【太平洋戦争 なぜ、負けた?】 ③ レイテ・ルソンの戦い
この戦いこそ、日本帝国陸海軍が総力を結集し、アメリカ軍と雌雄を決するために選んだ、最後の決戦だった。
昭和19(1944)年に入ると、帝国陸軍は実に40万人という膨大な兵力をフィリピンに送り込み、又、マレーの虎こと山下奉文帝国陸軍大将を着任させ、防衛の強い意思を示した。
おおざっぱに数えれば、ルソン島に25万人、レイテ島に10万人、その他の島には分散して5万人といった配備がなされた。
首都の存在するルソン島が重要なことは解かるが、なぜ、この国では中くらいの面積しかないレイテ島に多くの兵力が送り込まれたのかは、軍事の素人の私には理由がはっきりしない。
(しかし、アメリカ軍の反攻も最初からレイテ島に対して行われ、両方の側が重要視していた事実がある。)
そして、帝国海軍は当時の連合艦隊の保有する艦艇の8割(動かせる艦艇の全て)に相当する艦艇で迎え撃とうとしていた。
その内訳は、戦艦は「大和」「武蔵」「長門」を含め9隻、空母4隻、重巡13隻、軽巡6隻、駆逐艦31隻、潜水艦12隻にものぼった。
航空機は、陸海軍機計1200機以上がこの作戦のために準備された。
しかしこれに対して、フィリピン島を奪回しようとするアメリカ軍の投入戦力は、軍艦だけで170隻、総兵力は125万人達していた。
最初の上陸は昭和19(1944)年10月20日であったが、戦力に余裕のあるアメリカ軍は、レイテ島の戦いの決着が近いとなると、いよいよルソン島への侵攻を開始し、昭和20(1945)年1月9日に部隊を上陸させた。
最終的にフィリピンでの死傷者数は、日本側はルソン島で20万人、レイテ島で8万人、その他の島々で5万人と言われている。アメリカ軍の戦死者は2万人であった。またフィリピン側では民間人、ゲリラ参加者合わせて18万人と言われている。
日本帝国海軍の戦い
なぜ、砲撃精度は低かったのだろうか。戦前、日本帝国海軍の戦艦の主砲の命中率は、アメリカの戦艦に比べ3倍と言われていた。砲術の専門家として日本帝国海軍内では名の知られていた重巡利根の艦長・黛治夫大佐に至っては、利根の主砲の命中率はアメリカの5倍と豪語していた。
しかし、蓋を開けてみると、
昭和19(1944)年10月25日早朝、栗田艦隊旗艦の大和(戦艦武蔵は既に撃沈されていた)の見張員が敵を発見した。それはアメリカの第7艦隊の護衛空母群の内の3番隊であった。
帝国海軍は戦艦大和、長門を中核とする栗田艦隊、戦艦4隻(戦艦武蔵は既に撃沈されていた)、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦15隻の陣容だった。
対するアメリカ艦隊は、護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻で編成されていた。
アメリカ海軍の護衛空母とは戦時急造型の空母で、基準排水量6730㌧、搭載機は21機、武装は12.7サンチ高射砲2門で、また、護衛駆逐艦とは対潜水艦用に急造された艦で、もともと対水上艦用戦闘は考えられていなかった。
まともな戦闘にならない戦力差であった。
それが、2時間あまりの戦闘(ドタバタ騒動)により、アメリカ駆逐艦の12.7サンチ砲という豆鉄砲と、日本帝国海軍酸素魚雷に比べ射程で5分の1、炸薬量で半分の51.3サンチ魚雷とに、散々に叩かれ、護衛空母1隻、駆逐艦2隻をやっと沈めた代償が、重鳥海、筑摩を失い、熊野、鈴谷を大破されたのである。
原因は、主砲命中率の低さにあった。
モリソン博士の「各艦戦闘詳報」よると、この海戦での栗田艦隊の主砲・副砲の発射弾数は、5千発を超えていた。それで、与えた命中弾数は20発前後であった。
砲術の大家である黛大佐の利根に限って見ても、初弾から100発以上撃ってわずか命中弾は1発という少なさだった。逆に、敵の駆逐艦から3発の命中弾を受けている。20サンチ主砲を持つ利根のほうが、12.7サンチ主砲のアメリカ駆逐艦より、正確かつ遠距離射撃が出来るはずなのに、実戦ではアメリカ海軍の3分の1の命中率であった。
戦艦大和の46サンチ主砲に至っては、約100発発射して1発も命中していない。
命中率わずか0.3%というこの海戦を見直すと、戦艦同士の日米決戦が行われなかったことを、帝国海軍は感謝したほうがよさそうに感じられる。
その後、午後零時30分、栗田艦隊はレイテ湾まで約80kmの地点に進出したが、ここで栗田艦長は反転命令を出し、戦線から離脱し、逃げ帰った。
この海戦の勝敗がもたらす決定的な意義は、早くから日本帝国海軍首脳部によって認識されていた。フィリピンを失えば、連合艦隊を保全していても、意味がなくなると判断し、成算を無視した決死の殴り込み攻撃を立案した。しかし、栗田艦隊は与えられた稀有の機会を捨て、湾口を目の前にして、反転し逃げ帰った。この瞬間に日本帝国海軍の運命は定まり、日本帝国海軍は消滅した、と言っても良いであろう。
栗田健男という男の戦歴
1942年2月15日のマレー沖海戦では、戦わずして戦場から逃げている。
1942年2月27日のスラバヤ沖海戦には、無線が通じなかったとして、戦場には現れなかった。
1942年3月1日のバタビア沖海戦には、2隻の艦船を支援に出したが、彼自身は戦場に現れなかった。
ミッドウェー海戦では、島から遠く離れた位置でモタモタさせ、中止命令が出ると、あわてて避退しようとして、最上と三隅を衝突させてしまい、この男は両艦を置き去りにして、逃げ帰っている。
以後3日間、この男は連合艦隊からの合同命令を無視し、安全な西へと全速で自艦を走らせている。
ガタルカナル島砲撃のときも、逃げ足の速さは変わらなかった。
これらの戦い方から考えると、彼にとって、このレイテ沖海戦ではよく粘ばったともいえる。
しかし、なぜ、この男がここまで前線の指揮官を続けてこれたのか、不思議な気がするが、年功序列の官僚的人事が嫌悪すべき無責任さをもって、進められた結果だったのだろうと思える。