大人になった
ぼくがトラウマかかえずにすんだのは
いつでも誰かが気にかけてくれたから
ひとりにしないよう気をくばってくれた
今のぼくがあるのはそのおかげだって思う
高1のときに震災が起きた
ベッドにいるとき大きくゆれた
驚いて跳ね起きて外へ逃げると
地面が波打っているのが見えた
おさまって家族でリビングに集まると
父が大きな地震の後には
津波が来たって日本の話を
覚えていて高いとこへ逃げようとっ言った
すると「水が来る」って叫ぶ声が聞こえた
うちの屋根にみんなで上ろうとしたけど
お母さんが上れなくて近所の2階へ
マンゴーの木をよじのぼって逃げた
上り切るとすぐに津波が押し寄せてきた
水に飲み込まれ助けてと叫ぶ人たちの姿や流されていく家々
地震は何度も起こりそのたび津波押し寄せた
水が引いて家に戻ると
津波でいろいろなものが中に流れ込んでいたけれど
母が準備していた朝ごはんはテーブルの上で流されずにそのまま残っていた
家族みんなでそれを食べることにした
近所を回るとたくさんの遺体があった
みんなで協力してそれを一番近いモスクに運びその晩は家で寝ることにした
それから7年の歳月が過ぎ
日本でもあの時のような大きな地震が起こった
東日本大震災の報道を見ていて
アチェとの報道で気づいたことがある
アチェでは犠牲者の声拾うようなものが多かったけれど
日本の報道では家々が流される映像ばかり
被災者の声はあまり聞かなかったと思う
小6のときに震災が起きた
内陸に住んでいるわたしの村でも
あの朝何もかもが大きくゆれた
わたしの家は大丈夫だった
日曜にはいつもバンダ・アチェまで行って
グランド・モスクでコーランの勉強会
楽しみにしてたから本当はあの日
わたしも津波にあってたかもしれない
でもあの日たまたまお母さんが手伝い
あるからわたしに行くなって言って
わたしはいやだったけどそれにしたがって
あの恐ろしい津波をのがれた
よく知っている場所が変わりはててしまった
津波に巻き込まれた親戚がいた
いろんなところから支援が届いて
わたしのまちは復興していった
友達ができるたび津波のこと聞かれたけど
聞かれないかぎり自分からは話さなかった
東日本大震災の知らせを聞いて
日本の人たちもわたしたちがあのとき
味わった苦しみを味わっているのが
わかるからとても辛い気持ちになった
それから日本と交流するようになって
今年日本に行くことができた
津波で大きな被害があって
人口が半分に減った島に泊まった
震災のことを伝える取り組みで
わたしの体験をみんなに聞かせた
言葉も宗教も食べ物も違う国で
みんな熱心に話聞いてくれた
あのときの体験を伝えなければ
歴史として残していかなければ
津波で奪われた尊い命
地震で失ったかけがえない命
それが何の価値もなくなってしまう
また同じことが繰り返されてしまう
インドネシアと日本 わたしたちはともに
おんなじ経験したものとして
未来へ メッセージ送りつづけていこう
未来との対話 つづけていこう