武田信玄について語るスレッド 日本史
必死になって連投を繰り広げておられたご様子ではございますが、
聞かれてる事柄には、おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
前スレ817
まーた必死になって捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
レスアンカーが違っているように思うのですけれどねえ。
>>791って一応貴方の味方側の(貴方ご自身が>>706にありますように、
数々認めてこられましたように、自演なのかもしれないですけれどねえ。)
人のように思われますけれどねえ。
前スレ816
実際に朝は普通の日は私は忙しいですから、昨日の朝は>>795を書いた後に
普通に出かけましたしねえ。
必死になって、
いつも通りに捏造曲解に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
いつも通りに貴方が喚いておられる、
その妄想願望についてのご論証を、具体的に聞かれると
一度もお答えになられる事がお出来になられずに発狂逃亡をなさらずに
なさられる事と、
貴方がいつも通りに発狂逃亡をなさられておられます、
その菅沼なんたら認定は、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という事について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
オープンでも前スレでも前々スレでも、普通にお認めになられておられますので、
こちらとしては色々と考慮をせざるを得ない、という感じでございますかねえ。
とりあえず、携帯とパソコンをはじめとする、複数の端末を同時に活用なさられば、その時点で
複数のIDは成立するわけでございますし、さらに申し上げますと、携帯とかスマホとかは接続しなおすたびに
IDが切り替わるそうなので、単発IDの量産に必死な織田厨さんは活用なさられておられるご様子のようで、
前々スレとかでも、同じような事をして、こちら側から指摘をされて「IDが変わっているだけだ!何が悪い!」
と居直っているレスとかも普通にあるわけでございますしねえ。
さらに申し上げますと、オープンの方でも、荒らしとしてスレへの書き込み禁止処置を必死な織田厨さんが受けて
その端末では書き込みができないはずですのに、すぐにそのスレに、自身をそのご当人だと名乗りながら、
文体も行動もまったく同じで荒らし行為をはじめており、この時点で複数端末による複数ID自演を行っている事はまず確定なわけでございますし、
ご当人もそれを指摘されたら、逆に居直って認めている、という次第なわけでございまして、
このように書くと「オープンのやつなどここには書き込みしていない!」と必死な織田厨さんは喚きだしてきたものではございますが、
前スレ666 前スレ670を読めばわかりますように、普通にオープンにいた必死な織田厨さんがここにいらっしゃる事は明確なわけでございまして、
オープンの時と同様に、ここでも必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演を行われているのは明らか、という事になると思われますし、
現にご当人さんも前々スレでも前スレでも、このスレでも、普通にお認めになられている次第でございますしねえ。
そもそもの問題として、
前スレ627で書かれたレス(IDはM4M2vT9M)に対して、
前スレ635がレスをし(これもいつも通りに必死な織田厨さんの複数端末による複数ID自演のような気がしなくもないわけではございますけれどねえ。)
前スレ636(IDはWvj/vAmq)でその前スレ627に対してのレスに対する応答を、違うIDで必死な織田厨さんがお答えになられている、
という時点で、普通に必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演を行われている、というのは
明らかになっているように思われるのですが、この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
こいつWi-FiでIDが変わること、知らないのかな? 本当に無知で酷すぎる。
いやいやいや、いつもいつも、指摘をされると、そのように必死になって喚かれますけれど、
貴方こと必死な織田厨さんは、このスレのパート2スレで、議論的に苦しくなったら、
口調とIDを変えて、必死にご自身の論旨を擁護して、都合の悪い相手側の論旨を封じようと
躍起になり、こちら側から「もう主張内容とかが、貴方が他人だといってる人ととまったく同じになってますよ。」
的に指摘されたら「IDが変わっているだけだ!何が悪い!」と喚かれておられた、というのが実情でございますのに、
相変わらず、必死になってご自身の所業を糊塗しようと躍起になられなくてよろしいと思う次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>15
いやいやいや、たいていの場合、こちら側が資料の記述などを指摘したり、ご紹介したりしますと、
貴方のような必死な織田厨さんが、
議論的に勝利する事が困難となって、必死に捏造曲解にご狂奔なさられておられる、という次第なわけでございますし、
そもそもの問題として、貴方は必死に「自身は地理に自信!」的に喚かれますが、
越前から美濃への侵攻が地形的に不可能と貴方がわめかれましても、
実際には朝倉家が多数それを行っている事をこちら側が指摘したり、信濃から美濃への侵攻が地形的に不可能!と喚かれましても、
信濃から美濃への侵攻を普通に勝頼とか、秀忠とかやってたり、織田勢が逆侵攻やってたり、という感じでございますしねえ。
むしろ、これで貴方が何をどうやったら、「自身が地理や国語やらに自信!」的にご主張になられると思っておられますのか、
についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>6
いやいやいや、実際には、貴方が都合が悪くて発狂逃亡をなさられたり、
必死に捏造曲解などにご狂奔なされている膨大な事柄などについて、
再提示の方をさせていただいているだけの話でございますしねえ。
とりあえず、聞かれている事柄にはお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>7
実際問題として、朝は普通の日は私は忙しいですから、
書き込みはそこそこにして撤収させていただいている次第なわけでございますしねえ。
現状で必死に議論的に勝利する事が困難になったからといって、
必死になって捏造曲解にご狂奔なさられているのが貴方さまだと思われる次第なのでございますが、
毎日のようにネットに貼りつき続けておられるご様子で、
貴方って本当にネット廃人的な生活をなさられておられるのでございますなあ、と思われる次第なのでございますが、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>8
まーた必死になって捏造曲解やらレッテル貼りにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
そのアスペなんたらだか菅沼なんたらだか、は貴方自身が貴方さまの信長万歳他大名貶め妄想願望論旨にとって都合の悪い史実などを指摘する人々を
誰でも彼でもレッテル貼りするために複数人同一認定してつくられた架空人物レッテルである事は
もうとっくにオープンで明らかになっているように思われる次第でございますし、
そもそもの問題として、貴方自身がもう既にそうレッテル貼りをなさられている人々が膨大になっていて、
貴方ですら整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来になられなくなっている、という事について、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
前スレでしっかりとオープンの話題とかしてたのに、
そのようにいわれましてもねえ、と思いますし、
そもそも貴方こと必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演とか、
他人装いをしておられましたのは、>>14にありますように、
数々の事柄などからして、明らかなように思われます次第でございますしねえ。
>>4
いやいやいや、たいていの場合、こちら側が資料の記述などを指摘したり、ご紹介したりしますと、
貴方のような必死な織田厨さんが、
議論的に勝利する事が困難となって、必死に捏造曲解にご狂奔なさられておられる、という次第なわけでございますし、
そもそもの問題として、貴方は必死に「自身は地理に自信!」的に喚かれますが、
越前から美濃への侵攻が地形的に不可能と貴方がわめかれましても、
実際には朝倉家が多数それを行っている事をこちら側が指摘したり、信濃から美濃への侵攻が地形的に不可能!と喚かれましても、
信濃から美濃への侵攻を普通に勝頼とか、秀忠とかやってたり、織田勢が逆侵攻やってたり、という感じでございますしねえ。
むしろ、これで貴方が何をどうやったら、「自身が地理に自信!」的にご主張になられると思っておられますのか、
についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>5 >>9
いやいやいや、たいていの場合、こちら側が資料の記述などを指摘したり、ご紹介したりしますと、
貴方のような必死な織田厨さんが、
議論的に勝利する事が困難となって、必死に捏造曲解にご狂奔なさられておられる、という次第なわけでございますし、
こちら側としては、貴方が発狂逃亡をなさられたり、貴方がこちら側に聞かれる前に、
前提となる事柄などについても、お答えの方をいただきたい、というだけの話でございますしねえ。
いやいやいや、北条の援軍は2千程、とされておりますし、
普通に二俣城の攻囲の時に北条側の将が死亡しておりまして、
信玄がお悔やみの書状をおくっておりますし、その後も普通に参戦しつづけておりますしねえ。
そういう許容限界は貴方がお決めになられる事ではないと思われますし、
織田も普通にその理窟なら5千くらいで軍勢崩壊とかになりそうに思われますしねえ。
そもそもの問題として、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
前スレ804
いやいやいや、普通に武田勝頼が信濃から岩村経由で美濃に侵攻したり、
後年の織田が岩村経由で信濃に侵攻したり、というのを普通に行っているわけなのでございますが、
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
秀忠の事例も、美濃への侵攻ルートで敵がいないかどうかは、戦略計画を定めた時点は未知数だったわけでございますしねえ。
前スレ805
いやいやいや、追い込まれてとか、そういう事はまったくなく、
普通に>>795を書いた後はお出かけの方をさせていただいておりますしねえ。
現状で必死に議論的に勝利する事が困難になったからといって、 貴方ご自身がお認めになられておられます、
>>14にありますような、複数端末による複数ID自演による多数派装いなどを
必死になって捏造曲解にご狂奔なさられているのが貴方さまだと思われる次第なのでございますが、
毎日のようにネットに貼りつき続けておられるご様子で、
貴方って本当にネット廃人的な生活をなさられておられるのでございますなあ、と思われる次第なのでございますが、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘されておりますように、大内、毛利だけでなく、
島津、上杉謙信、北条早雲、なども普通に長期遠征は行っており、
信玄西上の時だけなぜだか厭戦気分が起きる理由はどこにもないと思われるわけですしねえ。
>>92
それは普通に別人だと思われるわけですしねえ。
貴方が>>14にありますように、複数端末による複数ID自演を行われている事が
明らかになっておられて、それが周知になってきているからといって、
必死になってそれらの御自身のご所業を相手側に押し付けようとしなくてよろしいと
思われるのでございますが、いかがなものでございましょうかねえ。
てめえには聞いてねえんだよ。
同じことしか言えない菅沼猿は黙ってろ!
現実的な観点からいくと、北信の留守居に5000ほど、浜松の抑えに5000ほどは
残すんじゃないかな?念を入れるなら伊那谷にも1000~2000はほしい
(作手方面でも可)。
そうなると武田の最大動員が30000とするなら美濃に行けるのは20000ってところだと思うけど。
兵站の水運利用は盲点だったけど、仮に武田が東濃、中濃を占有すると、
郡上の遠藤領がそのままなら、朝倉は美濃に進攻してもなにも得られるものはない、となる。
朝倉も馬鹿でなければそれくらいはわかるだろうから仮に20000で油坂峠越えて郡上に出ても
冬には帰るだろうし、
それ以前に20000も動員してリスク抱えて油坂峠越えるとは思えない。
現実的には5000くらいは郡上遠藤の支援と鉈尾山城整備の支援で出兵するかも、
あたりではないかと思う。
徳川をの反撃をしのぐ程度なら二俣と長篠に数千ずつ合わせて5000ぐらいと駿河は守備兵ぐらいで十分だと思う
封じ込めて動けないようするだともう少し必要だと思うけど
鉈尾山城は朝倉に付く前提か
そうでもしないと朝倉が郡上に出てもその先に進むのが面倒だから仕方がないが
>>117
郡上から牽制と言うのも遠いような
郡上から美濃平野部への出口付近固められたら朝倉はそれ以上進みにくいし
木曽川沿いって完全に木曽川沿い?
それだと本当に山でしかないし、南側がガラ空きで危険だと思う
>>125
北陸の一向宗は地元でガチで謙信とやりあっているから拘束出来てるんじゃ
史実だとこの時期伊勢の兵力は他に転用されていないみたいだから
伊勢の兵力を牽制していると考えれば十分だろうけど
北陸の一向宗は富樫を潰し、長尾能景を殺し、朝倉宗滴や長尾為景、上杉謙信らとやり合ったから精強なのは確かだと思う。
だが北陸の経験豊富かつ高い戦闘力が長島も同様です、と言えるのかな? 長島は確かに弱くはないが、織田を追い払った二度は守戦によるところが大。というより、あんなデルタ地帯は水軍がないと攻められない。
それと北陸一向宗は野戦で兵力に勝りながら、朝倉宗滴や上杉謙信に負けてるのも少なくない。そのあたりはやはり練度の差もあるのかな?
あと、長島はある意味孤立している。長島が遠征できるだけの兵糧、というか補給はどうやってやっていたのか?
北陸の一向宗と比べると長島一向一揆は練度も実質的な兵力も劣っているから
野戦なんてしたら大変なことになると思う
補給は大坂本願寺からの支援で船でじゃ
伊勢大湊も長島相手に商売してたみたいだし
>>133
>となると伊勢長島をどう使うかしかないけれど。難しいのかな。
史実で織田相手に出来る限りの行動していたはずなのに、碌に討ってでること出来なかったのだから
難しいと思う
73年7月の将軍攻めた時の陣容は近江に配置した面々にもと六角家臣
更には浅井の相手しているはずの秀吉までいるから
美濃で戦う場合でも近江からでも十分に動員出来るってことだろうし
光秀は抑えとして残す必要あるだろうけど
いやいやいや、信玄の書状で、遠藤に対して、
鉈尾に砦を築くように命じている書状がありますので、
wikiはそれを基にしているように思われるのですが、なにをおはしゃぎになられておられるのか、について、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>135
その練度も実質的な兵力も劣る、とはどのような理屈なのでございましょうかねえ。
少なくとも、兵力はともかく、練度に関してはそう悪いものではないように思われますし、
実際に戦果を複数あげているわけでございますしねえ。
何度も言いますけれど、普通に北伊勢豪族衆を従えて、そこから美濃に焼き打ち侵攻を行ったりしてますのに、
信長さまがシミュレーション上で不利になる時だけ、侵攻ができないという理由はどこにもないように思われる次第なのですが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
その、近江の方面から兵力を動員してくるのであれば、浅井とか江北一揆とかによって
北近江方面の守備が突破される可能性が高いように思われるのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>134 >>127
何度も言いますけれど、普通に北伊勢豪族衆を従えて、そこから美濃に焼き打ち侵攻を行ったりしてますのに、
信長さまがシミュレーション上で不利になる時だけ、侵攻ができないという理由はどこにもないように思われる次第なのですが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
むしろ、守りやすいともいえると思うのでございますけれどねえ。
実際に東美濃攻防では見事に武田側が地形を利用して織田を拘束しておりますし、
伊勢長島も水運の活用は得意としているわけでございますしねえ。
信玄の書状で、遠藤に対して、
鉈尾に砦を築くように命じている書状があります次第でございますかねえ。
てめえには聞いてないんだよ。
黙ってろ!
必死になって、
いつも通りに捏造曲解に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
いつも通りに貴方が喚いておられる、
その妄想願望についてのご論証を、具体的に聞かれると
一度もお答えになられる事がお出来になられずに発狂逃亡をなさらずに
なさられる事と、
貴方がいつも通りに発狂逃亡をなさられておられます、
その菅沼なんたら認定は、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という事について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
てめえ何様だ。
なに人に回答求めてるんだ、カスが。
そりゃあ、貴方はこちらに回答を求めてばかりでございますし、
貴方さまが論旨的にも史実的にも不可思議なる事柄をおっしゃられておられるのでございますから、
それについてのお答えの方を求められているだけの話でございますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>153
いやいやいや、そもそもこのスレを立てたのは私でございますし、
特に貴方さまに掣肘されるいわれなどはないように思われる次第でございまして、
普通に書き込みの方をさせていただこうと思う次第でございますかねえ。
>>154 >>155
同じような内容を必死になって4連投もなさられておられるのが貴方さまのように思われる次第でございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
その菅沼なんたら認定について、もう膨大なる設定矛盾を指摘されているのが現状でございますので、
>>149にあるような事柄について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもこのスレを立てたのは私でございますし、
特に貴方さまに掣肘されるいわれなどはないように思われる次第でございまして、
普通に書き込みの方をさせていただこうと思う次第でございますかねえ。
とりあえず、今朝はここら辺で撤収させていただこうかと思う次第でございますかねえ。
あ、やっぱりIDを変えておられる事をお認めになられたようでございますねえ。
この事例も貴方さまのID切り替えによる多数派装いの事例として、
大切に保管させていただきたいと思う次第でございますかねえ。
5月侵攻に関しましては、1572年11月に朝倉にあてた書状と条目において、
信玄の5月侵攻計画が書いてありまして、
朝倉には「5月に御張陣の事。」
「美濃の郡上遠藤に鉈尾の砦を構築するように、朝倉側からも催促を行う事。」
「一向宗門徒を蜂起させる事。特に長島の事は特別に説明する事がある事。」
(実際に長島は何度も指摘されてきましたように、美濃への焼き打ち侵攻とかを行っておりますし、
岐阜から三里の所に拠点も構築していたようなので、この件は長島の北上と複数の学者さんが解釈しておりますかねえ。)
遠藤に対しては信玄の書状で、「来年に美濃に侵攻するので、その後で織田に敵対するように。」
とあり、武田が諸々の要素から、5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻を計画していた事が
明らかなように思われる次第でございますかねえ。
としっかり書いてあるわけなのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いつも通りに必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
学者さんのお名前については、まず貴方さまが発狂逃亡をなさられておられます、
膨大なる事柄について、ご回答になられる事から、お始めになられていただき、
ギブ・アンド・テイクで行きたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>112
何度も指摘しておりますけれど、謙信は当時は信玄以上に忙しくて、
北陸と関東の2方面に敵を抱えての東西奔走を1574年末まで続けていきますのに
無理に北信濃に兵力を残す事にしようとしなくてよろしいと思う次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
徳川も三千程しか、信玄死亡後の長篠再奪取の時にも動員できておりませんので、
5千とか7千も必要だとは思われない次第でございますしねえ。
いや、郡上から進出して制圧した領域は普通に朝倉の領土になるのですし、郡上遠藤を朝倉の国衆にするのもありであると
思われますし、十分利益になると思われますしねえ。
何度も言いますけれど、普通に史実的に何度も行われているのが、越前から美濃への侵攻ですのに
信長さまが不利になる時にだけ行われない理由はどこにもないと思われる次第でございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
必死になって、
いつも通りに捏造曲解に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
いつも通りに貴方が喚いておられる、
その妄想願望についてのご論証を、具体的に聞かれると
一度もお答えになられる事がお出来になられずに発狂逃亡をなさらずに
なさられる事と、
貴方がいつも通りに発狂逃亡をなさられておられます、
その菅沼なんたら認定は、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という事について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、何度も指摘されておりますように、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
その、近江の方面から兵力を動員してくるのであれば、浅井とか江北一揆とかによって
北近江方面の守備が突破される可能性が高いように思われるのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>204
軍鑑の言葉ですねえ。
>>203
いやいやいや、伊勢長島もいるわけでございますしねえ。
そもそも、朝倉義景にしても、今度はさすがに撤収しないと思われるわけでございますしねえ。
志賀陣で和睦詐欺によって騙されている事でもありますしねえ。
>>197
いやいやいや、単に貴方こと>>14にありますように、複数端末による複数ID自演とか、
他人装いをしておられる事が明らかな必死な織田厨さんが
貴方が「その範囲でないと、信長さまが不利になるから嫌じゃあああああああ!」と喚いて
必死に論拠的に乏しいように思われます事柄を喚かれておられます事について、
指摘されたら、必死にそのように喚かれましても、こちらとしましては、しっしょうすらも湧かない、という次第なわけでございますしねえ。
とりあえず、貴方さまは聞かれている数々の事柄について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何で朝倉が2万率いて越前から美濃へ行けるんだよ。北近江の浅井長政の手当や若狭に対する手当を無視してそんなことできるわけないだろ。
朝倉が仮に美濃へ派兵できるとしても1万ちょっとだろ。
朝倉義景はお前がいう和睦詐欺を1570年末から1571年初頭にやられていながら、1572年12月にはその恨みを忘れて恥知らずにも撤退しているんだよ。「武田信玄様が不利になるからいやじゃああ!!」という気持ちはわかるが、もう少し事実をよく考えて発言しろや。
しっしょう(失笑)な。これくらいわからんのか?
江北一揆にそんな力あるなら、1573年8月に何してたの? になるわ。もう江北一揆にそんな力はない。山岡らは織田に降伏したし。
お前がいうryは優秀で熟練した指揮官が必要だが、一向一揆と朝倉にそんな指揮官は当時はいない。それと織田の主力が近くにいる長島や朝倉無視してわざわざ100キロも離れている岩村にまず行くとか絶対あり得ないから。まずはよく考えて発言しろや。
吉田郡山城の戦いの場合は、そもそも住民避難の為に籠城した住民達に協力してもらったわけでございますし、
そういった、住民避難(当然、非戦闘員を多数含んでいるわけでございますしねえ。)の事例まで兵力増強!というのはどうかと思うのでございますけれどねえ。
そもそも、織田は基本的に領国統治は放任主義でございますから、地域との結びつきがそこまで強いとも思われないように
思う次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>226
志賀陣の時は、小木江の後に和睦交渉が始まってしまったわけでございますしねえ。
実際には1572年くらいから伊勢長島は北伊勢豪族衆を傘下にしていき
その領域を美濃に達するまでにしているわけでございますし、
実際には1573年には尾張美濃国境への焼き打ち侵攻を行っており、
別に貴方がおっしゃられる程に伊勢長島は動いていないわけではない、という事になるのではないかと
思う次第なわけなのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>225
若狭の手当はもう既に1573年の3月の段階でやっておりますしねえ。
北近江に関しましても、織田勢主力がこないのであれば、浅井単独で十分に羽柴勢を撃退できるわけでございますしねえ。
実際に羽柴・柴田で夜襲侵攻をしても浅井単独で撃退しておりますしねえ。
ですからあ、普通にその後に本願寺やら信玄やらと打ち合わせを行って、
元々の予定である5月侵攻に備えて、1573年3月には出てきているわけでございますしねえ。
そうやって、言われて悔しかった事柄を必死に鸚鵡返しにされようとなさられましてもねえ、
と思うの次第でございますしねえ。
ただの変換がされなかっただけの話でございますのに、何をそんなにはしゃがれておられるのかと
思う次第でございますしねえ。
実際には浅井は一揆勢と連合して度々戦っているわけでございますしねえ。
何度も言いますけれど、無理にハードルを貴方が無理やりに引き上げようとしているだけの話で、
普通に朝倉浅井も志賀陣で行っておりますし、戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
というだけの話でございますしねえ。
岩村とかにいかないなら、普通に武田勢が東美濃から城を攻略していくだけの話でございますしねえ。
援軍にいかない織田の威信とか信頼とかの減退が必至なように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
まーた必死になっていつも通りに>>14にありますように、複数端末による複数ID自演とか、
他人装いをしておられる事が明らかなご様子の、必死な織田厨さんであらせられる貴方さまが
必死になって捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子のように思われますが、
実際問題として、信濃から美濃への侵攻を、貴方さまがおっしゃられるように、エベレスト級にとらえているような事例は皆無なわけでございますしねえ。
普通に武田勝頼も岩村から美濃へ侵攻し、後年の織田も普通に逆ルートから岩村から信濃へと侵攻しておりますし、
そもそも、侵攻できないのであれば、織田が美濃攻略の最中に武田に攻めてこられないように同盟を申し込む必要性もないわけでございますしねえ。
実際に何度も指摘されておりますように、高天神の時には北陸に抑えを残して2万5千の武田勢相手に勝てるかどうか微妙で、
進むに進めずに城を攻略されてしまうくらいの兵力、で織田は進軍しておりますし、
長篠の時は北陸の抑えまで動員して三万で、その後で織田家オールスターで攻め込んだ時の兵力も三万、と
信長公記に明記されているわけでございますしねえ。
いやいやいや、普通に史実的に事例のある事柄ばかりでお話をさせていただいているわけでございまして、
そのようにおっしゃられるのでございますれば、資料やら史実やらを基にお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
その理窟で言うのでしたら、織田側の羽柴が浅井とかを撃退したのを、
そこまで朝倉浅井の弱体!と喚く根拠はどこにもないように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
ですからあ、その件はこちら側が>>67にあるように逆に説明をして、その相手側の人が沈黙をなさられているご状況でございますので、
異論がおありなのでございましたら、資料やら史実やらを基にしてのお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、実際問題として、>>14にありますように、
貴方こと必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演とか、
他人装いをしておられる事が明らかなわけなのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、実際にブラフとするなら、必要性がないような詳細な打ち合わせとかが行われておりますし、
朝倉は本願寺やら武田とかと12月撤収の後も色々と打ち合わせを行っているように思われますので、
特に問題はないと思われますかねえ。
いやいやいや、いつも通りに捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子でございますが、
貴方がわめかれておられる事柄の資料やら史実やらに基づいた論拠の方をご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も指摘をさせていただいている事なのではございますが、
大阪石山本願寺とかも、畿内天文一揆から数十年ぶりに戦闘を行いましても、
普通に織田勢主力と野戦において野田福島で互角以上にわたりあっておりますのに、
なぜに織田を相手に複数の戦果をあげている伊勢長島が
そんなに問題がありますのか、という話になると思われますのか、について
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
実際に書状などからして、それは明らかなように思われるのでございますが、
その件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、全て貴方が必死に捏造曲解やら、貴方が特に論拠の無い妄想願望を喚かれておられるだけのように
思われる次第でございますので、これらについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
伊勢長島が挙げている戦果は長島に立て籠もった防衛戦やゲリラ戦による焼き討ちによるものです。
野田福島の場合は、あのあたりの川や湿地帯を利用したゲリラ戦による戦果もありますが、長島と違い、紀州雑賀のスナイパーを味方にしていましたので、原田直政とその一党を討ち取ったり、天王寺で信長を負傷させています。
貴方はどうも、こっちができるからあっちもできるに決まってる、みたいな考えがあるみたいですが、風土や地形、指揮官によって兵の練度や強さ、武器は異なりますし、必ずしも同様の強さである、とは限りません。
いやいやいや、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>231
そもそも、武田水軍を組織したのは信玄ですのに、なぜにそのように言われるのか、とも思いますし、
そもそも、信玄が織田と敵対して死亡するまで半年と少し程でしかありませんのに、
そのようなことを言われましてもねえ、と思う次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>228
いやいやいや、野田福島の場合は、普通に正面からぶつかって、織田勢主力を撃退したりしているわけでございまして。
むしろ、畿内本願寺と長島の兵力構成は基本的には同じですのに、なぜに長島が野戦で戦えないのか、
という事について、貴方の断定以外にろくに論拠をお出しになられておられないご様子でございますので、
この件について、資料やら史実を基にしてのご論証の方をいただきたいと思いますので、
ご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
別に書いてもいいですよ。前スレで、貴方こと必死な織田厨さんが、>>14にありますように、複数端末による複数ID自演とか、
他人装いをしておられる事が明らかになったばかりか、男っぽい口調と、女っぽい口調を使い分けてレスしている事も明らかになりましたので、
普通に中の人が女性であらせられる可能性も非常に高くなったと思われる次第でございますしねえ。
>>217
下の人も言っておられますけれど、何について語っておられるのかが、不明瞭なように思われますので、
具体的なご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
今朝はこの辺で撤収させていただきたいと思う次第でございますかねえ。
だったら書かないといけないんじゃない?
オープンで毎日織田厨カス子、織田厨カス子ってあんなに嬉しそうに吠えてたじゃない
それとも自分の気に入らないヤツが全員50手前の閉経クソババアただ一人の自演だという妄想が、自分でも苦しくなってきたのかな?
いやいやいや、資料的にも史実的にも戦略的にも、5月侵攻戦略が十分に行われえて、
それで信長を十分に打ち倒せる、という話ですのに、
特に趣旨替えをする必要性が皆無なように思われますしねえ。
伊勢長島は史実におきましても、普通に北伊勢やら尾張やら美濃やらで活動しておりまして、
信玄の戦略計画でも北上する計画になっておりましたのに、特にしない理由もないように思われますしねえ。
>>252
現状では前スレで、貴方こと必死な織田厨さんが、>>14にありますように、複数端末による複数ID自演とか、
他人装いをしておられる事が明らかになったばかりか、男っぽい口調と、女っぽい口調を使い分けてレスしている事も明らかになりましたので、
普通に中の人が女性であらせられる可能性も非常に高くなったと思われる次第でございますしねえ。
正直な話、かなーり現状でもその実態について、あたっているように思われる事例が多々あるわけでございますし、
もう少し貴方さまこと必死な織田厨さんの動向を分析させていただきたいなあ、と思う次第でございますかねえ。
前スレ、前々スレ、パート2スレなどでかなーり貴方さまこと必死な織田厨さんの複数ID自演などの御手法のデータが蓄積されたように思われる次第でございまして、
もっともっと蓄積と分析を行わせていただきたいとせつにせつに思っている次第なわけでございますしねえ。
まーたいつも通りに必死になって、貴方の論旨的な矛盾を指摘されたら、
必死になって他人装いしながら、必死になってご自身の文章を擁護しようとしなくて
いいと思うのですけれどねえ。
>>14にありますような、複数端末による複数ID自演による多数派装いなどを
必死にあなたこと必死な織田厨さんが行っておられるのは明らかなわけなのでございますしねえ。
こちらは一向宗を弾圧したとかも一言も書いてないのですけれどねえ。
相変わらず、必死に捏造曲解にご狂奔なさられながら、必死になって国語がどうとか喚いておられますけれど、
いつものように、妄想願望で相手側の文章を勝手に捏造曲解して喚きだして、
解釈がおかしい事を指摘されると、必死になって他人装いしながらご自身の御擁護にご狂奔なさられておられるのが
貴方さまなのでございますから、今更そのようにおっしゃられましてもしょうがないように思う次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
いやいやいや、普通にそれらの勢力も普通に共同して広範囲で活動しているわかけでございますしねえ。
特に日根野とかの活動は広範囲にわたっている事が指摘されておりますしねえ。
いやいやいや、普通に長島一向宗が美濃に侵攻して焼き打ちとかをしていたり、
その人員を水運を利用して移動させたりしているわけでございますしねえ。
正直な話、貴方の妄想願望ばかりで、資料やら史実やら、が出されていないように思われますので、
資料やら史実やらをご提示の上でのご論証の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
古文読めない癖に
長島本願寺
長島地名原稱之為「七島」,長島城位於伊勢木曾川木曽川、揖斐川、長良川河口的群島上的自治勢力。群島周圍都是淺灘,蘆葦叢。地勢泥濘複雜,易守難攻。
此區域有眾多本願寺門徒,從尾張国西南部、美濃国南部到伊勢国北部形成一種宗教的自治勢力。
為了加強統治此地區,文亀元年(1501年)本願寺蓮如的六男本願寺蓮淳在杉江之地創建願証寺,組織国人領主階層門徒支配此地域體制、信徒衆約10萬人、石高約10萬石(一説18萬石)。
本願寺蓮淳將願証寺主持之位傳給兒子願証寺証惠。「本願寺」、「願証寺」其實不是姓氏,這些和尚根本沒姓氏,直到日本明治政府規定(除皇室外)每個人都要有姓氏,後世才加上去。
此長島地域的寺領是完全的自治獨立,一向宗強大的勢力連織田氏與齊藤氏,也無法介入。
斎藤龍興從稲葉山城逃亡後,就是逃來此長島安全地帶躲避信長的追殺。
織田信長在尾張統一與美濃攻略、上洛時,都避免與長島一向宗為敵。
古文読めないくせに!とか喚いておられるご様子のように思われますが、
これ、古文、ではなくて、文章の書き方などからして、
中国人の漢文サイトで現代の中国人あたりの人が
長島一向宗の記事をwikiのような感じで書いただけのように思われるのですが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
で、貴方はこの記事でもって何をご主張なさられたいのでございましょうかねえ。
この記事には貴方さまがご主張なさられているような、ご論旨の基になるような情報は
ないように思われる次第でございますし、そもそもこれは1次資料でも2次資料でもなく、
現代中国人さんが、漢文でwikiのような感じで長島一向宗について書かれただけのように
思われる次第なのですが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
それは貴方のような必死な織田厨さんが、>>14にあるような複数端末による複数ID自演を
行って、必死に多数派装いをして喚いておられるだけの話であるように思われますし、
実際には資料的・史実的にこれらについてご否定の方をなさられておられる方はおられず、
必死に貴方のように捏造曲解やら、レッテル貼りやら、にご狂奔なさられておられるだけの御様子の様に思われる次第でございますしねえ。
とりあえず、資料やら史実に基づいてのご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>256
小木江の兵力が200人ほど、っていうのは特に資料的な論拠がないように思われますしねえ。
信長公記にも特に兵力については書いてない次第なわけでございますしねえ。
普通に考慮しますれば、信長の弟で一城を預けられて長島方面の抑えに任じられていたのですから、
それなりの兵力はいたと思われますし、
しかも、この時に滝川の城も長島一向宗は攻めていて、それで滝川が援軍を送る事が出来なかった、
とされておりまして、とても長島一向宗の戦力が低いとは思われない次第でございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>255
>>286でもそうですけれど、貴方が嬉々としてお出しになられておられる、その文章とかですけれど、
どうにも文章の書き方からして、1次資料でも2次資料でもなく、
現代中国人さんが、漢文でwikiのような感じで長島一向宗について書かれただけのように
思われる次第なのですが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
なんでまたIDをお変えになられておられるのでございましょうかねえ?
>>14にありますように、いつも通りの事ではあると思いますが、この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
別にそのような事は書いておりませんけれどねえ。
そもそも、戦死とか離反・敵対で言うのでしたら、織田もその数年間の間で、
包囲網側との戦いで森可成、氏家、坂井、織田九朗、織田信興などなどをはじめとして多数の武将が死亡しており、
離反・敵対した武将の数も多数に及ぶわけでございますしねえ。
ですからあ、その数百人、っていう資料が特に提示されておりませんし、
何度も言いますけれど、長島一向宗は滝川の方も攻めていたわけでございますしねえ。
いや、普通に野戦で戦っているわけなのですしねえ。
大阪の陣の時も野戦戦闘で、城側の必死の奮戦で多数の武将達の死亡が起こったわけでございますしねえ。
そうやって、無理やりに必死になられて曲解して喚かれなくてもよろしいと思うのでございますけれどねえ。
>>321
いやいやいや、甲斐と周防でしたら、距離的にもそれほどの変わりがないように思われますしねえ。
当時の国力的には西上当時の武田の方が上なわけですし、そもそもの問題として、
10年も大内のように京都に滞在するのかどうかも未知の領域なわけでございますしねえ。
そもそもの問題として、武田とかよりも明らかに石高的に劣る勢力が複数、上杉とか北条早雲とかも
普通に長期遠征を行っている事はこれまでにも何度も指摘されているわけでございますしねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>113
朝倉の侵攻が特にそこまで厳しいとも思われない次第でございますし、
そもそも武田・長島と連携しての三方向侵攻戦略なわけでございますしねえ。
代わりに応えてくれてありがとうございますかねえ。
>>367
正直な話、貴方のレスぶりからして、明らかに必死に史実的に不可思議なる事柄を
無理やりにでも押し通そうとして、必死に武田側の兵力を減退させようとしておられる、いつも通りの必死な織田厨さん以外の何物でもないと思われますが、
それで信玄贔屓とかを装われようとなさられましても、こちら側としましては、
失笑すらもわかない、という次第なわけでございますしねえ。
いやいやいや、義龍には信長は道三救援の時も撃退されておりますし、
桶狭間の後も勢いに乗って攻め寄せたら、2度も撃退されたとされておりますしねえ。しかも、なぜだか書いておられないご様子ではございますけれど、
1561年に斉藤義龍が死亡したら、その機会に乗じて、信長は幼君斉藤の美濃に攻め込み、
森部では勝利するものの、14条で敗北し、斉藤勢の追撃を受けて軽海で夜まで戦って
なんとかお引き取り願い、そのまま尾張に撤収する、という流れになっているわけでございますしねえ。
なぜにこれらの流れについて、書いておられないのか、についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
その後も、幼君斉藤の統治下で、斉藤家はクーデター騒ぎまで起こる状況になり、
その状況に乗じて、調略やら侵攻やらを進めていった、というのが信長の美濃制圧における側面としてあるわけでございますし、
その後も、畿内に侵攻する時は、六角は家内抗争によって弱体化しており、
三好も内部抗争でかつての三好政権の時とは異なり分裂・弱体化をされていた状況でございましたしねえ。
上杉謙信とか北条氏康とかの同格や、同格以上の勢力を保有し、一流の戦国大名とされる武将達と戦って
勢力を拡大していった信玄とは、状況が異なると思われますのに、無理やりに条件を同じにしようとし、
しかもそれでご自身を無理やりに信玄贔屓を装われようとなさられる必要性はないように思われるのでございますが、
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>365
確かに、>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます、
必死に相手側の捏造曲解やらレッテル貼りやらにご狂奔なさられておられるご様子でございます、
必死な織田厨さんのご所業には色々と考慮が必要なように思われる次第であると、私も強く思わせていただいている次第でございますかねえ。
はて?何をおっしゃっておられるのかとは思いますが、相変わらず必死になって捏造曲解やらレッテル貼りやらにご狂奔なさられて
おられるご様子ではございますが、
私が昨日にしたレスは>>372から>>375までの4レスだけで、
IDはいずれも同様なように思われますが、貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>376は明らかに貴方こと必死な織田厨さんが、言われて悔しかった事を
必死になって鸚鵡返ししようとして、喚かれながら、
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます、
ご自身の所業を相手側に必死になって押し付けようと躍起になっておられるようにしか思われない次第ではございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
相変わらず、>>14にあるような必死な複数端末によるID切り替え自演にご狂奔なさられながら、誰でも彼でも同一認定する事に躍起になられているご様子ではございますが、完全に別人ですけれどねえ。
実際問題として、信長は戦前までは人格的評価においては低い事が定番でしたし、
高度経済成長時代とかも、
秀吉とか家康とかの方が人気があったとされておりますしねえ。
>>438
何度も言いますが、この時期でも朝倉は織田相手に複数の戦果をあげておりますし、
志賀陣で朝倉浅井に土下座降伏宣言的な朱印状を送っているのは信長の方だと、
何度も指摘しておりますし、この朱印状の内容には近江と美濃の境に兵力を置かない取り決めとかもありまして、近江の南西の端っこにある延暦寺ではどうやったって
近江と美濃の境に兵力を置けない事は何度も指摘しておりますしねえ。
それは貴方の願望であると思われる次第でございまして、
実際にはこの時期でも長島は普通に北伊勢豪族衆を傘下にして、
美濃に焼き打ち侵攻をしたり、美濃に拠点を構築したりしているわけですしねえ。
で、武田がなんでか2万になってるようですけれど、
何度も言いますけれど、徳川領土に侵攻した武田勢+北条勢で三万、
岩村勢+合流の武田勢で三千程、家康の抑えに三千程、
で美濃には三万程の武田勢が向かう事になるのは明らかであると思われますしねえ。
で、何度も言いますけれど、貴方がいつも通りに発狂逃亡をなさられておられます、
その菅沼なんたら認定は、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という事について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>437
ですから、実際にそのような策戦は、志賀陣でも朝倉浅井がやっておりますし、
より長期的・広範囲な規模で武田・北条も上杉に対してやってたりしますし、
普通にセオリー的な戦い方なわけでございますしねえ。
>東濃は武田も織田も力攻めでは落とさなかった城ばかりでは?
勝頼が東美濃18諸城を一ヵ月程で攻略しておりますしねえ。
しかも、信長が武田対策に兵力込めと普請を行った諸城を、ですしねえ。
>>432
必死になっていつも通りに>>14にあるような必死な複数端末によるID切り替え自演にご狂奔なさられながら、
捏造曲解などにご狂奔なさられているご様子ではございますが、
信玄は朝倉の12月撤収などの後も本願寺やら朝倉やらと打ち合わせなどを行い、
信玄の2月の書状でも「朝倉が再出陣するようだ。
今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時だ。」と書いているわけでございますしねえ。
>>433
上記の通りなわけでございますしねえ。
>>431
何度も言いますけれど、朝倉浅井はこの時期ですら、織田相手に複数の戦果をあげておりますしねえ。
信長も朝倉浅井相手とか、本願寺相手とかで、何人もの家臣を死亡させているわけでございますしねえ。
ですから、何度も言いますように、侵攻策戦であっても、陣を築いて織田主力を拘束し、
他の共同勢力に侵攻させ、というのを繰り返すことは、普通に戦国時代では行われている戦い方で、
志賀陣でも普通に朝倉浅井が行っておりますのに、美濃侵攻でそれが行われない、という理由はどこにもないように思われる次第でございまして、
それらについて、お答えの方をよろしくお願いしたいと思います次第でございますかねえ。
まーた必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられながら、
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必至な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられているご様子ではございますが、
少なくとも、石高面では西上時の武田の方が当時の大内よりも上でございますしねえ。
貿易とかを含めたら、どうかとは思われますが、
なーんか武田領国を商人とかのいない発展途上国みたいなイメージでとらえられておりませんかねえ?
何度もこの件についても指摘はされていると思うのですが、
武田は領国内の商人・職人の保護育成・統制を行い、武田領国内の経済活動を活発化させるばかりか、
他国にも商人などを派遣して活発に経済活動を行っているわけでございまして、
武田領国内では多くの商人・職人達の座や組合などが武田氏の保護や統制を受けて
活発に活動しており、各地に多くの市や大市がたって領民たちは欲しいものとかを、
そういった大市場とかにいけば大抵は入手できるようになっていた、とされておりますしねえ。
武田領国を、まるで発展途上国のように語られるのはいかがなものなのかと思われる次第なのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてますのに、武田が隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
石高的には大内よりも上回っているところもありますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、上杉謙信とか北条早雲とか、毛利元就とか、西上当時の武田よりも低い石高やら国力とかで
長期遠征行っている事例もいくつもある事は何度も指摘されていると思うのですが、
これらについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>498
そういう、信長革命児論自体が、もう学者さんとかの間ではとっくに否定されているような感じでございますけれどねえ。
天下布武自体が、元々、京都周辺を安泰にする、とかそういう意味である事がもうずいぶん前から指摘されているわけでございますしねえ。
京都周辺を安泰にする。それは天正始めまでだろ。武田信玄が考えかたを改めたように、織田信長も勢力拡大の過程で改めたんだろ考え方を。
そもそも学者が否定しているというが、その結果が池田裕子みたいなバカによる無理やり信長sageが出て、逆に非難、嘲笑の的になったのを知らんのか?
少なくとも、信長が「全国制覇いけるかも!」的に思って行動し始めるのは、
長篠で武田勢主力を撃破して、余裕ができ始めてから、とされておりますけれどねえ。
この後から、信長はそれまでは上杉謙信とかを介して連絡を行っていた関東の諸豪族とかにも
直接連絡を取り始めたり、安土城とかを築き始めたり、とか全国の支配者的な目標やら意識をもったように思われます行動をし始める、
的な事が指摘されておりますが、それでもまだ全国制覇的な目標ではなかったのではないか、
的な指摘をする学者さんとかもおられますしねえ。
>その結果が池田裕子みたいなバカによる無理やり信長sageが出て、逆に非難、嘲笑の的になった
貴方さまよりも遥かに膨大なる文献やら資料やらを読み込んで研究を進めておられる学者さんをバカ呼ばわりとか
貴方さまは何さまのおつもりなのでしょうかと思いますし、
非難、嘲笑、とかいうのは貴方のような必死な織田厨の方が、特に資料的な論拠などもなしに、
必死に煽り罵倒に狂奔しておられるだけの御様子のように思われる次第でございますし、
信長革命児論はもう学者さんなどによって、丹念に資料的に否定されている事柄が多数でございますし、
いまだにまともな学者さんで、信長革命児論を大真面目にとなえられている人、ってまずおられないように
思われる次第なのでございますが、この件について、なにとぞご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
石高的には大内よりも上回っているところもありますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
>>387 >>388
その割には、その家康は信玄を尊敬しておりましたし、
秀吉とはそもそも立場が異なりますから、比較のしようがないと思われますしねえ。
信長に関しましては、何度も言いますけれど、信長は同格の斉藤義龍が生きている時には、
美濃にろくに侵攻を行う事が出来ず、幼君になって、クーデター騒ぎまで起こる程になって
そこから侵攻やら調略やらを進めていった、というのが美濃侵攻の側面として存在しているわけでございますし、
普通に義龍が長生きでしたら、先代よろしく普通に尾張と美濃での争いを生涯続けていた可能性も
非常に高いように思われるわけでございますしねえ。
元就も、尼子晴久が生きている時には侵攻を防がれ、あるいは撃退され、という感じで互角に戦われておりましたのを、
晴久の死亡の後に、攻め込んで尼子の領土などなどを攻略したりしているわけでございますしねえ。
信長が信玄の立場で生まれていたら、北条氏康やら上杉謙信やらの同格かそれ以上の勢力を有する強豪大名達を相手に
信玄以上の事が出来たか、と言いますと、それはかなーり疑問なように思われる次第でございますが、
この件についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、信玄は当時からも天下をとりえる名将として扱われ、
後世においても非常に評価の高い戦国大名である事は普通に考慮されてしかるべきであると思われますが、
これらの件につきましても、なにとぞご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そんなに豊か、も何も、なく、
石高で言えば武田は大内よりも上なわけでございますし、
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
なにやら、こちらの論旨の都合の悪い所は必死にスルーして
必死に捏造曲解などを行われて喚いておられるだけの御様子のように思われる次第でございますが、
これらの件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
てめえがスルーして逃げてるのになに言ってんの? 頭大丈夫か?
まあ「貿易とかの優位が多少」なんて言ってる奴にはなに言っても無駄か。
→座の整備
→職人の保護・発展
→商人の活動活発化
こっ…これはすごい(デデドン!(絶望)
っで、具体的な商業都市と輸出品の列挙をお願いいたします!
商業都市は甲府と諏訪。
輸出品は木材と米。
これで甲信は大内など比較にもならない大金持ち。
水運? そんなの知ったことじゃねー。
足腰を鍛えるためにも中山道から運搬。これでOK。
貿易? そんな大した銭にもならないことは武田はやらねー。日本人なら米を食え。木曽の木材はいいですよー。
まーたいつも通りに都合の悪い事柄などを必死にスルーなさられたりなさられながらの、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
何度も指摘している事ではございますが、
上杉謙信が小田原遠征をおこなった時には、国力的にも、石高的にも、
圧倒的に西上当時の武田よりも劣る状況なわけなのでございますし、
その距離に関しましても、武田の信濃から美濃への距離よりも圧倒的に上杉側の方が長距離なわけなのでございますし、
北条早雲に関しては、その領域も石高も国力も、西上当時の武田と比べること自体が
無理があるように思われます程に、圧倒的に武田側の方が上でございますのに、
普通に長期遠征を行っておりますのに、なぜに武田が信濃から美濃に長期遠征を行う事が
何をどうやったら、そこまで圧倒的に困難な事柄となられますのか、という事について、
必死なる捏造曲解などにご狂奔なさられておられる事柄などについての、ご回答もあわせて、
お答えの方をよろしくお願いしたいと思う次第なのでございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
>>554
この時期でも普通に朝倉浅井は織田を相手に複数の戦果をあげている事は何度も指摘させていただいている
次第でございますしねえ。
>>552
信玄時代には各種の経済政策やら農業政策などが行われ、>>492にもありますように
それ相応に豊かになったようではございますけれどねえ。だから現在でも信玄は尊崇されているのだとは思いますけれどねえ。
塩止め関連は、当時は普通に織田やら徳川やらと同盟していて、そっち方面から普通に塩が入ってきますのに、
そこまで困窮したとも考慮しにくいように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
えー?
こいつ自領だけしか計算に入れてないの?
謙信の小田原征伐の時は関東の諸大名の大部分が協力したし、謙信の自領じたい、上野や武蔵に一時的ながら拡大しているのに。
甲信はいったいどうなってるんだ?
>貿易。銭にならねー。
誰もそんな事は言ってなくて、こちらは貴方が必死に捏造曲解しておられるような、
「大内が10年できたから武田もできる!」とかいう話ではなく、
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>546
普通に後年の織田勢主力も岩村口を主流にして信濃に攻め込んでおりますし、
勝頼も普通に岩村から美濃に侵攻しておりますしねえ。
>>547
誰もそんな事は言ってなくて、こちらは貴方が必死に捏造曲解しておられるような、
「大内が10年できたから武田もできる!」とかいう話ではなく、
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必死な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられておられるご様子ではございますが、
信玄西上の時の織田も普通に当時は畿内周辺を天下、としている書状とかがいくつも残っており、
普通に畿内周辺を支配する意味での「天下人」を目標としていた、と学者さんなどからも考慮されている次第ではございますかねえ。
>>539
いやいやいやいや、こちらは貴方が必死に捏造曲解しておられるような、
「大内が10年できたから武田もできる!」とかいう話ではなく、
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いや、タイムマシーンで実際に観察してきたわけでもないのですから、
必然的に「思います」にならざるを得ないだろう、というだけの話でございます、と何度も述べさせてもらっている次第でございますしねえ。
逆に、すべてを断言しているのでしたら、その方がどうかと思われる次第でございますしねえ。
>>538
二俣に関しましては、長篠後で徳川が攻め込んでみましても、半年近くかけても攻略できずに
結局城主と城兵の安全な退去を保証してお引き取り願った、という程の城でございますし、
野田に関しては、既に信玄の病気が問題となっていたころ、とされておりますしねえ。
どうでしょうねえ?
ただ、後年の織田の武田領土侵攻でも、木曽口と岩村口から侵攻して、
岩村口が主流の大軍の侵攻ルートであったわけでございますから、
木曽谷から秀忠が大軍で侵攻したのなら、どちらからでも大軍で侵攻するのに
特に問題はない、という事でFAそう、という事でよろしいわけでございますかねえ、
という事について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>639
いつも通りに必死になって、都合悪い事柄を必死にスルーなさられながらの、
必死な捏造曲解などにご狂奔なさられながら、お喚きになられておられるように思われる次第でございますが、
実際問題としては、何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、何度も指摘している事ではございますが、
上杉謙信が小田原遠征をおこなった時には、国力的にも、石高的にも、
圧倒的に西上当時の武田よりも劣る状況なわけなのでございますし、
その距離に関しましても、武田の信濃から美濃への距離よりも圧倒的に上杉側の方が長距離なわけなのでございますし、
北条早雲に関しては、その領域も石高も国力も、西上当時の武田と比べること自体が
無理があるように思われます程に、圧倒的に武田側の方が上でございますのに、
普通に長期遠征を行っておりますのに、なぜに武田が信濃から美濃に長期遠征を行う事が
何をどうやったら、そこまで圧倒的に困難な事柄となられますのか、という事について、
必死なる捏造曲解などにご狂奔なさられておられる事柄などについての、ご回答もあわせて、
お答えの方をよろしくお願いしたいと思う次第なのでございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
それらが多数存在していた、という話なわけでございますしねえ。
いつも通りに必死になって、都合悪い事柄を必死にスルーなさられながらの、
必死な捏造曲解などにご狂奔なさられながら、お喚きになられておられるように思われる次第でございますが、
実際問題としては、何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、何度も指摘している事ではございますが、
上杉謙信が小田原遠征をおこなった時には、国力的にも、石高的にも、
圧倒的に西上当時の武田よりも劣る状況なわけなのでございますし、
その距離に関しましても、武田の信濃から美濃への距離よりも圧倒的に上杉側の方が長距離なわけなのでございますし、
北条早雲に関しては、その領域も石高も国力も、西上当時の武田と比べること自体が
無理があるように思われます程に、圧倒的に武田側の方が上でございますのに、
普通に長期遠征を行っておりますのに、なぜに武田が信濃から美濃に長期遠征を行う事が
何をどうやったら、そこまで圧倒的に困難な事柄となられますのか、という事について、
必死なる捏造曲解などにご狂奔なさられておられる事柄などについての、ご回答もあわせて、
お答えの方をよろしくお願いしたいと思う次第なのでございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
それから、>>646と>>645についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
全然まったく、資料的にも史実的にも具体的なるご論旨のご提示がされておられないように思われまして、
貴方さまのおっしゃられるご論旨の方が現状では貴方さまが「センゴク」でお読みになられた事を
必死になって喚いておられるだけの御様子としか思われない次第でございますので、
>>646 >>645 >>648で聞かれている数々の事柄について、
おはやめに資料的・史実的に具体的なる論旨でもってお答えになられていただきたいと思いますので
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
お答えの方をよろしくって、こいつの妄想に対する答えなんか誰が出せるんだよ。
武田氏は大内氏より石高が上だから豊かなんだ。貿易の利益なんて多少でしかない。
1580年代の主敵は北条。
え? 徳川に高天神城を包囲されてるのにか?
妄想ばっかりで答えようがない。以上。
ほぼすべてが、貴方さまの妄想願望のように思われる次第でございますしねえ。
何度も言いますけれど、甲斐だけではなく、信濃・駿河においても
武田領国においては多数の経済拠点が存在して、活発に活動しておりますし、
そもそもの問題として、武田の税収の基本は年貢とか通常の税金とかですしねえ。
それらを総合しますれば、普通に武田120万石近くの国力と、上記のような
経済拠点からあがる利益、などを総合して、普通に遠征費用は賄えると思われますし、
実際に武田は西上までに数多くの遠征を行ってきておりますし、
長期遠征の事例でいいましても、何度も指摘している事ではございますが、
上杉謙信が小田原遠征をおこなった時には、国力的にも、石高的にも、
圧倒的に西上当時の武田よりも劣る状況なわけなのでございますし、
その距離に関しましても、武田の信濃から美濃への距離よりも圧倒的に上杉側の方が長距離なわけなのでございますし、
北条早雲に関しては、その領域も石高も国力も、西上当時の武田と比べること自体が
無理があるように思われます程に、圧倒的に武田側の方が上でございますのに、
普通に長期遠征を行っておりますのに、なぜに武田が信濃から美濃に長期遠征を行う事が
何をどうやったら、そこまで圧倒的に困難な事柄となられますのか、という事について、
必死なる捏造曲解などにご狂奔なさられておられる事柄などについての、ご回答もあわせて、
お答えの方をよろしくお願いしたいと思う次第なのでございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
さらに申し上げますと、貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で、現状では明らかに、こちら側が資料的、史実的、あるいは論説的に基づいた事をのべさせていただいているのに対し、
貴方さまの方は資料的にも史実的にも具体的なるご論旨のご提示がされておられないように思われまして、
貴方さまのおっしゃられるご論旨の方が現状では貴方さまが>>530にありますように、
「センゴク」でお読みになられた事を
必死になって喚いておられるだけの御様子としか思われない次第でございますので、
>>646 >>645 >>648で聞かれている数々の事柄について、
おはやめに資料的・史実的に具体的なる論旨でもってお答えになられていただきたいと思いますので
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まーた必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられながら、
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必至な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられているご様子ではございますが、
そんな、貴方がおっしゃられるような、最初からすべてが決まっている、
なんていう事は特にないように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
何度も指摘させていただいてる事ではございますが、
勝頼が滅亡したのは、長篠で兵力的に不利な状況で決戦を求めた事、
御館で外交失敗をして北条まで敵に回してしまった結果、
三方面を敵に回しての多方面策戦を数年にわたって続けた事で、領国疲弊を起こした事、
などであって、普通に武田家滅亡に至る複数のトリガーは勝頼自身が押している、というのは
普通に学者さん達などからも指摘されている次第なわけなのでございますが、この件についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、全方位が敵、とか言いますけれど、普通に信玄が死亡した時には背後には北条が同盟国として存在しておりますし、
他にも友好勢力・同盟勢力は10をこえますしねえ。
当時の他の大勢力の大名でも、織田信長はいわずと知れた信長包囲網をしかれている状況で、
長篠で勝利するまで、とても余裕がなく、東西奔走を繰り返している状況だったわけでございますし、
上杉謙信も北陸と関東に敵を抱えて、1574年末まで東西奔走を繰り広げている状況なわけでございますしねえ。
正直な話、これらを考慮しますれば、西上の時の武田の状況は、戦略的に特にそこまで悪すぎる状況、というものではなかったように思われるのでございますし、
普通に勝頼も信玄死亡後も、長篠までは徳川相手に優勢に戦いを続けていく次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
相変わらず、深夜まで貼りついて、>>14にありますような
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必死な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら、
お喚きになられなくてもよろしいと思う次第なのでございますけれどねえ。
とりあえず、その逆的に言いますならば、源頼朝は普通に貿易とかをしないでも、
貿易とかをしていた平家政権を打ち倒して天下を統一し、
木曽義仲とかも特に貿易とかをしないでも京都に入り、
徳川家康も特に貿易とかをしないで、関東を地盤として天下を取り、
(天下をとった後は貿易をしていましたけれどねえ。)
という感じになるわけですけれど、あまり貿易しないとダメ!天下取れない!とお喚きになられるのは
結論ありきの御様子のようにおもわれる次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それを言いましたら、信長もわざわざ安土城を築く必要性はなかったですよね、
という話になるわけですしねえ。
領国の中心地にするのでしたら、普通に新たに城やら館やらを築くのは自然な話ですしねえ。
甲府もそのようにしてつくられたわけで
ございますしねえ。
>>654
いくらでもありますけれどねえ。
夕方ではなにもする事がない、というのは、貴方さまは土日も平日も必死に貼りついて
>>14にありますような複数ID切り替え自演などをなさられているご様子でございますから、
そうご主張になられておられるのかもしれませんが、
夕方からでもいくらでもやる事はある、と思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ、と思いますので、この件につきましても、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>653
さあ?とりあえず、岩村を経由して美濃に侵攻した、というのは確かですので、
それが木曽方面からか、他方面からか、というのは、どちらともとれる、という所ではないかと思われますかねえ。
ですからあ、こちらは別に甲府だけで、越後とか越前を上回る、
なんて一言も言ってないわけですし、
学者さんも経済拠点として栄えていた事、を立証したりはしますが、
越後とか越前よりも上!とか言っている事はまずないのですけれど、
貴方は何をいっておられるのかと思いますしねえ。
さらに逆に言いますれば、そのように言われるのでございましたら、
>>692のような諸要素がありますのに、武田が信濃から美濃への侵攻を長期間行う、というのを
経済的に不可能、と言っておられる歴史学者さんは
はたしておられますのでしょうか、とお聞きしたいと思いますので、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
こいつの発言聞いてると、山梨県や長野県が逆にバカにされてるみたいだわ。
わざわざ安土城を築く必要がない。
これマジで言ってるのかな?
安土のあたりが北陸道、東山道などの交通の要衝で、当時の織田領が西に伸びていたこと、上洛する際にあの位置なら1日かからないこととあるはずだが。
にあるように精神的な病を疾患しておりますので多少言動がおかしいときもありますが、病気なので仕方ないということでご容赦ください
病名は発達障害、いわゆるアスペルガーと呼ばれているものになります
ねぇです。よろしくお願いいたしますねぇ。
ねぇと申します
国語の成績1、地理の成績1ですが歴史が得意です
決して答えられないのではありませんので勘違いしないように
誤魔化さなくていいですよ。
ついでに歴史も他も全て0点!
そんなことはないと思いますけどねぇ。
成績は全て1。
小学校からやり直しましょうねえ。
1525年
朝倉景職が長井長広の稲葉山城に迫る
1544年
朝倉宗滴が斎藤道三の稲葉山城下を焼き払う
>>18 >>19 で越前から美濃のルート書いてやっただろ?
地理的に無理は別人
俺は状況的に厳しいでしょ派
義景は金ヶ崎直後に美濃に一回侵攻しようとして失敗してるんだよ
今さらそのルートは無理無理
(ヾノ・∀・`)
義景の書状で湖西に普通にそっちが本命だよ
信玄のサポートより浅井のヘルプが優先
いや誰も無理なんか言ってない。
ねえが勝手に難しい、を「信長さまだと不可能なんじゃああ!」とか解釈しているだけだよ。
ねえは基本的にアスペルガーだから、言葉が理解できない。
「誰も」じゃなくて、一人しかその件についてレスをしている人はいない、
というのが前スレにおける「ID上での」設定のように思われますが、
いつから多数になったのでございましょうかねえ。
議論的に不利になったら、必死に捏造曲解にご狂奔なさられたり、
口調やらIDやらを行われながら、必死になってご自身の論旨の擁護やら、
相手側の捏造曲解叩きなどにご狂奔なさられるのは、いつもの貴方さまの
ご行動のように思われる次第ではございますが、
前スレで「三方向侵攻は不可能だとせざるを得ません!」とかまで書いておいて
それは無理がありすぎるように思われるのでございますが、
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>25
いやいやいや、実際に私が最初に朝倉景職と朝倉宗滴の侵攻事例について書きましたし、
そもそも、その他にも朝倉景高の事例もあげましたし、
他にも、前スレにも書きましたように、岐阜の研究者さんの横山氏なども、祐向山とか大桑から、冬場をのぞけば越前と密接に連絡がとれた事、
大桑城は朝倉氏の影響が強い城で、朝倉氏の技術者を基にして構築された城であろう事、
土岐頼武・頼純などが朝倉氏の軍事的な支援などを受けて活動していた事、などを指摘されている事なども、
普通に私がご紹介させていただいてきたわけなのでございますしねえ。
とりあえず、議論的に不利になったからといって、必死になって捏造曲解にご狂奔なさられておられないで、
聞かれている事柄については、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>26
それを言いましたら、織田に滅ぼされた大名家の家臣とかが、普通に織田に従って各地で戦っている事とか、
その支配を受けている事とか、も説明がつかないように思われますしねえ。
普通に状況の有利不利で帰属を変えたり、内応したりするのは、当時の豪族とか武将とかの常であるように思われますしねえ。
そのように必死に抽象的に喚かれるのではなく、具体的に資料やら史実などに基づいて
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
特に、貴方さまが現在進行形で発狂逃亡をなさられておられます、>>33についても
お答えの方をおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
前スレ800
いやいやいや、普通に前スレ795の後はお出かけの方をさせていただきましたしねえ。
現状で必死に議論的に勝利する事が困難になったからといって、
必死になって捏造曲解にご狂奔なさられているのが貴方さまだと思われる次第なのでございますが、
毎日のようにネットに貼りつき続けておられるご様子で、
貴方って本当にネット廃人的な生活をなさられておられるのでございますなあ、と思われる次第なのでございますが、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も書いてありますように、普通に美濃の遠藤宛に「来年に美濃侵攻するから、
その後で織田に敵対をして欲しい。」的に書いておりまして、
武田が美濃に侵攻しないなら、この約束自体が意味がないわけでございますし、
朝倉との書状においては、より具体的に織田との戦いについての打ち合わせが行われているわけでございますしねえ。
前スレ801
いやいやいや、実際にはこのスレにおいて、>>32にも書いてありますように、
多くの越前から美濃への侵攻事例やら支援事例があるわけですしねえ。
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられないで、聞かれている事柄などについて、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
前スレ802
いやいやいや、当時の上杉は、何度も指摘されている事ではございますが、
信長から「北陸一向宗との戦いはひとまず置いておいて、武田領土に侵攻して欲しい。」
とか書状で伝えられても、普通にスルーして北陸方面にそれから5ヶ月近く滞在し続ける、という状況でございまして、
謙信の優先順位が奈辺にあるのかを明確に示しているように思われますしねえ。
で、謙信は信玄が死亡した後も、普通に北陸方面に向かって侵攻を続けていくわけでございますし、
それが1573年の年末でひとまずカタがついたら、今度は北条に侵攻されて苦しい関宿やら羽生やらの救援の為に
関東での戦いを1574年末まで続けていくわけでございまして。
勝頼は高天神の時には2万5千の兵を動員しておりますが、これは謙信がこのように関東で奮戦を続けている状況を
考慮してのもののようにも思われますかねえ。しかし、謙信の奮戦もついに及ばず、1574年末に関宿やら羽生やらが攻略されてしまい、
謙信が関東での救援対象がなくなり、北陸方面もひと段落していた事から、1575年の長篠には、
武田側も兵力を残しておく必要があった、という話なわけでございまして、
これも何十回も書いてきた事であると思われますのに、なぜにスルーなさられるのでございましょうか、についても
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、普通に武田と朝倉の書状仲介までしているのが
当時の郡上遠藤なわけでございますしねえ。
>>41
いやいやいや、実際にはこのスレにおいて、>>32にも書いてありますように、
多くの越前から美濃への侵攻事例やら支援事例があるわけですしねえ。
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられないで、聞かれている事柄などについて、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>43
いやいやいや、貴方などが必死になってこちら側が書いた論旨について、お答えになられる事が困難になられたからといって
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられている、というのが現状でございますので、
こちらはそれらについての再提示の方などをさせていただいている次第でございますので、
聞かれている事柄などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
前スレ803
いやいやいや、普通に武田勝頼が信濃から岩村経由で美濃に侵攻したり、
後年の織田が岩村経由で信濃に侵攻したり、というのを普通に行っているわけなのでございますが、
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
秀忠の事例も、美濃への侵攻ルートで敵がいないかどうかは、戦略計画を定めた時点は未知数だったわけでございますしねえ。
>敵の本拠地まで強襲して一気に決戦
こんな事がどこに書いてあるのか、について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
まーた複数端末による複数ID自演のような気がしなくもないわけではございますが、
とりあえず、
>義景は金ヶ崎直後に美濃に一回侵攻しようとして失敗してるんだよ
これは朝倉景鏡の美濃侵攻の事ですよね?
普通に美濃赤坂まで侵攻して焼き打ちとかをして撤収しておりますけれどねえ。
で、その書状って小谷の普請がどうとかいう話だったと思いますが、
それをしばらくやって、若狭にも分遣隊を派遣して焼き打ちと拠点構築をやって
5月からは美濃侵攻、で普通につじつまがあうように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
同時期には「武田家臣の教えのおかげで信長に勝利できた!もっと教えを請いたい!」とか書状に書いていて
武田との連携に義景が乗り気な事が伺われるわけでございますしねえ。
んな書状ひとつで、よくそこまで過信するなあ。
だいたい朝倉って一族傍流が多くて、席次争いして1564年には景恒の兄が自殺したり、1568年には義景の息子が変死するような家中だぞ。
そんな一族相克の深い家中が、つい何年か前に同盟結んだ武田信玄の家臣に助言させたり、ましてや軍配を任せたりするものかな?
ところで、その武田家臣はどんな教えをして織田信長を破ったのかな?
ですから、普通に小谷方面の普請を行って、若狭にも分遣隊を派遣して焼き打ちと拠点構築をやって
5月からは美濃侵攻、で普通につじつまがあうように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
特に、fKWauHHMの人は、相変わらず、必死になって捏造曲解とレッテル貼りにご狂奔しながら、
またもIDが変わっているように思われますが、この件について、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それは、貴方さまの妄想願望でございまして、そのようにご主張なさられるのでございますれば、
具体的に資料やら史実などを用いて論証される事から、おはじめになられていただきたいと思いますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
義景の書状では、「武田家臣日向玄東の教えのおかげで信長に勝利できた!もっと教えを請いたい!」
と書いているわけでございまして、当人の書状を否定なさられるのであれば、
貴方が資料を基にしてご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
完全に行動パターンが前スレの必死なですます口調の「地理的に三方向侵攻不可能論者の必死な織田厨さん」
になっておられますけれど、そろそろ口調をお戻しになられなくてよろしいのでしょうか、という事と
聞かれている事柄について、
おはやめにお答えの方をいただきたいと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、こちらはその他のもあわせて数々の朝倉家の侵攻事例について書いてきたのですけれどねえ。
貴方のあげている事例も普通にあげてきましたしねえ。
っていうか、前スレでこちらのレスに反論する事が不可能になったら、
そのように言われるのはどうかと思う次第なのでは
ございますけれどねえ。
前スレ815
いやいやいや、実際にその為に信玄は北陸一向宗を扇動しているわけなのでございますし、
史実的には謙信は1573年の年末まで北陸一向宗との戦いを続けていくわけでございますし、
その後も関東で武田の同盟者である北条が関宿やら羽生やらを追い込んでいる事から、
それへの救援の為に1574年末まで関東の各地で戦いを続けていく、という流れなわけでございますしねえ。
っていうか、これはこのスレの結構前のスレで説明した流れのように思われますのに、
相変わらず、相手がいなくなったと思った時には必死になって相手叩きやら、捏造曲解などにご狂奔なさられるご様子なのではございますが、
聞かれている事柄などについては、おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
前スレ814
いやいやいや、さすがに、和睦条件の履行を行おうとせずに佐和山の攻囲とかも普通に続けているのが織田側ですのに、
何をどうやったら、織田が悪くなくて、浅井の行為が悪質、っていう事になると思われますのか、
についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄西上の時には、通路にあたる郡上遠藤が既に武田・朝倉に内応済みですから、
普通に進軍できるように思われる次第でございますかねえ。
まーた貴方は必死になって、相手側がいなくなったと思った時にだけ、
捏造曲解に狂奔してる必死な織田厨さんのレスをそのまんま鵜呑みにしてるような感じにして、
捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
私は別に無理やり書かされた、とはこちらも述べていないわけでございまして、
京都の公家さんの記録は信長の過大宣伝をそのまま受け取っている可能性が高い事は、
姉川の戦いの朝倉浅井側の被害を一万近くとしたり、浅井長政が死亡した、という風に書いてたりするわけでございまして、
織田側のひざ元にいた事から、京都の公家さんは織田側のプロパガンダ宣伝の影響を受ける位置にあり、
それをそのまま記しただけ、という事が、上記のような姉川の事例などからも明らかなように思われる、という次第なわけでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
お前は本当に国語の勉強をやり直せ。
だいたい侵攻事例を書いた、というが、過去スレにお前が>>18や>>19みたいな年代、指揮した武将、地理経路を書いたことはない。
いつも「手紙にこう書いているんじゃああ!」「史料にあるんじゃああるんじゃあ!」とか言って具体的に出さないし。
一乗谷→朝倉街道→美濃街道→油坂峠(美濃国境)→越前街道→関→稲葉山城
内応が本心であったとしても朝倉としてそこまで信用できるかね?
裏切られたら敵地でヤバイのにそんな簡単に問題ないですしとはならないでしょ
相変わらず、相手側がいなくなったと思った時には、嬉々として相手叩きとか、捏造曲解とかにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
>読む気は無かったがこれだけは突っ込ませてくれ。
つまり、いつも通りに普通に読んで、突っ込めそうなところが、なんとかしてそこらへんしかなかった、という次第のように
思われる次第なのでございますが、ここら辺につきましては、いかがなものなのでございましょうかねえ。
> 『さ候へは、諸口手当も~』が書状全体のこと指していると気づかず、
>全部謙信のことだけ言ってると勘違いしたわけか。
あのですねえ、相変わらず、相手側がいなくなった時にだけ、必死になって捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
それでは色々と無理になるように思われる次第でございましてねえ。
まず、この細川宛の書状は、お読みになられたのであれば、当然のように貴方さまもご存じであると思われますが
「1、~」という感じで箇条書き風に書かれている書状でございまして、
この書状では、わざわざ「謙信が越後府内に戻ってきた!」という箇条書き段落の中に
「さ候へば」と続くわけですのに、貴方は何をおっしゃっておられるのかと思う次第なのでございますが、
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で、何度もこちら側が書いている事なのではございますが、
まず、信長はその細川宛の書状以外でも謙信に対して、「こちらも攻め込みますので、武田領土に侵攻して欲しい!
今こそ織田・上杉・徳川の三勢力で武田領土に侵攻して信玄を打ち倒すべき時!」的な事を同時期に書いているわけなのですが、
細川宛には「謙信を武田領土に侵攻させれば、武田勢の圧力が減退するから、存分にする事できる。」
「謙信が越後府内に戻ってきた。こうなれば(さ候へば)諸方への手当てができたので、上洛して存分にしたい。」とか
書いているわけでございまして、信長の率いる織田の軍勢が瞬間移動できるのでもなければ、
武田領土と畿内という二つの領域を瞬時に移動する事は不可能なわけでございますし、
普通に細川宛の書状内容を考慮してみますれば、謙信に対して述べている事は、謙信に対する扇動であり、
謙信を武田領土に侵攻させて、当て馬にして、その間に上洛して存分にしたい、というのが信長の本音だという事が
わかるように思われますしねえ。
まあ、謙信の方も織田の思惑は承知していたのか、織田の要請をスルーして、北陸と関東に東西奔走し続ける事を
1574年末まで続けていくわけではございますけれどねえ。
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まあ、いつも通りに貴方さまはこのように指摘をされますと、都合の悪い事柄からは発狂逃亡を
なさられるように思われますが、これらをはじめとして、他の事柄などの件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
前スレ812
いやいやいや、普通に前スレ795を書いた後はお出かけの方をしておりましたしねえ。
前スレ809 前スレ810
いやいやいや、たいていの場合、こちら側が資料の記述などを指摘したり、ご紹介したりしますと、
貴方のような必死な織田厨さんが、
議論的に勝利する事が困難となって、必死に捏造曲解にご狂奔なさられておられる、という次第なわけでございますのに、
そのようにおっしゃられましてもねえ、と思う次第なのでございますが、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
美濃街道使ったと言ってるのに
敦賀に在陣して美濃侵攻?
なぜそんな無駄なことを?
例年出兵して軍を動かすだけでもキツいのにわざわざ3月に出兵して5月に進軍開始とかアホなことするやついないでしょ
書状はこれだよ
朝倉義景の書状発見、滅亡5カ月前
http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/gallery/193675?ph=1
3月に敦賀に出陣、湖西の朽木が道中の安全を保証するにあたっての感状
ここから読み取れることは
朝倉義景は出陣する意向はあった
ただし信玄に呼応しての美濃本面へ出兵ではなく近江に進攻する意向
過去スレであったよ。
美濃に朝倉義景が侵攻するなら、なぜ朝倉義景は敦賀にずっといたのか説明して、とねえに尋ねたら、ねえは「過去に事例があるから大丈夫なんじゃああ!」「そこから美濃へ行くんじゃあ!」と返してる。
どうも、地理に関しては無知あるいは根底から理解できないレベルと見ていいねねえは。
朝倉が湖西を通行
>>29
のやつだな
書状だが美濃侵攻作戦と関係ないのでねえさんは見なかったことにしてるらしい
実際にそちら側方面では攻勢がかけられてないわけでございますし、
信玄の2月の書状でも「朝倉が再出陣するようだ。
今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時だ。」と書いているわけでございますしねえ。
>>436
いやいやいや、朝倉に対して「美濃の郡上遠藤に対して鉈尾の砦を構築するように、
朝倉側からも催促するように。」と書いておりますので、美濃方面が主体になっていると思われる次第でございますしねえ。
具体的に事例の方をご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は何度も何度もこのスレですら、私から原文書状とか資料とかと異なりがある事を
何度も指摘されて、発狂逃亡をなさられて、何度もそれらについて、お答えの方を求められておりますのに、
いまだにお答えになられていない時点で、何をおっしゃっているのかと思うのですけれどねえ。
結局、志賀陣の信長朱印状の事とかも考慮せずに珍解釈とか喚いてたり、
信長の謙信に対する思惑の事とか、朝倉始末記の三月出陣で朝倉の侵攻を織田が援軍なしで防げて
朝倉の弱体化が明白とか、資料的に異なりまくる事をおっしゃられたご様子で、
それらについて、原資料との異なりとかを指摘されて発狂逃亡なさられておられる事について、
ご回答の方をいただきたいと思いますので、おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>435
何度も読んでおりますし、何度も答えておりますのに、いつも通りに必死に捏造曲解にご狂奔なさられているご様子ではございますが、
実際にそちら側方面では攻勢がかけられてないわけでございますし、
信玄の2月の書状でも「朝倉が再出陣するようだ。
今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時だ。」と書いているわけでございますしねえ。
みていいんじゃない?
将軍義昭様が織田信長に敵対されたことについて、
あなた(朽木元綱)も従われるとのこと、殊勝に思います。
特に道中の通行の安全について御約束いただき大変安心しました。
そこで昨日11日に敦賀へ出陣しました。
今後は浅井としっかり詳細を確認しながら、義昭様の意向に従い行動します。
問題のないよう皆で相談し道中の守りをしっかりとしましょう。
詳しくは使者の鳥居兵庫助(景近)と高橋新介(景業)が申し上げますので、よろしくお願いします。
遺恨がある相手の内応を信用して作戦の核心に取り込むのはリスクが高いので普通ではないこと
ましてや武田が調略した群山遠藤氏にとって朝倉は敵に当たる存在
いやいやいや、普通にその郡上遠藤が武田と朝倉の書状仲介とかを普通にしているわけですしねえ。
実際問題として、戦って敗北して従属した豪族とかが、進軍ルートを提供するなんていうのは
きわめて当たり前の事例でございますのに、何をおっしゃっておられるのかと思いますしねえ。
>>35
元々の問題として、武田と朝倉と本願寺による美濃侵攻計画は1572年11月の段階で打ち合わせがされているわけでございまして、
一旦朝倉が撤収した後も、武田や本願寺などの抗議やら、再度の打ち合わせなどによって
再び朝倉が出てきていて、戦略計画通りの5月侵攻を行う、という運びになっているわけでございますし、
それで朝倉も普通に「武田家臣にもっと教えを請いたい!」とか言って武田との連携に乗り気である以上、
特に問題はないように思われる次第でございますしねえ。
もっと教えを請いたい
=連携して織田領に攻め込みたい
さすがに無理がある
いやいやいや、普通に勝頼の事例も織田の武田領土侵攻の事例もあげておりますしねえ。
前スレ797
いやいやいや、実際にこちらは普通に前スレ795を書いた後には普通にお出かけしましたしねえ。
貴方が必死になってこちら側が書いた論旨について、お答えになられる事が困難になられたからといって
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられている、というのが現状でございますので、
こちらはそれらについての再提示の方などをさせていただいている次第でございますので、
聞かれている事柄などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
前スレ798
ですから、岐阜城とかが攻略される前から、家康は秀忠の進軍を前提条件にしている、
と何度も指摘しているわけでございますしねえ。
それまでに安全が確保されるかどうかは、当初の戦略計画では未知数だったわけでございますしねえ。
いやいやいや、単に貴方がこちら側に要求されるだけの精度の進軍ルートが残っている他の事例を
貴方がこちらに要求されるからには、まず貴方が先に示して欲しい、という至極普通の事をお聞きしているだけの話なわけでございますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ダメダコリャ。
木曽福島から中山道を通れば、東美濃から尾張に入れる、と説明しておいたのですが、>>36見る限り理解できないみたいです。
小山評定をした時、美濃の敵は岐阜の織田秀信、東美濃の田丸直昌で、田丸は2万石、おまけに大坂に詰めていたから問題ありません。秀信も20万石で、南の尾張に対する防備があるから、徳川秀忠は東美濃から進めるんです。
ついでに言うと、徳川秀忠の部隊には金山の森忠政がいましたから、地理不案内もありません。また、岐阜城攻略に関しては、かつての岐阜城主である池田輝政がいるんですから、そこまで、長期は想定してなかったでしょう。
それが、わかりませんか? 私は木曽福島から尾張清洲までの中山道ルートは書いたはずです。
もう疲れました。私は去ります。基地外の相手はしてられません。
やっぱり口調を変えて、必死にご自身の擁護に躍起になられておられる、
必死な織田厨さんであらせられる事を、ご自身とIDで御認めになられてくれたご様子ではございますが、
この事例も貴方の複数ID多数派装い自演の事例として、普通に保存の方をさせていただきますかねえ。
相変わらず、必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
結局のところ、岐阜城とかが攻略される前から、家康は秀忠の進軍を前提条件にしている、
と何度も指摘しているわけでございますしねえ。
それまでに安全が確保されるかどうかは、当初の戦略計画では未知数だったわけでございますしねえ。
貴方がおっしゃっている事は、普通に結果論や、無理やりに他の事例と相違点を持ち出して
違う違う違う!と喚いて事例を否定したい、というだけのようにして、
前スレ818で貴方が書いておられるような、
>武田信玄、朝倉義景、伊勢長島による三方攻めは不可能と判断せざるを得ませんし
というのを、無理やりに押し通そうとしているだけの御様子にしか思われないわけでございますしねえ。
そもそもの問題として、資料に書かれている事柄には限界があるわけなのでございますし、有名な合戦とかでもなければ、
詳細に移動ルートが残されているわけでもない、というのは非常によくある事なわけでございまして、
当時の記録的には「〇〇が~国を攻めた。勝利を得て□□城を攻略した。」的な書き方が多数なわけでございますし、
これでは移動ルートを断言する事は困難なわけでございますしねえ。
しかし、それでも越前から美濃への侵攻は、朝倉宗滴やその他の朝倉家の武将達が多数、長期にわたって行ってきた事でございますし、
岐阜の研究者さんの横山氏なども、祐向山とか大桑から、冬場をのぞけば越前と密接に連絡がとれた事、
大桑城は朝倉氏の影響が強い城で、朝倉氏の技術者を基にして構築された城であろう事、
土岐頼武・頼純などが朝倉氏の軍事的な支援などを受けて活動していた事、などを指摘しているわけでございますしねえ。
信濃から美濃への侵攻も、徳川秀忠やら武田勝頼やら、あるいはその逆ルートを織田勢やら、が
普通に行っているわけでございますし、そもそもそれが不可能であるのであれば、
織田側が美濃攻略の最中に、東美濃で武田勢に撃退された時に、あわてて兵を撤収させ、
武田に同盟を申し込んで、武田が美濃に侵攻してくる事を阻止しようとする、という事態はまずありえないように思われる次第でございまして、
長島の美濃への焼き打ち侵攻とかも、普通に記録とかに残っているわけでございますし、
そもそもの問題として、織田側が逆侵攻で伊勢長島に攻め込んで、攻略とかをしているわけな話でございまして、
越前から美濃への侵攻、東美濃から美濃への侵攻、伊勢から美濃への侵攻、を不可能としている研究者さんなど、
一人も存じ上げない次第なのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は結局のところ、織田勢の侵攻とか徳川秀忠の事例などをあげたら、必死になって「それは違う違う違う!」と喚かれておられて、
こちら側から指摘があってもそれを必死になってスルーなさられておられるご様子でござますし、
結局のところ、何が何でも侵攻ルートを否定して、 前スレ818で貴方が書いておられるような、
>武田信玄、朝倉義景、伊勢長島による三方攻めは不可能と判断せざるを得ませんし
というのを、無理やりに押し通そうとしているだけの御様子にしか思われないわけでございまして、
貴方が必死になって、上記に書いたような、資料的な制約などについての、質問返しを続けた上で、
結局それが何になり、何をご主張になられると思っておられるのか、がこちらにはとても疑問に思われる次第でございますしねえ。
貴方がそうやって、こちら側から聞かれている事柄についてはお答えになられずに、
必死になって質問返しを続けておられれば、上記に挙げたような数々の侵攻事例がすべて歴史的に不可能な事例となって消滅する、とでも
貴方はおっしゃられたいのでございましょうか?
まず、この件について、お答えの方をいただきたいと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は「去ります!」とか言いながら、どうせすぐにIDと口調を変えて他人装いをしながらでてこられるだけの話だと思われますので、
上記で聞かれている事柄などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>いや、普通に軍鑑とかに武田の西上軍は三万余、と書いているわけなのでございますしねえ。
徳川相手には数千の兵力を抑えに回せば、>>99にありますように、
徳川は当面三千程しか動かせなくなっている次第なわけでございますしねえ。
じゃ、その三万余から
>徳川相手には数千の兵力を抑えに回せば
その数千とやらを引かなきゃだめでしょ。その結果武田の美濃方面の兵力はいくつになるんですか?
わたし普段は他のスレにいるんでその>>42のひととは別人だけど?
いやいやいや、近江から突破、ではなくて、越前から普通に美濃に行けばいいだけの話でございますし、
そもそも、朝倉浅井がこの時期でも織田相手に複数の戦果をあげている事を指摘しましたら
「防衛戦なら当たり前!」とか喚いておられるのが織田厨さんでございますのですから、
一回羽柴が虎御膳で防いだことを、そこまで大仰に言われましてもねえ、と思う次第でございますしねえ。
何度も言いますけれど、同じころには羽柴・柴田の夜襲侵攻を浅井が単独で撃退とかしてるわけでございますし、
織田厨さん側の理屈ですと、織田は弱体化している事になってしまいますしねえ。
何度もいいますけれど、三月の再出陣の時は出陣拒否とかも特に起こってないわけでして、
普通に勝算があると思われるから、普通に主力で出陣しているわけでございますしねえ。
特にできない理由がないかと思われる次第でございますかねえ。
>>110
何度も言いますけれど、貴方がそうやって質問返しを行い続けて、
相手が疲れてやめたら、それで貴方にとって都合の悪い史実を否定できると
思われましても、こちらとしては失笑すらも湧かない、という状況なわけで
ございますしねえ。下間頼旦とか願証寺証意とか日根野とか色々いますけれどねえ。
こう言い出されますと、今度は「有名でないから駄目だ!」とか喚きだしたr、
質問返し渡河にご狂奔なさられるのでございましょうが、
普通に畿内本願寺とか、天文一揆以来数十年にわたって本格的な戦いとかを
してなかったわけですけれど、普通に信長相手に渡り合ったりしているわけでございますしねえ。
>>108
2万7千くらいですかねえ。
で、その分は岩村城とかの軍勢と合流して補填されて、やっぱり三万近くになるのではないかと
思われる次第でございますかねえ。
は?
武田信玄は岩村に3000、山縣三河隊が5000、武田信玄本隊2万2000(北条援軍含む)。
このうち、三方ヶ原で200の死亡。二俣で北条の武将が死んでるし、あちこちでやり合ってるから300くらいは死亡ありとみる。
2万9500。徳川の抑えに二俣に2000(これは長篠後の兵力参考)。長篠や野田にも残す必要あるから対徳川家には5000は最低必要。
2万4500には減る。それに秋山も上村合戦で東美濃衆、徳川隊とやり合ってるから、お前が言うように2万7000はいけても、それ以上は無理だ。
東美濃衆は結構武田に反発していたらしいし。
いやいやいや、軍鑑によりますと、そもそも徳川領土に侵攻した武田勢が三万であった、とされておりますので、
東美濃岩村遠山が武田側に呼応して、そこに武田側が信濃から兵力を入れている事が信玄の書状で書いてありますので、
西上策戦の参加人数は三万数千、そのうち、徳川相手に数千程の抑えを置いて、
美濃にいる上記の兵力が合流しますれば、普通に武田の兵力は総計で三万近くになるのではないかと思われる次第でございますかねえ。
そもそも、長篠城は武田側に内応した山家三方衆の城ですから、守備兵力はもともとその武将達の兵力ですし、
二俣と野田に兵力を置くことを考慮しても、せいぜい数千ですむように思われる次第でございますかねえ。
とりあえず、聞かれている事柄などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
だから徳川家康の抑えに最低5000って書いてるじゃないか? 何言ってるんだよ。
それと三方ヶ原や他の城攻めで多少は犠牲者も出てるから、それ考慮した数って言ってるだろ。
武田信玄の120万石で3万数千って、どういう計算してるのか教えてください。
多目に動員すればいける数値ではあるな、
それで遠国へ長期間遠征は負担が大きいだろうし、
織田だっていざとなったら多目に動員すればいいだけの話だが。
>織田だっていざとなったら多目に動員すればいいだけの話だが。
これに関しては、何度も指摘されておりますように、
信長は武田とか上杉とか北条とかの東国大名達とは異なり、
軍役に関する規定とか、人数やら装備やらの指示をした書状がろくに存在せず、
佐久間折檻状に「お前は家臣やら軍勢やらをそろえようとしなかった!
水野の領土を与えてやった時も、その収入で家臣を一人も増やそうとせず、
全部自分でためこんでばかりいた!だから手柄をあげられなかったのだ!」
とかありますように、家臣達が平素どれだけの軍勢を整え、
いざ合戦の時にどれだけの軍役を率いて出陣してくるか、は家臣達の裁量に任せられていたようでございますので、
無理に動員できるかどうかは、かなーり微妙なところだと思うのですけれどねえ。
>>350
それでも、信濃から美濃への距離よりも遥かに超長距離ですし、結局畿内で盛大に合戦や争いやらを
長期にわたって行っているわけですしねえ。
元々、こっちは悪いなんて一言も言ってなくて、貴方がそもそも水路が有利有利と言ってましたから、
結局進軍は陸路だったでしょうに、と指摘しているだけの話でございますしねえ。
何度も指摘されておりますけれど、大内の京都への進軍は普通に陸路でしたしねえ。
足利将軍の事例とやらでいうのでございましたら、
その山城一国あるかどうかも怪しい程の領域の大名である当時の足利将軍の財政を補填するくらいの
利益しか、貴方のいう貿易利益とやらは出せてない、という事になるわけなのですけれど、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>348
ですからあ、それ貴方が言ってるだけの話じゃないですかあ。
なんで資料とか史実とかを基にしての論証もされてないのに、
いきなりそれが前提となると思われているのか、についてもご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、長篠城は武田側に内応した山家三方衆の城ですから、守備兵力はもともとその武将達の兵力ですし、
二俣と野田(元々数百くらいしか兵力のいない城)に兵力を置くことを考慮しても、せいぜい数千ですむように思われる次第でございますかねえ。
とりあえず、武田側の軍鑑においては、徳川領土に侵攻した武田側の兵力が三万であった事が明記されておりますし、
120万石でおよそ通常換算で三万程の兵力、2万8千を信玄が率い(山県勢含む。)2千が北条の援軍で合計三万、
岩村遠山の兵力千余位として、残りの2千程が最初に派遣されて岩村遠山と合流、
合計で三万三千程、三千程を徳川の抑えに残し、三万程で美濃に侵攻、的な流れになるのではないかと
思うのでございますけれどねえ。
その前に、何度もこちら側が聞いている事にお答えの方をよろしくお願いしたいわけでございましてねえ。
必死に都合の悪いところは答えないようにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
貴方は現状の様子からして、明らかにご自身はお答えになられないのに、質問返しにご狂奔なさられるのが明らかなように思われますのでねえ。
まず、普通に考慮しますれば、この三方向進撃計画は、実行に移される前に終了した計画でございまして、
実際にどのルートをたどって進軍したのかは、その時の当事者たちになってみないと、わからない、というものでございますし、
それについて、「これしかない!」的なルートを私が断言する事はおそらく不可能であると思われる次第ではございますが、
かといって、それが実現不可能であるかというと、それはまたまったく異なる問題であると思われる次第でございますしねえ。
そもそもの問題として、資料に書かれている事柄には限界があるわけなのでございますし、有名な合戦とかでもなければ、
詳細に移動ルートが残されているわけでもない、というのは非常によくある事なわけでございまして、
当時の記録的には「〇〇が~国を攻めた。勝利を得て□□城を攻略した。」的な書き方が多数なわけでございますし、
これでは移動ルートを断言する事は困難なわけでございますしねえ。
しかし、それでも越前から美濃への侵攻は、朝倉宗滴やその他の朝倉家の武将達が多数、長期にわたって行ってきた事でございますし、
岐阜の研究者さんの横山氏なども、祐向山とか大桑から、冬場をのぞけば越前と密接に連絡がとれた事、
大桑城は朝倉氏の影響が強い城で、朝倉氏の技術者を基にして構築された城であろう事、
土岐頼武・頼純などが朝倉氏の軍事的な支援などを受けて活動していた事、などを指摘しているわけでございますしねえ。
信濃から美濃への侵攻も、徳川秀忠やら武田勝頼やら、あるいはその逆ルートを織田勢やら、が
普通に行っているわけでございますし、そもそもそれが不可能であるのであれば、
織田側が美濃攻略の最中に、東美濃で武田勢に撃退された時に、あわてて兵を撤収させ、
武田に同盟を申し込んで、武田が美濃に侵攻してくる事を阻止しようとする、という事態はまずありえないように思われる次第でございまして、
長島の美濃への焼き打ち侵攻とかも、普通に記録とかに残っているわけでございますし、
そもそもの問題として、織田側が逆侵攻で伊勢長島に攻め込んで、攻略とかをしているわけな話でございまして、
越前から美濃への侵攻、東美濃から美濃への侵攻、伊勢から美濃への侵攻、を不可能としている研究者さんなど、
一人も存じ上げない次第なのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は結局のところ、織田勢の侵攻とか徳川秀忠の事例などをあげたら、必死になって「それは違う違う違う!」と喚かれておられて、
こちら側から指摘があってもそれを必死になってスルーなさられておられるご様子でござますし、
結局のところ、何が何でも侵攻ルートを否定して、 前スレ818で貴方が書いておられるような、
>武田信玄、朝倉義景、伊勢長島による三方攻めは不可能と判断せざるを得ませんし
というのを、無理やりに押し通そうとしているだけの御様子にしか思われないわけでございまして、
貴方が必死になって、上記に書いたような、資料的な制約などについての、質問返しを続けた上で、
結局それが何になり、何をご主張になられると思っておられるのか、がこちらにはとても疑問に思われる次第でございますしねえ。
貴方がそうやって、こちら側から聞かれている事柄についてはお答えになられずに、
必死になって質問返しを続けておられれば、上記に挙げたような数々の侵攻事例がすべて歴史的に不可能な事例となって消滅する、とでも
貴方はおっしゃられたいのでございましょうか?
まず、この件について、お答えの方をいただきたいと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そういうときは確信犯的にメチャクチャな理論でコピペ連投してくる
武田25,000のうち3,000は北条からの借り物でいわゆる数合わせ
そんな兵を損耗したら面子が立たなくなる
残りは武田が自前で徴兵したものだが全軍投入してきているので当然ある程度の規模は残して帰国しないと領土防衛がままならなくなる
12,000残すなら消耗していいのは10,000までとなる
8月の負け戦で滅亡に追い込まれたが20,000動員してようと許容できる損害は5,000くらいが限界
そこまでやられたら兵を引かざるをえない
残りの戦力で朝倉から4,000~5,000削って武田も10,000程度損害を出してやれば撃退できる
自国での防衛戦でこれはそこまで難しい内容ではないので、仮に信玄が美濃に侵攻してきても余程良い状況を作れなければ岐阜城は落とせない
いやいやいや、貴方的な理屈でしたら、織田も普通に5千も損害を出せば、
軍勢崩壊で終了、という事になるわけですのに、都合の悪いところを必死にスルーなさられましても、
と思う次第でございますしねえ。
そもそもの問題として、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
おバカ
20,000で籠城して5,000損耗しても崩壊しないでしょ
攻城側はある程度の損害を出したら撤退するけど
必死に妄想願望をなさられて、レッテル貼りとかにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
普通に籠城でも内応とか脱走とかは起こるようにも思われますけれどねえ。
しかも、織田が2万もの軍勢で籠城してくれるなら、むしろ包囲網側は
織田の美濃の他の城やら領土やらを攻略し放題、という事になりまして、
織田側は威信が減退する事になりますし、普通にその場合は救援に来ない織田に対して
次々と離反やら内応が相次いで勢力崩壊、という形になりそうな気がするのですけれど、
いかがなものでございますかねえ。
っていうか、貴方さまって毎日のようにネットに貼りつき続けておられるご様子で、
本当にネット廃人生活全開という感じでございますよねえ。
ライフワークを邪魔されて、また正直かなり不快な思いをさせてしまいましたかの
いやいやいや、まじめな話、毎日のようにネット貼りつき生活をなさられておられる、
貴方さまはどのようなご生活をなさられておられるのかと思う次第でございますしねえ。
必死に退職後のご老人っぽく書き込みをされようとしておられるご様子ではございますが、
貴方さまのレスぶりやら、必死な行動パターンやら、を考慮しまするに、とてもそのように装われるのは
不可能であると思われる次第なわけでございますが、いかがなものでございましょうかねえ。
もういい加減、
貴方さまご自身がネット廃人的な生活をなさられておられる事に関しましては、
相手側がいなくなったら必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられているご様子でしたり、
ここまで貴方さまもなりふり構わず毎日のように出勤時間帯とかをすぎても朝も昼も夕方も夜も深夜とかも
貼りつき続けているわけなのでございますし、
お認めになられた方がいいように思うのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。
具体的に資料やら史実などを基にしての論証を行われつつ、こちら側のどこがどうそうなのか、について、
ご論証なさられる事からおはじめになられていただきたと思いますので、ご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>52
それなら、織田も普通に5千も損害を出せば、
軍勢崩壊で終了、という事になるわけですのに、都合の悪いところを必死にスルーなさられましても、
と思う次第でございますしねえ。
前スレ806
相変わらず、相手がいなくなった時には嬉々として捏造曲解などにご狂奔なさられるご様子ではございますが、
東海道だけで10万がどうとか、そういう話ではなく、家康の方も、普通に信濃から美濃経由で3万8千程の大軍を進軍させる、というのに
特に問題を感じていない、という事がポイントなわけでございまして。
秀忠到着までに岐阜城とかが攻略されるかは未知数だったわけでございますしねえ。
貴方がおっしゃっている事は、普通に結果論や、無理やりに他の事例と相違点を持ち出して
違う違う違う!と喚いて事例を否定したい、というだけのようにして、
前スレ818で貴方が書いておられるような、
>武田信玄、朝倉義景、伊勢長島による三方攻めは不可能と判断せざるを得ませんし
というのを、無理やりに押し通そうとしているだけの御様子にしか思われないわけでございますしねえ。
そもそもの問題として、資料に書かれている事柄には限界があるわけなのでございますし、有名な合戦とかでもなければ、
詳細に移動ルートが残されているわけでもない、というのは非常によくある事なわけでございまして、
当時の記録的には「〇〇が~国を攻めた。勝利を得て□□城を攻略した。」的な書き方が多数なわけでございますし、
これでは移動ルートを断言する事は困難なわけでございますしねえ。
しかし、それでも越前から美濃への侵攻は、朝倉宗滴やその他の朝倉家の武将達が多数、長期にわたって行ってきた事でございますし、
岐阜の研究者さんの横山氏なども、祐向山とか大桑から、冬場をのぞけば越前と密接に連絡がとれた事、
大桑城は朝倉氏の影響が強い城で、朝倉氏の技術者を基にして構築された城であろう事、
土岐頼武・頼純などが朝倉氏の軍事的な支援などを受けて活動していた事、などを指摘しているわけでございますしねえ。
信濃から美濃への侵攻も、徳川秀忠やら武田勝頼やら、あるいはその逆ルートを織田勢やら、が
普通に行っているわけでございますし、そもそもそれが不可能であるのであれば、
織田側が美濃攻略の最中に、東美濃で武田勢に撃退された時に、あわてて兵を撤収させ、
武田に同盟を申し込んで、武田が美濃に侵攻してくる事を阻止しようとする、という事態はまずありえないように思われる次第でございまして、
長島の美濃への焼き打ち侵攻とかも、普通に記録とかに残っているわけでございますし、
そもそもの問題として、織田側が逆侵攻で伊勢長島に攻め込んで、攻略とかをしているわけな話でございまして、
越前から美濃への侵攻、東美濃から美濃への侵攻、伊勢から美濃への侵攻、を不可能としている研究者さんなど、
一人も存じ上げない次第なのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は結局のところ、織田勢の侵攻とか徳川秀忠の事例などをあげたら、必死になって「それは違う違う違う!」と喚かれておられて、
こちら側から指摘があってもそれを必死になってスルーなさられておられるご様子でござますし、
結局のところ、何が何でも侵攻ルートを否定して、 前スレ818で貴方が書いておられるような、
>武田信玄、朝倉義景、伊勢長島による三方攻めは不可能と判断せざるを得ませんし
というのを、無理やりに押し通そうとしているだけの御様子にしか思われないわけでございまして、
貴方が必死になって、上記に書いたような、資料的な制約などについての、質問返しを続けた上で、
結局それが何になり、何をご主張になられると思っておられるのか、がこちらにはとても疑問に思われる次第でございますしねえ。
貴方がそうやって、こちら側から聞かれている事柄についてはお答えになられずに、
必死になって質問返しを続けておられれば、上記に挙げたような数々の侵攻事例がすべて歴史的に不可能な事例となって消滅する、とでも
貴方はおっしゃられたいのでございましょうか?
まず、この件について、お答えの方をいただきたいと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、そのような事は一言もこちらは書いていないわけでございますしねえ。
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
前スレ808
とりあえず、この件についても、>>54やら前スレ829などに書いた事をご参照なさられて、
聞かれている事柄などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
織田としては極端な話15,000が玉砕してくれれば防衛できることになるんだよ
現実的にそんなことありえないけど、そのくらい信玄にとっては勝算が薄い
>織田としては極端な話15,000が玉砕してくれれば防衛できることになるんだよ
そんなことはまずあり得ないように思われますしねえ。
普通に籠城でも内応とか脱走とかは起こるようにも思われますけれどねえ。
しかも、織田が2万もの軍勢で籠城してくれるなら、むしろ包囲網側は
織田の美濃の他の城やら領土やらを攻略し放題、という事になりまして、
織田側は威信が減退する事になりますし、普通にその場合は救援に来ない織田に対して
次々と離反やら内応が相次いで勢力崩壊、という形になりそうな気がするのですけれど、
いかがなものでございますかねえ。
と、いいますか、まじめな話、毎日のようにネット貼りつき生活をなさられておられる、
貴方さまはどのようなご生活をなさられておられるのかと思うのですけれどねえ。
まーたいつも通りに必死になって、ご自身が言われて悔しかった事を
必死になって鸚鵡返しになさられる事にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
実際には無理やりに信長が不利になる事を必死に否定しようと躍起になっておられるのが
貴方さまであらせられる事はこれまでの数々の事例で明らかであると思われますので、
聞かれている事などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
と、いいますか、まじめな話、毎日のようにネット貼りつき生活をなさられておられる、
貴方さまはどのようなご生活をなさられておられるのかと思うのですけれどねえ。
これは断言できる
その場合朝倉がまだ戦っていたとしても見捨てるだろうね
いやいやいや、貴方的な理屈でしたら、織田も普通に5千も損害を出せば、
軍勢崩壊で終了、という事になるわけですのに、都合の悪いところを必死にスルーなさられましても、
と思う次第でございますしねえ。
そもそもの問題として、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
織田が2万もの軍勢で籠城してくれるなら、むしろ包囲網側は
織田の美濃の他の城やら領土やらを攻略し放題、という事になりまして、
織田側は威信が減退する事になりますし、普通にその場合は救援に来ない織田に対して
次々と離反やら内応が相次いで勢力崩壊、という形になりそうな気がするのですけれど、
いかがなものでございますかねえ。
まじめな話、毎日のようにネット貼りつき生活をなさられておられる、
貴方さまはどのようなご生活をなさられておられるのかと思う次第でございますしねえ。
もういい加減、
貴方さまご自身がネット廃人的な生活をなさられておられる事に関しましては、
相手側がいなくなったら必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられているご様子でしたり、
ここまで貴方さまもなりふり構わず毎日のように出勤時間帯とかをすぎても朝も昼も夕方も夜も深夜とかも
貼りつき続けているわけなのでございますし、
お認めになられた方がいいように思うのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。
武田
2万5千から1万損失したら残りは自国の防衛に必要な戦力で損耗できないから撤退するよ
織田
2万5千から5千だろうが1万だろうが損失しても既に自国の防衛戦やってるんだから残りの戦力で国土防衛するよ
さすがに2万近く損害出したら崩壊するかも知れんが
本当に理解できないの?すっとぼけてるだけ?
貴方さまご自身がネットで廃人的な生活をなさられて。
自分のこと言ってるのか?
クソニートのゴミクズくん。
無職はいいなあ。いつでも遊べて。
>武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし
これが大雑把すぎてさっぱりわからない。わからないから包囲網側の美濃進攻が成功するか
どうかなんてだれにもわからないし判定や議論のしようもない。
何月何日誰が兵いくつを率いてどこでどうする、と具体的に作戦要綱を書いてください。
朝倉義景?が兵2万?を率いて油坂峠?それとも温見峠?を越えて郡上に進出?してどうするんですか?
中濃諸城の攻略なのかそのまま岐阜城へ南下するのか武田と合流するのか
その辺が一切合切わからない。
これがわからないというなら包囲網側の美濃進攻も成功するかどうかはわからない、となる。
>織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
>朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻
これって逆のことそのまま言える
織田は主力以外の別方面は守り固めて、数の有利活かして各個撃破すればいいと
織田の方が本国で地の利があって守りやすい
武田朝倉は山を延々と越えてきてるため相対的に負担が大きい
長期戦になれば更に不利雪降ったら朝倉は帰るしかなくなる
朝倉武田が多少美濃奪っても距離の差から織田は反撃に出やすい
余程侵攻側の兵力大きくないと無理
>>79
>長島の一向衆には組織的野戦遂行能力はないと思われる。
中身が他の大名家と同じとしたら、まともな遠征能力持っているのは
他の大名同様全体の2.5%ぐらいか
ちょっと近所に出るぐらいだから5%ぐらいでも大丈夫だとは思うが
織田側の「内線の利」についてはまさにそんなかんじです。
自分が有利なところだけで戦いやすい。
長島一向衆については、遠征能力じゃなくて、野戦遂行能力です。
暴徒の集団のようなものでしょうから軍事のわかる指揮官がいて命令系統が確立されている
ということはないでしょう。
国人地侍連中が少々いるでしょうけど、例えば、
清洲の後詰に来た織田勢に対し、包囲を解いて押さえを残し、主力の衆で
鶴翼に構え織田の後詰を迎え撃つ、とかできないでしょ。
大将、部隊指揮官がいなくて命令系統も確立されてなければそりゃできない。
信玄擁護するにしても信長貶めるにしても長いだけで中身が無くスカスカなんだよ君の説明は
その志賀陣関連に関しては、貴方が信長朱印状を延暦寺宛にしようと躍起になって喚いてただけの話で、
結局延暦寺じゃ場所的に美濃と近江の境に兵力を置けない事とか、内容が武家宛のように思われる事をこちらが指摘しましたら
発狂逃亡をされておられますし、実際に私が最初に朝倉景職と朝倉宗滴の侵攻事例について書きましたし、
そもそも、その他にも朝倉景高の事例もあげましたし、
他にも、前スレにも書きましたように、岐阜の研究者さんの横山氏なども、祐向山とか大桑から、冬場をのぞけば越前と密接に連絡がとれた事、
大桑城は朝倉氏の影響が強い城で、朝倉氏の技術者を基にして構築された城であろう事、
土岐頼武・頼純などが朝倉氏の軍事的な支援などを受けて活動していた事、などを指摘されている事なども、
普通に私がご紹介させていただいてきたわけなのでございますしねえ。
とりあえず、議論的に不利になったからといって、必死になって捏造曲解にご狂奔なさられておられないで、
聞かれている事柄については、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まじめな話、毎日のようにネット貼りつき生活をなさられておられる、
貴方さまはどのようなご生活をなさられておられるのかと思う次第でございますしねえ。
もういい加減、
貴方さまご自身がネット廃人的な生活をなさられておられる事に関しましては、
相手側がいなくなったら必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられているご様子でしたり、
ここまで貴方さまもなりふり構わず毎日のように出勤時間帯とかをすぎても朝も昼も夕方も夜も深夜とかも
貼りつき続けているわけなのでございますし、
お認めになられた方がいいように思うのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。
とりあえず、今日は後に予定がありますので、ここら辺で撤収させていただきたいと思う次第でございますかねえ。
( ̄∇ ̄*)
いやいやいや、織田側も動員兵力は2万数千程となっておりますのに、
なんで織田側は貴方的な理屈でいう5千で崩壊、とならないのか、が
非常に謎すぎると思われるわけでございますしねえ。
それだけの損害を受けたり、すれば内応やら脱走やらが起きそうに思われますし、
そもそもの問題として、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
織田が2万もの軍勢で籠城してくれるなら、むしろ包囲網側は
織田の美濃の他の城やら領土やらを攻略し放題、という事になりまして、
織田側は威信が減退する事になりますし、普通にその場合は救援に来ない織田に対して
次々と離反やら内応が相次いで勢力崩壊、という形になりそうな気がするのですけれど、
いかがなものでございますかねえ。
>>103
既に背後に岩村とかを確保している状況なわけでございますしねえ。
>>101
他の長期遠征の事例もそう頻繁にやっているわけではないですしねえ。
そもそも、昨夜とか言われても知らないのですけれどねえ、私は昨夜書き込みしておりませんしねえ。
>>105
特にそんな事はないように思われますけれどねえ。
何度も言いますが、長期遠征の事例も、その大名達はひんぱんにやっているわけではないわけですしねえ。
とりあえず、今朝はこれくらいで撤収させていただきますかねえ。
ニートくんによる
ニートくんのためのスレにようこそ、お客様。
友達も定職も家族もない孤独なねえくんのために、お相手して下さいませ。
緩く見積もって120万石の武田が1万石=250人徴兵してようやく可能な数なんだけど…
これだけ動員して年単位でまじで維持できんの?
他方面の抑えの兵力や留守居の在番衆とかを全力動員するつもりなんじゃないの?
とりあえず本人の想定を確認してみてからでいいんじゃないかな?
武田が全力動員で東濃進出するなら徳川はフリーハンドになるし
徳川が神坂峠抑えたり馬籠抑えたりするとかなり面白いことになる。
北信濃も無防備マンするの?
上野も北条に100%依存?
流石にー???
ティッシュの用意はよろしいでちゅかー?
織田は岐阜、犬山、清洲にそれぞれ兵8000で籠城、小牧山に遊軍として兵4000、
この配置でとりあえず12月まで待てばいいんじゃないかな。
12月になれば朝倉は越前に帰るだろうから織田は野戦するならそれ以降でいい。
不利な状況で野戦する必要などない。
朝倉が美濃で越冬は考えにくい。兵站がもたないはず。
武田が朝倉の兵站を肩代わりするとも思えない。
そも、武田自身の兵站も木曾谷経由でも神坂峠経由でもかなり厳しいものになると思われる。
そして長島の一向衆には組織的野戦遂行能力はないと思われる。
織田としては長島一向衆は数が多いだけで、野戦に応じてもらえるなら
一向衆の撃破は容易と思われる。
一向衆のできることは町の放火や城を包囲するか数に任せての無謀な力攻めあたりかな。
一度作戦投入してしまうと立て直しがかなり困難と思われる。
5千を山県、3千を秋山に預けて別動隊とし、信玄本体は2万2千を率いて甲府から出陣
(北条援軍2千含む)
そういえば北条の援兵はいつまでならいるんだろうね。
史実ではいつまでいたのかな?
↑できてない
一万超で出陣した家康は被害は千ちょっとで撤退してる
戦後すぐに失地回復に動いている事から壊滅してるとはとても言えない
普通に書状などからして、美濃侵攻だと思われるのでございますけれどねえ。
>>89
信玄の容態は別に岩村が味方についた段階では特に問題ないと思われるわけでございますしねえ。
少なくとも、資料的には。
当初から美濃侵攻狙いのように思えますけれど、途中で美濃侵攻になった、論の論拠ってなんなのでございましょうかねえ。
>>84
いやいやいや、これも何度も指摘されている事ではございますが、
徳川は三方ヶ原では50名近くの武将が死亡しており、
戦死者を2千としている書状もあるわけですしねえ。
で、徳川は続く武田の野田城攻めの時の救援に3千程しか動員できておらず、
信玄が死亡した後の7月の長篠城再奪取の為の時の兵力も3千程ですので、
普通にしばらくは三千程しか動かせなくなっているように思われる次第でございますかねえ。
北条の援兵もそこで相模に帰還かと
徳川をどうしてたんだろう。
やっぱり無視して西にいくの?
12月に家康に痛手を追わせて浜松城に撤退させる
追撃はせず浜名湖で年越し
1月に野田城攻め開始、2月に落として信濃に戻り甲府に帰還
信玄の容態が悪化したのは野田城攻めあたりと言われています
もしくは
当初は徳川領が目的だったが東美濃の情勢が変わり岩村城という拠点を得たので戦略を変更した
(自身の体調の問題もあり焦っていた?)
というのが有力とされていますね
でも 本体を東海道に進めていけば、普通は尾張雪崩れ込みになると思うんですが、そういえば今川義元のあれも目的が諸説ありましたっけ。
後世の後知恵では、ここで確実に徳川を潰せば勝頼の運命も変わっていたんでしょうが、
そうならないのが天命うけた天下人なんでしょうね。
武田信玄は侵略を河川沿いで行うことを徹底しています
例:千曲川沿いの村上義清攻め、川中島への拘り
西上作戦でも太田川(勾坂城)、天竜川(二俣城)、豊川(長篠城)を陥落させ周辺国人衆に軍役と兵糧提供を課していました
河川周辺及び経済の支配を重視していたため、野田城を落として撤退したのであれば目的に沿った行動だと思います
ねえが立てた基地外スレに参加するんだから。
よかったな、ねえこと菅沼。
明日もオナニーできるぞ。
必死になって、
いつも通りに捏造曲解やらレッテル貼りやらにご狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
いつも通りに貴方が喚いておられる、
その妄想願望についてのご論証を、具体的に聞かれると
一度もお答えになられる事がお出来になられずに発狂逃亡をなさらずに
なさられる事と、
貴方がいつも通りに発狂逃亡をなさられておられます、
その菅沼なんたら認定は、
それを認定されている人々が特徴の異なる膨大な人数になっていて、
貴方ですら、それに整合性をつけてのご説明をなさられる事が
一度もお出来になられない、という事について、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
をやっておられると、ご自身でお認めになられておられますのに、
相手の事を必死でそうやって認定しようとしてもしょうがないとは思う次第なのですけれどねえ。
膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
別IDが必ず現れて最後に「ありがとうございました。勉強になりました」
って自分のコメにアンカつける
野田城から吉田城攻めはあるかも知れませんが、岡崎は遠すぎるのとそこから尾張に侵攻するには武田が得意とするの河川を利用した兵站が繋げないので厳しいというのがその理由です
岡崎は近くに矢作川が流れてるけど、その点についてはどう?
水運の観点からいけば三河から尾張ではなく、
東濃制圧後、兼山城、犬山城というルートになるけど。
もし信玄が三河を領有して織田に対して防衛策を採るとしたら岩津城、岡崎城、さらに南の桜井城を落として防衛ラインとするのは考えられます
ちょうど家康が秀吉に対応したときと極似した状態になりますね
よく将兵に厭戦気分が起こらなかったり、本国の心配とかなかったな。長期遠征になれば、敵に攻め込まれなくても内政の仕置とかあるはずなのに。
昨夜の続きですが信玄は長期遠征といのはあまりしませんが、拠点を確保して軍勢を駐留させています
川中島の決戦後や負け戦だった砥石崩れの後でさえ二ヶ月程滞在してから撤退しています
何度も指摘されている事ではございますが、
謙信は1573年の年末まで北陸一向宗との戦いを続けていくわけでございますし、
その後も関東で武田の同盟者である北条が関宿やら羽生やらを追い込んでいる事から、
それへの救援の為に1574年末まで関東の各地で戦いを続けていく、という流れなわけでございますしねえ。
むしろ、上杉側は夜に猟師が鉄砲を一発打ったのを信玄襲来だと思って大騒ぎになる、というくらいに
この状況で武田勢とまで戦いたくない、という感じになっているわけでございますしねえ。
>>81 >>80
いやいやいや、それは困難なように思われる次第でございますしねえ。
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
どのように数の有利をとるのかと思われますし、
普通に志賀陣の時も、朝倉浅井側が守りを固めたら織田は攻略をするのが不可能的な状態になって
和睦詐欺を行っている事からも、普通に対峙状態が続き、
そこを、対峙している勢力以外が(朝倉が対峙しているなら武田・長島が、武田が対峙しているなら長島・朝倉が、
長島が対峙しているならry)他の織田側の美濃の領土を侵食していく、という感じで
どこら辺が有利になるのかと思われる次第でございますしねえ。
>>79
他の織田側の城が攻略されてしまい、領土化されてしまいそうに思われる事やら、
そういった攻められている織田側の城の救援に赴かないのであれば、織田の威信が減退しそうに思われますしねえ。
長島一向宗に関しては、同じような編成の石山本願寺が、普通に野田福島で織田勢を野戦で撃破したりしてますのに、
長島だけ野戦ができない理由はないと思われますしねえ。
そもそも、織田勢主力が出てきたなら、対峙戦に持ち込めばいいだけの話でございますしねえ。
>>77
いつも通りに必死になってレッテル貼りにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
貴方が>>14にありますように、複数端末による複数ID自演を行われている事が
明らかになっておられて、それが周知になってきているからといって、
必死になって喚かれなくてもよろしいと思う次第なのでございますけれどねえ。
>長島一向宗に関しては、同じような編成の石山本願寺が、普通に野田福島で織田勢を野戦で撃破したりしてますのに、
長島だけ野戦ができない理由はないと思われますしねえ。
そもそも、織田勢主力が出てきたなら、対峙戦に持ち込めばいいだけの話でございますしねえ。
長島の一向衆の大将はだれ?部隊指揮官も数人でいいから列挙して。
大将も部隊指揮官もいないなら、「ここを守れ」「ここに移動しろ」「この町に放火しろ」等
シンプルな命令行動はできても陣形整えて野戦するってことは命令する者がいなければ
できないと思われるが?
わたしは組織的野戦遂行能力についての言及です。
いや、普通に軍鑑とかに武田の西上軍は三万余、と書いているわけなのでございますしねえ。
徳川相手には数千の兵力を抑えに回せば、>>99にありますように、
徳川は当面三千程しか動かせなくなっている次第なわけでございますしねえ。
>>74
>何月何日誰が兵いくつを率いてどこでどうする、
あのですねえ、毎度毎度、必死になって質問返しにご狂奔なさられたいご様子ではございますが、
元々実行される前に終了してしまった計画なのですから、
そこまで細かい事をこちらが、というか、当人達ですら、わかるはずがないと思いますのに、
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。
まーた貴方は「もう消える!」と>>42で喚いておられたのに、また普通に出てきて、
質問返しにご狂奔なさられて、結局のところ
>これがわからないというなら包囲網側の美濃進攻も成功するかどうかはわからない、となる。
というのを無理やり押し通したいだけのように思われる次第でございますので、
そのような事をなさられるよりも前に、先に貴方に聞かれております、
>>45などについて、おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
上野攻めの例や小田原城に攻め入った際も一週間程度しか滞在せず、相模からも一ヶ月程度で撤退しました
まーたいつも通りに必死になって、相手側がいなくなった後に、
ご自身がネット廃人的な生活をなさられておられる事を指摘されて、必死になってお喚きになられておられるご様子ではございますが、
私は今日は普通にお休みの日でございましたからねえ。
相変わらず、いつも通りに必死になってレッテル貼りにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
貴方が>>14にありますように、複数端末による複数ID自演を行われておられるご様子ではございますが、
もういい加減、
貴方さまご自身がネット廃人的な生活をなさられておられる事に関しましては、
相手側がいなくなったら必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられているご様子でしたり、
ここまで貴方さまもなりふり構わず毎日のように出勤時間帯とかをすぎても朝も昼も夕方も夜も深夜とかも
貼りつき続けているわけなのでございますし、
お認めになられた方がいいように思うのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。
>>67
相変わらず、必死になってレッテル貼りにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
まじめな話、毎日のようにネット貼りつき生活をなさられておられる、
貴方さまはどのようなご生活をなさられておられるのかと思う次第でございますしねえ。
もういい加減、
貴方さまご自身がネット廃人的な生活をなさられておられる事に関しましては、
相手側がいなくなったら必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられているご様子でしたり、
ここまで貴方さまもなりふり構わず毎日のように出勤時間帯とかをすぎても朝も昼も夕方も夜も深夜とかも
貼りつき続けているわけなのでございますし、
お認めになられた方がいいように思うのでございますが、
いかがなものでございましょうかねえ。
1. 秋山の居城に軍勢を駐留させ、東美濃の拠点を広げる
後年の勝頼が明知城を奪取した流れをそのまま踏襲するとしたら、この時点での兵数はまだ1万弱程度
2. 信長が救援のため派兵してくるので、得意の山岳戦で撃退する
同時期に朝倉の軍勢を郡上八幡まで派兵させて遠藤氏と合流させる
3. 信長の注意が北と東に分散するので伊勢長島の一向衆を蜂起させて更に揺さぶりをかける。
その隙を狙い金山城を攻略、続いて犬山城を攻略して新たな拠点とする
森長可、池田恒興が信玄に内応するとはまず考えられないので東美濃の秋山もしくは山県あたりが城主に就くと思われます
朝倉軍に関してはそのまま撤退させると思います
これで朝倉は美濃支配の牽制役として駆り出されただけとなり、結果としていつもの信玄の
“体よく利用して恩を売る戦略”
になります
川中島の戦いを参考にすれば決戦の勝敗結果を問わず、最終的には周辺の実効支配を狙うと思います
朝倉義景がこんなに人のために働いてくれるなら、自分が総大将格にあった志賀の陣でもっと頑張るか抜け目なく動いたんじゃないか?
大内義隆や一条兼定、斎藤龍興にも言えるけど、朝倉義景は家督相続の時に争いを経験してない。無能ではないが、そのために柔弱で判断が甘く、ガッツがない。
朝倉義景が武田信玄の言うことに応じるのかな?
http://imgur.com/lGFC2pI.jpg
拾い物ですが美濃の地図です
八幡城周辺一帯が遠藤氏の勢力圏なのですが、篠脇城などは1540年の合戦で朝倉に落とされているなど、朝倉家にとっても美濃での地理的に明るいエリアです
義景本人でなくとも景鏡を派兵する程度であれば問題ないでしょう
岐阜に向かうには南下して関を経由するのですが、そこまでは行けないと思ったので前述のような戦略としています
確認してみたけど、>>116の地図参照にすると、
津保(大洞城(一柳城))、鉈尾山城、加治田城、中濃の主要部で、
もし本当にこれが内応するようなら岐阜から見た場合(美濃・尾張ではなく)、
織田の防衛ラインは関~鵜沼~犬山のラインまで押し込まれることになる。
織田の場合、東濃へは犬山から善師野(現R41)方面から西可児に抜けて東濃、
あるいは小牧山から春日井から内津峠越えて東濃多治見に抜けるルートはある。
が、情勢次第では善師野~西可児ルートは危険が伴いそう。
武田の想定される攻勢方面は、岩村城から鶴ヶ城(瑞浪市)攻略→兼山城攻略を指向するものと思われる。
武田が兼山城を攻略できれば
鉈尾山城~加治田城~兼山城のラインが形成できる。
包囲網側の美濃進攻計画?としては、
朝倉景鏡5000が油坂峠を越えて郡上で遠藤と合流、
武田信玄20000が岩村城より鶴ヶ城を攻撃、
情勢とタイミングを合わせ、大洞、鉈尾山、加治田の内応、及び
朝倉・遠藤は南下、鉈尾山城に入城し防備を固めつつ織田の後詰が東濃に行くようなら
退路遮断の好機を狙う。
タイミング的には武田が鶴ヶ城を攻略し、兼山城攻撃してるあたりがベストと思われる。
この同時期に長島の一向衆が清洲の包囲なり熱田の占拠なりして牽制できれば
織田の兵力を尾張に誘引できる可能性はけっこう高いと思われる。
一方織田側の対応は難しくもあり読みづらい。
もし東濃に後詰を送るなら、鶴ヶ城が攻撃されたときか兼山城を攻撃されたとき。
同時期に長島一向衆が清洲・熱田で暴れているようならこれに対応して
尾張に兵を送るか放置するか読みにくい。
それ以前に織田の基本戦略が冬の朝倉が帰るまでの持久志向か戦力不利を承知で
武田に対し後詰を送るかが読めない。
合理的に考えれば冬までは関・鵜沼・犬山のラインで持久しつつ、朝倉が帰ったのち
有利な状況下で長島一向衆、武田、美濃寝返り勢力を各個撃破するのが理想。
今川義元が尾張に侵攻してきた桶狭間と、勝頼が東美濃の侵攻してきたときも信長の対応としては自身は動いてないので
同じように対応した場合、森長可には籠城で時間稼ぎをさせると思います
両方とも、結局は信長が動いて来援しているように思われるのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>169
それは単に貴方が、志賀陣でも包囲網側が同じような戦略で動いていて、
戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますのにも関わらず、
なぜだか、信長さまがシミュレーション上で不利になられる時にだけ、
美濃には陣をしいて対峙戦に持ち込むことが不可能になる、という前提でなければ
不可能なように思われるご論旨のように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
すくなくとも、越前から美濃への距離、信濃から美濃への距離、北伊勢から美濃への距離、
いずれもそこまでの兵站問題を有しているとは思われない次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>168
いやいやいや、なぜに朝倉の美濃への侵攻兵力が5千程なのか、とも思いますし、
朝倉が仮に撤収したとしても、長島一向衆、武田、美濃寝返り勢力の総計兵力だけでも
当時において織田が美濃に集結させられると思われる兵力である、2万数千から3万程、
を余裕で上回ると思われますので、とくに問題はないのではないかと思われる次第でございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>167
いやいやいや、必死な織田厨さんであらせられる貴方さまにとっては「信長さまにとって」屈辱的なのかもしれませんが、
実際には、このような戦い方は普通に志賀陣で包囲網側が行っておりますし、
戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますしねえ。特に信玄がそれを行わない理由はどこにもないように思われる次第でございますかねえ。
>>166
いやいやいや、ちゃんとした史実的な事例がある事ばかりがのべられておりますので、
信長さまが不利になる時にだけ、地形がエベレスト級になる事はまずありえないと
思われる次第でございますかねえ。
あと安藤守就は後年信長に追放されているので信玄に内応していた可能性ありますね
北方城主です
北方城が寝返るような情勢だと織田は東濃の後詰とか言ってる場合ではなくなる。
岐阜に対する直接脅威となるので真っ先に排除するべき優先目標になる。
ただ、北方城って規模、詳細不明の平城っぽいね、堅固な城なら朝倉が温見峠を越えて
北方城に援軍送って籠城、織田戦力誘引って手もあるけど、どうかなぁ、ってかんじ。
信玄本隊はその流れで攻めていくと思いますが別動隊も組織して明知城から尾張国境方面にも向かわせるかもしれないです
その別動隊の指揮が勝頼だったりすると面白いけど、無いだろうなぁ
欲を言えば(武田にあと5000ほど兵力があれば)、別動隊を編成し尾張に進出、
長島一向衆と合流し織田の尾張への兵力派遣確率をより高めたいところだけど、
これ以上武田の決戦兵力を分散させるのは危険だと思う。
個人的には朝倉景鏡の5000足しても、織田に対しては優位とは言えない戦力だと思う。
朝倉は織田に対しての決戦兵力ではないので分散でも構わないとは思うけど。
勝頼の行動が速いのに加えて、
山岳地帯で武田も織田も軍を動かすのが困難でお互い戦闘しかけられなかったってのもある・
>>168
問題は遠藤もだけど本当に内応するのかわからないという。
美濃越前間でそれなりの部隊で軍事的に有効な行動採れるなら、
織田も朝倉も史実でお互いもっと国境固めるよう指示していると思うぞ。
織田の対応はまず内応した中濃勢力の排除じゃ。
包囲網側にとって問題はほんとにそこだと思う。
ほんとに内応するのかどうか。味方するする詐欺はありえるから。
だから武田からしたら「早く挙兵しろ!ほんとに内応するのか?」だし、
中濃内応勢力や郡上遠藤からしたら「ほんとに援軍来るのか?援軍来ないと織田にやられるだろ!」だし。
>同じく同時点で武田が長島一向衆に清洲の包囲と熱田占拠依頼。
これも史実の動き考えると無理だと思う。
成功失敗に関わらず当分動けなくなるぐらいの後先考えない全力出撃して
初めて可能性出てくるような話だと思う。
>>186
織田の主力がどっか行ってガラ空き状態になったところに武田が来たなら寝返るとは思うけど、
そうでなきゃ日和見して織田の主力がいる状態じゃ織田に普通に従うと思う。
長島一向衆についてはその通りだと思いますよ。一度作戦投入してしまうと
その次は立て直しと再編成でかなり時間がかかると思います。
織田の後詰が来て攻撃されれば半壊状態で当分立ち直れないと思います。
長島一向衆を作戦行動させるなら、いつ、どこで使うかが重要だと思います。
チャンスは最初の一度が最大のものだと思います。
清洲の包囲と熱田の占拠の効果については、東海道を遮断することになるので、
徳川からすると、織田の援軍は当分来ない、と徳川の士気低下狙い、
その状況を解消すべく織田が美濃から尾張へ兵力を派遣するであろう戦力誘引の期待です。
個人的には武田は東濃進攻するより三河制圧に重点を置いた方がいいと考えているので
織田が三河に後詰で来た場合、長島一向衆の作戦行動はこれが最適だと思っています。
この場合は織田の退路遮断が狙いです。
まぁスレの流れが東濃進攻なので、それに合わせて、ということですが。
織田の援軍が数千以下ならともかく
それ以上の数で来たら遮断どころかそのまま織田に殲滅されると思う。
熱田占拠となると熱田の町民も抵抗するだろうし。
ただまあ全滅と引き換えに織田の戦力誘引は可能だと思う。
そもそも美濃侵攻は武田信玄お得意のブラフだよ。手紙で書いてる言っても1通や2通でしょ。
何より気になるのが、当時の武田幹部の高坂昌信が甲陽軍鑑にこの計画を記録してないし、後世の軍記や史料にすら見当たらない。
朝倉、遠藤、長島は織田軍主力を美濃から動かせないようにするための捨て駒で、その間に徳川家康を制圧するつもりなんでしょうよ。
武田信玄はこの手を本庄繁長や大隈長秀、北条高広にも使って上杉謙信を倒そうとしたり、引きつけさせてその間に駿河制圧をしたりしている。
『遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり』
これって甲陽軍鑑からの言葉じゃなかったっけ?
>>116の地図にあるように特に障害はない
11月19日武田信玄朱印条書
「一、郡上之遠藤向岐阜なたをの取出、早々可築之旨、令催促候、自其も同前ニ可被仰越之事」
2月26日浅井長政書状
「、遠州・三州不及申、東美濃加治田・つぼ、奈多尾三ヶ所城、重而信玄に申合候、甲州先勢至東濃乱入候、義景當表早々進発相極候、」
美濃侵攻作戦で朝倉が参加するのも俺は異論は無いけど
(美濃に行くのか近江に行くのかは知らんけど)
伊勢長島一向衆もやってきて織田が武田に迎えば~戦国時代のセオリーですし
だけは圧倒的におかしいので話がメチャクチャになる
地図上にある岩村城、大井城は既に落としています
明知城、苗木城は史実では勝頼が後年攻略しました
大井城側を流れているのが木曽川で、信玄の規定路線ではこの木曽川に沿って攻略していくと思われます
果たして郡山八幡と伊勢長島の陽動がどれだけ有効かは分からないので、金山城を攻略するというのは容易では無いと予想されます
とは言え三方向から侵攻して連携するのがセオリーですしなんていう雑な主張に比べたら少しはマシな案かなと思い書いてみました
長文失礼しました
伊勢長島はどうやって岐阜城へ行くんだ?
まさか鈴鹿峠越えるわけないよな。
土岐多羅越しても大垣に出る。
長良川沿いに出るのか?
全部織田の勢力圏で危険すぎる。
桑名ほかには織田方いるし。
伊勢長島はその周辺で動くだけで尾張以南の織田勢を牽制できるんじゃないかな
武田としては美濃入りできる織田勢を如何に減らすかというのが重要でしょうし
清洲の包囲か熱田の占拠とか尾張で牽制するってことでは?
他の方に既にフォローいただいてますが岐阜には行かなくて周辺一帯で活動するだけですね
伊勢長島は美濃国ではありませんが岐阜から郡山八幡までと距離的には似たようなもので、数だけは多いので陽動の効果も少しは期待できると思います
いやいやいや、甲斐と周防でしたら、距離的にもそれほどの変わりがないように思われますしねえ。
当時の国力的には西上当時の武田の方が上なわけですし、そもそもの問題として、
10年も大内のように京都に滞在するのかどうかも未知の領域なわけでございますしねえ。
無理に貴方が信長と大内を必死に持ち上げようとして喚いておられるだけのご様子のように思われる次第でございますかねえ。
ですから、武田も同じような事、という事で特に問題はないわけでございますよねえ。
>>241
いやいやいや、それは貴方さまの妄想願望のように思われるわけでございまして、
普通に対峙戦に持ち込む事で織田という大勢力を打ち倒せるなら、
後は尾張・三河遠江を侵攻・制圧していけばいいだけの話でございまして、
十分に戦略的にもお釣りが来るように思われる次第でございますしねえ。
>>118 >>121
普通に織田の領域を制圧しながら北上していけばいい、というだけの話であると思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
こいつ石高でしか国力測れないの?
大内氏は貿易していた。この利益だけでも武田信玄なんか比較にならない。
それに加えて石見銀山に瀬戸内の制海権抑えたことによる利権、下関の利権もある。
どう考えても大内氏は武田信玄の比ではない。
ただの貿易じゃなくて勘合貿易の利権独占だから桁違いの利権ですね
どうも武田信玄の財政、経済力は大内氏や織田氏に匹敵するらしいなこのスレでは。
甲斐と周防の距離が変わらんとかマジで言っちゃってるのお前!?!?
周防から京都までの距離と、甲斐から京都までの距離、は
そこまで陸路的には圧倒的な差がないように思われる次第なのでございますが、
この件についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
東は犬山城、北は関あたりまで制圧できたら一旦撤退で問題ないかと
信長が岐阜から出てきても北は朝倉、東は武田が後詰めできるので簡単には崩れない
そしたら三河方面の侵攻を再開して尾張から北上していければベスト
いくら信長が畿内を制圧していても甲斐、信濃、西上野、駿河、遠江、三河、尾張、東美濃、飛騨まで広がった武田であれば国力で互角以上に持っていける
東の後詰めって言ったって、甲府から岐阜って、岐阜から京よりも距離があるし、山越えだし、どこまで可能なのか疑問。
三河遠江辺りを安定させてそこから動員をして、甲斐信濃の兵力にあまり依存しない攻略体制を構築出来なければ、地理的に長続きしないんじゃないかな。
周辺を徘徊するつもりが挑発・調子に乗って深追いして殲滅とか目も当てられない
混乱を立て直す指揮官は不在
具体的に伊勢長島の軍事組織がどうなってるか知らないし、制御できる指揮官が本当に不在かもわからないけどさ
少なくとも大名家の軍勢と同列に語れないんじゃない?
兵力を置いてくれるなら、むしろ武田側が優位になりそうに思われますけれどねえ。
しかも一万も、となりますと、美濃の織田主力は2万以下くらいになりそうにおもわれますかねえ。
>>123
何度も言いますけれど、普通に北伊勢豪族衆を従えて、そこから美濃に焼き打ち侵攻を行ったりしてますのに、
信長さまがシミュレーション上で不利になる時だけ、侵攻ができないという理由はどこにもないように思われる次第なのですが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>122
少なくとも、他の一向宗の動きとか軍勢の動向とか考慮しますに、
長島の実績なども考慮まするに、特に他の大名とかに劣るようには思われない次第であると思うのございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
壊れたレコードみたいに言ってること同じことばっかりしか言えないのか、菅沼。
美濃の何処に焼き討ちしたのか、教えて下さい。
そりゃあ、他国に兵力を派遣して守りを固めているから、でしょうに。
当時の織田の勢力は200万石程で、各地に守りとかを置いた結果、
美濃に残せる兵力はそれくらいになる、と指摘されている次第でございますしねえ。
>>161
何度も指摘されておりますように、佐久間折檻状にありますように
織田は各武将達がどれほどの動員をするかを、
東国達のようにさだめられておりませんので、無理に動員しようとしても困難なように思われる次第でございますかねえ。
>>158
いやいやいや、武田側が険路を抑えて織田勢主力を妨害して、その間に城が攻略され、という流れでございますかねえ。
>>157
いやいやいや、特に距離的にも兵站的にも問題はないですし、後年の織田もある程度長期的に侵攻する予定であった事は
信長の指示からも明らかなように思われる次第でございますかねえ。
>>156
尾濃国境に放火、との事らしいですかねえ。
濃尾国境の何処になるんですか?
地名ないんですか?
濃尾国境が何処になるか知っていますか?
実際には1572年くらいから伊勢長島は北伊勢豪族衆を傘下にしていき
その領域を美濃に達するまでにしているわけでございますし、
実際には1573年には尾張美濃国境への焼き打ち侵攻を行っており、
別に貴方がおっしゃられる程に伊勢長島は動いていないわけではない、という事になるのではないかと
思う次第なわけなのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>222
尾張美濃国境を放火、とかしかないですねえ。
基本的に資料の記述は簡素なものですから、毎度の事ではございますが、
必死に質問返しを貴方がなさられれば、史実の方を存在自体をなかった事にできるとか
思われないで、貴方が既に聞かれている事柄などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>219
いやいやいや、実際は貴方などが必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられます御様子ですから、
論旨の再提示などをしている次第でございますし、
前の論旨で問題ない事柄なども再提示している次第でございますかねえ。
濃尾国境は木曽川なんですけど。
「川」を焼き討ちするなんて聞いたことがありませんよ。重油でも川に流して、火を付けたんでしょうかね?
国境にあるものって川だったり山だよね
宿場町がある場合もあるけど、そういう場所を焼き討ちする訳がない
だから国境を超えて焼き働きをする
って書きたかったんだろうけど、そういう場合は川の向こうが敵国だから効果がある訳で
尾張も美濃も伊勢も信長にとっては自国なので、わざわざ美濃まで行く意味は無いでしょうね
軍役の定めがないと動員できないみたいに書いてるけど、1540年にまだ安芸の国人領主に過ぎない毛利元就が、尼子晴久の2万数千に攻められて吉田郡山城に籠城した際に、領地の民衆まで城に入れて抵抗した史実もあります。
1577年にも能登守護の畠山が上杉謙信の侵攻を受けて民衆まで入れて兵力増強を図った例があります。
織田にとっては美濃という本拠地防衛戦にあたるため、かなり無理(あとがもうない)するなら、まだまだ兵力増強は可能です。
尾張60万石。美濃54万石。
このうち東美濃岩村だけ武田領として4万石引いても50万石。
110万石。これに加えて、この両国は肥沃かつ商業の発展地で人口も多い。軽く動員しても3万は超えるのに、なんで1万差し引いて2万以下になるんだよ。
過小評価も大概にしろ。
織田はまだなりふり構わない動員はしてない
数だけならまだまだ揃うゾ?
そのくらいなら一揆勢でも十分可能では。
信玄は謙信相手にやってたから、
精算はあるんじゃないのかな
清洲か犬山か楽田か、この場合だと清洲になるかな? 清洲城を伊勢長島が落とせるとは思えないが。かつての小木江城とは規模が違いすぎる。
長島の外から来た人間はノリノリで出ていくかもしれんけど、地元の人にとってはたまったもんじゃない
史実みたいに織田が攻めてきたら迎撃
存在することで織田の兵力を引きつけるで十分だと思うんだよな
>>128
朝倉も武田も撤退しにくいんだよな
山岳部だから侵攻した先を守りやすくはあるんだけど
伊勢長島の一揆衆は織田領に侵攻すると守りにくい平野部な上
帰る先は撤退しにくい河川湿地帯という
>>129
一応浅井長政はそのように主張している
美濃という敵の本拠地。退路は山道。しかも美濃でまずいのは可児か伏見あたりに出ると木曽川をはじめ大小の河川があるため、渡河に手間取る可能性がないとは言えない。
朝倉義景がちゃんと働いてくれるなら、武田信玄に勝機はある。
ところで鉈尾山城って包囲網側でいいのかな?
城主がだれかも知らんけど。
>>136のリンクは
>>129の鉈尾山城の件です
歴史でも惜しいとこいかないのに無理だろ
信玄の主目的が決戦でなく領域支配にあるんだったら、美濃にくる織田勢は少なければ少ないほどいい。
自由にさせて美濃に入られる、
または徳川支援で側面から武田を攻めるのをどう防ぐか。
となると伊勢長島をどう使うかしかないけれど。難しいのかな。
西上作戦の目的を分析した上で美濃侵攻作戦まで進めたらどうなるか?
一向衆の性質や朝倉家の状況を考慮して現実的な範囲で立ててみた仮設です
・朝倉は安全圏の範囲内で派兵して陽動部隊として信玄を支援する
・伊勢長島は史実にあるレベルで蜂起させる
(どちらも武田信玄から本願寺へ依頼する形で連携)
・信玄は自己の利益優先。遠江、三河で徳川領に侵攻した際の基本方針を継続して美濃でも活動する
・度々指摘される兵站の問題は現地調達及び水路での運搬で軽減し敵地での長期遠征は行わない
信玄の岐阜侵攻作戦を支持する内容で書いてますがスレ主本人じゃないですよ
反対意見全く聞かないようなので少しはまともな内容で賛成意見書いてみたら本人赤っ恥かなと
長期遠征に関しましては、何度も言いますように、それを行っている他の大名も
頻繁に行っているわけでもないわけですからねえ。
信玄時代にその必要性が西上の時までなかっただけの話ではないかと思われますかねえ。
>>140
いやいやいや、普通に5月からは岩村から美濃に入っての兵站で一本になるわけですし、貴方的な理屈で言うなら、他の大名も複数の兵站がどうとかいう話になるわけでございますしねえ。
>>137
まーたいつも通りに捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
こちらは普通に反論やら反証やらをして、貴方が聞かれておられる事柄から
発狂逃亡をなさられておられるだけの御様子の様に思われますので、
聞かれている事柄について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、それって貴方が「その範囲でないと、信長さまが不利になるから嫌じゃあああああああ!」と喚いておられるだけの話で、論拠が特にないように
思われますしねえ。
普通に朝倉宗滴とか他の朝倉家の武将達とかは稲葉山城に攻め込んだり、
美濃のかなり中枢にまで踏み込んで合戦して勝利したりしてますのに、
義景の時だけできない理由はないですし、
長島も普通に美濃に焼き打ち侵攻を行っておりますしねえ。
貴方が私じゃない事なんて、その必死に信長さまに都合の悪くない範囲にとどめようとして書いておられる時点で丸わかりなように思われるのでございますけれどねえ。
兵站の問題は、何度も言いますように、勝頼やら、後年の織田やら、も普通に岩村経由で大軍を侵攻させておりますのに、なぜに信長さまが不利になる時にだけ、
いきなり問題になるのか、について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
てめえには聞いてないんだよ、菅沼猿が。
同じことばっかりしか言えない壊れたレコードは黙ってろ! アスペが。
しかし兵站線の負担は半端ないな。甲斐信濃を軸に二俣、野田、長篠まで兵站構築しておきながら、今度は木曽福島から岩村、そして岐阜か。
大内も毛利も北条も上杉も確かに長期遠征したことがあるが、敵をどれかにしぼって兵站は維持していたはずなんだが。武田信玄の底力は凄いな。
信玄の時代には多方面作戦はしてないと思いますよ
一つの戦が終われば甲府に帰還し次の戦へ出陣していく。この繰り返しです
長期遠征についても年単位で遠征していた実績は無いです
最長は川中島で半年ほど在陣していますが、信濃国内でしたし水運もあったと思います
信濃は現代でもそうですが交通の要所として、甲斐は甲州金くらいしか価値は無いと思いますよ
長野とか山梨行ったことあるのか?
なにもないぞ
寄生虫に震えて眠れ
信濃
豊かな土地は北部に集中www
シェ― │――!!
\ /
/⊃⌒ ヽ
|( ^ω^)
ヽ ⊂)
(,,つ. ノ
/ し’ \
│
>寄生虫に震えて眠れ
これはガチだからな
伊勢には潜在的に反織田で武田に内応する予定だったとされる北畠一門がおりますし、
伊勢長島やそれに従う北伊勢豪族衆がおりますし、という感じでございますしねえ。
といいますか、それらを考慮しましても、織田が美濃に集結させられる兵力は
2万数千からせいぜい三万、というのは何度も指摘されていると思うのでございますけれどねえ。
>>132
志賀陣でも普通に包囲網側が追い込んでおりましたしねえ。
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>131
他国の一向宗門徒などから、長島は支援をうけていたようですし、
水運活用によって人員やら物資の移動を頻繁に行っていたようで、
信長がその取り締まりに躍起になっております次第でございますかねえ。
>>130
何度も言いますけれど、徳川は信玄死亡後の長篠城再奪取の時も三千程でしか動いていないわけなのでございますしねえ。
何度もいいますけれど、信玄の書状で、遠藤に対して、
鉈尾に砦を築くように命じている書状があります次第でございますかねえ。
実際にそれで侵攻しているわけなのでございますしねえ。
>>129
信玄の書状で、遠藤に対して、
鉈尾に砦を築くように命じている書状があります次第でございますかねえ。
>>128
何度も言いますけれど、普通に北伊勢豪族衆を従えて、そこから美濃に焼き打ち侵攻を行ったりしてますのに、
信長さまがシミュレーション上で不利になる時だけ、侵攻ができないという理由はどこにもないように思われる次第なのですが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
同じことばっかりしか言えないのかよ。なら参加するな。もうわかったから。
こいつが言ってる織田が向かえばryとか無理だろ。何処に陣張るとか地形や地理考えて言ってるのか?
美濃は織田信長の本拠地だぞ。長篠で馬場信春も勝頼に同じような進言していたが、この策は兵站が確実に機能し、地形を生かした形で陣立てできないと絶対無理。いずれ自滅する。
来なくていいんだよ。
てめえには聞いてないんだよ。
中国攻めの秀吉などは食糧を買い占めて相手を干上がらせる戦術をとっていました
相手にしているのが信長という時点で経済力では勝ち目がなく、美濃での現地調達というのは絶望的になります
木曽から東美濃の山道を運び続けるのは非効率であり、比較的短期間で城攻めを行って相手の兵糧を奪っていくか、中濃で乱取りを行うような戦略でいくしかないですね
勝頼の軍才を示す逸話だけど
その再現が西上作戦でもできるのかな
それが無理だと明智城すら難しそう
群山遠藤氏を見捨てられるので再び織田に帰属するか、浅井のように朝倉側に残るか
信長を岐阜城に釘付けにして美濃中央部の城を攻略していく
(三河・遠江侵攻)
信長を誘い出して得意の待ち伏せ決戦に持ち込む
(八幡原、三増峠、三方ヶ原)
信長の部下を誘い出して迎撃する
(上杉謙信の手取川)
信玄が攻め手側になって信長との直接対決は危ない
(砥石崩れ、設楽ヶ原)
武田信玄が不利になるような状況を絶対に看過できない。
だから、
信濃から美濃へ行くのを「単なる隣国」に行くだけ、と言う。
織田の兵力を過小評価したり、高天神城救援や長篠、越前一向一揆討伐における織田の総兵力を3万などという。
地理に非常に無知なため、何処も平坦で問題なしの思考力。
攻撃(侵攻)と防御(守戦)の違いが理解できないため、1573年の時点で朝倉や浅井が織田の攻撃を撃退したのをまだ浅井や朝倉に1570年当時の力があると思い込む。
織田信長が和睦詐欺を働いた、と騒ぎたて、他の人が史料を出して説明を尽くしてくれても聞き入れず自論ばかりを叫び回る。
自分、あるいは武田信玄に不利な発言をする人を無差別に織田厨扱いする。
手紙や書状を過信し、大名のブラフとか考える思考がない。あるいは「武田家臣のおかげで織田に勝てた。だからもっと教えを請いたい」を朝倉が美濃攻めに参加するに違いないと解釈する。
長島の一向一揆が強いのは籠城戦と長島の特殊な地形に要因があるのに、地形や地理に無知なため、一向一揆は強いんだ、とトチ狂う。
今川との同盟破棄は先に今川家が上杉と結んだのが悪いんだ、武田信玄はなおも同盟を維持しようとしていた、と発言。
まだまだあったと思いますが、ひとまず。
これだけひどい武田厨も珍しいですね。
この武田厨が叫べば叫ぶだけ、武田信玄の株は下がりますね。
朝倉二万、伊勢長島三万、武田三万が美濃に攻め込んで織田が武田に向かえば朝倉が朝倉に向かえば武田が…
なんて屈辱的な戦術を信玄が主導してやるなんて書かれるのが何よりも許せない
岐阜侵攻作戦を擁護してもらっても気に入らないようなので、ねぇが守りたいのは信玄の名誉ではなく自分の支離滅裂な妄想だけ
信玄は越中の一向衆を動かして上杉謙信の2万を越す大群を釘付けにしている実績はありますが伊勢長島とは状況が違いすぎます
〈伊勢長島〉
軍記物で総勢10万程、既に一度信長の侵攻を受けて抵抗している
守戦は下間頼旦、北勢四十八家
※美濃の斉藤龍興も長島の合戦には参加していたが既に畿内に移っている
〈越中一向衆〉
規模として伝わっているのは総勢30万とも
※朝倉と本願寺が和睦しているため隣国の加賀の一向衆も動員して謙信に対抗している
指揮は杉浦玄任、顕栄など本願寺坊管囲椎名、神保など越中国人
いやいやいや、長島一向宗も他国からの支援とかを普通に受けておりますし、
普通に史実でも北伊勢豪族衆を傘下にして、美濃に焼き打ち侵攻とかを普通に行っておりますので
特に問題はないかと思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>164
長島は第三次長島の時でも5~6万くらいは非戦闘員含めていたようでございますし、
北陸一向宗の三十万、とやらは朝倉宗滴との戦いの事を述べておられるのだと思いますが、
他の戦いでここまで書かれてるのはないわけで、謙信との戦いも数万規模で行われておりますしねえ。
朝倉宗滴との戦いも、当時の記録などからして、普通に実際には3万程だったのではないか、と指摘されている次第でございますかねえ。
で指摘されてるんだけどね一向衆の戦力分析
上杉謙信と直接交戦したのは2, 3万だから長島でもそんくらいで戦力になる!
とかワケわからん反論
だって長島が弱かった、なんて言ったら、「武田信玄さまは強いんじゃあああああ!!!!」「だから、美濃を攻めて勝利するんじゃあああああ!!!!」って叫んでる誰かさんの支離滅裂な戦略に支障が出るから。
武田信玄さまの天下取りのためには、長島は強い存在にしておいであげようよ。
伊勢長島の一向衆を動かして美濃まで攻め込ますというのはありえないので信玄が使うとしても長島近辺で煽動させるに留まるというのが妥当でしょう
このスレに地理や地形は関係ない。
余裕があるならさらに朝倉別動隊2000くらいで温見峠越えて根尾、揖斐川方面で
牽制攻撃してもらえれば織田は美濃北西方面も警戒しなくてはならなくなるので
多少の支援にはなると思う。
信玄が東から迫ってる状況で、信長が北部の群山八幡まで軍勢は出してる余裕無いと思うので、朝倉が湖西から近江に出れるならその方がいいですね
美濃藤橋、坂内方面(揖斐川上流部)に出るルートもある。
別にこれは朝倉が敦賀、木之本経由で使えないことはないということで参考までに。
岐阜城も視野にいれて?
浜松に攻め込まなかったのは戦力温存を狙ってだと思いますが、それとは別に「七分勝ち」の信玄だからいきなり岐阜を落とす戦略というのは無いと思います
信長が美濃を攻略したときと同じ流れになるとまずい
只でさえ北と東が調略されてて信玄の本隊が目の前に迫るとなるといよいよ
実際朝倉は退いて連携できてねぇじゃん
朝倉と武田とは期日を合わし郡上進出と鶴ヶ城の攻撃。
あとは武田が鶴ヶ城攻撃した時点で武田が朝倉、中濃内応勢力に使者送って
朝倉南下、鉈尾山城入りと内応依頼。
同じく同時点で武田が長島一向衆に清洲の包囲と熱田占拠依頼。
こんな感じでいけばいいんじゃない?そんなに遠い距離ではないから初動以降は
使者も1~2日で行ける範囲でしょ。戦場は美濃、尾張だよ?
もちろん初動の準備は各勢力してもらわなあかんだろうけど。
もし朝倉、中濃内応勢力、長島一向衆が動かなかった場合、
鶴ヶ城を攻撃する武田に対し織田は後詰を派遣、
野戦になるか対陣になるか武田が岩村に後退するかはわからないが。
しかし朝倉や一向衆が武田に対しそのような裏切りにも近い行為をするならば、
武田が電撃的に織田と和睦しても文句は言えないと思う。
このスレでは地理や地形、距離に兵站は完全に無視され、通信手段はスマホやネットがあるという前提になっています。
武田というとどうしても甲斐の兵中心になるけど、他国の兵のクオリティってどんな感じ?
信長の方からは同盟継続の意思表明してきており、だったら徳川に援軍出すなと釘指しておけば良いわけで…
別にスレ立てたらどう?
見にくくてしょうがないよここ
それに誰かとそういうボードゲームした方が楽しいと思うよ
当時の人たちは信玄が美濃に攻め入るという認識だったわけだ
日付はわかる?
それならおそらく戦国遺文北条氏編でも確認できるわけか、
ありがとう。
そっちか!
探すなら上越市史とかか。
>>203
義景が働いたところで勝てるかどうか、兵力が足りないと思う。
畿内でも動いて近江の兵が美濃に行けないようにしないと。
朝倉義景がまた撤退したら、美濃の敵地のど真ん中にいる武田軍は最悪の事態。
朝倉義景が鈍重な行軍を行なった場合、武田信玄に負担大。
朝倉義景が遠藤と協力して、東美濃平定にきちんと動いてくれたら、武田信玄の勝率が大。
朝倉義景しだいの作戦だなこれは。
よく去年の暮れに勝手に撤退した奴を信じられるものだよ。
朝倉、遠藤も位置的に東美濃平定には動かないのでは?
確かに、必死な織田厨さんの御方さん、は>>14にありますように、複数端末による複数ID自演とか、
他人装いをしておられる事が明らかなご様子でございますから、
そのようにボードゲームでもなさられてなぜか包囲網側がろくに動かずに織田に滅ぼされてくれる、
という感じでご自身でボードゲーム上をご操作なさられまして、「織田完全勝利!!!!!!」という風に楽しんでおられると
色々と楽しくお過ごしになられるのかもしれないのかと思われる次第でございますかねえ。
>>195
いやいやいや、いつも通りの必死な織田厨さんの、必死なその範囲でないと、信長さまが不利になるから嫌じゃあああああああ!」的なご論旨のように
思われます次第でございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
貴方さまも、文体がまったく同じで一々IDを切り替えられます必要性はないように思われるのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>192
いやいやいや、普通に朝倉義景とか郡上遠藤とかに、具体的な策戦などの提示をして美濃侵攻について述べているわけでございますしねえ。
軍鑑で言うのでしたら、そもそも、西上を徳川領土制圧、的に書いている記述などどこにもない、という話になると思われるのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
関東諸侯への宣言通りに、わざわざ北条領土を横断してまで小田原侵攻とかをやったりしてますしねえ。
少なくとも、徳川領土のみが目標であるのであれば、「美濃に侵攻した後で織田に敵対して欲しい。」とか
遠藤に書状で申し入れる必要性もなければ、5月に共同侵攻する計画を朝倉とか本願寺とかに打ち合わせなどを行う必要性はないように
思われる次第でございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>189 >>190
あのー、何度も指摘をさせていただいている事なのではございますが、
大阪石山本願寺とかも、畿内天文一揆から数十年ぶりに戦闘を行いましても、
普通に織田勢主力と野戦において野田福島で互角以上にわたりあっておりますのに、
なぜに織田を相手に複数の戦果をあげている伊勢長島が
そんな一度の野戦で壊滅する、という話になると思われますのか、について
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に数万の兵力を擁する伊勢長島を、「織田が数千以上の兵力を差し向ければ壊滅させられる!」
というのはないように思われますし、そもそも、長島も守りを固めて対峙戦に持ち込む、という策戦も
十分に使えるわけでございますしねえ。
普通に美濃侵攻における、重要な勢力の一端であると思われますし、
そもそも、長島も北伊勢豪族衆を傘下にして美濃への焼き打ち侵攻とかを普通に行っておりますしねえ。
>>188
駿河は甲斐に次ぐ武田の経済的な拠点として機能している事などが、
学者さんなどから指摘されている次第でございますかねえ。
そもそも、普通に長島は北伊勢豪族衆を傘下にして美濃への焼き打ち侵攻とかを普通に行っておりますし
美濃方面がメインと思われる次第でございますかねえ。
郡上遠藤は地理的に朝倉とかが美濃に侵攻してきた時に接触する方が早いと思いますので、
朝倉の美濃侵攻に先に呼応する可能性も高いのではないかと思う次第でございますかねえ。
>>184
いやいやいや、郡上遠藤は既に武田と朝倉の書状仲介なども行っているわけでございますしねえ。
内応するつもりがないのでしたら、このような事はまずしないと思われる次第でございますしねえ。
いやいやいや、実際に朝倉氏は何度も何度も越前から美濃への侵攻を相応の兵力で行って
美濃への介入を行ってきたという史実があるわけでございますしねえ。
>>186
いやいやいや、「美濃に侵攻した後で織田に敵対して欲しい。」とか武田は遠藤に申し入れているわけでございますし、
郡上遠藤は地理的に朝倉とかが美濃に侵攻してきた時に接触する方が早いと思いますので、
朝倉の美濃侵攻に先に呼応する可能性も高いのではないかと思う次第でございますかねえ。
>>180 >>185 >>181
いやいやいや、普通にそのようなものがなくとも、朝倉浅井をはじめとする包囲網勢は
志賀陣で織田を土下座降伏宣言和睦詐欺をせざるを得なくなるまでに追い込んでおりますし、
特に問題はないのではないかと思われる次第でございますし、
普通に越前から美濃への侵攻も、信濃から美濃への侵攻もその逆も、北伊勢から美濃への侵攻もその逆も
複数の事例が存在しているわけでございますし、
志賀陣で包囲網側がやったような戦略を美濃というより狭いフィールドで行うだけの話でございますので、
特に問題はないのではないかと思われる次第でございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
いやいやいや、何度も指摘されておりますように、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>177
その通りでございます、と思う次第でございますかねえ。
>>176
タイミングによるのではないかと思われる次第でございますかねえ。
上記のような、武田・朝倉・長島による共同侵攻が既に行われている時に、
安藤が内応してきたら、織田はそれへの討伐を行うに行えない、という状況になるのではないかと
思われる次第でございますかねえ。
>>175
その通りだと思われますね。
>>174
岐阜城も戦略目標の一つとして入っているように思われる次第でございますかねえ。
信玄の当時の書状でも、たびたび「岐阜」と書かれているわけでございますしねえ。
>>171
普通に越前から美濃への侵攻を行うように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
無謀過ぎじゃね
途中の城って荒子とか古渡のこと?
具体的に提示してもらわないとよくわからない。
同じことしか言えないのか。
小木江城を落としながら、それ以上侵攻できなかった伊勢長島にできるわけないよ。
それ史実とほとんど同じじゃないか?
長島が何もせずただ籠っていたなんてことはないだろうし
織田も普段から何もせず放置していたなんてことはないだろうから
>>223
まあそんな危険犯すような行動起こしたくても起こせないだろうな
それを伺わせるってことでしょ
野放しにしたらそうなりますよと相手に思わせて引き付ける
1570年の志賀の陣。信長の弟、信興を殺して小木江城を落としながら、尾張中枢部に侵攻せず撤退。
1572年夏から織田信長が主力を率いて北近江に出陣しているのに、伊勢長島は支援行動(尾張、美濃侵攻)を起こさない。
1573年3月、織田信長が大軍を率いて上洛。浅井や朝倉が動かないためか、伊勢長島も動かない。
1573年8月、朝倉義景、浅井長政が滅ぼされる間も、伊勢長島は何も行動しない。
そのため9月には逆に織田信長の第二次侵攻を受けるが、撃退。
1574年春。武田勝頼の東美濃侵攻や徳川領侵攻に対しても、特に行動しない。
それで9月には大虐殺されて滅亡。
1574年の場合は、尾張や美濃に十分な備えがあり、伊勢も備えが厚かった可能性があるから無理かもしれないが、1573年より前なら織田信長は常に数万を動かしていたからなぜ、手薄な時にお前ら行動しない、にはならないか?
越中など北陸の一向一揆は結構勇猛果敢で、上杉謙信相手に尻垂坂で野戦するくらいなんだが、伊勢長島にはそんな実績皆無。焼き討ちとかゲリラ戦の定番行動だけ。
これだけ長島という殻に閉じこもって何も行動起こさない伊勢長島が、なぜ1573年5月なら動けるとかになるわけ? ゲリラ戦とかならともかく、織田と真正面から野戦とか遠征して城攻めとか無理でしょ。
武田は海を得て初めて天下の行末を意識したんじゃないかな
一番大事なのはやっぱり海を持っているかいないか
川中島を突破できなかったのは致命的
上杉謙信と今川氏真や徳川家康じゃ、敵として格が違いすぎ
信玄は自分に先がないことを十分理解していて焦った挙句のvs織田・徳川だったんだろうな
上手くいかないことも重々承知していたと思う、一族衆は反対だったかも知れない
にしては、武田信玄は水軍を全然有効活用していない。まだ勝頼のほうが北条水軍と戦わせて活用している。
武田信玄はなぜ、水軍を使って長島を支援したり、尾張熱田を水軍使って襲撃して嫌がらせしなかったのか、と思う。
足元の浅井が危なく更に自家の家中統制も限界に近いのに?
朝倉視点からすればむしろ武田に織田主力を引き付けてもらって、圧力を減らし自勢力の立て直しをはかりたい所だろ
武田が攻勢開始して朝倉が退くのは当時も叩かれてるけど、朝倉が何年織田と対峙しとるかわかっとんのか
朝倉は武田に従属してる訳でも家臣でもない
いきなり出てきてごちゃごちゃ抜かすなって感じだな
何度も言いますけれど、朝倉や本願寺が、織田に志賀の陣における和睦詐欺によって
織田を自身達の力で打ち倒す事が困難になった結果、
武田に包囲網側への参戦を要請した、という流れであって
ごちゃごちゃ抜かすなも何も言えた義理じゃないというのは
何度も指摘されていると思いますし、
そもそもの問題として、越前から美濃への侵攻は何度も朝倉家は行ってきた事でもありますし、
そもそもの問題として、既に通路の郡上遠藤が内応済みなわけでもありますし、
危険な中入りとかいう話でも特になく、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
連合艦隊じゃあるまいし制海権ないとこまで行けるか
遠江の高天神を狙ったのも同じ理由だけど
武田水軍って言っても元々は今川配下にいた地元の豪族達で、駿河湾の制海権を確保するのが先決
もちろん尾張を制した後なら海路を使って流通を発展させる為に活用する予定だったとも思うけど
これが一番ありえない
わざわざ東美濃から攻め込んだ信玄が壁役となって朝倉と本願寺に岐阜城を落とさせるって
落とせなかったら自分達だけが消耗して終わりなんてマヌケな作戦を信玄が立てるわけがない
信玄の戦略はもっと傲慢で強欲なはず
美濃を狙ったのなら美濃を確保するのは武田じゃなければならない
そこから数万の兵を出してるんだから、1万石辺り300人程度の動員率
当然装備も遠征能力も普通の大名と変わらないから遠征して武家相手に野戦も出来る
長島の方は適当に見積もっても10万石
総人数は女子供老人合わせて10万人
他の大名の基準で言うならまともな戦闘能力持ってるのは3000人ほど
浪人なんかもいるだろうから実際にはもう少し多いだろうけど
籠城戦ならともかく野戦となると大半が戦闘力に問題あるとなる
長島数万って言うけど加賀一向宗は長島基準で言うなら兵力は数十万ってなると思う
尾張と伊勢の織田戦力を一緒に引き連れてくるくらいだったら、尾張で釘付けにしといた方がいいでしょ
朝倉も同じ事が言えるけど
全軍で美濃に向かったら近江からも増援引き寄せてしまう
それよりは近江で牽制して
美濃の織田軍 vs 甲斐信濃駿河の武田軍
の形にした方がよっぽど勝率上がるよ
長島の戦力に頼らなきゃ美濃すら落とせないって言われてるみたいで
そんなことないよ。
誰かさんの武田信玄に対する評価は高い。
甲斐や信濃は長期遠征しても大丈夫な肥沃な土地。
武田信玄は信義に厚く、同盟破棄の原因は織田信長や今川氏真、徳川家康、諏訪頼重らにある。
朝倉義景は武田信玄にすごく恩義があるなら、絶対武田信玄のために美濃へ攻め込む(武田信玄の家臣のおかげで織田信長に勝利した、だからもっと教えを請いたいという手紙が根拠らしい)。
義信事件は義信の家臣のせい(何方かと言えば義信のせい)。武田信玄は義信を事件後も生かして慈悲深い対応しているから問題なし。
武田信玄は天下無敵のスーパーマンなんだから、大丈夫大丈夫。誰かさんの高い評価は素晴らしいよ。
>>248だろ
違うなら>>309に解答してみな
どうせ質問返しがどうのって逃げ回るんだろうけどねwww
良く言えば用意周到、悪く言うと狡猾で臆病が信玄の本質
同盟破棄を繰り返したというよりは利用できる間は利用して敵対したら容赦しないだけ
朝倉は完全に信長に対する当て馬でしょ
本願寺もそう
それでもこいつらは武田の国力に頼らざるをえないから決して対等な関係じゃない
義信の件は駿河侵攻を基本方針としたため、今川派の粛清を行う必要があった
長子が含まれていて悩んだのは事実だと思うが甲府の国益には変えられなかった
(幽閉中の義信が自殺したという説もある)
そもそも甲斐は肥沃な土地柄じゃないし兵坦もきついから道路整備もするし河川を確保して氾濫を沈め水運を発達させてきた
家臣団は一門衆、地場の土豪達、小飼いの部隊と多数いて臨機応変に徴兵しているし戦略に応じて配置変えもしていた
長文繰り返してるけど、こういった基本知識持ってないで無理矢理に信玄を持ち上げようとするからおかしな論調になるんだよなぁ
それなら近所の放火や小城落とす程度しかできないのも納得できる。
そして地理的に戦力としても期待できない。
ただ、氏家討ち取ったのが多芸山付近だとするならば、
長島一向衆の勢力圏は南濃あたりまで及んであた可能性はあるかも。
多芸山で戦死?
退却戦撤退之際,以氏家ト全為殿軍抵擋一揆衆、五月十二日氏家ト全在美濃石津因下雨使地面泥濘,氏家ト全所騎戰馬陷落泥沼,使氏家ト全落馬遭下間賴旦追兵殺死
美濃石津なら木曽川を挟んで津島の対岸だから全然勢力圏内だと思う
まぁ正確に言うなら、養老山地多度山付近、
南濃町石津(現海津市)となりますね。
いやいやいや、最初に古文!と言ってこれを出してきたのは貴方ではないですかあ。
必死になって、現代中国人の人が書かれたもののように思われる、と指摘されたら
必死になって他人装いして、ご自身の事を御擁護なさられなくていいと思うのですけれどねえ。
っていうか、貴方は>>255においても、同じように出してきておられますのに、
今更そのように言われなくてもよいと思うのでございますけれどねえ。
>>294
いやいやいや、独自解釈でもなんでもまくて、普通に学者さんも信長の5か条の朱印状を貴方がわめいておられましたような
延暦寺宛とは言っておられず、「近江と美濃の境に相互に兵力を置かないようにしましょう。」という2条目の文言からして、
普通に朝倉浅井宛と解釈しているわけで、近江の南西の端にある延暦寺がどうやったら近江と美濃の境に兵力を置けるのか、
についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>一種の宗教的自治勢力でどこにも本願寺管轄など書いてないが
此區域有眾多本願寺門徒
「この領域には多数の本願寺門徒が存在し」
としっかり書いてあるように思われるのですが、貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのでございますが、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方って本当に漢文をお読みになられるのに慣れておられないように思われる次第なのでございますが、
これで相手側に古文がどうとか言い出されるのはどうかと思う次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
多芸山方面で戦死したのは73年の時の林だな。
一応有象無象でも無力ってわけじゃないから、純粋に5000ほどってわけじゃないんだろうけど、
普通の大名の基準でいえばそれぐらいになる、というかそれだとかなり無理している数値かも。
>>262
ぱっとみ縦が10キロ横が15キロぐらいか?
周囲も合わせて10万人だと思う。
そんな事があるわけないと思うのでございますけれどねえ。
何度も述べさせていただいている事なのではございますが、
必死な織田厨さん達は、無理やりに長島の戦力を過少化しようと
結論ありきで躍起になりすぎであると思うのでございますけれど、
いかがなものでございましょうかねえ。
何度も述べている事なのではございますが、
北陸一向宗とか、畿内石山本願寺とかも、長島と同じような感じで軍勢構成を
行っておりまして、その数万の軍勢で普通に他の戦国大名達と互角に渡り合ったりしているわけでございまして、
特に畿内本願寺とかは、天文一揆から数十年の間、ろくに戦闘を行っていない勢力でございましたが、
野田福島において野戦で織田勢を撃退したりしているわけでございまして、
いくらなんでも、長島一向宗の戦力を数万もおりますのに、5千くらいにしようとするのは無理がありすぎだと思われますし、
それに2度も大敗して、殿軍をいくつも壊滅させられている織田軍の戦力とやらも、
貴方達の基準の中ではどれだけ弱いのか、という事になると思う次第なのでございますけれどねえ。
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
例えば尾張だと
服部友貞(対馬の南にある河内服部党党首)は信長と敵対していが伊勢の願証寺と協定関係にあり独立を維持していた
(信長公記にも記録がある)
織田信興に侵攻を受けた際に立田輪中に抑えの小木江城を築かれた
1568年に織田の手により暗殺、1570年には服部党は長島一向一揆に加担した
小木江城に滞在していた信興を急襲し自害に追い込んだ
当時城には200人程しかおらず信長は延暦寺攻めの真っ最中だった
なお立田の西勝寺は一向衆の寄り所となっており三河一向衆の残党が終結してた
>>253
孤立無援で200人しかいない小木江城に、長島はたぶん1万は動員して攻めながら、確か落とすのに6日もかかってるな。
島津も岩屋城に半月かかってるが、あれは薩摩や大隅など九州南端から北端への長距離遠征だったから、という事情がある。長島の場合は、目と鼻の先の城に圧倒的な兵力で攻めながら6日もかかった。
これだけでも、長島一向一揆の戦闘力が低いのは明らかだな。
川原や廃墟となった城を根城としてる10万人の浮浪者達 vs 信長正規軍
って感じ
ホームレスの連中を指揮するのは信長と敵対している坊官だったり>>253みたいな地元の権力者とか、落ちぶれてきた元武家の人間など
なるほど、わかりやすいです。
甲斐のごく一部の話なんですけれどねえ、そのご病気の話は。
なぜだか甲斐全土の話だと思う人が多少おられるご様子ではございますけれどねえ。
>>271 >>273 >>270
別にホームレスっていうわけではなくて、普通に暮らしている人々の中で、
一向宗を信仰する人々が長島に集結しただけの話でございますしねえ。
なんだってホームレスとか浮浪者とかいう扱いに
無理にしようとなさられるのか知りませんが、
ホームレスとか浮浪者だけで10万人もいるわけもないと思われますし、
長島一向宗が第三次伊勢長島で織田側の騙し討ちにあって壊滅した後、
近隣住民がそれを長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、
織田勢がそれに苦慮したりしている事やら、
そもそも、長島一向宗は水運を利用して
活発に物資やら人員やらの移動やら派遣やらを行っており、
とても貴方がいわれるような浮浪者集団ではない事が
明らかなように思われるのでございますが、この件についても、お答えの方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
>>267
どんなものでございましょうかねえ。
朝倉浅井三好はそもそも、織田に侵攻されたから、
あるいは独立を脅かされそうになったからこそ敵対したわけでございますし、
本願寺は織田に難題を言われて我慢の限界に達したから
敵対したわけでございますし、
武田側がそれらに積極的に侵攻でもしない限りは、
特に敵対する必要性すらないような気がするのでございますけれど、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
見当違いがひどいな
信長は一向衆を弾圧なんてしてないぞ
本願寺に与して武装した無法者を成敗はしたけど
>>273でホームレスって書いてるのは揶揄表現だろ
>>253からの流れを読めば長島一向衆といっても一向衆信徒じゃない連中も混ざってるし、長島の外にいる門徒が呼応して活動してるって普通は理解できるだろう
それを浮浪者とかホームレスの言葉だけ反応しちゃってるとこ見ると国語苦手なんだな
この文章も理解できなそうだから全部書いてやるけど
長島にいても確実に直接指示を聞くのは本願寺信徒だけ
協力してる尾張や伊勢の連中までは自由に動かせないし彼らには彼らのテリトリーを守る必要がある
美濃で活動してるといっても長島から直接移動して活動してる訳じゃない
美濃の太田一揆や近江の六角残党などが動いてる場合がほとんどだ
長島から何万人も美濃に侵攻
がいかにオカシイ事言ってるか自分で理解したかな?
>>280
砦築いたのは長島から来た人たちとは限らないので
信玄が強敵とやりあったと言うけど、互角にやりあっただけで領土拡大は弱小勢力から奪っていったのがほとんど
せいぜい北信濃と上野の一部くらいでしょう
単に武田とかと共同して織田に攻め込む、という機会が結局は信玄死亡などの結果、なかった為に、
使われなかっただけの話ではないかと思うのでございますけれどねえ。
>>381
いやいやいや、北信濃、西上野、に加えて、駿河は完全に北条氏一門衆やら重臣達との戦いを行って
制圧しておりますしねえ。
>>382
長島が武田とかと共同して侵攻作戦を行うのでありますれば、十分に意味を持つと思われる次第でございますしねえ。
バカじゃないの?
岩村が岐阜から100キロ。
長島が造った砦が10キロ。
おまけに武田が岩村から岐阜に行くなら途中の城を落とさないといけない。
武田と連携する前に潰されてしまうわ。
いやいやいや、5月侵攻の時に、長島主力軍数万がその砦を活用して
守りを固めるのでありますれば、織田がそれと対峙して瞬時に攻略する、というのは
非常に困難なように思われる次第でございますし、
そもそもの問題として、数万規模の兵力が砦を用いて守りを固めている、という状況でございますのに、
それをどうして速攻で2万数千から三万程の兵力を美濃に集結させるのが限界、と思われる
武田西上当時の織田信長が瞬時に打ち倒せる、と思われるのか、についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
志賀陣の時も、同じような感じで要害に陣を構える朝倉浅井を打ち倒せずに、土下座降伏宣言的な書状を送って
和睦詐欺に持ち込んでおられる、というような状況でございますのに、これらの件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
これ完全に島だね。縮尺がよくわからないけど、こんなとこで10万人も自活できるの??
一向衆門徒は木曽川周辺にうじゃうじゃいた
ほら、現代でも川の周りってそういう人がいるって差別的な扱いされる場合があるでしょ?
そういうこと
漫画のセンゴク桶狭間なんかでも表現はマイルドだったけど、信長に川の側には一人で行くなよって注意される場面が書かれてた
自分達は織田家には従わねーぞって幼少期の信長に暴行するやつ
要はあの状態が信長上洛する頃になっても変わってなくて、ああいう奴等がそのま長島一向衆に加わったり連携して暴れまわってた
岐阜城も木曽川の側にあるから川の側に住んでる薄汚い連中が城の付近までやって来て、本願寺の指示で簡易的な砦みたいな物を作って威嚇してたりもしてたらしい
この話は半分冗談で半分本当
浄土真宗=一向衆を戒名で差別をはじめたのは他ならぬ本願寺顕如
これは仏教の教えにそむく行為で現代まで続く問題になってる
こんな時期に援護の攻勢に出ろって言われてほいほい出れるか?無理でしょ?しかも数万単位で?
そして朝倉に至っては想定する出兵先は近江方面でも無い美濃だ
有り得んでしょ
朝倉浅井長島と連携して行動したいなら、もっと早めに、余力のあるうちに西上しろとしか言いようがない
信玄の侵攻速度がくそ遅くて浅井長政大激怒ですよ
具体的に資料やら史実やらを基にしてのご論証やら、ご指摘の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
五月侵攻計画などは、信玄の書状などから、伺えると思われる内容なわけでございますしねえ。
>>258
むしろ、なんでできないのか、と思う次第でございますしねえ。
特にその論拠が貴方から出されておらず、貴方さまがわめいておられるだけの御様子のように思われる次第なので
資料やら史実やらを基にしてのご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も言いますけれど、包囲網側が志賀陣で信長の和睦詐欺に騙された結果、
武田側に包囲網への参戦を要請、という流れですのに、もっと早くにも何もない、というのは
何度も指摘されていると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>259
いや、織田が動かないなら動かないで、それこそ包囲網側の行動が普通に活発になりうる、
という事にしかならないと思うのですが、上記の件と合わせて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
後段の方は、いつも通りの御様子のように思われる次第ではございますが、
特にその論拠が貴方から出されておらず、貴方さまがわめいておられるだけの御様子のように思われる次第なので
資料やら史実やらを基にしてのご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄がそういう手紙を各勢力に送ったことが信長に伝われば、それだけで用心して織田軍の行動が遅くなるかもしれない
その間に信玄はいつもの火事場泥棒的な浸透を図れるでしょ
その後に適当なとこで信長と手打ちして利益を確定して、他の勢力はどうなろうと知らん顔ってとこじゃないかな
さんざん言われてるけど、美濃侵攻なんて本気でやるようなバカじゃないよ信玄は
となれば、別に武田信玄に岐阜城を献上する必要もその謂われもない。当然、武田信玄は駿河であれだけ欲望丸出しにして遠州まで手を伸ばしたことがあるから、朝倉や長島とすぐに手切れして抗争を起こしそうだな。
いやいやいや、それは貴方が「そういう事にしたい」という妄想願望を喚いておられるだけの御様子のように思われる次第でございまして、
実際には、武田の戦歴で言いましても、
謙信が小田原に遠征しましたら、武田が北信濃に侵攻し、それが一因となって
謙信が北信濃に侵攻して武田と第4次川中島を戦いましたら、今度は北条が関東に侵攻し、
謙信は第4次川中島が終わった後にすぐさま関東に向かい、
そうしたら今度は武田が西上野に侵攻し、上杉が西上野に進軍してきましたら、
北条が関東に侵攻し、という感じでございまして、
普通に「敵主力が来た方面において、対峙・拘置・拘束し、その間に共同勢力が侵攻し、
敵側の領土を侵食・侵攻していく。」という戦国時代におけるセオリー的な戦い方を
行っているわけでございますしねえ。
朝倉浅井もそれを志賀陣で行っているわけでございますし、
信玄の5月侵攻戦略は、それを美濃というより狭い範囲で、
武田・朝倉・長島で侵攻して行う、というものなのでございまして、
非常に勝算が高いように思われる戦略であると思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>260
そのような事は特にないと思うのでございますけれどねえ。
そもそも、貴方のおっしゃられる仮定でいうのでございましたら、
普通に織田家は滅亡しているわけなのでございますから、
後は主家と主力軍が壊滅した状況の尾張とか、
さらには同盟勢力を失った状況の徳川領土とか、侵攻対象はいくらでもあるわけで
ございますしねえ。
ってマジで思ってそう
朝倉義景も長島も武田信玄の家臣でも従属勢力でもない。あくまで同盟を結んでいる間仲ね。
いやいやいや、別に無条件で従うとかいう話でもなんでもなく、
そもそもの問題として、朝倉やら本願寺やら、が武田に要請して
織田を打ち倒す為に協力してもらっている、という状況なわけでございますし、
普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
で、このような感じで織田を打ち倒し、その領域を制圧する事ができれば、
それは朝倉やら長島やらにとっては滅亡の危機を回避する事ができるばかりか、
領土を獲得する事も出来て、大きな利益になるわけでございますし、
特に無条件で奉仕するとかいう話ではないように思われるのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
ねえ君もそろそろ諦めなさいな、いかにも見苦しいよ
大内の長期畿内遠征とかの事例を考慮しましても、
そもそもの問題として、岐阜に拠点を移す必要性すらないように
思われる次第なのでございますけれどねえ。
信長も、その拠点の時期が一番長かったのは岐阜城時代でしたけれど、
畿内に遠征した後に、律義に毎度のように岐阜まで戻っているわけで
ございますしねえ。
>>265
いやいやいや、ふつうに朝倉浅井も志賀陣でそのような戦い方を行っているわけで
ございますし、戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますしねえ。
そもそもの問題として、武田の戦歴で言いましても、
謙信が小田原に遠征しましたら、武田が北信濃に侵攻し、それが一因となって
謙信が北信濃に侵攻して武田と第4次川中島を戦いましたら、今度は北条が関東に侵攻し、
謙信は第4次川中島が終わった後にすぐさま関東に向かい、
そうしたら今度は武田が西上野に侵攻し、上杉が西上野に進軍してきましたら、
北条が関東に侵攻し、という感じでございまして、
普通に「敵主力が来た方面において、対峙・拘置・拘束し、その間に共同勢力が侵攻し、
敵側の領土を侵食・侵攻していく。」という戦国時代におけるセオリー的な戦い方を
行っているわけでございますしねえ。
上記のように朝倉浅井もそれを志賀陣で行っているわけでございますし、
信玄の5月侵攻戦略は、それを美濃というより狭い範囲で、
武田・朝倉・長島で侵攻して行う、というものなのでございまして、
非常に勝算が高いように思われる戦略であると思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
大内氏舐めすぎ。信長舐めすぎ。
大内氏は貿易、石見銀山、瀬戸内の水軍あり。
織田氏は堺を抑えていた。
で律儀に岐阜に戻る、それの何が悪いのかな?
遠征したら本拠地に戻るの当たり前。
甲斐ではあまりに不便だろう。美濃や周防に比べても。
一度、山梨に行ってみな。
川中島とかは援軍が少数だったりで連合軍と言うと違和感あるが、松山攻めは連合軍と言ってもいいのでは?
信長を倒すときは同盟者でも、信長討てば自然と利害関係無くなるし。
その中で優位に付けば信玄死後も武田家存続は優位に進むとみていたんだろう
だから是が非でも織田を死ぬ前に葬りたかった
なのに朝倉バカ義景が勝手に兵をひいて千載一遇の織田を滅ぼすチャンスを棒に振った
挙げ句信玄死後朝倉滅ぶのはえええ…
信玄の息子勝頼がかわいそうなわけだわ
棟梁。信玄が幕府を滅ぼす正統性に欠ける。甲斐武田は傍流だし、
だとしたら、執権北条みたいに管領になるしかない。
足利尊氏は不思議なカリスマ持っていたからなあ。とくに物欲がなく、他人に何でも与える。物欲丸出しの武田信玄には無いよな。
大名争わせて力削ぐの上手そう。
少なくとも歴史上ずっとそう通した
美濃で岐阜城を落とすなら武田が落とす戦略でしか行動しない
同じコピペを繰り返してるのは自信の無さの現れにしか見えないよね
長島とは規模が違いすぎて参考になんかならないよ
長島もそれ相応の勢力でございますし、
北陸一向宗とか、畿内石山本願寺とかも、長島と同じような感じで軍勢構成を
行っておりまして、その数万の軍勢で普通に他の戦国大名達と互角に渡り合ったりしているわけでございまして、
特に畿内本願寺とかは、天文一揆から数十年の間、ろくに戦闘を行っていない勢力でございましたが、
野田福島において野戦で織田勢を撃退したりしているわけでございまして、
いくらなんでも、長島一向宗の戦力を数万もおりますのに、5千くらいにしようとするのは無理がありすぎだと思われますし、
それに2度も大敗して、殿軍をいくつも壊滅させられている織田軍の戦力とやらも、
貴方達の基準の中ではどれだけ弱いのか、という事になると思う次第なのでございますけれどねえ。
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
書いてる内容から知識無いのバレバレなんだよ
妄想作戦も含めて適当な事ばっか書くな
本願寺門徒と自治勢力と武家と混成部隊が長島本願寺の実態ってこと
はて?それこそどのようにお読みになられておられるのかと思う次第なのでございますけれどねえ。
>此區域有眾多本願寺門徒,從尾張国西南部、美濃国南部到伊勢国北部形成一種宗教的自治勢力。
「この領域には本願寺門徒が多数存在し、尾張国西南部、美濃国南部、伊勢北部、に至る一種の宗教的自治勢力を形成した。」
と書いてあるわけで、貴方のおっしゃられるような事は書いてないように思われる次第なのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
お前は土下座外交の件でも独自解釈が過ぎるので文章からの解釈で論争する気にならない
一種の宗教的自治勢力でどこにも本願寺管轄など書いてないが
宗教だから本願寺だと言いたいんだろ
お前の朝倉と長島と武田が攻め込んで~の作戦を支持してるやつはいない
美濃侵攻作戦があった事を否定してるやつは一人もいない
→ブラフだろ派
→朝倉は言いように使われる派
→朝倉はどうせ動かない派
→長島は牽制に使える派
→長島なんか当てにできない派
→頭のおかしい三方向からの同時侵攻作戦(ねぇのみ主張)
ちょっと可愛いと思ってしまった
朝倉攻め込まなくても作戦次第で信玄は美濃を抜けますよ
長島はどう考えても尾張を釘付けにしておいた方がいいし
本願寺も一枚岩じゃないし。
カス子ってのがおーぷんにいたのか?
信玄の侵攻作戦の書状って遠藤に朝倉との連携の仲介を依頼したんだろ
そこからどう解釈して長島も朝倉も美濃に突撃って思っちゃったの?
まーた必死に他人装いなさられなくてよろしいと思う次第なわけではございますが、
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
5月侵攻に関しましては、1572年11月に朝倉にあてた書状と条目において、
信玄の5月侵攻計画が書いてありまして、
朝倉には「5月に御張陣の事。」
「美濃の郡上遠藤に鉈尾の砦を構築するように、朝倉側からも催促を行う事。」
「一向宗門徒を蜂起させる事。特に長島の事は特別に説明する事がある事。」
(実際に長島は何度も指摘されてきましたように、美濃への焼き打ち侵攻とかを行っておりますし、
岐阜から三里の所に拠点も構築していたようなので、この件は長島の北上と複数の学者さんが解釈しておりますかねえ。)
遠藤に対しては信玄の書状で、「来年に美濃に侵攻するので、その後で織田に敵対するように。」
とあり、武田が諸々の要素から、5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻を計画していた事が
明らかなように思われる次第でございますかねえ。
自分が原文も複数の学者さんの出典も一切出さないから誰にも相手にされないんだよ
あそこでキレてるってことは朝倉は近江にいとけ!って事だと思うよ普通に考えて
差別戒名自体は曹洞宗など、他の宗派でも行われているわけなのでございますが、
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのではございますけれどねえ。
>>300
長島関連は普通に反織田で多数の人間が集まったわけでございますしねえ。
>>250
少なくとも、貴方さまは資料とか史実とかではなく、
「そういう事にしたい」というのを喚いておられるだけの御様子のように思われる次第でございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、何度も指摘しておりますように、北条やら今川やらとの同盟は20年近くにわたって継続し、
その間には>>278などにありますように、共同戦略やら、共同侵攻やらも複数行っているわけでございますしねえ。
何度も言いますけれど、義信事件の後は、義信を2年近くにわたって生かし、その死亡も病死とも自害とも
言われているわけでございますし、そもそも、その義信事件の後も普通に武田は今川との同盟継続を求めている事が
資料的には明らかになっているわけでございますしねえ。
貴方さまがおっしゃられているような事は、上記のように、資料的にも史実的にも不可思議なる事柄が
多々あるように思われる次第なのでございますので、これらの件について、資料やら史実やらを基にしてのご論証の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>248 >>249
まーたいつも通りに必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
西上の時の武田の国力以下の国力で長期遠征を行っている事例は戦国時代におきましても
複数ある事はこれまでに指摘させていただいておりますし、
信玄とそれらの勢力の敵対の原因は、それらの側の勢力の方にも普通に要因が存在している、
というのは資料的にも史実的にも明らかになっているわけなのでございますが、
貴方はなにをおっしゃっておられるのかと思う次第なわけでございますしねえ。
必死にいつも通りにレッテル貼りやら、捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
普通に朝倉も武田との連携には乗り気で、さらには、12月撤収の後も本願寺やら武田やらとの打ち合わせを経て、
1573年3月には再出陣をしてきておりますので、普通に武田・本願寺と共同する可能性が高い、
というのは普通の事柄であるように思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
何度も言いますけれど、義信事件の後は、義信を2年近くにわたって生かし、その死亡も病死とも自害とも
言われているわけでございますし、そもそも、その義信事件の後も普通に武田は今川との同盟継続を求めている事が
資料的には明らかになっているわけでございますしねえ。
特にスーパーマンというわけでもなく、貴方さまが必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられるだけの話のように思われます次第でございまして
普通に信玄は戦国時代に存在した、一人の優秀なる戦国大名であると思われる次第でございますかねえ。
まーたいつも通りに必死にレッテル貼りと捏造曲解にご狂奔なさられながら、
妄想願望で、相手側の文章を変な風に妄想願望して捏造曲解した解釈で
ご解釈なさられたご様子ではございますが、
史実の信玄は>>305のような感じで、
特にスーパーマンというわけでもなく、私の提示してきている史実におきましても、そのような要素は特にないように思われるわけでございまして、
貴方さまが必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられるだけの話のように思われます次第でございまして
(私の解釈では)普通に信玄は戦国時代に存在した、一人の優秀なる戦国大名であると思われる次第でございますかねえ。
まーた必死に他人装いなさられなくてよろしいと思う次第なわけではございますが、
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
国語力無いって悲しいね
信長の為に朝倉下げ、長島下げをしてるようにしか見えないらしい
死に体のやつに期待し過ぎるのはリスク高いから牽制に撤してもらって信玄が単独で攻め込んだ方が成功率高いって書かれてんだけどな
俺もそう思うよ
ねえのアホな作戦よりは現実的で成功率も高いと思う
少なくとも同時に侵攻しちゃうと
武田が東濃で時間稼がれてる間に他がやられるな。
最低でもまずは武田が侵攻して織田の主力を引きつけてそれから他の連中が動くじゃないと、
一時的な膠着状態さえ作れそうにないと思う。
武田が織田の主力を引き付けてくれたら、他の勢力はここぞとばかりにゆっくり回復に勤しんじゃうと思うぞ
信玄が織田と事を構えるのが遅すぎて、もうどこも半身不随状態だよね
現代人は信玄を政戦両略の達人だと誤解しているからもしも…て想像しちゃうけど、
実際の信玄って弱った中小勢力を詐術で食っていたらたまたまうまくいっていただけの機会主義者だよ
生涯を通じての大目標とか大戦略がある人ではないね
だから人生最後も同じ調子で、その時手が塞がってる信長の足下を見て、子分の徳川を食うぐらい見逃すだろうと計算して行動したに過ぎないんだよ
そして相手がガチギレすることが読めず自家の破滅を招いちゃった
大きすぎる虚像を剥ぎ取れば、成功体験に溺れていたマヌケっていうのが、晩年の武田信玄の実像だよ
内藤や真田小幡なんかは上野からも動員しているんじゃ?
>>355
>武田が織田の主力を引き付けてくれたら、他の勢力はここぞとばかりにゆっくり回復に勤しんじゃうと思うぞ
まあその可能性が一番高いな。
相変わらず、必死に都合の悪い所を必死にスルーして喚いておられるご様子ではございますけれど、
特にその論拠が貴方から出されておらず、貴方さまがわめいておられるだけの御様子のように思われる次第なので
資料やら史実やらを基にしてのご論証の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も言いますけれど、包囲網側が志賀陣で信長の和睦詐欺に騙された結果、
武田側に包囲網への参戦を要請、という流れですのに、もっと早くにも何もない、というのは
何度も指摘されていると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
朝倉浅井はこの時期でも織田相手に複数の戦果、長島一向宗は1574年まで普通に各地で活動を続け、
織田勢も撃退しているわけですし、石山本願寺はいうに及ばず、三好も六角も足利も各地で戦いをこれ以後も続けていくわけですのに、
何を言っておられるのかと思う次第でございますしねえ。
実際には、信玄は同格以上の強豪たちとしのぎを削って領土を拡大していったわけでございますしねえ。
信長が同格の斉藤義龍から領土を奪えなかった事とかを考慮しましても、
普通に優れた戦国大名の一人であると思われますかねえ。
むしろ、信長の方が最近では信長革命児論の否定などからはじまって
多数の虚像に対しての史実的な否定が行われている、というのが実状のように思われますが
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>359
>まあその可能性が一番高いな。
上記のように、特にその可能性は少ないのではないかと思われる次第でございますかねえ。
すみません。上野と駿河間違えてました。
信濃は武田信豊が留守居
上野は内藤、小幡が参戦してますが、全軍は引き連れてきておらず3割程度は残留してます(当たり前ですが)
駿河でもなおさらおかしいと既に指摘がされていると思うのでございますけれどねえ。
>>357にも書きましたように、駿河勢で参戦してないのも特に誰がいるのかと思いますしねえ。
駿河勢統括の山県は普通に大軍を率いて参戦してますしねえ。
とりあえず、何に基づいておっしゃられているのか、についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
上野も、真田信綱の軍勢も西上に参加しているはずであると思われる次第でございますし、
そもそもの問題として、貴方が>>353で私に対してなぜだか上から目線でお喚きになられて、
こちら側から>>357でおっしゃっておられる事柄が史実的に異なりがある事を指摘されたからと言って、
必死に他の人相手にだけレスをして、こちら側には必死に謝罪をなさられないように、
必死にスルーを重ねようとなさられるのは、「信玄について詳しい」とご自身でおっしゃられ、
こちら側に対してなぜだか上から目線的に罵倒をなさられてこられたように思われます、貴方さまご自身のご所業としては、
非常にいかがなものなのかと思われる次第なのでございますが、
この件につきましても、なにとぞなにとぞお答えの方をよろしくお願いいたしたいと思う次第でございますかねえ。
そもそもの問題として、>>364でなぜだか山県が美濃攻めに同行しないかのようなレスをなさられておられるご様子ではございますが、
山県は信玄が最後に死亡する時の甲斐への帰路にも普通に同行しており、
美濃にも普通に同行するように思われるのでございますが、これらの件につきましても、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まーたいつも通りに必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
こちらが述べておりますのは長島もそれ相応の勢力でございますし、
北陸一向宗とか、畿内石山本願寺とかも、長島と同じような感じで軍勢構成を
行っておりまして、その数万の軍勢で普通に他の戦国大名達と互角に渡り合ったりしているわけでございまして、
特に畿内本願寺とかは、天文一揆から数十年の間、ろくに戦闘を行っていない勢力でございましたが、
野田福島において野戦で織田勢を撃退したりしているわけでございまして、
いくらなんでも、長島一向宗の戦力を数万もおりますのに、5千くらいにしようとするのは無理がありすぎだと思われますし、
それに2度も大敗して、殿軍をいくつも壊滅させられている織田軍の戦力とやらも、
貴方達の基準の中ではどれだけ弱いのか、という事になると思う次第なのでございますけれどねえ。
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、まーたいつも通りに必死になって、相手側に言われて悔しかった事柄などを
必死に鸚鵡返ししようと躍起になられているご様子ではございますが、
実際問題として、長島とか朝倉に侵攻されてしまうと、「信長さまが戦略的に不利になってしまうから嫌じゃあああああああああ!」
発狂しながらのたうち回って喚いておられるのが貴方さまであらせられるご様子のように思われますので、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>308
実際にそれ以外の何ものでもないように思われますけれどねえ。
朝倉が史実的には多数行ってきた越前から美濃への侵攻が
信長さまが不利になる時にだけ不可能になる理由は特にないと思われますし、
長島の美濃焼き打ち侵攻とかも普通に行われてますしねえ。
この時期の朝倉やら長島が普通に死に体である理由はどこにもなく、
むしろ複数の戦果をあげているわけでございますしねえ。
>>309
普通に書状も、書状内容も学者さんの名前も何度も示しておりますしねえ。
そもそもの問題として、貴方がこちら側から指摘された史実について
都合の悪い事柄などは必死にスルーしながら、
必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ですのに、
今更何をおっしゃっておられるのかと思うしだいなのでございますが、
この件についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>247
まーたいつも通りに必死になって貴方こと必死な織田厨さんが、>>14にあるような複数端末による複数ID自演を
行って、必死に武田厨装いしなくてよろしいと思うのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そのように必死になって武田厨装いを行われば、相手側の言論封じを行えると思われましても、
こちらとしましては失笑すらもわかない、という状況でございますしねえ。
>>245
いやいやいや、何度も言いますように、各地に最低限の抑えをおいて、
美濃に集結させられる兵力が当時の織田では2万数千から3万、ですので、
尾張やら伊勢やらに兵力を残すなら、その分、美濃の織田勢主力が減退する事になりますし、
そもそも、近江の兵力を引っ張ってこようとするのでしたら、浅井とかにその守りを突破されそうに思う次第なのでございますが
いかがなものなのでございましょうかねえ。
そうだね
資料も出典も過去に出してきたね
そういうことにしておいてあげるね
無理な事を強制しちゃってごめんね
本当は無いって知ってて出せって
いじめカッコ悪い
だったね
いやいやいや、>>248へのお答えは>>305に書かせてもらっておりますしねえ。
こちらは何度も普通に書状も、書状内容も学者さんの名前も何度も示しておりますしねえ。
そもそもの問題として、貴方がこちら側から指摘された史実について
都合の悪い事柄などは必死にスルーしながら、
必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ですのに、
今更何をおっしゃっておられるのかと思うしだいなのでございますが、
この件についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>311
いやいやいや、普通に朝倉は志賀陣で織田を拘束し続けておりますし、
長島も数万の兵力で織田を十分すぎる程に拘束できると思われますしねえ。
いい加減、無理やりに包囲網側の戦力を減退させようとするのはおやめになられた方がよろしいと思う次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>243
何度も指摘しておりますが、長島もそれ相応の勢力でございますし、
北陸一向宗とか、畿内石山本願寺とかも、長島と同じような感じで軍勢構成を
行っておりまして、その数万の軍勢で普通に他の戦国大名達と互角に渡り合ったりしているわけでございまして、
特に畿内本願寺とかは、天文一揆から数十年の間、ろくに戦闘を行っていない勢力でございましたが、
野田福島において野戦で織田勢を撃退したりしているわけでございまして、
いくらなんでも、長島一向宗の戦力を数万もおりますのに、5千くらいにしようとするのは無理がありすぎだと思われますし、
それに2度も大敗して、殿軍をいくつも壊滅させられている織田軍の戦力とやらも、
貴方達の基準の中ではどれだけ弱いのか、という事になると思う次第なのでございますけれどねえ。
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>242 >>240
まーたいつも通りに必死になって、変な風に捏造曲解にご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
普通に木曽川とかを越えて焼き討ちを行った、っていうだけの話でしかないと思われますのに、
必死になって捏造曲解にご狂奔なさられて、必死になってお喚きになられれば、都合の悪い史実を存在自体を否定できるとか思われましても
こちら側としては失笑すらもわかない、という状況でございますので、貴方はまずご自身に聞かれている事柄などについて、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
織田氏という強大な戦力と足掛け3年以上もやり合って、朝倉は前波や真柄ら裏切り、戦死も相次いで人材も失っているのに、これで包囲側は全く疲弊せず、強大な織田側が疲弊するってどういう理屈な訳?
長島は弱いだろ。織田信興が守る数百人の小城を万で攻めて6日もかかってる。守備戦は強いかもしれないが、攻撃力はない証だろ。戦争で攻撃、守備は全然有利不利が違うんだぞ。
野田福島は湿地帯に川がたくさんある。後年、徳川の大坂攻めでも圧倒的な徳川が本多忠朝や小笠原秀政父子などたくさん失ってる。長島や野田福島の地形考えて物を言えよ。
エア史料のお話ししてるからってマジで突っ込んだりするのはダメだぞ
彼はまだそういうことちゃんと理解できない人間なんだから
なーにを言ってるのですかと。
実際に>>307にありますように、普通に1572年11月の信玄の朝倉宛の書状と条目、
さらには遠藤宛の書状も提示しておりますし、
>>298にありますように、志賀陣関連の信長の朱印状が内容からして貴方さまが必死に発狂してのたうち回られながら
喚いてきたように、延暦寺宛ではありえない事も
その他にも数多くの資料やら学者さんの論説やらも紹介させていただいてきたのが私でございますのに
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思いますので、貴方が現在発狂逃亡中の、
膨大なる聞かれている事柄などについては、おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>116
そこまで地理的に明るいとおっしゃられるのであれば、普通に義景本人が
宗滴などがやったように、美濃に奥深く侵攻しても何の問題もないと思われる次第でございますけれどねえ。
>>117
雑でもなんでもなく、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>115
いやいやいや、朝倉義景は実際に志賀陣では十分に頑張って、信長を土下座降伏宣言和睦詐欺を行わざるを得なくなる程に
追い込んだわけでございますから、この件については、もっと評価してもよいと思う次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
その書状の内容やら長島が北上すると分析してる学者さんの名前や論文、書籍を出せって事なんだけど
ちゃんと出してなくてもこっちが怒っちゃダメだよね
分かってる
そっちはそれだけ書いたら十分出したことにしたい…間違った
十分出せてると認識してるんだって
アスペルガーはそういう病気なんだから仕方ない
元気で頑張れよ
5月侵攻に関しましては、1572年11月に朝倉にあてた書状と条目において、
信玄の5月侵攻計画が書いてありまして、
朝倉には「5月に御張陣の事。」
「美濃の郡上遠藤に鉈尾の砦を構築するように、朝倉側からも催促を行う事。」
「一向宗門徒を蜂起させる事。特に長島の事は特別に説明する事がある事。」
(実際に長島は何度も指摘されてきましたように、美濃への焼き打ち侵攻とかを行っておりますし、
岐阜から三里の所に拠点も構築していたようなので、この件は長島の北上と複数の学者さんが解釈しておりますかねえ。)
遠藤に対しては信玄の書状で、「来年に美濃に侵攻するので、その後で織田に敵対するように。」
とあり、武田が諸々の要素から、5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻を計画していた事が
明らかなように思われる次第でございますかねえ。
としっかり書いてあるわけなのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いつも通りに必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
学者さんのお名前については、まず貴方さまが発狂逃亡をなさられておられます、
膨大なる事柄について、ご回答になられる事から、お始めになられていただき、
ギブ・アンド・テイクで行きたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>323
一国の政府、というか、当時の足利将軍は畿内の数か国が実質的な領土なわけなのでございますのに
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのでございますけれどねえ。
普通に、西上当時の武田の領土と、当時の足利将軍の実質領土はそこまで大きな差がないように
思われますのに、貴方は何をおっしゃっているのかと思うので、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
だから領土の話なんかしてないし、領土の広さなら武田信玄の方が上だよ。それで義勝から義晴まで財政補填できた貿易の利権の莫大さがわからないかなあ?
>>343
大内は西日本の流通の大事な部分かなり握ってるからなー。
原文出さないから信用されないんだよ。
あと、貴方の発言と同じこと言ってる学者いるの? いるなら出してみてよ。
足利将軍列伝という著書にあったけど、室町幕府は足利義勝の頃から財政が悪化し、足利義政の頃に火の車になった。そこで財政を穴埋めするため、足利義満や義教の時代に貿易で得ていた物品を売り払うことで補填していた。
ちなみにこの補填は足利義晴くらいまで確認できるらしい。
一国の政府の財政を補填できるくらい、貿易の利権は莫大なのよ。わかる?
甲州金とお米しかない武田信玄なんか比較にならないのよ。
浅井と共同で近江の包囲突破できなかったですからね
過去の朝倉は確かに美濃に侵攻をしてますが、この時点で滅亡三ヶ月前ですからね
弱体化してるからできそうもないで説明つくと思いますよ
損害度外視して無理攻めすればどうとでもなるんだろうけど、
ゲームじゃないからな。
浅井も滅亡寸前で秀吉が留守にしても問題ないぐらいにまでなってるし。
上杉謙信の件は後世の歴史を知っている我々だから言えること。もし、武田信玄が東美濃で織田と戦ってる間に不穏な噂が入ったりしたらどうするわけ?
発達障害ってそういう病気です
夫が私の話を聞いてくれません
→聞く事ができない病気だった
いやいやいや、普通に貴方が出している話に基づいて話をしているわけで、
そうやって都合が悪くなると、必死になって文章読解を無理やりに捻じ曲げられて
レッテル貼りやら、捏造曲解やら、などにご狂奔なさられなくてもよろしいと思う次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
聞かれている事柄などにはおはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>343
京都への進軍は普通に陸路でしたしねえ。
>>344
でしたらあ、その山城一国あるかどうかも怪しい程の領域の大名である当時の足利将軍の財政を補填するくらいの
利益しか、貴方のいう貿易利益とやらは出せてない、という事になるわけなのですけれど、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
大内義興が上洛する際に陸路だったのは、尼子まで味方になってるし、中国筋の細川守護国は政元の死去で自立する豪族ばっかりで大混乱。赤松や山名は内ゲバの最中で大内氏を妨害できる実力はない。
それで陸路が、いけないか?
かつて足利尊氏が東上した故事にもならったんだろうし。
お前みたいな妄想アスペと論証しても時間の無駄だと言ったろ?
長島の援軍が三万だったから織田の総兵力は三万だとか妄想解釈するから史料持ってきても無意味なんだよ
志賀の陣の件でお前も分かっただろ
スレの人たち
和睦詐欺は微妙だけど土下座降服じゃなさそうだね
アスペルガーねぇ
信長の土下座降服和睦詐欺です!
病院行きなよ
発達障害って自覚するところが治療の入り口なんだよ
いやいやいや、実際には5月侵攻に関しましては、1572年11月に朝倉にあてた書状と条目において、
信玄の5月侵攻計画が書いてありまして、
朝倉には「5月に御張陣の事。」
「美濃の郡上遠藤に鉈尾の砦を構築するように、朝倉側からも催促を行う事。」
「一向宗門徒を蜂起させる事。特に長島の事は特別に説明する事がある事。」
(実際に長島は何度も指摘されてきましたように、美濃への焼き打ち侵攻とかを行っておりますし、
岐阜から三里の所に拠点も構築していたようなので、この件は長島の北上と複数の学者さんが解釈しておりますかねえ。)
遠藤に対しては信玄の書状で、「来年に美濃に侵攻するので、その後で織田に敵対するように。」
とあり、武田が諸々の要素から、5月からの朝倉・長島と連携しての美濃侵攻を計画していた事が
明らかなように思われる次第でございますかねえ。
としっかり書いてあるわけなのでございますが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いつも通りに必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
志賀陣に関しましても、貴方が「信長朱印状は延暦寺宛!朝倉浅井宛に信長は土下座降伏宣言和睦詐欺なんかしてないんだああああああああ!」
と喚かれて、実際には、こちら側から「2条目に近江と美濃の国境に相互に兵力を置かないようにしましょう、とありますのに、
近江の南西にある延暦寺がどうやったら、そんなことができるんですか。普通に朝倉浅井宛でしょうに。」
的に言われたら発狂逃亡しておられるのが貴方さまのように思われますので、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それにつきましても、何度も高天神の時は2万5千の武田勢に勝てるか微妙で城を攻略される程の兵力を
織田は集められず、長篠は北陸の抑えまで動員しても三万で、その後に織田家オールスターで越前に攻め込んでも三万で、
と色々と説明されても発狂逃亡なさられておられるのが、貴方さまのように思われますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それで、古文がどうとか喚かれて、現代中国人さんの漢文サイトを出さられて、
しかもそれの訳に関しましても、こちらから異なりを指摘されたら
発狂逃亡されておられるのが貴方さまであらせられる、という事に関しましては
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>353
いやいやいや、何を基準にしたのか知りませんけれど、
普通に西上には上野勢の内藤とか、小幡とかも参戦しておりますし、
信濃は上杉の抑えの香坂まで参戦してますし、駿河勢で参戦してないのも特に誰がいるのかと思いますしねえ。
駿河勢統括の山県は普通に大軍を率いて参戦してますしねえ。
とりあえず、何に基づいておっしゃられているのか、についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、普通に貴方が出している話に基づいて話をしているわけで、
そうやって都合が悪くなると、必死になって文章読解を無理やりに捻じ曲げられて
捏造曲解などにご狂奔なさられなくてもよろしいと思う次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
聞かれている事柄などにはおはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>336
ですからあ、そもそもの問題として、一国の政府、というか、当時の足利将軍は畿内の数か国が実質的な領土なわけなのでございますのに
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのでございますけれどねえ。
普通に、西上当時の武田の領土と、当時の足利将軍の実質領土はそこまで大きな差がないように
思われますので、その財政補填とやらも、普通にその範囲にとどまる事柄である、と何度も指摘しているわけなのでございますが、
貴方は何をおっしゃっているのかと思うので、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>332 >>335
いやいやいや、甲斐と周防でしたら、距離的にもそれほどの変わりがないように思われますしねえ。
当時の国力的には西上当時の武田の方が上なわけですし、そもそもの問題として、
10年も大内のように京都に滞在するのかどうかも未知の領域なわけでございますしねえ。
そもそもの問題として、武田とかよりも明らかに石高的に劣る勢力が複数、上杉とか北条早雲とかも
普通に長期遠征を行っている事はこれまでにも何度も指摘されているわけでございますしねえ。
そもそも、古文がどうとか喚いておられましたのに、
いきなりこちら側から指摘されたら完全沈黙しておられますけれど、
この件についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>334
その割には、1573年の5月末に羽柴柴田で夜襲侵攻して
浅井単独によって撃退されている、というのが当時の状況なわけなのでございますけれどねえ。
>>333
普通に長島は城攻めとかもやっているわけでございますしねえ。
北陸と関東で東西奔走状態なのが当時の謙信で、そもそもその状況を扇動しているのが信玄ですのに、
不穏な噂も何もないように思うのですけれどねえ。
>>331
若狭対策と小谷の普請を終えて、それが終了したら5月からは美濃侵攻、という感じであるかと思われる次第でございますかねえ。
瀬戸内の水軍抑えてる大内氏の制海権の強みがわからないの? 大内義興は船岡山でもし敗れたなら、堺から山口へ船で撤退する気だったんだよ。
西上当時の武田の領土と、足利将軍の領土にそれほど差がない。
ありますよ。足利将軍家は義政の頃はもう山城一国の支配者。というか山城もあやしいね。山城が将軍直轄ではなく、守護置いてるから。
領土の広さなら武田信玄が上だよ。広さならね。
ねえは武田家の国力は大内家以上だと言ってるぞ>>341で。
>>456
そんなことはない。このスレで言われているが、武田信玄の国力は大内義興以上に豊かで何年遠征しても全く支障はない。>>341でねえが武田信玄の国力は大内義興以上だと発言している。
>>341見てよ。当時の国力的には西上当時の武田の方が上、と書かれてある。つまり武田はかなり豊かで、大内なんか比較にもならないんでしょ?
ねえ、に言ったらいいんじゃね?
>>341前後見たら、ねえは確かに武田の西上当時の国力は大内以上と発言しているから。
甲陽軍艦に陣立て乗ってますが上野、遠江、三河からは徴兵してないです
甲斐はほぼ全軍で信濃と駿河は一部参加してないので実質は80万石程度かと
武田信玄のこと詳しくないのに知ったかぶりしないでいただきたい
上野から動員してないのか。
なら上杉謙信はある程度牽制できるな。
ただし武田軍は2万5000くらいだな。
史実だと勾坂城に穴山、三河の後詰めとして山県を残してたと思いますが、そのまま美濃に攻め込むならどうなるか?ですね
信長は伊勢、近江、畿内に敵を抱えてるし中濃までは割と楽に進行できそうだな
先進地域を捨ててまで東濃と中濃に兵を回すとは考えにくいし
美濃は砦に毛の生えた程度の城しかないから岐阜に到達するのは容易い
伊勢、近江、畿内の敵が微妙過ぎ
そちらへの対処しても十分美濃に兵回せるだろ
畿内が一致団して織田領に侵攻とかでもすれば事情は全く異なるんだろうけど
むしろ、畿内方面の敵側は、織田勢主力がこない限りは、
親織田勢力に対して優勢なわけですから、
織田勢主力が美濃から動けない状況でありますならば、
普通にその抑えとか親織田勢力とかを突破してくる事が
十分すぎる程に想定されると思う次第でございますかねえ。
>>369
そうなりますと、守りを固められる兵力がなおさら限られてくると思いますし、
畿内方面は織田勢主力が救援に赴かない限りは、
親織田勢力が反織田勢力などに押される、あるいは突破される可能性が非常に高いと
思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
あのー、穴山は三方ヶ原の戦いで後ろ備えとして参加してたと思いますし、
山県も普通に先陣として戦っていたはずなのですけれど、
匂坂城の攻略は三方ヶ原の戦いよりもさらに前の二俣攻囲の前だったと思われますけれど、貴方のおっしゃっておられる事は
色々と不可思議なように思われるのですけれど、この件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>363
そんなわけがないでしょうに。上で私やら、他の人やらが述べておりますように、
内藤やら、真田やら、小幡やら、が普通に武田の西上軍には参戦して戦っておりますしねえ。
そもそも、謙信は北陸一向宗と関東の北条との戦いで、1574年末まで東西奔走を続け、
信長の武田領土の侵攻要請とかもスルーし続けている、というのも何度も指摘しているように思われるのでございますが、
これらの件についてはいかがなものなのでございましょうかねえ。
信玄の織田領土の侵攻要請とかもスルーし続けている、というのも何度も指摘しているように思われるのでございますが、
これらの件についてはいかがなものなのでございましょうかねえ。
この辺でそろそろ撤収させていただきたいと思う次第でございますかねえ。
ま、ここ隔離スレだからそれでいいと思うけど
美濃攻略する前ですよ死んだの
1560年 桶狭間
1561年 斉藤義龍死亡
1563年 小牧山に居城を写して美濃攻略本格化
1567年 美濃平定
1568年 上洛、畿内を支配下に置く
1569年 伊勢平定
信玄、信長は2ヵ国目の攻略まではほぼ互角、その後の拡大は信長が圧倒的です
ここは信玄贔屓としても認めないといけないです
どうせ、織田信長は周りは弱小勢力ばかりで拡大が容易だった。それに対して武田信玄は上杉謙信、北条氏康、今川義元、徳川家康と強敵ばかりで地理的にも囲まれていたから、弱小ばかりとやり合った織田信長に対して、武田信玄は凄いんだ! って言うと思いますよ。
当時の信長は尾張美濃が本貫地
家臣たちだって多くはそちらに自分の所領と一族がいるんだ
本腰を入れて守るにはせっかく獲得した近江、伊勢、畿内を捨てないとならない
伊木山辺り、南は尾張、南西は竹ヶ鼻辺り、
東は墨俣辺り。
いつぐらいの時期に長島一向衆が砦構築したのかわからんけど、
そこを拠点としてないということは、すぐに
織田に破壊されたということですかね?
そんな場所ににわか作りの砦を造ったって意味ないよ。まさに陸の孤島。周囲は織田勢力ばかり。放置しといても問題ない。
その場所に砦を造るなら、尾張か美濃のどちらかを制圧しておかないと。
そんなことない。このスレでは織田軍に負けない強さを誇る精鋭軍団。
このスレでは武田軍は3万以上動員してるわ、織田軍は3万あるいは2万数千が限界の動員力だわ、朝倉や浅井にはまだ力はあるわ、山越えへっちゃら兵站財政問題なしだわ、武田家の経済力は大内氏以上だわと凄まじいからな。
何で武田信玄、あるいは後継者の勝頼は、それだけの力がありながら天下を取れなかったんだか。
普通に史実では北伊勢豪族衆を傘下にして、美濃に焼き打ち侵攻したりしておりますし、
これまでにも他の畿内本願寺とかの事例をあげており、普通に一揆衆が野戦で戦ったり
している事例をあげてますのに、なぜに長島がそうなのか、というのは
貴方がそうお述べになられている以外に論拠がないように思われるのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>385
実際に武田側の軍鑑で、信玄が西上で自身が率いて徳川領土に侵攻した軍勢数が
三万であった事は明記されておりますしねえ。普通に武田勢2万8千+北条の援軍2千、で
三万、ってところではないかと思われる次第ではございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
織田の軍勢数に関しましては、何度も指摘されておりますように、
高天神で2万5千の武田勢に勝てるかどうか微妙で結局城を攻略されるくらいの軍勢しか織田は動員できなかったり、
長篠では北陸の抑えまで動員して三万だったり、長篠の後で織田家オールスターで越前に攻め込んだ時も三万だったり、
と何度も指摘をしていると思われますしねえ。
朝倉浅井にはまだ余裕はありますし、そもそも、朝倉は普通に越前から美濃への侵攻をこれまでにも
何度も行っている事は指摘されておりますしねえ。
武田の財力が大内氏以上とか誰も言ってないように思われますので、
具体的に事例提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
とりあえず、今朝は忙しいのでこの辺で撤収させていただきたいと思いますかねえ。
貴方の出している甲陽軍鑑で、高天神城で織田信長の後詰が遅れて、高天神城を結果的に落としたことで武田勝頼は傲慢、自信過剰になり、老臣の意見を聞かなくなって、高坂なんかは滅亡すると嘆いた、とあるけどね。
兵力云々を議論して何が言いたいの? 織田がそれだけしか動員してないので勝頼は傲慢になり、それが武田滅亡の原因になった、と甲陽軍鑑は記録していますよ。
あのさあ、それと侵攻戦と防衛戦の違いがマジでわからないの? 長島に侵攻戦できる戦闘力があるなら、浅井朝倉滅亡時に長島は何やってたの?
織田信長は貴方がいうオールスターで、兵力3万で越前、北近江にいたんだから、長島がここぞとばかりに尾張に攻め込む絶好の機会じゃないの? このあたり説明してみて。
その話はとくに織田が高天神の時に
2万5千の武田勢に勝てるかどうか微妙で結局城を攻略されるくらいの軍勢しか織田は動員できなかった、
という兵力数の問題と特に関係はないように思われる次第なのでございますが、
この件についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、元々、私にレスをしてきた人が、織田がその当時において動員できる兵力数について
喚いてこられた次第でございますので、こちら側は織田の軍勢数に関しましては、何度も指摘されておりますように、
高天神で2万5千の武田勢に勝てるかどうか微妙で結局城を攻略されるくらいの軍勢しか織田は動員できなかったり、
長篠では北陸の抑えまで動員して三万だったり、長篠の後で織田家オールスターで越前に攻め込んだ時も三万だったり、
と何度も指摘をしていると思われますしねえ。 とお答えしているのでございますが、
貴方は何をおっしゃっておられますのか、という事について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それはそもそも、貴方の史実的な前提がおかしいように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
私が越前攻め、と書いた事で、貴方は相手側を何やら朝倉浅井だと思われたようでございますが、
「長篠の後で織田家オールスターで越前に攻め込んだ時も三万だったり」と書いてありますように、
私が述べているのは、長篠の後で、織田が北陸一向宗に制圧された越前を再制圧するために出陣した時の兵力数が三万だった、
という話をしているわけなのでございまして、この時には既に長島一向宗は1574年の段階で滅亡しておりますしねえ。
で、朝倉浅井と織田が戦っている時にも、普通に長島は北伊勢豪族衆を傘下にして北伊勢に勢力を拡大したり、
美濃や尾張に焼き打ち侵攻を行ったり、美濃に拠点を構築したり、と色々と活動しているのが
史実なように思われる次第なのでございますが、貴方さまは何をおっしゃっておられますのか、という事について、
まずご説明の方をいただきたいと思う次第でございますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>424
具体的に資料やら史実やらをご提示なさられての、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
1573年2月の信玄の書状でも、普通に朝倉の再出陣について述べ、
「今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時!」みたいに書いておりますから、
普通に美濃侵攻を想定しているように思われる次第なのでございますが、
これらの件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
このスレで言われるくらい、織田氏や大内氏に匹敵するくらい裕福なの?
上杉氏、後北条氏なんか問題にならないくらいに?
全てにおいて上位互換の家康
外交政策で遥かに上回る秀吉
領土拡大及び富国策で完敗の信長
このあたりにはまず評価で勝てない
業績では準天下人と言ってよい三好長慶、大内義興
謀略、領土拡大は毛利元就が圧倒的
大名では無いが名将としては文句なしの朝倉宗滴
あとは同格とされる上杉謙信、今川義元、北条氏康、長宗我部元親、伊達政宗 …etc
武田信玄はこのあたり
武田信玄は家督継承時点で本国統一、信濃攻めの足がかりを得ていたからなあ。その点では信長、家康、謙信よりはスタートは恵まれていて、これだもんな。
甲斐から畿内は遠いし
まず田舎モンの豪族に秩序なんてない
当然ビジョンがないから無理
信玄は領土を広げるだけしかしてない
>>511にありますように、当時の謙信自身の戦略状況自体が、
北陸では北陸一向宗に敵対され、関東では北条に侵攻されている関東諸侯に救援を求められ、
という状況なわけでございまして、到底武田を攻めるどころの話ではない、という状況なわけでございまして。
>>389
そういう、無理やりな他大名貶めと無理やりな信長持ち上げに関しましては、
特に資料的な論拠とかのない、貴方さまのイメージのように思われる次第でございますので、
資料やら史実やらを基にしての論証を行われる事からおはじめになられていただきたいと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ほんとに武田は北信の抑えをほとんど置かずに
西上作戦実行したの?
武田と上杉でなんらかの不戦密約でもあった?
敵対勢力隣接地に抑えの兵力置かないってのは
考えにくいんだけど。
謙信の動きを見て越後から南下はできないと判断してから動いてる
そのせいで当初より出陣が遅れたとか
自身の配下に宛てた書状に書いてるくらいだからおそらく本音でしょう
それが上の内容に繋がってる
越中が片付いてたら自分も信濃に帰らないといけないから越中の情勢を気にしてて、本願寺は越中には支援を送ってるから信玄はまだ三河で進軍を続けてほしいと帰国を留意する内容
三河に侵攻してる間も越中の情勢が気になってて本願寺から書状でもう少し三河に滞在していてほしいと留意されてるとも書いてる
何度も指摘されている事であるとは思いますが、
西上当時の武田は普通に奥信濃の飯山周辺をのぞいた、信濃のほぼ全域を領土にしておりまして、
信濃約41万石のうち、飯山周辺はせいぜい三万石あるかどうかですから、武田の信濃の領土は38万石程はあるように思われますかねえ。
>>394 >>395
>>511にもありますように、謙信は7月からまた北陸に進軍して北陸の諸問題に解決を一応つけるのにも、
1573年の末くらいまでかかっていて、それで年内には出陣する予定だった、関東への出陣を年明けに延期している程ですから、
到底武田領土に侵攻するとか、そういう問題ではないような状況のように思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>391
まあ、本願寺に対して、そう装う事で、北陸一向宗にさらに謙信との敵対を活発に行わせるつもりだった、という事も考慮されると思われますけれどねえ。
実際に北陸一向宗は上記のように1573年一杯を上杉を北陸方面にくぎ付けにする事に成功しているわけでございますしねえ。
信濃60万石。
駿河15万石。
あと、境界とかが曖昧だけど、西上野で20万石?
遠州と北三河で10万石?
飛騨5万石?
これが西上作戦時の武田領かな?
信濃の石高は約40万石、そこから北信濃除いた数値だからもっと少なくなる
あと飛騨は支配していると言えるのか?
>>396
その後は73年7月から8月までまた越中攻めだったと思う
つまり5月、6月はフリーなわけか。
史実だと武田信玄が病死して武田主力が引き返してるから攻められないが、武田軍が東美濃に入って織田軍と交戦しだしたらすぐには引き返せれないから、方針変える可能性もあるね。
越中一向一揆は昨年の尻垂坂で勢力を落としているし。
謙信は1573年7月からまた北陸の方に進軍を開始しまして、
それから北陸方面の諸問題にひと段落をつけて、
1573年の年末に春日山に戻ります。
で、本来なら年内に北条の侵攻が続いている関東への出陣を予定していたようですけれど、
兵の疲労が激しい為に休息をとらせて、年が明けてから関東に出陣、
という流れでして、このように当時は北陸一向宗もまだ余力を残しておりますし、
謙信の当時のスケジュールは北陸と関東で非常に大変な状況になっている、
という状況なわけでございまして、信玄にとっては北条は同盟者、
北陸一向宗に関しては信玄がそれを扇動して謙信と戦わせている、という流れなのでございますから、
謙信が戦略的に非常に苦しい状況、というのは重々承知していたように思われる次第でございますかねえ。
そもそも、謙信にしてみれば、上記のように関東と北陸で自身は手一杯、という状況でございまして、
この状況で武田にまで攻め込まれたら大変だ、という事で上杉側の対武田方面軍が非常に神経質になっており
夜中に猟師が鉄砲を一発打ったら「武田軍が攻めてきた!」と大騒ぎになるくらいになっておりますのに、
さらにここで武田領土に攻め込んで、武田勢主力まで呼び込む理由がどこにもない、と思われる次第でございますし、
だからこそ、謙信も信長の武田領土侵攻要請とかをスルーしまくっております次第でございますのに、
武田が兵力を戻すも何もないように思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
文章よく読みなよ。
別に侵攻しなくても、越後に上杉謙信とその主力がいるなら、一定の警戒をするのが普通だろ。
特に武田信玄みたいに石橋を叩いて渡るような人物が、上杉謙信が帰ってきて自分の領地手薄にしておくのか?
万一考えていくらかは引き返させて守りを固めるのが普通だろ。
甲陽軍鑑では、三方ヶ原の戦勝後に、高坂昌信が武田信玄に浜松城を攻め落とすには最低20日はかかる。その間に上杉輝虎が信濃か上野に出陣するかもしれない。織田信長も8万の兵をひいて来るかも知れない。信玄公の武名を傷つけるのはつまらないことである、と諫言している。
武田信玄ほど、優秀で慎重な名将が、そんな他人任せで自分の領地の守りを開けておく愚策をやると思うのか?
ですからあ、普通に信長も人質をとっていて、敵対したら処断する、
という普通の事をやっていますのに、なぜに信長が甘いのか、という話になると
思われますしねえ。
いやいやいや、当時の謙信の書状で普通に信長が軍勢を派遣して、反対派を粛清して
岩村をはじめとする遠山を領土化した事が書いてありますのに、何をおっしゃっているのかと思う次第なのでございますけれどねえ。
>>514
信長を打ち倒したら、普通に今度はまず徳川領土の併合にかかるような気もしますけれどねえ。
>>515
ですからあ、謙信には>>511にありますように、武田領土に侵攻するような余裕も必要性もない、
というだけの話のように思われるのでございますけれどねえ。
ただでさえ、北陸と関東で手一杯ですのに、武田領土にまで侵攻して、それで武田勢主力が上杉の方に向かってきたら
上杉にとってメリットは何もないように思われる次第でございますしねえ。
そもそも、2次資料の軍鑑どころか、一次資料の信玄の書状では、5月からの美濃侵攻計画を朝倉とかに書いておりますし、
2月の段階でも「朝倉が再出陣してくるようなので、今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時だ!」とか
書いているわけで、普通に5月侵攻計画の方を継続するつもりであると思われるわけでございますしねえ。
岩村城の件は上杉謙信のその書状しか証拠がないだろ、あとの記録はバラバラで混乱している。
謙信の手取川ですら証拠が謙信やその他数通の書状しかなくて規模の問題や実際にあったかどうかまで疑われているのに、謙信の書状だけで随分過信するんだな。
実際に一次資料ですしねえ。
>>564
それは貴方のイメージではないかと思われますかねえ。
桶狭間勝てないだろ
信玄の戦績は勝率5割程度あるが寡兵で倍以上の敵に勝った例など一つもないぞ
信長は桶狭間以外にも複数例ある
一か八かの状況で戦闘に挑んでしまうから負けも多いが信長の勝率は7割近い
武田信玄が寡兵の敵に勝ったのは、小笠原長時の塩尻峠合戦(1548年)だけ。ただしあれは故意に寡兵にしたというより、村上義清に大敗した直後のためにあれだけしか集められなかった可能性もある。
それでも小笠原5000に対し、武田3000で倍は無かった。
逆に村上義清相手には武田信玄は倍以上動員しながら2回も大敗した。
少なくとも、信長さまに都合の悪い時にだけ、そこまで圧倒的に距離が異なるわけでもありませんのに、
そこまで圧倒的に気候条件が変動するようには思われない次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>570 >>571
いやいやいや、桶狭間もそもそもの問題として、現代で言われているような一発逆転を信長は求めていたわけではなく、
信長公記にある信長自身のセリフなどから考慮しましても、信長は
「丸根鷲津の砦を攻略し、疲弊して後方に退いて休息中の今川勢先鋒部隊、を
自身の率いる新手の軍勢で攻撃して撃破する。」という策戦で
桶狭間山にいる今川勢本陣を今川勢先鋒部隊と思って進軍している最中に、
大雨が来て、それで混乱している最中の敵軍に突撃を行い、
それで敵軍が崩れて、そこに朱塗輿などがあった事から、戦っているのが
今川勢本陣である事に気が付き、義元旗本を追撃して打ち倒した、という戦いでございまして、
信長でないとできない!とかいう戦いでもないように思われる次第でございますし、
そもそもの問題として、信長は自軍側の方が相手側よりも大軍の時でも
普通に敗北している事例が多数存在しますのに、何をおっしゃっておられるのかと思う次第なのでございますが、
この件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄と村上義清との戦いは、砥石はともかく、上田原は別に倍以上、という話でもないように思われるのでございますが、
この件につきましても、お答えの方をよろしうお願いいたしますかねえ。
>>568
いやいやいや、必死になってこちら側の論旨を必死に捏造曲解などをして、
必死に煽り罵倒などにご狂奔なさられておられますのに、何をおっしゃっておられるのかと思いますし、
そもそもの問題として、このスレを立てたのは私でもございますし、
普通に次スレなども立てさせていただきたいと思いますし、
レスも普通にかかせていただきたいと思う次第でございますかねえ。
最初のレスにあったけど、お前地理とか気候とか理解できないの? 0点。
抑えを置かずに進攻可、
ただし越中情勢次第でそれに対応する兵5000が
信濃に帰国する、あたりでいいんじゃない?
5月頃の上杉がなにしてるか次第か。
武田はその可能性を無視するほどアホじゃないだろうな
全軍撤退は無くても、高坂と内藤、小幡に8000くらいは戻すかな?
残り2万の兵力でも徳川家康単独ならやれるし。
織田信長は無理だが。ただ、徳川家康を潰すか屈服させたら、織田家臣団に与える影響は大きいし、
北部の江馬は信玄が死ぬまでは武田側
姉小路は永禄七年に降伏してるけど元亀元年に信長の上洛命令に従ってるから微妙
いやいやいや、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
>>404 >>403 >>402
単に1574年末に関宿やら羽生やらを北条に攻略されて、関東での救援対象がなくなり、
さらには北陸もひと段落していた上杉対策の為に、香坂と一万の兵を残しておいた、というだけの話であるように思われるのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>401
姉小路は、普通に勝頼の書状で信玄の死亡後に武田に敵対した事が書いてありますので
信玄が生きてるときは普通に武田に従っているように思われる次第でございますかねえ。
でも高坂ひとりによく1万も任せたよね。
内藤、小幡、和田などは長篠で動員されてるし。高坂は勝頼からそんだけ信任されていたのかな?
防衛戦力だから士卒が少なく兵卒多目で長く持てばokって感じだったかも?
ソース無いけど
高坂山県馬場と折り合い悪かったんだろ勝頼
美濃侵攻などせず、野田城の後は二連木城、吉田城と行けば、徳川領は東西に分裂し、家康は信玄に降るしか道がなくなると思うのです。
徳川家康が降れば、織田信長の家臣や従属勢力に大きな影響を与えるでしょうし、武田側に寝返る国人も出る可能性もあります。
しかし、徳川家康をある程度叩いて放置して美濃へ。しかも朝倉義景を相方にして。従来の慎重な武田信玄とは思えない大胆あるいは無謀な戦略に見えるのは気のせいでしょうか?
間違いなく死を悟って焦っていたからだろうね
信玄は石橋を叩いて渡るどころか、石橋を作り直してから渡るタイプの人間
まだまだ寿命があるのなら、わざわざ他力本願の西上作戦なんて将軍に頼まれてもしないよ
普通に信長も離反した荒木とか松永とかの人質とかを処断しているわけで
ございますしねえ。普通に戦国時代なのですから、
信長も当たり前に人質をとっているに決まってますし、
敵対した相手の人質を処断するのも普通にやっておりますのに、
貴方は何をおっしゃっているのかと思うのですけれどねえ。
>>407 >>406
実際問題としては、信長の方が、武田織田両属だった岩村遠山を
軍勢を派遣して自領土に併合してしまったり、
徳川が織田・上杉と組んでの武田包囲網を構築しようとしていたのを、
武田が織田に抗議してもスルーしてたりして、
武田と織田の間に複数の火種となる問題があった、というのが敵対の主な原因なわけなのでございますけれどねえ。
荒木も松永も処断されて仕方がないだろ。
信長が助命する言ってるのに拒否。
荒木なんか自分から家族見捨てて逃げる始末。
これで処断するながおかしいだろ。
岩村城の件ははっきりしてない。武田が先に手を出した説もあるんだから、一方的に信長が悪いというのはどうかと思う。
浜松城以西の三河は収容人数が多い平山城が多い。浜松城も10000人以上収容可能だし
三方原で圧勝した信玄も落城させるのは困難と判断したからな
それだったら砦に毛の生えた程度の城しかない美濃に入る方が現実的
美濃では堅城と言われてた岐阜城でさえ何度も落城してるし
吉田城ならいけると思うが。
徳川家も岡崎城、浜松城、吉田城の3つに分散し、それで守るのはさすがにきつい。三方ヶ原後ならけが人も多数いるし。
吉田城落としたら岡崎、浜松間が断たれて、徳川家は干されるだけ。
それと収容人数多いとか、岡崎や浜松はともかく、後は碌な城ないよ三河は。吉田城が大きくなったのは江戸時代だし。
>美濃侵攻などせず、野田城の後は二連木城、吉田城と行けば、徳川領は東西に分裂し、家康は信玄に降るしか道がなくなると思うのです。
領土を南北に分裂させられてなお3年粘った浅井を考えると、抵抗する気があればまだいくらでも抵抗出来ると思う。
>>409
東濃は武田も織田も力攻めでは落とさなかった城ばかりでは?
中濃かもしれないが力攻めになったのは堂洞ぐらいか?
岐阜城でさえ何度も落城ってのも重要拠点なので単にそれだけ争点になったのと落とす必要があったからで
堅固さとはまた別問題では。
>>413
>後は碌な城ないよ三河は
それは割とどこの国も一緒じゃね。
そもそも本拠以外は支城同士で連携して守るのが普通で、
ゲームみたいにどっかでかい城に籠って守ると言う方が例外なんじゃ。
実際はいつも通りに、今なら徳川をつまみ食いしても信長は我慢すると計算しただけ
他人の足下をみる外交ばかりしていた欲の深い機会主義者が、とうとうイモを引いたのさ
論破されすぎて武田四名臣は屑!(身内以外は全員屑!)って言ってた時が一番輝いてた
信玄ageの為に重臣まで叩いてたからな
調べたら長篠死鞭事件ってまとめてあった
また地獄見せてあげるから楽しみにしててね菅沼君w
それだけの地域カバーできると思うのか
濃州行くよりはマシじゃね?
遠州、三州に既に補給線作って、この上濃州にもまた補給線とか。三つも補給線作って武田は保てるのか?
武田も美濃勢に言ってるだけで他の書状では全然違うこと言ってるよ
ねぇは岐阜侵攻以外の史料はガン無視してるだけ
美濃に出陣しろとは武田も言っていなかったと思う。
>>427
義昭の挙兵に呼応した、信長が上洛したのを警戒したって側面もありそう。
>>431
書状に関する分析も昔から目茶苦茶だよ、だから原文スキャナしてうpしろとか言われる。
>>433
でも義景自身が書状で湖西は守り固くて無理って言ってるぞ。
時期考えると信長が上洛していた時期だから、言い訳してるだけで、
信長が京にいない時期なら行けたかもしれないけど。
>>436
史実じゃ朝倉が美濃に出陣って話がそもそもないのかよ。
まーたいつも通りに、必死に抽象的にお喚きになられておられるご様子の様に思われる次第ではございますが、
実際には私のそのレスでも書かれておりますように、実際にそれで北陸一向宗の活動によって、
謙信は1573年一杯を北陸方面への侵攻に費やし、本来の予定だった、年内の関東への出陣を延期する事に
なったりしているわけなのでございますが、ここら辺につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄自身も、2月の書状で「義景が再出陣してきた。今こそ申し合わせた事を行うに及ぶべき時だ。」
的に書いたりしているわけで、普通に5月侵攻計画の事を行おうとしているように思われる次第なわけでございますが、
これらについては、いかが思われますかねえ。
>>526
いやいやいや、普通に信玄自身の書状で、義景に対して「5月に御張陣の事。」
「美濃の郡上遠藤に鉈尾の砦を構築するのを、義景の方からも催促なさられるようにする事。」と
書いておりまして、普通に美濃への侵攻を考慮しているように思われる次第でございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>525
いやいやいや、何度も何度も述べておりますように、信玄は戦国時代当時から
天下を取りうる名将として、非常に評価の高い人物だったわけでございますし、
家康が信玄を尊敬していた、というのも普通に言われている事柄ではありますが、
それらについては、いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>524
丁寧なるご説明の方をありがとうございますね。
「武田のお陰で勝てた!もっと教えを請いたい!」
ですから美濃に出陣してくるに決まってるでしょう?
少なくとも、その貴方が言ってる菅沼なんたらは
確実に私とは別人であると思われますし、
結局、オープンでも貴方は誰でも彼でも菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられて、
整合性をつけて説明する事が不可能になって発狂逃亡、
っていう流ればかりなわけなのでございますし、
>>12で聞かれているような事柄などについて、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>411
なーにを言ってるんですかと。
具体的に事例の方をあげてもらえますかねえ。
数百人でもないですが、確実に信長が本能寺までで死亡させた織田家武将達は
100人超えてて貴方が発狂逃亡しておられる、という流れでございますし
そのような事をおっしゃられるのであれば、具体的な事例で語られてくださいねえ。
>>412
具体的に事例提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
オープンにある事例としては、貴方が議論的に苦しくなって、
菅沼なんたら認定とかに狂奔して発狂逃亡したり、
なんとかして相手側をくさしたくて煽り罵倒に狂奔してアク禁食らっている事例ばかりでございますし、そのような事を喚かれるのであれば、
具体的に事例提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>417 >>418
信玄が2月に出した書状で、「朝倉義景がそろそろ再出陣してくるようだ。
今こそ申し合わせた事を行うべき時だ。」的に書いておりますし、
実際に三月に再出陣してきてもおりますので、
普通に11月に申し合わせた五月侵攻計画を行うように思われますしねえ。
朝倉義景は普通に三月には再出陣の方をしてきておりますしねえ。
>>377 >>378
はて?何をおっしゃっておられるのかとは思いますが、
私が昨日にしたレスは>>372から>>375までの4レスだけで、
IDはいずれも同様なように思われますが、貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>376は明らかに貴方こと必死な織田厨さんが、言われて悔しかった事を
必死になって鸚鵡返ししようとして、喚かれながら、
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます、
ご自身の所業を相手側に必死になって押し付けようと躍起になっておられるようにしか思われない次第ではございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
朝倉義景の再出陣って、敦賀に出ただけやないか。北近江に出張ったわけでもなし、湖西に出たわけでもなし。あの再出陣で若狭に申し訳程度に派兵しただけ。
前にも指摘されているとは思いますが、小谷への普請と若狭への抑え、などを行った上で
5月からの美濃出陣を想定していたのではないかと思われる次第でございますかねえ。
12km圏では広すぎてどこかわからないです。
3年も経てば、さすがに浅井、朝倉は国力的にはもう限界に来ていたでしょう。むしろ今までよく頑張った、と言った方がいいかも。
しかも織田信長はその3年で新しい領土も得て勢力を着実に伸ばしているのに対し、浅井や朝倉は織田に領土を奪われ、家臣が次々と戦死し、縮小の一途をたどっている。
これでまだまだ朝倉や浅井には力があるんだ、と言われましても。
ねえさんは、防衛戦の有利不利とか知らないんですか? 普通、城を攻めるなら守り手の3倍はいります。それだけ防衛側が有利なんです。
ましてや長島や小谷はかなりの堅牢ですから、浅井や長島が撃退したのは別に不思議ではありません。武田信玄も圧倒的兵力で戸石城を攻めて戸石崩れという大敗をしています。
野戦でなら、長島も朝倉も地の利があったからでしょう。織田軍は遠征軍。朝倉は同盟相手の領地、長島は自分ところの庭。
ねえさんは、どうも書状に関する分析はかなり優秀なのかもしれませんが、後は滅茶苦茶すぎます。
「武田家臣のおかげで織田に勝てた。だからもっと教えを請いたい」を
朝倉が美濃攻めに参加するに違いない
と解釈するなんて
一般人にはとてもできない
さすが書状研究家
朝倉は武田に呼応して朽木谷を通って
湖西方面、おそらく坂本を攻撃するか、
あるいは突破して京都に進出、
あたりのことをしたかったんじゃないかと思うが。
小谷南方はもう織田の陣地が強力で突破は無理と
判断したんじゃないかな。
朝倉は志賀の陣で停戦持ちかけるくらいだし、以降は疲弊してて姉川の頃の勢いは残ってない
伊勢長島勢力はいわずもがな
龍興をはじめ美濃勢抜けてるからそもそも美濃まで行って合戦するような面子じゃない
地元の尾張伊勢の国境付近で活動するのが一番良いに決まってる
仮に朝倉が二万、長島が三万以上動員したとしても、それが武田二万と対等だと言うなら菅沼自身が武田をナメ過ぎでしょ
その武田でさえ正面からぶつかれるわけじゃないしな
本願寺以外の畿内の諸勢力も織田が他戦線を相手してるから生き延びてるだけみたいなものだし
相手に対応するだけで精一杯で戦略の選びようがない立てようがないって感じだ
そのような長期的にましな戦略は家臣の反感招くと
何度も言いますが、この時期でも朝倉は織田相手に複数の戦果をあげておりますし、
志賀陣で朝倉浅井に土下座降伏宣言的な朱印状を送っているのは信長の方だと、
何度も指摘しておりますし、この朱印状の内容には近江と美濃の境に兵力を置かない取り決めとかもありまして、近江の南西の端っこにある延暦寺ではどうやったって
近江と美濃の境に兵力を置けない事は何度も指摘しておりますしねえ。
それは貴方の願望であると思われる次第でございまして、
実際にはこの時期でも長島は普通に北伊勢豪族衆を傘下にして、
美濃に焼き打ち侵攻をしたり、美濃に拠点を構築したりしているわけですしねえ。
前スレとかにも書かれておりましたように、
普通に畿内側の反織田勢力とかは、織田勢主力が来ない限りは、
親織田勢力に対して優勢でございますから、
無理に兵力を動かそうとかしましたら、逆に親織田勢力がそれらの包囲網側の勢力に突破されて
畿内の反織田勢力が美濃とかに押し寄せてくる事も想定のうちに入れなければならない、
という話なわけでございますから、普通に200万石想定で、各地に抑えを置いて美濃に集結させられる
織田勢主力が2万数千から3万程、としておいた方が、むしろいいように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>454
なんのレスの事ですかねえ?とりあえず、当時の織田は石高200万石程、で
各地に抑えをおいて、美濃に集結させられる兵力は2万数千から3万程、で
包囲網側の方が美濃に集結させられる兵力においては上回っている、という状況なように思われる次第なのでございますが、
この件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
西日本、東日本。日本海と太平洋。これらの街道が通ってる交通の拠点である信濃と甲斐と駿河を押さえていたからな
あと鉱山収入もあるし財政は何度も遠征できるくらい裕福
信長が評価されたのは平成時代からだ、とかグローバリズムがどうとか
ユニークな論調が目だつが
金積まれて景勝についた模様
勝頼って強欲だったのかな?
高天神城にしたって、上野戦線をギリギリまで縮小して戦力を遠州に回せば、まだまだ高天神城は保てただろう。
遠州と上野の二方面作戦なんかしてるからああなった。
東美濃にも出ていたぞ
信玄が全方位に喧嘩売った結果、尻拭いの人生
上杉の隙を狙って姑息に動き、徳川はちゃんと仕留めず、織田とは修復不可能な関係
父親には大戦略が無かったけど、息子の勝頼にはそもそも戦略が無かった
父親が遺した大敵を正面に迎え、家中の統率を失わないためには勝てそうなところは寸土も手離すわけにはいかなかった
武田家当主としての勝頼の人生はこれが総てで、はじめから袋小路に向かって走っていた
気の毒という他は無い
武田信玄が足利義昭を廃して自ら征夷大将軍になり、幕府を開くとか考えにくい。せいぜい副将軍、管領になって事実上の支配者になる。
で、2、3年で足利義昭との関係が破綻し、今度は武田信玄が織田信長みたいに包囲されて終了。
間違えた消してしまったみたいだ
徴兵できるのは精々200万石くらいで他は反抗勢力と”拮抗している”
直轄200万石+残り半分100万石=合計300万石に対して
畿内の反抗勢力が合算でおよそ100万石
武田の110万石、朝倉の50万石
長島の一向衆を最低でも朝倉と同等にしたがる訳か…
いやいやいや、拮抗は特にしてないわけでございまして。
前スレとかにも書かれておりましたように、
普通に畿内側の反織田勢力とかは、織田勢主力が来ない限りは、
親織田勢力に対して優勢でございますから、
無理に兵力を動かそうとかしましたら、逆に親織田勢力がそれらの包囲網側の勢力に突破されて
畿内の反織田勢力が美濃とかに押し寄せてくる事も想定のうちに入れなければならない、
という話なわけでございますから、普通に200万石想定で、各地に抑えを置いて美濃に集結させられる
織田勢主力が2万数千から3万程、としておいた方が、むしろいいように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
それから、普通に長島は数万の兵力を有しており、北伊勢豪族衆を傘下に入れ、
美濃に焼き打ち侵攻とかをしているわけでございますしねえ。
織田 >>> 上杉 > 朝倉 >> 武田
お金持ちの本願寺に支援してもらってこその信長への反抗
周防長門で30万石。
豊前15万石。
筑前33万石。
あと、境界とかはっきりしてないから確実なことは言えないが、大内は安芸、備後、石見、伊予などにも所領があった。それらがまあ合わせて30万石あるかないか。
合計110万石前後。武田に負けてる言っても10万石くらいじゃないのかな?
九州の大内領忘れてないか?
貿易で利益があがるし瀬戸内海使えば畿内への商圏へ物を送れる
単純な石高以上に国力は高い
九州領書いてあったか、見間違えたわ
貿易利権を独占してる大内義興の経済力は尋常じゃないよ
勘合貿易全てなので日本と中国間の利権全部
尾張と堺で利権持ってた信長より上だと思う
上に上がってたけど越前の朝倉や越後の上杉も貿易港持ってたので、金山収入に頼ってた武田は経済力では勝ち目ないだろうね
まじで言ってんの?
あと武田は勢力範囲で石高出してんのに大内だけ自領で石高出すのもナンセンス
あと山口は瀬戸内海を使って人口最大の畿内への経済圏にアクセスしやすいのも強み
駿河はともかく不毛な地の甲斐と一番肝心(豊かな)な北信濃が取れてない、木曽川も使いにくい信濃と上野でどうやって大内と並ぶのか?
ねえは地理に詳しくないから、東山道が畿内方面にアクセスしやすいと考えているのかもね。
まーた変な風な妄想願望をなさられておられるご様子ではございますが、
西上時の武田はとっくに北信濃を制圧しておりまして、
上杉に残されているのは奥信濃の三万石だけでございますしねえ。
さらには、武田には駿河もありますのに、なぜに必死にスルーなさられようとしておられるのかも
疑問に思われる次第なわけでございますし、
なーんか武田領国を商人とかのいない発展途上国みたいなイメージでとらえられておりませんかねえ?
何度もこの件についても指摘はされていると思うのですが、
武田は領国内の商人・職人の保護育成・統制を行い、武田領国内の経済活動を活発化させるばかりか、
他国にも商人などを派遣して活発に経済活動を行っているわけでございまして、
武田領国内では多くの商人・職人達の座や組合などが武田氏の保護や統制を受けて
活発に活動しており、各地に多くの市や大市がたって領民たちは欲しいものとかを、
そういった大市場とかにいけば大抵は入手できるようになっていた、とされておりますしねえ。
武田領国を、まるで発展途上国のように語られるのはいかがなものなのかと思われる次第なのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
少なくとも、大内のが自領、になるなら、西上当時の武田の領国も普通に自領、になると思われますしねえ。
そもそも、大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてますのに、武田が隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
反則気味だけど、安藤守就が武田に内通していたのが事実だった、としたら
どうなると思う?
安藤の追放は独裁者信長の粛正説が言われるけど、
近年の信長評価から考えたら、安藤の追放は根拠があったとしたほうが
良いんじゃないかと
想定としては
武田:北信の守りに5000(5月に上杉謙信が越後在国なら備えは必要と判断)
浜松、三河の抑えに二俣、野田あたりに5000、
武田信玄東濃進攻兵力は20000、進攻推定は岩村→鶴ヶ城、兼山。
朝倉・浅井:一応武田から依頼された美濃進攻への協力として、朝倉景鏡5000が
油坂峠を越えて郡上遠藤と合流、その後タイミングを見て
中濃方面へ南下、鉈尾山城に入城、同時期に津保(大洞城(一柳城))、
鉈尾山城、加治田城の中濃の内応。
朝倉義景10000は主力を率い朽木谷経由で湖西方面で攻勢、坂本を攻撃。
浅井長政4500小谷で籠城
朝倉別動隊2000+浅井(道案内役)500、計2500、木之本から八草峠越えて
美濃坂内、藤橋の揖斐川上流部へ進攻、以後揖斐川沿いに南下し北方城を目指す。
安藤守就は援軍にタイミングを合わせ挙兵。
長島一向衆:戦局に影響を与える具体策はなんでしょう?
こんなかんじでしょうか?北方城は岐阜に近いので挙兵タイミングがかなり難しいと思います。
武田か朝倉・浅井の援軍が来ないと厳しいように思います。
何十回でも言わせていただきますけれど、当時の謙信は北陸と関東に敵を抱えての
東西奔走を1574年末まで繰り返すことになるわけでございまして、
この状況で武田まで敵に回したら大変だ、という事で上杉側の信濃国境軍は非常に神経質になっておりまして、
猟師さんが夜中に鉄砲を一発打ったのを武田勢の襲来だと思って大騒ぎする、という事態にまでなっているわけでございまして、
到底武田に攻め込むどころの話ではない、というのを何度も指摘されておりますのに、
必死に武田の美濃侵攻軍の兵数を減退させたいために、必死に都合の悪いところをスルーなさられるのは
どうかと思うのでございますが、この件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
三河方面に関しましても、既に徳川が三千程で、信玄死亡後もしばらくは動いている事からも、
徳川対策に三千程で十分に動きを封じられる、というのも何度も指摘しておりますのに、
必死にスルーなさられようとするのはどうかと思われますしねえ。
普通に、軍鑑に信玄の率いた徳川領土侵攻の武田勢の軍勢数が三万だったと明記されておりますし、
既に岩村遠山にも兵力がおりますので、2万8千を信玄が率い(山県勢含む。)2千が北条の援軍で合計三万、
岩村遠山の兵力千余位として、残りの2千程が最初に派遣されて岩村遠山と合流、
合計で三万三千程、三千程を徳川の抑えに残し、三万程で美濃に侵攻、的な流れになるのではないかと
思うのでございますけれどねえ。
普通に朝倉義景も主力で美濃に侵攻するように思われるのでございますけれどねえ。
実際問題として、その方が勝算も高いように思われますしねえ。
>>473
いやいやいや、普通に武田・朝倉・長島による5月からの美濃侵攻が行われれば、
当時の状況において、織田が美濃に集結させられる兵力は2万数千から三万、と思われますが、
武田勢三万近く、朝倉2万程、長島数万、で三方向から攻め寄せられて、
普通に信玄は、5月侵攻を行い、
朝倉・長島と連携して美濃に攻め込む事を戦略としていた事が、書状などからも明らかなように思われますし、
この状況でしたら、武田・朝倉・長島で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば武田は守りを固めて朝倉・長島が侵攻し、
朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで非常に戦略的に優位に進めていけると思われますし、そのような戦い方は普通に戦国時代でもセオリー的な戦い方でございますし、
という感じで、普通に戦略的に非常に優位に進めていけるように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
せっかくの西美濃三人衆の人脈も生かせなくなるし
遠山や遠藤のように美濃の地元組を信玄への寝返り工作が主任務だと思うよ
信長が切ったのも同じ理由だと思う
信玄存命時から勝頼が自害する前年まで大した内乱も起こらず安定的に外征ができていたわけで
これは当時としては織田さえも導入していなかった分国法や軍役令が大きい
一方の大内氏、織田氏は圧倒的な国力を有していたにも関わらずあっさり内乱で滅亡した
大内は分国法(大内家壁書)があったんだがね。
織田は軍役に関しては残ってない可能性はないの? 明智光秀のがあるんだから、全く軍役に関する規定が無かった、とは考えにくい。
豊臣政権の奉行制は少なくとも織田のパクリだし。
それをいいましたら、織田は本能寺の後にみんなで自身の権益拡大に狂奔して
反乱とかも続出して、政権ごと崩壊、という感じなわけでございますしねえ。
勝頼の場合は、長篠の敗北による打撃の上に、
北条まで御館の外交失敗の結果として敵に回してしまい、
北条相手には上野・武蔵方面、徳川相手には遠江・駿河方面で戦い、
さらには美濃方面からは織田も圧力をかけてくる、というのを数年間にわたって繰り返した事から
国力疲弊を招いたわけでございますしねえ。
普通に信玄が美濃に侵攻するのとは、まるで話が異なるように思われるわけでございますが、
この件についてもお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>478
明智軍法は後世の創作説も根強いですしねえ。
そもそも、1580年に出された佐久間折檻状にしっかりと
「お前は軍勢をそろえようとしなかった!
水野の領土を与えてやった時も、その収入で水野の旧家臣達を召し抱えるのでもなく、全員追放にし、
かといってその収入で家臣を一人も増やそうとはせず、
自身でため込む事ばかりをしていた!だから手柄をあげられなかったのだ!」
的に書いてるわけですから、学者さんなども指摘されておられますように、
信長領国では、基本的に家臣達が普段からどれだけの軍勢や家臣を養い、
いざ合戦の時にどれだけの軍役で出陣してくるか、は家臣達の裁量に任せられていた、
という所なのであると思われますかねえ。
で、秀吉の方は東国大名とかがやっていたような、軍役賦課の方で進めていく、
という感じでございますしねえ。
家臣の造反が相次いで滅亡した武田がそれ言っても説得力が…
そもそも上野と遠江を往復してただけで疲弊してっちゃったけどね
誰かの表現で言えばたかが隣国への派兵
だーれもそんな事は言ってないように思うのですけれどねえ。
ただ、大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてますのに、武田が隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
甲斐武田は義信事件。
伊達は天文の乱。
大内は大寧寺の変。
大友は二階崩れに宗麟、義統の内訌。
今川は遠州錯乱。
長宗我部が信親亡き後の内訌。
三好は長慶末期から滅亡までの内訌。
分国法定めてるのに、何でこうなるんだろうか? 北条くらいだよな、統制に成功してるのは。
にんげんだもの
相田みつを
そんな事があるわけないと思うのですけれどねえ。
信玄が特にそのような事をしたというわけでもないですし、
信長も普通に縁戚関係とかは結んでおりますし、
そもそも、信長は普通に粛清とか虐殺とか騙し討ちとかしまくりで、
同時代からも後世からも人格的評価については悪評満載ですし、
信長の研究者として有名な谷口氏は江戸時代には信長が庶民からも武士からも
人気がさっぱりだった、的な事を指摘しておられますしねえ。
そもそも信長の場合は一旦許した風にしても、時間がたってから、
自身の都合がよくなったら蒸し返して粛清する、という蒸し返し粛清だけでも
膨大になりますし、それだけではなく、
普通に粛清している事例もこれまた膨大になりますし、
で同時代においても後世においても、
信長を甘いとか言っている人間はまずおりませんし、
軍役うんぬんに関しましては、単に信長の組織構築が、
そこまで行ってなかっただけの話であるように思われまして、
だから佐久間折檻状とかでも、佐久間が軍勢をそろえなかった事を
「そんなんだから手柄をあげられなかったのだ!」的に述べているように
思われるわけでございますしねえ。
もう、信長を無理やりに甘い人間という事になさられようとしなくてもよろしいと
思うのではございますけれどねえ。
>>480
それを言いましたら、現代の法治国家で犯罪は起きないのでしょうか?
という話になるわけでございますしねえ。
信長はそういうのを定めなかった事で、領国が反乱が大量に起きてたり、
最終的には本能寺で政権ごと崩壊する事になってたりするわけで
ございますしねえ。
分国法を悪いというような話ではないように思われる次第でございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
現代のヤクザと同じような発想
信長はそれに比べたら激甘だよね
軍役は部下任せで人質も取らない
信玄の体制は裏切る前提
信長の体制は裏切らない前提
その分翻意を見せた部下には厳しいが、荒木や松永など有能なやつは許しちゃう
やっぱり信長は甘いなぁ
だから裏切られちゃうんだよ
家康は信玄のやり方を生かして幕政を組み立てていったね
>信玄の体制は裏切る前提
信長の体制は裏切らない前提
謙信の体制は教祖様とその信者
秀吉は自らが御内訌様
家康は最後まで生き残ってた御長寿様
まーた必死になって捏造曲解などによるレッテル貼りとか同一認定とか、変な風な妄想願望をなさられておられるように思われますが、
>勘合貿易全てなので日本と中国間の利権全部
大内の領土は日本全土どころか、その半分もありませんので、
その貿易収入とかもそれ相応のものとなるように思われる次第なのでございますが、
その辺についても、お答えの方をよろしく願いいたしますかねえ。
>金山収入に頼ってた武田は経済力では勝ち目ないだろうね
なーんか武田領国を商人とかのいない発展途上国みたいなイメージでとらえられておりませんかねえ?
何度もこの件についても指摘はされていると思うのですが、
武田は領国内の商人・職人の保護育成・統制を行い、武田領国内の経済活動を活発化させるばかりか、
他国にも商人などを派遣して活発に経済活動を行っているわけでございまして、
武田領国内では多くの商人・職人達の座や組合などが武田氏の保護や統制を受けて
活発に活動しており、各地に多くの市や大市がたって領民たちは欲しいものとかを、
そういった大市場とかにいけば大抵は入手できるようになっていた、とされておりますしねえ。
武田領国を、まるで発展途上国のように語られるのはいかがなものなのかと思われる次第なのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>470
だーれもそんな事は言ってないように思うのですけれどねえ。
ただ、大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてますのに、武田が隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>468
少なくとも、石高などにおいては、大内よりも武田の方が西上の時は上でございますしねえ。
>>469
まーた必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられながら、
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必至な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら、
「自身は地理に自信!」的に喚かれておられるご様子ではございますが、
そもそも、越前から美濃への侵攻を朝倉が何度も行ってきたのにも関わらず、
「地理的に不可能!」と喚かれて、史実を指摘されて発狂逃亡なさられたり、
信濃から美濃への侵攻やら、その逆侵攻やら、を「地理的に不可能!」と喚かれて
武田勝頼とか、後年の織田とかも岩村経由で美濃に侵攻したり、その逆をやっていたり、
という事を指摘されて発狂逃亡しておられるのが、貴方さまのように思われますが、
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まーた必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられながら、
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必至な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられているご様子ではございますが、
少なくとも、石高面では西上時の武田の方が当時の大内よりも上でございますしねえ。
貿易とかを含めたら、どうかとは思われますが、
なーんか武田領国を商人とかのいない発展途上国みたいなイメージでとらえられておりませんかねえ?
何度もこの件についても指摘はされていると思うのですが、
武田は領国内の商人・職人の保護育成・統制を行い、武田領国内の経済活動を活発化させるばかりか、
他国にも商人などを派遣して活発に経済活動を行っているわけでございまして、
武田領国内では多くの商人・職人達の座や組合などが武田氏の保護や統制を受けて
活発に活動しており、各地に多くの市や大市がたって領民たちは欲しいものとかを、
そういった大市場とかにいけば大抵は入手できるようになっていた、とされておりますしねえ。
武田領国を、まるで発展途上国のように語られるのはいかがなものなのかと思われる次第なのでございますが、
この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそも、大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてますのに、武田が隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですが、この件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
どっちも大したことないよ
双方共大したビジョンがない
この戦国時代を終わらせて次の時代に切り替える、それを目指した最初の人物が信長だったと言う事実
この様な人物が出て来ないといつまでたっても戦国時代は終わらない
人質を取り戻して裏切った穴山
造反した武将の人質を軒並み殺害した勝頼
まさに抗争に破れたヤクザの末期状態
人間追い込まれると正気の沙汰じゃないからねー
信長は普通に粛清とか虐殺とか騙し討ちとかしまくりで、
同時代からも後世からも人格的評価については悪評満載ですし、
信長の研究者として有名な谷口氏は江戸時代には信長が庶民からも武士からも
人気がさっぱりだった、的な事を指摘しておられますしねえ。
そもそも信長の場合は一旦許した風にしても、時間がたってから、
自身の都合がよくなったら蒸し返して粛清する、という蒸し返し粛清だけでも
膨大になりますし、それだけではなく、
普通に粛清している事例もこれまた膨大になりますし、
で同時代においても後世においても、
信長を甘いとか言っている人間はまずおりませんし、
軍役うんぬんに関しましては、単に信長の組織構築が、
そこまで行ってなかっただけの話であるように思われまして、
だから佐久間折檻状とかでも、佐久間が軍勢をそろえなかった事を
「そんなんだから手柄をあげられなかったのだ!」的に述べているように
思われるわけでございますしねえ。
もう、信長を無理やりに甘い人間という事になさられようとしなくてもよろしいと
思うのではございますけれどねえ。
>>502
普通に信長も離反した荒木とか松永とかの人質とかを処断しているわけで
ございますしねえ。普通に戦国時代なのですから、
信長も当たり前に人質をとっているに決まってますし、
敵対した相手の人質を処断するのも普通にやっておりますのに、
貴方は何をおっしゃっているのかと思うのですけれどねえ。
いやいやいや、それ、何度も>>505にあるような事柄を、
こちら側が事例つきで何度も提示しておりますのに、
必死になってスルーしながらお喚きになられておられる、必死な織田厨さんが
必死にご主張になっておられるだけの話で、実際は信長自身が粛清やら蒸し返し粛清やらを
多数行いまくっておりますのに、甘いも何もないように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>509
何度も言いますけれど、姉小路は、普通に勝頼の書状で信玄の死亡後に武田に敵対した事が書いてありますので
信玄が生きてるときは普通に武田に従っているように思われる次第でございますかねえ。
>>507
いやいやいや、信長の場合も普通にいるでしょ。
単に謀反してない武将は人質が殺される事がなかったから、
史書などに登場する事がない、というだけの話であると思われますしねえ。
裏切った弟や追放した佐久間の縁者なんかは特に処罰せずそのまま雇用している
甘いのぅ
信長が人質預かったのは降将くらいか
戦国時代って言われることもなかった
中立=武田派じゃない
西上作戦中ですら越中、越後に兵を出すか迷ってるくらい
美濃で信長妥当したら朝倉に上杉成敗に付き合えと言い出しかねない
信長は交遊関係拾い北は東北、南は九州まで
多分AIかそれ以上の存在が解明するんじゃないかな
自己満足Levelでみると数ある大名の中で謙信が一番その人生楽しかったと思うなー
オレは変人好きだから謙信さんは大好きだよ~
信長さんと真剣勝負があったら戦国時代はもっと面白かったんだがなー
そろそろ撤収させていただきたいと思う次第でございますかねえ。
wikiの上村合戦の項を読んでみたんだけど、ここには秋山隊進軍ルートとして、
主力が根羽村(信濃)から大桑峠(三河美濃国境)を越えて小笹原(美濃)へ、
残り二隊は平谷村(信濃)から飯田洞(美濃)と小田子(美濃だが三河との国境付近、
大桑峠の南西)から漆原(美濃)を目指した。とある。
上村自体は岐阜県上矢作町で、美濃、三河、信濃の三国国境付近。
東濃遠山勢らは岩村辺りから現R257のルートで上矢作へ南下したものと思われる。
秋山主力の根羽~大桑峠~小笹原、同じく根羽~大桑川沿い~小田子~漆原のルートは
道案内がいるなら進軍ルートとして使えるかな、ってかんじ(大軍は微妙)。
平谷~飯田洞~漆原のルートは現代では考えられないレベル。
こんなとこに道あったの?ってかんじ。地元民の道案内がないとわからないと思われる。
まとめると、東濃への進軍ルートとしては、木曾谷、神坂峠だけでなく、
濃三信国境付近、上矢作方面から北上というルートもなくはない、ということです。
三河からなら岡崎~挙母~足助~上矢作~岩村となります。
あのあたり、3万近くが一気に押し通れるの?
別隊を他から行かせないと無理じゃないか?
移動するだけなら問題ないだろう。
そこで野戦となると守る側がクソ有利になるだろうが。
大軍は微妙に思う。行軍に時間が掛かってもよくて、
かつ、道案内がいるなら可能かも、ってかんじ。
道案内いないと無理。似たような風景、地形のとこだから。
江戸時代かな?
> まあ、本願寺に対して、そう装う事で、北陸一向宗にさらに謙信との敵対を活発に行わせるつもりだった、という事も考慮されると思われますけれどねえ。
信玄に不利な情報が出るとすぐこれだ
っていうけどそれ大内義興だよね?
勢力圏だけでいうと200万石超えてない?(半従属込)
それこそ在京した最初は本拠地からは遠いが自勢力の圏は結構近いじゃん
っというかこの場合論ずるべきは大内ですら在京の負担で国内維持の為に引き退くのに武田にそれが可能かって事
流通・交通などの更なる円滑の為でございますが、
韮崎に移す、という観点においては、別に駿河・信濃、は既に甲府で間に合っていましたから、
関東方面に伸長していた武田領国の、関東側からのアクセスを円滑化するために、
韮崎への移転が行われたのではないか、的に言われたりもしてますかねえ、という話なのでございまして、
貴方さまが>>530で書かれているような、「センゴク」の内容を書き写されたようなレス的な理由とは異なるのではないか、
と思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
この件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>642
いやいやいや、普通にしてるじゃないですかあ。
普通に信玄時代にも、>>623にごく一部を書かせていただきましたように、
甲斐・信濃・駿河をはじめとして、各地に多数の市場やら、多数の経済拠点やら、が多数存在しておりましたようですしねえ。
そもそもの問題として、そこまでおっしゃられるのであれば、貴方さまが現在進行形で発狂逃亡中の膨大なる事柄について
具体的にご回答になられる事からはじめていただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ギブ・アンド・テイクで行くのが筋であると思われますので、おはやめにお答えの方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
なーにをおっしゃってるのかとは思いますが、勝頼が韮崎に城を築こうとしていた、
1580年代の時期の武田の主敵は北条であって、それとの戦いによって
上野と武蔵方面に武田側は領域を拡大する、という状況になっているわけなのですが、
貴方は何をおっしゃっておられますのか、という事柄につきましても、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そうして、関東方面に伸長していた武田領国の、関東側からのアクセスを円滑化するために、
韮崎への移転が行われたのではないか、的に言われたりもしてますかねえ、という話なのでございまして、
貴方さまが>>530で書かれているような、「センゴク」の内容を書き写されたようなレス的な理由とは異なるのではないか、
と思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
この件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
関東方面に伸張って。
東上野のこと言ってるのかな?
それなら韮崎はおかしいだろ。
あまりに北西すぎる。
まだ甲府のほうがマシ。
だから甲斐の都は外国の人があまり訪れず経済が発展しなかった
軍勢も押し寄せて来ないから守りやすいってメリットはあるけど
信濃はそれに比べると河川が多く流れていて地理的には甲斐より好条件ではあったが小豪族が割拠していたということもあり商業が発達しやすい大都市ができなかった
勝頼はそれを克服するため信濃から甲斐、駿河への流通を発展させる目的もあり韮崎に城を普請した
つまり、信玄時代の甲斐信濃駿河は経済面では貧しい地域だったということ
このスレでは、大内氏以上の国力を持つ甲斐武田氏になってるぞ。大内氏って大したことねーんだな。いや武田信玄が凄すぎるのか?
甲斐は約8割が山地、信濃は甲斐よりはましだが盆地だらけ
あと気候もくそ
江戸にあれだけ近くて昔から人口が増えないってだけで察してくれって感じ
山地だから木材が売れるんじゃね?
あとは金山。甲州金。
大内氏なんか比較にすらならない。それが甲斐、信濃という肥沃で恵まれた土地。
木曽周辺の木材は売れるけど木曽川の河口を確保してないから金がかかる
その木材も新府に提供させられてたから木曾がキレたんだよな
武田の領主がそんなに偉いんかと
仮に新府が栄えても木曾に富の再分配はない
それが武田のやり方
甲斐武田氏は周防大内氏より国力や経済力は上。
伊勢長島一向一揆が野戦を行なえるくらい攻撃的な戦闘集団。
朝倉義景や浅井長政にはまだまだ余力があるから美濃でもどこでも大丈夫。
織田信長は限界まで動員して2万数千から3万。
美濃攻めが発動されたら、織田信長は西美濃を放棄して東美濃へ向かう。
上杉謙信は無視して大丈夫。
徳川家康は無視して大丈夫。
これじゃあ最初から武田信玄の勝利は決定的。むしろこれだけ好条件揃っていて、なぜ徳川領なんかでグズグズしていたのか?
ねえ君の都合良い解釈ってこのことだな
いかにも無理があり過ぎるね
あの時点で織田信長は天下を、武田信玄は領土拡大を狙ってる
まさにスケールの違いだな
10年かけて京都目指しても問題なし。って言いたいのかな?
思いますね。ばかりの曖昧な答えだから、論理破たんを恐れているのだろうね。
武田信玄はトロすぎるのか、あるいは織田信長を若造と甘く見て油断していたのか。
雪が残ってるところもちらほら。
このままR363で阿木、中津川のほうの地形見てくる。
三万人は駐留できそうかい?
あの山城に(笑)
大内氏以上の国力なら可能でしょう。
というより、私は当時の貿易にそれほど旨味が無かったとは思いませんでしたし、甲斐や信濃が肥沃だったとは思いもよりませんでした。
ごめん、時間が遅いんで岩村城は行ってない。中津に抜けたけど、神坂方面行こうかと思ったけど、雪ヤバそうなんで断念して帰ります。
三万人も一ヶ所に集めたら兵站も駐留地にも困るというのが理解できないらしい
東美濃なんて山城しかないんだぞ
山道でも大丈夫なんでしょうね。
大内氏以上の国力があるから。
すぐに金にもの言わせて城を建てます。
木材は木曽から調達しましょう。
例外として京都(人口)・近江(琵琶湖・物流分岐点)は別格だけど
っで手に入れた駿河はまだ統治して2.3年でこれからってところでしょう?
はっきり言ってこれで甲府を中心に高い経済力があったなんて言われても説得力ゼロ
とてつもない金山採掘量があるなら話しは別だけど
経済制裁食らって塩が手に入らなくなったとか
貧しいネタには事欠かないもんな武田は
武田が美濃に遠征できないとは思わないけど毛利や上杉や北条に負けない経済力があったと言われると
うーん???
そもそも信玄は半年を越えるような長期遠征なんかしたことないし、美濃入りも短期遠征を想定してたと思うよ
また、信長様の美濃に攻め入る時だけ、
何故そんなにハードルが高くなるんだ、とか、
過去に武田軍が美濃に攻め入った例はあるから大丈夫なんだ、とか、
大内氏や毛利氏より国力(石高)は上だし、それより国力が低い大名が長期遠征した例はあるから大丈夫なんじゃああ! とか言うに決まってる。
理解できない幼稚園児以下の脳味噌しかない奴には何言っても無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄。
貧弱な地盤で創意工夫で補って元から大国の織田と上杉といかに対決するか?の国取り物語
武田信玄が生まれてハンデってないよ。
父親が甲斐と家臣団を統一している。
父親が信濃に所領を獲得し、足掛かりを築いてくれている。
父親が駿河今川氏や三条氏などと縁戚関係を結んでくれている。
地盤こそ貧弱でも、その環境には恵まれている。
織田信長は父親が晩年に敵対勢力や対外勢力に反抗され、弟やその家臣という潜在的敵対勢力もあり、本国統一から始めなければならない。
上杉謙信は父親の死後、兄貴が病弱で暗愚なため、わずか13歳で自分が乱れた越後の再統一から始めないといけない。
武田信玄はスタートダッシュは良かったが、後に失敗した。
いや信玄は担がれ当主だよ
信虎追放のクーデターで国人に利用された
家督相続時は板垣や甘利やオブや小山田は敵だと思った方がいいよ
むしろ勝頼より酷い状況だった
上田原で板垣甘利が戦死してやっと権力を持てた
小山田は甲斐の3分1程度以上を支配していた
こういう状況だから信玄は国人の寄り合い体制の議長的な立場でやらないといけなかった
信長は父親の経済基盤をそのまま引き継いでいるから尾張統治も早かった
そもそも織田覇業は信秀と信長はセットでしょう
で武田の場合は、甲斐を守護代の跡部氏に支配されていたのを信虎の祖父が奪い返した
そして小山田は北条の勢力だった
この祖父と信虎の叔父vs信虎の父と信虎が争って信虎サイドが勝利した
この戦いには今川や北条や信濃の勢力も巻き込んでの泥沼戦をやったわけで
こういうメチャクチャな状況をさらにメチャクチャにしたのが後の信虎なんだよ。
信虎追放ってのは単純な当主交代じゃなかったわけね。今川や北条や信濃国人の意向も絡んでいて
若い信玄が意見できるもんでもなかった
この辺をちゃんと理解しないと
>小山田は甲斐の3分1程度以上を支配していた
んなわけねーだろ
>>573
戦国時代は今より気温低かったとも言われてるからまだ雪残ってる可能性もあるけど
それ以上に雪解け前後の山道は歩きたくないな
>>581
勝頼が恵那郡制圧するのに一ヶ月ほどかかってるしな
>>589
大規模なのは72年に上野で謙信と対陣したぐらいで
あとは71年の北条との再同盟までに関東方面にちょこちょこ進出したぐらいか
逆に言えば、一ヵ月ほどで済ませている、とも言えますしねえ。
信長が武田封じの為に普請と兵力こめを行った東美濃18諸城を一ヵ月で攻略しているわけでございますから、
信玄の時にはそれらがされてないわけですから、もっと早くに攻略できるとも考慮されるわけでございますしねえ。
>>589
未練タラタラっていうのはどこら辺の書状でしょうかねえ。
信玄が遠江に進出する前に、北陸方面の情勢を考慮して、出陣が遅れた、的な書状はありますが、
未練タラタラっていうわけでもないように思われるのでございますけれどねえ。
>岩村城が手に入ったので美濃方面へ侵攻することにしたと信玄にしては場当たり的な路線変更してる
別にこのような事は書いてないような。岩村に関しては、
「岩村が味方についた。」「岩村に兵力を入れた。」とかは書いてますけれど、
岩村が味方になったから美濃方面へ侵攻する事にした、とかは書いてないように思われる次第でございますしねえ。
「信長を敵として軍を動かしている」とかは普通に朝倉義景に対しても書いてますから、
元々織田との敵対路線である事は明らかなように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
上記のように、それはどうなのかと思う次第なのでございますけれどねえ。
「今こそ信長を滅亡させるべき時」みたいに書状で書いたりもしておりますしねえ。
>>588
別に水軍活用を行うかどうかで戦略を決めているわけではないように思われますし、
美濃郡上遠藤に対して「武田軍が来年(1573年)に美濃に侵攻したら
織田に敵対して欲しい。」とか言っているわけですし、五月侵攻計画とかも
朝倉に対して詳細に伝えていたりするわけですから、
普通に美濃侵攻が主体なように思われる次第でございますかねえ。
ていうか、勘合貿易は室町幕府が全盛の足利義満を支えた経済基盤だし、足利義教の時代の幕府を支えたほどの経済力があったのを理解できてないのか?
米田城(肥田玄蕃)
大森城(奥村又八郎)
上恵土城(長谷川五郎左衛門)
加治木城(斎藤利治)
上有知城(長尾種常)
高山城(平井頼母)
金山城(森長可)
妻木城(妻木頼忠)
久々利城(土岐三河守)
郡上八幡城(遠藤慶隆)
木越城(遠藤胤基)
小里城(小里光明)
苗木城(遠山友忠)
他にまだいくつか小さな城はあるだろうが、目ぼしい城だけでこれだけある。武田信玄がいかに優秀でも、これだけ落とすのには時間がかからないものかな?
その前に一族と雌雄を決して尾張統一できるイメージも無いけど
8割が山脈、居住可能地域47都道府県中45位(デデドン!(絶望))
来なくていいんだよ。お前がいないとこんなに平和だ。
越前・美濃間の行軍ルートとしては、油坂峠と温見峠があるけど、
まず温見峠については現代においては、例年5月中旬~6月上旬までは
冬季閉鎖で通行できない。
いつ開放されるかは冬の積雪量と春の日照量、気温次第。
以前、5月中旬頃「もう大丈夫だろう」と福井側から行ってみたら
まだ北側斜面にたっぷり雪が残ってて(車の屋根の高さくらい)、
温見峠越えを断念したことがある。
次に油坂峠(旧道)については正直よくわからない。(5~6月に行ったことがない)
温見峠ほど積雪量はないような気がするし、南側斜面に近いので、
温見峠よりはマシだと思うが、5月上旬~中旬は除雪作業して軍道開設しないと
通れない年もあるかもしれない。
油坂峠詳しいひといたらよろです。
なので5月美濃進攻作戦においては、その年の油坂峠がどうだったかはわからないけど、
朝倉の行軍がかなり遅延する可能性があります。
5月や6月でまだ雪あるんですかあのあたり?
現在の温見峠の福井県側(北側斜面)は除雪してないからそのまま残ってる。
信玄の領域は、貴方がおっしゃっておられる分ですと、
おおよそ102万石程、となりますが、それらに端数が加わりますので、
まあ、103万石程、というところでございましょうかねえ。
で、それらに加えて、東美濃岩村遠山とその周辺が武田側に呼応しておりまして、
2万石程でしょうかねえ。さらに飛騨3万石程が西上前の武田側の「飛州調略」でおおむね武田傘下に入っておりますし、
西上開始前に武田勢に北三河の山家三方衆が内応しており、西上にも協力しておりますし、
遠江北部の豪族である犬居城主天野景貫などは早くから武田と誼を通じていたりしますし、
西上の時も普通に武田側に協力したりしておりますので、
西上開始の時も110万石余程は武田側の石高として計上されるのではないかと思われる次第でございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>572 >>573 >>574 >>569
5月侵攻計画、は信玄の義景宛の書状及び条目の中に「来年の5月に御張陣の事。」とあります事から、
普通に当時は旧暦で換算されているはずでございますので、
信玄の言う5月、は現代で言うところの6月、7月、ごろに相当すると思われますので、
普通に朝倉が出陣するのに特に問題があるとも思われない次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
進軍できないことはないかもしれないが、朝倉義景に武田信玄に対するそこまでの義理ってあるのかなあ?
義理じゃなくお互いに”期待”だろうねー
甲斐 22万石
信濃 40万石(飯山除いて37万石)
駿河 15万石
これで合計77万石。
上野は全土で50万石。
西半分だと25万石?
西上作戦開始の時に三河長篠や遠州北部はまだ徳川領でしたよね? となると、3万集めてた武田信玄はかなり無理していたんじゃないですか動員に。
100万石ちょっとで3万集めてたなら、限界動員してますよね? というか、2万5000くらいで3万と公称していたのかな?
その3万人の中には切り取った東美濃や徳川領からの戦力供出も当然あったかと
あと隣国に攻め入るだけだから石高以上の兵力を動員するのは難しい話ではない
切り取った直後に供出なんかできるもんかねえ。まずは戦後処理とか色々あるだろうし。
武田2万5000から2万6000で、北条の援軍2000かな。もし3万以上動員していたなら、かなり無理な動員していたとしか考えられない。
山家三人衆だっけ?西上作戦の際には兵馬と兵糧の供給をさせられてる
兵站が弱いのもあって寝返らせた国人から人と食い物を補充するのは武田の基本戦略だけど
だからこそ山城の岩村とか八幡で大軍の人馬を長期滞在させるのは無理じゃね?と再三指摘してるんだけどね
冬で帰る前提ならなんとかなるんじゃない?
越冬させるなら兵たんをどうするのか説明が必要だと思うけど。
ねえは「大内氏が10年できたから、武田もできるんだ!」「なぜ武田信玄の時だけ、そんなにハードルが高くなるんだ!」って言ってたな。大内氏より国力がある武田氏なら兵站など気にしなくても大丈夫という前提なんだろ。
ねえに対する皮肉だろうけど、いちいちあいつの主張リピートしなくていいよ
せっかくNGに放り込んだのに意味がなくなる
いつそのような事を貴方がご指摘なさられたのか、と思う次第ではございますが、
>山家三人衆だっけ?西上作戦の際には兵馬と兵糧の供給をさせられてる
>兵站が弱いのもあって寝返らせた国人から人と食い物を補充するのは武田の基本戦略だけど
このような一次資料は特にないように思われる次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
常識的に考慮しますれば、山家三方衆の領域だけで、三万以上に及んだと考慮される武田軍の兵糧を賄えるとも考慮されにくいと
思われますし、どのような資料を基にして語られておられるのか、についてお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>583
越冬がどうとかおっしゃっておられますけれど、
普通に武田勢は西上において、1572年10月から1573年4月まで活動していまして、
普通に越冬を行っておりますし、その間に普通に岩村とかに滞在する武田勢とかは岩村勢と共に合流しながら滞在しつつ、
上村合戦とかを行っていたとされておりますしねえ。
>>581
>その間に朝倉や長島が撃退されたら最悪の事態だな。
何度も言いますけれど、朝倉やら長島がそれぞれ2万以上の兵力で侵攻してきていて、
朝倉とかは郡上遠藤とかと連携して鉈尾の砦などを基にして織田勢主力が来たら対峙し、
長島も美濃に構築した拠点などを基にして織田勢主力が来たら対峙し、という状況になると思われますのに、
当時美濃に集結させられる兵力が2万数千から3万程と思われます織田が、志賀陣の時もそうではございましたけれど、
短期間でそれらを突破できるとも考慮しにくいと思われる次第でございますしねえ。
信長が武田封じの為に普請と兵力こめを行った東美濃18諸城を一ヵ月で攻略しているわけでございますから、
信玄の時にはそれらがされてないわけですから、もっと早くに攻略できるとも考慮されるわけでございますしねえ。
>>580
普通に武田側の軍鑑で、信玄が率いて徳川領土に侵攻した武田勢が三万であった事が明記されておりますしねえ。
>>579
いやいやいや、信長の領国の方がはるかに謀反やら敵対やらが多い、という状況でございますのに、
何をおっしゃっておられるのかと思う次第なわけでございますし、
そもそもの問題として、信長自身も家臣達を粛清しまくっている、という状況でございますのに
何をおっしゃられおられるのかと思う次第なわけでございますので、
これらの事柄について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
軍役と兵糧の提供を申し付けてるのが普通にあるだろ?勉強不足じゃね?
軍役と兵糧を申し付け、というのは大抵の場合、
「その領主の領域からあがる収入を基にしての軍役と、
それを養うだけの兵糧を申し付ける。」というだけの話であると思われまして、
(例えば、一万石で250人換算なら、それにみあった軍役と、
その軍勢を養うだけの兵糧の供出、という話であるように思われますかねえ。)
山家三方衆の領域で三万人もの武田勢の兵糧を全て賄えるわけがない、というのも
極めて普通な話のように思われるのですが、
とりあえず、貴方のおっしゃられる書状とやらが、何年何月何日の誰宛のものなのか、について
ご提示の方をよろしくお願いしたいと思う次第でございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
>>595
どこに駿河侵攻の話が出てきているのかと思う次第でございますし、
そもそもの問題として、信玄も信長の為に本願寺との和睦を仲介してあげておりますし、
武田が織田徳川と敵対するに至る理由は、岩村遠山を織田が勝手に領土に編入したり、
徳川が武田包囲網を構築しようとしていたのを、武田が織田に抗議してもスルーしていたり、
という複数の問題があった事は何度も指摘されていると思いますのに、
何をおっしゃっておられるのかと思う次第なのでございますが、いかがなものなのでございましょうかねえ。
西上作戦の際に信玄から山家三方衆に宛てた書状と言ってるだろ
お前は自分は原文も出典も誤魔化して提示しないくせに他人には求めるんだな
バカだなこいつ。
愛知県の東海道側で越冬するのと、岐阜東部や長野で越冬する場合の違いがわからないのかよ。どこでも同じです、か?
こいつダメだ。
二俣と長篠であれだけ時間かけてる武田信玄が、なぜ東美濃ならすぐ攻略できるんだよ。
謀反だらけだし無理だな
金山城の森長可を調略できるなら別だが、できないなら最低1ヶ月、あるいは2ヶ月かかる。金山城はかなりの山城だから。二俣と長篠でかなり時間かけてる武田信玄が、金山を一気に抜けるとは考えにくい。
その間に朝倉や長島が撃退されたら最悪の事態だな。というより、朝倉は3月の湖西出兵も理由付けて行なわずに敦賀にとどまり続けてる。明らかにこれ以前と同じ拒否行為と違うの?
武田の場合雪の影響がある。木曽川使うにしてもそこまでは雪道の陸送になる。
お前、尼子経久が大内義興に従って上洛し、船岡山合戦でも大内方として戦ったのを知らないの? >>587は何も捏造も曲解もしてない。お前が無知なだけだ。
仮にこの長生きスレなら元気なままと解釈し、野田城を落としたら次は吉田城といく。2月ならまだ三方ヶ原のキズも深く、徳川家康がどれだけ抵抗できるかもあると思うが。
ていうか信長と敵対したこと自体が成り行きっぽいけど
三河へ本願寺の要請で出征したが北信濃方面へ未練タラタラなのは信玄と顕如間の書状で書かれてる
岩村城が手に入ったので美濃方面へ侵攻することにしたと信玄にしては場当たり的な路線変更してる
それもあるから五月に美濃へ侵攻したとしても半年以内には一旦引くと思うんだけどなぁ
元亀二年初めに美濃を平定してからしばらく軍事行動は控えてるから、それなりに蓄えあっても不思議では無いと思う
(三河侵攻作戦が元亀四年説を採用した場合)
間違えた
まーた必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられながら、
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必至な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられているご様子ではございますが、
まーたいつも通りに必死になって、相手側がいない時にだけ、
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられているご様子ではございますが、
こちらはそのような事は特に書いてないわけでございますしねえ。
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
石高的には大内よりも上回っているところもありますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>585
既に武田が美濃侵攻を行うころの1573年5月は、現代的な暦では既に夏に近づいている頃ですから、
特に雪がどうとかいう話ではないように思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
悪いんだが、武田氏の経済は何でそんなに豊かなのか説明してくれないかね?
石高が上って言ってもわずか10万石の差があるかないか。
というより、
武田氏が甲斐、信濃(飯山除く)、駿河、西上野、三河と遠江の一部。
大内氏が周防、長門、豊前、筑前、石見西部のほか、石見東部や安芸、備後、伊予などに境界線が不明ながら所領があった。これらを合わせたら100万石は超えているはずだが。
どういう計算をしているのか、説明して下さい。
信長に頭を下げて徳川と共同させてもらい上杉との仲を取り持ってもらって駿河制圧できた
「信長がいなかったから家が滅んでしまう」とまで言ってたくせに今度は徳川領欲しいから攻めこんで信長とも敵対し始めるから
「なんて恩知らずなやつだ!」となる
信長が武田封じの為に普請と兵力こめを行った東美濃18諸城を勝頼は一ヵ月で攻略しているわけでございますから、
信玄の時にはそれらがされてないわけですから、もっと早くに攻略できるとも考慮されるわけでございますしねえ。
>>603
いやいやいや、なにやら、こちらの論旨の都合の悪い所は必死にスルーして
必死に捏造曲解などを行われて喚いておられるだけの御様子のように思われる次第でございますが、
>>601などで聞かれている事柄などについて、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そんなに豊か、も何も、なく、
石高で言えば武田は大内よりも上なわけでございますし、
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>604
ですからあ、何年何月何日の書状でござますかねえ?
こちらは、聞かれた時には普通に何年何月何日の、誰宛の書状か、というのは答えている次第でございますが、
貴方は何をおっしゃっているのかと思うのでございますが、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>605
いやいやいやいや、こちらは貴方が必死に捏造曲解しておられるような、
「大内が10年できたから武田もできる!」とかいう話ではなく、
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
少なくとも、信長さまに都合の悪い時にだけ、そこまで圧倒的に距離が異なるわけでもありませんのに、
そこまで圧倒的に気候条件が変動するようには思われない次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>609
そんな事はまずないように思われる次第でございますかねえ。
>>607
別に全てを動員しているわけでもないですしねえ、当時の大内は。
>>561
別に、小山田は甲斐の三分の一以上は保有してないように思われる次第なのではございますけれどねえ。
>>560
郡上遠藤は既に武田に内応済みでもございますし、勝頼が信長が武田封じの為に普請と兵力こめを行った東美濃18諸城を勝頼は一ヵ月で攻略しているわけでございますから、
信玄の時にはそれらがされてないわけですから、もっと早くに攻略できるとも考慮されるわけでございますしねえ。
信長も美濃攻略の時に、すべての美濃の城を攻略しましたか、と言いますと、それは異なる、というわけであると思われる次第でございますしねえ。
>>558
少なくとも、大内は日本全国の主催者だったわけではなく、貿易もその領域の範囲内で行われたものでございますしねえ。
貿易もその領域の範囲内。
意味不明。何言ってるのこいつ。
どこの世界に自分が手に入れた利権を、他人の庭でやるバカがいるんだ? それいうなら、武田信玄は甲信駿の範囲だけで、主宰者でも何でもない。勿論、朝倉義景が武田信玄の言う通り出兵する必要もないなあ。
>>583 >>586 >>587の最初の>>583は>>584でございました。失敬。
>>557
いやいやいや、甲斐家臣団は普通にまだまだ独立性を保持していた状態でございますし、
組織改革やら中央集権化やらも信玄時代に大きく進められていく話なわけでございますしねえ。
信濃のごく一部に信虎が領域を持ったからといっても、ごく一部で、そのままでしたら、
諏訪に封じられて信濃へのルートを閉ざされる可能性もあったわけでございますしねえ。
今川との同盟は、北条との敵対、という要素も入っていたわけでございまして、
それを北条と今川の和睦を仲裁し、信濃に侵攻できる状況をつくったのは信玄でございますしねえ。
信長は父親が残してくれた、斉藤道三の同盟があり、それが後ろ盾となっていて、
そこから兵力とかを普通に借りたりしているわけでございますしねえ。
弟とか宿老とかに敵対されたのは、信長の素行不良によるもの、
とされている次第でございますが、
これらの件につきましては、いかがなものなのでございましょうかねえ。
信長の素行不良とか。
大河ドラマでも見たのか?
信秀は晩年は結構やらかしていて、犬山の織田信清に謀反される(尾州錯乱)くらいだったんだが。
本人が望まなかっただけでほぼ天下人の条件満たしてるんだぞ
勘合貿易の独占しているというのは、そこから上がる利権構造そのものが毛利や朝倉や上杉なんかとは全く違う
武田の経済基盤はそこから更に下回ってるけどな
大内は何のために細川や足利義満と争ってまでそんな大した銭にもならない貿易の利権を得たんだろうねえ。三浦の乱、寧波の乱までやってさ。
塩が手に入らなくなったとか誰も真面目に信じてる訳ないだろう
そういう話が出ても不思議じゃない甲信地方の情勢だったと言ってるんだろ
信玄が地元で愛されてるのは何よりも治水事業への投資と成果の賜物
そこまで河川を重要視していた信玄の戦略に水運は関係ないと言い切るお前がマヌケなんだ
あれだけ拘った川中島をはじめ信玄の戦遍歴を見てみれば河川での物資の運搬を基軸にしていたことなど一目瞭然なんだがな
河川だけでなく海での運搬も視野に入れていたんだろうね武田信玄は。
それは単に、必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必至な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられておられる、という話で、実質的には貴方さまが必死にお喚きになられておられる、
というだけの話であるように思われる次第なのでございますし、
実際問題としては、>>492にもありますように、武田領国も普通に各種の経済政策が行われまして、
経済的にそれなりに栄えておりますし、という次第であるわけでございまして、
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>614 >>615
ですからあ、普通に大内は日本のごく一部の領域の範囲内で防衛を行ったわけで
足利将軍の貿易とかと比較するのは根本的に異なるように思われますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>616 >>614
まず経済拠点としましては、甲府。
一蓮寺門前町を取り込みつつ、相次いで8日市場、3日市場などが成立し、
柳町、鍛冶小路、紺屋町、連雀町、などをはじめとして多数の商人職人の居住区域が成立し、
甲斐国随一の都市に。
駿府。武田領土になってからは、今川領国時よりは衰退したようではありますが、
多数の町や宿場が成立しており、経済拠点として活発に活動していたようですねえ。
他にも穴山氏の経済拠点である南部、小山田氏の経済拠点である中津森、などなども
甲斐国には存在しており、各地に4日市場、10日市場、なども成立していたようでございますかねえ。
えーと。
どう言ったらいいのかな?
市場や宿場町、職人町で銭いっぱーい!
貿易。銭にならねー。甲信に負けた。
えーと、これでいいのかな、あ(汗
たぶんこれだけじゃ、大内が持っていた瀬戸内の利権だけで上回ってるよ。貿易なんか出すまでもない。
いやいやいや、大した銭にはならない、とは言ってなくて、
相応にはもうかる、というところの話でしょうし、
なぜに貴方はゼロか10かしか考慮されないのか、についてお答えになられていただきたいと思いますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>619
それを言いましたら、信玄西上の時は、越後一国+上野一国+武蔵北部、の長尾上杉よりも、
石高的には上でございますしねえ。
その距離に関しましても、武田の信濃から美濃への距離よりも圧倒的に上杉側の方が長距離なわけなのでございますし、
北条早雲に関しては、その領域も石高も国力も、西上当時の武田と比べること自体が
無理があるように思われます程に、圧倒的に武田側の方が上でございますのに、
普通に長期遠征を行っておりますのに、なぜに武田が信濃から美濃に長期遠征を行う事が
何をどうやったら、そこまで圧倒的に困難な事柄となられますのか、という事について、
必死なる捏造曲解などにご狂奔なさられておられる事柄などについての、ご回答もあわせて、
お答えの方をよろしくお願いしたいと思う次第なのでございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
>>621
実際に信長公記にしっかりと書いてありますのに、何をおっしゃっておられるのかと
思う次第なのでございますが、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>620 >>622
そもそも、貴方が言い出した事ですのに、何を言っているのかと思うのですけれどねえ。
はて、こちらは別に水運を重視してない、とは一言も言ってなくて、
別に水軍を使うかどうかで戦略を決めているわけではない、と言っているだけの話ですしねえ。
そもそも武田水軍ができたのは信玄時代の末期なわけでございますしねえ。
これらの件についても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>549 >>550
実際問題として、武田勝頼も、後年の織田も、徳川秀忠も、普通に大軍で信濃と美濃を移動してますのに、
信長さまが不利になる時にだけ、そのようなことを言われましてもねえ、としか思われない次第でございますしねえ。
発展途上ではなく発展できない
甲信駿で大内に勝るとも劣らない程豊かになる経済政策を打ち出していたら伝説の治世者として、
教科書から消える事もなく延々と語り継がれる英雄となっていただろ
江戸時代すら金脈深く掘れる技術が出来て少しだけ人口増えたが、それまで
江戸にあれだけ近くてろくに発展できない
織田も徳川もほぼ天下人やないか……
関ケ原の時は特に天下人というわけでもないですしねえ。徳川は。しかも秀忠の一部隊だけだと思いますしねえ。
織田も本能寺の時も、まだまだ敵対勢力などが存在している、という状況でございますしねえ。
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>628 >>626
それは貴方のイメージだと思いますし、こちら側が出したのも一部でございますしねえ。
実際問題として、貴方が必死に甲信が発展できない!と喚いておられるだけで、
実際には上にあるように、各地に甲斐でも信濃でも、その他の武田領国でも経済拠点とか市場とかが成立していたわけで、
それらを否定するなら、貴方さまの方こそ、資料とか論説とかを基にしてのご論証の方を
よろしくお願いしたいと思いますので、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>542
単に徳川に一撃を与えて、その勢力的・兵力的にその動向を封じる必要性があったからではないか、
と思われる次第でございますかねえ。
>>541 >>529
普通に後年の織田勢主力も岩村口を主流にして信濃に攻め込んでおりますし、
勝頼も普通に岩村から美濃に侵攻しておりますしねえ。
特にそこまでべらぼうに膨大なる銭がかかる、という事もなさそうに思われる次第なのでございますが、
いかがなものなのでございましょうかねえ。
>>536 >>535 >>534 >>533
いやいやいや、必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必死な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられておられるご様子ではございますが、
こちらは貴方が必死に捏造曲解しておられるような、
「大内が10年できたから武田もできる!」とかいう話ではなく、
何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
武田どのは田舎者ですな
実際には、武田勝頼も、後年の織田も、徳川秀忠も、
普通に大軍を信濃と美濃で移動させている次第でございますしねえ。
勝頼の東美濃攻防では、逆に6千の兵力で織田勢主力軍を拘束し、
その間に城を攻略する、という事も普通に武田側が行っている次第なわけでございますしねえ。
>>531
ほぼすべてが貴方さまの妄想願望をお書きになられているだけのように思われてしまう次第でございまして、
資料やら、史実やら、論説やら、を基にしての論証の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>勝頼はそれを克服するため信濃から甲斐、駿河への流通を発展させる目的もあり韮崎に城を普請した
こういう事は特になく、普通に信玄時代にも、>>623にごく一部を書かせていただきましたように、
甲斐・信濃・駿河をはじめとして、各地に多数の市場やら、多数の経済拠点やら、が多数存在しておりましたようでして、
特に貴方さまがおっしゃられるような事柄は、資料的・あるいは史実的なる根拠が存在しないように思われてしまいます次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>530
韮崎のは、当時の武田家の領域が関東方面に伸長しました事から、あらたに領国の中心拠点となる地域に新しい城を構築する必要性があった、
的に言われる事がありますかねえ。
実際問題として、普通に信玄時代にも、>>623にごく一部を書かせていただきましたように、
甲斐・信濃・駿河をはじめとして、各地に多数の市場やら、多数の経済拠点やら、が多数存在しておりましたようでして、
特に貴方さまがおっしゃられるような事柄は、資料的・あるいは史実的なる根拠が存在しないように思われてしまいます次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>634
こりゃダメだ。
人に妄想だ、自演だ言って質問してるけど、こいつがそもそも妄想言ってるから話にならない。
韮崎のその発言。お前「センゴク 天正記」でも読んだのか? センゴクの武田攻め前の織田信長、羽柴秀吉の話し合いの内容そっくり。
甲斐にも多数の経済拠点などが存在していたわけでございますしねえ。
実際問題として、普通に信玄時代にも、>>623にごく一部を書かせていただきましたように、
甲斐・信濃・駿河をはじめとして、各地に多数の市場やら、多数の経済拠点やら、が多数存在しておりましたようですしねえ。
>>545
単に織田領国の圧力を考慮してに思われますけれどねえ。
それに、貴方が述べているような事は、普通に織田も豊臣政権も同様だったわけですしねえ。
>>544
>>492にありますように、相応には豊かなようでございますかねえ。
信玄の時代には各種の政策で経済発展などをしたようでございますしねえ。
>>528
いつも通りに必死になって、お喚きになられておられるように思われる次第でございますが、
実際問題としては、何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、何度も指摘している事ではございますが、
上杉謙信が小田原遠征をおこなった時には、国力的にも、石高的にも、
圧倒的に西上当時の武田よりも劣る状況なわけなのでございますし、
その距離に関しましても、武田の信濃から美濃への距離よりも圧倒的に上杉側の方が長距離なわけなのでございますし、
北条早雲に関しては、その領域も石高も国力も、西上当時の武田と比べること自体が
無理があるように思われます程に、圧倒的に武田側の方が上でございますのに、
普通に長期遠征を行っておりますのに、なぜに武田が信濃から美濃に長期遠征を行う事が
何をどうやったら、そこまで圧倒的に困難な事柄となられますのか、という事について、
必死なる捏造曲解などにご狂奔なさられておられる事柄などについての、ご回答もあわせて、
お答えの方をよろしくお願いしたいと思う次第なのでございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
抽象的すぎる
多数の経済拠点があったなら場所と実績と合わせて紹介できるだろ?
それすらできんのか?
勝頼って大軍で上矢作から来たの?
ちなみに秀忠は木曾谷経由ね。
それは完全に貴方さまの事柄であるように思われるのでございますけれどねえ。
必死に>>14にありますような複数端末による複数ID自演やら、多数派装いやら、のご所業が明らかになっておられます
必死な織田厨さんである貴方さまは、必死になってID切り替えをなさられながらの、多数派装いなどをなさられながら
必死にお喚きになられておられるご様子ではございますが、
その「センゴク」の話っぽいのを語られているのは、私が>>634でレスをしている、
>>530の人であるように思われますし、>>530の人のレスは、もろに「センゴク」の話の内容っぽいと思ったものではございますが、
こちら側が>>634で書いている、当時の武田家の領域が関東方面に伸長しました事から、あらたに領国の中心拠点となる地域に新しい城を構築する必要性があった、
的な論旨は、特に「センゴク」の方では言われておらず、単に地政学的な問題のように思われる次第なのでございますが、
貴方は何をもって、いつも通りに必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられながら、
必死にレスの流れ的に不可思議なる事柄をおっしゃられながら、必死に相手側をレッテル貼りなどをなさられようとしておられますのか、
について、具体的にご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
韮崎に普請したのは駿河と信濃を結ぶ新たな経済発展のためだと思っていたけど、領国の真ん中だからだったのかー
勉強になるなー
それで領国の真ん中に本拠地移す意味って何でしたっけ?
勝頼はアホだから上野にも美濃にも遠江にも三河にも越後にも喧嘩を売り続けるのか
あれー
でもそれなら信濃に拠点を置いた方が軍勢も動かしやすい気がするなぁ
そこから万を超す軍勢を動かす程の収益が上がるなら大内義興はわざわざ上京してまで利権を取りに行って相当のアホってことだね
あなたの妄想は間違いです
以上
そろそろ撤収させていただきたいと思う次第でございますかねえ。
もう夕方だけど。
何するの?
そりゃあ甲府があるから飛騨や能登とかに比べれば多少は栄えてると言えるが、現在の価値にして億を軽く超す程のコストがかかる大軍の遠征を支えるのはそれだけじゃ無理だって分かるよな?
商人が何百人いたか知らないが、そいつらから何百万もの上がりを吸い上げ続けるって事だぞ?市場の商人風情から
そういう規模のカネを調達するのは銀山、金山を押さえるとか港を持って貿易で稼ぐしかない
勘合貿易ってのはそのなかでも段違いの旨味があるからこそ大内義興はわざわざ京都まで利権を取りに行ったんだよ
それは勘合貿易を過大評価し過ぎ。そもそも京都くらいしか大消費地がなかった時代において日明貿易での利益自体かなり眉唾もの
戦国時代後期は南蛮貿易を主導した堺一帯が栄えるわけであって
能登は日本海貿易の拠点の一つ
三津七湊の輪島港もあるし普通に甲斐より栄えてたと思うぞ
>>659
南蛮貿易といっても南蛮介しての明との貿易が主では?
それが間違いないなら神坂峠越えるより難所は少ないが。
ただ道に迷いやすいだろうけど。
って言ってる本人が妄想書き散らかした挙げ句逃亡したんだ
察してあげよう
それにしても…甲斐国随一の都市www
みんなに狙われちゃいますね
豊かな雄潘 倒幕し維新を成した。
甲斐
幕府直轄地 甲府勤番任命は「山流し」と言われ旗本・御家人にとっては改易一歩寸前の左遷にも等しい職務であるとも評される。(wikiより)
どうみても貧しい地方なんだが。
資料やら、史実やら、論説やら、を基にして発言してないので、本人もネタで言ってますって事でしょ
関東に出兵するために韮崎の場所はまだしも新たな城を普請するって意味不明だしね
勘合貿易を主導した大内は滅亡したし、博多を押さえていた大友は島津に滅亡寸前まで追い込まれた
南蛮貿易を主導した堺衆もあっさりと信長に降伏したからなあ
貿易に夢見すぎてはいかんよ
そうだね。
足利義満がその財力で室町幕府の全盛期を築いたり、足利義教が鎌倉府潰して一時的に室町幕府の権力を取り戻したり、島津氏が密貿易して財力蓄えたりして倒幕を果たしたなんて勘違いしたらいけないねえ。
ねえと同類がいたとは驚きました。
ですよねえ。源頼朝は普通に貿易とかをしないでも、
貿易とかをしていた平家政権を打ち倒して天下を統一し、
木曽義仲とかも特に貿易とかをしないでも京都に入り、
徳川家康も特に貿易とかをしないで、関東を地盤として天下を取り、
(天下をとった後は貿易をしていましたけれどねえ。)
という感じになるわけですし、
必死な織田厨さんなどが、あまり貿易しないとダメ!天下取れない!とお喚きになられるのは
結論ありきの御様子のようにおもわれる次第なのでございますかねえ。
天下をとれない、なんて言ってるようには見えませんが。経済力があるなしで言われてるだけにしか見えませんが。話しが飛躍しすぎてませんか?
大友も博多を抑えて国力を大きく伸ばしてるんだが…
これは屁理屈だろ
貿易の利益がなきゃもっと早く潰れていただけの話
ただ強いやつはなんらかの資金源があったのは事実
信玄の本拠地である甲斐武田領は、『農地』として非常に貧弱だった
この信玄の「貧乏さ」は領民への「なりふり構わない税収政策」にもつながり、「国が疲弊したために戦争をし、戦争のために重税となり、さらに国が疲弊するという負のスパイラル」に陥っていた
お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない
作者: 大村大次郎
歴史書ではないけど、まぁ一般常識だよね
貴方の出されている著作の著者さんは歴史の専門家ではなく、
現代の税のコンサルタントさんの御様子でございますし、
歴史学的におっしゃられているようではなく、
貴方ご自身もおっしゃられているように、通俗的なイメージによる「常識」
とやらに基づいて述べられてるように思われますかねえ。
とりあえず、武田の税は>>677にもありますように、
隣国の北条氏と比べましても、総合的にはそれ程変わらない額ですし、
戦国時代ですから、ある程度重税になるのはどこの大名家も同じではないかと
思われる次第でございますかねえ。
信長が自由主義で更なる発展を目指していた、とかいうのもどうかのかと思うのですけれどねえ。
典型的な、一昔前に言われていて、現代では数多くが学者などによって否定されている、
信長革命児論的なイメージに基づいて語られているように思われますかねえ。
実際には信長の楽市楽座とかも、それ以前の斉藤とか六角とかが行っていたのの追認とかも多いですし、
銭問題に関しましては、まるで信玄が撰銭をしていたのを悪い事であるかのように書いておられますが、
実際には撰銭をしていたのは、信玄だけではなく、当時の銭を使う大半の人々なわけでして、
信長は当時の悪銭とされていた銭にも、銭としての価値を定めて、撰銭をさせないように定めた、
撰銭禁止令を出しますが、これは畿内の民衆達による大反発を招き、それによって畿内では信長の望みとは真逆に、
銭が貨幣として使われる事がなくなり、米などが現物貨幣となる事態が起きていく事が既に指摘されておりますかねえ。
関所も領国の警戒などには必要な措置なわけですし、現に家康とかもその方針でございますしねえ。
このように、信玄の政策は、別になりふり構わぬ徴税とか、統制主義とかいう話ではなく、
歴史的な状況に対応してのものだった、という話でございまして、
撰銭問題に関しては、上記のように、信長が撰銭を禁止した結果、その領国の民衆たちの反発を招き、
銭自体が使われなくなり、現物貨幣が主流となる、という事態を招いている事からも、
普通に信玄の政策の方が状況に適応していたように思われる次第でございますが、
これらにつきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄のやり方は当時なら間違ってない。
ただし将来的には信長が正解で信玄は外れ。
江戸幕府見たらよくわかる。
・重税を課して税収を引き上げた
・関所を増やして関税をかけた
・質の悪い銅銭での納税は一切認めなかった
経済的に豊かな出身の信長は自由主義で更なる経済の発展を目指していた
一方貧しい土地柄が出身だった信玄は徹底した統制主義を取ることで財源をまかなおうとした
つまり甲斐、信濃は”貧しい”土地柄ではあるが、しっかり税を取る方針だったので武田家の財政としては”貧乏”ではない状態だった
(但し後に勝頼が反動で酷い目に合う)
まぁねぇの主張も一部は正しい
武田家は貿易なんかしてなくてもその分課税してるから財政は問題ないんじゃぁぁぁぁぁ!ってことね
ねえは過去のスレで、武田氏の税は後北条氏や他と比べて一括で安いとか、後北条氏はたくさん中間搾取して武田より重税じゃあ、とか、貴方様と全く逆のこと言ってましたよ。
まーたいつも通りに誰でも彼でも
必死に同一認定にご狂奔なさられながら、
必死に捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
武田は棟別銭を主体として税金をとる方式で、
北条は複数の税からとる方式で、これらを総合すれば、
武田と北条の税金はそれほど変わらない、
的な事は黒田氏とかも普通に指摘している事ではございますかねえ。
相変わらず、必死になって相手側がいない時にだけ、必死になって捏造曲解にご狂奔し、それを指摘されると発狂逃亡をなさられる貴方さまの御習性は
どうにかならないのかと思う次第でございますし、
こちら側から数多く指摘されている、貴方様の捏造曲解などについて、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>甲斐が越前や越後なんかより裕福だったと根拠を出してるなんていう学説
なんか毎回思うのですけれど、必死になってゼロか10かにしたがっているといいますか、
なんで何度も指摘されても、必死に結論ありきで喚こうとしておられるのか、についてもご説明の方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
さらには、何度も何度も指摘されておりますように、
武田の税は>>677にもありますように、
隣国の北条氏と比べましても、総合的にはそれ程変わらない額ですし、
戦国時代ですから、ある程度重税になるのはどこの大名家も同じではないかと
思われる次第でございますかねえ。
それから、何度も言いますけれど、甲斐だけではなく、信濃・駿河においても
武田領国においては多数の経済拠点が存在して、活発に活動しておりますし、
そもそもの問題として、武田の税収の基本は年貢とか通常の税金とかですしねえ。
それらを総合しますれば、普通に武田120万石近くの国力と、上記のような
経済拠点からあがる利益、などを総合して、普通に遠征費用は賄えると思われますし、
実際に武田は西上までに数多くの遠征を行ってきておりますし、
長期遠征の事例でいいましても、何度も指摘している事ではございますが、
上杉謙信が小田原遠征をおこなった時には、国力的にも、石高的にも、
圧倒的に西上当時の武田よりも劣る状況なわけなのでございますし、
その距離に関しましても、武田の信濃から美濃への距離よりも圧倒的に上杉側の方が長距離なわけなのでございますし、
北条早雲に関しては、その領域も石高も国力も、西上当時の武田と比べること自体が
無理があるように思われます程に、圧倒的に武田側の方が上でございますのに、
普通に長期遠征を行っておりますのに、なぜに武田が信濃から美濃に長期遠征を行う事が
何をどうやったら、そこまで圧倒的に困難な事柄となられますのか、という事について、
必死なる捏造曲解などにご狂奔なさられておられる事柄などについての、ご回答もあわせて、
お答えの方をよろしくお願いしたいと思う次第なのでございますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
つまり同意件の学者は一人もいないって事ですね?
武田の5公5民
どっちも江戸時代の創作だけど実質はそれくらいだったと言われてますねぇ。
あれあれ。
後北条氏は中間搾取が多くて武田より重税じゃあなかったかね?
一方信長様の自由主義とやらは江戸時代に引き継がれることがなかった
その事から信玄公の統制主義の方が優れていたという見方もできる
信長が自由主義なんて初めて聞いたが。
江戸幕府は重農主義のバカばっかりで、信長の重商主義、流通政策が理解できなかったのは事実だな。
だから享保の改革では倹約財政なんて消極策しかできないし、米相場は大坂商人に抑えられる。田沼意次がようやく重商主義に転換しようとしたら賄賂政治とか言われて失脚。松平定信や水野忠邦がバカみたいな改革やって終わり。
品川
徳川、武田、北条などの田舎武士は年貢や関所からの収入に頼らざるをえない
武田はその点、金山を保有している分やや有利だったと言える
同様に上杉は直江津港を持っていた
越前三国、加賀本吉、能登輪島、越中岩瀬、越後直江津、出羽土崎、津軽
、塩釜、品川、米子、須崎
大きいところだとこれくらいか
朝倉、上杉が国高のわりに強いのも納得
そんな事をいわれましても、と思いますしねえ。
当時から既に信長の行った撰銭禁止令などは、畿内の民衆達による大反発を招き、それによって畿内では信長の望みとは真逆に、
銭が貨幣として使われる事がなくなり、米などが現物貨幣となる事態が起きていく事が既に指摘されておりますのに、
信長が正解、とか言われましてもねえ、と思う次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>660
まーた必死になって相手側がいない時にだけ、相手側の主張などを捏造曲解して
レッテル貼りなどにご狂奔なさられて発狂逃亡しようとしておられるご様子ではございますが、
現状では明らかに貴方さまが>>530で書かれているような、「センゴク」の内容を書き写されたようなレス的な理由とは
異なるのではないか、的な話がされているわけでございまして、
明らかに現状で妄想願望的な事をお喚きになられているのは貴方さまのように思われる次第でございますしねえ。
必死に捏造曲解にご狂奔しようとしておられるご様子ではございますが、
いつも通りに必死になって、都合悪い事柄を必死にスルーなさられながらの、
必死な捏造曲解などにご狂奔なさられながら、お喚きになられておられるように思われる次第でございますが、
実際問題としては、何度も言いますが、>>492にもありますように、武田領国も普通に経済的にそれなりに栄えておりますし、
貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
さらには、実際に当時の武田は北条を主敵としていたからこそ、
1581年には高天神への救援を十分に行う事が出来ずに攻略されてしまう、
という事になっているわけでございますしねえ。
とりあえず、そのようにお喚きになられるのであれば、資料的、あるいは史実的に基づいて
しっかりとした論証などを行っていただきたいと思う次第でございますので、
お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>646 >>645 >>648で聞かれている数々の事柄について、
おはやめに資料的・史実的に具体的なる論旨でもってお答えになられていただきたいと思いますので
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
だから、当時は信玄は間違ってないの。
ただし、そういう現物重視にしたから、江戸時代になると江戸幕府は綱吉の頃には米相場を大坂商人に抑えられた。
また、重商主義に転換していく中で西廻り東廻り航路も開発されたのに、幕府は大船禁令に米現物重視なんか続けた。
これで経済は完全に商人に抑えられた。
それから、貴方やっぱりまたIDの方がお変わりになられているご様子ではございますが、
やはり>>14にありますように、必死にID切り替えとかをして、ご自身の主張を必死に擁護しようと躍起になった挙句に、
その後で必死に>>660をお書きこみになられた、という前にパート2スレあたりで
貴方がご自身でやっておられる事をお認めになられている手法を行われたと思われる次第なのでございますが、
この件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>685
じゃあ、取れるんですね。貿易云々関係なしに、それまでの他の事例などと同様に。
結局はそういう問題でしかない、という話でございますしねえ。
>>658
いやいやいや、必死にネタにしようとしているご様子ではございますが、
実際問題として、韮崎を拠点にしますのに、城を築かない、という話もないように
思われる次第ございますしねえ。
>>657
いや、関東方面へのアクセスを考慮しますれば、ある程度は北による方がいいとおもわれますけれどねえ。
>>656
幕末に、勝海舟が近藤勇に「甲斐100万石は君のものだ!」的に言って
甲州方面に進出させてますしねえ。
戦略的拠点なら信長が小牧山に移ったように既にある城を使えばいいし、攻略の足掛かりとしては墨俣の砦のようなもので充分
わざわざ負担を重くしてまで韮崎に拠点となる城を築いて関東に侵略しても、当時の関東は開拓も進んでない不毛地で実入りもない
それで、当時から既に畿内の民衆達による大反発を招き、それによって畿内では信長の望みとは真逆に、
銭が貨幣として使われる事がなくなり、米などが現物貨幣となる事態が起きていく事が既に指摘されておりますのに、
信長が正解、とか言われましてもねえ、と思う次第なのでございますが、
これらの件につきましても、お答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>655
いやいやいや、相変わらず、必死になって相手側がいなくなったと思った途端に
必死になって捏造曲解などにご狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
現状では明らかに、こちら側が資料的、史実的、あるいは論説的に基づいた事をのべさせていただいているのに対し、
貴方さまの方は資料的にも史実的にも具体的なるご論旨のご提示がされておられないように思われまして、
貴方さまのおっしゃられるご論旨の方が現状では貴方さまが>>530にありますように、
「センゴク」でお読みになられた事を
必死になって喚いておられるだけの御様子としか思われない次第でございますので、
>>646 >>645 >>648で聞かれている数々の事柄について、
おはやめに資料的・史実的に具体的なる論旨でもってお答えになられていただきたいと思いますので
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で特に問題ないように思うけどなんでそんなに甲府を経済都市として発展していたことにしたがるの?
ていうかそんな事主張してる学者いる?
甲斐が越前や越後なんかより裕福だったと根拠を出してるなんていう学説
さらに申し上げますと、貿易とかの優位も多少大内にはあるとは思いますが、
大内が領国から遠く離れた京都まで遠征して、10年間も畿内に滞在して
各地で戦ったりしてるのに対して、そこまで武田は一度にしようというのではなく
隣国で、普通に史実的にも何度も侵攻が行われている
信濃から美濃への侵攻ルートで、美濃に侵攻するので長期遠征を行えない、という理由はどこにもない、
という話であると思うのですがねえ。
これらの件について、お答えの方をよろしくお願いしたいのと、
貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
川の水運を生かせて交通の要所(甲府、諏訪、佐久に通じてる)
関東攻略の足掛かりではないと思うけどなぁ
ですからあ、なんでいつもいつも、そのようにこちら側の主張を変な風に
捏造曲解なさられようとするのか、と思われますしねえ。
単に、関東まで含めた武田家の領国全体の総合的なアクセスの中心地、として
韮崎が新たに拠点となった、という事だと何度も指摘してますのに、
これらも含めて、貴方が行われている、必死なように思われます捏造曲解などについても、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思われます次第でございますので、
おはやめにお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そろそろ撤収させていただきたいと思う次第でございますかねえ。
逃亡しました。
武田信玄公の戦歴で一番長くて北信に遠征した半年程度だから美濃侵攻も一旦それくらいで区切るよねと書いただけだ
あとは特徴的なのが戦が終わってから大体一ヶ月から二ヶ月程度滞在してから撤退してる
これは負け戦だった村上攻めの時もそうだった
上記のような過去の戦績を踏まえて美濃に入っても戦闘期間は長くて四ヶ月程度だよ
信濃から東美濃までは川で運ぶというのは難しいし
読解力 0点
地理 0点
協調性 0点
歴史 0点
それこそ物人金の集まる超重要拠点
破たんが生じる。分かっていても必死にごまかすから菅沼遼太扱いされるんだね。
ねえは関東方面に勢力拡大しているから、1580年代の主敵は北条だから、といってるが、それならあの位置はやはりおかしいよね。
まあねえは全く地理知らないんだから仕方ないか。
そう思います。仮想敵が関東なら碓氷峠の強化と岩殿城、塩山辺りの強化だと思います。
琵琶湖 > 諏訪湖
どっからどうみたって滋賀県の圧勝だわ
どっちか支配するなら考えるまでもなく100%近江に決まってるよねwww
ワロタ
何の勝負だ
ねえは武田厨だから仕方ない。
近江に城を建てる事に意味はあるゾ!(本当は大阪の方がいいだろうが本願寺がまだ抵抗してるし無理)
若狭と言えば朝倉氏も三国湊の貿易権を背景に莫大な利益を上げて一時期は一ノ谷を京都に勝るとも言わしめる程発展させた
っか朝倉すら自国産業を育成し、なんとか大陸貿易に割り込み輸出入で利益上げようと必死になってるのに大陸貿易の評価が「多少なり」とか評価してる時点で┐(´д`)┌
っで、武田は東の京都と言われるような発展した商業都市や貿易圏、流通都市や経路はあったの?
甲府って一応、甲州の都(府)を意味する。
甲府の町割りも京都を模範にしていたらしい。
だから東の京都、甲府。
今川から奪った駿府や清水湊くらいかな挙げれるとしたら。経路としては東山道か?
三国湊は越前な
若狭は敦賀、小浜
三国湊は越前な
若狭は敦賀、小浜
森長可の兵力はたぶん5000くらい。それで2ヶ月で東美濃を制圧している。つまり東美濃衆って案外脆いのか、それとも森長可が強すぎたのか?
武田信玄が2万数千で攻め入ったら、案外東美濃衆は雪崩打って織田から離反するかな?
ただ、この森長可の東美濃制圧は、美濃国主の織田信忠とその側近たち、つまり西美濃の有力者が明智光秀に殺されていて、織田信長も死んでいたからこそ短期でできたという理由もあるんだが。
武田信玄が東美濃に攻め入ったら、果たして東美濃衆はどうでるかな?
仮に5月侵攻で信玄が信長と一戦して勝ったとして、その後はどうするの?
さらに近江に侵攻して、そこも突破して、上洛して義昭を奉じるの?
その後、2、3万の兵力で何年京に滞在するのさ。
1敗したくらいじゃ信長は滅びないし、近江美濃で、浅井朝倉や六角のように長期にわたって抵抗するだろうから、本国との連携はどうするの?
家康謙信北条は何年も空の甲斐信濃に手を出さないの?
近江美濃を完全に平定するのなんて何年かかるんだよ。
それこそ信玄はどれだけ長生きしなきゃ天下が取れないのかって感じだよね。
戦死でも謀叛暗殺でもない信玄にそんなに追加の寿命ifを設定しなきゃならない時点で無理筋だと思うんですが。
ねえは大内氏が10年在京したから、武田もできるとかほざいてるよ。武田の国力は大内氏以上だからって。
ただ、大内氏が在京できたのは、山城守護が大内義興に与えられたことと、細川高国が畿内の細川領で賄っていたからではないかとも考えられる。
仮に武田信玄が織田信長を滅ぼしても、たぶん織田領の取り分で武田、朝倉、浅井、石山本願寺あたりはすぐに対立する可能性がある。
5月侵攻で信長の首を取れたら織田滅亡。徳川服従。
逆に失敗したら朝倉や浅井が終了。特に朝倉はこれで失敗したら家臣団がさらに離反すると思われる。
というか、近江は一国で77万石。当時の浅井は15万石くらいで、あとが織田領。織田は1573年春に六角や山岡を潰しているため、浅井の抑えに20万石5000を使っても、残り30万石7500は美濃に送れるな。
確かに、5月侵攻だ何だといって、どうなるかシミュレートしてないな。織田信長が必ずしも敗れるとも、あるいは一敗したら滅亡するとも限らないし。
戦場で大将の首が取れるなんてレアケースなので、一戦で信長が敗死ってのは考えにくいと思う。
経済力の話はとりあえず目を瞑るにしても、謙信が動かない根拠の越中情勢だって、そう何年もそのままってわけじゃないんだし、信玄が主力ほぼ全てを引き連れて長期在京となれば、謙信も史実と対応を変えてくる可能性もある。
そう考えると、そのまま上洛して、ねぇのいう畿内天下とやらを信玄が目指していたとは考えにくい。
少しずつ美濃ないし尾張を侵略して何年もかけて信長を打倒しようと考えていたって想定の方が自然に思える。
だとすると、いくつまで長生きさせるんだよ、って話と、当然信長はなりふり構わず抵抗する、それこそねぇ的にいう和睦詐欺だろうがなんだろうが駆使して抵抗するだろうから、それを突破出来るのかって話かと。
信長の首を取らなくてもいい
岐阜だけ制圧したら織田は詰むと思うぞ
問題は時間なんだよ
信玄の寿命もそうだが、まず戦国時代末期はどこも総力戦をやってるわけよ
マラソンで例えると、東北以外はラストスパートを掛けている状態で、もう後戻りができない
自爆覚悟のめちゃくちゃな戦争をしている。
要は領土を増やさないと国が成り立たない。つまり停滞するってことは死を意味する。
秀吉すら天下を統一しても苦しいままで明朝鮮を目指さないといけなかった
徳川幕府も財政難を延々やっていた。綱吉時代の江戸だけ一時よかっただけ。
どこも死にかけだから、もうね本気で天下を狙う大名がどれだけいたのか?
元就が天下を目指すなと言ったようだが、これは正解でこのままやっても自滅するだけ。
戦国時代ってのはかなり狂った時代だったと。
どうかなあ。
越後追われながら復帰した長尾為景、領国何度も追われながら不死鳥のように復帰した小田氏治の例があるから、やはり信長を確実に撃たないといけないと思う。
岐阜落としても尾張に逃げるだけだと思うけど。
それ以前に本拠に有力な敵勢力が進攻してきたなら最優先でそれに対処すると思うけど。
例えば伊勢の織田戦力なんかは引き抜いて大垣経由で美濃の敵への対処に充てるだろうし、
南近江の戦力も美濃に引き抜くと思う。京への連絡線が途絶しようが本拠防衛が最優先。
本拠尾張、美濃の安全を確保したのちまた畿内や浅井、朝倉への攻勢をやればいいことだし。
茨木と高槻に各5000 合計1万も置いといて、畿内の残りは美濃に引き上げさせてもいいかもね。何しろ畿内の反織田の中心になるべき三好がこの時期は内ゲバしてるから。
それでもいいと思うけど、その場合織田が
美濃、尾張で運用可能な兵力はどのくらいに
なりそうですかね?
織田を潰せばそのまま天下が武田に移るだけ
ただ現実的に考えると、織田を潰さなくても決戦に持ち込んで叩けば
近畿内は混乱して織田は自滅するでしょう
こうなると次の敵は足利朝倉浅井になるんだよね
最終的に自分たちが室町幕府の大物守護大名的ポジションに収まるという感情の
最後変だったw
全国統一まで考えてた奴はいたのかなあ
この城は長篠城によく似ている。森長可が武田信玄の調略に応じるとは考えにくい。家臣団も朝倉や浅井の大軍相手に宇佐山城で徹底抗戦した猛者たちだから武田信玄でもさすがに一筋縄ではいかない。
となると朝倉。これがどう動くのか。
仮に山越えして遠藤が寝返る。ここまではよろしい。で、次にどうするか?
郡上八幡から南下して一気に岐阜を目指すは危険すぎる。かといって、そのままずっと居続けるのも芸がないし。朝倉はどう動くのか? 斎藤龍興がいるから、美濃諸将の切り崩しができる可能性があるかな?
伊勢長島はどうもこのスレだと、長良川沿いに岐阜に出るように設定されているみたいですね。しかし、賤ヶ岳の時に長島の滝川一益は岐阜の織田信孝を後詰めできてないし。長良川沿いに行くとしても織田領のど真ん中を通るからやはり危険すぎないかと思えるんですが。
伊勢長島には、1573年の時点で野戦の指揮がとれるような指揮官はいたのですかね? この点で少しは変わると思うのですが。
伊勢長島はどのみち岐阜近くに行けば真っ先に叩かれると思えるのですが。
武田が兼山城を包囲か攻撃しだしたあたりで織田の後詰(兵力不明)と
後詰決戦が生起するかどうか。
兼山が冬まで粘れるようなら武田主力、朝倉が帰ったあとに織田の冬季攻勢ってかんじじゃないかと思うが。
犬山、小牧、瀬戸(品野)多治見、岩村方面等の攻勢可能方面が双方中濃だけではないし、
長島一向衆がなにやるのか知らんけどその兼ね合いもあり、
単純にこうなる、と想定できない。
北信の抑えはいらん、とかまずここから引っかかってるから。
上杉謙信が越後在国でも北信進攻はない、などと武田が判断できる根拠はない。
なら浜松の徳川の抑えもいらんだろ、浅井も小谷放置して全力出撃でいい、これと同列。
と言ったように武家政権は三代で終わった源氏。北条、辛うじて存続した足利、織田、豊臣と
意外と長続きしないからな
将軍家を擁して上洛している時点で、号令をかけないはないと思う。まあ環境が考えを変えて行くから、信長もその過程で考えが変わっていったんだろうが。
その天下って畿内一円なのか否か
往年の大内家ポジションになるなという意味なのかな
最初は畿内一円。
足利義昭を追放して長篠で武田を破ったあたりから全国制圧に変更した感じだろうね。
北条は一応100年以上続いてるよ。
朝倉、武田には将軍の名前で喧嘩を売ってたけど長曽我部辺りでは織田家に臣従するよう通達していたので長篠以後あたりからは織田の天下を意識していたと思われます
いるにしても、99.9%までが、まことの書き込みである
次スレを立てましたので、移動の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1519771186/l50
誰のせいで容量の問題が起こってるかわかってて言ってるのか? いらないコピペ長文繰り返すキチガイのせいなんだよねえ。
思う次第ではございますかねえ。
思う次第でございますかねえ。
このまま続けるの?
こんな経済オンチには付き合ってられないよ
無知すぎるよねえ。
1573年4月12日に武田信玄が死なずに元気に指揮をとれるくらい長生きしていたら、少なくとも織田信長、徳川家康を倒せたのか否かを。
自分は無理だと思う。
少なくとも1度、甲斐に引き返さないと。でも出直したら浅井、朝倉には後がない。
徳川家康は2年くらいで潰せたかもしれないが、織田信長は本能寺の変でも起きないと無理だと思う。
賛成。
まあ、史実と多少順番は変わるかも知れないけど、包囲網側が織田に各個撃破される気がするなあ
どうせそんなとこ
信玄が一番恐れているのは謙信・信長ではなく最も身内の存在とその成長
その後公家寺社に武家も平氏すら敵に回して滅んだが
家康も豊臣家の代理として豊臣家の恩賞配ったりとかして
海外貿易利権の恩恵一番受けてる豊臣家が動けないうちに天下取ったみたいなもので
反論としては微妙だし
そもそも大内上洛時どれぐらいの兵力を恒常的に中国九州から連れて行っていたんだ
大内細川合わせて数万とかだから
大内が連れて行った兵力は多くても1万ぐらいじゃないのか
100万石超の兵力で1万ならそれほど負担大きくないだろうし遠征も出来るだろう
専門板にありがちだけど結局枯れ木も山の賑わいということよ
分かりにくい名前じゃ無理だよ
年始の会議にも呼ばれない奴がいきなり当主(当主代行)って言われて出てきたら混乱するやろ
元宿敵の諏訪の当主をいきなり陣代ですなんてできるわけねーだろ
まず武田の体制を見てから考えろ
じゃあ誰が武田を継ぐんだ?
武田義信が死んだ時点で考えて行動しないとダメだろ
だから武田の体制を考えろと
いきなり陣代ですってやると信玄の信用すら無くすわけ
武田ってのは国人の寄り合い体制
まず勝頼に次期当主という実績を積ませる必要がある
史実はこれをやっているんだよ
さらに陣代をやらせる時点で、武田の構造と信玄の立場がわかってくるだろうに
なんで勝頼を当主にしなかったのか
このスレに来るのなら最低この程度は知っておくべきだろ
アホか
年始の重臣会議からはぶられてるんだけど?
これで経験をと言われましても?
つまり信玄が精鋭で全力出兵出来る期間は経ったの1年しかない
つまるところ西上開始して1年内に織田主力を捕捉出来ない場合、北信濃は相当危険な状態になる
北信濃が安全なのを利用して上杉が関東に出た場合、上杉の動き次第では甲斐や上野も危ない