関ヶ原合戦の真実おしえます -日本史スレ-
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part7 [無断転載禁止]©2ch.net
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1489755617/
>>14
裏切り者の中に筑前中納言(小早川秀秋)、わき坂中書(脇坂安治)、小河土佐父子(小川祐忠・祐滋)の名前はあるけど
赤座直保、朽木元綱の名前がないのは何故だろう?
裏切りが認められず、所領を没収されたっていうのなら小川が入っているから当てはまらないしな
その二人に関しては、そもそも関ヶ原にいなかった説がなかったっけ?
関ヶ原合戦の真実 Part6
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1477565218/
関ヶ原合戦の真実 Part5
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1474112000/
関ヶ原合戦の真実 Part4
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470915006/
関ヶ原合戦の真実 Part3
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1464347783/
関ヶ原合戦の真実 Part2
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1453807317/
関ヶ原合戦の真実
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1430516022/
白峰 旬 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4863669283
関ヶ原合戦にはよく知られたおなじみのエピソードが多い。
しかしそれを歴史的に検証するとどうなのか?
本書では一次史料を用い、小早川秀秋への「問鉄砲」はフィクションであり、
小早川秀秋は開戦と同時に裏切り石田三成方は瞬時に敗北したこと、
家康の小山評定は歴史的事実とは言えないことなどが、次々に検証されていく。
生駒利豊書状の真に迫る白兵戦のすさまじい描写、細川忠隆の首注文史料の数字が語る実戦の具体性も
本書の見どころである。
【序章】関ヶ原合戦はどう語られてきたのか―江戸時代に誕生した関ヶ原合戦像?
【第一章】関ヶ原合戦当日の虚像を剥ぐ?
【第二章】関ヶ原合戦以前の通説を正す
【第三章】小早川秀秋を裏切らせた「問鉄砲」はフィクションである
【第四章】『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない?
【終 章】すりかえられた天下取りの戦い
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた
ソース
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05213.pdf?file_id=5363
関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170930-00190643-toyo-bus_all
関ヶ原の戦い「最も不運な武将」は誰だったか
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171014-00191937-toyo-bus_all
関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170916-00187790-toyo-bus_all
戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171229-00201966-toyo-bus_all
遺言覚書
一、内符
利家
輝元
景勝
秀家
此五人江被仰出通口上、付縁辺之儀互可被申合事、
一、内府三年御在京事 付用所有之時ハ中納言御下候事
一、奉行共五人之内徳善院・長束大両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事、内符惣様御留守居候事、
一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、
一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事
以上
八月五日
一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼樣を
孫むこになされ候之間、秀頼樣を御取立候て給候へと、被成 御意候、
大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、
一 大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀頼樣
御もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所にて、
度々被成 御意候事、
一 江戸中納言殿ハ 秀頼樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、
御煩氣にも御成候者、内府のごとく、秀頼樣之儀、被付御肝煎候へと、
右之衆居申所にて、被付 御意候事、
一 羽柴肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替
秀頼樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身ニ替り肝を煎可申と被 仰出、
則中納言ニなされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、役儀をも拾万石被成御候事、
一 備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、秀頼樣之儀ハ御遁有間敷候條、
御奉行五人にも御成候へ、又おとな五人之内へも御入候て、諸職おとなしく、
贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、
一 景勝、輝元御事ハ、御りちきに候之間、秀頼樣之儀御取立候て給候へと、
輝元へハ直ニ被成 御意候、景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置候事、
一 年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさやの躰にて罷出、
双方へ令異見、入魂之樣ニ可仕候、若不屆仁有之而きり候ハゝ、おいはらとも可存候、
又ハ 上樣へきられ候とも可存と、其外ハつらをはられ、さうりをなおし候共、
上樣へと存知、秀頼樣之儀 大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、
一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を取候而、
秀頼樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事、
一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意候事、
一 伏見ニハ内府御座候て、諸職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハ德善院、長束大藏仕、
何時も内府てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、
一 大坂ハ 秀頼樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、
御城御番之儀ハ、爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、
御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成御意候事、
右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、
一 伏見御城本丸・西丸之間ニ御番可仕之由、及両度ニ雖申理候、無御納得候事、
一 秀頼様 御為、可然儀ニおひてハ各御相談次第と安国寺へ申候事、
一 安国寺御留之事、
一 伏見・大坂之しまり之事、
一 増右より参候書状、小摂へ遣申候事、
一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀頼様御側へ可致堪忍存候事、
一 同名中務太夫(島津豊久)、爰元へ召留候事、
一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、
去廿一日に両度之御使札、同廿七日於江佐に到来、令拝見候
一、右之両札之内、御使者持参之書に相添覚書幷御使者口上得心事
一、先以今度意趣、兼而御知も不申儀、御腹立無余儀候、然共内府在大坂中、
諸侍之心いかにも難計に付而、言発儀遠慮仕畢、就中貴殿御事迚
公儀無御疎略御身上に候間、世間如此上者、争ととこほり可在之哉、
いつれも隠密之節も申入候ても、世上不成立に付ては、御一人御得心候ても無専儀と存思慮、
但今は後悔候、御存分無余儀候、然共其段も、も志や不入事に候、千言万句申候ても、
太閤様御懇意不被亡思食、只今之御奉公所希候事
一、上方之趣、大方御使者見聞候、先以各御内儀かた大形少馳走被申候
可御心安候、増右、長大、徳善も同前に候、我等儀者、使者如披見候、
漸昨日伏見迄罷上躰に候、重而大坂御宿所へも人を進之候而御馳走可申候事
一、今度上方より東へ出陣之衆、上方之様子被承、悉帰陣候、然者於尾・濃令人留、
帰陣之衆一人一人之所存、永々之儀、秀頼様へ無疎略究仕、帰国候様に相と候事
一、大略無別条、各々無二之覚悟に相見候間、御仕置に手間入儀無之候
一、長岡越中之儀、太閤様御逝去巳後、彼仁を徒党之致大将、国乱令雑意本人に候間、
即丹後国へ人数差遣、彼居城乗取、親父幽斎在城へ押寄、二の丸迄討破り候之処、
命計赦免之儀、禁中へ付而御侘事申候間、一命之儀被差宥、彼国平均に相済、御仕置半候事
一、当暮、来春之間、関東為御仕置可被差遣候、仍九州、中国、南海、山陽道の人数、
既八月中を限、先江州に陣取幷来兵糧米先々へ可被差送之御仕置之事
一、羽肥前儀も 対 公儀毛頭無疎意覚悟に候、雖然老母江戸へ遣候間、
内府へ無疎略分之躰に先いたし候間、連々、公儀如在不存候条、
各御得心候て給候へとの申され分に候事
一、ヶ条を以蒙仰候処、是又御使者に返答候、又此方より条目を以申儀、
此御使者口上に御得心肝要候事
一、自此方三人使者遣候、右内一人は貴老返事次第案内者そへられ、此方へ返可被下候、
残弐人は会津へ之書状共遣候条、其方より慥かなるもの御そへ候て、ぬまた越に会津被遣候て可有候、
御在所迄返事持来帰候者、又其方より案内者一人御そへ候て上着待申候事
一、豆州、左衛門尉殿、以別帋雖可申入候、貴殿御心得候て可被仰達候、
委曲御使者可被申伸候
恐惶謹言 七月晦日 三成
真房州
御報
殊更今度景勝可被相果段、不謂儀に候間、種々理申候へ共、無同心下向、如此之上、
秀頼様可被取立、非所行候之間、各申談、守御置目、秀頼様御馳走之為可申、上方之儀一篇に相固、
御仕置申付、関東へ罷立候衆も妻子人質於大坂相究候間、不可有異儀候歟、勿論上方在京在国之衆は、
何様にも、秀頼様へ御忠節可申上由、無二之覚悟に候、就之伏見之城在番に関東二千計在之間、
即時に諸手より乗崩、大将鳥居彦右衛門始候て、一人も残討果候、誠以天罰与申事に候、
次丹後之事、羽柴越中兄弟余多在之内、一人秀頼様へ御目見をも申させす、悉召連関東へ罷立候、
其上御忠節も無之に、新知召置候段、不相届儀候間、人数を遣城々何も請取、田辺之城町二ノ丸焼崩押詰仕寄候て、
堀際迄責詰候、落居不可有程候、其表之儀堅固の被仰付、秀頼様への御忠節此時候、
左候者各々被相談、御外聞も可然様に可申談候、恐々謹言
八月二日 長大正家
増右長盛
石治三成
徳善玄以
芸中輝元
備中秀家
真田安房守殿 御宿所
及矛楯候、関東之儀も伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守、景勝申合、色を立候に付而、
則八州無正躰事候、上方より罷立候衆も、妻子人質於大坂相究候故、是又懇望候、
就其越中方之事、大勢兄弟之内、一人秀頼様へ御目廻をも申させす、悉関東へ罷立、
其上何之忠節も無之、新知召置候儀、不相届に付而、丹後之事城々悉請取、田辺一城町二ノ丸まで令放火、責詰仕寄申付候、
落居不可有程候、貴諸之事、太閤様別而被懸、御目、知行等まで被下候間、秀頼様へ御忠節可在之義候、
於様子者太田美作守方へ申渡候て差下候、其郡之事、速可被明渡候、何かと候ては不可然候、恐々謹言
八月四日 長大正家
増右長盛
石治三成
徳善玄以
松佐 御宿所
一、此飛脚早々ぬまた越に会津へ御通し候て可給候、自然ぬまた、会津之間に他領候て六かしき儀在之候共、
人数立候て成共、そくたくに成共、御馳走候て御通しあるへく候
一、先書にも如被申候、貴殿事早々小室、ふかせ、川中嶋、すわの儀、貴殿へ被仰付候間、
急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事
一、とかく物主共城々へ不罷帰御才覚肝要に候事
一、会津へも早々関東表へ御行被仰談、行に可被及之由申遣候、貴殿よりも御入魂候て、可被仰遣候事
一、従越後も無二に秀頼様へ御奉公可申旨、申越候間、妻子も上方に在之事候条、偽も在之ましく候、
羽肥前儀、母江戸へ遣故候か、未むさとしたる返事候、剰無二に上方へ御奉公と申羽柴五郎左へ
手前へ人数を出候間、自越後越中へ人数可被出申越候、定相違有間敷候事
一、関東へ下上方勢、漸尾三内へ上り、御理半に候、それそれに承候儀究候て相済候事
一、先書にも申候伏見之儀、内府為留主居、鳥居彦右衛門尉、松平主殿、内藤弥次右衛門父子、
千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、当月朔日午刻、無理に四方より乗込、
一人も不残討果候、大将鳥居首は御鉄砲頭すすき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、
やきうちにいたし候、鳥居彦右衛門尉は石垣をつたい、にけ候よし、誠かやうなる儀、
即座に乗崩候段、人間之わさにて無之と各申合候事
一、先書にも申候丹後之儀、一国平均に申付候、幽斎儀者一命をたすけ、高野之住居之分に相済申候、
長岡越中妻子は人質に可召置之由申候処、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、
大坂の家に火をかけ相果候事
一、備之人数書、為御披見進之候、此方之儀可御心安候、此節其方之儀、公儀有御奉公、
国数可有御拝領儀、天之あたふる儀候間、御由断在之間敷候事
一、拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人数出候、福島左太只今御理申半に候、於相済者、
三州表へ可打出候、もし於不済者、清洲へ勢州口一所に成候て、可及行候、
猶言事可申承候、恐々謹言
八月五日 三成
真田房州
同 豆州
同 左衛門介殿
人々御中
鳥居彦右が石垣を伝って逃げたというのは、本とかでもみた事がないが
どうだったんだろう
一、度々爰元之様子、其地之儀申越候、未無参着候哉、只今の御書中無御心元候事
一、羽久太儀、何様にも秀頼様次第と度々到来候間、羽柴肥前老母幷家老之人質、江戸へ遣取、
未御事請不申、剰加州小松表へ人数を出なとと風説候条、急度越中へ乱入可在之旨度々申遣候、定而早々被面へ可及行候事
一、石玄番事は大坂に妻子其上兄弟在之事候間、致推量に公儀慮外難成身上候間、石備前を以巨細申候き、定而別条在之間敷歟難計事
一、羽右近事、定而兎角に内府儀無二に可存候、新知拝領候、其上上方に妻子一人ならて無之、兎角貴所より早々可被及御行事
一、石玄事も済候へは能候、不済候はは、是又其方より可被御行候、越後より之道明候へは、会津へ之通用共に自由候事
一、信州之儀は不及申、甲州迄も貴所御仕置可在之旨、輝元をはしめ各被申候事候、
拙□より能申候へとの事、此段先書に申候、早々人をも御拘候て、方々へ之御仕置此時候、
拙子儀しかと濃州に在陣候、長大勢州に在陣候、此口之儀、家康ほとの者十人上り候共可御心安候
討果候より外他事不可在之候、今度関東へ罷立めんめん、尾、三州の間に集居候て、懇望申族も候、
又江戸にて人質をしめられ、致迷惑族も在之事候、味方説に申候哉らん、家康急度上るなとと申成候由候、
あわれ上り候へかしと念願迄候事
一、兎角早々会津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被迎合候、不及申候へ共、
国ならひにて物のそかどを申方□候間、如此御入魂上は、少々出入りはいらぬ事候間、
物やわらかに、彼方気に入候様に被仰越、御入眼此時候事
一、先書にも如申、伏見之城、家康留守居鳥居彦右衛門をはしめ七頭歟千八百余残置候処、
此時宜候間、関東へ明退候へと申候へ共、りくつ申候間、去朔日四方より乗入、
一人も不残討果候、鳥彦右首は御鉄砲頭鈴木孫三郎討捕候、此間、御殿中雑人はらふみけがし候間、
不残焼払候、大坂の儀も西之丸に人数五六百ほと残置候を追出、伏見へ追入、輝元被入替候、
是又伏見にて同然に討果候、伏見にて各手を砕乗崩候、九州なとの衆別而手柄を被仕候、
大坂には増右被居候、輝元も在城候、伏見にも六七千にて、掃除、普請以下申付候、
然間京都、大坂静に候、勢州江安国寺、吉川壱万余召連、長大同道にて罷越候、尾、濃へは拙子罷越候、
島津其外九州衆佐和山へ被参候、人数入次第、尾、濃之間へ可打出候、丹後之事はや一円平均に申付候、
幽斎事可被成敗に義定候処、自 叡慮色々被 仰出、命之事相助、九州中流罪之躰候、則諸方へ之備書立進入候、
此備書立之内に在之面々□、無二 秀頼様可抽忠節覚悟候、せいしにまて相究候、此外先手に在之衆、
書此立に不乗衆も可在之候、右之段先書に雖申候、不相届候哉、又申入候、恐々謹言
八月十日 石治少三成
真田安房守殿
同左衛門尉殿 御報
敵である家康はともかく、輝元も官名ではなく諱呼び捨てなのか
松平和泉守宛石川長門・彦坂小刑部書状
早々御飛脚本望存候、其様子則御耳に立申候、然者去十四日赤坂に被成御着、十五日巳之刻関ヶ原へ指懸被為及一戦、
治部少輔、島津兵庫頭、小西、備前中納言十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、関ヶ原へ一所に打寄申候つる
此地之衆幷井兵又福嶋殿、為先手其外悉打続く、敵切所を抱有所へ指懸、とりむすひ候刻、筑前中納言、
わき坂中書、小河土佐父子、此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討に無際限うちとり申候、
大将分は大谷刑部少輔、嶋左近、島津中務、戸田武蔵平塚因幡此外討取り申候へ共、先人之存候衆は此分に候条、
打捨はなをかき候て捨申候間、誰を討捕申候も、然々と不被不存、又十六日に佐和山へ指懸とりまき候て、
田中兵部水の手をとり、本丸へ押懸申候へは石田杢父子、治部少輔しうと父子、同治部おや、妻子一人も不残きりころし、
てんしゅに火を懸、悉焼払落城仕候、其刻城より三百人ほと取○、手前へ罷出候処を一人も不残うちとり申候、
皆々小姓共まて高名いたし候間、可御心安候、治部少補は十五日之合戦場より行かた于今聞へ不申候、
将又安国寺をは吉川、ふく原両人思食にからめ出し申候、輝元御訴詔被申候由候へ共、如何可有か不被存候
猶替儀候者追々可申入候、恐々謹言
九月十七日 石川長門
彦坂小刑部
松平和泉守殿へ
>十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、
>関ヶ原へ一所に打寄申候つる
この部分だけど、2点疑問があって、まずひとつは、外曲輪を焼き払うということは
少なくともしばらく、というか当分は大垣には戻ってこない作戦行動をとるつもりだということだと
思うんだがどうだろう?
一日くらいで戻ってくるつもりなら焼き払ったりはしないよね?兵の配置場所がなくなっちゃうから。
大垣を出て関ヶ原に行った目的は東軍の迎撃か小早川秀秋の撃滅かはわからんけど、
いずれにせよ一度防衛線を関ヶ原に下げるつもりだったんじゃないだろうか。
南宮山部隊をどうするつもりだったかはわからんが。
もうひとつは、夜5つは20時頃だよね? 当日の天候って小雨か雨だったよね?
雨降ってるのに焼き払えるんだろうか?
湿った木なんて全然燃えにくいと思うが。
ただ、栗原山の長曾我部陣の篝火を頼りに行軍したというなら、
篝火がついてるくらいなら外曲輪も燃えないことはない?
それか「焼き払う」というのは便宜上の文字なだけで、
実際は「破却しただけ」ということなのか。
ちょっとこの2点が疑問に思った。
焼いたのはある種の目くらましや決意の表明だと思う。
家康は依然として大垣城を
攻略する姿勢を示していたし。
だから雨で消えてもさほど問題なかった。
少しでも東軍をまどわせればよかったから。
>十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、
だけど、これ西軍が自ら焼き払ったのか、水野勝成が町口に放火したのと
別件なのか混同なのかどっちだろ?
自焼でしょう
「今十五日午刻、於濃州山中及一戦、備前中納言、島津、小西、石治部人衆悉討捕候」
帖佐彦左衛門宗辰覚書
「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」
大重平六覚書
「石田殿、一時もこたえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」
舜旧記
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田(福島か)、長岡越中、加藤左馬助、合戦之由、
□大□(谷か)之勢、敗北大谷刑部少輔打死、余(金か)吾殿依叛逆也、巳刻也」
当代記
「関ヶ原には石田治部浮田中納言大谷刑部島津兵庫小西摂津守将陣の処に、
金吾中納言内府公属味方之間、敵敗北、数百討取」
十六・七世紀イエズス会日本報告集
「(戦闘が)始まったと思う間もなく、これまで奉行たち(西軍)の味方と考えられていた
何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」
「こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」
近衛信尹宛近衛前久書状
「青野カ原ニテノ合戦ニテ候。即時ニ切立得大利候。
番ヒニ金吾手ヲカヘサレ候。其太刀場ニテ、大谷刑部討死候テ、其マヽキリ崩候」
吉川広家自筆書状案
「山中之儀、即時被乗崩、悉被討果候、嶋津などゑり勢三千にて、
随分一合戦ハ可仕之由候つれ共、中々馬を被入不相成候て其身一騎のりぬけ伊勢地を被退候」
「一昨日十五日内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候
この頃の関ヶ原関連本だと戦場として山中の地名はよく目にするけど
近衛信尹宛の近衛前久書状にある青野カ原ってどの辺?
このくらいまで埋めれば大丈夫なのかな?
ありがとう!
徳川の与力だった昌幸だって彦右が足悪いの知っているだろうに
見え透いた嘘を書く三成の書状を昌幸はどう思ったのか
まあ昌幸も小細工が好きな人間だから案外共感したかも知れないが
コンスタントに名前出だすのは対島津から
福島正則なんかは山崎の戦いや小牧・長久手の戦いも活躍してるよ。加藤清正も。加藤清正は関ヶ原本戦は不参加だけど。賤ヶ岳七本槍は山崎の戦いや小牧・長久手の戦いに従軍して秀吉から恩賞貰ってる。
真実はakm動物園にあるぜ(^^)
しごいてドピュ理(^ν^)
シゴいてドピュ理(^ν^)
こすってドピュ理(^ν^)
こすってドピュ理^ ^
書状の相手である真田は勿論、前田とかも諱避けているしな
真田は諱で表記される程偉くないし
その説初めて聞いたんで詳しく?
基本的に、忌み名ってのは親か主君みたいな絶対的な目上の人意外は無礼だったと思うんだけど?
家臣に感状を出す時とか、恩賞与える時とか、官位を貰う時ぐらいだよね?忌み名が出る時って。
秀吉が武家を官位や清華成や公家成などの家格で統制する、いわゆる武家の公卿化の過程でそうなったのかな
今は諱の使用は基本無礼だけど一周回って最上位になりうるという話
垂井、関ヶ原の大部分を領地としている竹中が
西軍から東軍に寝返った事による影響って
今まであまり取り上げられた本無かったから
考えさせられたな
相変わらず関ヶ原関連本はよく出るな
呉座氏の陰謀の日本史でも関ヶ原に触れてたし
呉座さんはどんなこと書いているんだ?
竹中氏の居城
テレビドラマ「二人の軍師」とかで
出てきたよな
あっと驚く奇策をひょうひょうと実践して、あとは知らん、勝手にどうぞみたいな作戦とってたかも
陣地とか砦とか作れないだろうから、寝返った際に
それらに関する情報が東軍に筒抜けになった可能性がある訳か
それは長政も籠絡しようとするわな
三成や吉継、輝元、秀家等の威厳や人望のなさが原因でいいのか
人心コントロールがうまかったこともあるだろうが、豊臣側で勝手に崩壊してったんでしょ
裏切りが多数なことを見ると、よほど駄目だと味方に思わせる要因があったのか、東軍の調略がよほど上手かったのか
正統派というのは裏を返せば豊臣の不満を背負う立場でもあるからね
秀次事件や朝鮮出兵などの不満は全て西軍が背負う立場であり
東軍は余計なものを一切背負う必要がなく奸臣三成を謀反人として処刑すると言うだけの有利な立場だった
西軍自体まるであてにならない存在だわな
・奉行(毛利)が想像以上に嫌われてた
・西軍は豊臣御為を掲げていたが、諸将はとっくに豊臣を見限ってた
東軍勝利を思想的なものだけに限定して考えるとこの3つだけど。
単にそこに居ただけの存在だよな
そりゃ誰もついてこないわな
>単にそこに居ただけの存在だよな
九州・四国・近畿に派兵したり蜂須賀・生駒領を接収したり紀伊半島沿岸部で強略したりと毛利は大車輪で動いていたぞ
関ヶ原で西軍が勝っていれば西日本に大毛利帝国が出現していたところだ
東の小田原征伐の時もわざわざ水軍を派兵したり京の留守居をしているし
秀吉死後の体制は徳川・前田の二頭体制だったとはよく言われているが、
本来ならこれに毛利を加えた三頭体制にしてもいい位だと思う。
隆景が長生きしてその補佐付きの毛利なら徳川前田と並ぶところに持っていっただろう
輝元&広家じゃあねえ・・・
まあ知ってたけど、秀吉は本当に個人の技量重視だよな。
そんな秀吉がいざ自分が死ぬ時は「秀頼のこと、お頼み申す」なんて
どれほどの器量かもわからん秀頼を盛り立てろって言うんだから皮肉なもんだ。
そう考えると関ヶ原で家康が勝つのはある意味当然だな。あの時点で政権で一番優秀なのどう見ても家康だし。
足もとすくわれる要素はあちこち有ったわけで、綱渡り状態
だから家康本隊は中山道で待機温存(真田に邪魔さて動けなかったという言い訳)させてたわけで
福島も加藤も前田も信用はしてなかっただろう
裏切り者は続出するは、味方の戦意は低いはで
愚痴極まりない書状を出す状況に陥った三成と
事態の急変に戸惑い、江戸に留まり慎重に物事を進めていたら
自分の送った使者の言動に味方が予期せぬ暴走をしたため
慌てて西上する羽目に陥った家康
結果が想定以上の可能性はあるけど
『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった
一次資料が伝える“通説を根底から覆す”真実とは』
乃至 政彦 著
高橋 陽介 著
戦場は「山中」だった説だろうね
読んだけどおもしろかったよ。
西軍のバラバラっぷりが泣ける。
安国寺恵ケイ
石田三成
吉川広家
この三人がそれぞれ勝手に動いて
連携もしないし
そりゃ負けるよな、って内容だった。
西軍本部の総指揮が増田長盛だったり、南宮山の大将が恵瓊と正家だったり
島津の家康本陣の突撃がなかったり、三成が西軍に吉継を誘ったんじゃなくて
吉継が三成を西軍に誘ったんじゃないかとか、興味深かったな
一番面白い関ケ原の戦い本だと思う。
白峰や矢部みたく西軍寄りの内容かなと思ったが
そうでも無かったな
レビューにコメントしてる
ナナズハ 1か月前
「資料の文字を捻じ曲がった解釈と妄想を膨らませて奇説をとなえただけの代物」とのことだが、
どこがどう捻じ曲がった解釈で妄想なのか、少しは具体的に書いてくれないとレビューとして全く参考にできない。
他の肯定的レビューはある程度本の内容に具体的に触れてるので、素人はあっちを参考にするよね。私怨で☆一つのレビュー書く人もいるからね。
はどうみても著者が書いてるよな!?
「素人はあっちを参考にするよね」って、お前は素人じゃないのかと著者に言ってやりたい!
筆者かどうかしらんけどもその否定的レビューは344が書いてるよな!?
そっちでやれ(´д`)
そんな冷たいこと言うなよ
発売当初は良い評価ばかりだったし、イイ値段の本だからさぞかし立派なものだろうと読んだら
まともなのは光成準治の著書とかから拾ってきたものだけで
著者が独自に書いたところは、あきらかに歴史資料の扱いが間違っていて
家康と淀殿の再婚を阻むため暗躍とか、西軍が挙兵直後に降伏とか意味不明なことばかり書いてあるクソ本だったんだよ
レビューしたら、9割がた著者と思われるコメントが来てビックリさ!
どうみても著者目線で書いてあるし…
やっぱ、研究者じゃない人の本を買うのはよくないね
岐阜が即陥落した上に、家康が関ヶ原に到着して、大津が東軍方として挙兵。
その上松尾山を小早川が突然占拠なんて状態で慌てるなってのが無茶だと思う。
家康に付けば領地と立場が安泰となるなら家康側に付くでしょ
三成側に付くメリットが無い
家康は豊臣家臣団の内部抗争に便乗してうまく天下とったよな
家康以上の人物が関ヶ原の時点で誰も居なかったんだよな
なるべくしてなったから戦国三英傑なんだろな
俺は家康嫌いだが
結果を知ってるから言えるんだろ
一方的、と簡単に言ってはダメだよ
家康が徹底的に調略して足場かためた上での関ヶ原だから
間抜けな西軍のような行き当たりばったりではない
本当に家康につけば地位も領土も安泰なら、そもそも戦にまでならずに三成を捕縛して終わってるのでは?
毛利輝元が乗って来なきゃ三成捕縛で終わってただろうね
上杉は背後の最上や伊達をなんとかして関東に注力できる状態にしないと
残された結城秀康の軍勢を突破できるかどうかも怪しいからね
上杉が家康の背後を襲うなら佐竹の全面協力くらいないときつい
確かに結果を知ってるから言えるけど三成も大したもんだと評価してる
歴史は勝者の都合の良い様に書き換えられるが三成は奸賊とは江戸時代になってないよね
徳川光圀も言ってる 三成の子供は命はとられなかったし三成の孫(津軽信義)は津軽藩主だから三成の血統に対して幕府はかなり寛大だったとは思う
それだけ石田三成が立派だったんだと思うよ
石田家に対しては厳しくなかったのかもしれないけど、
豊臣家を裏切った加藤家福島家に対してはむちゃくちゃ厳しかったな。
そもそも三成が西軍で重きをなしていなかったからだよ
何故か西軍といえば三成みたいになっちゃってるけど
>三成は奸賊とは江戸時代になってないよね
それは三成に限らずな
結果的に三成のおかげで徳川の天下になったんだし
子孫に徳川に対抗するほどの影響力も実力もないから族滅までするには及ばないと考えたのかもな
三成の息子? 誰よ? 重家は大坂城に人質だったし 弟重成も大坂城だが…
よく勘違いされているが、石田家の家督を持っているのは兄の正澄であって三成ではない
秀吉も石田家当主を正澄として扱い、通字の正を名乗らせた上で正澄のみ豊臣姓を下賜している
だから三成が石田家の家督を譲ることは兄を殺さない限りできない
そういやそうだ
三成は石田家継げなかったから外にだされてたんだっけ
家康は三河一向一揆に加わった連中なんて生かしちゃおかんだろ
例外は孕石元泰くらいなもんだ
まだ戦国の気風が残ってるような時代なら本人に功名が有るとか将来性があるとかで見込みがあれば
出自や前歴に多少瑕があっても出仕の道はあるもんよ
自滅らしいけど
お家騒動起こっても大名として存続してる家も多数あるのに、加藤福島は厳しかったよね。
加藤は家中の内紛が酷すぎて幕府の介入があっても収まらないし、
福島は幕府の不問条件を無視して秀忠っがキレた
既に正純が昔日の権力がないことを二人して知らず、2人ともはめられたという考えもある
それでも家光への代替わりで将軍幕府ともピリピリしてるとこに謀反ごっこという
後世から見ても内容タイミングとも潰されて当然じゃねと言った感じ
毛利、島津はなんとしてもつぶしておくべきだったのは260年後に証明されてしまった
どうだろうね
島津や毛利を潰していても結局は他の藩が代わりを務めているんじゃないかな?
下手したら身内の水戸とか
毛利がいなかったら明治維新は遅かったと思うよ。
あそこの藩はがむしゃらに倒幕活動してたから。
毛利は幕末までは大人しいもんだったよ
そりゃ主張できる立場じゃないしね
徳川弱体化まで身動き出来るような立場ではないわけで。
アナゴ飯がどうとか、それは現代の評価基準
第二次長州征伐は凄かった。
山口県 対 日本全国
守るだけかと思ったら、小倉城占領、浜田城占領だからな。
幕府側にまともに戦おうとする藩がろくにおらんかったしね
内ゲバや報復人事による粛清の連続
長州もそうだけど、こんなことやってる藩が大半だったんじゃないの?
篤姫なんかもそう
西国にも出兵した等から大坂にはたいして兵いなさそうだな
大津にも1万くらいいたぞ
統合失調症は、矛盾しているらしい
玄以も残っていたはず。玄以は所領安堵で長盛は改易だけど
ただ長盛の家系は嫡男は大坂の陣で豊臣に加勢して戦死だけど
その弟の家系が存続したんだっけか
積極的な印象があるな
黒田や細川、池田や蜂須賀、田中や加藤嘉明とかより上なわけだが
動員兵力はそれなりでも指揮するのが増田や三成じゃ豚に真珠もいいとこ
もっとも兵に真珠が居たわけでもないが
あの時点で残り少なかったから、どうかな。
なんで立花宗茂はあの堅固な柳川城で籠城して島津義弘の援軍を待たなかったのかな ちゃっかり島津攻めの先鋒してるし この辺詳しい人居るかな?
美談はねつ造レベルで作られるので
ただし義久は兵を出さない
だから大坂を退去した後に家康に謝罪の使者を派遣している
でも勝ち目のない敵に攻められたからってすぐ降参するのは武士の名折れだから
とりあえず抗戦して頃合を見計らって和議に応じたって形
島津義弘に投降を呼びかけるかもしれないか
ifは無いが関ヶ原本戦よりも地方の戦いのが楽しかったりする
(あとで復活するけど)
それは三成に対して投げかけることだろ
親を三成にでも殺されたのか?
むしろ何でそこまで三成に過剰に反応するのか
親に三成は神様だと教え込まれて育ったのか?
やること為すこと
批判の余地は十分ある人物だし
151を読んだ上で批判の余地とかwww
アンチが沸かないほうがおかしい
まことの誹謗中傷は的を得ていなく、オレ様の書き込みが
ただ、気に入らない感があった
三成が叩かれるのは当然だろう
無能と言われて当たり前
増田に宛てた書状を見ると行き詰まると思い切り愚痴っぽくなるとか
人間らしくていいと思えるところもあるが
愚痴るか八つ当たりするほか無くなるんだよ
できることが全く違ってくるから嫌だったんじゃない
忠義を取るか、
だよね。
家康に勝てば家も忠義も両立する。
だからこそ家康も会津征伐が豊臣を守る忠義になることを決めるのに
秀頼の許可を取ったり朝廷に届け出たりして配慮を欠かさなかった
それなのに三成が何が豊臣を守る忠義になるのかを自分が決められるという態度を取れば
これは忠義とは名ばかりの天下人宣言になってしまう
三成は忠義を取ったつもりで豊臣簒奪を取ってしまった
これでは三成が負けて滅亡するのも仕方がない
知将と呼ばれるだけの実績はないし、義将と呼ばれるほど
関ヶ原は豊臣のために戦ったとは思えん
家康を除けば、結果として豊臣家は永らえる
同意。
軍事的能力は皆目無かったけど、秀吉に対する忠義は本物だったんだろう。
タカ派の家康が勝ったのだから政治をする場合、新たに幕府を作って構造を変えないといけない
五奉行の政治を否定したんだから
そもそも五奉行はあくまで官僚であって政治を担当するわけじゃない
秀吉から執政権を与えられているのは家康であって
五奉行は官僚として補佐するように命じられたに過ぎない
三成たちが欲をかいて家康を排除して自分たちで政治権力を握ろうと企てて
豊臣政権もろとも自爆しただけだ
誇らしげに誤字してるような低脳が、人の忠義を語るとかw
三成は自分が豊臣政権ナンバー2、秀吉死後は自分が一番というプライドが誰よりも高かったからでしょ
良くも悪くも三成のエゴの強さが関ヶ原を作ると同時に西軍の敗北も作ったわけだし
こういう断定しちゃう奴って、どんな妄想世界で生きてるんだろうか。
三成は忠義を尽くすために戦ったと断定しちゃう奴の方が
妄想の世界で生きていると言えるんじゃないの?
仮に西軍勝利で終わり戦後処理の為西軍首脳で会議をするとします。
席次的に1が総大将の毛利輝元、2が上杉景勝、3が宇喜多秀家、その次ぐらいで初めて
三成が検討されるくらいの立場ですね。
まあ、会議には呼ばれるだろうけど、大体ナンバー5ぐらいでしかない。
秀吉死後の政局の家康と並ぶもう一方の主役だし
すこしは豊臣のことを考えてみたらあんな愚挙にはでない
だから、まことは、それを認められなかった
輝元も坂西の儀任せられたと自負していたみたいだけど
輝元の場合それを裏打ちする国力があったし
恩賞って大義名分で領地削られたって奴だね。
まあ、昔からよくある話でね。
春秋戦国の三晋なんか典型、元々は六卿の勢力が強大で公室が弱いくらいだったんだけど。
分家の祁氏や羊舌氏を六卿に滅ばされ、更に范氏と中行氏を残りの四氏が滅ぼし分割、公室に
領地返還するの筋だから晋君が怒り逆に四氏に追い出される。
最大勢力の智氏はまるごと乗っ取るつもりだから、更に晋君を建て残りの韓魏趙を圧拍。
晋陽の闘いで逆転され、智氏は滅亡残りの三氏は晋君の都の絳と曲沃のみ残して分割。
これで、韓、魏、趙が事実上独立、晋君は飾りにとかね。
実質、豊臣家西軍なのに旗本を動員してないの馬鹿だよね。
関ヶ原の戦いが有名すぎるけど本能寺の変と清須会議以後の織田弾正家(つまり三法師)も蔵入地が三万石まで削られてる。
それに比べたら65万石も残してもらえただけまだかわいい方だよ。
1、小早川が松尾山占拠して裏切りが確定した。
2、すると大谷隊が危ないから夜8時頃に石田や宇喜多勢は大垣城の廓を焼き払って
夜通しで大谷を助けに出発。
3、その動きを察した福島隊や黒田隊が後を追う。
(代わりに家康が福島黒田が居た場所に移動して大垣城や毛利勢に対峙する)
4、朝8時位に「山中」という場所に付いた西軍が陣を張ろうとしてる所へ福島らが討ちかかる。
それを松尾山で見ていた小早川も
大谷隊の背後から討ちかかる。
5、西軍パニクって2時間くらいで決着。
こんな流れだったかな。
一次資料には
「佐和山への二重引きをする覚悟」
とだけ書かれていて、白峰氏も二重引きの意味はわからない、とする。
しかし結果的にその動きが敗北につながった。
小早川が松尾山を抑えたのはGJだったようだ。
関ヶ原研究では既に一世代前の人
指摘は面白い
笹尾山の石田三成陣所は無かったのは歴史家の総意なの?
瞬殺説はどなったのかね
輝元らは世襲で社長に
実力ゼロではないが
ただその白峰説も不完全で流動的だから議論が深まっていく事を期待する。
一方で通説の論拠になっている史料の精査がもっと必要な気がする。
白峰の問鉄砲についてアプローチのように紐解いて整理する必要がある。
通説をなかった事にして一次資料で議論すると言うのはあまりに無理がある。
この点を指摘すると多くの論者は見て見ぬふりをする
何故、大谷が危ないからといって
大垣城を捨てたのが最大の謎だなぁ。
大谷を大垣城に迎えるんじゃダメだったのか。
後方を遮断されるのが不味いってことじゃね?
で、不用意に動いて捕捉され、やむなく決戦になるが短時間で敗北
堂々と会戦したにしては一方の負けっぷりがひどすぎるし
わたしもそう思う。東軍は既に垂井周辺は押さえているわけで、
これに東軍の疑いが強い小早川秀秋が松尾山を占拠した。
この状況下で、小早川単独、あるいは赤坂の東軍と合流して山中村の大谷らが攻撃されれば
高確率で大谷らは壊滅し、松尾山及び山中村、垂井のライン、そして東軍が笹尾山方面の
北国街道も押さえれば
大垣の西軍は間道か伊勢経由でしか近江に行けなくなる。
そうなる前に小早川秀秋を叩いて脅威を除こうとしたらその動きが東軍にばれて
会戦(遭遇戦)になってしまった、あたりかな?
単にいままで信じてきた説を
否定されるのが嫌なだけの人。
自分で資料調べたわけでもないのに
通説と違う説はほとんど
トンデモとかで片付けて自分が正義かのように振りまく人。
そこに松尾山に小早川秀秋が入った事で松尾山・垂井が連携して孤立した山中を攻撃する体制が
できたと同時に赤坂に徳川家康が入って戦力バランスが大きく変わった。
大垣城を水攻めにされて身動きが取れなくなる事を恐れたのと山中の後詰をする事を目的として
西軍は大垣城から山中方面へ戦線を後退させようとした。
だが赤坂に徳川家康の大軍がいて大垣城や南宮山付近にも戦力を分散せざるを得なくなり
結果的に各個撃破されてしまったと言う流れだと妄想する。
小早川も東軍
東軍に偏重しただけの戦
小早川が裏切って松尾山陣取った事が
三成周辺にしか伝わらず、
三成は他の西軍勢に連絡なしに
仲良し勢と小早川撃退に大垣城を出た。っていうのがなんともはや…。
しかもそれが西軍内でも撤退に見られて
士気激減とかもうね。
小早川撃退ってまるでカープ戦みたいな書き方だw
西軍には北別府やら衣笠やらもいるのかw
逆目に出たってことか
そもそも戦争屋じゃないしな
南宮山の指揮が秀元や広家でなく恵瓊と正家だったとしたなら
毛利は名ばかり大将として自分たちのブランドを一方的に利用されていたということになる
これでは嫌気がさして離反するのも仕方がないだろう
西軍の不甲斐なさを嘆いて
戦う気が失せてたみたいだね。
小早川も
利長や忠興、黒田長政、浅野親子、政宗達と反家康の血盟をしたが、その連中が
揃って東軍に属しているのが何とも言えないね
改易されたのおまえの息子だけやでって教えてあげたい
それを当時の朝廷や世論、豊臣家などが
認めていたかどうかは、別問題だよな
クーデター首謀者
勝てば新支配者
味方したくなるw
打撃を前田に教えて貰わなきゃならん方は
小早川家の末裔を名乗ってたよーな
維新後に毛利宗家から人を入れて再興した方じゃね?
その小早川家は毛利公爵家から分家した子孫だと思う。
ちなみに、毛利秀元の祖母(元就の側室)は小早川家分家出身で、現在の小早川家は秀元の女系子孫なので、小早川の血は流れている。
オススメの資料とかある?
戦い後のどのへんかによる。
とりあえず通史系の本で関ヶ原~大阪の陣辺りはいくらでもあるので、そのへん何冊か読んでみてはどうか
直後の逸話?が知りたい
大谷の陣で評定したとか、秀秋が佐和山攻めたとか
そんな話
毛利が大阪城を退去する話とか、九州でのその後とか
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33982.html
何が私欲かなんて簡単に判断できることではないよ
奸臣を討伐して乱れた天下を統一するというのは私欲にあたらないし
奉行に返り咲くためなら何でもするというのは私欲以外の何物でもない
お前が三成叩きたさの余りに、簡単に私欲と判断してるじゃないかw
今回は誤字はないな。
重要性が低下したと判断したということ
以後は関ヶ原や佐和山が焦点となる
それでとめられない大谷大戦犯
家康じゃなくて、輝元の方だったらしいし
本当は輝元が犯人だったけど三成を首謀者に
表舞台から外されて
家康を潰して来いって言われたのか
ツマンネーヨ!
それ微妙に違う。実は大谷は首謀メンバーで、大谷が石田を説得して西軍に引き入れたと。
根拠をいくつか挙げてたがどれも弱い。
個人的には挙兵の計画は以前からあって、その首謀メンバーには輝元も入っていたとは思う。
でなければ広島からの迅速な上坂は説明がつかない。
その首謀メンバーは、石田、長束、恵瓊(輝元)、宇喜多あたりではないかなと。
西軍のそれとわかる具体的行動って石田正澄による関所封鎖が最初だよね?
いつから決起計画があったのかは定かじゃないけど
首謀者でないにしてもかなり早い段階で三成参加してたんじゃないの
クーデターが成功しないから宇喜多・毛利に事前に根回しをしたと考えるのが自然だと思う。
宇喜多・毛利が参加する事が決起の条件だったのではないかと思う。
真田宛の書状の内容とかに違和感を感じるな
本当は輝元が犯人だったけど三成を首謀者に
表舞台から外されて
家康を潰して来いって言われたのか
それで輝元が潰してこいっていうのは
合戦じゃなくって思い切ってやれって意味か
輝元「落ちません!」
\どっ/
それでも自分が全滅するまで殺し合いに応じるというのは、むしろ少数派だ
そもそも関ヶ原の時点で生き残っている大名というのは東西とも全員が
信長や秀吉に対してそれをやらなかった連中なんだから
毛利も上杉も口先だけで殲滅戦争をやろうなどとは思ってもいない
問題は石田や大谷といった吏僚たちが武士としての常識に欠けていたことだろう
内府ちかひの条々を真に受けて、どちらかが全滅するまで続く殲滅戦争をやるんだと思い込み
制御不能の暴走状態に陥った
毛利が言葉のあやも分からず暴走する石田や大谷にびびって手を引いたのも仕方がなかった
もしだれかが単独で挙兵しても勝算なんてまったくないよね?
例えば、石田が挙兵しても佐和山籠城して終わりでしょ?なんの意味もない。
あらかじめ挙兵計画(内容、タイミング、手順等)を首謀メンバーで計画しておかなければ
家康に不満を持っていたとしても、突然挙兵されて「いっしょにどうよ?」といわれても
普通は真田昌幸のように「なぜ事前に相談してくれなかった?」と戸惑うのが当然。
なんの準備もしていないのだから。
しかし西軍は輝元の大坂入城まで実にスムーズに行ってる。
普通はいきなり挙兵して「いっしょに挙兵どうよ?」って言われても困る。
その点増田は「石田、大谷挙兵」と、家康に通報してるので首謀メンバーではなかった可能性が
高いように思う。
まぁ負けた時用に保険掛けてただけかもしれんが、もしそうなら挙兵の奇襲効果を低減させる愚策。
たしかに一定の説得力はあるね。
上杉征伐に参加するわけでもない輝元や宇喜多の大軍が大坂に押し寄せるには
なにかしらの理由が必要だった。
そこで、石田と大谷が挙兵した、ということにした。
それに対応するため毛利、宇喜多が大坂に兵を派遣する、と。
同時に増田が家康に石田、大谷挙兵と通報した。
で、大坂を占拠したのち、実は毛利、宇喜多、奉行も反家康の挙兵でした、と。
というか小早川秀秋って上杉征伐に参加予定だった?
あれも大坂あたりになぜかいたよね?
慶長5年7月15日付上杉景勝宛島津義弘だと
「輝元・秀家を始、大坂御老衆・小西・大刑少・治部少被仰談、(中略)、拙者も其通候」
てなってるな。
増田・前田・長束連名の輝元上坂要請が7/12
輝元出陣が7/15、
内府違いの条々発出が7/17、
輝元の大坂入城が7/19だから、
7/15付け書状に中核メンバーとして名前の出てくる
「毛利輝元、宇喜多秀家、前田玄以、増田長盛、長束正家、小西行長、大谷吉継、石田三成、島津義弘」
が事前謀議に参加してた「計画首謀者」で良いと思う。
島津なんて大老でも奉行でもないどころか豊臣恩顧でもない
秀吉に逆らって戦をしてきた仇敵外様でしょ
そんな奴が計画首謀者として大老・奉行と並ぶ中核メンバーになれるなら徳川を排除する大義名分がなくなるよな
三成たちの好き嫌いや権勢を振るうための個人的都合で排除か中核かを決めて言いわけがない
真実追求にそれらのことは一切関係ない。
島津義弘についてはたしかに7月15日時点では西軍に誘われ西軍に与したと思うんだが
それ以前の計画メンバーとしてはどうだろう?
もしそれ以前の計画メンバーであったのなら、手勢が800~1000なんてことはなく、
もっと早い時期に国許から兵を送る手配をしているんじゃないだろうか?
でなければ「みっともないのでもっと兵を送ってくれ」なんていう催促を何度も国許に
したりはしないように思うが。
たしかに庄内の乱の影響があった可能性は多分にあるが、これほどの計画ならば
兵が必要という認識があったと思う。
考えられるとしたら、島津は家全体ではなくあくまで義弘一派のみが協力していたパターンかな。
もしくは、当初は島津家全体で協力するつもりだったが、庄内の乱発生によって
御家立て直し優先派と関ヶ原に参加しよう派に意見が分裂してしまった可能性も。
義久は小西の要請に応じて忠長らを派遣して清正方を攻めてるから
島津全体としても立ち位置は明確に西軍側なはずだけどね。
まぁその派遣軍も大した数じゃ無かったみたいだし
やっぱ財政的な余裕が無かったか、薩摩>中央政局な感覚だったんじゃ無いかな。
或いはまだ生きてた伊集院忠真を警戒して動きたくなかったか。
表舞台から外されて
家康を潰して来いって言われた
五奉行に戻してやるって
それで輝元が潰してこいっていうのは
合戦じゃなくって思い切って当たれって意味
秀頼に事前報告して豊臣家の許可を取ったうえで、朝廷に届け出るのが決まりだからな
当時の家康は専横とかいわれているけど、こういった決まりは厳密に守っている
いくら大老・奉行の数が多くても、口で忠義や豊臣御為を叫んでも
この決まりを守らない挙兵は謀反にしかならない
むしろ家康より力の低い西軍首謀者連中こそ家康以上にこの決まりを守る必要がある
西軍首謀者連中は計画を練ることばかり考えて豊臣政権における挙兵の決まりを疎かにしていたのが敗因だよ
従来の説の方が個人的には理解できるんだけどね。
上杉景勝宛書状のみを史料根拠に義弘が最初から西軍主体とするのは論拠が弱い気がする。
そもそもそれほどこのクーデターが計画的だったのか疑問がある。
時間をかけて計画が練られたとすれば、毛利・宇喜多を取り込むと同時に遠方の上杉も引き入れるべきだし、
>>301さんが言うように秀頼・淀殿周辺や北政所周辺とも交渉して挙兵の正当化の努力をすべきだった。
>>秀頼・淀殿周辺や北政所周辺とも交渉して挙兵の正当化の努力をすべきだった。
そんな事したら家康に報告されて終わりだよ。
だいたいクーデター
途中送信してしまった…
だいたいクーデター実行前に仲間を増やそうとすればそれだけリスクが高まるし、
徳川領のほぼ隣の上杉を引き入れようと工作すると徳川に察知され易い恐れもあるんじゃないかな。
仲間集めないならリスクもふくめ成功率は低いままでしょ
なんで上杉に対して書状を出したのかが謎だな
ほとんど知らない相手なうえに豊臣政権の中枢とは何も関係ない島津から手紙を貰っても
上杉だって逆に困るだろう
君は上杉家臣の外交官の島津忠直を知らないのかね?
別に謎でもなくね。ただの総当たりだろ
あんた誰て思われかねない
大多数の東軍大名は、方便ではなくて本気で石田と大谷が謀反を起こしたと信じていた
そもそも関ヶ原で毛利と内通して石田を討つと言う作戦自体が、石田を謀反の首謀者・大将と信じきっていないとできない作戦なんだよ
スタートが謀反だから後で毛利、宇喜多、三奉行が味方したところで謀反人が増えたということにしかならないし
後からいくら西軍が豊臣のためだとか叫んでも、謀反人の世迷言になってしまう
最初に石田と大谷の謀反と伝えてしまったのが敗因と言っても過言でないくらいだ
毛利は吉川、宇喜多は家臣がでしょ。
光成氏は「関ヶ原前夜」で
5大老全員が大坂に不在って訳にはいかなかっただろうから
7月頭には上坂してた秀家は大坂留守役だろう
みたいに言ってるけどね。
当主も参加予定ってのは何情報?
伏見城入城の手はずはどうしますか、と聞いている
そこら辺は追って通達しますんで
とその時家康から返事があったけど結局は通達がなくて困惑してる
ここまでは旧記雑録に収録されてる義弘書状に書かれている確かな情報
なので義弘が計画首謀者に参加していたとは到底考えにくいんだよね
義弘が伏見守備を言い渡されたのは4/27以前。(家康出立は6/16)
毛利が上杉征伐に従軍させるとの名目で7/4に吉川を出陣させているように
西軍蜂起までは表面上は家康に協力する姿勢を示すのは寧ろ当然だと思うけど。
その過程で事前指示と齟齬が発生したら誰でも困惑するさ。
というか「伏見城の本丸以外の全曲輪を島津が担当するようにって指示受けたから援軍送れ」って
ホントにそんな指示を家康が出したのかね?
しかも口頭で聞いたから書面は有りませんって。。。
ええ…、あ、ハイ
恐らく事前謀議は書面メインだったはず。
多面チャットみたいな謀議は当然不可能なので
三成が大枠を発案→他面子に計画打ち明け→書状のやり取りしながら計画をブラッシュアップ
みたいな流れが一番自然。
この流れなら三成が「発案者」で輝元も義弘も秀家も「計画を打ち明けられた側」
但し、構想段階から参加してたって意味で全員が「計画首謀者」
絶対勝てるなら別だが
そもそも妹の舅で息子の婚約者の祖父と首になった奉行のどっちを信用するかって問題だな
しかし勝った方につく心算
秀頼成人の暁には東軍なぞあっというまだ
間男は大野治長じゃないのかな
家康と茶々の再婚を阻むため色々画策したみたいだし
むしろ淀とは疎遠
いくつか教えてください。
時代はいつでも構いません。海外の事例があっても結構です。
スレ違いだ
桶狭間
妹が徳川秀忠に嫁いでるのに?
まあ淀って一応織田家の人間ともいえるけど、どれ位親しかったかいまいちわからん。
ただ、織田は一応東西両軍にいるからなあ。
後、もう一人の妹が嫁いだ京極は西軍に参加してたけど、こいつは東軍に寝返るし。
『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』でいうと肯定レビューは発売直後に集中、否定レビューは1か月後ぐらいに集中していて、今では否定レビューと同意見の声が多い。
『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』は読んだ人がどれだけ関ヶ原合戦について知っているかが試される一冊。
(1)面白い、新発見と絶賛する人→あまり知らない人、他の関ヶ原合戦関連本を読んだことのない人
(2)いかれた人が書いた本だと思う人→ほかの関ヶ原合戦関連本を読んだことのある人、史料について知識がある人
2つに分ける指標になる本。
後半の四行に同意と言うかその様に判断されても致し方がない本だと思う。。
史料の引用なのか、先行研究の引用なのか、著者の独自の考察なのか、不明な部分が多くて
とにかく読み難い。(一例をあげると乃至氏の加賀征伐での家康と浅野のやり取りの下りなど)
この部分に関しては学部生の卒論レベルでも否定されるものだから学術的な内容とは言い難い。
>>350
全く何の根拠もないが、白川氏が唱えそうな説ではある。
あるいはサビの部分だけ読んで判断するとか
サクラポイのがいるのは確か
北政所が竜子を助けたくて淀に提案。
淀に一旦拒否されたけど、再度説得して共同で使者派遣
って流れだったと何かで見た気がする。
出典忘れたけど誰か知らない?
歴史を専門的に学んでいないのだから、学術的なものを期待してはいけない。
不等号で表すと、乃至正彦<学部生 になる。
間違っている。乃至正彦⇒乃至政彦。それ以外は間違っていない。
みんなは
あれこれ言っているけど、そもそもあの本について批評すること自体間違っている。
小説を読んで、あれは違うなんてやるのか?
掲示板に書き込まれた自説を、いちいち批評するのか?
その程度のものと軽く流しておけばいい。
「諸説あり」で
乃至はマンガ家や小説家が座る席でキャッキャしているだけの一般人。
高橋は専門家の枠で出ていたが…そこは軽く流しておこう。
要するに彼らを専門家と同じ扱いをして、あれが不足しているなどと言及すること自体おかしい。
小説や掲示板の書き込みと同等のものとみて忘れるのが一番。
>>363
なにそれ?詳しく知りたい。
なぜ時代考証務めた平山が、乃至なんかを相手にするのか疑問。
戦力差がありすぎてイジメにしかみえん。レスラーが赤子を殴るようなもの。
司馬遼がこう書いてた!とかいう人は今もいる気がするな
あれもただの小説だけど
後は中国の方だけど横山とか北方とか
司馬遼がこう書いてた!とかいう人は今もいる気がするな
あれもただの小説だけど
後は中国の方だけど横山とか北方とか
小説ならば小説名乗らなければだめだろ?
それが「実は真実はこうだったんです!」とザル理論で撒き散らされては
嘘も100回言えばなんとやら、でしょ。
ザル理論を否定するための労力を他人に半ば強要してるようなやり口が気に入らない。
ブチ上げるだけ上げといて否定するなら根拠よろしく~みたいな。
なんでそんなめんどくせえ作業いちいちせにゃならんのかと。
全部自分でやっとけと。
>>363 は乃至氏だろうな。
誰も乃至氏・高橋氏なんかに嫉妬なんかせん!
名前を売っていると思い込んでいるイタイ所が本人であることを彷彿させているw
(ある意味、本や名前を売ったが…イタイ奴として)
>>368
嘘も100回言えばなんとやら、というのはいえている。
現に生涯学習で歴史を学び始めたお年寄りの何人かは騙されているだろうね。
だけど、専門家は乃至氏・高橋氏の相手をする気はないだろうね。
馬鹿げているというのが大半だろうけど、
以前、白峰氏が高橋氏の自家本を批判したのが、逆に高橋氏は大学教授が相手にするくらい凄い人という誤解を世の中与える結果になってしまった。
相手にすると彼らを増長させることに繋がってしまうから、仮に専門家が動きたかったとしても動けないんじゃないのかなあ。
乃至・高橋本に対する注意喚起をするなら、我々一般の人たちでレビューするとか地道にやるしかないと思う。
それか、明智憲三郎の時みたいに呉座氏が否定してくれることに期待するしかないんじゃない。
平山先生落ち着いてください
それから信者ファンネルで弱いものいじめをするのはもうやめてください
通説や教科書的な考えに対して肯定するにせよ否定するにせよ疑ってかかるべき部分はまだまだ多い。
>>371
プロだろうがアマチュアだろうが根拠のない考え方に反論なんてできない。
論者がなぜそう思ったかを第三者が追体験できないと議論する価値は生まれない。
この本は営業が市場調査も全くせずにライバル企業の類似品をグレードをかなり下げて作った
新商品のプレゼンをしているようなもの。
高橋氏は学会で議論して欲しいと書いているのに小説扱いは酷いんじゃないかな。
高橋氏は白峰氏から以前かなり恥ずかしい指摘をされていたが、本作を読む限り、
何とも思っていないようだし、本音では議論なんてどうでも良いのかもしれないが。
小説としか受け取れないからしかたがない。
作者がいくら希望しても、議論する価値のないものは議論の対象にはならない。
そんなのに教わった学部生は無駄な時を重ねただけで可哀想だなと思う
反論をすれば良いと思うし、その程度の価値はある。
この本の最大の問題点は関ヶ原の戦いを通史的に書きたいがために史料のない部分を論拠のない
考察で書いてしまっている部分にある。妄想と言ってもいい。
著者からすれば勝手な考察ではないと言うかもしれないが、論拠の引用のない論文の書き方では
読者から妄想と受け止められても仕方がないし、論理的な書き方を覚えないといつまでたっても
学界で議論される内容にはならない。
あると個人的には思う。
指導教授と学部生の関係はまぁ色々あるし、好き嫌いあるいは可愛いか否かで待遇が変わるのも
目の当たりにした事があるから自由な議論に制約があるのは否定しない。
だがそもそも指導教授の専門分野を卒論テーマにする学部生は多くないと言う事も知って欲しい。
だから学部生の多くは指導教授の専門を押し付けられるのではなく、卒論に向けた研究の進め方を
指導されていると考えて欲しい。
乃至氏や高橋氏に足りないのはその部分。
学会の中の人でもいっぱいいると思うけどなぁ。
でも学部生は面と向かって言えないから
就職してしばらくたったぐらいが
一番正直に中の話をしてくれたりする。
タイムマシンで過去に飛んでいってその場に居合わせれば真実はわかるだろうけど
この説はありえないとかあの説はおかしいとかそれぞれの学者が主張するだけで
じゃだれの言ってることが真実なのよ?って。結局タイムマシン作らないと真実はみえてこないという
議論する
若かったり在野だったりが本や名前売ってるのが許せんのだ
そういう意味では重鎮より同じ若い連中の方がネットも使ってより陰湿になっている
乃至あたりの絡みで言えば平山の攻撃とか凄かったからなw
また、逃げ込んだのは伏見徳川屋敷ではなく、伏見城だと判明している
ワロタw
司馬史観どうだっけ?
経済音痴の三河の百姓で臆病者
どこをどうしたらこうなるって感じだ。
実際にはイギリス人の顧問を置いて海外交易に積極的に取り組み、戦場では短気で前に出たがる人なのに。
この本を捨てておくか、きちんと批判するかで大きく意見が分かれているようだけど、この本がくだらないという点では満場一致しているわけだから、ここら辺で終わらせよう。
アマゾンに批判のレビューすれば乃至からコメントがくるわけだから、批判するにしても、あっちのほうが適しているわけだし。
作家上がりだと桐野あたりはまあまあ評価されているんだっけか
若いなぁ。
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1533436136/l50
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