【太平洋戦争 なぜ、負けた?】 ② インパール・コヒマの戦い
インパール作戦は不要だった戦いで、それだけにとどまらず、急速なビルマ防衛の崩壊をもたらしたとも言われているが・・・・・。
なぜ、日本帝国陸軍は遥かに遠いミャンマー(1989年よりの国名。大戦当時の国名はビルマ。首都の名もラングーン、ヤンゴン、ネピドーと変わっている)にまで兵を進めたのであろうか、と言う「そもそも論」から始める必要があるだろう。
公的には、「援蔣ルート」と呼ばれる中国への補給路を止めるためということになっているが、それより大きな理由として、開戦から数ヶ月経ち帝国陸軍400万人の戦う場所がないという不満が帝国陸軍上層部にあったからである。
中国戦線を除けば、マレー、フィリピン等で戦ってはいたが、当事にあっては兵力に余裕があり過ぎ、これがミャンマーへの大量派兵に繋がっていった。
昭和17(1940)年5月に第15軍がミャンマー全土を占領する直前の3月、「ビルマ(ミャンマー)方面軍」が新設され、第15軍司令官に牟田口中将が昇任した。
彼が軍司令官になって、3個師団の兵力で日本本土の3倍にわたるミャンマーの防衛の責任を負わされてみると、今後予想される連合国軍の反攻を阻止するためには、単なる専守防衛では成り立たず、進んで敵反攻の根拠地を覆滅する攻勢作戦が望ましいと、考えるようになった。
このインパール作戦における日本帝国陸軍の人的損失は、いまだに正確な数が判明していない。一応の推計としては戦死2万人以上、戦傷、戦病死を合わせた損耗率は70~80%前後と推定されているので、人的損害は4万人前後といえよう。なおイギリス・インド軍の損害も、イギリス第14軍司令官・スリム中将によると死者約1万5千人、負傷者約2万5千人にのぼり、決して軽微なものではなっかった。
スリム中将は「日本軍の欠陥は ・・・ 作戦計画が仮に誤っていた場合に、これを直ちに立て直す心構えが全くなかった。」と、正確に指摘している。
牟田口中将はミャンマー防衛のための攻勢防衛の手段としてのインパール占領という、本来の作戦目標を見失って、インパールという一地点の占領を至上目標にすり替えてしまっていたのであった。