戦国時代の感動する話をするスレ 日本史
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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戦国ちょっといい話45
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戦国ちょっと悪い話45
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乙!
戦国ちょっといい話46
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間違えた。申し訳ない
去る程に四海八島の外も波静かに治まり、関白左大臣豊臣秀吉公は京都に大仏殿を御建立あるべしと、
天正17年の春より人夫を揃え、京に石を引かせた。
大仏殿は五条の橋の方で、その大門の石は松坂少将蒲生氏郷の担当と成った。
それは一辺が2間(約3.6メートル)の、四角形の大石であった。
大津三井寺の上より、漸く道まで引き出したが、そこで秀吉から氏郷に
「あの大石は人夫への負担が大きいので輸送は中止するように。」
と伝えられたため、氏郷も畏まりこれを中止した所、それを京童が一首の狂歌を詠んで
落書にして立てた
『大石を 道の蒲生に引き捨てて 飛騨の匠も成らぬものかな』
もちろん飛騨とは氏郷の受領名「飛騨守」の事である。氏郷はこれを知ると
「京童に嘲られる事こそ口惜しい!ならば引いてみせよう!」
そう決意し、再びこの大石に取り付き引き始めた。
蒲生源左衛門尉郷成の、その日の装束は太布の帷子の、袖裾を外し背には大きな朱の丸をつけ
小麦藁の笠に采配を取って石の上に上り、木遣をした。
その他には、蒲生左門家来である中西善内が笛の役、蒲生四郎兵衛郷安家来、赤佐一蔵は太鼓の
役で、拍子を取り、これが誠に面白いと人夫共もこれに勇を得て引いた。
また氏郷自身がこれを奉行したので、氏郷の侍たちも皆、石を引く本綱末綱に取り付き、
我劣らじと引いた。
ここで、戸賀十兵衛の人足の一人が、草鞋の奉行であるからと傍に居たのを氏郷が見つけ
「あれは如何にも悪き奴かな!搦め捕ってこい!」
と命じ、土田久介という小姓がこれを承り、走り寄り手巾にてかの者を搦めて来ると、
氏郷はこれを田の畦に引き据え、腰の脇差を抜いて、立ちどころに頸を落とした。
これを見た者たちは興醒め顔にて、なお一層石引に精を出した。しかしながらやはり大石
であり、なかなかうまく進まず、人夫たちにも次第に疲れの色が濃くなった。
そこで「彼らに力を与えよう」と、都より傾城十余人を呼び寄せ、石の上に登らせ
小歌を謡わせると、これにひときわ気力を得た。
しかし、日岡峠を登らせる時は流石に不可能に思えたが、氏郷は源左衛門尉郷成に、
「どうにか精を出して引き登らせよ!」と命じた。
郷成は「承り候」と言うや、わざと田の中に転び落ちた。彼は装束を泥だらけにして
起き上がると、それを見た人夫たちは、一斉にどっと笑った。その夥しい笑い声は
暫く鳴り止まないほどであった。
そしてその勢いでこの峠をついに越えたのである。氏郷は非常に喜び、彼に秘蔵の名馬を
与えた。
その後も人々精を出して引いたが、どうしたことか鎖綱が引きちぎれ、額に当たって
人夫一人が死んだ。しかし別の鎖に付け替えて引き、ついに加茂川へと引き入れ、都の内へと入った。
ここで氏郷は「今度の京童共による狂歌への返報である」と、人夫共を京の民家の上に
上らせで石を引かせた。このため大仏殿の方向にある家々は踏み破られた。
そこに関白秀吉が氏郷を迎えに御出になられた。御供は木村常陸介で、彼らは石の上に
上がってきた。これを見て赤佐一蔵は驚いて石より飛び降り、郷成、中西善内も下りようとしたが、
秀吉は「そのまま罷りあれ!」と彼らを留め、自身は帷子に着替えて木遣を成された。
常陸介は太鼓を打ち、中西善内はまた笛を吹いた。こうなった以上、秀吉の御供として
付き従っていた大名小名もみな石に取り付いて引いたため、そこからは飛ぶように進み、
程なく大仏殿へと到着した。
この時、一番の大石を尋ねた所、この氏郷の引いてきたものより大きな物は無かった。
(氏鄕記)
有名な話ですが、出典付きで
細川忠利の士川北九大夫と言う者有り。川尻の代官を勤めよ、となりしに、出陣の時供に
連れられなれば代官の職勤むべし、と言いければ、尤とて、出陣の時供すべし、と定めら
る。天草はややもすれば一揆をなす所と西国の人の言いける事なれば、心に掛けて、川尻
は海辺、船の着く所にて細川家の米蔵あり。天草へ海上七里と聞ゆ。川北兼ねて地鉄砲の
数を調べ置けり。(地鉄砲とは猟師の事也)天草の一揆起ると聞きて、川尻の海岸に一間
に一本宛竹を立てさせ、一本毎に火縄を結い付け、五本に一人の地鉄砲を配りけり。後に
天草にて生捕られし者の言いけるは、其夜川尻の米を取らん為に船を押出して見しに、川
尻に幾らとも無く鉄砲を備えて見えたる故、さては熊本より軍兵の早川尻に来たれり、と
て船を戻しけるとなり。川北なかりせば川尻の米を取られ、天草の糧容易く破れまじかり
しに、川北が謀にて天草の糧早く尽きてけり。
(常山紀談)
竹を2メートル間隔で立てて、それに火縄を結びつける。5本ごとに一人の地元猟師が担
当。つまり、臨戦態勢の鉄砲隊がたくさんいるように見せかけたということなのかな。
これで川尻の米蔵を略奪されていたら、切腹が一人や二人ですまない大恥。ナイス計略。
しかし、天草・島原の乱で、川尻襲撃の準備があったという話は、聞いたことないなあ。
天草四郎が一揆の直前まで宇土町の郊外に住んでいて、母や姉を連れ出そうと船が送り込まれたが失敗した話ならあるけど。
その官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。
この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て
「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」
このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。
これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」
それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。
(氏鄕記)
通った。そこはあまりに人気無く、非常に物寂しい場所であった。
ここで氏郷は思いつくままに、一首詠んだ
『世の中に 我は何をか那須ノ原 なすわざもなく年や経ぬべき』
そう言葉にして、打ち過ぎたという、
(氏鄕記)
氏郷みたいな人でも「俺は何も成さずに今まで生きてきてしまった」みたいに思うこと
あったのですね。
下方覚兵衛*は元々は蒲生氏郷に四百石で仕え、その後は小早川秀秋に呼ばれ
千二百石で仕えていたが秀秋が亡くなったため、池田家臣の土肥周防の誘いで
慶長八年、池田輝政のもとへ召し出された。
土肥周防が輝政の嫡男・利隆に氏郷時代の知行四百石で仕えるようにと
折紙を渡すと、覚兵衛は
「中納言(秀秋)のことで浪人になってしまったので、ただいま無双の御当家へ
召し出されるのならば、いかようでもお請けしたいのですが、せめて
先知(千二百石)の半分は下されるべきでしょう」
と申したため、周防が折紙と違う知行を求めてくるのは困るとして
断ろうとしたところ、輝政が
「今は諸浪人の多くが先知を減じ、そのままで終わってしまうことがあるから
このようなことを言ったのだろう。この先配慮をしてやるように」
と仰せられたので、翌年から覚兵衛には百俵の合力米が支給された。
覚兵衛はその後出世していき、慶長十六年には光政の守役に任ぜられた。
そのとき輝政と利隆の相談の結果、池田家の譜代同然に扱われることになり
家督を継いだ光政が領国に帰るときには、妻子と一緒に江戸で留守を守った。
元和七年に亡くなるが、最終的には千百石を拝領したという。
――『吉備温故秘録』
* 祖父が小豆坂七本槍の下方左近であったことから、蒲生氏郷に仕える。
氏郷の死後、堀秀治に仕え越後にいたが、小早川秀秋に召し出される。
光政とは家族ぐるみで交流があり覚兵衛の死後、妻は岡山城の水の手に
屋敷を拝領し、光政から”水の手の祖母”と呼ばれ慕われた。
(利家の次男・利政の妻が氏郷の娘)、供の侍たちは蒲生家、前田家共に座敷に入るのであるが、
その時は蒲生家の侍たちは、座敷には入らなかった。
ところが、氏郷の小姓である岡半七という者、これを知らずいつものように番所の戸を開けて
座敷に入ろうとした所、傍輩が一人も居ないことに気が付き、驚いて座敷の戸を閉めて退出した。
この姿を番所に居た者たちが小声で笑った。
その瞬間、岡半七は太刀の柄に手をかけた
「汝ら何を笑うのか!?」
声高に過ぎたその声を氏郷は聞き付け
「また半七めか。いつもの大声だな。」と、つるつると座を立ち半七を呼んで、特に用があったわけでは
無かったが、当座の事について長岡越中守(細川忠興)への使いに出した。これによって喧嘩を止めたのである。
このように氏郷は、物事に分別のある人であった。
(氏鄕記)
氏郷の家臣である錦利八右衛門は、「似せの鎧を遣わしましょう」と申し上げたが、氏郷は
「『なきなどと 人には言て有なまし 心の問はば如何こたへん』という古歌がある。
お前の言う事、我が心は恥ずかしい。
確かに佐々木鎧は天下に一足の鎧であるから、それが如何なるものか知る者はほとんど居ない。
だが、私は一度忠興に遣わすと言ってしまったのだ。そうである以上、後に残ったとしてもそれは重宝ではない。」
そう言って佐々木鎧を忠興へと遣わした。後になって忠興は、その鎧が蒲生家重代の宝であることを知り
様々に返還しようと働きかけたが、氏郷は決して受け取ろうとしなかった。
この鎧は氏郷逝去の後、跡を継いだ秀行へ返還されたという。
(氏鄕記)
ちょっと珍しいパターンかも。
氏郷さんもええ人やな
ええっ?……
島原の城攻に、細川家の士大将松野亀右衛門井楼より見るに、本丸と二の廓の間に坂有り
て人集る。中に大紋の羽織著たる者在り。松野指ざして鉄砲を打ちたるに、五町許にてた
だ中に中りてけり。夫より空箭無く打ちしかば、彼坂を夫より後たまたま通る者、身を屈
め走り通りけるとぞ。松野は、鉄砲の妙手留刑部一火に学びて妙を得たり。
(常山紀談)
500メートルをスナイプ。確かに原城の縄張りを見ると、本丸の出入り口は内陸を向い
ているから、狙撃しやすいポイントと言えそう。しかし、ライフリングの無い火縄銃で、
外した弾がないというのは、すごいなあ。
<BR>
ちなみに、この松野亀右衛門、大友氏の末裔らしい。
子の(織部)親英は蜂須賀に使えたあと細川忠興に召し寄せられて直臣となる
大友改易後に田原親盛が細川忠興に使え松野半斎と名乗っていることから松野衆として名を改めたのだろうか?
亀右衛門は親英の子である
なお松野家はもともと切支丹であったが棄教した、このため代々家老に起請文の提出が義務付けられていたようだ
これに対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も付けず鑓を持つと、正面の敵に構わず、敵の後に
ただ一人廻り、敵の後から突き倒し、散々に相働いた。
これにたまらず敵方は城中に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責め立てられ、逃げ惑い堀に飛び込む
者まで居た。これを見て後から駆けてきた侍たち、我も我もと頸を討ち取った。
氏郷は数多の敵を突き倒し、その頸を取った者も多かったという。
関白秀吉はその働きを聞いて感じ入り、「氏郷が活躍するのは珍しいことではないが、今回の
夜討に敵の後ろに回り、一人で切り取り数多の頸を討ち取ったこと、当意の機転、古今稀なる働き
である」と讃えたという。
(蒲生氏鄕記)
氏郷の単騎攻撃のお陰で敵の夜討がボーナスステージに成ったお話。
またしても裸アーマーか
夜討の混乱状態で後ろに回った機転が、武功と生存の鍵なのか。
ゲームの主人公かな?
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。
(長澤聞書)
大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象
(池田輝政が)あるとき厠に入ったかと思うと、けしからぬ声が聞こえてきたので
お側の人々が驚いて厠に走り入ると、卿(輝政)は笑って
「我は常に軍旅の事を考えているのだが、今も図に当たったなと思ったら
つい声が出てしまった。怪しまなくていいぞ。沙汰なし沙汰なし」
と仰せられたと、老人が語り伝えている。
――『有斐録』
「軍法は、聖人賢人の作法であり、常によく行儀作法をいたし、大将たる人は臣に慈悲深く、
欲を浅く士の吟味よく召し、もし戦が起ころうとしたなら、すぐにその備を作れるように、
よく注意しておくものだと伝わっている。」
(長澤聞書)
(長政)
「射ながし」と言って、さし矢に星をかけ、弓場の作法も無しに射た。
又は、世間で兵庫付と言って、弓場の付け様、檜垣の塀の切り様、矢代の気味、前弓後弓の次第、
星の射上垣破という、先例よりの作法を吟味して射た。これは関白様が弓を好む方々の射礼を
お聞きになり、そのうち兵庫付の作法が良いと言われたことによる。
・この頃の流行り道具(武器)は鍵鑓で、上下ともに用い、10人の内8,9人はこれを持ち鑓としていた。
対の鑓はおおかた二間半から三間柄(約4.5~5.5メートル)であった。
・その頃侍も町人も残らず茶の湯が流行り、円座を敷いて炒り大豆を拵え、茶の立て様や呑み様を
稽古した。当時茶の湯の上手と呼ばれたのは、古田織部、小堀遠州、桑山左近、永井信濃守であった。
・大阪籠城の間、世間では米の値段が17,8匁くらいであったが(1俵当たりか)、大阪では高騰し、
10日ほど130匁まで騰った事もあった。
・その頃、侍または町人百姓まで、牢人といえば隠棲している者であっても頼もしく思い、一度も
会ったことがない者でも近づきと成り肝煎りとなったものであった。
・その頃は、奉公人を召し抱える時も、その人物を万事吟味し、品々良き者を召し抱えるよう
御内の者に仰せ付けていた。意図的に贔屓するようなことは出来なかった。召し使わす者も
その先祖まで良く良く吟味された。
(長澤聞書)
大阪の陣の頃の世間の風潮について
「何度やっても本当に理解できるものではないが、しかし合戦というものは結局、気負い次第なのだ。
今回ならば、秀頼と組み合い、最後に上になった者が勝つということだ。」
これ以外に、大阪の陣に置いて軍法に関する仰せ出は無かったという。
(諸士軍談)
大坂冬の陣では、諸大名の軍勢に兵糧を給与した。およそ三十万人、一日に千五百石。
遠国の兵には倍を支給した。夏の陣では、家康は、松下浄慶を呼び出し、大坂の賄支度は、
膳米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、香物、少しばかりを用意せよ。それ以上はいらないと
仰せられた。そのため台所用品は、長持一棹のみで事足りたという。
(常山紀談)
家康ネタを重ねる。
夏の陣は数日で済むと、最初から見通していたわけか。京都が出撃拠点だから、そのく
らいで充分事足りたのかな。一日一升食べても、5日分。
おかずが足りないような気がするけど。具なし味噌汁と干鯛一かけら、漬物で山ほどの
飯を食う。天下人として、ものすごい質素だな。それとも、おかずが誰かが献上するのだ
ろうか。
少なくとも大坂の陣の頃はポピュラーな食べ物じゃない筈
花鰹なら15世紀末の包丁書に出てきてる
それのことじゃないのかな
でなければようやく製法が編み出されたいまの鰹節に近いもの
小牧・長久手の戦いが始まっていた。
氏郷は松島に入部すると、先ず領地の仕置を優先し日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも
関わらず、織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、氏郷の領内へ夜な夜な
人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、方々に物聞(見張り)を
置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。
9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。この時、木造の家中において
物頭をし、発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、氏郷が駆けてくれば
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。
これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、
その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、
氏郷たちを包囲し攻めた。この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、その戦いにおいて蒲生方の
外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、その身には薄手すら
負っていなかった。
このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、氏郷は敵の少ない所へ
そのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、その他甲冑をつけた者36,
雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。
世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。
(蒲生氏鄕記)
敵の計略どおり単騎突撃してまんまと罠にハマったけれども特に何ということもない氏郷であった。
花の慶次かな?漫画のキャラみたいな活躍で草
上下ともに、その道具にて円座を敷き、茶を点てることが流行した。
その頃、馬道具などは大小名から下々まで、紫、または紅の大房の尻懸が流行っていた。
刀脇差の鞘は、のし付きの金銀、又は朱鞘などが用いられていた
(長澤聞書)
大阪の陣の頃の流行り色々
彼の物語に、ある時権現様(徳川家康)の御前に、あん信という唐人が招かれ、家康はこの唐人に、
唐船の事を詳しく尋ねた。そしてその後、このように言われた
「日本船が唐船と戦うときは、鷹に鶴を取らせる心が無ければ勝利することは出来ない。
例えば、千町の田地に鶴が多く有る時、これを取るために逸物の鷹を千羽求めても、鷹師が下手なら
鶴を取ることなど出来ない。
鷹師が上手ならば、予てからそのための訓練を行い、また当日の天気と風と距離を考え、息を合わせ
調子を合する時は、たとえ一羽であっても鶴を取ること疑いない。
進物の鷹が、どれほど心剛だとしても、その鷹の資質だけでは鶴を取ることは出来ないのだ。
唐船と日本船は、この鶴と鷹のようなものだ。日本船がどれだけ心剛だとしても、それだけでは
彼に勝つことは難しい。将が予てからその戦いを想定していることが必要なのだ。
(松永道齋聞書)
唐船に限らず、合戦すべてに必要な心構えでもあるのでしょうね。
三浦按針ではなかろうか
あるとき池田輝政公は、出陣の朝に飯炊きに膳を進められたものの
気分が悪く召し上がらないことがあった。
そこで家臣の淵本彌兵衛が下々の飯の内から(黒米を)取ってきて
山折敷に据えて食べさせたところ、(輝政は)大いに喜んで戦に勝利した。
それより後は、門出の朝は黒米飯を山折敷に載せて
彌兵衛が配膳するようになった。
この彌兵衛は美濃国野間にて、腰に鎌をさして道の傍らにうずくまり
「御馬の草苅として奉公させて下さい」
と野を巡っていた信輝公(恒興)に申し上げたので、公が歳を聞いたところ
十六歳と申したので、永禄十年に召し抱えた者だという。
それから彌兵衛は度々功労があり、のちに利隆の正室福照院付きとなって
三百石を賜ったという。
――『備陽武義雑談』『吉備温故秘録』
大坂落城の日、興国公(池田利隆)の士斎藤織部、黒母衣かけて西国道に落行く敵に追付
き、すでに討取らんとせしに、彼敵ふり顧りて、落武者の首取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。如何に助けられんや、という。斎藤、従者に差せたる相印の腰指
を与えて、疾く落ちられよ。見咎むる者有らば、池田が内の斎藤織部という士の従者ぞと
言われよ、と教えければ、忝き由謝して落ち行きけり。帰陣の後斎藤が友来たりて、大坂
にて落武者の中に我縁の者が候が、救け給い相印まで与えられし故、遁れ出でて密に参り
て斯く申せし、と言いけり。斎藤後人に語りて、我其時此武者を討たんは易し。されども
落武者の降参するを斬りたりとも、母衣懸けたる我に如何許の功名とかすべき。今は却っ
て奥深く覚ゆ。猥に人数を殺すのみを武と思えるは、大きなる僻事にてこそあれ、と言い
しとぞ。
(常山紀談)
ずいぶん親切な。
晋三 晋晋晋晋三 ノ´⌒`ヽ
晋晋 三晋晋晋 * /´ ノj` \、
。.I晋 ◆/・ ・\◆晋 °.* / /ノ \ ) アリラン アリラン アラリヨ
.丶,I◆∠/I I \ゝ◆ソ 。. | ノ ―ヽ ) アリラン峠を越えて行く
I│ . ││´ .│I あきえ. ヽ ( \ ` ´ / i,/ * 。 +
| ノ(__)ヽ .| * 。 ヽ | (__人_) | あそこ、あの山が
I │ I .I 素敵な歌だね \ `ー’ / 白頭山(満州民族・朝鮮民族の霊峰)だが、
i .├─┤ ./ + 。 + ツ)) (((し 冬至師走でも花ばかり咲く
+. \ /  ̄ ヽ,ノ. 心が和むよ / \/ ヽ 。 +
/ . ̄ ̄ ̄ ) / . ̄ ̄ ̄ ) *
/ / | ̄ ̄ ̄ / / | ̄ ̄ ̄ - *
(__/ | | * (__/ | | * 。 _
ヽ、 ヽ / 。 ヽ、 ヽ / 。 +
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~(__人__)~(⌒*☆*⌒)ゝ__)~ ~(__人_(⌒Y⌒)*☆*⌒)(⌒*☆*(⌒Y⌒) .~(__人__
この者は膏薬を調合し、往来の人、在々の者に施して、その対価として銭、又は五穀を貰うことで
飢えをしのぎ身命を繋いでいた。
彼は里の童たちを誘い、薬草を集めると子供に頼って松脂を取り調合の手伝いをさせた。
このため、調合の方法まで子供たちは見習い、自分たちで調合し売り広めるように成った。
この由緒を以て、今でも清見の膏薬は子供の商売となっている。
この膏薬を作り始めた庵主は弟子に跡を譲り、この商売は次第に繁盛して、かつての庵は、今は
寺と成っている。
(渡邊幸庵對書)
こんな今川の遺臣のお話が
能の脇を良くして、役者にも勝っていると、その時代の評判であった。
有る時、法楽の能で船弁慶を勤めた時、白洲の見物の中から「あれでも能の上手か!?」と、声高に
あざ笑う声が聞こえた。左馬介はこれを聞きとがめ、能が済んだ後、これを言った者を引き止めどう言うことか
尋ねた所
「私は船頭ですから、能の事は良く解りませんが、ただし波風の荒い時の船の漕ぎ様は、ああではありません。
艫の押し方、抱え方、間違っています。
またいくら弁慶と言っても、波風の荒い時はあのように船中に立つことは出来ません。」
これを聞いた左馬介は、彼から波風の荒い時に船中で立ち応える方法、並びに船の漕ぎ方を詳しく尋ね、
以降の船弁慶にこの心得を活かした。
左馬介は後に中村靭負と名乗った。何事もこのように、その道の人間に尋ねるべきである。
(渡邊幸庵對書)
船頭(やべえ…)
芸の道と武士のメンツは、違うということか。
↓
役者が真摯に教えを乞うて芸が一段上がる
これ芸能の故事によく出てくるテンプレの流れな
水野勝成が仙石権兵衛配下の際、長曾我部攻めで
水野勝成に兄を射殺された竹崎右衛門が水野勝成に復讐を誓う
その水野勝成が土佐の国に放浪している事を知る。
土佐の村々で一宿一飯の旅をしているらしい。
そして水野勝成を村の相撲大会におびき寄せる事にした。
水野勝成が相撲大会に参加したところを引っ捕らえて兄の仇を討つ計画だったが
いざ水野勝成が相撲大会に参加した際にまさかの褌一丁の姿に驚き
水野勝成を捕らえる好機が無くなった。
相撲大会は無事水野勝成の優勝に終わり、竹崎右衛門の家来まで喝采するが
結局水野勝成は捕らえられた。
その時、竹崎右衛門は水野勝成の前に出て水野に賞品である米一斗を差し出した。
そして水野勝成も竹崎右衛門の前に自分の持って来た米を差し出して「供養にせよ」
と言った。
水野勝成は周辺の村で一宿一飯の恩義で米を集めて供養米を集めてたらしい。
竹崎右衛門は水野勝成に「これからも立派な武将になられませ」と返答した。
ここがよく分からなかったが、泊めて貰ってお土産で米を貰っていたという事か
騙し取ったのかもしれん
どのように調理されるか楽しみだ
『長子を養子に遣わす。私の形見に残し置く』という文を出した。
この長子は名を小西宇右衛門と言い、銀座の家督となり後には江戸に下り、銀座頭を勤め
公儀より五十人扶持を下された。
宇右衛門の子の一人は、は公儀の御医師である小川宗春方へ養子に入り、後に宗春の名を継いだが、
無学にて家業を疎かにしたという。
外戚腹の男子は京の難波屋の養子となったが、これも放埒に金銀を遣い失い、身体を果たした。
しかしそれらの父宇右衛門はさすが行長の子であり器量が有った。当時、芝大仏に茶屋を一軒
借り置いていたが、近所で火事が出た時、彼は家財諸道具一切に構わずかの茶屋へ一家を引き連れ
立ち退いた。その姿を人々は笑ったが、宇右衛門はこう言った
「財宝は求め安い、しかし命は求めがたい。天下を望むのも、生命があってこそだ。」
(渡邊幸庵對書)
タイムリーな
関ケ原にて、井伊兵部少輔(直政)へ永井右近(直勝)が見廻りに参られたところ、
兵部が申されたことには、「内々に思っていたのとは違い、上方衆はぬかっている。
あまり先を取ろうという気遣いがない」とのことであった。
(内々存候と相違上方衆は、ぬかり候中々先を致され可申との気遣なし)
また本多中務少輔(忠勝)の方へ見舞い申されたところ、中務が申されたことには、
「上方衆は先を取ろうとの気遣いがなかったが、この頃の様子を見申すに思いのほか
違って、まばたきの内にも先を取っているように相見える。
左様に御心得なされ」と申された。
(上方衆先を被致可申との気遣無之處此中の様子を見申候に思の外相違瞬目の内にも
先を取り候様に相見え候左様に御心得候へ)
――『日本戦史 関原役補伝(永井直清筆記、武功雑記)』
池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。
ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。
ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。
(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。
――『明君逸事』
* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。
慶長5年(1600)、関ケ原御陣の時、水谷勝俊は関東におり、その子・勝隆は4歳で
京都にいた。この時、石田三成は勝隆を捜索したので、その乳母は勝隆を背負って
摂津国山崎辺りへ逃れた。しかし訴人により小野木縫殿助(重勝)と川勝備後守(秀氏か)
が勝隆を捕らえようとかの地にやって来ると聞き、乳母はまた夜中に勝隆をだき抱えて
山崎のやのうらから小舟に取り乗って八幡の松坊へとやって来た。ところがここにもまた
島津の家人が尋ね来ると風聞したので、東山の麓にある近衛殿(近衛前久)の
龍山の幽居に赴いた。乳母は泣き告げて「これは水谷の児子でございます。君(前久)は
久しく彼の父を御存じでありましょう。どうかこの子の命を御助けください」と言った。
この時、近衛殿は憐れんで20日間、小風呂の中に勝隆を匿いなさった。その後、関ケ原
の凶賊等が敗北したので、勝隆は危険を免れることができたのである。
――『日本戦史 関原役補伝(寛永諸家系図伝)』
織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も
映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな
バチカンの惨状知らんのか?、連中未だにやらかしとるわい。
特に関係なきゃスルーでしょ
森武蔵守(長可)殿の家来に大塚主膳という者がいた。
(跡を継いだ)美作守(忠政)殿が川中島を領知していたとき
主膳の親(丹後守)は高遠城を預かり、在城していた。
主膳は近習として小室(小諸)城にいたが、所用で高遠城へ行った。
高遠城は山城なので、植え込みが山へと続いている。
その夜(主膳が)「囲のくさの間に寝る」と言うと、児小姓共が
「その部屋には化物がいて、寝る者を必ずたぶらかすのです」とささやいた。
主膳は若き者なので「どうして戯言を言うのか」と聞かない。
年老いた者も「入らないで下さい」と再三諫言したが(主膳は)
「左様なことがあるだろうか」と言って、(その部屋で)起きていた。
その夜主膳が横になっていると、得体の知れないものが体に上ってきて
一晩中そのままだったので、息も絶えるような心地になった。
東雲のころ(夜明けごろ)になってから探したが、どこに行ったか分からない。
主膳は無念に思ったがやりようがなく、その日には帰る約束だったが
とにかく他の理由にかこつけて城に留まった。
先の夜と同じく抜身の中脇差を小夜着の下に隠し、小夜着の裾を足に纏い
蹴ってはげるようにして、少しも寝ないで待ち構えた。
子の半刻になる頃には、眠くて仕方がない。
主膳は「化物は間違いなく今来るはずだ」と思うようにして
気を静めて少しも眠らず待ち構えていると、村雨が夥しく振り
風が吹き渡って、木々の梢をひどく鳴らした。
そのとき何かが縁側に上る足音がしたかと思うと、腰障子の掛金を
自力で外し(障子を)さらりと開け、主膳の上にぱっと上った。
そのとき主膳は小夜着を蹴ってはぎ、すぐ(化物を)切った。
(主膳は)化物が飛び退るより早く飛び起きて、障子を閉め掛金を掛け
次の間にいる小姓を起こし「蝋燭を持って来い」と言ったところ
(主膳の)親がその声を聞いて、十文字槍の鞘を抜き手燭を持って来た。
「何物かは分かりませんが、傷を負わせました。先に手燭を入れて下さい」
と主膳が言ったので(親は)障子を細めに開け、手燭を入れてから入った。
脇差に血は付いていたものの、(部屋には)付いていなかったので
この部屋より外には出ていないだろうと探したが、一向に見つからない。
思いがけずあちこち見ていると、見回す者の後ろに猿のような影が
壁に写っていたので、気づかなかった体で取って返し押さえた。
見れば狸であった。
切られた前足を口にくわえ血を吸い、血を下に落とさないようにして
人の陰に付いて回ったのは、畜生と言えども賢き物である。
(この狸が)来るときに村雨が夥しく降ったが、どこにもその様子はなく
飛び石も濡れてはいなかったので、不審千万であったらしい。
(狸は)台所に繋ぎ、四、五日人に見せた後に殺したという。
誠に勢い強く心が強ければ功は成るが、勢いが弱ければ功を遂げにくい。
だからこそ武士は、勇猛の心を日夜朝暮にひたすら願い求めるべきなのだ。
――『功名咄』
>切られた前足を口にくわえ血を吸い、血を下に落とさないようにして
>人の陰に付いて回ったのは、畜生と言えども賢き物である。
怪談なのに妙にリアルだなw
もしかして、後で美味しく頂きました?
そらもう餌断ちして臭みが少し減ったら〆て狸汁よ
<´ 狸じゃ、狸の仕業じゃ! >
⌒ v’⌒ヽr -、_ ,r v’⌒ヽr ‘ ⌒
// // ///:: < _,ノ`’ 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ //
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7 , — 、, — 、 ヽ
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く彡彡 _/\_ ミミミ ヽ
`< ミミ彳ヘ
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早雲寺宗瑞居士と言った。
彼は文武二道に達し、才知抜群の士であった。京都にあった伊勢貞国の外叔父の甥にあたる。
彼の先祖である伊勢伊賀守盛綱は、建武年中等持院殿(足利尊氏)による天下草創の時手越河原の戦いで
討ち死にした。以来代々、京都公方家の御供衆であり、また一族であったので代々伊勢守家伊勢氏と
相親しんでいた。
新九郎盛時は先年、今出川殿(足利義視)のお供をし伊勢に下ったのだが、関東兵乱の久しきを鑑みて、
時運に乗じて我家を興起せんと思ったのか、京には帰らず、駿河国府中の城主である今川義忠という人が、
駿河一国の守護にて盛時の姉聟であったので、これを頼んで新九郎は駿州へ下った。
その頃、隣国との合戦があって義忠は討ち死にし、その家督である五郎氏親はようやく7歳の幼児であり、
国政に関われるはずもなく一族老臣たちが我意に任せ威を争い、様々に分かれて合戦に及んだ。
このような中、新九郎は氏親を助け様々に和議を以てこの騒乱を集収し、終には駿河を平和に治め氏親の
世と成した。氏親はこの忠義に感じ入り、同国興国寺の城に富士郡を副えて新九郎に与えたのである。
(應仁後記)
現在の研究に照らし合わせて、「盛時」の諱なども含めて、相当正しく伊勢新九郎盛時の履歴を描いている應仁後記の記事。
熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。
また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度春元に進められたのだ、と聞き及んでいる。
(安西軍策)
陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話
すいませんこちらの誤字です、元春です。何でここだけ間違えたのか…
原文ママって今何歳なの?尾木ママより高齢だよね?
元忠(鳥居元忠)の茶道(茶坊主)に神崎竹谷という者がいた。すでに伏見城は破れて元忠
最期の時、竹谷は敵の大勢の中に駆け入り散々に切って廻ったが、敵兵は折り重なって
ついに竹谷を生け捕り、石田(三成)に注進した。石田は竹谷を召し出して伏見城の始終を
つぶさに問い、元忠の忠信類なきを聞いて、はなはだこれを感じた。石田は竹谷に向かって、
「新太郎忠政は父の戦死の有様がさぞかし気がかりであろう。汝は急ぎ関東に下って合戦の
次第を忠政に語るのだ」と言うと竹谷の命を助け、あまつさえ伝馬に乗せて東国に送った。
忠政は竹谷の物語りを聞いて亡父の忠死の潔きを知り、討死した家士らの妻子もみな最期の
様子を聞くことができたのである。
――『日本戦史 関原役補伝(鳥居家中興譜)』
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。
このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。
しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元へ
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。
ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された
『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』
こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。
これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。
(安西軍策)
毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。
真田信之「ですよねー」
義信じゃなくて義興だろ
武田信繁「せやろか?」
惟任は長年将軍(信長)の御厚恩によりその身を立て、何度も栄華に誇り
遊楽をほしいままにしてきたので、(信長の)長久を希うべきなのに
故なく相公(信長)を討ち奉って、どうして天罰がないことがあるだろうか。
六月二日に害し奉れば、同十三日には自身の首を刎ねられた。
因果歴然なり。恐るべし恐るべし。
(中略)
秀吉の所生は、元来高貴ではなかった。しかしながら相公は五男の
御次丸(秀勝)を養子として下された。この上は秀吉も同胞合体の侍である。
御葬礼がないなどあってはならない。されども(織田家)歴々の年寄衆は
とりわけ御連枝が多いので、一旦(秀吉は御連枝に)憚って
六月より冬の十月に至るまで、少しの法事も行わないまま過ぎてしまった。
昨日の友は今日の怨讐、昨日の花は今日の塵埃といえど、誰が予期しただろう。
誠に下賤下劣の貧士貧女でさえも、その跡を弔う習いがあるのに
どうして人民の君主にそれがないのだろうか。
今法事をしなくては、千変万化の世間の行く末は測り難い。
よって十月初めより、龍宝山大徳寺でのべ十七日の法会を催した。
(中略)
十五日目の御葬礼の作法は諸人が目を驚かせるばかりであった。
まず棺を金紗金襴で包み、軒の瓔珞、欄干の擬宝珠はみな金銀を集め
八角の柱は丹青を施し、八面の間は紋桐を彩色していた。
沈香(香木の一種)から仏像を彫り出し、棺の中へ納め奉った。
蓮台野(火葬場)は縦横広大に作られており、四門の幕は白綾白緞子
方百二十間の中火屋があり、法経堂のような造りだった。
総廻に埒を結い*1、羽柴小一郎長秀(秀長)が警固大将として
大徳寺より千五百丈の間を、弓矢槍鉄砲を持った警固の武士三万ばかりが
路の左右を守護した。葬礼場には、秀吉分国の人々は言うに及ばず
合体の侍を悉く馳せ集め、そのほか見物の貴賤は雲霞のようだった。
(棺の)御輿の前轅は池田古新(輝政)*2、後轅は羽柴御次丸がこれを担いだ。
御位牌は相公の八男御長丸(信吉)、御太刀は秀吉が不動国行*3を持った。
両脇に連れた三千余りの人は、みな烏帽子藤衣を着用していた。
(中略)
秀吉は御次丸と共に焼香し、十月十五日巳刻に無常の煙となってしまった。
誠にこれが一生の別離の悲しみである。これを嘆かない人がいるだろうか。
特に秀吉は目も開けられない程で、涙を留められなかった。
――『総見院殿追善記』
*1 馬場の周囲に囲いを巡らすこと。
*2 輝政はこの頃秀吉の養子となっており、織田家所縁かつ養子の二人に
信長の棺を担がせる政治的な意図があったとされる。
*3 信長遺愛の太刀。本能寺の変後に明智秀満が安土城から持ち去ったが
敗死ののちに秀吉所有となったとされる。
を思い出しました、ジークジオン
「我らの主君である細川政元は近年物狂わしく、行跡政道粗略である。この人が存命するならば、
当家は必ず滅亡するだろう。また六郎殿(細川澄元)の世とならば、彼に従う三好家は益々権威に誇り、
やがて世を傾けて覆すだろう。であれば、我々は彼らに先立って、政元を弑し奉り、丹波の源九郎御曹司澄之を
細川の家督に立て京兆家を相続して、六郎殿を退け三好党を滅ぼすべきである!」
そう謀反一決し、細川政元の右筆である戸倉という者を語らい置いた。
同六月二十三日、政元は例のごとく愛宕精進潔斎して、沐浴のためとして湯殿へ立ち入った所を、戸倉が
するすると走り寄って政元を刺殺した。時に生年四十二。無残と言うも言葉が足りない。
この時、常々政元の傍を離れず近仕していた波々伯部という小姓の少年が、何も知らず湯帷子を持ってきた所、
戸倉はこれも切りつけた。しかしそれは幸いにも浅手で、後に蘇生して一命を助かり、傷もすぐに癒えた。
さて、細川政元が滅びたことで香西、薬師寺たちは力を得、次は六郎殿(澄元)を討ち取ろうと、同二十四日。
香西又六、同孫六、彦六の兄弟、多勢を引き連れ澄元の館へ押し寄せた。澄元の家臣である三好、高畠といった
人々はこれを予想しており、百々ノ橋を隔てて対峙し、ここを先途と防ぎ戦った。
敵方には政元を殺した戸倉の一陣があり、この部隊が進んできたのを、あの政元の小姓、波々伯部が見つけ
キッと睨んだ
「昨日は負傷させられらが、己は正しく主君の敵である、逃すまじ!」
そう名乗りを上げ散々に突き合い、終に鑓にて戸倉を突き伏せ、その頸を郎党に取らせた。
天晴忠義の若武者かなと、人々はみなこれを褒め称えた。
(應仁後記)
義朝「湯殿はいいぞー」
忠臣蔵?
伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、
政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。
これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に
言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を
捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」
と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を
召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。
しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は
「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。
政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」
と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。
これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。
――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』
さてさて、この伊勢平氏の先祖を申せば桓武天皇第五の皇子・一品葛原の親王第二の御子・高見王の子息・
上総介高望王が初めて平の姓を賜り、子孫は平氏として武家に下る。清盛の一門がすなわちこれなり。
(中略)
尊氏公愁嘆の時節、尊氏公はある夜に、当家の先祖がことごとく平家を滅ぼしなさったゆえにその報いが
たちまち来たりて子孫長命ならず。されば、世に名のある平氏を召し寄せて国家の政事を執り行わせれば、
子息長命なるべし、との夢を見て目を覚ました。
尊氏公は喜びなさり天下の平氏を尋ねられ、伊勢守盛継に優る者なしとして盛継を近臣とされた。その後、
若君誕生の時に盛継は蟇目の役を勤められ、それより若君の繁昌があったとして御名付親とされた。以来、
公方代々はかの例に任せて、御子誕生の時は必ず伊勢守の家より御名を付けたということである。
(中略)
されば伊勢守の家は管領家にも劣らず出世し奉った。
さて、尊氏将軍より八代の孫を義政将軍といって慈照院東山殿と号した。初め御子のいらっしゃらぬ時に
御弟・浄土寺の義尋を還俗せしめて養子として左馬頭義視と名を改めて今出川殿と号し、天下を譲るとの
契約あって細川勝元を義視の執事となされた。その後、義政の御台所(日野富子)が男子を産みなさり、
公方相続の旨を山名宗全に仰せ付けられた。これにより細川と山名は大いに異論が起きて天下は乱れた。
世に“応仁の乱”というのはこれである。その頃、伊勢守貞親は政事を執行していた。貞親の弟・伊勢
備中守貞藤はかの乱の時に山名入道と深い知音であったゆえ、細川右京大夫勝元は貞藤を憎み公方へ
讒言したため、貞藤はひそかに花の御所を忍び出て伊勢国へ下った。義視公も御身の上を気がかりに思し
召して北畠の中納言教具を御頼みになって伊勢へ御下向された。この時に貞藤の子息・新九郎長氏も、
もとより今出川殿が御還俗の以前より御馴染みであったゆえにかの地へ参り、今出川殿へ見参したのだが、
あくまで御旅亭であるから、むやみにいつまでそこにいるべきかとなった。伊豆国には義政公の御弟・
政知公がいらっしゃった。そのうえ親族もいたから新九郎は関東へ下ろうと思い立ち伊勢大神宮へ参って
弓矢の冥加を祈念したところ不思議の霊夢を蒙った。そしてひとつの神符を求めたところ、
「諸願成就、子孫繁昌疑いなし」とあったので新九郎は大いに喜んだ。
――『北条五代記』
北条五代記もやっぱり早雲は伊勢氏出身としていますね。
その隙きを伺って、その夜子の刻ばかり(0時頃)に、盗賊たちが殿中に忍び入り、御重宝を奪い取った。
酔臥していた当番の面々は油断しておりこれに気が付かず、盗賊共は安々と、将軍の寝所へと侵入した。
しかしこれに気がついた義稙は少しも騒がず、寝間着の小袖だけを召し、太刀を抜いて夜盗の輩を即時に4人
切り伏せた。しかしながらこの時、自身も9ヶ所の手傷を負ったという。別の説には手傷は7ヶ所であったという。
観阿弥という同朋が盗賊の手引きをしたと言うが、何れにしても非常に危険な事件であり、天運に叶われていた
故では有るが、天晴武勇の行動であると、人々はみな感じ入った。
この傷は治療され程なく平癒し、同12月19日、表御所へ出御あり、大名小名はこぞって太刀、馬などを
献上して各々参賀し、その祝儀は非常に盛り上がった。
また禁中よりもこの時、従二位に任じられた。
(應仁後記)
剣豪公方は義輝だけではないのだぞ
カッコイイ!
観阿弥って茶坊主とかでよくある名前なんだろうか、いろんな人の逸話でよく見るような気がするが
勘気を受けて殺されたり、他の家士と揉めて殺されてやった方が出奔したり、そんな役回りで登場する名前
彼に裏切られて追放された元将軍の足利義材
10年以上の流浪の末、将軍に返り咲く
創作にはうってつけ
歩いていった。或る時、近習衆へこの事について仰られた。
「私が道悪しき場所で馬より降りるのは、大坪流極意の一伝であるぞ。
まあ総じて、少し危ういと思うような場所では馬には乗らぬものだ。
もしその身が大身で、乗り換えの馬も引かせているのならともかく、今一頭の馬を乗り歩いている
小身侍などは、ずいぶん馬の脚をかばうべきだ。馬に乗れば乗ることばかりを心得、少しも
これを労る心が無く、その足を損じさせて、「ここは馬に乗らなければならない」という場所で
乗れぬようになってしまえば、それは散々のことだ。よく心得ておくべきだ。」
(駿河土産)
さすがは稀代の吝嗇家
ケチだのなんだのが絡むのか?
吝嗇の話じゃないのは一目瞭然だが、ボケに対してもうちょっと愛嬌のあるツッコミが欲しかった
笑って流してやれよw
そもそもシャレになってないしな
無知と無恥を兼ね備えるヤツは書き込んじゃ駄目だわ
難しい字知ってるねえ
高度な技術に頼って無意味なリスクを冒すのは
メリットがないからやめろという教え
紀伊国を拝領仰せつかった。
その頃、後藤庄三郎熊野に参拝し、その後江戸表へ下った。
この後藤庄三郎に徳川家康は聞いた「その方は先ごろ熊野山に行ったが、その帰りに紀伊国へ
見舞いに行ったか?」
「はい、上意の如く和歌山の城下に10日あまり逗留いたしました。」
「ふむ…。逗留中、紀伊守(浅野幸長)は、何かお主への馳走を申し付けたか?」
「紀伊の川と申して、吉野、高野の麓より流れ落ちる大河がありました。この川に船で出ると、
そのお供をいたしました。網を下ろし魚を取らせている所を見物しました。
その後山鷹野に行かれる時も私も同行いたしましたが、これは殊の外目覚ましき見ものでありました。
しかし、その山鷹野で私には合点の参らない事がありました。」
「それは何か?」
「はい、その時は雉や山鳥、その他鹿ムジナの類まで物数多く獲れまして、定めて幸長様のご機嫌は
良いだろうと考えていたのですが、実際には大いに腹を立てておられ、列卒の奉行を始め、その他役懸りの
者達は散々な目に遭っていました。
そしてまた一度山鷹野がありましたが、この時は何も獲れず、殊の外獲物となる動物も少なく、きっと
幸長様は不機嫌であろうと思ったのですが、実際には一段と機嫌よく、諸役人たちに「骨を折り大義である」
などと声をかけ、褒美まで与えていたのです。」
これを聞いて家康は笑いだした
「それはその方たちが合点できないはずだ。紀伊守はそうしていたか。まこと山鷹野のいうものには、
獲物の多少は関係ないのだ。」
そう仰せに成ったという。
(駿河土産)
では山鷹野は何を目的にやってるんですかね?
大漁だったのは家臣が自作自演で用意してたのかな?
少なかった時はガチだったので機嫌が良かったとか。
役人たちが獲物を集めてきて放ったのかなと思った
無知と無恥を理解して書き込もうなw
獲物が多い→うわーざっこwつまんねーおもんねー→不機嫌
獲物が少ない→タマ当たんねー逃げるのうめーやり甲斐あるわw→上機嫌
これを聞いた家康は
「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」
そう仰せに成った。しかしこれを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、御前に居た永井左近が
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、
「その方なども知るように、先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。この時大阪からの道中を佐竹義宣が警護して
上がった。その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、その道中において大名たちが語らって
彼を討ち果たすとの風聞があった、そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』と、
道中に目付け物聞きを置き、何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を
救援すると、上下とも軍装のまま待機していたという。となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。
その後関ヶ原の一戦の時も、大阪方にも我々にも付かず、心底がわからず訝しいと思い、しかし
そのままには置いておけなかった。もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、朝熊も
先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、残念な事であった。
人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、律儀すぎると、
事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」
そう仰られた。
(駿河土産)
自分も律義者と言われていた家康の考える律儀No.1は佐竹義宣なのね
朝熊って伊勢のだよね?ここが先祖代々の領地ってどういうことなの?
大大名が登場するわけで、徳川にとって危険極まりないわけだが…
単純に軍役倍って事だから、豊臣政権ってホントエグいと思う。
無役16万石が設定されたから倍にゃなってない
島津の時もそうだけど検地の打出し分で大名の蔵入りを増やすのが主目的だしね
関ケ原後に川井事件とか、お家騒動やらかしているしねい。
佐竹って小田原後、豊臣大名になってから中央集権化にやっと取りかかれて、
関ケ原後に転封されてからが改革の本番という感じだったから、
まだ家内統制取れていない段階で、しかも転封されずに大封になったら、
いったいどんなことになるやら…
関ヶ原後に転封なし加増ありで大封というと前田氏、最上氏、伊達氏くらいかな
その後を見てると結局は運次第かねぇ
基本、どれも田舎の藩だなぁ。
加藤
まあ突っつくなら配下の徳川氏とかか
あそこは将軍家に憚ることなく徳川を名乗り続けたよね
異性交際禁止してた城で逢い引きしてた男女がそれ見付かって軍律違反で処刑されたあと、
その男女の幽霊が出るって噂がたったことに怒った城主が「そいつらの幽霊を見たら化けてでてくるなんて情けないやつらだ」って言ってやれと命令したとたん幽霊騒ぎは収まった
みたいなエピソードのこの城主は誰だっけ?有名武将だったきがするんだが
あれこれ違う気はするけど鍋島直茂にそんな話があったような…
まさに鍋島直茂だった、ありがとうございます
武蔵国岩槻に置かれた。
増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。
冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと
「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」
これだけを言い、何の咎めも無かった。
夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。
親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。
(駿河土産)
以下は関ヶ原の戦いの後、池田輝政の祖母・養徳院が
戦勝を祝う書状と贈り物を送ったことに対する家康の返書の意訳。
お手紙および贈り物を二品お送りいただき、祝着に存じます。
お聞きの通り、天下を取り鎮めました(原文:てんかとりしつめ候)。
三左衛門殿(池田輝政)も一段とご心労があったことでしょう。
何にせよめでたいのは、重ね重ね申される通りでございます。
めでたくかしく
やうとく院(養徳院) 内ふ(家康)
――『林原美術館所蔵池田家文書19号』
前田と一緒で保身に走ったコウモリ野郎
改易されて何の影響力もないんだから捨て置かれて当然
子・義氏を取り立てて葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じさせ“鎌倉公方”と号した。
伝え聞くところによると氏康の先祖は常に絵島明神を祈ったということであった。
浅井久政は曰く「人は必ず貧乏の時によく仏神の心に叶う。神もまたこれを憐れむのである。
富貴の時でも貧を忘れてはならない」と言ったということである。
――『浅井日記』
はじめ謙信の御母君は受胎の折に夢幻ともなく、この際に8尺ほどの男が金色の甲冑を
帯びて矛を付き、光明光り輝く珠を持って現れた。男は曰く、
「我は毘沙門天王なり。この珠は明星なり」と仰せになって、母君の懐に珠を投げ入れ
なさった。これを見てより母君は懐妊したのである。
それから10ヶ月の間に様々な奇異の瑞相が多く、筮者が占うと甚だ吉だった。本卦は
天沢履の六三に当たった。その文に曰く、
「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」
(過信から虎の尾を踏み虎に食われる。よって凶なり。卑しき武人が高貴な大君になる
ようなものである)
これに因んで幼名を“虎千代”と号した。虎千代殿はやがて成長して大きな志を持った。
見識と度量は世に優れ、孝行慈愛は寛大にして自然と仁心を備えた。
特に父母に孝行であったので、世の人はこぞって「凡人ではない」と言った。
――『北越太平記』
そのうえ、諸国の御代官所より当地までの運送の際の欠損も甚だ多かった。
そこで勘定方の者達より
「江戸の御蔵米の棟数を減らし、産地の近くで保管するか販売すれば、随分の徳と成ります。」
そう申し上げた所、家康は以ての外に機嫌を悪くして言った
「蔵の数が多いため欠米なども多く、私の損になっているという事は、かねてより知っていた。
しかしながら万一の事が起こり、諸国の新穀の、当地への運送が難しくなる、という事もあるだろう。
そのような時は米の値段も高騰し、諸方より集まっている江戸の人々が食料に難儀する事態も
考えられる。そういった時に米の放出が出来るように、江戸に米蔵を多く設置したのだ。
勘定方の者達は、今や天下の勘定頭とも呼ばれている。そういった者達がこんな事を、私のためだと
言い聞かせるような事が有って良いものか!?」
そう、殊の外叱ったという。
(駿河土産)
家康的にこういう損は許容範囲なんだな
足りないという噂が出るだけで米価が上がって大騒動になりかねないし。
その代わり在庫に被害も出なかったけどね
障害者割引なくして2倍取ってもまだ不良債権だな
御年未だ15歳の御若冠であったが才徳が豊かで慈悲深く、その上理非分明にて御学業も怠らず、
このような名君が表れたのは天下の悦びであると、人々は皆、乱世の愁眉を開いた。
父である公方家義政公はこの年、諸国御治世についての政道を皆、新将軍家へ譲り渡し、大変喜んだ
様子であった。それより義政は隠居し、東山慈照寺の院内に東求堂を造らせ、ここに閑居されたため、
当時の人々は皆、彼を東山殿と呼んだ。
この東山殿は御若冠の頃より天性遊興、美麗の事を好まれ、芸能数寄の嗜みは世に超えており、
萬に結構を尽くさせたが、御隠居の後も累代の奇物、和漢の名器を収集し、茶の湯の会を催され、
世事雑用より逃れられ、ただ老楽の御楽しみにて月日を送られていた。
(中略)
同年秋7月、義尚より近代博覧の君子と聞こえる一条禅定殿下兼良公へ、天下を治める政道の事について
記すべきと御懇望あり、殿下は御辞退叶わず一巻の書を著し、新将軍家へ呈進された。
今の『樵談治要』がこれである。
(應仁後記)
足利義尚の将軍就任と足利義政の隠居のことなど
信濃・越中・越後において戦功はもっとも多かった。
特に寺泊・椎谷の一戦では大いに勝利を得られ、積年の戦功によって天文4年(1535)
6月13日、後奈良院(後奈良天皇)より綸旨ならびに御旗を賜った。
およそ為景は一生の間に諸国所々において百回余りの合戦を行い、他に類を聞かずという。
この時の御旗は今に至って上杉家の重宝として相伝わる。
為景は歌人でもあり、後奈良院に一巻を奏覧した。その中に次の一首あり。
「蒼海の 有とはしらて 苗代の 水の底にも 蛙なくなり」
後奈良院はこの一首に叡感なされたという。
――『北越太平記』
この時主上(正親町天皇)より、「今度凶徒たやすく退治せしむるの條、尤神妙」の旨叡慮あり。
三位の中将に叙せらるべきと、三条大納言を勅使として仰せくだされた。
信忠は勅使に向かって申し上げた
「厳かの旨、誠に生涯の面目と申すべきことです。であればこのように申すのは恐れ多いのですが、
昇殿の義を軽く御請いたす事には恐れあるべしと。愚夫(信長)より制せられております。
それゆえ安土の父に尋ね伺い、その上を以てご返事をしたいと存じています。如何お思いでしょうか。」
勅使は「それ迄には及ばぬことです。」と申したが、「問わなくては勅答も如何」と
再三申し上げたため、大納言は帰参して、この様子を奏上すると、主上も
「武勇智謀有る上に、謙徳をも守り、父の命を重んずる事のいみじさ、このような人物にこそ。」
と、君も臣も感じ入った。
さて、信忠より信長に飛脚を以ってお尋ね有るに、翌日未明に帰った。この返書を開いて見ると
『今度古兵の松永を早速に退治せしめる事、最勲功の至りである。然らばはや勅諚に従い奉って、
三位の中将に任ぜらるべき。』
そう書かれていたため、信忠は昇殿された。目出度いことである。
そしてお供の人々は過半が一両日も前に先立った後、同17日に、僅かに小姓ばかりを召し連れ
安土にお出であって、信長に御礼申され、そこから岐阜へと下った。
(甫庵信長記)
織田信忠三位中将任官のお話
歳暮の御礼を申し上げた。棒物(歳暮の御礼の贈り物)の類の夥しさは、限りもないほどであった。
明ければ天正6年正月の早旦、信長より諸侯大夫へ御茶を下されると兼ねて仰せが有ったため、
寅の刻(朝4時頃)より登城された。その面々は、まず三位中将信忠卿、羽柴筑前守秀吉、
二位法印(武井夕庵)、長岡兵部太夫(細川藤孝)、林佐渡守(秀貞)、長谷川丹波守(与次?)
惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、滝川左近将監(一益)荒木摂津守(村重)、市橋九左衛門尉、
長谷川入道宗仁、以上11名であった。
お座敷の構は、六畳敷に四尺の縁、床には彼岸の絵、中に万歳大海、右に松島、左に三日月。
花の水差し、周光茶碗、うば口の釜、竹筒の花入れといったものであった。
信長は自身で迎えに出られ、座敷へ招き入れた。そして手づから配膳された。
この座の衆の中には後に、あまりの事に何を食べても、一切物の味の記憶が無いと言った人もいたとか。
御茶過ぎて、その日出仕した者達へは、諸大夫までは三献の土器(かわらけ)を、福富平左衛門尉、
矢部善七郎、大津伝十郎、大塚又一郎らの御酌にて下された。
平侍以下にはお通り(お通し)が出された。
翌日、大名小名尽く召されて「殿守見参らせよ」と、名物の茶器をかれこれと御見せになり、
南蛮、大明、珍奇の茶の子、数を尽くして下され、その後こう言われた
「各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に、この山が成就した事は、誠に珍重余りある。」
そう再三に仰せに成ったため、諸侯大夫は皆、感動に首を地に付け御返事を申し上げる者も無かった。
同じく4日に、信長より信忠へ贈られた数寄道具が、万見仙千代(重元)の所で御開きになったが、
羽柴秀吉、武井夕庵、宮内法印(松井友閑)、林秀貞、滝川一益、長谷川与次、市橋九郎左衛門尉、
丹羽長秀、長谷川宗仁、以上9人を召されて、終日丁寧のおもてなし、誠に善尽くし美を尽くされた。
(甫庵信長記)
この時は「お前たちが頑張ってくれたおかげだ!」って言ってるのに、何故甲斐征伐の時「我々も頑張ったかいがありました」
って言った光秀はあんな目に…
仕事を頼まれる時と、仕事をこなした後で
上司の腰の低さが変わるのはブラックあるある。
上司『工程ミスったんで、しばらくサビ残よろしく』
部下達『…』
上司『俺のミスだから晩飯奢るし…取敢ずやって』
後日
部下達『やっと終わったけど、上のミスでサビ残とかきついよねw』
上司『会社批判か?こ○すぞ!?』
光秀は対武田において何か貢献してたか?
おべっか使うような家臣は折檻されて当然だろ
そういう人物にありがちなステレオタイプの性格だったんだろう
仕事ができても人間性終わってるやつは今も昔もごまんといる
そのため昼夜天下一統の事業のため暇なく、士の賞罰、国の安否、おおよそそういった物ばかりで
心安らぐこともなかった。
しかし、多くの場合己の功に誇って、古き事などは嘲り要らぬことと思うのが世の常であるのに、
信長は古き政に心をかけられ、それを知る者には様々に尋ねた。これは絶えてしまったものを継ぎ、
廃れたものを興そうという心からであった。
中でも、右筆である二位法印(武井夕庵)には特に尋ねること多く、夕庵も事に触れて信長を諌めた。
或る時、夕庵が申し上げた
「朝廷の節会が久しく廃絶して、中老以下の者では礼楽の事名も知らず、勿論見聞など夢にも
経験がなく、哀れにもその様になって十年あまりも過ぎたため、我が朝の礼楽は跡形もない
有様です。
国家を治めるには礼楽の正しきを以てする事、和漢の流例であり、哀れにも浅ましいことです。」
こうしめやかに語った所、信長がそれを痛ましく思う表情は、涙もさらに咽び顔であった。
上下万民を一子として天下を慰撫したいと二六時中励んでいるその耳に、どうしてその言葉が留まらない
事があるだろうか
「直ぐにお前たちで対策を計るように。そういった事は誰に問えば良いのか?」
「何と言っても、禁中伺候の老者たちでしょう。」
そこで誰彼と人の薦めるにまかせて問いただし「先ず何から初めて興行すべきか」と
詳細を求め、菅屋久右衛門尉(長頼)、武井夕庵を以て夫々改めた。
節会、あるいは謡物などにおいて、中老以下の諸卿殿上人も、まるで今はじめて稽古するようで、
大変趣深かった。
このようであったので、貴賤おしなべて、この右府信長公は末世において稀なる大将であると
誰言うと無く諷した。
(甫庵信長記)
古を尊び旧来のものを復興する事に熱心な信長
意外と皇室を大事にしてるんだよね~。
なぜかそのイメージが信長についちゃっているんだよなぁ。
国学者の書いた創作の文ではないか?
朝廷が間に入れば両家の和睦ができたんじゃねえかと思う。
池田輝政が姫路に入国した際、横河次太夫*は船大将として召し抱えられ
高砂城の築城に際し、巨石を運んだ功があったという。
大坂の陣のときには、輝政の三男で13歳の忠雄の家臣となっていた。
さて、そのときの横河次太夫の水主に高濱十兵衛という人がいた。
この人は元は相撲取りで鉄砧と名乗っていたが、世に優れる大力の持ち主で
あるとき播州の海岸で喧嘩があった際、仲裁し和談をすすめた十兵衛に対して
逆に大勢が掴みかかってきたのを、十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
振り回し、蜘蛛の子を散らすように退散させたことがあったという。
その頃横河次太夫は高砂に住んでいたが、次太夫も相撲好きであった。
それを知った十兵衛が次太夫を尋ねて来たので、次太夫の方も十兵衛を歓迎し
十兵衛は次太夫のところで逗留することになった。
その内に大坂へ出陣する風聞が立ったので、十兵衛が同道したい旨を次太夫に
頼んできたので、水主として次太夫に付いていくことになった。
池田忠雄は、薄田隼人(兼相)が守る博労淵(伯楽淵)の砦を攻めることになった。
隼人はその日神崎の娼婦の家に泊まり込んでいたため、砦を守る兵達も勝手に
知り合いがいる陣屋に行ってしまい、砦には四、五十人程しかいなかった。
蜂須賀至鎮の手勢がまず先に夜討ちを仕掛け、火花を散らして戦ったので
砦の者達の中で犬死を恐れる者がおり、本城へと引き取っていった。
蜂須賀勢も砦を押さえる程ではなく、一旦引き返してくるのと入れ違いで
横河次太夫は川を渡り、向こう岸に着いたと同時に陸に上がった。
夜討ちのときは物が多く落ちているので、逃げ散った者達が戻らぬ隙に
次太夫はなんでもいいから分捕ろうと槍を引っさげて、陣小屋と陣小屋の間を
進んだが城中には一人もいなかった。
実はその頃、本城へと引き取っていった者が三、四十人ほど連れ帰ってきたが
夜は既に白んできており、小屋より上に備前の船印(池田忠継勢)が見えたため
一人も進んでいく者はなく、本城の加勢を頼みに再度退却したという。
次太夫は”一人もやっていない”と言いながら、三、四町ほど追いかけたとか。
さて高濱十兵衛は槍を持たず刀だけ持って、味方の後を少し遅れて付いてきたが
後ろの葦原の中から”やらぬぞ”と声がし、槍で突きかかられた。
十兵衛はそれに気づいて引き返し、突いてきた槍の白刃を左手で引っ掴み
右手で白刃を握り直し手前に引き寄せると、大力の十兵衛に引っ張られて
相手が前の方へうつ伏せでべったり倒れたので、片手討ちにしたという。
そこへ敵を追うのを諦めた次太夫が帰ってきたので、十兵衛はこの旨を告げ
「我は新参の無名の者なので、自分の功には出来ません」
と次太夫に首をあげて辞退しようとしたところ、次太夫は
「その方の働きにて討ち取った敵の首を、次太夫が討ったことには出来ない。
十兵衛が首を取って、その方の功名にしなさい」
と言ったので、十兵衛が手をかけてその首を取ったという。
>十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
>振り回し、
宮本武蔵より強そう( ゚Д゚)
今日戦った証になるだろうと、敵の帯びた刀脇差を分捕り本陣へと引き取った。
この次第を申し上げたところ、心馳せの働きをしたことには変わりなく
大御所様への御奉公の証拠になるので、住吉の御本陣で言上するようにと
言われたので、首を高濱十兵衛に持たせ横河次太夫が遣わされることとなった。
大御所様がこの首をご覧になると
「よく討った、これは平子主膳めの首である」
と上意があった。
この平子主膳という者は、年若き頃より大御所様に恨まれるようなことをし
お憎みが深い者だったので、兼ねてからその行方を尋ねられていた者だったが
此度大坂に籠城して、十兵衛の手にかかり討たれたという。
老いても世に聞こえる大剛の者で、容易く十兵衛に討たれるような者ではないが
急な夜討ちで味方が逃げるのに遅れ、息を切らして葦原に伏していたところ
物音を聞いてガバっと起き上がり、槍を引っさげて十兵衛に声をかけたのだろう。
戦い疲れた老武者が、足が弱って引き倒されたことこそ、運の尽きであった、と。
このときに良正院様(督姫)の御女中から、横河次太夫に御感状が出たが
良正院様は御子様の御初陣に、御家人どもに功名させたいと思われていたので
程なくして大御所様へもその功を仰せあげられたという。
御姫様の御頼みなので、家中では敵の番船を乗っ取った箕浦勘右衛門と共に
次太夫も、大御所様から感状を下されたという。
十兵衛が平子主膳を討ち取ったこともお尋ねになり、事細かに上聞に達したものの
無名の者なので功名にはならず、次太夫の功名になったという。
しかし十兵衛は真実平子主膳を討ち取ったということで、御直参に召し出され
御知行五百石取りになり、子孫も御家中(鳥取藩)では知らぬ者はいないのである。
――『雪窓夜話』