武田信玄の名言などないスレ
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1504861319/l50
ルールマナーを守り有意義な議論をしましょう。
会話に入れないゴミがなんか言ってる(笑)
>>541
防衛戦中の家康はともかく、謙信は再度大軍で遠征を即座にやれってのは流石に無理だろ
61年の時は関東から帰って一月ほどおいて川中島だったから一ヶ月あれば再度遠征出来るんだろうけど
その書状、確認してみましたところ、
「遠江・三河・美濃は静謐であり、諸城は堅固に申し付けております。
詳しい事は使者の口上でもって伝えますので、ここでは詳しく書きません。」
的な書状ですよ。
「祝儀の太刀一腰を送ってくれてありがとうございます。」とある事や
この後の書状で「信玄は病気で隠居し、勝頼が家督を継承している。」的に
武田家は普通に公式声明的に述べていく事から、
この本願寺からの「祝儀」とは勝頼の家督継承宛であり、
「信玄は病気で武田勢は一旦撤収し、勝頼が家督を継承した。」的な事が
本願寺には少なくともこの時点では(おそらく武田家から)伝わっており、
それに対する祝儀を本願寺が送り、
武田家が信玄の生存を装ってそれに答えたものではないか、とされておりますかねえ。
>>576
どうなんでしょうかねえ、それ。勝頼は「強すぎる大将」と軍鑑でも評されるように、
西上策戦のような、他大名勢力と連携して進めていく策戦では、
勝頼よりも信玄の方がよかったように思うのですけれどねえ。
近い年代の戦いの大きい兵力でわかる数字から推定
※ウイキぺディア使用なので知識はガバガバ
武田信玄
野田城 27,000 岩村3,000 本国守備兵10,000?
織田信長
8万~9万くらい
(1573年7月槇島城の戦いに7万動員+本国守備兵10,000~20,000)
徳川家康
11,000~13,000から三方ヶ原の犠牲者を引く
(三方ヶ原8,000+三河の守備兵3,000~5,000)
朝倉義景
20,000
(1573年8月刀根坂の戦い20,000)
浅井長政
5,000
(1573年8月小谷城の戦い5,000)
長島一向一揆
100,000以上(1574年7月長島攻め籠城時)
※外征時は不明
上杉謙信
25,000~35,000?
(1571年2月越中攻め28,000+本国守備兵?、1572年尻垂坂の戦い15,000~20,000+関東への援軍上杉景勝隊?+本国守備兵?)
足利義昭
6,700~8,000
(1573年3月二条城の戦い)
畿内の諸勢力はようわかりません
ウイキさん参照なんで『優しい』突っ込みお願いします
この当時の信長の兵力が8~9万、っていうのは
さすがに無理があると思うのですけれどねえ。槇島城の戦いに7万、とかいうのは
信玄西上の兵力が当時畿内にいたフロイスによれば、
畿内では6万として信じられていたように、
いつも通りの畿内における兵力過大宣伝の噂かと。
おおよそ三万程であると思われる信玄の西上兵力が6万として
畿内では伝わっている事、
信長が北陸の抑えの兵力まで動員した長篠で三万である事、
長篠の後で勢いに乗って、信長公記の参加武将一覧によれば、
当時の織田家オールスターというべき武将達で侵攻した越前一向宗攻めが
兵力三万である事、などを考慮すれば、
普通に信長の兵力はそれ以外の方面の兵力を合わせても、
当時の織田家の石高の200万石余の基本の兵力計算と大体同じの
5万程、という事になるのではないかと思うのですけれどね。
織田の総兵力50000なら観音寺城の戦いの説明がつかん、60000動員してて六角は12000ですぜ
織田は大抵城攻めなら5倍は兵力差を埋める傾向があるから1573年なら10万居てもおかしくはないかと
6角攻めに関しては、
織田勢+浅井勢+徳川勢+その他将軍家加勢の為に参じた中小武将達、
の合計数ですし、そもそも6万だか4万だか書籍によって異なりますし。
>織田は大抵城攻めなら5倍は兵力差を埋める傾向があるから
こういう傾向は特にないように思うのですけれどねえ。
>>10
おや、武田も守備兵で1万いていいんですかね。それなら+してもいいですが。
そうすると7万くらいですかね。
信玄が守備側として待ち構えれば7万は無理でももっと動員出来るかもしれないお
極端な例なら北条も小田原の時にかなり無理した動員をしてるお
昔読んだ本には攻める時は1万石辺り200~300人、大敵相手に守る側なら400~500人とあったお
もちろん領地の疲弊具合や大名統治の浸透度、財政具合次第ではあるけど
例えば朝倉の最後の刀根坂は大身の景鏡や魚住が出陣拒否しても2万出しているから当然景鏡や魚住の欠けた部分は朝倉の直轄領内で無理しても動員したと推定できるお
けど、攻めている信玄がやる必要はないと思うお
いや、さすがにそれは無理ではないかと。
北条は領国内政を非常にしっかりとやっている大名で
それで最後の最後に非常に無理をした動員をしましたけれど、
それでも石高に比して、そこまで超越した動員、というわけでもなさそうですしねえ。
そもそも、織田領国はその最後に至るまで、具体的な軍役指示も
ろくにされていない事から、そこまで既成の枠を超えた巨大な動員ができるのか、
という事も非常に疑問に思えたりするのですがねえ。
いや北条は神流川で5万動員してるが
しかも黒駒合戦ではフルに使った60000をぶつけてる普通に無茶してるが
半コテ気取り本当気持ち悪い
いやいやいや、その5、っていう数字は
当時の北条家の領国が200万石近い事を考慮しますれば、
普通に動員が不可能な数字ではないわけですしねえ。
黒駒合戦では1万を出しただけだったように思われるのですけれどねえ。
別に半コテではないのですけれどねえ。
岐阜が15,000人、京都が100,000人、1600年の伊勢の人口が295,000人しかいないのに(ウイキさん調べ)
長島、というか一向宗は地域一体及び、その周辺、さらには他国からも
老若男女の門徒が集結して戦うものですから、ありえるのではないかと。
単純に武田の倍なら8万に守備側は動員力が上がるといわれる戦国の常識に照らし合わせれば10万越えてもおかしくないお
伊勢を持ってない伊勢攻めでも6万動員してるしお
あと、遠征は相手関係に出費や兵坦を考えて兵力を決めるから領内で戦う時に比べれば格段に動員は落ちるお。どちらかというと遠征でも国力Maxの兵を連れてきた信玄の方が異常だお
>>10月5日付で武田信玄に和睦調停は翌年に持ち越し、とする旨の書状を送る。
この書状71年比定の説もあったような。
まあそっちでも織田がやったのは後継ぎいなくなった家の後継ぎ問題養子入れて解決しただしな
家滅ぼしたわけでも城主を遠山家から変えたわけでもないし
>まあそっちでも織田がやったのは後継ぎいなくなった家の後継ぎ問題養子入れて解決しただしな
さすがに、それは無理があるように思うのですけれどねえ。
謙信書状によりますれば、「遠山兄弟が病死したので、
信玄が不慮を打たれ、遠山を信長入手したのは、信長にとって吉事というべき事でしょう。」
的に述べており、普通に信長が不意打ち的に遠山を入手した、的に解釈されているようではあります次第ですしねえ。
にしては、遠山で武田信玄に寝返ったのは武田軍が再制圧した岩村だけ。苗木や飯狭間などは織田信長に味方し続けてるんだが。
あんたまさか不慮を打った=不意打ちとか考えてないだろうな。
いや、実際にそのまんま、「不慮を打った」で意味が通じると思いますし、
>>833の人も書いているように、普通に信長は武将と軍勢を派遣して乗っ取りまでしている、
というのが書状から明らかなように思われるわけですしねえ。
いやいやいや、>>819にも書きましたように、謙信の書状では、
「遠山兄弟が病死したので、
信玄が不慮を打たれ、遠山を信長入手したのは、信長にとって吉事というべき事でしょう。」
的に述べており、普通に信長が不意打ち的に遠山を入手した、的に解釈されているようではあります次第ですしねえ。
で、岩村はこの強引な織田領土編入に対して反発し、武田勢を導きいれた結果、
武田勢による早期の岩村城開城が成立した、と解釈されておりますしねえ。
と、いいますか、貴方はそのように元気にお書きになられるなら、
>>812で聞かれている事にも、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
812の時期間違いは、わたしが所持する史料で新暦で書いていたのかもしれない。すまないね。
たた、武田信玄と徳川家康の同盟は1570年10月に破綻しているが、この時の手切の一札酷すぎる。徳川家康が出したものだけど、
家康は信玄と旧今川領の分割を定め、大井川で国分けが決まったのに、武田信玄は天竜川と主張できるよう具体的な川の名前を示さなかった、とある。
少し史料性に問題のある三河物語でも、武田信玄は今川領分割で河切りを定めたのに、徳川家康が勝手に大井川と定めたことを非難して攻め込んで来た、とある。
三河物語がいう大井川なら別に問題はない。駿河と遠州の国境だから。しかし天竜川だとかなり酷すぎ、徳川家康にかなり不利。武田信玄が家康に難癖つけた可能性が高い。
こんな武田信玄、信用できるわけない。朝倉義景が越前に帰ったのも武田信玄が遠州北部や三河北部ばっかりで領地を稼いで、自分と浅井に織田信長を引きつけさせていたのを不信に感じたんじゃないか?
自分は武田信玄が10年長生きしても、こんな不信の塊みたいな武田信玄に天下は無理だと思う。
他にも徳川人質の扱いで武田に文句言ってるから、そこでも何かしら違反していたと思う。
>>825
>当時の史料では確かに「武田、村上は諏訪に出し抜かれた」とある。
そんなのあるか?
神使御頭之日記のこと言うならそんな解釈してるの平山氏などの武田好きの学者ぐらいでは。
諏訪には敵対した意識が無いからこそ武田の諏訪攻めの時、
諏訪が出兵見て佐久小県の出兵かと思っていたら諏訪に攻めてきたため慌てて兵を集めたってなるんじゃ。
私が所持する著書で、丸島さんが、貴方が挙げている日記で守屋頼真がそう記録しているとありました。
ただ守屋は早くから親武田だし、個人的な感想ではないかと私は思います。
平山氏と丸島氏だったか、平山氏以外にもそういう解釈している人がいたのは覚えていたが名前までは出てこなかった。
>貴方が挙げている日記で守屋頼真がそう記録しているとありました。
群馬県史長野県史なんかはその部分の記録そんな訳し方していなかったはず。
>他にも徳川人質の扱いで武田に文句言ってるから、そこでも何かしら違反していたと思う。
これについて、詳細をよろしくお願いいたしますかねえ。
確か、武田側ではむしろ、人質を返しているはずなのですけれどねえ。
お!今日もWikipediaに載ってるような記事の丸写ししかできないにわか荒らしさんのお出ましですか~
毎日毎日30レス以上も(笑)暇なようで(笑)そんな暇なら図書館で戦国時代の本とかを読んだほうがいいですよ!少しは知識を高めましょうよ(笑)
そのような事をいわれましてもねえ、と思うのですけれどねえ。
>大井川で国分けが決まったのに、武田信玄は天竜川と主張できるよう具体的な川の名前を示さなかった、
これに関しては、武田が本当にそう思っていたのか、は疑問ですし、そもそも、大井川であったのかどうか、も不明ですしねえ。
学者さんには、この「盟約」は「川を境目とした切り取り次第だった可能性がある。」と述べておられる人もおられますかねえ。
とりあえず、普通に信玄は遠江掛川を家康と共に攻める事を書状で普通に書いてますし、
家康から不信を持たれたら、すぐさま兵を退き、駿河にもとどまっておりますしねえ。
さらには、上で紹介したように、信長宛にも「家康が遠江を支配する事に異論はありません。」
的に述べたりしておりますしねえ。
まず、貴方はまず一月で徳川との関係が破たんした、的に言われておりますが、
実際にはその後も徳川と武田で交渉が続いており、2月には信玄の要請で家康が誓約書を書き、
信玄もそれに対して血判で応対する、という事を普通にしておりますしねえ。
それについて書いた書状では「誓詞を求めたところ、即座に送ってくれてどうもありがとうございます。
こちらも使者の前で血判をさせていただきました。」的に述べておりまして、
武田側は同盟継続を望んでいるように思われますけれどねえ。
いやいやいや、普通に朝倉浅井は
浅井の方から家臣を派遣して、信玄の西上を観察させておりまして、
三方ヶ原の様子も浅井の家臣が見聞して、長政に報告している事などが指摘されており、
朝倉浅井も武田の三河遠江での勝利を喜んでたり、「尾張美濃への侵攻を待っています」
的な書状を出してもいるので、普通に朝倉浅井は武田の徳川攻めに不信を感じる、という話はないと思うのですけれどねえ。
そもそも、朝倉が一時撤収したのは、信玄が出陣して、2か月くらいしか経ってない時の話ですしねえ。
信長に虐殺されたのがおよそ2万。
なら残り8万は?
ちなみに兵数は極秘中の極秘なので相手には実数は把握できない
虎口の大きさで敵の実数を測るという方法もあることはあるが正確ではない
確かにこの他の人に反論になっていない反論をコピペのごとく繰り返して反論した気になってるとことかそっくりだけど、
もしそうならまだこんなことやってるのか。
はいはい。そうやって相手側の事を必死で認定しようとしているようですけれど、
そのだがだかなんだかは既に何人もの人間を同一認定してレッテル貼りするための架空人物レッテルになってる、
っていうだけの話じゃないですかあ。
で、こちら側に言われた事を必死になって、具体的には答えずに抽象的にくさして喚こうとしておられるようではありますが、
そのようにおっしゃられるなら、どこがどうそうであるのか、について具体的に説明をしてもらわないと議論にならないと思いますので
その件についてのご説明の方を、おはやめにお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
なんでID2つ使ってんの
短期間に国中で三、四万を撫で切りにするには十万くらいいないと厳しいのかもね
いやいや、さすがに織田側の信長公記に三万余、と明記されているんですから、
10万余、とかいうのはおかしいと思うのですけれどねえ。
>>18
それはないでしょう、と思いますけれどねえ。
>>20 >>22
信長だって、斉藤義龍が生きていた時には普通に美濃には攻め込めずにいたので、
幼君にならなければ、普通に先代よろしく尾張と美濃との争いを生涯繰り返して
終了していた可能性も非常に高いと思うのですけれどねえ。
っていうか、北畠って織田側からすると、国力的には強敵、じゃないでしょうに。
信長だって、今川に斎藤に北畠と周りに強敵はいましたが。西上作戦にしても初っ端の二俣で二ヵ月だし。
21 : 菅沼遼太[long-paccer@nifty.com] 投稿日:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229]
対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス: http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92
削除理由・詳細・その他: 個人の取り扱い
三種
上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である
誹謗中傷
三種:
個人を完全に特定する情報を伴っている。
22 : 21[long-paccer@nifty.com] 投稿日:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp
>>21も削除していただきたいです。
23 : 不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★[] 投稿日:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0
>>21-22
却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。
#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。
24 : うんこ[] 投稿日:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
>>23
却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎
25 : 21[] 投稿日:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp
>>23
手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ
「ねえ」の人 < 「菅沼遼太」は織田厨の捏造! 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322)
はいはい。それ、貴方とかが菅沼なんたらの名前を貼り付けて、
そのようにレスした、で普通に説明が通ってしまうと思いますし、
そもそもの問題として、こちらは何度も何度も書状やら資料の記述やら、を提示してますし、
貴方の書状訳の異なりとかも指摘しておりますから、
貴方的な見解では、普通に私は菅沼なんたらではない、という事になりますよねえ?
さらに言いますと、貴方は>>628にあるような、菅沼なんたらの膨大なる設定矛盾やら、
を聞かれても一度も整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来にならずに、
聞かれるたびに発狂逃亡を繰り返しておりますし、
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、必死になって複数の相手を同一認定しようとしたり、されておられるご様子ではありますけれど、
貴方こと必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演の常習犯であらせられる事は、
オープンの方で貴方自身がご自身の行動とレスでしっかりとお認めになられておりますのに、
今更何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
浅井勢の裏切りよりネタにならないけど、かなりの大物を裏切らせているし凄腕よね
丹羽長秀
なるほど丹羽でしたか
ありがとうございます
正直伝のある光秀なのかと思ってました
だから丹羽は若狭一国を貰えたのか
長野さんはそもそも信玄とろくに戦ってないですし、
義元に関しては、その死亡から8年近くにわたって信玄は
今川との同盟継続路線なんですけれどねえ。
>>26 >>27
普通に信玄はその死亡時には大量の同盟国を保有していたのですけれどねえ。
信長の方も当時は普通に謀の多いやつ、とか、
盟約破って案の定、と相手に言われたりしてるのではありますが。
長野がろくに信玄と戦ってないとか大丈夫?
義元に関して今川の同盟維持したのは、川中島や嫡男義信との内訌で破る暇が無かっただけのこと。
そもそも今川との同盟を破る際の理由って何だったっけ? 何かまともな大義名分あったか?
信玄は死亡時に大量の同盟国を保有していた。
北条・石山本願寺以外どこと同盟していた? 朝倉や浅井は足利義昭の呼びかけで同調していたにすぎない。これは三好とかも同じ。
里見や蘆名とか言ってるなら、あれは連絡取りあうだけで特に同盟といえるものか?
そもそも近隣の大名、ざっとあげても諏訪・長尾上杉・織田・徳川・今川と次々と破ってる事実のほうが重いだろ。
いや、そんな趣味もつもりもまったくないのですけれどねえ。
>>46
いや、実際問題として、長野のお爺さんが信玄と6回戦って~、
というのは江戸時代の講談やら軍記やらにある事で、
同時代資料にはろくに記述がない事なわけでして。
例えば、武田の同時代資料である妙法寺記には、
砥石とかは普通に武田の大敗として書いてありますが、
西上野で長野との戦いがあった、的な記述はおろか、
西上野に攻め込んだ、的な記述もろくにないわけでして。
それは悪意をもって解釈しすぎだと思いますがねえ。
普通に義元死亡後も信玄は関東出陣中でも、内戦最中の今川の状況を考慮し、
もし今川が危機になったら駿河に出陣する、的な事を表明したりしてますし、
氏真から義信未亡人を返還するように求められた時も
「未亡人は返すけれど、これからも武田と今川は同盟だという誓約書を書いてくれ!」
と求めたりして、同盟継続を求めておりますね。
結局、今川と上杉が組んで武田を包囲する動きをしだした事から、
今川との敵対に進んでいくわけでして。
いや、朝倉やら浅井やら、は普通に信玄に呼び掛けて、来てもらっている側で
信玄自身も書状で「朝倉と本願寺の要請によって出陣してきた。」
的に書いてますね。他の三好とかも同じように共同勢力として動いてますよ。
っていうか、貴方の言い方って共同してる勢力とかでも、
必死に否定しようとしておられるようにしか思えないのですけれどねえ。
諏訪は元々向こう側の盟約違反がもとですし、徳川は上杉と組んで武田を包囲しようとしておりましたし、
織田は両属の岩村遠山を武田に無断で接収した事などを原因としておりますし、
今川は上記の通り。
というか、盟約破りとかは普通に信長が頻繁にやっている事なのですけれどねえ。
だよな
>>67
駿河侵攻で北条と敵対したのは窮地じゃ?
結果乗り切ったけど
勝頼のときに、武田信玄の度重なる同盟破棄が責められたりしたはずだがな。
諏訪の盟約破棄って? むしろ諏訪を助命するとか抜かしながら甲斐に連れてきて切腹させたんだろう? しかも娘は側室にするし、息子の方は高遠潰したら歴史から消えてるし(用済みで消されたかな?)
徳川家康に先に手を出したのは武田信玄だろ。秋山使ってちょっかい出して。
今川は同盟だという誓約書を書け。これどう見てもポーズでしょ。1565年の義信事件、あるいは義信が殺された時点で、今川との同盟関係は最早白紙と言っていい。それを今川に誓約書書けとか何様?
山内上杉が佐久小県に攻め込んだ時、諏訪が迎撃に出たが、
武田村上が放棄していた佐久小県の武田領を同盟国の諏訪が守らず上杉と諏訪で勝手に分けあったという説があって、
それをもって武田ではなく諏訪が盟約破棄したんだという説がある。
>>74
若狭で反乱、越中から援軍求められてもあるかも。
それ言いましたら、
信長も同時代に斉藤に盟約を破って「案の定」とか書かれたり、
本願寺と和睦しても「和睦が破れるのは時間の問題だろう。」
と本願寺に言われたりしてますし、
朝倉側からも「謀の多いやつ」とか言われたりしてますよ。
諏訪は信虎追放後に、
山之内上杉と武田・村上に無断で領土の分割協定を結んでるんですね。
この盟約違反を基にして、武田は諏訪に侵攻したとされてますね。
それなんですけれど、元々、信玄は遠江に軍勢を派遣して
今川を共同で攻める、という話であったようで、信玄も書状に書いてますね。
で、兵を退かせた時も、「こちらに遠江を競う意思があるように、
そちらに疑われているようなので、秋山達は退かせますね。」
と書いてあって、家康相手にちょっかいをかけた、的な表現じゃないんですね。
いやいやいや、義信が謀反を起こそうとしてきたから、それに対応したのが義信事件ですし、義信の死亡は自殺とも病死ともいわれてるわけで。
普通に何様も何も、今川と同盟を続けたいから、誓約書を書いてほしい、
と要請してるだけにしか思われないわけですしねえ。
義信が謀反を起こそうとした明確な証拠があるみたいな書き方だが、騒動があり義信近臣が処分されたのは事実だが、謀反かどうかの証拠なんかあるのか? 義信事件は武田でもタブーで史料がまばらしかなく、義信が謀反したなんて明確な証拠はないはずだが。
騒動が一応収まった後に信玄が誓約書を家臣に提出させた事実があるだけ。
そんな書状をいつ徳川家康に出したの? そもそも掛川は徳川家康が単独で攻めているし、武田信玄は駿河すらまだ制圧してない上、北条が背後にいるのに何やってるのかな?
諏訪が何の領土分割を山内上杉と協定したんですかね? 諏訪と山内上杉では家格も実力も違いすぎてそもそも相手にされるかも疑問ですけど。
もともと道三ぶっ殺して織田と敵対を選んだのは義龍では?
ええ、ありますよ。義信事件の後で、信玄は必死になって
悪いのは飯富で義信は悪くない、という事にしようと躍起になっており、
そのように書状でも書いているわけで。
義信が謀反をしようとしたのは明確なように思われますけれどねえ。
貴方の言ってる事は、何を基にして言われているのか、
ご説明の方をいただきたいのではありますけれどねえ。
あのー、貴方はどうも、ご確認やお調べの方をなさらずに
語られている事が多いように思われるのですが、
その書状は1568年12月23日付書状ですねえ。
信玄がこの時には駿府をはじめとして、駿河の大部分を制圧した時で、
北条はまだ動き出してない時期ですねえ。
この書状の中で、家康が掛川攻めの為に進出してきたのを、
「本望満足である」と述べ、「こちらも遠州へ向けて出陣したいが、
駿河の仕置きがあるので、一両日延期する事になりそうではあるが、
3日の間には出陣したいと思っているので、そちらは掛川を攻めていて欲しい。
其の地で貴方と面談できれば大慶であります。」
と述べており、掛川を武田と徳川の共同で攻める事が予定であったように
書かれておりますかねえ。
佐久の領土分割を行ったとされておりますかねえ。
なんといいますか、貴方はあまりお調べになられずに
断定なさられるのは如何なものかと思うのですけれどねえ。
?斉藤義龍の事がなぜここで書かれておられるのですかねえ?
>>104には斉藤義龍の事は特に書かれていないと思うのですけれどねえ。
そもそも武田信玄は自分の長男、今川の当主の妹婿を廃嫡しといて、まだ同盟を続けましょうとか今川をバカにしているとしか思えないんだけど。あるいはどれだけ面の皮が厚いのかな?
いやいや、義信は死亡するまでの間は幽閉されていただけの話ですし、
その死亡も自殺とも病死ともいわれているわけでして。
で、義信が死亡したからといって、今川と同盟を続けたいかどうかは
また別の問題なわけですしねえ。元々、義信生存の時から
信玄は今川との同盟を継続したがっておりますからねえ。
別の問題って。
それは武田信玄の都合でしかない。
自分の妹の婿を廃嫡しといて、さらに父親を殺した仇敵の養女を4男の嫁に迎えて、それで同盟を継続してくれとか無理に決まってるだろ。
>>140
いや、思われない、と貴方が言われましても、当時の織田側は
信長公記にも「方々手ふさがり」と書かれている状況ですし、
小木江を攻略したのですから、その先にも普通に攻め込めると思うのですけれどねえ。
だから、信興を殺した時に攻め入ってないですよね? 当時の信長は浅井、朝倉と対峙して居るのに。
信長公記の話ではなく、事実の話しているんですよ。信長は美濃にいて、尾張にも当時ならそれなりの部隊がいて、あの時さえ攻められなかった長島に攻め入れるのか、と言っているんですが。
>>164
ですから、貴方があげているのは全部武田信玄の都合ですよ。
そもそも東光寺という諏訪兄弟をだまし討ちにした所へ監禁し、勝頼の嫁に信長の養女を迎えた時点で今川はもう手切れ、と見るのが普通でしょう。ところで駿府攻略が懸念されているって、武田信玄以外誰が攻略できるんですか? そんな懸念あったんですか?
>>167
徳川家康舐めすぎ。
>>168
仮に3000としましょう。で、三河はほぼ無傷だから吉田、岡崎など三河の諸城から集めたら1万はいけるのでは? 三河も7000はいけるでしょうし。こんな大部隊放置して美濃へ? 抑えに数千にしても最低5000以上でそれなりの強力な司令官配置しないといけないと思いますが。
武田から5000以上も引いたら岩村で多少補充できても痛いと思いますが。
ところで貴方よく書状、書状と言われてますが、それ何の史料に載っているんですか? 義信事件で飯富に対する史料なんて武田関係の書籍に全く無いから大発見です。書状の中身を詳しくお願いします。
いや、そんな事をいわれましてもねえ、としか。
小木江城が攻略されたのが11月21日で、信長が志賀の陣の和睦工作を開始するのが
11月30日くらいから、とされており、それから10数日後には和睦締結、
という流れですから、普通にそれ以上攻め込む前に和睦交渉が開始されて
停戦状態になって、そのまま和睦締結、という流れではないかと思うのですけれどねえ。
そもそもの問題として、普通に尾張の小木江に攻め込んでいて、
1573年の5月にも尾張・美濃に焼き打ちをしていて、そもそもの問題として
他の地方の北陸一向宗とかも普通に他国に侵攻とかしておりますのに、
長島一向宗が他国に侵攻できないという事に
されようとなさられましてもねえ、としか思われないわけですしねえ。
現代みたいに情報がすぐ入手されるわけでもないのに何言ってるの? そもそも交渉に入っているだけだし、まとまるとは限らない。だいたい城落とした後の9日間は何していたわけ? そんな鈍重な長島一向一揆に何ができるの?
焼き討ちと軍事行動(攻城、野戦)は違うのでは? 長島一向一揆は篭城なら長島の地形からも強いかもしれないが、攻城野戦は違うしそんなに強いのか? 焼き討ちとかゲリラ戦じゃないんだよ。
北陸には下間とか強力な司令官がいたが、長島一向一揆は誰か強力なのいたかね?
>>209
自力救済とか言ってますけど、朝比奈や小原みたいに氏真についていったのもいますけどね。廃嫡に関しては名目なもので、実質廃嫡でしょう。幽閉監禁されて跡継げた人なんかいますか?
駿河で叛乱勢力が勢いを増し、駿河の過半を占領とか初めて聞いたんですが、駿河では誰が叛乱を起こしていたんですかね? 勢威を示した、とか言葉を濁す自体、まあ創作ですね。
野田救援の3000はあくまで浜松の兵力だけでは? 三河の残存兵力は無傷なのに無視ですか?
いやいやいや、信長だって城を攻略した後に地固めくらいは普通にしてますって。
少なくとも、数日あれば、和睦交渉をしている、という情報くらいは伝わると
思いますし、それで普通に停戦状態みたいになるのはおかしくないと
思うのですけれどねえ。
それは貴方のご希望のように思われますけれどねえ。
普通に北陸一向宗とかは他の国とかを制圧しまくりですのに、
なんで長島一向宗だけできないと思うのか、非常に不可思議ですしねえ。
現に小木江とかも普通に攻略してますしねえ。
下間とかが強力な司令官、というのは貴方のご希望のように思われますしねえ。
普通に長島指導層も信長を2度も大敗させ、織田側の城を攻略し、
織田領土にも侵攻し、北伊勢豪族衆を自身達の側に引き込み、という感じで
十分すぎる程の実績を示しているように思われますしねえ。
一向宗が他の国とか制圧しまくり。
北陸でも制圧できたのは加賀だけだろうに。越前は朝倉のジジイに、能登は畠山義総さんにやられ、越中も部分的にしか制圧できてないはずだし、謙信出てきたらやられまくりのはずだけど。他の国制圧しまくりって、それゲームのやり過ぎでは?
一向宗が野戦にクソ弱いのは朝倉のジジイが若い頃に1万と少しで30万と称した一向宗を九頭竜川で破った戦いで証明されてないか? まあ30万は過大だろうけどね。
織田が二回負けたのは篭城並びに追撃のゲリラ戦だから、どうしても守備側が有利になる。加えて長島は輪中のデルタ地帯だから、強力な水軍ないとどうしようもない。それを侵攻と一緒にするのはどうかなあ。
しかもこの時期、伊勢桑名に滝川一益、長野に長野信包、志摩に九鬼嘉隆がいるんだけど、これの対応はどうするのかな?
まずそちらも言うように、加賀一国を普通に丸ごと制圧しておりますし、
越前一国も丸ごと制圧しておりますね。
越中も、さすがに謙信相手には勝利する事は難しかったようですが、
謙信以外になら勝利をして領域を確保して、という感じですしねえ。
能登におきましても、押水合戦などで畠山を追い詰めたりもしましたが、
本願寺に畠山が交渉して、退かせて、という感じですしねえ。
特に弱いとも思われないと思いますかねえ。
その30万、というのは実質的には三万くらいではないか、と
されておりますけれどねえ。そして、それを朝倉側が奇襲をかけて撃退、
という感じですしねえ。
といいますか、織田勢と正面から野戦で渡り合い、撃退した野田福島、
織田勢と正面から野戦で渡り合って撃破した三津寺の戦い、
加賀に派遣された梁田を普通に撃退し、という感じで
普通に野戦関係でも特に弱いという感じではないと思うのですけれどねえ。
長島関連のを追撃のゲリラ戦とかおっしゃいますが、信長公記とかを読む限り、
普通に追撃して、普通に野戦で波状攻撃とかを仕掛けて織田側の殿軍部隊を
撃破しているようにしか思われないのですけれどねえ。
それらの対処は普通に留守部隊を残しておけば十分かと思われますけれどねえ。
信長本人が大軍を率いて侵攻しても、二度も攻略できずに撤収し、
それを追撃されて敗北をしておられますのに、その長島をそれらの部隊だけで
攻略できるとは到底思われないように思いますしねえ。
といいますか、それらの部隊は美濃の信長様の所にはいかずに
攻略できるとも思われない長島を攻めている場合ではないと思うのですけれどねえ。
ついでに、その強力な司令官、云々とおっしゃっているのは、
私ではなく、相手側の人ですので、私だと言おうとなさられないで欲しいと
思われたりするのですけれどねえ。
>その間に信長が動く。そうしたらまた危険は朝倉に押し付けられる。
信長当人が、武田側の動きを警戒して、美濃にとどまっている事を
書状で書いておりますのに、なんで朝倉にまた向かうと思われるのですかねえ、としか。
>ところで長島が動くと言ってるけど、>>293で別に尾張の織田軍は長島を襲わなくてもいいよ。
>美濃入りしようとしている長島軍の背後なり横腹なり突いたらいいんだけど。
少なくとも数万はいると思われる、長島一向衆に対して、尾張の織田勢が野戦を挑んで勝てると思うほどに
存在するとは思われないのですけれどねえ。織田勢主力軍は美濃に集結しているはずですしねえ。
貴方、上の方で>>210とかで説明されているように、
東西三河の旗頭である酒井と石川が兵力を率いて三方ヶ原に
参戦している事や、そもそも徳川の領土自体が三河遠江フルでも55万石で、
しかも武田に数多くの城を攻略されたり、従属させられたりしてる状況で、
総計でも一万前後くらいしか動かせないと思われる状況であるのに、
なぜだか「三河は無傷だから三河だけで7000以上いける!」とか
言い出されておられましたけど、上記の諸事項を指摘されたら
完全沈黙されておられますが、この件などについて、おはやめにご回答の方を
いただきたいと思うのですけれどねえ。これとまったく同じような論旨展開で
尾張に膨大な織田勢がいる「はず」といわれましても、こちらは困惑しか
湧かないわけですしねえ。尾張に数万の長島一向宗と野戦をして勝てるだけの兵力を
置いているなら、美濃の織田勢主力は多くても一万数千、って事になってそうですけれど
それはそれでいいのですかねえ。
>野戦だから長島での守戦のノウハウは生かせないよ。
長島が野戦で弱い、というのも貴方のご希望だけの話だとしか思われない、
というのは何度も指摘されておりますのに、なんでそう喚かれておられるのか、
についてご回答の方をいただけませんかねえ。
普通に第一次・第2次の長島の追撃戦でも、長島は野戦で波状攻撃などを仕掛けて
織田勢の殿軍部隊を壊滅させているわけですしねえ。
さらにいいますと、一向宗自体が特別に野戦に弱いわけではない、という事も
>>231などで普通に指摘をしておりますのに、なんで必死でスルーされて
おられるのですかねえ。この件についても、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>231で言われている野戦に関しても、越前では桂田がムチャした上に失明していたからもあります。
それ言うなら1575年の織田侵攻で一向一揆は野戦籠城でやられて大虐殺されたのでブーメランになりますよ。
ところで九頭竜川の一向一揆が10分の1の3万とは少なすぎやしませんか? 当時はある程度集めたらこれくらいと称していたはずです。武田も2万7000だから公称3万はわかります。3万を公称30万は凄すぎるんですけどね。
>>210ですけど、史実で家康は信玄の死後、5000以上の軍勢を動かして長篠奪還や駿河岡部への焼き働きなどしていますけど。
武田信玄という脅威が遠ざかって家康は軍勢の立て直しができないとされる貴方の発言がよくわかりません。
それに5000でも抑える軍勢が武田領のどこにいるんですか? 北信濃の高坂や西上野の内藤まで動員しているくらい総動員なのに。
なんで朝倉にまた向かうと思われるのですかねえ、って。秋山に岩村落とされて信長が東美濃に向かいました? あんな山奥に行くくらいなら地理的に近い西に行くのが普通では?
よく書状で書状でと言われてますけど、1573年3月に信長は美濃から軍勢を率いて南近江・山城に向かっています。東美濃は1574年まで放置しています。
>>301
普通に志賀の陣で信長がすし詰めにされて、 土下座降伏宣言的な書状を出した。
朝倉に土下座したのは「三河物語」が出典のはずですが。あれ信用できるんですか?
それに土下座して信長は実をとっているではないですか? 朝倉に南近江の支配地を織田領にするのを承認させてるんですから。外交で信長は勝利してますよ。
それとなぜ、語尾に「ねえ~」とか用いられるのですか?
1573年の浅井長政はもう小谷にほとんど籠りきりで織田家の一武将である秀吉にすら貴方が言われる部分的勝利しかできない状態なんですが。細川藤孝は仮にも足利一族で義晴の落胤とも噂のある幕臣の重鎮。それが義昭を見限った大きさがわかりませんか?
荒木が三好を裏切った、これも大きいとは思いませんか? 茨木を抑えている以上、三好らは茨木を何とかしない限り京都に攻め入れないんですよ。
では、失礼いたしました。
それに関しましては、別に一向宗自体が特別に野戦で弱いわけではない、
という事について、普通に>>231などで何度も説明をしておりますよねえ?
なんで必死に都合悪い事柄をスルーされておられるのか、について
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>野戦は正面衝突ですよ
殿軍部隊に対して正面からぶつかって撃破してるように思われますけれどねえ。
それ以外の勝利については、なんでスルーなのか、という事や
越前だけでも、他の勝利を得ているでしょうに、っていう事についても
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいや、織田勢オールスターで、長篠の後で勢いにのって総攻撃、を
仕掛けたのですから、一揆勢が敗北してもおかしくないでしょうにねえ。
戦略的に織田勢が有利なら織田勢が勝ち、一向宗側が有利なら
>>231にもあるように、普通に一向宗側が勝利して、
互角なら相互に渡り合い、という感じで非常にわかりやすい話ですのに
貴方が必死になって一向宗が弱いといおうしているだけでしかないと
思われるだけの話ですしねえ。
この件につきましても、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
確か、当時の記録で宗滴が三万余の一向宗を破った、的な記述があったように
思うのですけれどねえ。そもそも、三十万、は軍記の記述とかですし、
それでは信長公記で三万余、とされている越前侵攻軍を10万5千、とか
したりしてますしねえ。しかも、そもそもの問題として、
朝倉側は兵力で圧倒的不利なのを考慮して、奇襲的に強行渡河攻撃を仕掛けた、
という戦いですから、純然たる野戦というか、はまた別の話にも思えますしねえ。
その時の兵力は、確か不明瞭だったように思われますけれどねえ。
まあ、徳川領土で一万余の兵力のうち、
8千の徳川勢主力が三方ヶ原で敗北して、しばらく動かせるのが三千余、
となり、残りの2千を合わせれば5千くらいにはなりますかねえ。
信玄死後に急いでかき集められるだけの兵力を集めて動いた、
という話ですかねえ。まあ、それでも勝頼がその動きに対して
「今こそ徳川軍を殲滅してやる!」と包囲殲滅策戦を行おうとしてますから
武田にとっては脅威となる兵力ではなかったのでしょうがねえ。
>それに5000でも抑える軍勢が武田領のどこにいるんですか? 北信濃の高坂や西上野の内藤まで動員しているくらい総動員なのに。
ですから、信玄本隊の三万近くから数千を分割して抑えにすればいいじゃないですか。
その分は岩村にいる武田勢と合流すれば補充できますしねえ。
殿軍の役目は敵の追撃を防ぐことです。つまり敵と戦いながら自分たちも撤退しないといけないわけで、これは正面衝突の野戦と全く異なります。
羽柴秀吉も朝倉に手痛い目にあわされてるでしょう? まあ朝倉は秀吉やほかをほとんど取り逃がしてますけど。
なんで殿軍の戦いが正面衝突と同等になるんですか?
それを言うなら、秀吉を痛い目に合わせた朝倉が、姉川で織田にやられたから大したことないと言ってるのと同じですよ。
失礼いたしました。
いやいやいや、普通に柴田がまず殿軍を買って出て、
長島勢の攻撃を受けたら負傷して退いて、
交代した氏家軍が長島一向宗の攻撃を受けて壊滅、という流れが一次で
2次も林新次郎が与力部隊と共に一向衆の攻撃を防ごうとして戦いましたが、
波状攻撃を受けて壊滅、という流れですしねえ。
普通に攻撃を受けて壊滅してるようにしか思われないのですけれどねえ。
いやいやいや、朝倉が痛い目に合わせているのは織田勢主力であって、
羽柴と柴田とかを撃退してるのが浅井です。
ああ、向かいましたよ。そもそも、朝倉浅井戦線から戻ってきたのも、
武田の動きを警戒しての話ですしねえ。信玄の書状や軍鑑によりますれば、
信長は1573年三月初頭には東美濃あたりを「大物見」に来ていたようで、
信玄から秋山に対して「すぐさまその地に向かい、追い払え。」という命令が出ており
軍鑑では秋山に同行した馬場が自身の部隊を率いて急襲して追い払った、
とされておりますかねえ。信長が義昭に対応するために出陣するのは
3月25日とされておりますので、タイムスケジュール的にはあっている感じですかねえ。
上記の通りですかねえ。信長は2月末に配下武将達を派遣しますが、
自身は3月25日まで出発はしなかったようで、その間に信玄の書状や軍鑑などによれば
東美濃に「大物見」に来ていたようですかねえ。
そもそもの問題として、長篠で武田勢主力が敗北したら
すぐさま岩村城の攻略に取り掛かっている事からして、
安全保障の面からも、可能な限り東美濃岩村は攻略したかった、というのが
事実のように思われるわけですしねえ。
そもそもの問題として、信長自身が書状で武田勢の動きを警戒して
美濃にとどまっている的に書いてますのに、
貴方がそのように言われましてもねえ、としか申し上げられないのですけれどねえ。
そうやって、指摘されるべき事柄の多い文章を書いて、
相手から反論が来る前に勝利宣言をなさられましてもねえ、としか
思われないのですけれどねえ。>>316とかにも数多く書いているのですけれどねえ。
貴方は聞かれている事について、おはやめにご回答の方をいただきたいのですけれどねえ。
三河物語とかに関しては、これから答えてあげますけれどねえ。
>>307宛続き
>朝倉に土下座したのは「三河物語」が出典のはずですが。あれ信用できるんですか?
ああ、できますよ。信長自身の書状でしっかりと
「畿内の公家や寺社の政道に関しては貴方達(朝倉浅井)から沙汰(命令)される事に
相違など何もありません!」と書いていて、この和睦で信長が朝倉浅井に対して
土下座降伏宣言的な事を述べている事を示しておりますかねえ。
朝倉が信長の土下座降伏宣言に騙されてしまったから、ですしねえ。
それでも戦況的に不利だった、というのが明らかなわけですし、
そもそもの問題として、志賀の陣で戦況的に不利だった、というのが
議題ですのに、貴方は何をおっしゃっているのかと思うのですけれどねえ。
ただの個人的な趣味ですかねえ。
それを言ったら、その秀吉も部分的勝利しかできずに、
柴田とかも加えて夜襲をかけてもその浅井に独力で撃退されているのが
現状でしょう、と何度も申し上げていると思うのですけれどねえ。
はいはい。ですから、浅井長政は離反した時には北近江一帯を支配していた大名で
織田はそれに大きく苦戦させられたわけですが、
なんで貴方はそう都合のいい時期だけで比較しようとなさられるのですかねえ。
で、それが将軍義昭よりも大きい、となんで貴方が言えると思うのか、について
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は真面目に何をお読みになられているのかと思うのですけれどねえ。
勝頼の東美濃侵攻は軍鑑では1万5千、そのうち6千の山県勢が
信長率いる織田勢主力軍を防いだ、と書かれておりまして、
その信長率いる織田勢主力軍の兵力が信長公記では6万です。
なんで信長はできて、信玄ができないと思うのか、
信玄も普通に大軍を動員し、岩村遠山は元々武田の領土で地理も把握し、
木曽も信玄時代は武田の配下で、という状況で、
なんで信長が出来て信玄ができないのか、について具体的にお答えの方を
いただけないでしょうかねえ。
ぶっちゃけた話、「貴方が嫌だから。」以外の理由がどこにあるのかと
思うのですけれどねえ。
三河物語云々に関しては、>>317とかに普通に書いてあるわけですしねえ。
貴方のレスは指摘するべきところが多すぎて、一レスに書ききれない事が多すぎますし、
相手から反論が来る前に勝利宣言をなさられましてもねえ、としか
思われないのですけれどねえ。>>316とかにも数多く書いているのですけれどねえ。
貴方は聞かれている事について、おはやめにご回答の方をいただきたいのですけれどねえ。
何度も何度も言いますが、貴方は何度も指摘されている、都合の悪い事柄を
必死にスルーして、同じことを混ぜ返して喚かれるのは、
いい加減にご遠慮願いたいのですけれどねえ。
それから、貴方がお答えになられずに発狂逃亡中の膨大なる事柄につきましても
おはやめにご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
1571年に筒井相手に大敗したし、連年出兵してるし、興福寺は筒井に好意的だし無理もない
>>307
志賀の陣は和議の内容がかなり織田に有利なんで、
国許で一揆がとかも朝倉側の話じゃって説ある。
>三河の徳川軍は岡崎と吉田と刈谷といずれも無傷ですけど。つまり兵力温存されてますよね。
>合わせたら貴方がいわれる3000に最低で5000はプラスできます。
>この8000の軍勢が遠江で反撃したらどう対処されるおつもりで?
これについては後、何十回こちらに述べさせるおつもりなのでしょうかねえ。
>>303にも書きましたように、
上の方で>>210とかで説明されているように、
東西三河の旗頭である酒井と石川が兵力を率いて三方ヶ原に
参戦している事や、そもそも徳川の領土自体が三河遠江フルでも55万石で、 最大でも1万三千余、
しかし>>210にもありますように、武田に三河遠江の数多くの城を攻略されたり、従属させられたりしてる状況で、
総計でも一万前後くらいしか動かせないと思われる状況であるのに、
なぜだか「三河は無傷だから三河だけで7000以上いける!」とか
言い出されておられましたけど、上記の諸事項を指摘されたら
完全沈黙されておられますが、この件などについて、おはやめにご回答の方を
いただきたいと思うのですけれどねえ。
このような状況で、何をどうやったら、徳川勢が8千になるのか、について
具体的な論拠などをもって、論旨のご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
自分たちの勢力圏での籠城守戦と、敵地での野戦攻城戦を同等にしてないかと言っているのですが。
どうも話が噛み合いません。
>>310
たかだか2か月ちょい……。えっと横山城は秀吉がそれ以上の期間守り抜いているはずですが。
どこから2か月出てきたんですか? しかも2か月でも圧倒的に劣る兵力で守ってますよね?
朝倉は一応2万もあって部分的勝利がせいぜい。なんでそれが「たかだか」になるのですか?
>>309
ですから武田信玄の死後、徳川家康は駿河岡部の焼き討ちや長篠城攻めに少なくとも5000は動員していますよ。
貴方が三方ヶ原で死者2000、負傷者数千で3000しか動かせないと言われてましたが、12月の三方ヶ原から半年もたてば負傷者は回復しませんか?
実際三河は無傷ですよ。55万石もかなり無理をしたら1万5000はいけます。1万石300人として。
かなり無理をするならですけど。
それで三方ヶ原で2000失い、数千負傷で3000しか動かせない。
1万5000なら三河に7000いてもおかしくないでしょう?
野田城はわずかに400だったし。吉田や岡崎や刈谷は無傷ですよ。
勝頼って東美濃に確か6000、よくて1万くらいで侵攻しませんでしたか? 軍鑑では6万ですが。
信長の場合は美濃、尾張、近江などは既に安全圏だから大軍を動員できました。しかも木曽を寝返らせて道案内にしていました。
武田全軍だと2万7000なのに、そんな大軍がすぐに引き返せるのか、と言っているのです。
秀忠でさえ慶長期のある程度街道が整備された時期に2週間かかってます。
ところで三河物語をはじめ、私の質問をスルーされていますが……まあいいです。
長文失礼いたしました。
大半の家臣は普通に武田やら徳川やらの家臣になる事を選んでるのに、
何をいってるのですか、と思うのですけれどねえ。
貴方は質問返しばかりしてないで、聞かれている事にお答えになられて
欲しいのですけれどねえ。
軍鑑によれば、普通に義信には多くの人が信玄との仲を取り持とうと
仲介に入ったけれど、義信は受け入れなかった、とありまして、
軟禁、という感じですかねえ。信玄も義信が承諾すれば、普通に許すつもりでは
あったのではないかと思うのですけれどねえ。
全然創作でもなんでもなくて、遠州錯乱、あるいは遠州忩劇、という単なる
歴史的な事実なのですけれどねえ。
毎度毎度思うのですが、貴方はどうして基本的にろくにお調べにならないのに
そんなに必死に上から目線を行おうとされますのか、についてご説明の方を
いただきたいと思いますので、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まじめに、貴方は何の「史料」とやらをお読みになっておられるのか、について
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ですから、その後でしっかりと書いてありますよね。
東三河と西三河の旗頭の酒井と石川がそれぞれの兵力を率いて
三方ヶ原に参陣し、そもそも三河遠江で55万石余で
三方ヶ原までに多数の城が武田側に攻略されたり、従属したりしてますので、
それよりもさらに動員数が減退し、一万前後くらいの兵力になり、
その総力に近い8千余で三方ヶ原に徳川はのぞみ、それで敗北して
その後しばらく三千余しかうごかせなくなっている、と。
いや義信が許されるわけないやろ、いの一番に今川の遠江、駿河が欲しいのになぜ親今川派の筆頭をすぐに許す?別に後継者も勝頼や仁科や 信廉、信繁系統に任せればいいし
その武田が今川領国を欲しがって一方的に同盟を蹂躙して義信を死なせて侵攻した、
的な見解は鴨川氏などによれば、資料的に考慮しますれば、
「漠然とした思い込みであるに過ぎない」、と
されておりますけれどねえ。
実際に信玄はその後も今川との同盟に固執する動きを見せており、
義信未亡人の返還を今川から求められたら渋り、
それでも返すなら、これからも武田と今川は同盟である、という誓約書を
書いて欲しいと今川に要望、
今川は誓約書を書きながらも上杉との同盟を進めていく動きを示した為に、
武田の方も織田徳川と組んで今川との敵対路線に、という流れなわけですしねえ。
義信が信玄との和解を承諾すれば、普通に信玄も義信と関係を修復するつもりで
あったように思われますけれどねえ。
貴方遠州じゃなくて、駿河で叛乱勢力があった、って言ってたのでは? なぜそれが遠州錯乱になるの?
もう滅茶苦茶。
貴方はいつも通りの事ではありますけれど、
ご自身がろくにご存じなかった事を指摘されたら
必死になって相手側の述べた事を曲解しようと躍起になられて
なんとかしてご自身が議論的敗北を喫してない事にしようと
躍起になられるのはどうにかならないのかと思うのですけれどねえ。
>>221の人も述べておられますけれど、こちらは普通に
反乱側が駿河の過半を制圧しかねない勢いを示した、的には書いてますが
駿河で起きたなんてどこにも書いてないのですが、
どこに貴方の言うようなレスがあるというのか、具体的にご説明の方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
それから、貴方が答えられてない数々の事柄につきましても、おはやめにご回答の方を
いただきたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいや、当時は家臣達ですら「守ってくれない君主に従う必要はない。」
という自力救済前提の時代ですからねえ。
今川に義理立てして、上杉と織田の2正面策戦を行っても、
それを今川が助けてくれもしなさそうだ、というのであれば、
普通に自国の安全保証を求めるのはある意味自然のように思われますけれどねえ。
義信に関しましては、謀反を起こそうとしてきたから、それに対処をしたまでの話で
それから2年以上に渡って義信は生かされているわけでして、
その死亡まで義信は廃嫡はされておらず、その死亡も病死とも自殺ともいわれて
いるわけでして。
貴方は興奮でもなさられておられるのか、こちら側の文章をよくよくお読みに
なられていないように思われるのですけれどねえ。
当時は今川家は内乱中で、反乱勢力が一時は勢いを増し、駿河の過半を
占領するかもしれない、という程の勢威を示した事もあったわけでして。
もう少し、人に尋ねるよりも先に、ご自身でお調べになられていただきたいと
思われるのでございますけれどねえ。
その家康自身が、下にも書いてありますように、普通に三方ヶ原の後の
野田救援の時には三千程しか動かせなくなっている状況なのですがねえ。
いやいや、なんで貴方の中ではそんなに徳川の兵力だけが
増えるのですかと。
>三河はほぼ無傷だから吉田、岡崎など三河の諸城から集めたら1万はいけるのでは?
いけるわけないでしょうにwと思うのですがねえ。
そもそも、三河・遠江を合わせても、 太閤検地ではおよそ55万石余りで
一万石250人換算の基本兵力動員想定では1万3千程。
しかし、元々武田側に三河の山家三方衆とか、遠江犬居城の天野氏などが従属し、
遠江小山城周辺地帯も武田に従っており、その後の信玄西上開始から三方ヶ原までで
高天神は武田に従属、只来城、天方城、飯田城、各輪城、匂坂城、二俣城、などが
武田側に攻略されており、という状況でして、徳川家の実質石高は
55万石よりも大きく減退している、という状況なわけですしねえ。
徳川は一万前後動員出来れば御の字、という所でしょうかねえ。
それで、三方ヶ原には通説では徳川勢は8千、織田勢が3千、
という状況であったとされ、三方ヶ原には東三河と西三河の旗頭である
酒井と石川がそれぞれの兵力を率いて参戦しており、
普通に三河の兵力も込みにした総力戦を挑んだと思われるわけですしねえ。
で、それで敗北をして、しばらくは三千程の兵力しか動かせなくなっているのが
三方ヶ原以後の徳川の状況というわけなのですしねえ。
これなら普通に数千の兵を抑えにおいておけば、十分かと思われますしねえ。
貴方の言う「史料」って何をお指しになられておられるのでしょうかねえ?
正直、これまでの議論の流れからしましても、貴方がどのような「史料」を
基にして語られているのかと、非常に不可思議に思われる次第なのではございますけれどねえ。
こちらは普通に武田家の書状集を基にして語っておりますだけの話でございますしねえ。
>義信事件で飯富に対する史料なんて武田関係の書籍に全く無いから大発見です。
大発見なわけがないでしょうに、と思うのですけれどねえ。
普通に武田氏関係の学者さんもその書籍で普通に引用している、
普通に前から発見されていて、特に新しくもなんともない、武田家関係の書状ですよ。
1565年10月23日付書状において、信玄は
「飯富が陰謀を行い、信玄と義信の父子の仲を悪くしようとしたので、
飯富を粛清した。信玄と義信の関係は問題はない。」的に書いていて、
義信事件で悪いのは、義信ではなく飯富、という事にしようと躍起になっておりますね。
真面目な話、貴方はどのような「史料」とやらをお読みになられておられますのか、
についてご説明の方をいただきたいと思いますので、
この件についてご回答の方をいただきたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いや、あってるでしょ。
普通に公記の記述を読めば、野戦で波状攻撃で破られたように書いてありますし、
さらには、一向宗自体が普通に各地の敵を破ったり、城を攻略したりしている、
というのは>>210とかに何度も書いてあるのですけれど、
それについてはなぜにスルーなのでしょうかねえ?
いや、今の段階ですら、その織田厨側の方が
義信事件の飯富に関する書状について述べたら
「そんな書状あったら大発見です!」とか言い出したり
遠州錯乱について述べたら、
「創作ですね!」と喚きだしたり、
更に説明したら、こちらのレスを曲解して喚きだしたり、と
色々と議論的にひどい事をしておられますし、
更には徳川の領土が三河遠江で55万石でも、
>>210にあるように、武田が三河遠江の数多くの城を三方ヶ原までに攻略し、
あるいは従属させ、三方ヶ原では三河の兵力も普通に参戦して戦って敗北し、
その結果、徳川が動かせる兵力がしばらくは三千余になっている、
という事を、それこそ何度も指摘しても、必死にスルーして
「三河は無傷だから7000くらい動員できる!」とか喚きだしたり、と
明らかに議論的にひどい事をやっておられるのが織田側であると思うのですが、
貴方は「ずっと上から読んできた」といいつつ、
なんでこういう所はスルーなのか、についてお答えの方をいただけないでしょうかねえ。
そんな事を言われましても、義信は謀反を起こそうとしてきたから
それに対処しただけの話ですし、義信は死亡するまでは廃嫡されてなかったと
思うのですけれどねえ。で、その死亡は自殺とも病死とも言われてますしねえ。
そもそも、武田が織田と同盟を結んだのは、上杉と西上野で敵対してる時に、
西側で織田まで敵に回すと2正面策戦になってしまうからで、
本来なら、今川が戦力として十分なら、そのようにする必要はなかったはずですが、
当時の今川は内乱が起こっていて、駿府が攻略される事も懸念されたり、
独立した三河の松平にも勝てなかったり、と武田が織田と敵対した時に
到底助けになりそうになりえなそうであったからこそ、
武田は安全保証の問題から、織田と同盟をする必要があった、という話
だと思われるのですけれどねえ。
勝頼はかわいそうだな。信玄の度重なる同盟破棄の尻拭いをさせられたんだから。
こいつみたいな単芝の粘着がいるから荒れるんだよな
っていうか、この必死な織田厨の人、っておーぷんの方で
普通に複数端末ID自演の常習犯である事をご自身で認めてますからねえ。
>>36
普通に美濃で信玄は織田と対峙しつつ、
長島を北上させて美濃に侵攻させるつもりで
あったようですけれどねえ。
とりあえず前スレから1日に何十レスもしてるくせに内容が同じようなもんばっかなんだよね
なあ?半コテ気取りはやめなよ気持ち悪い
スルーこそスレの平和の一里塚
めでたくもりめでたくもなし
まったりまったりが大事だお
ガチ無知くんw
中濃には大軍が入城できる城がないので本格的に籠城戦をするなら岐阜、
もしくは尾張まで戦線を縮小しないとならないと思われ
織田家の東濃を睨む重要拠点だお
そこから東濃の連携のとりやすい城を守る戦いになると思うお
勝頼にも東濃の城を全部落とされたわけではなく兼山城と連携をとりながら東濃の織田軍は武田軍と向かいあったお
美濃だと信長がやりたい時間稼ぎ戦術に格好の場所
あそこら辺落とし辛そうな山城とか丘城多過ぎ
勝頼みたいな奇襲じみた感じならともかくもう待ち構えてるからさ~
三河に出て北上?
北上したら美濃行き。しかもかなり険阻で春ならまだ雪が残っている可能性すらある。
あんな経路とる自体どうなんでしょうか?
北上というか東海道筋を進軍して三河から尾張の王道ライン
自分もそれは王道ラインと思うんですけど、それなら浜松・吉田・岡崎は確実に落とさないとだめですよね?
何で三方ヶ原の後に多少の犠牲覚悟して攻めなかったのか不思議です。
三方ヶ原の直後なら徳川も野戦の敗戦が重くのしかかり、浜松を支えられるかかなり疑問なのに。
解散
朝倉は大した水軍を持っていなかったから戦う水軍というより沿岸部に兵を運ぶため船を大量に出したお
おそらく福井県史を書いた学者さんは信長公記以外の越前に残っている資料も照らし合わせてそういう解釈をしたのではないかお
ただ個人的には流石に10万は盛りすぎじゃないかと思うお
成立年代が朝倉滅亡直後と言われ比較的信頼性が高いと言われる『越州軍記』で織田軍十万余と記されているのも大きいと思う
他に北陸七国志でも十万余だし
そこら辺は戦国時代の北陸研究にかかせない資料だおねぇ
それはさすがに無理かと。
信長公記では、織田家オールスターというべき大量の将の名前が出た後で
三万余、と書いてありますし、普通に三万余かと。
>>53
それいったら、長篠の戦いは軍鑑の記述では、織田徳川で10万なのですが…。
普通に織田側の三万余、がどの書籍でも採用されていると思うのですがねえ。
つか朝倉・越前研究のメッカの福井県も織田研究の第一人者の谷口克広先生がそうなのにどの書籍でもって何を指して話しているんだ?
いや、ですから、それ越前軍記を基にしているのですよねえ?
軍鑑で織田徳川勢が長篠で10万になってるのと、
まったく同じだと申し上げているのですけれどねえ。
こちらの三万余は普通に織田側の信長公記で
そう書いてある、と明記してあるのですけれどねえ。
あんた凄いなー
もうさ一乗谷朝倉氏遺跡資料館とか谷口克広氏にアドバイスしてあげた方がいいよ
信長公記では3万と書いてあるのに信用ならない資料を使って適当な事を書籍に書くからそれを信じる人が多くて困ってるって
特に谷口克広氏の『織田信長合戦全録』は他の研究者が結構用いることの多い名著だし
あ~それから俺が持ってる菊地正憲氏が書いた『図解 戦国史』でも10万説を取っているし菊地氏にもアドバイスしてあげた方がいいな
そのような事を言われましてもねえ。
普通に信長公記を参照にして、織田勢三万余、としている記事とか本とかも
普通にあるわけですしねえ。
っていうか、その谷口氏の貴方のいう著作を読んでみましたら、
「越州軍記の10万5千余は大袈裟」
「5万を超す兵力が動員されたとみていい」的に書いてあって
貴方の大好きな谷口氏ですら、10万余などと述べてはおられず、
5万余と書いているようなのですが、この件について
ご説明の方をいただきたいのですがねえ。
>>166をご参照の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方の大好きな谷口氏ですら、
10万なんて書いてないどころか、
それは大袈裟、的に書いていて、5万余くらい、としているのですが
この件についてご説明の方いただきたいと思うのですけれどねえ。
>>148
完全に、といいますか、その書状では、勝頼が
「三村や江馬から報告が来た。三木が敵対した。」
「あいつ取成ししてやったのに敵対しやがった~」的に書いてますから、
その前から敵対してたのなら、もっと書き方が異なるように思われるのですけれどねえ。
歴史学者は一般人と違って兵数なんかにあまり興味が無いんだぞ
適当に書いても、事実関係に影響がないし、
例え真剣に調査しても当時の記録すら曖昧で結果が出ない
っていうか菊地正憲とかが、兵数の専門家だと思う?
また新たな問題が出てずるずる引きずり滅亡したが
仲良しこよししてるんじゃないぞ
地政学的に利害があるかどうかが大事だろ
織田信長と徳川家康は同盟関係を維持し続けたがなあ。
>>55
外交なんてどうでもいい。お前神経大丈夫か? 武田は地政学的に見たら囲まれてるんだから、何処かとは絶対に仲良くしないと包囲される。武田信玄は全包囲を敵に回した大馬鹿野郎だぞ。後年に北条に手を切られたのも、武田信玄の負の遺産の賜物だよ。
あれは目先の欲に呆けた勝頼の愚行だろ。信玄は関係ない
1年で解決したなら具体的に説明してよ前スレで恥かいたからって照れ隠しで荒らしかね?
勝頼好きなの分かったからさ(笑)( ̄ー ̄)
1年で解決したなら武田滅んでないから無知
分かったらさっさと消えな
まあどうせまた表れるんだろうが(笑)君みたいなタイプは本当に分かりやすい
それとも信玄時代の恨みが爆発して手切りにしたと思うの?
情勢は変わるし武田だけじゃなくて北条目線から見てどう対応すべきか考えろ
ムカつくから、じゃなくて。数年前までガチ抗争しといて同盟したりする世だぞ。親兄弟が殺しあう世だぞ
氏政目線から見れば妹を嫁に出してまで落ち目の武田に肩入れしたのに
実弟の景虎を見殺しにされれば背信行為以外の何物でもないだろ
それじゃあよい議論にならんやろ
信長公記も重要資料だが一次資料ではないんだからその数字だけでそれが絶対と言い張るのはどうなのか
少なくとも他に3万と書かれている資料の提示が必要だろう
10万説を使わない本も多くあるのは間違いないがその場合は兵力を記載しないパターンが多いと思うがね
信長公記を使っても自分的には
遅れて動いた信長が1万余騎を率いている
水軍数百艘(少なくとも1万~2万)
美濃口の金森隊(流石に3千~5千はいると思う)
これを考えると先手の兵士がほとんどいなくなってしまうから全軍3万はありえないと思うがね
先手に織田軍に加えて特別参戦の越前浪人衆もいると信長公記が書いているのに先手が1万いくかいかないかとか不自然すぎるやろ
更に万単位の大量の人員を奴隷として連れ去ってるんだからそれにも人出がかかるのに
だってその学者さん、というか福井県紹介の記事に書かれているのは、
越州軍記の10万を基にした数ですよねえ?
軍鑑では長篠で織田徳川が10万になっているように、
敗北した相手側の大軍を大きく書くのも、
よくある話ではないかと。
実際に長篠も越前侵攻も、織田側の信長公記で3万、とされてるんですから、
素直にそれにしたがえばいいと思うのですけれどねえ。
いや、ですから、普通に織田家オールスター的な武将名が羅列された後で、
総勢三万余、と書いてあるんですから、その理窟は無理があると
思うのですけえれどねえ。
っていうか、貴方のその言い方でなら、信玄西上軍でも同じような書き方で
「三万はありえない」とかいえてしまいそうに思うのですけれどねえ。
朝倉・越前研究のメッカたる福井県だけではなく織田研究の第一人者の谷口克広先生も『織田信長合戦全録』で信長公記の3万は先陣説を取っているのに何が不満なのか
まあ、流石に越州軍記の10万は大袈裟とも書いてあるが
そもそも震源の都合で出陣が遅れたのが原因だし
そこまで差はないかもしれないが。
加賀の大将の杉浦玄任が朝倉に加賀南部の地侍を引き抜かれて兵が足りないとぼやいているから朝倉には関係あるかな
特に朝倉は織田に前波とか池田とか大物を引き抜かれて大変なことになってるから
>>79
この時期朝倉本願寺同盟中で、門徒も対織田戦に参加してるから、
=ではなくても≒ではあるんだろうな。
加賀勢は近江にも越中にも出兵してるし、越前に越中から援軍要請来るし、
上杉が越中攻めるのも、間接的には近江戦線の支援になってるんだろうな。
織田も浜松の家康を見捨てれば残された三河が無条件に武田に付くのは分かるだろし見捨てれはしない
岐阜の織田軍が南下してきたところで長島一向一揆を尾張に雪崩れ込ませて挟み撃ちにしてしまえばいい
更に北方の遠藤と郡上一向一揆を中濃の内応している城を裏切らせつつ岐阜に向かわせれば信長は袋のネズミになる
素人にも思い付くことをやらなかったんだから信玄にしてみればまだ足りなかったんだろ
かといって東濃に出てしまえば少数で守りやすい城が多すぎるから二俣城みたいに少数の守備兵に大きく時間が取られる可能性もある
本国を空にしてること、物資の補給が大変なこと、もっと単純に戦費が嵩むことを考えれば一概に時間が武田に味方するとは思えないから勝利の女神がどちらに微笑むかは微妙だな
長島の一向一揆に尾張に侵攻できる余裕があるの? 桑名に滝川、志摩に九鬼、長野に信包がいるのに。
遠藤と郡上一揆を過大評価しすぎてない? 遠藤ってこの頃1万石あるかどうかだし、武将としてもそこまでじゃないからすぐに始末できるだろ。ほかの城の内応は本気かわざとかわからないけど斎藤新五郎とかさ。
長島は城内ならともかく外に出て戦えるのがどれくらいいるのかはっきりしないからなぁ
正直何とも言えない
ただ、郡上の方は安養寺が加勢するから遠藤単体ってわけじゃない
まあ、武田から上杉に鞍替えした三木自綱が72年の暮れから73年の春くらいにかけて信長の依頼で郡上にちょっかいかけていて郡上も緊張しているから南下出来るかは微妙かもしれないが
いや、単に東美濃で包囲網勢と連合して織田と戦う、というのは
元々の信玄の規定路線だっただけの話ですからねえ。
浜松を囲んでいても、
普通に信長はそれをスルーしそうな気がしますので、
特におかしな事ではないのではないかと思うのですけれどねえ。
>>80
とりあえず、信玄死亡後の事ではありますが、
長島一向宗は尾張・美濃に侵攻して焼き打ちを仕掛けているようですね。
>>85
三木が武田から鞍替えしたのは1573年9月末のようですが。
勝頼の書状によりますればね。
いやおかしいでしょ
浜松城を囲んでも織田軍が出てこないならそれこそ朝倉を待ちながら浜松城を落としてしまえばいい
浜松城を見捨てた織田に三河が味方するわけないからするなり三河まで手に入る
さらに徳川軍を吸収して兵力の増強もはかれる
そして尾張に侵入すれば西からの長島一向一揆と挟み撃ちしてチェックメイトだろ
三木の件は郡上の安養寺文書に書状が残っていて飛騨研究の岡村守彦氏が三木自綱の郡上侵入は72年冬から73年春の間だろうと結論つけてる
いやいや、まったくおかしくないでしょ。
美濃に攻め込めば、朝倉も長島も美濃に攻め込めて
三方向から攻撃できまして、さらに遠藤の内応とかも活用できまして
そのように書状などでも書いておりますのに、
なんでわざわざ浜松を攻める必要性があるのかと、っていう話になると
おもいますけれどねえ。自身でこれまで策定してきた戦略を
わざわざ無意味にするような必要はまったくないわけですしねえ。
そうは言われましても、勝頼が1573年9月末の書状で三木の敵対を
書いているわけですしねえ。
>>112
いや、ですから、その誇大宣伝の内容が一致しているだけだと思うのですけれどねえ。
越前侵攻・長篠、それぞれ越前軍記や軍鑑では織田勢10万となってますけれど、
織田側の公記では3万余、になっているのですから、素直にそれを
考慮すればよろしいだけの話かと。
長島の一向一揆って確か小木江城の織田信興を殺して絶好のチャンスの時に尾張中核部に攻め入れなかったよな。あの時より織田側にはまだ兵力あるのに尾張に攻め入れるとは思えない。
>>135
>そうは言われましても、勝頼が1573年9月末の書状で三木の敵対を
>書いているわけですしねえ。
三木が遠藤と敵対したのと三木が武田と完全に手切れした時期が違うだけじゃ。
1572年の上杉謙信が越中を攻める際に姉子路良頼が謙信の要請で援軍を出している
1573年の年初から6月くらいの間に信長の要請で郡上の遠藤のところに兵を出したっていうのが本願寺の記録にある
武田を怒らせたのはどっちだろう?
浜松を織田信長が見捨てるとか大丈夫か?
そもそも見捨てる気がないから佐久間と平手を送ったんだろ。家康には籠城して時間を稼ぐように指示まで出していたけど、それを家康が聞かなかっただけ。
浜松見捨てたら徳川家康は武田信玄に寝返るよ。史料性は怪しいが、三河後風土記に徳川家を見捨てるなら武田に寝返るという似た趣旨の記録があるから。信長がそんなこともわからないほど抜けてるとでも?
ところで、やけに東美濃と言われますが、三河に出た武田信玄はどうやって東美濃に大軍を連れて行くのかご教示下さいませんか? 三河から尾張なら、今川の前例見ても明らかに織田側に迎撃できる地点はなく、那古野か清洲まで行けます。
また、徳川家康を放ったらかしで東美濃は危険ではないですか?
遠国の風聞と、隣国や同国・実際に参戦したものから聞けたでは信憑性がまた違うだろうしな。
まあ自分はそれでも誇張ありだと思っているが。
>>113
地図見ればわかるが長篠から北上すれば武田領通ってそのまま岩村だぞ。
自分の領土を移動するだけだから、敵地を行くことになる三河から尾張よりも行きやすい。
実はそこはルートが少ない
伊那街道で根羽村まで行くと飯田に向かうか岡崎に向かうかの三州街道に分岐するんだけど、そこから美濃に向かう大きい街道は整備されていない
上の人が書いた大平街道は出来たのが江戸時代
それまでは安全に行くなら伊那まで登って奈良井宿まで回り道するか難所を覚悟して大桑峠のある中馬脇新道か神坂峠を越える2択だったみたい
冬だし大軍だと時間がかかるかも
いや、実際にその援軍の数は3千程度しかなかったわけですしねえ。
本気で救援したいなら、この時こそ自身で大軍を率いてくるべきだったと
思いますけれどねえ。
浜松を見捨てたら家康が寝返る、も何も、家康は浜松にいるんですから、
浜松を攻略された時には家康は捕虜になるか、死亡しているか、
だと思うのですけれどねえ。
普通に三河北部からでも美濃に行けますし、
シンプルに三河から北上して信濃に行き、そこからすでに制圧してある
岩村を経由して東美濃に入るなり、で普通に入れると思うのですが、
貴方は何をおっしゃっておられるのか、不可思議にも思うのですけれどねえ。
三方ヶ原の結果、しばらくは家康は三千程しか動かせなくなっているので、
数千程抑えを置いておけば十分かと。
その分は東美濃の武田勢で補充できると思われますしねえ。
尾三同盟が継続したまま家康が浜松で討ち死にした場合と、「織田に見捨てられた」と思った家康が信玄に臣従した場合では、
徳川軍の動向や三河の統治がまるで違ってくる。
武田と徳川は戦っていたとはいえ、武田が徳川本拠地(浜松)や岩村に手出ししたこの時期まで、織田から見れば、武田とは
明確に手切れした訳ではない。援軍3000は包囲網による余裕の無さだけでなく、そういう微妙な時期という背景もあるのでは?
事実上の宣戦布告を受けたのは
いや、それよりも、普通に美濃で織田を朝倉・長島・遠藤らと共同して攻撃して
その勢力を削いでしまえば、あとは徳川はゆっくり料理できますのに、
なんでわざわざ徳川相手に時間をかける必要性があるのかと、っていう話だと
思うのですけれどねえ。もうしばらく徳川は数千の兵力しか動かせない状態ですし、
そもそも、信玄の当初からの戦略では、5月から
朝倉・長島・遠藤らと美濃で織田を攻撃する予定なのですから、
今更無意味に予定を変更する必要性はないと思われますしねえ。
>>165の人に詳しくは聞いて下さい。
朝倉に長島一向一揆に遠藤と連携して、美濃へ攻め入る手筈らしいですから。
すいません。その人は即効NGにしてるんで読んでおりませんわ。
けど大野から岐阜に出るにしても郡上に出るにしても、かなりの難所な上に雪が凄いところで今でも4月半ばくらいまでは通行止めになるような所なのに、既に内部分裂を起こしているような朝倉が選ぶとは思えないですけどね。
義景が命令しても家臣が拒否しそうw
織田側ではそう書いてありますけれど、朝倉側では朝倉が織田勢の陣地を襲撃して戦果をあげたり、
常陸の方の朝倉の縁戚の人は、朝倉と織田が戦って勝利をした事を聞いてそのお祝いの書状を書き、
それを受けた朝倉は「これは武田家臣日向玄東の教えの効果によるものなんですよ。
更なる教えを請いたいと思っております。」的に書いたりしてて、
普通に朝倉側も武田との連携にやる気が旺盛であったり、相応の戦果をあげていたらしき形跡が
伺えたりするわけですしねえ。
朝倉は三月には湖西の方は別に攻めていなかったように
思われるのですけれどねえ。
>>177
普通に近江を突破するなり、他のルートから美濃を攻めるなり、で
色々とやりようはあると思われますけれどねえ。
朝倉の再出陣と攻勢について、貴方のおっしゃられるような理由で
侵攻しないだろう、と類推しているような人や書状は
当時には誰も存在しないと思われるわけですしねえ。
>>179
いや、長島一向宗相手には信玄死亡後に侵攻したはいいものの、撃退されて追撃されて大敗し、
信長自身も凍死者続出の兵達の中を突っきって夜に城に駆け込む、という惨憺たる状況に
なっているわけなんですけれどねえ。いわゆる、第二次伊勢長島の戦いですかねえ。
それから、朝倉を滅ぼしたはいいものの、三か月後にはその杜撰な統治によって
越前一国丸ごと離反されて、越前は一向宗の領国となり、という感じで
朝倉がいた時とあまり領国的には変わりのない、という状況になっているのですけれど、
貴方は何をおっしゃっておられるのでしょうか、と不可思議には思うのですけれどねえ。
>>165では、武田信玄と共に朝倉、長島一向一揆、そして遠藤が連携して美濃へ攻め入る予定とある。1573年5月に。
三方ヶ原で家康が3000しか動かせない。
三方ヶ原の死傷者って確か2000。元の兵力8000で、三河の徳川軍は野田城を除いてほぼ無傷だから、どう考えても5000以上はうごかせるはずだがねえ。
三河北部から抜ける道って大軍には適してないと思うんだけど。しかもまだ残雪もあるのでは? 信濃から行くのならわからないでもないけど。
岩村から岐阜を目指すなら、つまり尾張に三河は無視ってわけか。尾張の織田軍が後詰するなり、徳川家康がガラ空きの駿河か遠州北部に行ったらどうするんだろうな。だいたい遠州も二俣陥落で半ば孤立はしていたが、掛川や高天神は徳川方だし。
いやいやいや、三方ヶ原は死亡者が千~二千余、で
負傷者がその数倍、っていう感じでしょうから、
しばらく三千、っていうのは不可思議ではないのではないかと。
実際に武田が三方ヶ原の後で野田を攻めた時に
徳川が救援に来た兵力は三千でしたしねえ。
それは貴方の印象ではないかと思うのですけれどねえ。
まあ、それならそれで普通に信濃から行くルートもありますしねえ。
高天神に関しては、信玄の書状で「城主小笠原が懇望してきた」とありますので
普通に信玄西上の時は武田側に降伏していて、信玄死亡後にまた離反した、
という感じだとされておりますかねえ。
尾張の織田勢はこの当時ろくに動いておりませんし、そもそも美濃が狙われてて
信長本隊側に兵力が欲しい状況ですから、普通に美濃に集結していて、尾張に
武田に侵攻できる余力などないと思うのですけれどねえ。
信長公記ですら、「方々手ふさがり」と書いてありますしねえ。
徳川は気になるなら、数千程の抑えを置いておけば十分かと。
その分は岩村に入れた武田勢と合流すれば補充できますしねえ。
東濃と一口に言っても、恵那郡は地形的に信濃・奥三河の延長みたいな高原地帯。可児郡か、せめて土岐郡まで
武田が大兵を進めて初めて、岐阜城を含む織田本領の危機という感じ。勝頼が長篠敗戦前の絶頂期、明知城まで
制圧した時でも、救援が間に合わなかった織田は、明知の西隣の小里という谷間の付城で監視・牽制させて、
しばらくは放置プレイできてた。
恵那郡の遠山氏もそうだけど、境目の国人は挟まれた大勢力のどちらにも良い顔をする。遠藤氏その他の北濃や
中濃の領主・城主は、信玄が本気で土岐郡以西に進軍し、野戦で織田を一度は破るか、城砦を幾つか落とすかを
しないと、実際に織田から離反して反織田方としてカウントするのは難しいような。武田が岩村以東に一時撤収を
されたら、その間に織田にやられかねない。
武田方にしてみれば野戦で織田を破らないと岐阜を維持できないからな
織田方がそれに応じるかは微妙だが・・・
何だかんだで遠江、三河の切り取りを織田が黙認するって条件で
濃甲同盟とか成立しそう
浜松城をバカにし過ぎ。近世城郭の要素も盛り込んだ浜松城が
東濃の砦に毛を生やした程度の城より簡単に落城するわけない
あの時点ではあれ以上の三河西進は諦めて美濃入りするのが正解
いやあくまで浜松城を囲むのは信玄が織田が遠江方面に回せる兵力が足りていないと判断したならだから、信玄がまだ織田に兵力の余裕があり織田と野戦はまだ早いと判断したなら東濃に廻るのを間違いだとは思わないよ
結局信玄が織田の戦力をどう見るかなんだけどそこを話すと荒ぶる人がいるからさ
個人的には浜松をゆっくり囲んで朝倉が再度出てくるのを待つのもありだと思うんだよね
三河から尾張の方が長島との連携は圧倒的に容易だし
よく義景はガタガタの家中を短期でまとめて春に出てきたと思うけどね
まとめてない。言うこと聞かないやつは無視して出兵しただけ。
まとめていなくとも動員自体は落ちていないんだから大したもんだと思うけどね
魚住も3月の時点ではまだ拒否してないし
まあ士気自体は8月の崩壊っぷりを見ればこの時点でもどうしようもないとは思うが
越中で戦ってた一揆勢は三万から四万って報告が謙信に入ってたみたいだし
それに勝った謙信もとんでもないが
石高の方が信頼感ある
結局石高や一次資料、それに軍記物も含めて擦り合わせてそれらしい数を出すしかない
軍記物でも江戸とかじゃなくその時代の最中に書かれて重宝されているのもあるし
織田の伊勢侵攻の7万とかいう無理そうな大軍が何である程度の信憑性を持って使われているかというと、勢州軍記に7万とあるだけじゃもちろんなく同時代の一次資料の多門院日記に8万とかあるからなんだよね
これが勢州軍記だけならもちろん多門院日記だけでも信憑性を持って取り上げられることはなかったと思う
2つの資料を擦り合わせて少なくとも普通じゃない大軍を織田が出したということを同時代の人が感じていてとされたから使われているかと
しかし尾張・美濃・南近江だけで7万とか8万ってどうしたらそうなるのか?
それを言いましたら、上にも書いてありますように、
当時畿内にいたフロイスの記録によりますれば
信玄の西上軍は6万であるあると畿内では信じられていたようですしねえ。
普通に畿内では兵力の過大な噂とかが多かっただけではないかと
思うのですけれどねえ。
後に蒲生氏郷の家臣だった伊勢の国人神戸政房の記録と畿内大和の多門院の記録が合致したことが大事なんだが
複数の出所の違う記録があるのが大事
今の石川県、富山県の全人口を合わせて220万。
当時はその半分以下と考えたら30万なんて絶対無理だ。
一向一揆は武士もいたが、大半は一般市民の信者のはずだが。
単純に今の1/10くらい
ただあの時代日本海側は交易で栄えて人口が多いから単純に1/10は出来ないと思うけどね
新潟なんて明治時代は全国で人口が最大だったりしたし
さらに伊勢大湊、尾張熱田、木曽川と抑えている信長の下には人口が集まるようになっていたんだろうねえ。
武田信玄の場合は山国。躑躅ヶ崎なんかにどれだけの市民がいたのか? 信濃とかも肥沃なのは北側で、要衝となると善光寺だし。
駿河は金山と良港あったから、多少は人口はあったと思うんだが、やはり信長との差は大きいよなあ。
謙信の越後は関ヶ原時だけど1国で人口が40万くらいで甲斐と信濃を合わせた人口40万くらいとちょうど同じくらいなんだよな
石高は甲斐と信濃の60万石、越後40万石で負けてるけど交易収入と人口で信玄と互角にやれた
織田は雇い雑兵が多くていつも動員数が高かったとはよく書籍に書かれているよね
そのぶん練度は低かったから付け城戦術とか人海戦術でいけそうな手段を編み出したらしいけど
勝頼飛ばしてそのまま信勝にいく?
あと吉田城と岡崎城を落とさずにどの様にして尾張入りするのかも
ただ、そこから直接北に抜けて岩村に出るには大桑峠を越えなくちゃいけない
千、二千ならともかく二万五千とか小荷駄も多いだろうし時期も冬
飯田まで戻って大平街道にまわるかも
案外天皇の仲裁みたいな形で織田と武田はあっさり和睦しそうな気がしないでもない
武田は織田の西進を邪魔しない。織田は三河、遠江の切り取りを黙認する
こんな条件で和睦しても不思議じゃないな
現実問題として甲斐が本拠地じゃ東濃、頑張っても中濃への侵攻が限界だろう。
濃尾平野の中心を攻略するのは無理だし
何故そんなに武田有利の講和?
謙信が豪雪地帯の越後から西上野に侵攻できるのは早くて5月以降。家康は三方ヶ原で惨敗。
信玄の同盟者が微妙なのは分かってるけど、信長の同盟者はそれ以上の役立たず
は? 徳川家康の何処が役立たずだよ。
三方ヶ原をそもそも過大評価しすぎ。確かに被害は少なくないが、別に徳川は長篠みたいに半殺しにはなってない。
むしろ朝倉、浅井、三好はもっと頑張れよ。
三好はようやく義継と久秀が三好康長や三人衆と和解して足並みそろうかと思ったら義継弟で岸和田城主の松浦信輝が畠山昭高についたたまま織田方に残ったり荒木が織田方に転んだりでどうにも足並みがそろわないんだよね
何より四国三好が内乱始めてしまうし
義昭にしてみれば三好の足並みのそろわなさは大きな誤算じゃないかな
あと義昭が織田方に率いれた筒井が久秀を追い詰めているのも痛かった
相当な条件じゃないと和睦は無理だろ
筒井順慶は荒木村重より少し早い元亀四年一月に織田に帰順していますが、その手土産が荒木村重の内応みたいな話なんですが
筒井順慶はその前年の72年の5月に織田と一緒に松永の多聞山城を攻めてるんだけどその時に誼を通じたみたい
正式に順慶が信長に拝謁するのはもう少し後だけど一貫して織田方として動いてるみたい
荒木のことはよく知らないけどご近所ではあるから伝はありそう
籠城時は大体どんな本でも老若男女合わせて3~4万くらいで書いている
だけど籠城の時は女も老人も役に立つだろうけど野戦や城攻めで連れて行くわけにいかないし
言うほどダメージがあった感はないよな
それ、信玄が引き揚げた後の戦いって書かれてないか?
3月はまだ武田は長篠城にいるんじゃない?
それも訳しかたにも諸説あるらしいのに
もし現実に顔を合わせて素人がそんな説教を研究者相手にしたら単なるノータリンだろ
本当こういうノータリンには今がネットある時代で良かったな(笑)
武田は東濃に出た方が糧道も確保しやすいし撤退も楽だっていうのもあると思うよん
え? 東美濃って山岳地帯だよ。東美濃自体、石高とか人口もたかが知れてるから現地調達も糧道輸送も無理だと思うんだけど。武田信玄は信濃で戦い続けたスキルがあるから、確保できるのかな?
美濃の石高の8割近くは濃尾平野にまたがる岐阜や大垣、各務原だよ。
物資は木曽に集めればいいし、後ろを脅かされる心配もないよん
謙信が出てきてもこちらの方が距離的に楽
上田から近江まで移動してる。あとあの辺は北信濃と違い降雪量は多くないので行軍の妨げにはならない
美濃越前国境付近とか北近江とかのほうが酷い
御館の乱と時期がかぶったりしたら面白いことになりそう
完全に印象論で物を言うけど信玄が生きてたら謙信は武田と一時的な和睦はしても同盟は結ばない気がするんだよなあ
少なくとも信玄と同盟してまで信長と戦うようなことはしなさそう
信玄の胸先三寸次第だろうな。西上作戦の時の信玄と謙信の国力は
120万石と60万石まで開いてたし
越中侵攻を妨害しない代わりに和睦はあり得ると思う
それは本願寺が怒るんでないの?
それに上杉は日本海交易の利益が莫大だからそんなに武田と石高ほどに国力の差はないよ
50万石~60万石の国力差を埋めれる交易って・・・
佐渡の金山も忘れないように。
低学歴を自慢して楽しい?
交易が石高以上に儲かるのは大内や細川を見ればわかるじゃない
そして越後は縦に長いから港がいくつもあったからねー
春日部府中、直江津、柏崎、新潟、蒲原・・
渡辺慶一の本によると入港税だけで4万貫だかあったらしい
ちなみに人口も越後一国で甲斐や信濃を足した分と同じくらいいるらしい・・と前の方に書いている人がいた
上野は平野の多い方は上杉方だし人口にも大して差はないんじゃない?
それって海外との貿易の話だろ
西回り航路で最も恩恵を受けていた朝倉でも
石高ベースでは規格外の兵力は動員できてない
金が集まるところには人が集まる
金と人が集まれば何とかならないことの方が少ないよ
あと謙信は義景の仲介で琉球とまで交易してる
義景はあれで経済面は優秀で海外とも直接交易していたのが一乗谷の出土品からわかってるから謙信も1枚噛ませて貰ってたんじゃないかな
謙信は小浜より西の交易はほとんど義景任せでいなくなったら大分困ったらしいけど
だから義景の最後の方でも信長と義景を和睦させられないものかと考えてる書状が残っている
秀吉の首をとって浅井・朝倉が南下出来ていれば大分違ったのに
地味にあそこがこの包囲網の分水嶺だったと思う
虎御前山の秀吉、大溝古城の磯野、坂本城の光秀とかガチガチ過ぎて勝てる気せ~へん(笑)
朝倉が3月に出兵してきた時は秀吉を避けて湖西の方を攻めたけど撃退されてるし
朝倉は美濃へ攻め入るらしいよ。武田や長島一向一揆と連携して。
どうやって美濃に行くの?
普通に3月に敦賀に出てきたけど・・
なに出鱈目連発してるの?
越美北線と南線の接続を諦めた理由は、経済的理由じゃね?
(そもそも鉄道工事と一緒にすること自体、頭がおかしい気がする)
越前と濃尾平野の直線距離的な最短ルートではあるが、地形・気候的に難所だから大して使われず、
宿場町も発達せず、両側とも人口は少ないまま。だから近代でも、採算がとれず鉄道が繋げない
過疎地である--という意味でなら、おかしくはないな。
すぐに浅井朝倉を亡ぼして長島一向宗までせん滅
この時点で武田に勝ち目はもうないんだよな
ところが武田も本願寺も動かないし・・
それでも多分義昭の援軍要請で朽木と一緒に湖西に出兵したんでしょ
負けちゃったけどさ
朝倉は結局まともに織田と戦わなかった武田とか本願寺に比べてこの時も頑張ってるよ
上杉とガチでやりあってる状況で織田とまで正面からガチで戦いたいとは思わないんじゃ。
さすがにあの時点で北条が上杉と組むとは到底想像できない
あそこで2年も無駄にしたのは痛いな
北条がそのまま同盟してれば早い段階で遠江で揉めるであろう徳川をさっさと叩き潰してただろうに
あれも兵力数千で短期間で撤退だしなー。
>>182
北条が敵対するはまだしも、
北条があそこまで譲歩して上杉と同盟結ぼうとするというのは想像つかなかっただろうなー
勝てるのなら美濃に来るだろうし、勝敗が五分五分なら来ないかもしれない。
いや自分が出した美濃街道の中に「対岸へは丸太の一本橋~~中略~~程度の狭い道」とか「所々に「馬足不通」とあって馬の利用が困難なところがありました」とあるじゃない
そんなところを万を超える軍勢で通ったらどれくらい時間がかかるかもわからんし、馬が使えないんじゃ物資をどうやって運ぶのかっていう問題もある。
武田のためにそんな苦労とリスクを背負う必要を朝倉が感じるかね?
そこまで余裕とやる気あるなら12月に帰らんと思うわ
更に負けた時にそんな道を撤退路に使うなんてリスク高過ぎだし
だから義景は1度も使ってないんでしょ
実際に冬明けに出てきたのも敦賀だし
そのすぐ下に年貢米の輸送について延々と書かれているな
一番下には南北朝時代の戦いにも使われてた事が書いてある
いや、街道が一気に発達した江戸期ですら難所で小さな雪崩が起きないところがないとか書かれてるよ
義景が出兵した時期わかってる?
統率力の問題。
宗滴と義景では実力が違いすぎる。
たぶん宗滴でも山越えは苦難した。義景ではそれはさらに難しい。ましてや宗滴以上の兵力でできると?
飛騨の周りは今ですら中々の秘境w
南北朝も搦め手として利用したってことは主力は別ってことだろうし
あと江戸時代になってよく利用されるようになってからはともかくそれ以前の段階ではどうだったかよくわからないし
数万動かせるような道なら、越前攻めで信長ももっとそっち方面から攻めさせるとかあったんじゃ
武田だけじゃなく義昭にも京都に援軍を要請されているのに美濃に行くなんてありえなくない?
浅井、朝倉、武田で織田家を潰そうとしているのに、京都に出兵したら逆方向だぞ
この前朽木宛の義景書状が見つかって越州軍記の3月11日に敦賀に出陣ていうのが確定した
ちなみに湖西の守りは固くて抜けなかったらしい
あと、小谷城の普請の支援もしてる
帰陣は5月10日とある
南近江を無視して美濃入りは考えにくい
西美濃から東美濃なら楽勝だけど。
東山道=後の中山道は岩村じゃなくて、そこから北へ行った、土岐川と木曽川の間を通っていた。
岩村含む恵那郡南部は、三河侵攻の側面支援&防衛にこそ地の利がある(実際に上村合戦とかが
起きているし、長篠で負けた勝頼も岩村の少し南を通って信濃へ逃れた)。
武田が岐阜を直接衝くつもりなら、荷駄の陸路輸送的にも、木曽川の舟運を使うにも、現在の八百津や
美濃加茂あたりを押さえないと難しいと思う。
信長が東濃には進出したけど稲葉山はまだ落としていない時期に、武田軍と小競り合いしたらしいけど
ほとんど注目されていない「神箆口の戦い」というのがある。この戦場も岩村辺りでなく、そこから北の
瑞浪市で、現在はJR中央線・中央高速が通っている土岐川の谷間。この時の武田の意図は不明だが。
後に勝頼が電撃作戦で明知城まで落とした時も、この神箆にある鶴ケ城と、そこから明知寄りに入った
小里城に警戒部隊を置いて、信長は長篠後まで放置した。つまり、岩村とその周辺だけを武田が押さえても
岐阜には大して脅威にならない。
>この時の武田の意図は不明だが。
いや、前スレにも紹介した武田の書状にもありましたように、
突発的に武田側の神箆城の勢力と、織田勢が激突し、
(武田側の書状に「不慮の事態」とある事から
おそらく何かのはずみで織田が攻めたと思われる。)
武田側が遠山右京亮をはじめとして奮戦して城を堅固に守り、
織田勢の撃退に成功、という感じでして、それで信長は武田を強敵と思ったのか
それ以後同盟を申し込む、という流れのように思われますかねえ。
>岩村とその周辺だけを武田が押さえても
>岐阜には大して脅威にならない。
いやいや、その明智城の戦いの後で、信長は「勝頼は強敵だ!
謙信が信長は畿内攻略を一旦置いておいても、勝頼に対処しなければならない、と
述べていたのは尤もな事だった!」と脅威を感じまくっているように
思われるのですけれどねえ。
×述べていたのは尤もな事だった!」と脅威を感じまくっているように
〇述べていたのは尤もな事だった!」と書状で述べて脅威を感じまくっているように
です。まあ、わかるとは思うのですが、一応訂正しておきますかねえ。
駿河を攻略されるかもとは書いてるな
4月に若狭を攻めてるのはおそらく湖西を攻めたのと連動した動きだと思う
高島郡を守る磯野と一貫して織田方の国吉城の粟屋勝久が連携とってないわけないし
この時の朝倉の優先事項は義昭への援軍だから美濃は頭にないだろうね
3月12日の書状で通行を許可したはずの朽木が
途中で送信しちゃった
3月12日の義景書状で通行を許可したのが判明した朽木が4月7日の義景書状では和邇・朽木を敵城と名指ししているから朽木が裏切ったのか織田方に城を落とされたのかはわからないけどあまり戦況は良くなかったんだろうね
朝倉が在陣した敦賀は越前の範囲ですし、
湖西にも湖東にも行ける場所に位置しておりますので、
義昭の動きにも応じるような動きを示しつつ、
美濃方面の事も考慮していたように
思われるのですけれどねえ。
でないと、義昭の謀反が四月初頭には信長と一時和睦して終結しておりますのに、
5月10日まで敦賀に在陣し続けた事の説明がつきませんしねえ。
5月10日まで敦賀にいて、それから美濃へ侵攻はさすがに無理ではないですか? というか、どのルートで2万も越前から美濃へ行かせるおつもりで?
この義景の出兵は武田云々はあまり関係なくあくまで義昭の挙兵に対する援軍要請の御内書に応えたもの
それは軍記の記述とそれを裏付ける朽木や多胡との書状や禁制でほぼ間違いない
湖西は磯野や明智はともかく国人で織田に明確に味方するのは林と堅田しかいないから他の国人を糾合して上洛すれば問題がないと義昭も義景も考えていたよう
一連の資料で美濃方面に関するものも自分は見たことがない
また、武田からしてみれば引っ込んだ朝倉が出て来て織田の軍をいくらかでも引き付けてくれればそれで問題がないと思うが
むしろ問題は朝倉が出てきても織田はほぼ援軍を必要なく防げたことだろう
朝倉の弱体化は隠せなくなっているのは間違いがない
もちろん予想外の早い織田の上洛で慎重になったのかもしれないが
ねえ、と語尾をつけている人は、朝倉も武田と長島一向一揆と共同して美濃へ攻め入ると言われてるようですよ。詳しく持論述べられて。郡上郡の遠藤も呼応するとか。
ただ、越前から美濃へ行く道はあまりに険阻で私には無理だと思うんですが。
別に私が述べております事は、私だけではなく、普通に武田氏関係の学者さんとかも
述べられておられる、信玄の書状などからうかがい知れる、普通の類推なのでは
ありますけれどねえ。
別に越前から美濃に直接行くルートも一つのルートとしてありではありますが、
(実際に朝倉宗滴とかも行っておりますしねえ。
むしろ、行けない理由が特にないかと思われるのですけれどねえ。)
普通に江北表から南下して突破する方法もあると思われますしねえ。
(虎御膳で朝倉浅井は撃退されたんだ~、的に言うかもしれませんが、
それを言いましたら、朝倉浅井もそれぞれ側の資料では織田側と戦って
戦果をあげておりますので、攻略できない理由には特にならないかと
思われますかねえ。)
江北表から南下して突破って、それ織田軍主力と完全に正面衝突ですよ。撃退する云々以前に、既に1572年冬から1573年春にかけての朝倉、浅井連合では正面衝突しても織田軍に勝てないから、武田に支援を求めたのと違うんですか?
戦果を挙げた、とありますが、1572年頃だとすでに浅井の所領は小谷周辺しかなく、そこさえ付城築かれて動けなかったはずですが。
そもそも朝倉が、あるいはその家臣が自分たちに多大な出血を求める決戦なんか望みますか? 1572年の夏には前波とか朝倉の重臣の離反もあって既に内部崩壊始まってますし。
越前から美濃へ行くルート、あそこは大軍に不向き過ぎではありませんか?
信長主力は美濃にいるのが1573年4月などの状況ですしねえ。
信玄が生存している、というIFでしたら、武田は東美濃に侵攻するでしょうから、
信長はますます美濃から離れられない、という事になるわけでして、
近江を突破して行くのに、特に織田勢主力を相手にする必要はないと思われるのですが
如何なものでしょうかねえ。
まず、朝倉側の資料などでは、朝倉側が織田の陣地を襲撃して戦果をあげたり、
朝倉浅井が織田側と戦って勝利を得て、それを常陸の朝倉の縁戚から称えられ、
朝倉が「これは武田家臣日向玄東の教えによるものです。
更なる教えを請いたいと思っております。」と述べている書状とかがありますかねえ。
浅井も単独で、信玄死亡後の、朝倉も敦賀から一乗谷に戻った後の
1573年5月末の事ではありますが、織田側から夜襲的な侵攻を受けたのを
独力で撃退する、という戦果をあげておりますかねえ。
実際に宗滴がそこから美濃に普通に侵攻を行っているわけですしねえ。
あの、1573年3月に信長は今堅田や田中、木戸、石部など南近江に軍を進めていますけど。さらに信長自身上洛して上京焼き討ちまでしていますが。武田信玄が東にいて存命中に。
つまりまだ織田側には兵力では余裕があったのではないのですか? 美濃に抑えを残して。
いやいやいや、それは義昭が謀反したから、それに対応した形で上洛し、
義昭側の城を攻略していった、という話でして、
今堅田攻めとかはかなり無理をした攻め方をしていたようですから、
急いでいたのは間違いないかと。
さらに申し上げますと、義昭に対しても、信長は
「和睦の条件は義昭様のお望みの通りでいいから」と申し入れて、
急いで和議を結ぼうとし、それでも義昭に断られたら、上京を焼き打ちして
義昭に圧力をかけようとし、それでも義昭が承諾しそうにない、と思ったら
朝廷に働きかけて、勅命講和の形にまでし、義昭には「和睦してくれて
ありがとうございました。」とお礼の使者まで送って、
急いで美濃に戻っているわけですしねえ。
普通に、義昭関係を急いでひとまず終結させて、美濃に戻りたかった、
というのが理解しやすい話だと思われるわけですしねえ。
あの、その時の信長の上洛で、荒木村重と細川藤孝が信長に降っていますけど。明智を仲介にして。
いや、それがなんなんですかと。
それを言い出しましたら、この時期に織田側に敵対した武将とかの数は
もっと多い、という話になりますしねえ。
なぜ信長の謀反や離反の話になるのだろうか?
>>256
それがなんですかって。
細川は足利義昭の筆頭ともいうべき腹心。
荒木は摂津茨木城主で摂津の重鎮ですけど。
この2人が足利義昭を見限った、ということは、必ずしも信長は追い詰められていた、と周りからまだ見られていなかったということではないのですか?
いや、貴方のご主張なさられる世界では、朝倉は前波とかが離反したから、
なぜかはこちらとしては理解に苦しみますが、
まともな戦闘ができない状況なのですよねえ?
それでしたら、織田は年がら年中離反や反乱や謀反が起きまくっていた大名ですから
織田は常にクライマックスで活動していた大名なのですかねえ?
という事について、お答えの方をいただけませんかねえ。
その二人は、信長が来て局地的に優位そうだから織田について、
織田が不利になったら、また普通に包囲網側になったりしてそうだと
思えますけれどねえ。
思えますって。ひとつ間違ったら処断なんだが。特に細川は本能寺でも生き延びた嗅覚を持つのに、そんな安易に考える程度なの?
年がら年中謀反? 反乱?
松永、荒木、明智は隔年だけど。
年がら年中って何のこと?
普通、重臣に離反されたら戦力ダウンじゃないの? 池田にも離反されてるし。まともな戦闘できないまでは言わないが、士気が高いのかねそんな軍隊?
実際にこの時期にどれだけの武将が織田側から離反してると思ってるのか、
という話ですしねえ。その中には元々織田の敵側で、そこから織田側について
そこからまた織田側に敵対して、という武将もおりますしねえ。
あれ?ご存じないんですかあ?貴方は信長信奉者っぽい方だと思いますのに、
信長領国の離反・反乱・謀反が非常に多い事は有名だと思いますけれど、
なんでそんなにご自身はお調べにならないのに、そんなに必死で上から目線を
なさられようとなさるのか、がこちらには疑問なのですけれどねえ。
とりあえず、1570年から行きましても、織田側に離反・謀反・反乱した武将や勢力は
浅井長政・近江一揆・高宮右京一門・日根野・三好義継・松永・美濃遠藤・
美濃安藤・東美濃岩村遠山・将軍義昭・光浄寺・伊丹・山本・磯貝・渡辺・馬場
・多胡・百済寺・伊賀衆・甲賀衆・塩河氏、
の他にもまだまだまだまだたくさんいて、一々あげていくのが面倒になるほどなのですが、
織田は貴方の論旨的には常にクライマックス的な状況だった、という話で
よろしいのでしょうかねえ?という件について、お答えの方をいただけないでしょうかねえ。
とりあえず、上記のような、信長から離反・反乱した武将や勢力の一覧を考慮した上で
お述べになられていただきたいと思われますかねえ。
言っておきますけれど、これでもまだほんの一部ですからねえ。
このスレ、変なのが常駐しだしたな。
一番上の「ルールマナーを守り」が見えないのか?
人にご回答を、と求める前に自分が回答したら?
地理関係だと急に逃げ腰だし、>>256なんかひどい。
細川と荒木の寝返りを「それがなんなんですか」と……。
荒木の地理の重要さと細川の存在の大きさがわからないの?
>>272で挙げてる武将よりこの2人のほうがよっぽど重要なんだけど。
それと>>272もひどい。両遠藤に安藤なんか内通(あるいは疑惑)があるだけで織田方に留まっている。これを離反や謀反に数えるなら武田や朝倉とかも相当数のぼると思うが。
まあ余り言い過ぎたらまた得意のご書状で何か言いだすからこのあたりで……。
相変わらず、必死になって捏造や曲解などに必死になっておられるようではありますが、
>人にご回答を、と求める前に自分が回答したら?
私が何を答えてないとおっしゃられるのですかねえ?
むしろ、その方をお答えになられていただきたいと思いますし、
私に聞かれている事についても、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと
思いますしねえ。
>地理関係だと急に逃げ腰だし、
どこの話をなさっておられるのですかねえ?具体的にお述べになられて
いただきたいと思うのですがねえ。
ぶっちゃけた話、普通に朝倉宗滴とかも普通に攻め込んでるルートで、
なぜだか義景は攻め込めない、となさるのって、
貴方の「それは嫌だから。」という理由以外に何かおありになられるのか、
についてご回答の方をよろしくお願いしたいと思うのですがねえ。
>>>272で挙げてる武将よりこの2人のほうがよっぽど重要なんだけど。
へー、足利義昭や浅井長政って1573年当時の荒木や細川よりも
重要度が低い、って事になっておられるのですかねえ?貴方の中では。
普通に浅井の離反によって信長は朝倉侵攻に敗北する事に
なりましたし、その後数年にわたって苦戦を強いられる事になりましたし、
信長は浅井父子を倒した後に「この父子の所業のせいで、越前の朝倉や
甲斐の武田も敵に回り、足利将軍まで造反した!
一方ならぬ深い遺恨があり、この度悉く討ち果たしたの大慶である!」と
述べておりまして、浅井を信長包囲網の首謀者扱いまでしているのですけれどねえ。
で、足利将軍に関しては、信長は敵対してからも何度も関係修復を求め、
追放してからも帰還交渉とかを行っている程に、その権威に固執している、
という程の存在なのですけれど、これが貴方の中では、
1573年当時の細川や荒木よりも重要度において劣る存在、
なのですかねえ?ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>272であげた武将達で貴方がケチをつけられそうなのは、それしかいないのですかねえ。
20人以上あげた、しかもそれでも織田家から離反・反乱した武将達の中では
一例にしか過ぎない武将達の中で、貴方がケチをつけられそうなのはたったの二つだけ、なのですかねえ?
しかも、そのうちの遠藤は信玄と度々連絡をとりあって、恩賞の約束や共同策戦の打ち合わせまで行い、
武田と朝倉とかの連絡の仲介とかまでしていますし、
安藤に関しましては、結局この時の内通によって後に信長から粛清されておりますしねえ。
といいますか、そもそもの問題として、重臣や家臣武将達から寝返られたら、
貴方的にはクライマックス状態なのではなかったのですかあ?
>>272で上げた武将以外にも数多くの武将達が織田から離反・反乱していて
貴方の大好きな荒木も後年にしっかりと離反しておりますし、
その他の家臣や武将も膨大な数が織田から離反・反乱しているわけですが、
貴方的には織田は常にクライマックス状態であったのでございましょうか、
という事について、おはやめにご回答の方をいただきたいと思うのですがねえ。
正直、このように必死になって、なんとかして相手のいう事を曲解とかなさられようとしてまで
相手側のくさしに躍起になっておられる貴方が何をおっしゃっておられるのかと
思うのではありますけれどねえ。
それを言いましたら、朝倉は織田勢主力相手に渡り合って戦果をあげ、
浅井は羽柴・柴田の夜襲侵攻を単独で撃退し、という感じで
十分によくやっているように思われる次第なのですが、
その件については、どのように思われます次第なのでございましょうかねえ、
と思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、明らかに普通の、それも結構な身分の武将達とかが、>>272をはじめとして、
当時の織田からは大量に離反や敵対をしているように思われる次第なのではございますし、
そもそも、一時は明確に権威と国力の共同勢力として活動し、後々まで信長がその権威に固執した、
将軍義昭が離反・敵対している事をはじめとして、普通に織田側からの離反者達の影響力やその存在の大きさは、
決してスルーできるようなものではないように思うのですけれどねえ。
そもそもの問題として、>柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛
を貴方が重臣中の重臣、とはおっしゃいますけれど、この明智は足利からの鞍替え組ですし、
他の柴田やら羽柴らやら佐久間やらも、信秀時代はとても重臣とは言えない存在ですし、
これで前波の家柄がどうとか言われましても、という感じですしねえ。
そもそもの問題として、貴方があげられている前波吉継、を朝倉義景の側近中の側近、とは言えないように思われるのですけれどねえ。
前波吉継は前年の志賀の陣で、兄の景当が前波家当主として、朝倉家の奉行人として、重臣中の重臣として活動していたわけですし、
それが志賀の陣で死亡した事から、弟の吉継がそれを継承し、ほどなく義景の勘気にふれて、
何度も赦免を願い出ましたけれど、許されなかった事から、陣地を脱出して織田側に参じた、という流れですし、
元々吉継も義景の随臣として活動してはおりましたが、立場的には兄の方が上でしたでしょうし、
離反した経緯も上記の通りですので、「重臣の前波家が離反した!朝倉はもう戦えない!」的な話では
ないように思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。現にその後も、普通に朝倉は戦いを続けているわけでございますしねえ。
富田も当主随臣としての家臣の家柄ですしねえ。これで「重臣の富田が離反した!朝倉はもう戦えない!」
的な話ではないように思われる次第なのでございますが、如何なものなのでございましょうかねえ。
ご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
上記のような感じで、富田や前波「吉継」を対象として、織田側で例をとるなら、
菅屋長頼とか、堀秀政とか、長谷川秀一とか、そういった人々が妥当なように思われるのですが、
如何なものなのでございましょうかねえ。
それなのではありますが、一つずつ検証していかせていただきますと、
1.まず第一に、信玄が義景に送り、日向玄東に詳細説明をさせた戦略においては
普通に1573年5月に織田を武田・遠藤・朝倉浅井・長島などなどの共同で
攻撃する策が述べられている。日向玄東に関しては、朝倉義景もその教えのおかげで
織田に対して勝利を得られた、更なる教えを請いたい、と述べ、
好意と敬意を持っている事が伺われ、武田との共同や戦略について、
無下にするつもりかは疑問である事。
2.>それは軍記の記述とそれを裏付ける朽木や多胡との書状や禁制でほぼ間違いない
>むしろ問題は朝倉が出てきても織田はほぼ援軍を必要なく防げたことだろう
>朝倉の弱体化は隠せなくなっているのは間違いがない
これに関してなのですけれど、貴方のいう軍記、といいますのは
越州軍記こと朝倉始末記の事でございますよねえ?
朝倉始末記における義景の敦賀在陣の時の様子は要約しますれば、
以下のように書かれておりますかねえ。
「義景は3月11日に敦賀へ向けて出陣した。
4月中旬には(その軍勢の中から)山崎・魚住を大将とする三千余を派遣して、
若狭に侵攻させ、栗屋城の近辺を薙ぎ払い、苗代を襲わせ、
近隣に放火して、中山という所に城を築かせ、防御の兵を入れ、
義景は5月10日には一乗谷に帰陣した。」
これをそのまま解釈しまするに、普通に義景は主力を敦賀に在陣させつつ、
若狭方面に三千余の兵を派遣して、苅田(というか苗代襲撃だけど)や
焼き打ちを行わせ、防御拠点を構築させて守備兵を入れた、
という感じで、普通に敵領土への示威的・収奪的な攻撃を行い、
その後で進出した地域に拠点を築いて帰陣した、という感じで
「織田が援軍の必要もなく朝倉を防いだ」
「朝倉の弱体化は間違いない」的な話ではないと思われるのですが、
如何なものでしょうかねえ?
>>245にありますように、朝倉始末記に記される朝倉の行動は、
2万近いと思われる義景率いる朝倉勢から、若狭方面へ分遣隊3千を派遣し、
そこで焼き打ち・収奪的な侵攻を行わせ、進出した地域に拠点を築いて兵力を入れ、
という普通の侵攻のプロセス・戦果とされる行動なわけでして、
長篠の前に徳川に対して同じような行動を行っている武田勝頼も、
弱体化を示しているとは言われず、むしろ武威を示す戦果、的に
扱われている感じではありますかねえ。
で、朝倉氏研究者の松原氏などは、「小谷城を普請してそれを保守する必要性」と
「高島郡方面への通路が確保されなかった事」から、
義景が敦賀にとどまり続けたのでは、としておりますかねえ。
このうちの「通路」に関しましては、新資料の朽木宛の書状でなんとかなる
可能性があった、としますれば、それで義景が動かなかった理由としては
>>226で貴方が言うように、朽木が敵側に寝返った可能性、
義昭が信長と一旦和睦した事を知った可能性、
そして、義景が前々からの武田や本願寺との連携戦略による、五月共同侵攻、
に備えていた可能性、などがあげられるように思われまして、
上記のように朝倉が小谷方面の普請や保守などを行って
主力を敦賀に置いたままにしていた、という事を考慮しますれば、
朝倉義景の考慮には普通に湖東から、あるいはそのまま越前から美濃への侵攻、
というのが想定として十分あり得たように思われるのですが、
如何なものでしょうかねえ。
湖東からは織田軍主力との衝突。
越前美濃間は険しい山越え。
どうも朝倉に多大な出血ばかりのような。
1572年冬に撤退したのは、義景の信玄に対する不信もなかったのかな? 自分らに出血を強いることを義景本人やその家臣にできるのかな?
そもそも朝倉が美濃侵攻したらあたるのって、安八郡の大垣の氏家直通に曽根の稲葉一鉄と貞通で、どちらも美濃の大身ですよね。武田が東美濃で楽してる間に朝倉は多大な出血を嫌でも強いられませんか?
いや、ですから貴方はなんでそう、都合悪い事柄とかを
必死でスルーしようとなさられるのか、が疑問なのですけれどねえ。
信長は4月には普通に美濃に戻っていて、武田などに備えており、
湖東から侵攻しても、織田勢主力とあたる事にはならない、と
何度も述べておりますのに、なんでスルーしようとなさられているのですかねえ?
義景が若狭に分遣隊を派遣するのでさえ、4月中旬であって、
そのころには普通に上記のように織田勢主力は美濃にいるんですけれどねえ。
第一、普通に美濃を攻めるとしても、武田・遠藤・長島、などと共同して攻める、
という話なのですから、普通に織田勢の後方をつける可能性が高いですし、
仮に美濃で織田勢主力が自身達の方に来たら、防御して、
武田や長島が別方向から侵攻させるようにすればいいだけの話ですしねえ。
むしろ、こんなに有利なのに攻めない理由もないと思うのですけれどねえ。
東美濃で楽をしてる、って武田は東美濃から侵攻して、織田勢主力と相対する事が
普通に予想されているわけですし、氏家や稲葉だけでは朝倉浅井に侵攻されて
防ぎきるのは困難であると思われますしねえ。
織田軍主力って、西美濃にいるんじゃないですか? 岐阜、大垣、曽根、不破郡今尾の高木貞久、多芸郡野口の西尾光教とみんな西美濃か中美濃です。
東美濃の山奥に大軍向けるより、まずは距離的に近い朝倉とやるんじゃないですか? 困難の問題ではなく、被害をこれでは強いられる戦いを朝倉にできるのか、とお尋ねしているのです。8月には家臣団がバラバラになり、出陣拒否さえした家臣もいた朝倉に。
そもそも東美濃の武田は岩村を制圧していただけではないのですか? 明智とか落としたのは勝頼だし、恵那郡苗木の遠山は岩村遠山と同族だから寝返っていたんですか?
まず東美濃平定から始めないといけないから、しばらくは東美濃で足止めされませんか? 金山には宇佐山を浅井、朝倉から守り抜いた森とその家臣もいますし。
共同したらうまくいくみたいにありますが、今まで包囲網で共同してうまくいったほうが少なかったのではないですか?
長島一向一揆も、仮に尾張中核にいくなら清洲、小牧山、楽田、犬山は落とすことになりますね。この4つはいずれもそれなりの城ですが、落とせるんですか?
あなたの話では、近江にいて、湖東から攻めると織田勢主力とあたる事になる、
だったのではなのですかあ?まずは設定をはっきりさせてもらえませんかねえ。
ですから、それなら陣地を築いて防御に徹し、攻めてくる織田勢主力を
大いに撃退してしまえばよろしい、という話だと思うのですけれどねえ。
当時の美濃にいる織田勢主力はせいぜい三万いくかどうかでしょうから、
2万数千の朝倉浅井勢なら、陣地防御に徹すれば余裕で撃退できると
思いますし、織田もそれはわかるでしょうから、無理攻めはせずに対峙となり、
その間に武田や長島が別方向から侵攻していけばいいだけの話ですしねえ。
だけ、といわれましてもねえ、としか。それで武田勢主力の美濃への侵攻が容易に
なったわけですしねえ。とりあえず、秋山勢などが
それらの東美濃の豪族連合を上村合戦で撃退し、大きな打撃を織田側に
あたえる事には成功しておりますかねえ。
森可成はその志賀の陣で朝倉浅井に打ち倒されて死亡しておりますけれどねえ。
志賀の陣では普通に信長が土下座降伏宣言までして和睦締結してもらう程に
追い詰められていますのに、うまくいってないといわれましてもねえ、としか
思われませんかねえ。
長島は普通に美濃に侵攻すると思われるのですけれどねえ。
なぜ尾張にいくと思われるのですかねえ。
アレと同等な人なのかもしれんけど
貴方もそうやって、必死に抽象的にご自身に都合の悪い論旨などを主張なさる人々などを
抽象的にレッテル貼りしようとするのではなく、具体的に論旨などをもって
議論をなさられる方が有意義であると思うのですがねえ。
まあ、そのように貴方がおっしゃられる以上は、こちら側の論旨に対して
どこをどう、異議を唱えたい、と申されるのか、について
具体的に資料やら論説などを基にして語っていただきたいものでは
ありますかねえ。
別にアンタが俺にとって都合の悪い論旨を主張してるわけじゃないよ
けど特に誰のどのレスがとは言って無かったんだけど何で自分の事だと思ったの?
いや、なぜだか、織田側が有利、的な論調に異を唱えるような論旨を述べる人々に
対して、なぜだか織田側の支持をなさられている人の中の特徴的な方とかは
レッテル貼りとかを行われようとなさられる傾向があるように思われましてねえ。
そうですか、それでは貴方はどなたの事をおっしゃられたのか、
についてお教えの方をいただけないでしょうかねえ。
東濃まで行けば、朝倉浅井の湖東攻めや六角の挙兵が効いたろうに。
勝頼に全権を与えて侵攻させた方が東濃、中濃くらいは
余裕で切り取れたんじゃね
二俣城、野田城とか時間掛かり過ぎだし
総大将が病を患い出陣ってリスク高過ぎだったのかと
諏訪から復姓したばかりの勝頼だと総大将として心許なかったんじゃね
弟の信繁が生きてれば代理で総大将を任せたかもしれん
信長でさえ、やベェよあれ。言わせるくらい脳筋だったし
前スレにもあったように、謙信はその後も武田領土にはろくに攻め込まず、
普通に北陸と関東で戦い続けて、
武田主力をわざわざ敵に回す理由も必要性もない、
という話なのですけれどねえ。
普通に朝倉は三月に出てきてますし、やる気も十分ではないかと思われますかねえ。
それは信玄が帰国したからでしょう?
信玄が死んでも武田兵25,000が死んだわけじゃないし
冬には信玄や顕如の頼みを無視して帰り、3月は義昭の頼みを聞くふりして実は何もしなかった義景が謙信よりやる気があるとか理解し難いよ
まあ、これは最早印象論だし決着のつかない話だと思うけど
前スレでも散々に言われていたと思いますけれど、
信長が謙信に送った盟約書状では、
「信玄は織田徳川に圧迫されて信州境にまで撤収している状況で」
「だからこそ三大名で一気に武田領国に攻め込んで打ち倒すべき時」という話なんですよ。
無論、史実は大きく異なりますが、信玄が生存していても攻め込む予定の「盟約」
ですのに、なんで信玄が死亡して、後継体制を固める時なのに
攻め込まないのか、は謙信が北陸とか関東の方が優先順位が高かったから、
という理由が一番理解しやすいと思うのですけれどねえ。
結局、義景は5月侵攻に備えていた、という話だと思われるわけですけれどねえ。
あの、上杉が関東に攻め入るなら、武田は無関係ではいられないはずですが地理的にも。
秀吉さえ抜けなくなってる当時の朝倉、浅井に5月侵攻は可能なのかなあ?
とりあえず、史実では普通に北陸を1573年の年末までかけて侵攻してひとまず形をつけて、
それで関東遠征を延期までしている程ですしねえ。
さらには、その次の年の関東遠征の時も、普通に武田よりも北条相手に戦い続けて
武田はその間、普通に史実では織田側に対して東美濃攻防をしたり、
高天神攻めをしたりしてましたのですけれど、貴方のいう事は史実との相違が大きくありませんかねえ、
と私には思えて仕方ないのでございますが、この件について
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、朝倉浅井に関しましては、何度も言いますように、
信長側の資料である公記だけを読めばそう思われるかもしれませんが、
何度も書いておりますように、朝倉・浅井側の資料では
織田側の陣地を襲撃して戦果をあげたり、
朝倉が織田側との戦闘に勝利して、常陸の縁戚から賞賛されて
「武田家臣日向玄東の教えによるものです。」といったり、
浅井が単独で織田側の夜襲的な侵攻を撃退したり、と
朝倉浅井側も十分戦果をあげたり、戦力を有したりしている、というのは
なんでスルーなさられるのか、についてご説明の方をいただけませんかねえ。
だって7月にはまともに戦わないうちにボロボロになったし
あんまり過度の期待は酷よ
それを言いましたら、信長の生涯でどれだけの離反・反乱・謀反があった、
という話だと思うのですけれどねえ。
極的な戦闘なんて出来ないも何も、朝倉側が織田勢の陣地を襲撃して戦果をあげるのも、
朝倉が織田側との戦闘に勝利して、常陸の縁戚から賞賛されて
「武田家臣日向玄東の教えによるものです。」というのも、
浅井が単独で織田側の夜襲的な侵攻を撃退するのも、
全部貴方がいう前波とかがどうたらした後の話ですしねえ。
そもそも、前波は筆頭家老ではないように思われるのですけれどねえ。
元々の私のレスは>>260よ
浅井の話なんてしてないわ
いやいや、ですから、>>277で貴方が
しっかりと今の貴方のIDそのまんまで、
>浅井・朝倉の大軍相手に信長が帰還した後も小勢で3ヶ月近く守りきった秀吉の功績と
>たかだか夜討ちを撃退した程度の功績を
とか書いておられるではないですかねえ。 なんで今更他人装いできると思っていらっしゃるのですかねえ?
で、こちらは、義景は12月3日には撤収を開始しておりますから、
せいぜい2か月ちょいですってば。
っていうか、浅井はその羽柴と、さらに柴田を先陣として
朝倉もいない状況の小谷を一気に攻略しようと夜襲をかけてきた織田勢を
独力で撃退したのですから、十分賞賛されるべきだと思うのですけれどねえ。
なんで羽柴は賞賛して、浅井は賞賛されないのかも不可思議な話だと思いますしねえ。
2か月対峙したのをそこまで多大に言うのでしたら、
浅井は単独で長期にわたって敵地の中にいるようなものですしねえ。
と説明してるわけなのですけれど、なんで「やる気」の問題にすり替えられておられるのですかねえ?
この件についてのご回答の方をいただけませんかねえ?
なんといいますか、織田支持者の人は、ご自身の言われた事や、相手側の述べた事を
曲解なさられる癖でおもおありなのですかねえ?
あぁいまいち言っていることがわからなかったんだけど夜討ちは間違いで朝倉が撃退して武田の家臣に何たらのほうね
それぐらいで挽回が効くほど朝倉の状態は良くないでしょってこと
秀吉がやったこととその朝倉の家臣がやったこととを同列に扱って朝倉は大丈夫って言われてもって話
ようは朝倉に期待するのは酷だと思ってるし
その朝倉の家臣の功績を挙げたからといって朝倉が普通の状態に戻って秀吉と戦うこともましてや虎御前山を落とすのを期待するなんて酷と思ってるわけ
ですからあ、なんで朝倉が普通に貴方のいう家臣離反の後も
織田勢主力と渡り合って度々勝利をあげておりますのに、
たかだか2か月ちょい、砦を維持した秀吉の事は
そこまで大きく賞賛しますのに
単独でその羽柴と、さらに柴田を先陣とする織田勢の夜襲攻撃も
独力で撃退して、長期にわたって周囲ほぼ敵地で戦い続けた浅井とかも含めて
相手側はそんなに評価に差があって、なぜだか挽回が出来ない事になるのですか、
という事について、ご回答の方をいただきたいと思うのですが、
その件についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
博学なのはわかりますけど他の人の意見を小馬鹿にして、見下した物言いと○○ですねぇ の言葉使いがきもすぎてロムるのも苦痛になりました。
>他の人の意見を小馬鹿にして、見下した物言いと
そんな事はないのですけれどねえ。
むしろ、なぜだか必死な織田側支持者の人とかが、
なぜだかご自身ではお調べにならないのに、
こちらに対して煽り罵倒上から目線、
などを繰り返しておられるのに、それに対応して色々と史実の提示を
こちらが行っておりますのに、そのように言われてしまいますのは
心外の一言ですかねえ。
そうですか。レスの流れを見てたら、あなたが言うような織田厨が煽っているような感じは受けずに、むしろあなたの方が彼らを挑発してるように感じたもので。
まあ私は織田厨でも武田厨でもなくて、色々な方の意見を面白く感じてレス見てた人なんで、あなたの博学は認めますが、他の人の意見が封殺されているような感じがしたので、レスしました。
後、これは私の感性なので申し訳ないですが、○○ですからねぇ~の言い方は第三者から見てもあまり良い印象はありません。小馬鹿にしてる印象があります。
そうですかねえ?
こちら側が提示した義信事件の書状について
(普通に非常に前から存在を認められていて、特に新しくもない書状ですが。)
「そんな書状存在しない!大発見ですね!」とか言い出したり、
遠州錯乱の事を指摘したら、
「そんなもの存在しない!創作ですね!」とか言い出したり、
それを指摘されたら、こちら側の述べてきた事を曲解して叩こうとしたり、等々
と色々と非常に問題があるように思われます事を、
このスレだけでもこちら側は、必死な織田支持者の側の人にされているのが
しっかりとレスで残っているわけなのですが、なぜに貴方は
そのようにおっしゃられるのか、が不可思議に思われたりするのですけれどねえ。
むしろあなたの方が反論してきた人に織田厨と決めつけて、攻撃してるように感じますよ。
後、書状等を出されて自分の意見を述べるのはいいんですが、このレスはあくまでIFの話で歴史上の事件の真相解明とかじゃないですから、自己の意見や予想を自由に言い合うのは別にいいんじゃないですか。
過去の書状にあるからって言って他者のレスを頭から否定・嘲笑するのは第三者から見てても不愉快なんですよ。
いやいやいや、こちら側のいう事は曲解したり、
ろくにお調べにもならずに罵倒したり、
相手側には回答を求めながら、ご自身はろくに答えずに
都合悪い事はスルーして混ぜ返す、
といった感じで、非常に議論的によくないと思われる行動を
とられているわけなのですけれどねえ。
何度もお聞きしておりますが、なぜにこの件についてスルーなのか、について
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そうは言われましてもねえ。
織田側は包囲網側の予想とかを「史実的にあり得ない!」とか言い出し
じゃあ書状や当時の状況分析などから、「史実的に考慮しましょう」という話をしたら
「そういうスレじゃない!」と貴方はおっしゃられるわけですかねえ?
なんかもう「織田側有利じゃないと嫌です!」といわれてるようにしか
思われないのですけれどねえ。
いや、所詮IFの話だから、いくら過去の書状出しても検証なんて不可能なんですよ。だから他者の意見をあり得ないって言っても、それは自己の脳内の予想であるから、真に正しい意見なんか無いってことを言いたかっただけです。
それを言いましたら、織田側の意見自体も、そもそもこのスレ自体も
書き込みをする事が不可能になってしまうのでは、という事を
こちらも申し上げたいのではありますけれどねえ。
以前は分かりませんが、ここ最近のスレではあなたが言う織田厨よりもあなたの方が他者を小馬鹿にして、板を荒らしてるように見えますよ。
だから所詮IFスレなんだから、僕はこう予想しますという他者の意見を書状がどうたらで小馬鹿にするあなたの態度が不愉快だと言ってるんです。
あなたの考えや意見がおかしいとは言うつもりはないですよ。
またあなたが全面的に信用する書状も専門の学者から言わせれば、色々な注釈や批判もあると思いますよ。
この板はそんな歴史学者の検証の場ではないんですから、あなたが思うような歴史の知識が浅い人の意見を小馬鹿にする態度はやめてくれということです。長文失礼しました。
非常に攻撃的で、煽り罵倒、なぜだかご自身ではろくにお調べにならないのに
必死に上から目線、とか色々と問題があるように思われるのですけれどねえ。
プロ野球の優勝と高校の球技大会の優勝を同列に扱うみたいなもんだわね
ちなみに前波家は内衆筆頭で一乗谷四奉行の家柄
足利義昭が朝倉館に御成りした時には年寄衆の筆頭として挨拶・接待してるわ
吉続自身は義景と馬が合わなかったのか揉めてそれが裏切りに繋がっちゃったけど家柄だけなら間違いなく前波は朝倉家では最高級よ
いやいやいや、義景は12月3日には撤収を開始しておりますから、
せいぜい2か月ちょいですってば。
っていうか、浅井はその羽柴と、さらに柴田を先陣として
朝倉もいない状況の小谷を一気に攻略しようと夜襲をかけてきた織田勢を
独力で撃退したのですから、十分賞賛されるべきだと思うのですけれどねえ。
なんで羽柴は賞賛して、浅井は賞賛されないのかも不可思議な話だと思いますしねえ。
2か月対峙したのをそこまで多大に言うのでしたら、
浅井は単独で長期にわたって敵地の中にいるようなものですしねえ。
筆頭は朝倉景鏡とか、景健とかの方ではないかと思うのですけれどねえ。
まあ、それらは一門衆だというのなら、そうなるのかもしれませんがねえ。
何か話が噛み合ってないけど浅井がやる気がないとは言ってないですわよ
ただ、少数の浅井のやる気は残念ながらそんなに戦況に意味がないですからあくまで朝倉のやる気の話かと思っていたんですけど
一門衆はそりゃあ別ですわよ
カテゴリー違いってやつですわ
いや、貴方明らかに>>277で
>浅井・朝倉の大軍相手に信長が帰還した後も小勢で3ヶ月近く守りきった秀吉の功績と
>たかだか夜討ちを撃退した程度の功績を
とか書いておられるではないですかねえ。
で、こちらは、義景は12月3日には撤収を開始しておりますから、
せいぜい2か月ちょいですってば。
っていうか、浅井はその羽柴と、さらに柴田を先陣として
朝倉もいない状況の小谷を一気に攻略しようと夜襲をかけてきた織田勢を
独力で撃退したのですから、十分賞賛されるべきだと思うのですけれどねえ。
なんで羽柴は賞賛して、浅井は賞賛されないのかも不可思議な話だと思いますしねえ。
2か月対峙したのをそこまで多大に言うのでしたら、
浅井は単独で長期にわたって敵地の中にいるようなものですしねえ。
と説明してるわけなのですけれど、なんで「やる気」の問題にすり替えられておられるのですかねえ?
この件についてのご回答の方をいただけませんかねえ?
なんといいますか、織田支持者の人は、ご自身の言われた事や、相手側の述べた事を
曲解なさられる癖でおもおありなのですかねえ?
そうですかねえ?実際に重臣、っていう感じで扱われている感じではありますけれどねえ。
野田福島の時も出陣してますし、三津寺の時も出てますし、
信玄と戦略を練っていて、普通に侵攻する予定だったなら、
普通に出撃するでしょ。
といいますか、貴方も貴方に聞かれている>>283の事柄について
おはやめにご回答の方をいただきたいのですけれどねえ。
都合の悪い所はスルーしようとするのが、織田支持者側の特徴的な人の
共通項のように思われて仕方がないのですがねえ。
別に織田支持者ではないけどなんでそんな意味のないレッテル張りをするのかしら?
つねに武田有利を唱えないといけないスレなの?
信長包囲網で同時にうまく侵攻するなんてうまくやったこと今まであったか?
1572年でも武田は二俣陥落に2か月もかけたから、朝倉はやる気無くしたんでは?
朝倉は信長の主力とやりあってるのに、武田は徳川のしかも一部隊が守る城すら落とせないんだから、期待外れもいいところ。
ところで二俣で2か月もかけてるようでは、東美濃の金山もそれだけかかりそうな気がするよ。岩村も結構かかってるしね。
その間に信長が動く。そうしたらまた危険は朝倉に押し付けられる。
ところで長島が動くと言ってるけど、>>293で別に尾張の織田軍は長島を襲わなくてもいいよ。美濃入りしようとしている長島軍の背後なり横腹なり突いたらいいんだけど。
野戦だから長島での守戦のノウハウは生かせないよ。
桑名の滝川らも別に長島に行かなくても、志摩の九鬼の支援を得て尾張熱田から上陸して長島出撃軍の背後つけるし。
長島の一向一揆の火付け働きを野戦と同様に評価しているみたいですけど、火付け働きと野戦は全く違うと思うのですが。
この点、>>277と同じで長期にわたり横山で奮戦した秀吉と、部分的な勝利をしたにすぎない浅井・朝倉を同列にしているのと同じように感じます。
それと書状ばかりではなく、地形も考えましょう。
東美濃に行けば、変事があっても武田軍主力は信濃にも遠江にも三河にもすぐには戻れません山奥だし。
徳川家康をこの場合3000だから放置しておくんですよね?
三河の徳川軍は岡崎と吉田と刈谷といずれも無傷ですけど。つまり兵力温存されてますよね。
合わせたら貴方がいわれる3000に最低で5000はプラスできます。
この8000の軍勢が遠江で反撃したらどう対処されるおつもりで?
>信長包囲網で同時にうまく侵攻するなんてうまくやったこと今まであったか?
普通に志賀の陣で信長がすし詰めにされて、
土下座降伏宣言的な書状までだして、和睦してもらう事になっているのですが、
なぜにその件がスルーなのでしょうかねえ。
そんな事を言われましてもねえ、としか。二俣以外にも、武田は数多くの徳川側の
城を攻略・従属させておりますし、その事も普通に朝倉に伝わっておりますしねえ。
そもそも、二俣は長篠の後で武田が救援を送れない状況になったにも関わらず、
半年以上にわたって徳川の攻撃を凌ぎ続け、結局徳川は城主城兵の無血開城を条件に
城を引き渡してもらった、という話ですしねえ。
これを2か月で攻略したのですから、むしろ賞賛されるべきかと思いますしねえ。
>岩村も結構かかってるしね
いや、岩村は速攻で開城したはずなのですがねえ。
何を基にしてそう語っておられるのか、についてご説明の方をいただけませんかねえ。
長島や加賀に比べて摂津の本願寺はなんか外に出たがらないわよね
信玄の書状によりますれば、信玄の五月侵攻によって
美濃で朝倉・浅井・遠藤・長島・武田が攻勢をかけるのと同様に
大阪本願寺門徒も畿内で一斉蜂起する、という予定だったようですかねえ。
大阪ではなく大坂ね。
それと武田信玄の5月侵攻。武田信玄の嫌らしさを感じる。自分は東美濃平定に着手。織田軍の主力がいて危険そうな西美濃から北近江は朝倉、浅井、長島一向一揆にお任せ。
これではまた朝倉義景が越前に帰りそう。
そんなわけがないでしょうに。元々織田は武田を想定して美濃にいるわけですしねえ。
普通に織田主力が武田に向かえば武田が対陣して朝倉浅井・長島が侵攻、
朝倉浅井に織田主力が向かえば朝倉浅井は防備を固めて武田や長島が侵攻、
長島に向かえばry、という感じで戦略的に主導権を握って振り回せる、という感じなのですから、
普通に朝倉浅井もこれだけ有利なら、普通に信長を打ち倒すまで続けると思われますしねえ。
といいますか、貴方は貴方に聞かれている事柄の方にお答えになられて欲しいのですけれどねえ。
だからなぜ、山奥にいる武田に西美濃から織田軍が向かうのかな? それより西側のほうが距離的に地形的に対処しやすい。
それと武田は東美濃を完全平定してないのに、中美濃から西美濃に行くのかな?
長島一向一揆は凄いな。尾張の織田軍無視して美濃へ行けるとは。
信長の書状で、普通に信玄の侵攻を警戒し、それへの対処がされない限りは
上洛できない、的な事を述べているからなのですがねえ。
別に一息に進む必要はどこにもなくて、普通にそれぞれがそれぞれの領域を
拡大していけば、織田としては困るのですから、
織田勢主力が向かった側は防備に徹すればいいだけの話ですしねえ。
まーたいつものその論調ですけれど、尾張の織田勢単独で長島を攻略なんか
できるわけもないですし、そもそもの問題として、普通にやってる事ですしねえ。
どうでもいいですから、貴方は貴方に聞かれている事について、
おはやめにご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
どうなのかしら
どうも石山本願寺はあんまり外に出たがらないのは多分天文の錯乱のトラウマのような気がするわ
私たちが思うより戦国時代も世評が大事だったらしいし
三好に雑賀衆とか貸し出して京都に進軍とか出来ないのかしら?
そもそも包囲網がいまいち機能してないのは半分くらいは三好のグダグダのせいなのよねぇ
なぜか荒木に裏切られるし
やっぱり大和は魔界ですわ
史実になるわけじゃないのに織田が勝とうが武田が勝とうがどうでもよいわ
どうしたらどちらが勝ちに繋がるって話の方が娯楽性があるわ
雑談スレ立てる?
武田の10年後とか誰も話していないので【元亀争乱の雑談スレ】で立てた
もし良ければよろしくです
なんかもう、貴方、こちら側が一旦睡眠をとってレスが途絶えていた間に来たレスの
>>294や>>296の論旨を引用すれば、こちらに議論的に勝てると思われてるようにしか
思われないのですけれど、正直、こちらとしては困惑しか湧かないですかねえ。
まず、長島や、そもそも一向宗自体が野戦で別に特別に弱いわけではない、
というのは>>231で貴方に普通に言われている事ですのに、
なんでこれをスルーなさっておられるのか、についておはやめにご回答の方を
いただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>この点、>>277と同じで長期にわたり横山で奮戦した秀吉と、部分的な勝利をしたにすぎない浅井・朝倉を同列にしているのと同じように感じます。
これも、>>293の後で私が睡眠をとっていたから、レスが途絶えたのを、
30分以上あけてレスをしてきた>>294の人に論破されたのだとでも思われたのか、
その人がこちら側から何度もその件について指摘をされている事もスルーして、
必死に同じように引用してるようにしか思われないのですけれどねえ。
長期にわたり奮戦、とおっしゃいますけれど、それを言いましたら
浅井とかはほぼ周囲が敵地の状況で、秀吉に劣らぬほどの長期にわたって
織田勢と戦い続けたわけですし、浅井単独でその羽柴・柴田を先陣とする
織田勢の夜襲攻撃を撃退した事も普通にあります。
朝倉も普通に織田勢主力と渡り合って陣地を襲撃したり、
勝利を得たり、という感じでして、なんで秀吉が防戦した事は
そこまでべらぼうに大きく評価しますのに、
その秀吉と、さらに柴田を先陣とする織田勢の夜襲攻撃を単独で撃退し、
ほぼ敵地の中で戦い続けた浅井や、
織田勢主力と渡り合って複数の勝利を得ている朝倉、については
そんなに小さな評価にしか、貴方の中ではならないのか、について
具体的なご説明の方をいただけませんでしょうかねえ。
まーたこれも、私が睡眠をとっている間に書かれていたこちらに対する抽象的なくさしレスに
地形がどうたら書いてあったから、と地形どうたら言い出せば議論的に勝てる、と
貴方は思われて言われているようにしか思われないのですけれど、この件につきましてもご回答の方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
>東美濃に行けば、変事があっても武田軍主力は信濃にも遠江にも三河にもすぐには戻れません山奥だし。
いや、普通に勝頼も信長も、同じようなルートを通って普通に移動してるのが史実ですので、
貴方のご希望通りには到底なりえないと思うのですけれどねえ。
殿軍潰したのと適地での戦闘を同一に考えてるし。
林も柴田も氏家も殿軍だから普通の野戦で敗れたのと異なると思うのだが。
いや、ですから普通に長島も小木江とか攻略してますし、
そもそも一向宗自体が野戦城攻めで弱いわけでもない、と>>231を
はじめとして、何度も申しあげているのですけれどねえ。
あのー、私と>>294の人の会話について、流れを知らないなら、
発狂して喚かれないでもらえませんかねえ、と思うのですけれどねえ。
貴方、IDとかを考慮されておられないのですかねえ?
それとも、貴方自身がID分身をしていて、>>294の人ご当人だとでも
おっしゃられるのでしょうかねえ?この件について、ご回答の方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
>>294の人は>>277で「信長が帰還した後の三か月近くを防いだ秀吉」的に
述べられておられまして、こちらはその後のレスで朝倉は12月3日に撤収しておりますから
せいぜい2か月ちょい、と申し上げているわけですしねえ。
この件についてご説明の方をいただきたいのですけれどねえ。
>朝倉は一応2万もあって部分的勝利がせいぜい。なんでそれが「たかだか」になるのですか?
ですからあ、何度も何度も書いておりますが、朝倉が陣地を襲撃したり、勝利を得たりしたのは、
普通に織田勢主力が相手なわけなのですけれどねえ。
貴方はなんでそう、都合悪い所を発狂してスルーなさろうとする癖がおありなのか、について
ご説明の方をいただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>ですから武田信玄の死後、徳川家康は駿河岡部の焼き討ちや長篠城攻めに少なくとも5000は動員していますよ。
なんで少なくとも、なんですかあ?その資料とかをあげてもらいたいものですかねえ。
まあ、こちらも頑張れば5千はいけるかも、とは述べておりますけれどねえ。
>実際三河は無傷ですよ。55万石もかなり無理をしたら1万5000はいけます。1万石300人として。
>かなり無理をするならですけど。
>それで三方ヶ原で2000失い、数千負傷で3000しか動かせない。
>1万5000なら三河に7000いてもおかしくないでしょう?
>野田城はわずかに400だったし。吉田や岡崎や刈谷は無傷ですよ。
ですからあ、貴方はあと何百回同じことをこちらにのべさせるおつもりなのでしょうかねえ。
そもそも、三河・遠江を合わせても、 太閤検地ではおよそ55万石余りで
一万石250人換算の基本兵力動員想定では1万3千程。
しかし、元々武田側に三河の山家三方衆とか、遠江犬居城の天野氏などが従属し、
遠江小山城周辺地帯も武田に従っており、その後の信玄西上開始から三方ヶ原までで
高天神は武田に従属、只来城、天方城、飯田城、各輪城、匂坂城、二俣城、などが
武田側に攻略されており、という状況でして、徳川家の実質石高は三河遠江で武田側に
多くの領域を攻略されており、55万石よりも大きく減退している、という状況なわけですしねえ。
徳川は一万前後動員出来れば御の字、という所でしょうかねえ。
それで、三方ヶ原には通説では徳川勢は8千、織田勢が3千、
という状況であったとされ、三方ヶ原には東三河と西三河の旗頭である
酒井と石川がそれぞれの兵力を率いて参戦しており、
普通に三河の兵力も込みにした総力戦を挑んだと思われるわけですしねえ。
で、それで敗北をして、しばらくは三千程の兵力しか動かせなくなっているのが
三方ヶ原以後の徳川の状況というわけなのですしねえ。
これなら普通に数千の兵を抑えにおいておけば、十分かと思われますしねえ。
人を見下しているみたいだからさ。
五福山の戦いでは謙信が不在だったけど上杉越中在番衆を大敗させてるし、加賀の鳥越衆は織田軍を寡兵で野戦で2度も大敗させてるしさ
どうなんでしょうかねえ。大内氏が一年半近く遠征を続けた事や、
毛利氏も同じくらいの年月を月山富田城攻略の遠征に使っている事などからして
半年で限界、とは必ずしもならないように思うのですけれどねえ。
>>331
>信濃全土も治めてない信玄
信濃41万石のうち、38万石が武田の領土で、ほぼ全土が武田領なのですけれどねえ。
また兵農分離がどうたらなのでしょうかねえ?
信玄の戦歴とかを考慮しますれば、普通に貴方のいう種まきの時期とかも
普通に遠征とかをやりまくっていて、むしろ、西上のような時期に遠征した方が
少ないはずなのですけれどねえ。
お返事有難うございます。たしかに現地調達があるね。
>>343
>信濃41万石のうち、38万石が武田の領土で、ほぼ全土が武田領なのですけれどねえ
無知でごめんよ、ソースを教えてください。
慶弔3年で信濃石高408358はわかってるんだけど。それ以外をお願いします。
あと
>信玄の戦歴とかを考慮しますれば、普通に貴方のいう種まきの時期とかも
普通に遠征とかをやりまくっていて、むしろ、西上のような時期に遠征した方が
少ないはずなのですけれどねえ。
についてなのですが 4月以降も遠征を続けられている理由とソースをお願いします。
正直に言うとこの大軍で遠征ができる理由じゃなくできたって言う証を示して欲しいんだ。
川中島とかは領土から接している隣国だし、遠征とは思わない。
西上は村上や笠原のときのような規模じゃないので。
むしろ4月に帰らずにそのまま上洛できる理由を示して欲しい。
越後国境沿いの安曇郡の山奥はほとんど石高無いから無視するとして、
単純に信濃10郡をそれぞれ4万石と考えるて、
水内郡高井郡それぞれ半分は上杉領と考えるなら、4万石ぐらいだからそうおかしくもないんじゃ?
上杉領を犀川以北と考えるならもう少し増えるし、水内高井は江戸期じゃ信濃じゃ石高あるほうだから、
じっさいにはもっと多いだろうけど
信玄死亡の時点で、上杉家が信濃で保有しているのは、
奥信濃の飯山城一帯だけで、ここらだけでは三万石あるかどうかなので、
大体信濃約41万石のうち、
武田家の保有分はおよそ38万石くらいになると思いますよ。
>川中島とかは領土から接している隣国だし、遠征とは思わない。
それを言いましたら、美濃も三河も遠江も全部領土から接している隣国ですから、
遠征でもなんでもない、という事になり、貴方の論におきましても、
普通に武田が侵攻を続けていける、という事でよろしいではないですか、と
思うのですけれどねえ。
>むしろ4月に帰らずにそのまま上洛できる理由を示して欲しい。
そもそも、なぜだか貴方が四月以降は遠征できない、と言い出して、
それが絶対の前提となっている状況がおかしいと思うのですけれどねえ。
とりあえず、信玄は何度かこのスレで述べましたように、
朝倉相手には5月以降から信長相手に、武田・朝倉浅井・長島・遠藤などで
美濃で一斉に攻撃を行う戦略を示しておりますし、
美濃の遠藤にも「春から美濃に侵攻するからそれ以後に織田に敵対して欲しい。」
と書状で書いておりますし、
浅井も信玄の美濃侵攻などをひとえに待っている、と書いたりしてまして
信長自身も武田勢の動きを警戒し、「謙信が武田領土に攻め込むならば
武田勢の圧力が減少するから、その間に上洛して存分にしたい。」とか述べてまして
包囲網側も織田側も、貴方のいうような、「武田は四月以降は遠征ができない。」
という前提で考慮している人物は、おそらく当時に誰もいないと思われるのですけれど、そこらへんはどうなのでしょうかねえ。
それに、一息に上洛する気だったかはまた別だったかと思いますよ。
美濃を朝倉浅井や長島や遠藤らと一緒に制圧してしまえば、
織田は領国の結節点を失いますし、国力的にも包囲網側に劣る事になりますので、
後は分断された織田領土を包囲網側が順次制圧していく、という形になるとも
思えますしねえ。
浅井が美濃入りできるわけがない。
虎御膳、横山、佐和山だけでも最低落とす必要があるのに。朝倉は美濃入りするんだから浅井単独でどうやって美濃入りするのか?
ところで上杉謙信って、確か1573年4月21日に越中の一向一揆とカタをつけて春日山に帰還してるな。
史実ではその頃、武田信玄が病死して武田軍主力は甲信に帰国しているから謙信も動けなかったんだろうが、このIFだと武田軍主力は東美濃にいて、5月には美濃入り開始なんだよな。つまり謙信が信濃か西上野に南下できる「可能性」は0ではないし、できないこともないよな?
織田が領土の結節点を失う。美濃の何処を取ったら結節点を失うか分かって言ってるのかな? だいたい順次制圧とか、3万を数える大軍を持つ織田信長の抵抗がまるで無いみたいに言ってるけど。自分の本国を侵されてあの信長が敵に順次制圧を許していくような人物か?
有力な勢力がいない越中でさえ信玄の嫌がらせで煮え湯を飲まされてるのだが
織田の重要な配下は多くが南近江に配置されてるぞ
西濃、近江の国境は豪雪地帯なこともあるし簡単に戻れるわけがない
信長としては最悪東美濃、中美濃は捨てる気だったと思われる
朝倉についていくなり、朝倉と一緒に近江南部を突破して美濃に至る、でも
普通にいいと思うのですけれどねえ。
いやいや、その後、普通に7月からまた越中に侵攻を開始して一揆勢と戦い、
1573年の末まで戦い続けて、それで軍勢が疲弊しちゃったので、
予定していた関東遠征を次の年に延期している程ですかねえ。
いやいや、何度も書きましたように、信長からの謙信宛の盟約書状
(1573年3月)によりますれば
「織田徳川勢に圧迫されて、信玄は信濃境まで撤収している。」
「だからこそ、織田・上杉・徳川の三大名で一斉に武田領国に攻め込む時。」
という状況なんですよ。
実際には武田勢は普通にこの時期にはまだ三河にいるわけなのですが、
信長はこのように伝えていたわけですかねえ。
ですから、この盟約、によりますれば、普通に信玄が生存していて、
さらには国内にいる状況であるにも関わらず、三大名で攻め込む、
という「盟約」なのですが、謙信は信玄死亡後の、後継体制を固めるべき時にも
武田領国に攻め入ろうとはしなかったわけですしねえ。
織田の主力軍が三万余だとして、武田も三万近く、遠藤の加入予定あり、
朝倉浅井も2万数千、長島一向宗が数万程、で三方向から侵攻し、
織田主力が武田に向かえば、武田は守りを固めて対陣し、朝倉や長島がそれぞれの
侵攻方向を制圧していき、織田が朝倉に向かえば朝倉が守りを固めて
武田や長島がry、長島に向かえば長島が守りを固めて朝倉や武田がry、
という感じで、
普通に包囲網側が戦略的に優位な状況であると思うのですけれどねえ。
あんたなあ、仮に朝倉が浅井についていくなら、美濃の織田主力は東美濃への対応が可能になりかなり楽になるのがわからんか? 朝倉と浅井は既に連合して佐和山も虎御膳も横山も抜けない状態。だから武田軍に支援を求めたのと違うのか?
だいたい、宗滴が二回も同じルートで出陣し、城まで落としてる、とか言ってたのに、言ってることが変わってるぞ。
長島一向一揆に過大な希望持ちすぎな。織田信与の孤立無援の小木江城に圧倒的兵力で立ち向かって6日もかかり、さらにその後手薄な尾張中核部に何ら侵攻しなかった奴らに、小木江城より本格的な岐阜や清須が落とせるわけがない。
わずか3ヶ月後に「軍馬をくつろぐべし」とか言って出陣拒否する奴まで出て、それを処罰すらできない家中乱れまくりの朝倉が何だって? 守備を固めて8月に信長にあっと言う間に破られた朝倉が何だって?
そもそも将軍家の要請すら渋ることがあった朝倉が、何で武田信玄の要請なら全面的に従うと思うのかな? 前年に越前撤退すらしてるのに。
貴方もこちらの文章において、妙な読み方をなさられておられるように思われるのですけれどねえ。
こちらは「浅井が朝倉についていく」と書いているわけでして。
普通に越前から美濃への侵攻に、浅井がついていく、というだけの話でございますしねえ。
虎御膳で一回朝倉浅井を秀吉が撃退したのがすごい、というのでしたら、
浅井も単独で、秀吉・柴田の夜襲侵攻を撃退しておりますし、
朝倉も織田勢主力に対して複数の戦果をあげているわけですしねえ。
>だいたい、宗滴が二回も同じルートで出陣し、城まで落としてる、とか言ってたのに、言ってることが変わってるぞ。
はて?どこがどう変わっているのでしょうかねえ?
普通に越前からの美濃への侵攻ルートも候補の一つですけれどねえ。こちらにおきましては。
それ、前にも書きましたけれど、織田一門が入って守りを固める長島への備えとして築いた城に対して
多少時間がかかったからといって特に不可思議な話ではないと思われるのですけれどねえ。
>さらにその後手薄な尾張中核部に何ら侵攻しなかった奴らに
小木江攻略の少し後に、信長からの志賀陣への和睦交渉が始まるわけでして。
少なくとも交渉の行方が明確になるまでは、長島が動きを止めたのも、特に不可思議な話ではないかと思われますしねえ。
それは、5月侵攻の計画が潰えて、武田も領国に撤収し、織田との戦いにおいて、
勝利を得られる計算が立ちにくくなった事から起こった事のように思われるわけですしねえ。
普通に三月には出兵してたのですから、5月侵攻が行われていたなら、普通に戦えていたように思われる次第であると思われますがねえ。
元々、武田の参戦を要請したのも朝倉と本願寺で、朝倉の一時撤収は本願寺からも非難されている事だからですかねえ。
浅井が朝倉についていくって、正気かよ?
浅井が朝倉についていけるってことは、北近江の秀吉をはじめとした織田勢力を一掃した、ってことになる。何で北近江から織田を一掃したのに、わざわざ危険かつ労力がいる山越えする必要があるんだよ。
関ヶ原こえて大垣を落とし、長良川に揖斐川を超えて岐阜城に迫るのが一番の近道だろうが。ホントこいつメチャクチャすぎる。
いや、別に小谷に守備兵を置いて、一部を参戦させる、というのでもよいですし、
>わざわざ危険かつ労力がいる山越えする必要があるんだよ。
何度も何度も申し上げている事ではございますが、
朝倉は普通に斉藤道三時代には2度も越前から美濃への侵攻を行っており、
普通にそんな「宗滴でしかできない大偉業!」的な扱いには
されてないように思われるのでございますけれどねえ。
っていうか、よくよく調べてみました結果、朝倉な宗滴以外にも
普通に越前から美濃への侵攻を行いまくっておりまして、
1519年には朝倉景高が美濃へ出陣して美濃勢相手に連戦連勝、
1525年には朝倉景職が美濃へと出陣して、稲葉山近くにまで迫り、
1536年にも朝倉景高が美濃へと出陣して大野郡まで侵攻して城を攻略、
で、道三が権力を握った時代への2度の美濃侵攻、
という感じで5回も侵攻を行っており、そのうちの三回は宗滴以外の
特にそこまで超絶的に有名というわけでもないように思われる武将さん達によって
普通に美濃攻めが行われているようなのでございますが、
なぜに織田を攻める時にだけ、そのように超絶的に困難なる大偉業と
なられてしまうのか、につきましてを、こちら側にできますれば、
具体的なる論拠などをおもちになられまして、ご説明の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思いますので、
ご説明の方をなにとぞなにとぞよろしくお願いいたしたいと思う次第でございますかねえ。
まあ、普通に南近江から突破するのも一つのルートとしてありかとは思う次第でございますが、
とりあえず、上記のように朝倉は宗滴以外にも普通に越前から美濃へと侵攻をしまくっているようなのでございますが、
この件について、ご説明の方をなにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
×朝倉な宗滴以外にも
〇朝倉は宗滴以外にも
です。まあ、わかるとは思うのですが、一応は訂正をさせていただきたいと思う次第ではございますかねえ。
>>403
私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
話が通じてない菅沼くんオッスオッス。
いつも通りに、ご都合が悪くなられたら、必死に抽象的に相手側をくさそうと喚かれなくて
よろしいと思いますので、聞かれている事柄にはお答えになられて欲しいと思いますので、
よろしくお願いいたしますかねえ。
私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
私としましては、なぜだか、織田側に都合が悪い事は、
>>419にもありますように、朝倉が普通に5回も行っていて、
特にそのうちの三回は宗滴程に有名でもないように思われる武将さん達によって
行われている越前から美濃への侵攻が、なぜに織田側が相手となりますと
超絶的に困難なる「宗滴にしかできない大偉業」的になられてしまわれて、
困難、という事になってしまわれるのか、などをはじめとしまして、
織田側に都合が悪い事柄などが、織田側を相手とした時だけには、
異常に困難な事柄という事に貴方とかが、必死になさられようとご主張になられがちではないでしょうか、と
個人的には考慮したりもしてしまうのでございますかねえ。
とりあえず、聞かれている事柄には答えていただきたいものではございますかねえ、と思いますので、
ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
それから、>>424で聞かれている事などにつきましても、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
それから、>>424で聞かれている事などにつきましても、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、こちらは普通に当時の書状や記述などを基にして語っておりまして、
そのようにおっしゃられますならば、具体的に資料や論旨を基にして
語っていただきたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
私としましては、なぜだか、織田側に都合が悪い事は、
>>419にもありますように、朝倉が普通に5回も行っていて、
特にそのうちの三回は宗滴程に有名でもないように思われる武将さん達によって
行われている越前から美濃への侵攻が、なぜに織田側が相手となりますと
超絶的に困難なる「宗滴にしかできない大偉業」的になられてしまわれて、
困難、という事になってしまわれるのか、などをはじめとしまして、
織田側に都合が悪い事柄などが、織田側を相手とした時だけには、
異常に困難な事柄という事に貴方とかが、必死になさられようとご主張になられがちではないでしょうか、と
個人的には考慮したりもしてしまうのでございますかねえ。
とりあえず、聞かれている事柄には答えていただきたいものではございますかねえ、と思いますので、
ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
それから、>>424で聞かれている事などにつきましても、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>羽柴秀吉の横山城はじめ佐和山城、虎御前城をどう対処した上でそれするのかなあ……。
普通に小谷で守りを固めて防御すればよろしいのではないかと思うのですけれどねえ。
>曲輪の総数だけで1000を超えていた
さすがに誇張だと思いますけれどねえ。そんなにあったら、5千でも守りきれませんって。
一曲輪で平均5人、本丸とかその他を考慮すればもっと少ない、とか普通にあり得ないように思われますしねえ。
>そもそも2500なら完全に秀吉をはじめとした北近江の織田勢のほうが兵力で優っていると思うんだけど……。言っても無駄かな……。
ですから、普通に守りを固めればいいと思うのですけれどねえ。
兵力の優越がどうとか言い出されますなら、虎御膳はあっさりと攻略できる事になってしまいますし、
まさか虎御膳は兵力優越の朝倉浅井に耐えられるといいながら、
兵力優越していれば、小谷をあっさり攻略できるとかは言われるとは思われないように思われますし、
この件についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>越前に北上した場合の補給路はどうするの? まさか朝倉軍にそれも世話してくださいっては言わないよね。
小谷防衛の兵糧支援は普通に朝倉が行っているのですけれどねえ。
ですからあ、いつも通りに都合悪い事を必死にスルーして、捏造やら曲解やらに狂奔なさられる貴方の癖は
こちらも困惑せざるを得ないのでございますけれどねえ。
何度も書いておりますが、「宗滴が大した事ない」とはこちらは一度も書いておらず、
ただ越前から美濃への侵攻は、朝倉家では普通に行われていて、
5回のうち三回は宗滴ほどに有名でもない、普通の武将達によって行われている、という事を
>>419でその武将達の名前まであげて紹介しているわけなのですが、
これでなぜに越前から美濃への侵攻が「宗滴でないとできない大偉業」となられますのか、
についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
それから、>>424で聞かれている事などにつきましても、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ですからあ、そうやって都合が悪くなると必死になって
結果論で喚かれようとなさられましても、こちらとしては困惑しか湧かないわけですしねえ。
武田・朝倉・長島などによる5月からの美濃侵攻が行われなかったのは
信玄死亡によって武田勢が撤収してしまったからなわけですしねえ。
この最大の要因をスルーして、必死に喚かれましても、こちらとしては
困惑しか湧かないわけですしねえ。
実際に当時の包囲網側の多くの勢力が武田の西上を頼りにしていますし、
信長自身も信玄率いる武田勢の動向をくどいくらいに気にしていて
書状に書いているわけでして。
普通に信玄が生きていて武田勢が西上を続けていくならば、
信長は普通に美濃でその相手をせざるを得ないでしょうし、
>武田が織田に苦しんでいる間
>織田は畿内勢力をガンガン併合
なんで史実でも、信玄西上を警戒しまくって、それへの対応などを書状に書き、
美濃にとどまっていた信長が、畿内に行っているのに、
武田が織田に苦しむ事になるのか、について具体的にご回答の方を
いただきたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、信長の生涯敗北数は数十に及ぶ事は前スレでも普通に提示されていると思うのですけれどねえ。
そこらへんにもご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>437
さすがに>>434の人が言うような、千以上の曲輪があるとか、まずあり得ないと思うのですけれどねえ。
そんだけ曲輪があったら、5千いたってまずまもりきれないと思うのですけれどねえ。
一曲輪平均5人で守るとか、いくらなんでも無理ではないかと思うのですけれどねえ。
はいはい。私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
それから、>>424で聞かれている事などにつきましても、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いや、同じIDで何をしれっと他人装いしながら喚かれておられるのかと思いますが
貴方が普通に議論的に苦しくなってきたからと、
>>415 >>421 >>422 >>428などなどで必死に菅沼なんたら認定に狂奔してきたのが、
原因ではないかと思われるのですけれどねえ。
とりあえず、聞かれている事柄などにはおはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
5000もいるなら、十分だと思われますけれどねえ。
小谷に半数ほどを残して守りを固め、残り半数で参戦、というのが可能ではないかと
思われる次第ではございますかねえ。
私としましては、なぜだか、織田側に都合が悪い事は、
>>419にもありますように、朝倉が普通に5回も行っていて、
特にそのうちの三回は宗滴程に有名でもないように思われる武将さん達によって
行われている越前から美濃への侵攻が、なぜに織田側が相手となりますと
超絶的に困難なる「宗滴にしかできない大偉業」的になられてしまわれて、
困難、という事になってしまわれるのか、などをはじめとしまして、
織田側に都合が悪い事柄などが、織田側を相手とした時だけには、
異常に困難な事柄という事に貴方とかが、必死になさられようとご主張になられがちではないでしょうか、と
個人的には考慮したりもしてしまうのでございますかねえ。
とりあえず、聞かれている事柄には答えていただきたいものではございますかねえ、と思いますので、
ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
君の言う通り武田信玄が生きてたら美濃に攻め込めて勝利でいいんじゃない?
>>423みたいに5000から半数割いて越前に北上して美濃に向かうとか言ってる人に何言っても無駄だってわかったからさ。もういいよ。
羽柴秀吉の横山城はじめ佐和山城、虎御前城をどう対処した上でそれするのかなあ……。
それと君、小谷城跡に一度行って実地検分して来てみたら。あの城さ、旧浅井家臣の脇坂安治さんが書いた記録では、曲輪の総数だけで1000を超えていたらしいんだよ。
5000から半数を割いて、残り2500でどうやって城を守るのかなあ……。
そもそも2500なら完全に秀吉をはじめとした北近江の織田勢のほうが兵力で優っていると思うんだけど……。言っても無駄かな……。
それとね菅沼くん……越前に北上した場合の補給路はどうするの? まさか朝倉軍にそれも世話してくださいっては言わないよね。
いくら同盟相手でもそれは虫が良すぎるよ。かといって残り半数で城を守りながら補給までやれってのはねえ……。
でさ、君は朝倉宗滴大したことないと何度も言ってるけど、その秀吉や勝家を追い返した小谷城の前線の出城である金吾丸、あれ築いたの誰か知ってる?
宗滴だよ。つまり他大名家の築城にまで関わり、後年に秀吉や勝家を手こずらせたほどの名将なんだよ。
菅沼くん……少しは他人の意見も聞く耳を持とうよ。
昔からひどすぎるけどさ。君。
謎理論、というのは例えばどのような事をおっしゃられるのでしょうかねえ?
よろしければ、ご回答の方を何卒よろしくお願いしたいと思うのですけれどねえ。
例えば、「資料などから考慮して、朝倉は武田や長島と共に5月から
美濃へと侵攻する計画を持っていたようですよ。」とこちらが述べ、
そうしたら「越前から美濃への侵攻は宗滴にしかできない大偉業!」的に
織田側の人がおっしゃられ、それに対してこちらが
「調べてみたら、越前から美濃への侵攻は5回も行われ、
そのうちの三回は宗滴程に有名ではない普通の武将達によって行われていますよ。
(>>419参照。)」と指摘しましたら、
「謎理論で返された!」と貴方はおっしゃられるのでしょうかねえ?
さらには織田側の人が「小谷城は千以上の曲輪があるから
2千5百程の兵では守りきれない!5千でないと守れない!」とおっしゃられ、
こちら側から「さすがに誇張だと思いますけれどねえ。千以上の曲輪があったら、
5千でも守れないでしょうに。
一曲輪平均5人、しかも本丸とかを考慮したらもっと平均人数が少なくなるのでは。」
とこちらから指摘されたら、「謎理論で返された!」と貴方は
おっしゃられるのでしょうかねえ?
これらの件について、お答えの方をいただきたいと思いますので、
なにとぞ、なにとぞ、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
1519年と1525年、1536年の美濃って、まだ守護の土岐氏が支配して美濃が混乱していた時期にあたるはずだが。斎藤道三すらまだ表舞台に出てない微妙な時期にあたるんだけど。それならこいつらでも勝てるだろうよ。
それと1536年の侵攻。美濃の大野郡って何処? 大野郡は越前だし、朝倉の支配下のはずだが。
いやいやいや、そもそもの問題としては「地理的に超えるのが不可能!
宗滴程の名将でないと軍勢を踏破させられない!」と貴方とかが
必死になって喚いておられたのが元の話なわけですしねえ。
実際には朝倉は越前から美濃へのルートを、普通にホイホイと
宗滴程に有名でもない、普通の武将達によってホイホイと越えていき
普通に侵攻を繰り返している、というだけの話なわけですから、
普通に義景でも十分可能、という話なわけですしねえ。
っていうか、貴方に聞かれている他の数々の事柄にもお答えになられていただきたいのはありますけれどねえ。
現代行政区画では美濃にも大野郡が存在しておりまして、そちらからとも思ったのですが、
そもそもの問題として、この侵攻は美濃の争いに介入しての事、とされておりますので、
仮に越前大野郡の事だとしますと、美濃側が越前大野郡に領土を持っていた事になり、
やっぱり越前から美濃への侵攻はどちらからでも普通に可能、という事になるわけなのですけれど、
この件についても、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
浅井はあの当時有力家臣が軒並み離反して5000程度の兵力しかないんだが
ここはあんたみたいな半コテの自己満足オナニーの知識を披露する場じゃないんだよ。
ちゃんと読めてないのかな?
最初に変わらないといってる→信玄が生きてても三河で帰っている。
と主張しているのであって。西上が三河までではなく上洛、ここでの主張は上洛できない
になっているんだけれども。
>貴方のいうような、「武田は四月以降は遠征ができない。」
ではなくて「4月まででいったん戻らざるを得ない、続けられない」なんですけど。
無理やり論旨をずらされても。
いったん帰ってからまたいくことを新しい遠征じゃなくて続きの遠征ってことにしたいのかな?
あと書状での理由ですけど他家のことですよね。
それは武田が西上の遠征を続けられる理由になってませんよ。
”4月以降も遠征を続けられている理由とソース”なんでお願いします。
”そこらへんはどう”などといった返答にもならない返答はいらないですよ
あと>>331は今回の西上の遠征について述べているのであって
西上後の上洛計画についてはあったかなかったかもわからないので触れていません。
>それに、一息に上洛する気だったかはまた別だったかと思いますよ。
美濃を朝倉浅井や長島や遠藤らと一緒に制圧してしまえば、
織田は領国の結節点を失いますし、国力的にも包囲網側に劣る事になりますので、
後は分断された織田領土を包囲網側が順次制圧していく、という形になるとも
思えますしねえ。
のレスなんて見当違いもいいとこですよ。
レスしてくださるのは有難いですが、きちりと読んでくださいね。
>>384
美濃の結節点が何処がわかってるのか?
大垣。ここを落としたら美濃と近江は完全に遮断され、岐阜や清洲があろうが関係ない。織田軍は完全に分離され、嫌でも滅亡する。
ただし地理的に大垣攻撃できるとしたら浅井朝倉だが、朝倉は山越えして美濃に行くらしいし、浅井単独なら横山、虎御膳、佐和山(これは最低で、砦とか合わしたらもっとある)を落とさないと大垣攻撃など無理だから、美濃侵略やるならほとんど武田軍単独になる。
ちなみに東美濃なんか別に取られても実際はそれほど痛くはない。斎藤義龍や龍興の時でさえ、東美濃は放置プレイされていた。
なんかずいぶんと必死になっておられるようではありますけれど、
必死になってこちらの論旨を無理やりずらして、貴方に聞かれている事柄を
必死に答えないように躍起になっておられるようにしか思われませんしねえ。
>「4月まででいったん戻らざるを得ない、続けられない」なんですけれど。
ですから、これがまさに貴方のご主張なのですよねえ?
こちらはまさにその意味でおたずねしている話なわけですしねえ。
なぜか貴方が言い出している、「4月まででいったん戻らざるを得ない、続けられない」が
絶対の前提となっている状況がおかしいと思うのですけれどねえ。
これについて、まず論証なりご回答の方なりをいただけませんかねえ?
貴方が必死に質問返しだけを続けて、ご自身に聞かれている事をスルーしようと
躍起になられようとなさられましても、貴方がこれをまず論証しない事には、
それが絶対の前提とは到底なりえないわけですしねえ。
>あと書状での理由ですけど他家のことですよね。
いやいや、武田も「5月以降に美濃を攻める」「春になったら美濃を攻める」
と書状で普通に述べていて、敵側の織田も普通に
武田が春以降も攻めてくる事を警戒していて、上杉にその矛先をそらして欲しい、と思っているのを
普通に書状に書いているわけでして。
「武田が春以降も帰らないで侵攻を続けられる。」という事に関しては、
当時においては織田も武田もまったく疑義を抱いてはいないわけでして、
この件について、どう思われるのかについて、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいや、貴方は>>347において、
>むしろ4月に帰らずにそのまま上洛できる理由を示して欲しい。
としっかりと書いておりまして、
>西上後の上洛計画についてはあったかなかったかもわからないので触れていません。
と今貴方が書かれているレスとで、明確なる論旨的な矛盾が生じておりますので、
この件についてのご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
まずは返答が遅くなってすいません。
大丈夫ですか?
戻りもせずに上洛できる理由を聞いているんであって
戻ってまた上洛するとは別なんですけれども、
むしろ貴方の読解力に問題があるのではないですか?
>>343での
貴方の言葉を取るといったん引き返さずに
そのまま西上が上洛できたことになるんですが。
いったん自分のレスを見返してはどうでしょうか?
”>あと書状での理由ですけど他家のことですよね。
いやいや、武田も「5月以降に美濃を攻める」「春になったら美濃を攻める」
と書状で普通に述べていて、敵側の織田も普通に
武田が春以降も攻めてくる事を警戒していて、上杉にその矛先をそらして欲しい、と思っているのを
普通に書状に書いているわけでして。
「武田が春以降も帰らないで侵攻を続けられる。」という事に関しては、
当時においては織田も武田もまったく疑義を抱いてはいないわけでして、
この件について、どう思われるのかについて、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。 ”
これっていったん帰ってますよね、まさに貴方が矛盾しているのですが。
あと、御宿友綱が長期の作戦で将兵の疲労がたまったからいったん撤退することになり
、そのときに信玄が発病したというようなことを証言しているみたいなのですけれど。
貴方の言葉をお借りすれば、これってどういうことなのですかねえ。なのですけれども
史実だと5月って敦賀まで出ていた朝倉が引き上げた時期でしたっけ?
そうすると、朝倉の5月の撤退行動に説明付けるなら
5月になって武田本願寺が織田の相手するから自分は帰国しても問題ない
と考えたとすることもできそう。
>>478
>「春になったら美濃を攻める」
そもそも春って1月から3月じゃないのだろうか?
小谷城を2500の兵力で防備できるとか言ってる書状君に何を言っても無駄です。
その貴方の「2千5百じゃ小谷城は守れない!」というのは
貴方がご主張になられておられます、「小谷城には千以上の曲輪があるから!」
というのが論拠になっておられるわけなのですよねえ?
実際には小谷城には千以上の曲輪があるとは考慮しにくいと思われますし、
千以上も曲輪があるなら、仮に5千の兵で守ったとしても
一曲輪平均5人で守らねばならず、しかも本丸とかを考慮しますれば、
さらに平均人数を減少させなければならないと思われるわけなのですが、
これでは到底5千の兵をもってしましても、守る事は非常に困難なように思われますが、
この件につきましての、ご説明の方を、こちらは何度もお伺いしているわけなのではありますが、
なにとぞお答えの方をいただけないでしょうかねえ。
だから秀吉により1日で落ちたんじゃね?
朝倉も亡んでさらに逃亡兵もでただろうしな。5000は何とかギリギリだろ。曲輪とられても小谷城は曲輪「群」だからな。
曲輪ひとつ取ったからって、他の曲輪からまた攻められたらどうすんのよ。曲輪でも要所要所を守ってたんだろうたぶんな。
だいたい小谷城って確か東西800メートル、南北750メートルくらいの巨大城郭と違ったか? すまん記憶が曖昧で。そんな巨大城郭2500で守るには兵力不足と違うか?
いやいやいや、千以上の曲輪があって、5千もの兵力ですら、
一曲輪平均で5人、本丸とかを考慮しますれば、もっと一曲輪あたりの平均人数が
もっと減少する、というのでしたら、文字通り千以上ある曲輪のうちの950曲輪くらいは
取りたい放題、取り放題だと思われるわけですし、そこに兵力を置いて守って拠点にしていけば、
小谷城は余裕で残りの曲輪も攻略できるという事になってしまうと思われますし、
そもそもの問題として、何度もこのスレでも書いておりますが、
普通に浅井は単独でも羽柴・柴田の夜襲侵攻などを撃退しておりまして、
その時にはまったく曲輪とかを攻略されずに普通に撃退しているわけなのですが、
明らかに貴方のおっしゃられる事と論旨的な矛盾が生じまくっているように
思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。
そもそもの問題として、この小谷城は浅井がまだ北近江一帯を安定して支配してもおらず、
兵力的にも長政時代よりも少なかったと思われる亮政時代から、浅井家の主城なわけなのですけれど、
なんでそんな5千でもぎりぎり、とかいう超巨大城郭を作る必要があるのか、というのにも
ご回答の方をよろしくおお願いしたいと思うのですけれどねえ。
え? 小谷城が元の守護だった京極氏の時代からあったのを知らないの? 小田原城同様に、小谷城も代を重ねながら巨大になっていったんだけど。
で、その小谷城が長政時代には5千いても兵力的にギリギリ、
というような超巨大城郭になっていた、というような動向やら資料やらは特にないと思われますし、
長政時代の最盛期でも兵力が一万くらいの浅井氏において、千以上の曲輪があって、5千いても平均人数5人、とかいう
守るのが非常に困難な城を築く必要性があったとは到底思われないわけなのですが、
その件についてもご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、千以上の曲輪があって、5千もの兵力ですら、
一曲輪平均で5人、本丸とかを考慮しますれば、もっと一曲輪あたりの平均人数が
もっと減少する、というのでしたら、文字通り千以上ある曲輪のうちの950曲輪くらいは
取りたい放題、取り放題だと思われるわけですし、そこに兵力を置いて守って拠点にしていけば、
小谷城は余裕で残りの曲輪も攻略できるという事になってしまうと思われますし、
そもそもの問題として、何度もこのスレでも書いておりますが、
普通に浅井は単独でも羽柴・柴田の夜襲侵攻などを撃退しておりまして、
その時にはまったく曲輪とかを攻略されずに普通に撃退しているわけなのですが、
明らかに貴方のおっしゃられる事と論旨的な矛盾が生じまくっているように
思われるのですが、如何なものでしょうかねえ。
いやいや、普通に武田勢がその時には本国に撤収しておりましたから、
それを知って5月からの美濃侵攻計画が無理になったと思い、
5月10日に一乗谷に撤収した、という流れのように思われますけれどねえ。
信玄の1573年三月のものと思われる書状に、
「春に若狭武田の中務が三河の陣にやってきて、今まで抑留しておりました。」
的な文言があり、野田城攻略の後の事と思われますので、
普通に2月中旬以降の事ですかねえ。信玄としては、四月までには
美濃入りを望んでいたようですし、実際にそう動いてもいるので、
三月末には美濃入りを順調に行けばするつもりだったのでしょうかねえ。
ねえの人には構わないで欲しい
>まずは返答が遅くなってすいません。
いやいやいや、大体貴方の行動パターンがわかってきておりましたので、
特に問題はないと思われますかねえ。貴方は単に、こちら側から指摘された事などに
お答えになられる事が厳しそうなので、
日曜日と平日の双方において日中に書き込みが可能なライフスタイルで
おありになりながら、必死に書きこみはなさられずに必死に張り付き続け、
こちらを叩くレスが多かったり、こちら側が不利になったと「貴方が思い」
貴方が「もうこちら側が書き込まないだろう」と思われた時に
こちら側の文言などを必死に曲解などをなさられて、必死に勝利宣言などを
なさられようとなさる時に、いそいそとお書込みになられる、というのが
これまでの行動パターンから概ね理解させていただきましたので、
こちら側としましても、根競べにはいささかの自信がございますので、
100日でも200日でもお付き合いをさせていただきたいと思う次第では
ございますかねえ。
で、いつも通りに必死になって捏造曲解に狂奔なさられなくてよろしいと
思われる次第なのではございますけれどねえ。
>戻ってまた上洛するとは別なんですけれども、
ですからあ、こちらですら、こんな事は書いていないのですけれどねえ。
どこにそんな文言があるのか、についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
こちらは、信玄が「上洛」まで行くかは色々と見解の相違がありますが、
少なくとも織田領土侵攻まではいくと思われる、という話なわけですしねえ。
>「4月まででいったん戻らざるを得ない、続けられない」なんですけれど。
ですから、これがまさに貴方のご主張なのですよねえ?
こちらはまさにその意味でおたずねしている話なわけですしねえ。
なぜか貴方が言い出している、「4月まででいったん戻らざるを得ない、続けられない」が
絶対の前提となっている状況がおかしいと思うのですけれどねえ。
これについて、まず論証なりご回答の方なりをいただけませんかねえ?
貴方が必死に質問返しだけを続けて、ご自身に聞かれている事をスルーしようと
躍起になられようとなさられましても、貴方がこれをまず論証しない事には、
それが絶対の前提とは到底なりえないわけですしねえ。
>これっていったん帰ってますよね
いやいや、私が出した書状の文言のどこに「一旦帰る」という文言が
おありになられると思わますのか、について、
是非とも具体的に、できれば資料なども用いて論証の方をよろしくお願いしたいと
思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
普通に信玄は四月までは徳川領土にいたのですから、5月から美濃を攻める、
というなら、そのまま美濃を攻める、という事で、遠征を継続している事になりますし、
織田信長も徳川領土にいる武田勢が織田領土に侵攻する事を警戒しており、
「謙信が武田領土の背後に侵攻してくれるなら、武田勢の圧力が減少するから、
その間に上洛したい。」と述べているわけで、つまり、そのままだったら
普通に武田勢が侵攻してくるだろう、という事を想定し、警戒している、
という話なわけなのですしねえ。この件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そうやって、ご自身に聞かれた事は必死にスルー、あるいは捏造曲解に狂奔なさられようと
なさられながら、必死になって相手側にだけ質問返しをなさられようとなされないで
貴方に聞かれている事について、お答えの方をいただきたいと思うのですけれどねえ。
その書状に関しては、文言に江戸時代的な言い回しや美言麗句などが多く、武田氏研究家の柴辻氏などは
普通に「ほとんど検討に値しない程度の後世の創作物と判断される」と述べておられますかねえ。
この件につきましては、どのように思われますかねえ。
あなたのレス見てると、この人が出来たからこの人もできる、となっていて議論にならない。なぜ大内や毛利と甲斐武田が同等になるのか?
大内や毛利はまず、長期遠征ができた理由として経済力があったから。大内は言うまでもなく対明、対朝鮮貿易で莫大な利益を挙げている。加えて筑前博多を抑えている。
毛利は対朝鮮貿易や村上水軍を支配においての瀬戸内海の水運の利益を抑えて利益を挙げている。つまり石高では計れない経済力がある。
そして両家ともに、当時最大の鉱山である石見銀山を抑えている。また、西側の山陰の要衝である津和野を抑えているから中国山地は苦しいが退路は確保している。
また、大内も毛利も背後に大友がいるが、大内は1538年に幕府を通じて和睦している。さらに大友義鑑は大内義隆の姉婿。毛利は1562年に幕府を通じて和睦している。
つまり本拠地の安全保障も万全。
経済力や情勢が違いすぎる大内や毛利を、甲斐武田と一緒にするのはどうか?
貴方の言い方でいいますと、無理やりに他の家でできている事を
織田が苦しい事柄ですと、「それはできない」と言おうとしているようにしか
思えないのですけれどねえ。
大内や毛利の交易がそこまで凄い、と言いましても、
武田とて経済がそこまで後進的、というわけでもないですし、
そもそもの問題として、武田家は当時の両家と比して、石高的には
上位にあるわけですしねえ。
そちらが両家の石高ではない経済力、というのを推すのなら、
武田家には当時の両家を上回る石高がある、という事になりますし、
そもそも、毛利って朝鮮と貿易してるのですかねえ?
確か、大内氏以後、中朝との貿易は公式的には引き継がれなかったように
思われるのですけれどねえ。
で、このような大内が10年近く京都に滞在し続け、領国に問題が起きたことから
本国に撤収した事から考慮しましても、武田が一年や2年遠征するのに、
何ほどの事があるのか、と思うのですけれどねえ。
>本拠地の安全保障も万全
武田も上杉が関東と北陸に敵を抱えて、史実では1574年の末に至るまで
関東と北陸で戦い続けて、ろくに武田領土に侵攻しようとはしなかった事から
考慮しましても、普通に背後は安全だと思われるのですけれどねえ。
武田の経済は極めて後進的なんだが。
駿河清水湊以外に、物資が集まる集積地とか要衝がどこにある?
甲斐は山国、信濃も山国。
しかも海もない。
貿易の否定。
足利家の幕府財政を支え、細川京兆家と血眼になってその利権を争った貿易利権が大したことないと?
大内は出雲遠征当時、周防、石見、長門、安芸、備後、筑前、豊前北部を支配していたんだけど。多少石高に劣ってもそれを補って余りある貿易や銀山の益がある。ついでに言うなら、赤間関から莫大な交通利権も得られる。だから山口は西の京都とまで言われて繁栄した。
毛利は対朝は非公式の形で、民間を通じてやっていたはずだけど。それとやはり石見銀山の利権。
武田信玄は上杉謙信と和睦はしてないから、いつ攻め込むかわからないのでは? それは結果論でしょ? 足利義昭通じて武田信玄と上杉謙信が和睦したなら安全だけど。いつ攻め込むかわからない不安はないの?
あと、別に織田支持してないから勘違いしないでね。
いやいやいや、それは単なる貴方のご希望のように思われるのですけれどねえ。
それを裏付けるような論拠なり資料なり、論証なりをお示しの方を願いたいの
ですけれどねえ。
実際には史実の武田氏は度量衡の統一や、商人・職人の保護育成・統制を行い、
領国内商人の領国外派遣の統制なども行い、その結果、武田領国の各地では
多くの市場が立ち並び、甲府や駿府は言うに及ばず、
各地でも盛況な町宿が多く発生し、商人・職人たちが経済活動を
行っていたようですかねえ。甲斐の都留郡の吉田宿などは「千軒の在所」
といわれる程に盛況だったようで、他にも諏訪郡と安曇郡などは
多くの町が成立し、豊富な経済活動が行われていた形跡が認められるようでして。
他にも色々とありますが、貴方は何をもって「極めて後進的」と
おっしゃられますのか、についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いや、否定なんか別にしてないでしょうにねえ。どこに否定してる文言があるのか、
ご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ただ、それを込みにしても武田の方が領国の石高が上、という話ですしねえ。
筑前や備後は完全支配はできてなくて、部分的支配だったように思いますし、
そもそも、それを言うなら、武田には石高の優位がある、という話ですしねえ。
ですから、民間、ですよね。それ。
実際に北陸には武田が扇動した北陸一向宗が存在し、
謙信はこれに対して1573年の末まで戦って一区切りをつけ、
その後は関東に遠征して、北条相手に1574年まで戦い続け、
という展開ですしねえ。実際に信長の要請もスルーして、北陸に対陣を続けた事も
普通にありますし、謙信にこの状況で武田領国に攻め込む余裕や必要が
あったのか、というと極めて疑問だと思うのですけれどねえ。
雪の時期に入るしな。
ただ逆を言うなら、普段無理をしない時期に出陣し、普段出陣する時期を大人しくしていたなら、どちらかで無理が出かねないがな。
いや、比較的少ない、という話で、こういった冬の時期に遠征した事も
武田の戦歴には普通にあるわけですしねえ。
>>352の人があげてはくれましたけれどねえ。
戦略的に無意味でも戦果は戦果ってだけじゃ
付け城落とせなくても敵討ち取ればそれはそれで戦果って言えるし
>>251
信玄が三河から北上して岩村近くまで来ているのに六角攻めて寺焼いたりしてるぐらいだから
最低でも武田は攻めてこないと確信しているから攻めてきても大丈夫って考えてたんだろうな
>>255
>>265
細川はともかく荒木が織田に付いたのは伊丹ら荒木と対立する摂津衆を倒すためで
伊丹足利織田ラインのままだったら足利だけでなく織田とも敵対したままだったんじゃ
筒井と同じで自分のために陣営を変えているだけだと思う
>>263
苗木遠山は多分1555年以降ずっと親武田だと思う
岩村遠山は最初に武田に付いた後も離反したりしてたけど
志賀の陣で動けなかった織田相手に奇襲状態でなお2カ月かけて対岸の城落とせた程度の長島に期待しすぎじゃね
水運あるからゲリラ的に川沿い襲うとかなら可能だろうけど、本格的な城攻めは難しいんじゃ
>>285
本願寺だって一枚岩じゃないしな
そもそも越中支援とかすればその分どこかに皺寄せ来るだろうし、
今現在攻められてるとこと取りあえず落ち着いているとこだったらどっちを優先するかは明白
要点まとめてから普通にレスしろよ
ひとりひとりに感想飛ばして、ただ寂しいだけの奴に見えるぞ
自分はあまり信玄マニアではないけれど、西上が遅かったのは兵站の問題だと思う
なぜなら信濃全土も治めてない信玄はまともに糧食を得ることがとても難しいから。
9月29日から初めて4月にかえるのは農業をやってたらわかる話なんだ。
信濃見たいな寒いところは結構遅めになるから。
あの時代では結構ぎりぎりだと思う。大体種まきを5月にする。
そういうのを考えるとあの侵攻速度で上洛は無理筋だと思う。
穀倉地帯の方に進出しているのになんで信濃から糧食運ぶの?
当時の旧暦の4月は、現在の新暦では5月にあたります。はっきり言って甲信は田植えの時期にあたります。
1579年時点で、
一、信康を捨て織田をとる
ニ、信康をとり武田と結ぶ
の二択。当然俺は全員が「一」を選ぶと思っていたが、尾木ママ、小和田先生、磯田さんの3人が「二」を選んだぞ
十分に勝機があるってさ
番組見て無いが79年の状況で織田と手切れ&武田と組んでその後の展望とか言ってたの?
織田から離れるにはどう考えても遅すぎると思うんだが
学者然とした人たちが多いね。人を実は見てないんだな。
長篠のあとで勝ち目があると思ってるのかな。
戦争での有為の士をたくさん失って。御館の乱でも北条を蹴って。
武田ごと挟み撃ちになるじゃないか。
山県クラスの別働隊長がいるのかい?長篠で巨大な殺戮機構に
無策に馬鹿丸出しで挑んだ奴についていこうと思うのかい?
それを見てたのに。家康はそんな馬鹿だと思うのかい?
まあ、子を守るっていう立場を考えたんだろうけど家が滅んだら
まさに尾張なのにね。
このスレで語られているのは、大抵は信玄の西上の如何であって、
信玄死亡後の事はあまり語られてないように思うのですけれどねえ。
その前は西洋東洋を問わず現地での買い付けか場合によっては略奪がメイン
尾張の目と鼻の先の岡崎に居た信康が武田と通じるのは無理があるし
関わった人物達も後に粛清の類を受けていない
信長にしても信康を殺す理由はないし
忠次が赴いたのは切腹させる許可を得るためだったんじゃないだろうか
娘婿で将来は徳川家の当主。
それを信長に無断で自害させました、では信長激おこだろうなあ。
信長はだしに使われただけでしょ
はて?なんでそのようにする必要があると思われているのか、
とても疑問ではあるのですけれどねえ。
1542年6月~7月諏訪攻め 9月~10月宮川合戦
1543年9月佐久攻め
1544年10~11高遠藤沢攻め
1545年4~6高遠藤沢攻め桔梗原に出陣 9月~10月駿河出陣
1546年5月内山城攻め
1547年閏7月~8月志賀城攻め
1548年2月~3月上田原 7月~10月塩尻峠村井城
1549年4月春日城攻略 7~9諏訪出陣
1550年4月犬井城攻略 5月村井で小笠原を破る 7~10月小笠原追放砥石崩れ
1551年6月佐久出陣 7月~9月佐久攻め刈谷原城攻め 10月~11月平瀬城小岩岳城攻め
1552年7月~8月小岩岳城攻め
1553年3月~4月葛尾城攻め 7月~9月村上追放第一次川中島
1554年7月~8月下伊那攻め佐久出兵義信初陣
1555年3月木曽攻め4月~閏10月第二次川中島 8月木曽攻略
1556年8月雨飾城攻め
1557年2月~?葛山城内応北信濃攻め 4月~8月第三次川中島
1561年3月~4月西上野出兵 閏3月~4月富士吉田出陣 5月~6月北信濃越後出兵 8月~9月第四次川中島 11月~12月高田国峰倉賀野攻め
1562年2月飛騨攻め 9月~10月西上野出兵 11月~松山城攻め
1563年~2月松山城攻め 2月安中松井田攻め? 8月~10月倉賀野岩櫃攻め 12月~閏12月倉賀野箕輪攻め金山攻め
1564年1月飛騨桜洞攻め 3月野尻城攻め 4月~5月西上野攻め 7月山県による飛騨侵攻 8月~10月第五次川中島
1565年1月上野沼田攻め 3月秋山による美濃対陣 5月~6月倉賀野攻め 11月西上野嶽山城攻略
1566年3月~4月西上野攻め 9月箕輪城攻め
1567年3月~5月真田による白井城総社城攻め 10月惣社城攻略
1568年3月長沼城出陣 5月~9月?北信濃出陣越後侵入 12月駿河攻め
1569年1月~4月北条と対陣 6月武蔵出陣 6月~7月伊豆駿河出陣 9月~10月関東遠征 11月~12月駿河出陣
1570年1月駿河出陣 5月沼津対陣 8月韮山興国寺攻め 12月~興国寺深沢城攻め
1571年~1月興国寺深沢城攻め 2月~3月遠江攻め 4月~5月三河攻め
1572年1月~閏1月利根川対陣 8月飛騨攻め 10月~西上戦三河遠江攻め
1572年~4月西上戦三河遠江攻め
いまだにそう思っている人がいても仕方のないことだろう
当たり前の話だけど
島津の大友攻め、謙信の関東出兵や飛騨攻め、北条の上野侵攻
あと武田家没落後の天正壬午の乱において氏政は武田が動員できなかった
5万もの兵力を上野、武田領に送り込んでる
美濃に行くのも理解不能。尾張に行って熱田湊を占領したら補給の心配はなくなる。しかも尾張攻めには長島一向一揆と連携がしやすいのに。
浜松城を落城させるのは困難と判断したかと
大軍が篭れる巨大城郭。攻めづらい地形。石垣など先端技術を取り入れた郭
それよりは収容人数にも限りがある中世城郭しかない東濃中濃の方が御しやすい
三方ヶ原の直後ならわからないのでは?
2000の死者と負傷者が出ていて、徳川の士気が高いとは考えにくい。逆に武田は士気が高い。この被害は敗戦直後ならかなり重い。いくら城が先端でも守備兵が頑張らないとどうしようもない。
東美濃だと中濃、特に岐阜城をすぐに落とせると? あれは金華山にあるかなりの山城ですが。
信玄はそう判断したんだろう。岐阜城は竹中重治に占領されたり
織田秀信があっさり落城させられたりと収容人数という点で防御力に難点がある
それでも美濃国の中では堅城と言われてるからそれ以外の城は言うまでもない
織田秀信があっさり落城させられたのはそもそも籠城前に野戦に打って出て兵力を失ってたからでは
完全に追い込まれると死なば諸共で逆にやりにくい
>>363
いちいち煽んなよ
>大軍が篭れる巨大城郭。攻めづらい地形。石垣など先端技術を取り入れた郭
なにこれw
後から造られた安土城より全然凄いね!さすが天下人だな~
多分72年11月前後の山縣の奥村宛ての書状だったと思うが
秋山と一緒に逆さ磔の刑
織田が動かずに謙信が単独で動く理由がない
また仮に謙信が進行にするにしても雪解け後に西上野になるため猶予は十分にある
だから武田が領国からにして遠征続けても上杉が攻めてくることはない
つまり上杉警戒して対上杉の兵力増やしたり、雪降ってる時期に攻めたり関東行ってる間に織田徳川攻めた
ムダに警戒心の強い史実の武田は無能
ってことか
何度も書きましたように、信長からの謙信宛の盟約書状
(1573年3月)によりますれば
「織田徳川勢に圧迫されて、信玄は信濃境まで撤収している。」
「だからこそ、織田・上杉・徳川の三大名で一斉に武田領国に攻め込む時。」
という状況なんですよ。
実際には武田勢は普通にこの時期にはまだ三河にいるわけなのですが、
信長はこのように伝えていたわけですかねえ。
ですから、この盟約、によりますれば、普通に信玄が生存していて、
さらには国内にいる状況であるにも関わらず、三大名で攻め込む、
という「盟約」なのですが、謙信は信玄死亡後の、後継体制を固めるべき時にも
武田領国に攻め入ろうとはしなかったわけですしねえ。
上杉が関東遠征も北陸遠征も一区切りがついた、1575年初頭のころには
武田も兵力を多く信濃に配置して、それで長篠の戦いに、という形になるわけですしねえ。
例の人の主張まとめると結論はだいたいそんな感じになる、
本人は気づいていないみたいだけどね、
あるいは勝頼が無能なだけって思っているのか。
何度も書きましたように、信長からの謙信宛の盟約書状
(1573年3月)によりますれば
「織田徳川勢に圧迫されて、信玄は信濃境まで撤収している。」
「だからこそ、織田・上杉・徳川の三大名で一斉に武田領国に攻め込む時。」
という状況なんですよ。
実際には武田勢は普通にこの時期にはまだ三河にいるわけなのですが、
信長はこのように伝えていたわけですかねえ。
ですから、この盟約、によりますれば、普通に信玄が生存していて、
さらには国内にいる状況であるにも関わらず、三大名で攻め込む、
という「盟約」なのですが、謙信は信玄死亡後の、後継体制を固めるべき時にも
武田領国に攻め入ろうとはしなかったわけですしねえ。
上杉が関東遠征も北陸遠征も一区切りがついた、1575年初頭のころには
武田も兵力を多く信濃に配置して、それで長篠の戦いに、という形になるわけですしねえ。
そんな後進地域より遠江、三河の方が侵出先としては正解
濃甲同盟とか結ばれるってオチになりそうだな
家康は三方ヶ原で使い物にならず南近江に配置している
武将たちは豪雪で東濃まで移動できない
おまけに東濃、中濃は収容人数に限りのある山城なので
3万の軍勢の攻勢から守り抜くのは困難
野戦での決戦は信長にとってリスクが高すぎる
家康は使い物にならない。
武田信玄の死後、1573年5月には駿河の岡部を攻撃するまでに回復しているんだが。
三方ヶ原を過大評価しすぎ。
徳川家康が駿河なり南信濃にせめよせたらどうする気なんだか。
別に兼山で武田軍を防ぎながらの後詰決戦も可能。二俣で野田で落城に月をかけた武田軍に、宇佐山を浅井や朝倉から守りきった森軍をすぐに破れるわけがない。
んなこと知らん
>>393
>>徳川家康が駿河なり南信濃にせめよせたらどうする気なんだか。
そうなったら信玄は喜んで殿を部下に任せ浜松城を落としに向かうだろうな
浜松城は石垣を用い、万単位の兵を収容できる近世城郭の要素も備える巨大城郭だし
そこが手薄になったら真っ先に向かい三河制圧の拠点にする
1573年5月の信玄死亡後の侵攻は、普通に信玄が死亡して、
武田が十分な反撃を行えない事を考慮しての侵攻とされておりますし、
>別に兼山で武田軍を防ぎながらの後詰決戦も可能。
それをなさられると、朝倉・長島が他の方面から美濃に侵攻を進めてきますから
織田は早期に勝負をつけないといけないと思われますが、
そうすると、今度はほぼ同数の武田の守りに無理攻めを仕掛ける事になる、
という事になるわけですしねえ。
>二俣で野田で落城に月をかけた武田軍に
それをいいましたら、西上で数々の城を、短期間で攻略している武田、とも言えますしねえ。
そもそも、野田のは信玄がすでに発病していたのでは、とされていますし、
二俣城はそもそも、徳川家康が、長篠の後で武田勝頼が十分な援軍を送れない状況でも、
5か月以上かけても攻略できずに、城主城兵の助命を条件に明け渡してもらった程の城ですし、
織田も同じような状況で、岩村城を半年近くかけても攻略できずに、
最終的には騙し討ちで、という事も言えてしまうわけですしねえ。
つーかその条件だと土下座に近いよな
既に経済的に信長とは引き離されているうえに、荷止めという経済制裁は
継続される。信玄の現状打開の唯一の方法は、家康を滅ぼす又は屈服させ、
三河半島を占領すれば、伊良湖岬-志摩半島のルートが使えるようになり、
信長領は回避可能。それどころか、伊勢湾を封鎖し、尾張の信長領に対し
逆制裁も可能。
これが成功しない限り、信長の経済制裁という強力な切り札は有効であり
続ける。それでも、経済力が違い過ぎるから、苦しいだろうけど。
あのー、他所のスレでも書いた事ではあるのですけれど、
信玄は西上直前まで普通に、一応は織田と同盟国でして、
織田側が経済封鎖とやらをした形跡は特にないように思われるのですけれどねえ。
そもそも、信玄が敵対してから、武田滅亡まで9年近くありますが、
特にその経済封鎖、とやらの特徴やそれによる効果らしきものは
出ていないように思われるのですけれどねえ。
如何なものなのでしょうかねえ。
>>390
私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
確かに書き方が悪かった。ただ、これはおかしい。
==================
そもそも、信玄が敵対してから、武田滅亡まで9年近くありますが、
特にその経済封鎖、とやらの特徴やそれによる効果らしきものは
出ていないように思われるのですけれどねえ。
==================
武田家は、鉄砲に必要な硝石が信長によって荷止めされたようで、
鉄砲や硝石を集めたら馬200~300やる、と穴山梅雪が命令したと
「お金の流れで見る戦国時代」(大村大次郎、KADOKAWA中経出版)に
記載があるぞ。少なくとも武田は最新兵器では荷止めでかなり
悲惨なことになっている。
菅沼には正論は通用しません。
はいはい。いつも通りに必死になって菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられるようではありますが、
その「菅沼なんたらの特徴」ってなんなんですかねえ?
具体的にお答えになられる事が、貴方だってまずお出来にならないからこそ、
誰でも彼でも都合悪い相手だと思った人を、誰でも彼でも菅沼なんたら認定する事に
貴方が狂奔しまくって、特徴も行動も文体も論旨も活動場所も異なる多くの人々が
菅沼なんたら認定されていて、貴方ですら、それに整合性をつけてのご回答を
求められたら、一度もお答えになられずにいらっしゃられる、というのが
実態でしょうに。
元々、菅沼なんたら認定されていた人と、私とは口調も文体も論旨も行動も特徴も
様々に異なりまくっていると思われますのに、これで何をどうやったら
私がその「菅沼なんたらの人」であるとおっしゃられるのか、
について具体的にお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、オープンの方の戦国時代板の
「信長が本能寺で死ななかったら」スレとかをはじめとして、
その菅沼なんたらなるレッテル貼りをお創りになられたご当人さん自身が
複数人を同一認定して作った架空人物レッテルだと
お認めになられて久しいのが実態なのですけれどねえ。
貴方は本当にその「菅沼なんたら」なる人間が貴方のご希望通りの人間として実在し、
それが私だと本気で思われるのか、について
ご回答の方をいただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、もし、こちらを菅沼なんたら認定して喚いておられるのでございましたら、
まずは>>628で聞かれている事などに、
お答えになられる事からおはじめになられていただきたいと思いますので、
ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。いつも通りに必死になって相手側のレスなどを捏造曲解に狂奔なさられながら、
貴方自身がオープンの方で認めておられる複数端末ID自演の多用によられます、
必死な他人装い的な書き込みをなさられておられたり、菅沼なんたら認定やらに狂奔なさられて
おられるご様子ではありますが、5月侵攻において、別に完璧なる連携とか、スマホとかは特に必要とは思われないのですけれどねえ。
普通に考慮してみますれば、複数の同盟国や同盟勢力が存在し、それらと一斉に攻撃を行うのであれば、
敵対国側の主力が来た方面では守りを固め、他方面から侵攻なり攻勢なりをかけ、というのは
極めて普通の戦略なわけですし、普通に志賀陣などでも効果が証明されているやり方なわけですしねえ。
このやり方なら、普通に堅実に戦いを進めていく事で、着実に勝利をおさめていく事が可能なように思われるわけですし、
堅実なる勝利を求める戦国大名達にとっては、極めて普通の戦い方であるように思われますしねえ。
それから、武田は北信濃方面の上杉の抑えの春日やら、西上野方面の内藤やらも参陣させた戦力総動員の形ですが、
織田は領域が広い分、武田よりも石高が上でも、それを諸方に対してあてざるを得ず、
武田に対して美濃で相対できる兵力は、結局三万程であるように思われるわけですしねえ。
現に、長篠の時は北陸の抑えを動員してまでも、三万余の兵力でしたし、
高天神の時はそこまでの動員をしてない為に、それ以下の兵力で、2万5千とされる、当時の武田勢との戦いに対して進軍が停滞気味になり、
結局、高天神を攻略されている、という状況になっておりますしねえ。
当時の織田が、最低限の抑えを残して進んだ場合、主力が2万数千、となるのは
特に不可思議な話ではないように思われるわけでございますがねえ。
で、こちらの事を菅沼なんたら認定なさられるならば、>>628に書かれているような
菅沼なんたら自体の設定的な矛盾について、整合性をつけてのご回答をなさられる事から
おはじめになられていただきたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。その菅沼なんたら、っていうのは私の事なのでしょうかねえ?
その菅沼なんたら認定の設定的矛盾が>>628にありますように、
膨大になっておりまして、明らかに織田側の人が都合の悪い史実を提示する人々などを
誰でも彼でも認定し、煽り罵倒する為の架空人物レッテルであるのが
明らかになっている、という状況のように思われますが、
これらについて、整合性をつけてのご回答をなさられる事からおはじめになられて
いただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。相変わらず、必死になってこちらを菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられるご様子ではありますが、
その菅沼なんたら認定の設定的矛盾が>>628にありますように、
膨大になっておりまして、明らかに織田側の人が都合の悪い史実を提示する人々などを
誰でも彼でも認定し、煽り罵倒する為の架空人物レッテルであるのが
明らかになっている、という状況のように思われますが、
これらについて、整合性をつけてのご回答をなさられる事からおはじめになられて
いただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
お前人に回答を求めてばっかりだな。で、朝倉の過去の山越え美濃侵攻は兵力どれくらいや? 朝倉義景が2万のほぼ全軍による美濃山越え侵攻するなら、江北や若狭の手当はどうした? あの山道を2万も行けるのか?
こちらは何度も資料や書状などを提示して述べさせてもらっておりますけれどねえ。
貴方がこちらに対して菅沼なんたら認定をする事に狂奔なさられておられますけれど、
>>628にありますように、菅沼なんたら認定自体に膨大なる設定的矛盾が生じていて
複数人同一認定の架空人物レッテルである、という事が明らかになっておりますのに
貴方がそれらについて、一度も整合性をつけてのご回答をなさられる事が
一度もお出来になられないのですから、まずはそれらについてご回答をなされる事から
おはじめになられていただきますのは、極めて自然な話でございますので、まずはそれらに関して、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で、貴方の方こそが、こちらに対して聞かれている膨大なる事柄に対して
必死にスルーしようとしながら、必死に質問返しとかに終始しようとして喚いておられるご様子ではございますが、
今度は兵力規模で「朝倉の山越えは絶対にできない!」と喚かれておられるようではありますが、
貴方のその「朝倉の越前からの美濃侵攻は絶対にできない!できると思えない!」っていうのは
これまでこちら側からの指摘を受けて、何度も何度も論旨的な変遷をなさられておられますのに、
これで貴方に「出来るとは思えない!」と喚かれましても、こちらとしては困惑するしかない、という状況でございますしねえ。
貴方は最初は「越前から美濃への侵攻は絶対に無理!地形的に不可能!」と言い出されまして、
「宗滴が2度もそれを行っている。」と指摘されたら、「宗滴程の名将でないと不可能!」と言い出し、
「宗滴程に有名でない普通の武将達も、普通に行っている。」と指摘されたら、「義景には無理!」と言い出し、
「義景も遠征や戦果的には、宗滴以外の武将達と比べて圧倒的に劣るようには思われない。」とこちらから指摘されたら、
今度は兵力規模で「出来るとは思えない!」と喚かれるわけですかあ?もう、こちらとしては困惑しか湧きませんし、
正直な話、貴方のその「出来るとは思えない!」というのは、「義景に美濃に侵攻されると嫌じゃあああ!」と
貴方が喚いておられるようにしか思われない次第なのでございますが、
この件についてのご説明の方をよろしくお願いしたいと、>>649の方でも普通に聞いておりますし、
他にも膨大なるこちら側から聞かれている事柄を、必死にスルーしようと躍起になっているのが貴方でしかないように思われますので、
それらの件につきましても、おはやめにご回答の方をお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>林新次郎や氏家卜全を討ち取れたのも追撃戦の有利を生かしたゲリラ戦術によるもの。
いや、信長公記の記述を考慮しまするに、普通に波状攻撃を仕掛けて
織田勢の殿軍部隊を撃破しているように思われますけれどねえ。
「火花を散らし、相戦う」とか「一揆ども焜と差し懸け」とか
「散々に相戦い柴田が負傷をして退き」とか「氏家勢が取り合い、一戦に及び」とか
「林勢は一揆勢を節所のつまりにおいて相支え」とか明らかに普通に接近戦とかも込みにして
普通の戦闘を行っているように思われますけれどねえ。
いやいやいや、それも過去スレで普通に答えられている事ではありますが、
尾張の戦力とか言いますが、当時の織田家に尾張に大軍を残しておく余裕はないですし、
それで長島にでも攻め込もうものなら、普通に織田勢主力を2度も撃退している、
長島の守備と守備兵で防げるでしょうし、
その分、織田は美濃の織田勢主力の兵力が減少する事になると思われますし、
地の利がどうとか言いますが、織田勢主力が迎撃に来るなら、長島一向宗勢は
普通に守りを固めて、武田・朝倉が侵攻を進めるようにすればいいだけの話ですしねえ。
普通に戦略的に武田・長島・朝倉が優位なように思われる状況なわけですしねえ。
はいはい。そもそも、貴方のご主張は一向宗自体が野戦に弱い、という事でしたのに、
こちらに北陸一向宗が普通に野戦などで戦っている事を指摘されたら
「北陸一向宗は別!長島は違う!」と言い出されておられるわけですかねえ。
普通に>>691などでご説明をさせていただいている、貴方が最初に「朝倉の越前からの美濃侵攻は地形的に絶対無理!」と
言い出されておられたのと同様に、こちら側に指摘されて、ご主張が変遷しまくっているように思われるのですが、
この件について、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で、長島は上記にあるように、普通に織田勢の殿軍部隊を相手に、ゲリラ戦ではなく、
普通に接近戦も込みにした、普通の戦闘で「散々に相戦って」織田勢の殿軍部隊を撃破しているわけなのですし、
普通に特に問題があるようには思われないのですけれどねえ。
ですからあ、貴方のその理窟でしたら、長篠の後で武田勢主力が救援できない状況で、
半年近くかけても岩村城を攻略できずに最後は騙し討ちの織田だとか、
同じく長篠の後で、武田勢主力が救援できない状況で、
同じく5か月以上かけても二俣城を攻略できずに、城主城兵の助命を条件に
城を引き渡してもらって退去してもらった徳川家康、などの連中に何ができるのだ、
のような理屈とか色々と言えてしまうわけですし、
そもそも、信興の城を攻略した後で、地固めをしてる間に、和睦交渉が始まっているのに、
それをスルーして織田を攻めるとか、普通はしないと思うのですけれどねえ。
とりあえず、貴方はその>>628にあるような菅沼なんたら認定の設定的矛盾や、
貴方に聞かれている膨大なる事柄について、ご回答になられる事からおはじめになられていただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、上にもありますように、普通に信玄西上の時には信長は警戒をしまくっておりまして
現に信玄西上の時は、 信長万歳の信長公記におきましても、普通に「方々手ふさがり」の状況であると書かれておりますし、
信長の当時の書状などからしましても、信玄の西上に関して、信長は警戒をしまくっておりまして、
その動向を非常に警戒して美濃に留まり続けたり、東美濃に大物見に来たりしているわけですし、
謙信に必死で武田領土の背後を攻撃してくれるように、要請したりしておりますかねえ。
さらに申し上げますと、信玄がそのまま10年生存を続けて、5月からの美濃侵攻を行えば、
武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力(三万近く)が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
そもそも、順番に潰していく段階、と貴方は仰せられておられますが、
打ち倒せたのは朝倉・浅井だけで、1573年に長島に攻め込んだら、普通に撃退されておりますし、
朝倉の越前に関しましても、ほどなく越前一国が丸ごと離反されて、北陸一向宗の領土になる、
という状況ですしねえ。
この件についてご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>695にもありますように、普通に長島勢は接近戦をも込みにした戦いで、
「散々に相戦って」織田勢殿軍部隊などを撃破しているわけで、
その野戦能力が弱いとも特に思われないわけですしねえ。
数万の長島勢が守りを固めて迎撃しますれば、普通に志賀陣の時と同様に、
信長は攻略できずに対陣を続ける事になり、
その間に、武田・朝倉がそれぞれの侵攻領域を広げていく、という事になりますし、
さらにその状況で武田・朝倉の双方から要請されている、遠藤が鉈尾の砦を拠点として、織田に敵対したら、
織田はかなりの不利な状況になるように思われる次第であると思うのでございますけれどねえ。
>>695にもありますように、普通に長島勢は接近戦をも込みにした戦いで、
「散々に相戦って」織田勢殿軍部隊などを撃破しているわけで、
その野戦能力が弱いとも特に思われないわけですしねえ。
朝倉・浅井も普通に5月くらいまでは戦果もあげておりますし、
信玄西上に呼応しようとしていたりして、
色々と動いているわけなのですけれどねえ。
信玄西上がそのまま続いていたなら、
朝倉浅井はそれに呼応して動いていたように思われる次第でございますしねえ。
いやいやいや、貴方こと必死な織田厨さんが、おーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
>>628で聞かれているような、膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますようなご趣味と比しますれば、
遥かにかわいい部類の趣味であるように思われるのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。
はいはい。いつも通りにこちらを菅沼なんたら認定しようとするならするで、
>>628にあるような菅沼なんたら認定の設定的矛盾や、
貴方に聞かれている膨大なる事柄について、
ご回答になられる事からおはじめになられていただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
単発さんが急に必死になって特徴的な織田厨さんの>>720の人に賛同とかをしておられながら、
菅沼なんたら認定とかに狂奔なさられているご様子ではございますが、
これでは、必死な織田厨さんが、おーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
>>628で聞かれているような、膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますようなご趣味によるものなのではないのでしょうかねえ、と
多少は疑心暗鬼にもなってしまうような気がしなくもない、という感じでもございましょうかねえ、
という所でございましょうかねえ、という感じでございますかねえ。
はいはい。いつも通りに>>728みたいな事を言い出されましても、
>>730とかで、貴方のこれまでの漢文訳の不可思議なるところを私が指摘した事とか、
貴方がいつ私に対して、漢文訳の正しいお教え、などをなさられたのか、という事を
聞かれたら、必死になってそれらについてはスルーしながら、
必死になってレッテル貼りに狂奔しようとなさられておられるのが、
いつもどおりの貴方のご所業ではないですか、と思う次第なのではございますけれどねえ。
貴方自身がおーぷんの方の戦国時代板で
自らお認めになられておられます、複数端末による、複数ID自演による多数派装いの煽り罵倒荒らしやら、
>>628で聞かれているような、膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられますような事をご趣味となさられていて、
今もそのようになさられている、必死な織田厨のお方さーん、である貴方は
聞かれている事に関しては、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。ですからあ、いつも通りに都合悪い事柄を必死にスルーして喚かれようと
なさられておられるご様子ではありますが、
天下をとった後の秀吉は、「世間で凄いとされているものをこきおろして、
自身の方が凄い、という風に述べる。」という逸話を複数残しており、
(源頼朝の像の前で、「裸一貫から天下をとったのは歴史上、俺とお前の二人しかいないが、
お前は源氏の棟梁の嫡流で、それに従う者達が多数いたが、俺は文字通りの氏素性なき者だった。
俺の方が凄いな。」と述べたり、奈良の大仏に対して「あんなもの、俺が作ればもっと大きなものが出来る。」
と述べたり、と。)信玄と謙信の川中島に対する批評も、家臣達の信玄・謙信の戦いぶりを称える言葉に答えたものだったはずで、
この逸話は逆説的に、信玄・謙信の川中島の戦いに関する、世間一般の評価が高かった事を示している逸話、であると思われるわけですかねえ。
それから、こちらを菅沼なんたら認定なさられようとするならするで、
>>628で聞かれているような、膨大なる設定矛盾が存在するにも関わらず、
必死になって誰でも彼でも貴方にとって都合悪い事柄を指摘などをしたり、それについて賛同などをなさられる人々などを
菅沼なんたら認定する事に狂奔なさられておられます貴方のご所業について、
整合性をつけてのご説明の方をおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。こちらは何度も何度も書状やら資料の記述やら、を提示してますし、
貴方の書状訳の異なりとかも指摘しておりますから、
貴方的な見解では、普通に私は菅沼なんたらではない、という事になりますよねえ?
さらに言いますと、貴方は>>628にあるような、菅沼なんたらの膨大なる設定矛盾やら、
を聞かれても一度も整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来にならずに、
聞かれるたびに発狂逃亡を繰り返しておりますし、
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、必死になって複数の相手を同一認定しようとしたり、されておられるご様子ではありますけれど、
貴方こと必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演の常習犯であらせられる事は、
オープンの方で貴方自身がご自身の行動とレスでしっかりとお認めになられておりますのに、
今更何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはい。いつも通りに必死になって複数の人間のレスを
必死に同一認定して、菅沼なんたら認定とか、
こちらに対しての無理やりな同一化をしようとしておられるだけの話ではないですかあ。
そもそも、複数端末による複数ID自演や多数派装いの常習犯が貴方であらせられる事は
普通に貴方自身がオープンで行動でもレスでもお認めになられておりますのに
今更なにをおっしゃっているのかと思うのですけれどねえ。
そもそもの問題として、こちらは何度も何度も書状やら資料の記述やら、を提示してますし、
貴方の書状訳の異なりとかも指摘しておりますから、
貴方的な見解では、普通に私は菅沼なんたらではない、という事になりますよねえ?
さらに言いますと、貴方は>>628にあるような、菅沼なんたらの膨大なる設定矛盾やら、
を聞かれても一度も整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来にならずに、
聞かれるたびに発狂逃亡を繰り返しておりますし、
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
それから、必死になって複数の相手を同一認定しようとしたり、されておられるご様子ではありますけれど、
貴方こと必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演の常習犯であらせられる事は、
オープンの方で貴方自身がご自身の行動とレスでしっかりとお認めになられておりますのに、
今更何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ですからあ、それ、明らかに複数の人間を、貴方の誰でも彼でも菅沼なんたら認定して
最終的には数十人単位になって、貴方自身ですら整合性をつけてご説明をなさられる事が出来ずに
発狂逃亡をなさられるまでになった、「誰でも彼でも菅沼なんたら認定」について、
憤りを感じる人が普通に複数いただけの話ですしねえ。
しかも、いつも通りに捏造曲解に狂奔なさられているのが明らかですしねえ。
それから、必死になって複数の相手を同一認定しようとしたり、されておられるご様子ではありますけれど、
貴方こと必死な織田厨さんが、複数端末による複数ID自演の常習犯であらせられる事は、
オープンの方で貴方自身がご自身の行動とレスでしっかりとお認めになられておりますのに、
今更何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ。
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
といいますか、貴方自身が菅沼なんたら認定の為に立ててきた、膨大なスレが、
今ではオープンで数多く削除されている、という感じで
貴方自身が明確に運営から荒らし扱いされているご様子なのですが、
その件につきましても、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
こちらは何度も何度も書状やら資料の記述やら、を提示してますし、
貴方の書状訳の異なりとかも指摘しておりますから、
貴方的な見解では、普通に私は菅沼なんたらではない、という事になりますよねえ?
さらに言いますと、貴方は>>628にあるような、菅沼なんたらの膨大なる設定矛盾やら、
を聞かれても一度も整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来にならずに、
聞かれるたびに発狂逃亡を繰り返しておりますし、
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
はいはいはい。何度も何度も上でも指摘されている事ではありますが、
今川相手には、信玄は義信事件の後でも普通に同盟継続に固執しておりますし、
今川が上杉と組んで武田を包囲する動きを示した事から、
駿河侵攻に踏みきっただけの話ですしねえ。
>困った北条が今川と上杉に確認した結果武田の嘘八百が判明して武田と断行してる
一体、何の話をしておられるのでしょうかねえ?
実際には、北条は上杉に対して
「今川が攻められたのはそちらと通じたせいなのだから、こうなった以上は
こちらと共に武田と戦うのに協力しろ。」的な事を書状で述べているわけですしねえ。
貴方は何を述べておられますのか、についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
諏訪に関しては、元々諏訪の盟約違反を基にしておりますし、
その娘との婚姻は普通に正式な輿入れですしねえ。
織田を乗っ取った秀吉が淀殿を迎えている事例とかも普通にありますしねえ。
信虎に関しては、普通に追放された時に甲斐の大衆が喜んでおりますし、
義信に関しても、元々義信が謀反したのを、信玄は2年以上生かしておりますし、
その死亡も病死とも自殺ともいわれますし、多数の人々が信玄との仲を取り持とうとしたのを、義信が承諾しなかった、ともされておりますしねえ。
はいはい。どうでもいいですから、私をその菅沼なんたら認定しようというのでしたら、>>795にあるような、膨大なる菅沼なんたらの設定矛盾について、
整合性をつけてのご回答をなさられる事からおはじめになられていただきたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
諏訪との婚姻が正式?
甲陽軍鑑には山本勘助が諏訪衆との和解を目的に婚姻を進めた、とあるが、これは創作だろう。
諏訪との婚姻はとにかく史料が甲陽軍鑑しかないから仕方ないが、その甲陽軍鑑で当時の武田の宿老がみんな反対した、とあり、武田信玄が無理やり押し切った可能性がある。
諏訪頼重が先に同盟破棄したとか言いたいのは、1541年の小県出兵のことか? 信虎、村上義清、頼重の3人で海野を攻め、追放。
ところが6月に信玄が信虎を追放。これを見て海野を保護していた上杉憲政が佐久、小県に派兵。しかし頼重が防戦し、憲政は頼重と和睦して撤兵。この時に頼重は憲政から領地を分与されている。
当時の史料では確かに「武田、村上は諏訪に出し抜かれた」とある。しかし憲政の出兵は信虎追放の直後で、武田に小県、佐久に出兵できる余裕があったとは思えない。
この一事で諏訪頼重の盟約違反と武田信玄がみなした、はかなり無理があり、難癖としか思えない。諏訪頼重が小県出兵しなかったら上杉憲政に占領されていた可能性がある。
それと、武田信玄は頼重の弟、頼高も切腹させてるが、諏訪大社上社大祝の頼高はまだ15歳で、しかも大祝は諏訪郡から出てはいけない不文律があったのに、甲府で切腹させている。
約束破った度が濃厚なのは武田信玄だと言えるが。
いやいやいや、勝頼は義信生存時から、普通に信玄・義信に次ぐ武田家ナンバー3ですし、
その母親の立場がしっかりとしてないと、こういう事はまずありえないように思われますし、
そもそも、軍鑑の記述に従うなら、普通に結局家臣達も信玄の決定に従っているわけですしねえ。
諏訪に関しては、勝手に所領分割をした事が問題であったように思われるのですけれどねえ。
頼高に関しては、敵対する矢島満清の讒言があった、とされており、謀反の可能性とかを
指摘されたのではないのでしょうか、とも思うのですけれどねえ。
あんたが言ってるのは、なんの史料に載ってるのかちゃんと言わないと全く説得力ないから。書状というなら、何年何日付かを出してね。
この人の場合は都合のいいとこだけ抽出や、とんでも訳なんかで
原文出さないともう信用されないからなー
まあ原文さえ改竄して出してきたこともあったが
はいはい。そのようにおっしゃられますならば、具体的にどこがどうなのか、を
具体的にご説明の方をよろしくお願いしたい次第ですかねえ。
それから、貴方とよく似た文体の方が、上の方で、
「朝倉側の軍記の記述などに示される敦賀在陣で、
朝倉が出てきても織田が援軍を必要とする事なく防げた。
朝倉の弱体化は隠せなくなっているのは間違いない!」的におっしゃられ、
こちらが「越前軍記では、その敦賀在陣では主力が敦賀にいて、
三千余の分遣隊を若狭に派遣して焼き打ちと苗代襲撃と、拠点構築を行わせ、
という感じで、織田が援軍無しで防いだ、とか朝倉の弱体化を示すものではないのでは?」
的に申し上げた事がございましたが、これに関してはどう思われるのでございましょうかねえ。
こちらとしましても、このような言い方は、できればしたくありませんので、
貴方もこちらに対して、何かお述べになられたいなら、論旨でもってきていただきたい、と思いますので、
なにとぞよろしくお願い申し上げます次第でございますかねえ。
勝頼がナンバー3とか、何処から出してきた?
勝頼はナンバー3どころか、嫡子扱いすら微妙。
義信生存時なんか単なる諏訪高遠氏の当主で信濃国衆のひとり。しかも諏訪上社大祝職は継承してないし諏訪衆すら家臣化を許されてない。
単に武田信玄の4男だから御一門衆のひとり。それだけ。しかも義信は生前からかなり文書を発給して武田信玄の共同統治者の地位にあったが勝頼が武田信玄の代理したのは確認できるだけなら1572年11月24日付の駿河臨済寺に対する文書だけ。
1573年3月、武田信玄が死ぬ少し前なんか、大山崎惣中から来た使者に対する文書発給が勝頼ではなく土屋昌次によって行なわれている。
これでナンバー3? 父親の代理どころか共同統治者すらないナンバー3か。笑わせるなよ。
とりあえず、平山氏の論文によりますれば、信玄・義信生存時には
武田一門の木曽が甲府に来た返礼として、信玄か義信、それが無理ならば
勝頼を派遣する、と述べた書状がある事をあげ、
返礼として派遣する立場として、信玄・義信に次ぐ格の高さを有し、
甲府留守居の責任者をしばしば命じられ、情報収集や他国の監視、信玄への報告などを行っており、
義信に次ぐ地位、典厩、信綱、穴山、よりも高い格を有していた事を示している、
されておりますかねえ。
普通に、信玄生存時から、勝頼は信玄・義信に次ぐナンバー3であったことが明白なように思われるわけですしねえ。
はいはい。貴方は>>628や>>795にあるような、
菅沼なんたらの膨大なる設定矛盾やら、
を聞かれても一度も整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来にならずに、
聞かれるたびに発狂逃亡を繰り返しておりますし、
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ついでに、その「信虎と変わらない」的な記述はどこにあるのか、について
年代でお示しの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方、これを前にも聞かれても発狂逃亡をなさられましたけれど、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、確かにオープン2chの方でご自身が複数端末による、複数ID自演の常習犯であらせられる事を、
ご自身で行動とレスによってお認めになられておられる、必死に菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられます、
必死な織田厨さんである、というのは、確かに既存の情報であるのかもしれなくもないかとは思う次第なのではございますが、
こちらが出している書状などに関しては、最近出されている話題のなどは、普通に新規の話題とそれに基づいた書状の紹介や提示などが
複数行われているように思う次第なのでございますが、
とりあえず、貴方は貴方で>>628や>>795にあるような菅沼なんたら認定の設定矛盾について、
整合性をつけたご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>868の人がオープン2chの方でご自身が複数端末による、複数ID自演の常習犯であらせられる事を、
ご自身で行動とレスによってお認めになられておられる、必死に菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられます、
必死な織田厨さんである、という事ですかねえ。
ちゃんと主語をつけてご説明申し上げる事は非常に大切な事であると思われますので、
改めてつけさせていただきました次第でございますかねえ。
>>869
はいはい。とりあえず、こちらを菅沼なんたら認定なさられるのであれば、貴方は>>628や>>795にあるような菅沼なんたら認定の設定矛盾について、
整合性をつけたご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、普通にその意味でも通ると思いますし、そもそも、普通に文章的にはそのような訳にならざるを得ないように思われますし、
そもそもその書状では、信長が河尻と織田信広とその軍勢を派遣して
「城主取り合い」とか「多数打ち取り」とかをなさられたご様子で、普通に武田に対しての敵対行動をしているように思われる次第なのでございますけれど、
貴方はこれで何をどうやって、どのように訳されると申しますのか、について
具体的に書状の文章などを基にしつつ、論旨の方のご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
自分の頭で考えてみては?(笑)まあ貴方の文は無駄に長くて無駄な言葉が多いですねえ
無駄な長文ばかり毎日毎日並べて無駄な人生ですねえ報われない人生ですねえ
つまり、いつも通りに都合悪い事柄にはお答えになられない、という事でございましょうかねえ、
とこちらとしては困惑してしまわざるを得ませんので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ、
と思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いやいやいや、一日中をかけて、貴方がオープンで認めているように
必死になって複数端末と複数IDによる多数派装いによる、必死な煽り罵倒レスの書き込みに躍起になられておられる、
貴方に人生について、述べられてしまいますと、こちらも非常に不可思議な気持ちにならざるを得ないと思われる次第なのでございまして、
貴方はこちら側に聞かれている事柄について、おはやめにご回答の方をいただきたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
んん~?>鉄砲や硝石を集めたら馬200~300やる、と穴山梅雪が命令したと
いつの書状の事ですかねえ?年月日とか、誰宛なのか、をご提示願えれば、
こちらでも調べられそうに思うのですけれどねえ。とりあえず、書状内容を考慮しないとどうにも、という感じですかねえ。
鉄砲がどうとかおっしゃいますが、普通に長篠の戦いの前の、長篠城の城攻めにおきまして、
武田勢が鉄砲を使いまくっておりまして、長篠城が鉄砲の射撃によって多数の鉄砲痕が残ったそうで。
茶屋四郎次郎、という徳川家の商人がおりますが、この人は武田勢の銃撃によって負傷した事があったそうで。
どうにも、武田家が鉄砲において、悲惨な事になっているのかどうかは、不可思議な気持ちにならざるを得ないような気がしますともうしますかねえ。
おまえの知識レベルではおーぷんがお似合いだ
皆さん隔離するため、相手にしないようお願いいたします。
相手にしないように。
というか越前防衛のために朝倉がそれを求めているので動けない
逆に浅井が朝倉の後詰を何度も求めているので大軍を越前から直接美濃方面に回すことが政治的にも軍事的にもそもそも難しい
>>418にもありますように、浅井は普通に単独でも羽柴・柴田による小谷への夜襲侵攻を単独で撃退もしておりますし、
そもそもの問題として、この信長包囲網戦略において、浅井は非常に協力的な勢力でして
(まあ、存亡がかかっているから、それも自然な事ではありますが。)
信玄西上の時にも武田勢に浅井家臣を観戦武官として参戦させ、
その戦果を確認させ、包囲網側に伝える、という役割も行っておりますし、
武田勢による織田領土への侵攻を「偏に待ち奉る」と浅井は武田への書状に書き、
朝倉の出陣が近い事も合わせて伝えておりますね。
普通に浅井も今回の武田による織田包囲戦略については、非常に協力的なように
思われる次第でございますしねえ。
それ過去レスで何度も指摘されてるが、そのたびに菅沼は浅井や朝倉は織田軍を撃退した実績があるからやれると言ってるみたいだよ。
ついでに美濃侵攻も、やらないと朝倉と浅井の滅亡は確定してるから、どんな被害が出ようと武田信玄の要請に応えてやると言ってる。この繰り返し。
お答えの方をよろしくお願いしたいと思いますかねえ。
>>407 >>408
毎度毎度思うのではありますが、なぜに織田に都合の悪い展開になると、
相手側が勝手に崩壊するからやられない、という話が貴方とかの中では
当然の前提として存在しており、特に論証とかもされずに確定事項として
あり続けられるのか、という事について、ご説明の方をよろしくお願いしたいと
思いますかねえ。
浅井は普通に単独でも羽柴・柴田による小谷への夜襲侵攻を単独で撃退もしておりますし、
そもそもの問題として、この信長包囲網戦略において、浅井は非常に協力的な勢力でして
(まあ、存亡がかかっているから、それも自然な事ではありますが。)
信玄西上の時にも武田勢に浅井家臣を観戦武官として参戦させ、
その戦果を確認させ、包囲網側に伝える、という役割も行っておりますし、
武田勢による織田領土への侵攻を「偏に待ち奉る」と浅井は武田への書状に書き、
朝倉の出陣が近い事も合わせて伝えておりますね。
普通に浅井も今回の武田による織田包囲戦略については、非常に協力的なように
思われる次第でございますしねえ。
ついでに言いますと、何度も指摘されている事ではありますが、
美濃侵攻を武田・長島と共同で行うのであれば、朝倉方面に織田が来るならば、
守りを固め、武田・長島がその間に侵攻を進め、織田が別方向に向かうならば
朝倉はその間に自身の方で侵攻を進め、という感じで非常に有利に戦えると
思われる次第でございますし、そもそもの問題として、
何度も指摘されている事ではありますが、朝倉が志賀の陣で信長の和睦詐欺に
ひっかかって信長を打ち倒す事が苦しくなったから、本願寺と共に
武田に参戦を要請して、武田が西上してきたのですから、
普通に筋論からしましても、朝倉が参戦しない理由はどこにもないと
思われる次第でございますしねえ。
そこらへんはなぜにいつもいつも、スルーして、曲解に狂奔なさられようと
なさられるのでございましょうかねえ。
そこらへんにつきましても、ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思う次第でございますかねえ。
どっちかいうと菅沼のほうがひどい。
過去レスで、宗滴ができて義景になぜできないとか。
信長にできてなぜ信雄にできないと言ってるのと同じだろ。
おい、じじぃ、菅沼ってなにwww
あのー、毎度毎度、貴方はこちら側の主張を、意図的に曲解をなさられようと
なさられるのは、おやめになられていただきたいと思うのですけれどねえ。
貴方は必死になって、越前から美濃への侵攻を「宗滴にしかできない大偉業!」
的に言おうとしておられますが、実際問題として、
朝倉は斉藤道三時代には普通に越前から美濃への侵攻を2度も行っておりまして、
しかも、それを特に問題もなく普通に行っておりまして、
そんな「宗滴でなければできない大偉業!」みたいな感じには
朝倉家でも扱われていないように思われるわけでございますしねえ。
この件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ifスレって大抵そうだよ
ただ武田スレは大抵、武田age織田sageになるから荒れやすい
弱体化もしてないから家康の反攻も大して実を結ばず
御建ての乱も判断ミスはしなかっただろうね
私はその菅沼なんたら、などと言う名前ではまったくないですし、
そもそも、貴方自身がその菅沼なんたらなる認定やレッテル貼りを
複数の異なる人間にしまくった結果、貴方自身ですら整合性をつけての
ご回答をなさられる事がお出来にならなくなっている、という事について
お答えの方をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしますかねえ。
A:天目山で無惨に自刃していた
普通にその前に、信玄西上によって、信長が打ち倒される、
もしくは勢力が減少して、信長が畿内覇権を切り捨てて
一地方大名として活動していくようになるので
武田の滅亡は起こらない事になる、
というような気がしたりもしますかねえ。
史実から逸脱した妄想しまくる菅沼遼太に涙不可避
できるんなら史実で信長攻めてるよね?
できないから負けたんだよね?
菅沼でも思いつくことを当時の当事者が思いつかなかったわけがないよね。
信玄が生きていようが朝倉は滅びる
信玄が生きていても織田信長は健在
武田が織田に苦しんでいる間
織田は畿内勢力をガンガン併合
結局勢力差で織田と武田は隔絶され
物量差で揉み潰されて武田家滅亡。
信玄は天目山で自害し「無能当主」と一方的なレッテルを貼られる。
信玄が信長を倒して敗死させる?HAHAHA!Nice Joke!
武田信玄がそれほどの戦上手なら足利義昭を奉じて上洛するのは
織田信長ではなく武田信玄になってるさw
織田厨が生み出したレッテル
かねえでレス検索をするとヒット数が脅威の68で全て菅沼っぽい奴という、、、、
やっぱ本人じゃないの?
だねえ事件はwikiにまとめてあるから検索すればヒットするぞ
全然、菅沼レベルじゃないと思う
同意
このレベルの話の通じない信者は戦国板にごろごろ居る
菅沼はもっと別格で異次元のヤバさ
普通に議論は行われているように思われますがねえ。
ただ、織田側の方の一部が、議論的に苦しくなってくると、
必死に議論がまともに行われてない事にしようと躍起になられておられるだけのように思われますしねえ。
君は必死になりすぎで明らかに邪魔
そもそも結論が出る話じゃないので議論とは言えないし、
互いに匿名の雑魚同士の議論は他人から見ても全く価値が無いから
長話は無駄
ここは所詮、情報交換くらいの価値しかない場
毎日毎日頑張りすぎ
いやいや、こちらは普通に議論をさせていただいているだけの話でございますしねえ。
そのようなお言葉は、織田側が不利になってくると、必死に菅沼なんたらとかいうレッテル貼りとかに
狂奔なさられているお方とかにも述べてあげて欲しいものだとは思いますかねえ。
更に菅沼とレッテル張りをする奴は織田厨で馬鹿というレッテル張りをする奴が現れて更にカオスになる
いやいやいや、複数端末ID自演を行われている事が明らかになったのは
明確に織田側の人ではないですかあ。
おーぷんの普通に信玄を語るスレ、とかを参照してみますればわかりますように
なんどアク禁止されても、複数端末IDを駆使して書き込みを続け、
その人ご当人も複数端末ID自演を常習的にやっておられる事を
自らお認めになられてますのに、今更何をおっしゃっておられるのかと
思うのですけれどねえ。
そもそも、貴方とかがその菅沼なんたら認定してきた人々、って
特徴も行動も文体も論旨も活動場所も異なりすぎていて、
ただ単に「貴方が菅沼なんたら認定したいと思った人」という以外に共通項など
ろくにないように思われるのですが、
そこらへんについては如何なものなのでしょうかねえ。
>>450
ですからあ、その「菅沼なんたらの口の利き方」ってなんなんですかねえ?
具体的にお答えになられる事が、貴方だってまずお出来にならないからこそ、
誰でも彼でも都合悪い相手だと思った人を、誰でも彼でも菅沼なんたら認定する事に
貴方が狂奔しまくって、特徴も行動も文体も論旨も活動場所も異なる多くの人々が
菅沼なんたら認定されていて、貴方ですら、それに整合性をつけてのご回答を
求められたら、一度もお答えになられずにいらっしゃられる、というのが
実態でしょうに。
元々、菅沼なんたら認定されていた人と、私とは口調も文体も論旨も行動も特徴も
様々に異なりまくっていると思われますのに、これで何をどうやったら
私とその「菅沼なんたらの人」が「口の利き方で同じ」とおっしゃられるのか、
について具体的にお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、オープンの方の戦国時代板の
「信長が本能寺で死ななかったら」スレとかをはじめとして、
その菅沼なんたらなるレッテル貼りをお創りになられたご当人さん自身が
複数人を同一認定して作った架空人物レッテルだと
お認めになられて久しいのが実態なのですけれどねえ。
貴方は本当にその「菅沼なんたら」なる人間が貴方のご希望通りの人間として実在し、
それが私だと本気で思われるのか、について
ご回答の方をいただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
その後、武田信玄、上杉謙信を死亡
武田勝頼で、武田家滅亡
上杉家は、滅亡に至らなくても、したたかに生きる
毛利の息子と輝元は大したことがない
だったら、若い伊達が、天下を握るんちゃう
だとしたら、その後、清洲会議にあらぬ甲斐会議があったと思われる
武田信玄の正室の子供が幼かったから、彼が吉法師みたいな存在になる
案外、幸村のとっつあんが天下を取っていたかも
幸村のとっつあんは、天下を獲る器ではないやろ
戦が上手いだけ
やはり、そのあと、伊達が天下を獲る
武田信玄も上杉謙信も、出来たとは言えない
信長だけが管理出来た
伊達政宗は天才や!!
10代で、奥州を統一したんやぞ!!
は?
奥州統一などしてない。
南部、津軽、最上、戸沢は平定してないし。
まことレベルだと、南部がどうのこうの
言うと思ってたよww
レベル低いのうww
してないのをした言う。レベル低いではなく、次元が違うのう。
最上や会津に引っ越した上杉、南部や津軽が生き残ってるのになにが統一だよばーか
にわかは帰れ
まあ、10代で統一したんだから、天才には違いないが
多少上手くいってたと思うよ
そう考えても、真田は、戦で政治は出来るが
天下の政治は、取れないかも
じゃあ、幸村のとっつあん以外に、誰が武田家
の代わりになるんだ?
武田家のの家臣は、無能ばかりやろ
有能なのが出てくると思うが
これの繰り返しで相手にするのをやめようとしたら都合が悪くなったから~と言い始める
信者の相手をするとこういう流れにしかならないからスルー推奨
だからこのスレで賛同者が居ない時点で説得力の無さが露呈しているとも言える
よって実行不可能
普通に包囲網側の人としては、普通に同じような5月侵攻のご主張を
なさられている人もいらっしゃられるように思えますけれどねえ。
単に、貴方をはじめとする織田側の人が、必死になって
「賛同したくない!」と喚いておられるだけのように思われるのですけれどねえ。
こちらとしては、具体的なる論旨によって反論の方をいただきたいと
思う次第でございますなあ。
>>470
いや、当時の書状などから考慮して、普通に包囲網側には
5月から美濃へと武田・朝倉・長島などで侵攻する計画があったように思われ、
それが行われれば十分に勝ち得る可能性があった、
という事を述べているのですから、
普通に史実的な論拠も十分なように思われる次第でございますしねえ。
だから重病人の武田信玄は、どうやってそれに参加する気だったのかお答えください。武田信玄の病気は急病ではないですから。重病人が山を越えるなど、あり得るんですか?
ああ、>>474の人ですか。いいですよ。
ついでに>>474のレスとも合わせて、まとめて返してあげますかねえ。
信玄の5月侵攻について書いてある書状は1572年11月に出されておりますね。
普通に信玄の体調も普通に指揮がとれる状況でしたかねえ。
貴方はまずもって
>雪が積もった奥三河を超えて三河なんて
とはもうされますが、奥三河を越えて三河、というのがよくわからないのですけれどねえ。
とりあえず、信玄の体調に関しましては、軍鑑によりますれば、
回復と発病を繰り返しており、
普通に指揮をとって進軍→一旦発病→3月にはまた起き上がって立って歩けるようになる→また発病し、それによって死亡、
という流れですかねえ。
まずもって貴方に言っておかねばならないのは、癌がどういう病気か、というのを
完全に理解している人間は当時には一人もいない、という事です。
上記のように、信玄は普通に発病と回復を繰り返しており、
普通に行けると思っていたと思われるのですけれどねえ。
これは当時の医療常識からして、特に不可思議な話ではないかと思われますしねえ。
それから、一斉侵攻の為に美濃に入る時期は4月から5月なのですから、
そのころには普通に旧暦で考慮しましても、厳冬よりは
寒さ的に無理がないと思われるわけですしねえ。
癌がどういう病気かを理解していない。
現代みたいに理解はしてないでしょうが、瘍の腫れ物として当時は死病と見られていました。
たぶん体調を崩したのは、二俣で予想以上に手間取ったことによる精神的なものと、無理して戦場指揮をとった代償でしょう。
10月の時点で元気になったのは、ろうそくの最後の灯火ですかね。
1573年春に歯が抜けるほど衰弱した人間が、起き上がり歩けるなんて考えにくいです。当時は抗がん剤もないのに。
私が言ってるのは、山越えは確実に重病人間のは武田信玄には負担が大きすぎる、と言ってるんです。10月に出陣して甲斐の山越えして無理したから再発したんでしょう。
これで本気でいけると考えていたと?
10月?貴方は何をおっしゃっておられるのでしょうかねえ?
こちらは三月にはまた立って歩けるようになっている、と述べているのですけれどねえ。
さらに言いますと、二俣攻略の後も一か月以上も普通に指揮をとって三方ヶ原などで
勝利を収めているわけですし、貴方は何をおっしゃっておられるのでしょうかねえ?
>1573年春に歯が抜けるほど衰弱した人間が、起き上がり歩けるなんて考えにくいです。当時は抗がん剤もないのに。
ですから、それ死亡する直前の記述なのですけれどねえ。
貴方は一体どのような時系列で理解されておられるのか、について
ご説明の方をよろしくお願いしたいと思うのですけれどねえ。
ですからあ、それから2か月以上も普通に指揮をとって、数多くの城を攻略して
いろんな所を移動しているのですけれど。
その後も一回発病した後で、三月にはまた立って歩けるくらいに回復している
わけなのですけれどねえ。
貴方のおっしゃられている事は、史実的にも時系列的にも
色々と不可思議な所が多いと思われますので、ご回答の方をよろしくお願い
いたしますかねえ。
1572年11月に1573年5月の美濃侵攻の書状を出してる。
これ11月のうちに朝倉が反故にしたも同然と違う? だって11月って朝倉義景が勝手に戦線離脱して越前に帰還した月だよ。そんな重大極まりない作戦やろうぜ、と言ってる武田信玄が激怒するような撤退しといて、5月に侵攻とか。
朝倉義景には少なくともやる気がないか、乗り気ではなかったんじゃない?
いや、朝倉撤収は12月ですがねえ。
やる気がなかったら、そもそも三月に再出兵もしてこないですし、
義景は「武田家臣日向玄東の教えで織田勢に勝利した!
もっと教えを請いたい!」といっており、
武田との共同には乗り気なようですけれどねえ。
>>500にも書きましたように、普通に信玄の病状は回復と発病を繰り返しておりまして、
三月にもまた立って歩けるようになったようなので、癌という病気が当時は理解されてなかった事からも
信玄は回復すれば行ける、と思っていたのではないでしょうかねえ。
そうですね。信玄が10年生きていたらどうなっていたかのIF話なんで、所詮脳内妄想の世界なんですよ。一人だけ書状持ち出して信玄が信長に勝てるという妄想を主張して、異なる意見にいちゃもんつけて回答しろと暴れているだけ。検証なんかできないのに。
その割には、織田側が「包囲網側は織田には勝てない!」という主張をする時には
必死になって賛同しようとする人とかが、非常にいらっしゃられるように
思われるのですけれどねえ。
貴方的な言い方をなさられるなら、このスレは「包囲網側が織田には勝てない!」
という事にしようとする架空戦記スレでもない、という事であると思われるのですけれどねえ。
このスレ自体が自説ファンタジー小説発表会でしかない
ですよね。IF戦記ものとしてレスすればいいのに、書状持ち出して自分の意見に正当性を持たせて他の意見を攻撃するから、スレが荒れるんですよね。
武田信玄の病状を見るに、たぶん癌だったと推測します。春の段階では歯まで抜けた、とあるから、かなり衰弱していたんでしょう。そんな重病の人間に雪が積もった奥三河を超えて三河なんて不可能です。
仮に信濃から東美濃にしても、重病人の武田信玄にはかなり負担だと思います。それで本気で、東美濃からの侵攻を企図していたのでしょうか?
甲斐は夏は厳しい暑さ、冬は厳寒で、気温の差が特に激しく、これが武田信玄の寿命を縮めた可能性もありますが、たぶん1573年初頭の武田信玄は末期癌だったと思います。そんな人間に山奥に移動して戦場指揮とか不可能としか思えません。
東美濃や、奥三河も甲斐ほどでないにしろ寒さは厳しいです。武田信玄は本気で美濃を目指していたのでしょうか?
1573年2月16日の段階で武田信玄は
来翰披閲、令得其意候。 今度任于大坂并朝倉義景催促、到遠州出馬候。
大坂之事者法中之儀無是非候。 畢竟義景申合候処、帰國失途轍候。
雖然、其以後数度之戦功、就中野田之城責落、城主以下生捕、信州へ遣し候。
(以下略)
という書状を足利義昭の側近に送っている。
これによれば、朝倉義景や本願寺の要請で遠江まで
出馬してきたのに、義景や本願寺の撤退でどうしていいかわからなくなり、
とりあえず野田城を落とす等戦功をいくつも立てた、とある。
この時点で信玄は目的をほぼ見失ってるので、
この時点で東美濃を攻略する意図があったかどうかは全くわからない
そもそも武田軍のみで織田軍に抗するのは非常に難しく、
朝倉+本願寺の協力ありきなので、出ても仕方がない。
また、顕如→足利義昭の5月23日書状によれば、
朝倉+本願寺+武田による軍事作戦に異論なしと述べている
それ以前の5月6日付武田信玄→下間頼廉宛の書状でも、武田軍の準備が整っているかのような
書状を送っている。(ただし史実ではこの時点で信玄は死没しており、実際には勝頼による空手形)
つまり朝倉+武田+本願寺(+足利)の対織田軍軍事活動が1573年の5月におおよそ決定を見たと取れる。
問題はこの時点で、反信長連合の三好が内乱を起こしていたこと、
信長が近江山城を中心に積極的な軍事活動を行い足場固めをしていたこと、
1573年5月に決定しただけで、そこから実行すること。(史実では当然武田が離脱したため実行できなかった)
そして肝心の足利が織田軍による焼き討ちで手痛い被害を食らっていたこと。
武田軍は長期の陣を張っていればすぐにでも動けたかもしれないが、
朝倉軍、本願寺軍(長島中心)、足利軍の規模は至って不透明。
朝倉軍は史実でも求心力を失い、遠征負担を嫌って軍役拒否する家臣が続出していた。
本当にこの作戦は実行できたのだろうか?あるいはできたとして、想定通りの結果になっただろうか?
恐らくならなかっただろう。包囲網側に不利な要素が、あまりに多すぎるからだ。
まず無理ですね。
信長の反撃が3月から始まってますし。
朝倉、長島、武田軍の三方侵略など不可能としか思えません。
グダグダになって結局史実とあまりかわらなさそうですよね
すると
①1573年2月までは信玄は上洛を目指していたことになるね
(鉈尾山城あたりを調略しているから奥三河から東濃に抜けるルートで合っていると思う)
②その後、朝倉との連携がとれなくなって、野田で進軍停止、再連携を模索しているうちに病死
③病死前の計画により朝倉+武田+本願寺(+足利)の対織田軍軍事活動が1573年の5月に決定
ということ?
となると遠江、三河侵略目的説は完全に消えたね
あのー、>>475の人の出されてる書状の訳は、訳し方の異なりや、
最後の方の文章を省略している部分がおありになられるように思われまして、
端的に申し上げますならば、>>475の人が出されている書状は
>>502にありますように、その書状の最後に
「ようやく義景が出張を為すようなので、申し合わせの件を行うに及ぶべき時だ。」とありまして、
つまり、この書状は「一旦は義景が帰国してしまって、道理に外れた事だとは思ったが、
ようやく義景がまた出陣してくるようなので、今こそ申し合わせた計画を実行に及ぶべき時だ。」
と書いている、という書状なわけなのですよねえ。
実際にこの信玄の書状通りに、義景は三月には再出兵を行う、という次第でございます次第でございますしねえ。
おお、書状を出して語られる方がいらっしゃれるのは
中々に興味深いと思われますかねえ。
ただ、誤訳のように思われます部分がおありになりますのは
感心しませんなあ、と思う次第なのではございますけれどねえ。
まずもって「信玄はどうしていいかわからなくなり」とか
「信玄は目的を見失っている。」という文言は貴方の出されている書状には
どこにも存在しない、と思われる次第なのでございますしねえ。
貴方はおそらく「失途轍」をそのように訳されたのかと思われますが、
これは現代語でも「途轍もない」という言葉で残っておりますように、
「常識外れ」的な意味を有しており、この時代的な意味合いでは
「筋道を外れた」事である、という意味合いであるわけでございますかねえ。
それで、「雖然」は「ではあるが」あるいは「けれども」的な意味なので、
貴方の出されている書状の、その部分は、
「義景と申し合わせをしていた所、帰国してしまったのは
筋道に外れた事です。けれども、こちらは野田城をはじめとして
数度の戦功をあげましたよ。」と書いてある、と思われるわけでございますしねえ。
で、さらに申し上げますと、貴方がお書きになられていないのでは、
と思われる次第なのではございますが
その書状の最後の方にはしっかりとこうありますよね。
「ようやく義景が出張を為すようなので、申し合わせの件を行うに及ぶべき時だ。」と。
つまり、この書状は「一旦は義景が帰国してしまって、道理に外れた事だとは思ったが、
ようやく義景がまた出陣してくるようなので、今こそ申し合わせた計画を実行に及ぶべき時だ。」
と書いている、という書状なわけなのですよねえ。
実際にこの信玄の書状通りに、義景は三月には再出兵を行う、という次第でございまして、
貴方のご主張になられておられる論旨と、上記の事柄などにつきまして、
整合性をつけたご回答の方をなにとぞよろしくお願いしたいと思いますので、
なにとぞご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
つくづくアホだなおまえ
「どうしていいかわからない」「目的を見失った」から
「武田信玄は足利義昭に聞いた」んだろw
それがその書状を出した理由だろw
書状を出した一番の理由省くとか頭大丈夫か?
その証拠に朝倉義景も3月に自分の領地の前線敦賀まで出て、
3月12日には「浅井と示し合わせて公方様の上意に従うから指示出して」と
書状で出している。義景も信玄も足利義昭の指示待ち状態だったのは明白。
ちなみに>>533でさも「私は博識」みたいに言ってるが
俺が引用した信玄書状はインターネットで原文検索すれば出るw
ですからあ、貴方が書いているような、
「信玄が目的を見失った」とか「どうしていいかわからない」
なんていう文言は貴方が出している書状からは一言も書かれておらず、
ただ単に信玄は
「義景が本国に撤収して、道理に外れた事だとは思ったけれど、
ようやくまた義景が再出陣してくるようなので、申し合わせの計画を実行に及ぶべき時だ。」
的に述べているわけで、普通に目的もどうするべきか、も信玄はしっかりと把握しているじゃないですかあ。
この貴方の論旨的な矛盾などの件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
で、義景は普通に若狭方面に分遣隊三千を派遣し、焼き打ちと拠点確保を行いつつ、
主力は敦賀にとどめつつ、小谷方面の普請を行い、という明らかに湖東方面などに
注意を注いでいるような動きを示しているわけでございますしねえ。
>俺が引用した信玄書状はインターネットで原文検索すれば出るw
へー、それで原文検索を行われたのにも関わらず、
その書状の最後の「ようやく義景がまた出陣してくるので、
申し合わせた計画を実行に及ぶべき時だ。」的に信玄がしっかりと書いている事を
貴方はスルーなさられて、>>475のような事を書かれた、と
貴方はそうおっしゃられるわけでございますのでしょうか?
この件について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>545
「申し合わせの計画を実行に及ぶべき時だ」
計画ってワードは原文のどこにあるん?
「申合可及行候」は「申し合わせて行軍すべきだ」だろ?w
「(朝倉足利本願寺と武田で)今からどうするか相談しましょ」って文章
「計画」なんてワードはどこにもないんだが、
なんで事前に計画してるかのような発言してんの?wwww
いやいやいや、その文章はそのまんま直訳しますれば、
「漸く義景が出張を為すようなので、いよいよ申し合わせを行うに及ぶべき時。」
的になるわけでして、普通に申し合わせは
「話し合いによって決めた事。約束。」などの意味合いがありますので、
普通に「いよいよ前に話し合いによって決めた約束を行うに及ぶべき時。」
的な意味合いになるわけでして、
>「(朝倉足利本願寺と武田で)今からどうするか相談しましょ」
これじゃあ前段の「漸く義景が出張してくるようなので」の意味と
まるでつながらないわけですしねえ。
ぶっちゃけ、貴方の言うような意味合いなら、普通に本国にいる義景に書状や使者を送ればすむ話なわけですしねえ。
「漸く義景が出張を為すようなので、いよいよ申し合わせを行うに及ぶべき時。」
↓ これが
「いよいよ前に話し合いによって決めた約束を行うに及ぶべき時。」
こうなるwwwww珍訳にも程があるやろwwww
そもそもその前に「畢竟義景申合候処、帰國失途轍候」とあるのに
いつ申し合わせていたんですかねww
いやいやいや、そのまんまの直訳ですよ。
普通に「申し合わせ」は「話し合いをして決めた事。約束。」的な意味合いを持つ、
と普通に書いてあるのですが、この件についてご回答の方を
よろしくお願いいたしますかねえ。
>「畢竟義景申合候処、帰國失途轍候」
これの訳も私が書いてあげたじゃないですかあ。
改めて正確に書いてあげるなら、
「つまるところ(あるいは、結局)、義景は事前に約束をしていた所、
(意訳するならば、にも関わらず、)
帰国をしてしまい、道理に外れた事をした。」
この義景と信玄がしていたという「申し合わせ」つまり、事前の約束、
というのは信玄が1572年11月書状などで詳細に義景に対して述べている
信長に対する五月侵攻戦略などをはじめとした、対織田戦略の話である事は
明らかなように思われるわけですしねえ。
現に信玄は義景が撤収した時には怒って書状をおくっておりますし、
本願寺も「かねてからの打ち合わせと違う!」的に述べているわけですしねえ。
>>551訳
「つまるところ(あるいは、結局)、義景は事前に約束をしていた所、
(意訳するならば、にも関わらず、)
帰国をしてしまい、道理に外れた事をした。」
「事前に」に相当する原文がないんですがwww
はいはい。ですから、「申し合わせ」は「話し合いして決めた事柄。約束。」
という意味合いがありますので、普通にそのまんま訳すれば
「事前に話し合いして決めた事柄。約束。」という話になるわけですしねえ。
>>552
とりあえず、平山氏などもその書状のその文言に関しては
信玄が義景再出陣の情報を得て、5月侵攻の備えが整いつつある事を書いている、
と言う風に訳しておられますね。
>>557
時期に=時という意味だけどなあw
少なくとも「事前に」という訳はないなあwww
相変わらずおーぷんと一緒でゴリ押ししようとしてるのは失笑だけどw
いやいやいや、「候処」のどこに「時期に」なんていう文言があるのか、
についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ですからあ、「申し合わせ」は「話し合いして決めた事柄、約束。」という意味合いなのは
単なる事実ですし、現に信玄は1572年11月に義景に対して対織田戦略について
書状を送り、使者を送って打ち合わせをし、もろに「申し合わせ」をしているわけでして、
普通に平山氏などもそう解釈しているわけですしねえ。
それから、>>560にも書きましたように貴方が>>475で言い出している、
この書状が義昭側近宛、というのも、異なるようで、本願寺関係者に出された書状のようですかねえ。
畢竟義景申合候処、帰國
畢竟 → 結局
義景 → 朝倉義景と
申合 → 申し合わせている
候処 → 時期に
帰國 → (義景が)帰国
になるはずなんだけどなあw
>>551の「事前に」ってどこなんだろうなあw
いやいやいや、候処がなんで「時期に」になるのですかと思うのですけれどねえ。
「していた」「ところ」が普通に訳となるでしょうに。
時期に、なんてどこに書いてるのですかねえ。
ついでに、貴方はこの書状を>>475で義昭側近にあてたもの、としておられますが、
武田氏の書状集を編纂しておられる、柴辻氏などはこの書状の宛先は
義昭側近の「東芳軒」ではなく、
「東老軒」と書かれている事を指摘し、本願寺関係に出された書状として
おりますかねえ。
1573年3月12日 朝倉義景「浅井との連携は可能だ。公方様の上意を待つ」
1573年5月23日 大谷顕如「朝倉、武田が味方することに了解した。いつでもいける。後は公方様が指示してくれれば」
>>548「実は前々から計画は完成していた」
こいつら3ヶ月間何してたんですかね
ですからあ、貴方のその信玄書状の訳がおかしいと
何度も何度も書いているでしょうに。
「いよいよ前に話し合いによって決めた約束を行うに及ぶべき時。」だと。
で、信玄は何度も書いていますが1572年11月書状で普通に
義景を相手に詳細な対信長戦略を示していますし、
細かい質疑応答には日向玄東を使者として、応対させておりますしねえ。
(この件で玄東は義景からも感謝・尊敬されているし、信玄からも恩賞をもらっていますしねえ。)
さらに申し上げますと、義景が12月に本国に撤収した時には
信玄だけではなく、本願寺も「かねてから催促していた手はずと違う!」
と述べているわけでして、普通に計画自体は1572年11月から12月の段階で
基本プランが成立していた、と考慮するのが妥当かと思われますかねえ。
で、
>朝倉軍は史実でも求心力を失い、遠征負担を嫌って軍役拒否する家臣が続出していた。
というのは、三月からの再出兵の時には起きておらず、
最後の遠征の時の話ですので、普通に朝倉はこの武田・長島との美濃侵攻によって
織田を打ち倒そうとはしていたものの、それが信玄死亡による武田勢撤収などで
不可能となってしまい、それによって織田を打ち倒せる想定が立たなくなってしまい、
それによって軍役拒否などが起こりだす、というような感じに思えるのですけれどねえ。
それから、畿内勢力に関しては、11月書状におきましても、「大阪門徒中蜂起」を要請しており、
石山本願寺をはじめとする、畿内本願寺の蜂起を主力としているように思われますかねえ。
つまり、美濃は武田・朝倉・長島で三方向侵攻、畿内は足利・大阪本願寺・その他、による蜂起で織田領土に侵攻する、
という計画であったように思われるわけでございまして、
足利も信長による天皇から勅命講和に応じただけで、まだ戦力は有しておりますし、
石山本願寺は言うまでもなし、という事で、普通に実行可能性を十分に有していたプランであったと
思われる次第でございますかねえ。
はてさて、私が提示させていただいている書状などの資料の内容とかは、
普通にwikiとかには書いてない事も多いですし、
>>475の人が提示された書状内容の誤訳と思われる部分や、
書かれていない部分の指摘などを行ったのも私なわけですしねえ。
貴方は何をおっしゃっておられるのかと思うのですけれどねえ?
こちら側の事を大した知識がどうとかおっしゃられるなら、
それこそ貴方が、貴方のお持ちであるらしい「大した知識」とやらで
こちらに対して論旨でもってご説明になられれば、
議論が進んで有意義であると思われるのですが、
貴方はそのような事をなさられずに、必死にこちら側に対して
煽りや罵倒を繰り返し、なんとかして追い出そうと躍起になられるばかりでは
ございませんかあ。
これでは、必死な織田側の人が、都合悪い史実などを指摘する相手側を
なんとかして罵倒して追い出そうとしていらっしゃられるように、
こちら側には思えてしまう事もございまして、
そこらへんに関してはどうなのでございましょうかねえ。
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
ですからあ、何度も言いますように、貴方が>>475で出した書状は
義昭側近宛のものじゃないんですってば。
さらに言いますと、信玄は2月にはまだ三河ですし、
準備を整えて美濃に侵攻して、攻撃を開始するなら、普通に5月、という
ある程度の猶予期間を持たせた方がいいのは明らかなように思われますしねえ。
それから、義昭の本格的な参戦も1573年から、とされてますし、
特に筋道におかしな話はないとおもわれますしねえ。
計画が全て完成しているなら猶予なんていらないはずだよなあw
むしろ信長が各個撃破に走って実行前に破算する可能性の方が高い
実際史実でも信長はこの時期軍事活動を再開している。
1573年2月16日「計画は既に完成している!あとは軍を進めるだけ!」
1573年5月23日「そろそろやりましょう。公方様よろしく」
この間に肝心の武田信玄が死んでるとかマヌケすぎない?w
当時はメールも携帯電話もない時代ですからねえ。
おおまかな期間を決めて、一斉に動く方が効率がいいわけですしねえ。
>実際史実でも信長はこの時期軍事活動を再開している。
ところが、信玄の書状と軍鑑の記述などからして、
信長は三月初頭には武田に制圧された東美濃あたりを大物見に来ていたようで、
秋山や馬場などに追い払われているようですかねえ。
信長自身も書状で武田勢の動きを警戒しまくっており、
「謙信が武田領土の背後をついてくれるなら、武田勢の圧力が減少するので、
上洛して存分にしたい。」と述べているわけですしねえ。
結局、3月の25日に美濃を出発して、ダッシュで義昭と勅命講和して
美濃に戻っているわけですしねえ。
五月の書状どうたらに関しては、>>566を参照の事ですかねえ。
>>567
つまり武田信玄は最初から全て計画は完成済みだったのに
わざわざ3ヶ月も猶予を与えて織田信長に盤石な迎撃態勢を
整えさせ、味方の朝倉と自軍に長々と駐屯させるようにしたのか
無能過ぎて笑えるわw
なんで構うんですかねえ
ですからあ、義景の再出陣も三月以降ですし、
武田も三月の段階じゃまだ三河にいるんですけれどねえ。
タイミングを合わせて一斉に美濃に侵攻するには、大まかなタイミングを決めて動いた方がいいですし、
何度もいいますけれど、信長自身が武田勢を警戒しまくっていて、
三月末まで動けなかったどころか、出陣してからも義昭と勅命講和してダッシュで美濃に戻ってますし、
そもそも三月初頭には東美濃のあたりを大物見していたようですし、
普通に武田とかを警戒しまくっていて、万全の迎撃態勢なんてとれてないように思うのですけれどねえ。
この件についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何を言いたいのか不明、どうみても中身が無い煽りバカ
>>579
何を言いたいのか不明、ダラダラ言葉を並べているだけのバカ
全く纏まらん
はいはい。いつも通りに苦しくなったら、必死になって他人装いしながら
「どっちもどっち」にしようとしなくていいですから、
聞かれてる事には答えて欲しいのですけれどねえ。
なんか必死になってその後のレスも見ますと、必死になって特徴的な言い回しで
菅沼なんたら認定とかにも狂奔しようとなさられておられるようではありますが、
おーぷんの方で貴方自身もお認めになられている、複数端末ID自演とかを
必死になって行われなくてよろしいと思うのですけれどねえ。
東濃、中濃までは本気で目指していたかと。
そこから先の岐阜、尾張はそれを伺わせる資料が見当たらない
とは言え中濃が武田領になったら、信長の史実での反転攻勢は
極めて困難になるため一応面目は保てるんじゃないかな
>そこから先の岐阜、尾張はそれを伺わせる資料が見当たらない
尾張はともかく、岐阜に関しましては、
朝倉に対して「遠藤に対して岐阜に向けて鉈尾の砦を早々と構築して欲しい、と
こちらから令している。朝倉側からも、そのように仰せられるべきである。」とありますし、
遠藤宛の書状でも「岐阜に敵対して欲しい。」と述べておりますので、
普通に信玄は遠藤に築かせた鉈尾の砦、を拠点として岐阜と対峙し、
信長を打ち倒す、というのが計画だったように思われるのですけれどねえ。
健常者でもきついだろうに。
それを考慮する上で信玄晩年の病状という要素は必要不可欠でしょう
特に信玄の病気が悪化したとされる1572年末から1573年の作戦行動や外交文書は信玄が自分の体調が復帰可能だと思ってたのか信長を倒すまで生き続けるのは無理だと考えていたのかで意味合いが変わってくるんじゃ
まさか勝頼を総大将にして、自分は養生するとか考えていたのか?
武田信玄の史実での動向は、1573年2月16日の本人の書状を見る限り明らかに朝倉、足利の意向を頼りに動いていますからね。
で、朝倉+本願寺+足利は武田信玄の死を知らなかったようなので、信玄が仮に
病床になく健康であったとしても、対信長軍事活動は1573年5月計画決定、それ以降随時実行になるはず。
で、この後の武田信玄の動きとしては岩村秋山を見ても東美濃から美濃に入り、信長との戦闘に入るわけだけど、
信玄としては、朝倉や本願寺や足利がきっちり動いてくれないとどうしようもない。
武田信玄にとって理想的な展開は、織田信長と対峙している間に、朝倉義景、本願寺顕如、足利義昭がそれぞれ挙兵。
信長が苦しくなって朝倉、本願寺、足利への対処のために武田軍との戦いを放棄。信長が朝倉+足利+本願寺に
追われている間に武田軍は残った織田軍を殲滅し、朝倉+本願寺+足利連合軍とともに、信長本隊を潰す。
まあこの戦略だと思うけど、問題は朝倉+本願寺+足利軍が武田軍到来までに踏ん張ってくれるかどうか。
で、史実を見る限り、ここは正直踏ん張れないとしか思えない。史実でも信玄の死を知らなかった足利はあっさり壊滅。
その後朝倉も壊滅して、本願寺もロクに動けていない。正攻法の織田軍VS武田軍で言えば武田の戦力差は明らかで、恐らくどこかで頓挫する。
尤も、例えば足利、朝倉、本願寺が「信玄公の為ならたとえ全滅してでも信長軍と戦う」くらい士気が高ければ話は別だけど
無理だろうなあ・・・・
>>516
朝倉は5月10日に一乗谷に帰っただから5月になったらさっさと帰ったって感じで
再出撃するにも時間かかるだろうから5月の出陣はまず無理。
朝倉が5月の終わりや6月に撤退したなら、
武田が再出撃しないようだから・他が動かないから自分も撤退したと言える余地あるけど、
史実のこの朝倉の行動は
>対信長軍事活動は1573年5月計画
これに対しては完全に参加する気ないって考えるのが自然だと思う。
いやいやいや、武田がその前の4月に撤収しているわけですから、
その事を朝倉が知ったなら、普通に5月初頭に撤収しても
まったく不可思議ではない、というかむしろ自然だと思えますかねえ。
つまり三方ヶ原で惨敗した家康や越中から越後に
帰国したばかりの謙信が再出撃するのは時間的にも無理ということですね
いつ崩れたんですか、具体的にご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、貴方が喚いておられるその菅沼なんたら、自体が
オープンの方の戦国時代板の
「信長が本能寺で死ななかったら」スレとかをはじめとして、
その菅沼なんたらなるレッテル貼りをお創りになられたご当人さん自身が
複数人を同一認定して作った架空人物レッテルだと
お認めになられて久しいのが実態なのですけれどねえ。
貴方は本当にその「菅沼なんたら」なる人間が貴方のご希望通りの人間として実在し、
それが私だと本気で思われるのか、について
ご回答の方をいただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
建物近辺で何か異常でも起きているのでしょうかねえ。
いやいやいや、>>502 >>505を参照していただけるようにお願いいたしますかねえ。
端的に申し上げますならば、>>475の人が出されている書状は
>>502にありますように、その書状の最後に
「ようやく義景が出張を為すようなので、申し合わせの件を行うに及ぶべき時だ。」とありまして、
つまり、この書状は「一旦は義景が帰国してしまって、道理に外れた事だとは思ったが、
ようやく義景がまた出陣してくるようなので、今こそ申し合わせた計画を実行に及ぶべき時だ。」
と書いている、という書状なわけなのですよねえ。
実際にこの信玄の書状通りに、義景は三月には再出兵を行う、という次第でございます次第でございますしねえ。
でも義景が3月に出兵したのは確か敦賀、湖西方面じゃなかった? 5月に大野郡から山越えするならそんなところに出兵する理由がわからない。用意を整えて大野郡へ向かうべきでは?
上の方にも書かれていたと思いますけれど、
三月の義景の動向は、三月に敦賀に在陣、主力をそのままそこにおいて置き、
三千余の分遣隊を若狭に派遣、若狭で方々の敵領土を焼き打ちさせ、
拠点となる城を築いてそこに守備兵を入れ、
義景とその主力は小谷方面の普請などを行いつつ、敦賀にとどまり、
5月10日には一乗谷に撤収、という流れでして、
主力は普通に敦賀にとどめて、湖東、あるいは美濃方面の動向に
対して注意を向けているように思われるわけですしねえ。
武田は源氏の名門で家系に不足はないから、征夷大将軍になって武田幕府を開くのかな?
近年の研究では、信長自身も足利将軍の権威に大きく執着していた事が明らかになっており、
1573年初頭に義昭が敵対した時には、その時に信長は「条件はそちらのお好み次第でいいから、
和睦して欲しい。」と義昭に要請していますし、それでも義昭は承諾してくれなくて、
結局最終的には勅命講和の形で講和するわけなのですが、
この時には信長は「和睦してくれてありがとうございました。」とお礼まで使者に述べさせておりますね。
さらには義昭追放後も、普通に義昭に戻ってきてくれるように交渉したり、
義昭の息子さんを未来の将軍候補として保護したりしておりますし、
信玄も足利将軍を擁立の方で動いたのかもしれませんかねえ。
それどこの研究だよ。誰の研究?
足利義昭は確かに1588年まで征夷大将軍にあったみたいだし、備後に一応の格好だけは整えていたみたいだが、事実上信長に解官されたも同然だし、そう見なされてたぶん散位扱いされてたんだろ。
そうじゃないと、朝廷が信長に対して征夷大将軍、太政大臣、関白の三職いずれかどうぞなんていうものか? 義昭はもう散位も同然としか思えない。
義昭に嘆願した、義尋を匿った、それは他の大名に対してのポーズだろ。義昭の呼びかけに諸大名が応じて大義名分に新将軍立てるだの前将軍復帰させるだの言われたら困るし。
あんた少し書状とかを過信しすぎてないか?
そもそも和睦して、拒否、なら上京焼き討ち。上京は室町幕府の高官が住む幕府の基盤。そこを焼かれた時点で義昭は権威ガタ落ちなんだが。どう見ても、信長が許しを請いながら脅しをかけているようにしか見えないわ。
ありがとうございます、もポーズだろ。しかも義昭はバカなことに7月に再度挙兵。しかも勅命講和を自分からやぶって、信長に名分与えてるし。
義昭はそもそも近衛前久とも敵対し、朝廷に対する態度や献金もよくなかったから、朝廷受けも悪かったしな。
とりあえず、藤田氏とか池氏とかその他の研究者の方ですかねえ。
普通に、そのまんま当時の記述やら書状やらに依拠した結果なのですから、
自然な流れではあるのですがねえ。
>散位扱い
いや、普通に織田も毛利も義昭が将軍である事は
普通に認めているのですけれどねえ。
三職推認に関しましては、普通に織田側から、というか村井の勇み足だった事が
指摘されているわけですしねえ。
つまり、将軍権威に執着してる、っていう事になるじゃないですか。
ですから、焼き打ちしても和睦してくれないから、勅命講和、という形にして、
和睦してもらったら「ありがとうございました。」とお礼言ってますし、
そもそも、この和睦を申し込んだ時、というか、義昭が敵対した時には
信長公記ではしっかりと
「信長公は年来の忠節がむなしくなる事が大変無念であった。」と書いてあるわけで、
普通に将軍権威に執着している事がうかがわれるわけですしねえ。
なあ気持ち悪いんだよ
なんでそんな固執してんだ?頼むから消えてくれよ(笑)お前さ二ヶ月前から同じ事しか言ってないよな誰かに認めてもらえるまで繰り返すつもりか?
そんなWikipediaにでも書いてるような情報をドヤ顔で語るな
それから、こちらはこれまでにも謙信・信長・信玄・朝倉・本願寺、などなどの
動向やその後に計画されているであろう動きなどを、当時の書状などの資料を
基にしつつ、語らせていただいているわけなのでございまして、
同じことをどうたらといわれるのは心外の至りに思える次第でございますし、
上にも書きましたように、こちらに対して「大した知識」がどうとか
おっしゃられるなら、貴方がその、貴方がお持ちであるらしい、
「大した知識」とやらを基にして、論旨でもってこちらに対して
議論をなさられるべきかと思いますので、それについてのご回答の方なり、
論旨のご提示の方なりをよろしくお願いしたいと思いますので、
なにとぞよろしくお願いいたします、と思う次第ですかねえ。
無駄に長い割に内容の薄っぺらい駄文をなんとかしろよ池沼(笑)
その内容なら1行くらいで済むだろ(笑)30レスもしたわりには内容はそこへんにある既存の内容、大した持論もないわりによくでしゃばるね~
はいはい。そうやって、既存の内容、薄さ厚さがどうこう、
とおっしゃられるならば、貴方は是非とも、貴方のその「大した知識」を
基にして「厚い内容」の論旨をお書きになられていただきたいと思いますので、
是非とも具体的な論旨で、具体的な資料などを基にして、
こちら側の論旨に対して議論を行われますように、
お願い申し上げたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
楽しく有意義に様々な意見や知識情報を交換しあいながら話してるのに
なんでお前は自分の意見だけ気違いみたいに連投するんだ?大した知識もないくせになぜでしゃばる?
誰も呼んでないから一生ROMってろよ壊れたラジオ(笑)同じ事しか喋らない壊れたラジオさんよ
積翠寺の項目を知らない癖に、大嘘主張して恥かいた
だがクンでしたなぁ
ですからあ、その「菅沼なんたらの特徴」ってなんなんですかねえ?
具体的にお答えになられる事が、貴方だってまずお出来にならないからこそ、
誰でも彼でも都合悪い相手だと思った人を、誰でも彼でも菅沼なんたら認定する事に
貴方が狂奔しまくって、特徴も行動も文体も論旨も活動場所も異なる多くの人々が
菅沼なんたら認定されていて、貴方ですら、それに整合性をつけてのご回答を
求められたら、一度もお答えになられずにいらっしゃられる、というのが
実態でしょうに。
元々、菅沼なんたら認定されていた人と、私とは口調も文体も論旨も行動も特徴も
様々に異なりまくっていると思われますのに、これで何をどうやったら
私がその「菅沼なんたらの人」であるとおっしゃられるのか、
について具体的にお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、オープンの方の戦国時代板の
「信長が本能寺で死ななかったら」スレとかをはじめとして、
その菅沼なんたらなるレッテル貼りをお創りになられたご当人さん自身が
複数人を同一認定して作った架空人物レッテルだと
お認めになられて久しいのが実態なのですけれどねえ。
貴方は本当にその「菅沼なんたら」なる人間が貴方のご希望通りの人間として実在し、
それが私だと本気で思われるのか、について
ご回答の方をいただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
なあ?ここはお前の日記帳じゃねえんだよ大人しくチラシの裏にでも書いてろ
自分の知識(笑)や持論(笑)を披露して悦に入ってるとこ悪いがお前の自己満足オナニーを見せられてるこっちの身にもなってくれ
普通に貴方などが誰でも彼でも菅沼なんたら認定などに狂奔しまくった結果、
そう認定されてきた人々の総数の方が、そう喚いている貴方とかよりも
圧倒的に多数になってしまって、特徴も論旨も行動も活動場所も文体も異なりまくっていて、
貴方がそれらに整合性をつけてお答えになられる事が厳しいから、
必死になって聞かれてる都合悪い事からはスルーして、
必死になって、貴方にとって都合の悪い史実やら、主張をする人々とかを
誰でも彼でも菅沼なんたら認定する事とかに狂奔しながら、
整合性をつけてのご回答を求められたら、必死になってスルーする事を
必死になって繰り返されているだけ、というのが実態なように
思われてしまう次第なのではございますが、
これらについて、ご回答の方をいただきたいと思いますので、
ご回答の方をなにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
( ´,_ゝ`)y―-~~.フハハハ!!
そろそろ義景が出張するべきか(どうするか)、(その事について)申し合わせて行い(軍事行動)に及ぶべきでしょう
なんで実行までに3ヶ月もかかっているのか全く説明つかないよなあ
最初から全て決まっていたのならすぐに行動しても全く問題ないはず。
書状を見ても2月に武田、3月頭に朝倉は既に動ける状態
ここから5月末にようやく本願寺顕如が朝倉武田の同心を了承して
足利義昭に「さあ指示をどうぞ」という書状を出すとか遅すぎるでしょwwww
こんな手際の悪い連中が考えた計画どっちみち失敗してるなwww
計画が完成していて、2月16日には本願寺に「今から実行しようぜ」って
武田信玄は書状送ったのに、それを本願寺が足利義昭に知らせたのは5月23日だろ?w
3ヶ月も山の中でしかも病気状態で待たされて結局4月に無理が祟って信玄は死没したのに
本願寺はホウ・レン・ソウすらまともにできない未熟勢力だったのか・・・・
いやいや、ですから、元々信玄は五月侵攻の予定でしたし、
その予定は朝倉にも本願寺にも伝わっているわけですしねえ。
信玄は普通に野田城攻略の後は長篠城などに滞在しており、
普通に養生しておりますよ。
鴨川氏などは、義昭の包囲網への本格参戦、と包囲網側に対しての
旗幟を鮮明にしての命令通達、は意外と遅く、
信玄死亡後の5月に、信玄に対しての命令を出している、という事を
指摘しておられますね。
武田・朝倉・本願寺で計画ができあがっていた所に、義昭が参戦してきて
立場的に上になられる義昭様に対して、本願寺とかは「用意はできていますから
命令をどうぞ。」的に述べた、で普通に話は通りますしねえ。
明日の朝は特に書き込みせずに出発するつもりですが、
聞かれてる事にはおはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
信玄は甲斐で静養して勝頼に家督を相続してたら日本史は変わってただろうな
池沼に付き合ってる池沼が多いのか?
池沼の自演の場合と、池沼の真似して相手してる奴がいる場合と
両方ある。今回どっちかは知らん。
好奇心で触ると、汚物まみれになるぞ。
みんなから語尾を改めるように言われてもしないし、人を見下したような態度、他人の意見全く聞かない。
菅沼としか思えないが。
はいはい。いつも通りに必死になって菅沼なんたら認定に狂奔なさられているようではありますが、
その「菅沼なんたらの特徴」ってなんなんですかねえ?
具体的にお答えになられる事が、貴方だってまずお出来にならないからこそ、
誰でも彼でも都合悪い相手だと思った人を、誰でも彼でも菅沼なんたら認定する事に
貴方が狂奔しまくって、特徴も行動も文体も論旨も活動場所も異なる多くの人々が
菅沼なんたら認定されていて、貴方ですら、それに整合性をつけてのご回答を
求められたら、一度もお答えになられずにいらっしゃられる、というのが
実態でしょうに。
元々、菅沼なんたら認定されていた人と、私とは口調も文体も論旨も行動も特徴も
様々に異なりまくっていると思われますのに、これで何をどうやったら
私がその「菅沼なんたらの人」であるとおっしゃられるのか、
について具体的にお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。
そもそもの問題として、オープンの方の戦国時代板の
「信長が本能寺で死ななかったら」スレとかをはじめとして、
その菅沼なんたらなるレッテル貼りをお創りになられたご当人さん自身が
複数人を同一認定して作った架空人物レッテルだと
お認めになられて久しいのが実態なのですけれどねえ。
貴方は本当にその「菅沼なんたら」なる人間が貴方のご希望通りの人間として実在し、
それが私だと本気で思われるのか、について
ご回答の方をいただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
↓
煽る馬鹿に目を付けられる(例:語尾、態度)
↓
必死に抵抗する(発狂しやすい&暇)
↓
馬鹿同士で楽しく議論
↓
全員から顰蹙
↓
追放
という事じゃ無いか
一体どこにそのような文言があるというのでしょうかねえ。
こちらは普通に当時の書状やら記述やらを基にして語らせていただいておりますしねえ。
むしろ、織田側の人の方が、足利義昭が散位扱いとか、
宗滴以外の武将がホイホイ超えている越前から美濃へのルートを
「宗滴以外には不可能」的に言い出してたり、
浅井の小谷城が曲輪が千以上で(小谷城復元予想図とかを考慮しますに、
到底そんなにあるとはおもわれませんけどねえ。)5千じゃないと守れない、とか
(そんなにあったら5千いてもまず守れないと思うのですがねえ。)
色々と不可思議な所が多いように思うのですけれどねえ。
例えば、想定する年代を固定して、朝廷から見た視点、諸大名から見た視点、織田家内部から見た視点と分けて、
反説を組み立てていれば皆から一目置かれていただろうけどな
知識も知能も中途半端、このスレで主役を張れる器じゃない
まーたご自身はろくに資料提示やら論証やらをなされないのに、
相手にだけはやたらと必死になって要求ばっかりをしておられるのは、
如何なものかとは思いますが、とりあえず、義昭を散位扱いに朝廷がした、という記述や書状は存在しないと思いますし、
義昭追放の後も、信長は義昭に戻ってきてくれるように交渉したり、
毛利も普通に義昭が将軍である事を認めて尊重したりしているのですけれどねえ。
で、貴方はそのようにおっしゃられるならば、ぜひとも、貴方がご立派な知識なり論旨でもって
模範的な論説をしていただきたいと思いますので、ご説明の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
「ねぇ」を相手するのにそこまで必要ないだろ
お前も主役張りたいのか?
意味不明
>>589
お前が要求してるのが論文レベルだってこと
で、「ねぇ」にそこまでする必要があるのかって事
言い換えると、
「ねぇ」にそこまでする価値があるの?
いや、貴方が言い出された事なのですから、貴方がおやりになられても
非常に不可思議ではないと思われる事柄であると思うのですけれどねえ。
なぜにこちら側には色々と要求をなさられておられますのに、貴方は資料提示とか論証とかをなさられないのかと、
こちら側は不可思議に思われてしまいますし、聞かれている事について
お答えの方もよろしくお願いしたいと思うので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
黙ってなよ池沼半コテ
相変わらず内容が薄いがなんで連投するんだ?
誰も求めてないからな?落ち着けよ暇なのは分かるが、お前のお粗末なWikipedia以下の知識なんてどうでもいいんだよ
いやいや、かなり違うように思われますし、そもそもの問題として、
その菅沼なんたら認定されている人々が特徴も活動場所も論旨も行動も文体も異なる膨大なる人数になっておりますので、
菅沼なんたらの特徴と貴方がもうされましても、何がどういう特徴なのでしょうか、という感じでございますしねえ。
>>618
はいはい。何度も言われている事ではありますが、こちらが提示したり、述べさせていただいている書状内容やら、
記述内容やら、は普通にwikiには書かれてない事も多いように思われますし、
貴方がそのように喚かれるなら喚かれるで、貴方がお持ちであるらしい、その「厚い知識」とやらで
貴方が資料提示などをしつつ、具体的に論旨を述べられていただければ、
議論を進める事が有意義であると思いますので、聞かれている事をはじめとして、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
冒頭で相手に研究レベルを要求しておいて、
自分は平然と、推測連発しているのだからどうしようもない
思い込みが激しいから、どうみても素人だろうけど
>それどこの研究だよ。誰の研究?
>足利義昭は確かに1588年まで征夷大将軍にあったみたいだし、備後に一応の格好だけは
整えていたみたいだが、事実上信長に解官されたも同然だし、そう見なされてたぶん散位
扱いされてたんだろ。
>そうじゃないと、朝廷が信長に対して征夷大将軍、太政大臣、関白の三職いずれかどうぞ
なんていうものか? 義昭はもう散位も同然としか思えない。
武田信玄が長生きしたら織田信長を倒して美濃を占領して、少なくとも中央諸国の覇権は掌握できていた、でいいの?
それとも、武田信玄で織田信長を倒すのは無理なの?
理論上は可能、現実的には難しいじゃね
仮説なんだから、1人1人が自分の頭で考えればいい
その結果、多数派、少数派ができて、更に時代によって逆転したりする
手紙なんか当てにならないだろ。
紙切れでしかない。
必死すぎるのがいると何か色々とゲンナリする
むしろ、織田側優位、という論旨には大喜びで賛同しようとし、
それを結論にしようとなさられながら、包囲網が優位になりうるのでは、という
論旨に対しては必死になって、
相手側を必死、とか言い出されるのはどうかと
思うのですけれどねえ。
>>595
はいはい。いつも通りに必死になって、都合悪い相手側の主張を曲解なさられなくても
よろしいと思うのですけれどねえ。
私が何度も述べさせていただいておりますように、犠牲を惜しまない、ではなく、
武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
なぜに貴方はそのようにおっしゃられるのか、について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
何度も言われているとは思いますが、朝倉浅井を羽柴が撃退した、というなら
浅井はその羽柴に加えて柴田も加えた織田勢の夜襲侵攻を単独で撃退してますし、
朝倉も織田勢主力相手に複数の戦果をあげている、と何度も言われていると思うのですけれどねえ。
いやいやいや、そのような事をしなくても、>>612にありますように、
武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
元々、この三方向侵攻が信玄の戦略でもあるわけなのですしねえ。
このスレでは、諸侯は被害を惜しまない、という謎理論が出ているが。
既にその小勢力たちは信長とあたり、少なからず消耗してるから武田信玄が織田信長にあたることを期待しているのではないのかな?
この上、信長に当たれは苛酷だと思う。そもそも、1572年10月に徳川家康を攻めた時、織田信長の援軍が三河に向けられないよう、ひきつけたのは浅井と朝倉と本願寺だし。
単独では織田が国力一番あるんだから、消耗戦になれば包囲網側の小勢力はジリ貧、
だから包囲網側は早めに勝負かける必要があるんだろうけど、
72年の10月の段階だと織田の主力は引き上げていて、
浅井朝倉は残った秀吉を抜くことさえ出来ないって状態で、
織田の主力を引き付けることさえ出来ない。
少なくとも包囲網側の小勢力が滅亡なり国許で一揆起きたり他所から攻められても気にしないレベルで戦力をすり潰してでも攻勢かけて
織田の主力をある程度引き付けて、その上で武田が全力で織田に攻勢かけるぐらいしないと織田を倒すのは難しいと思う。
どれだけ国力があっても敗戦が連続すると厳しい
当時の人々は武田信玄が勝てると踏んで動いているから、
そこで大敗したり、小戦さでも負け続けたりすれば織田家は滅ぶし、
うまく撃退できれば西側で荒木村重が成長して、足利を押さえ込んでくれるかも
足利の力が史実よりもかなり大きくなる可能性もある
二条城の戦いあたりに、武田信玄が元気で美濃に侵攻していたら、織田家は相当厳しい気がする
二条城の戦いをすると、その隙に武田が美濃に侵攻し対処できなくなると思う
尾張、美濃、南近江を領有してる信長の優先順位としては岐阜以西の方が重要だからな
東濃と中濃の手薄さを考えると信玄にくれてやる代わりに和睦するんじゃないかと
二条城の戦いって何だ?
二条城で戦いなんか史実でも無い。
槇島城の戦いだろ。
二条城は信長に威圧されて、ろくに戦いもせずに三渕藤英は降伏に追い込まれたし。
16000もいるわけない。
いや、田舎の小城どころか、普通の規模の城だと思いますけれどねえ。
浅井は最盛期でも一万くらいの動員兵力しかない勢力なのですから、
普通に城の規模も2千5百もいれば十分守れるくらいの規模の城だと思いますよ。
山城は防御力は高いけど収容人数に制限があるため万単位での収容は困難
戦国時代も後期になると動員兵力が多くなったため
山城から平山城、平城に移行していくわけだ
・各地の状況
織田
各地守備兵を除けば金欠で1万しか動員できない。尾張や美濃の国人も
かなり調略されているし、虎御前砦の敗戦で近江の豪族は離反し伊勢湾の制海権も失う
おまけに義昭に京におびき出される。
徳川
動員できるのは4千程度、もうすぐ武田に降伏。
朝倉
2万5千を動員できる、前年虎御前砦にて上総土岐家にまで伝わる勝利を挙げ
近江蒲生家が降る砦は5月反攻を考えて落とさなかった。義昭と呼応して敦賀に駐屯。
浅井
小谷城に篭城中。朝倉さえ来れば虎御前砦など問題ではない。
六角
兵力2万以上南近江の主要街道を封鎖し、その勢力は横山城の南まで及ぶ
さらに各一揆を先導。
義昭
朝倉と連携して信長を京におびき寄せる。丹波内藤氏が5千の兵を援軍として送る。
三好三人衆・義継・松永
各自織田派と交戦。畠山や細川はおされ気味。
畿内の反織田派は完璧な連携が出来ている。
本願寺
長島一向一揆は美濃に砦を築き近隣を調略、いつでも攻勢に出られる。
北畠
1万5千を動員可能、紀伊・雑賀水軍も動かせる。
武田
兵力6万、野田に駐屯中、美濃・尾張の主要部は調略完了、水軍は伊勢湾を制圧済み。
・結果
織田徳川が逆転勝利
この状態でも負けるんだからどうあがいても一緒
朝倉、六角、北畠、武田の動員可能兵力が凄すぎて草すぎる。丹波の内藤にしてもそんな動員可能兵力があるのか?
相変わらず、必死になって喚いておられるようではあらせられるようではございますが、
その武田厨、って私の事なのでしょうかねえ?
少なくとも、私はそのような事は特に書いてはおりませんのですがねえ。
私がそのような事を書いたと貴方が述べられるのでありますれば、
具体的にレス番号でお示しの方をいただきたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
武田は動員兵力もさることながら
長期遠征が可能、水軍が超強力というチート勢力だからな(武田厨談)
上杉も北条もビビって絶対に戦いに来ない
これに勝った挙句滅ぼした織田は異常
しかも浅間山が噴火し噴煙や火砕流が立ち込める
甲斐信濃を諸共せず武田を攻め滅ぼした(武田厨談)
明らかに敗北必至、攻撃不可能の状態でも武田を倒すまでに至った
織田信長の正体は未来人かエイリアンだったんだろう
本能寺の変はただ故郷の星に帰っただけだろうなきっとw
丹波内藤氏が5千とか書いてあるけど、
ソース有りのは、内藤如安等1700~3000人(『耶蘇会士日本通信』)となっているな。
コピペだろうと、自分の書き込みに責任持て。お前のやってること、菅沼のコピペと同じだぞ。
>>619は皮肉だろ
実際に調べれば全部間違ってるんだよ
でも武田厨はこれが正しいと思ってる
くだらない。
多人数の書き込みを無責任に編集すれば何とでも書ける。
はいはい。その「武田厨」とやらには私が含まれているのでございましょうかねえ、
という事について、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
少なくとも、私はそのような書き込みをした事は特にないように思われるのでございますが、
もし貴方がそのようにご主張し、私をそのように認定しようとなさられるのでありますれば、
私がどこのレスで、貴方が述べるような、レスをした、と述べられますのか、について具体的なるご説明の方を
なにとぞよろしくお願い申し上げたいと思いますので、ご回答の方をおはやめによろしくお願い申し上げたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
すげえよ本当に
毛利は織田に硝石が入らないよう細工し
織田も東日本に硝石が入らないよう細工している
東国ほど鉄砲は手に入れにくかっただろうな
本州最北端の南部家で非主流派の北信愛が鉄砲二十挺でクーデターを起こしてたし
この時代の商人や海賊は馬鹿に出来ない
信長が1573年2月24日に石山、今堅田を攻めて志賀郡を事実上制圧。これで信長は美濃と京都の連絡路を確保。
逆に朝倉は、これで信長が若狭から敦賀に侵攻することもできるために危機感を強める。武田信玄の要請より、自分の領土を守るのを優先するのは当たり前。
1573年3月21日に朝倉義景は敦賀に出陣。山崎と魚住を若狭に派兵して三方郡佐柿の北に築城工事開始。信長に備えるため。
朝倉義景は5月10日に一乗谷に帰還。
これでどうやって基地外が言ってる美濃侵攻なんかできるんだよ。そもそも朝倉軍の主力を成す山崎と魚住を若狭に派兵して築城までしている段階で、5月侵攻なんか考えられない。
そもそもの問題として、志賀郡を織田が制圧したとしても、普通に若狭ではなく、高島郡から北上して朝倉領土に至る事ができるように思えるのですがねえ。
実際に朝倉も志賀の陣の時に逆方向からの同様のルートで侵攻しているわけですしねえ。
この事を考慮しますに、若狭への分遣隊派遣が、信長に対する備え、というのもどうなのかな、と思うのではありますけれどねえ。
>そもそも朝倉軍の主力を成す山崎と魚住を若狭に派兵して
朝倉始末記におけますと、この兵力は三千余だったそうで、残りは敦賀にそのまま在陣していたようですかねえ。
2万近いと考慮される朝倉勢の中で、三千余だけを分遣隊として派遣し、残りは敦賀に在陣して
小谷の普請とかをやっていたのですから、普通に湖東や美濃方面の方を注意しているように思われるのですけれどねえ。
で、四月に武田勢が本国に撤収した事を知って、5月10日に一乗谷に撤収、という感じですかねえ。
>>634
まあ、本番は五月からの美濃侵攻の予定でしたからねえ。
>>635
ですからあ、何度も指摘させていただかせている事なのではございますが、
この当時の織田家の方が多くの武将達から離反・反乱が起きている状況で
義昭すらも敵対しているわけでございまして、
朝倉の離反を殊更にあげて、朝倉は戦えない、というのでしたら、織田はそれより多くの武将とかに離反・敵対されているのですから、
織田は戦えない、という事になってしまうように思われるのですけれどねえ。
織田信長は実際によくやってただろ。それに離反って、お前が挙げてるのは大小の国人までいるが、それ合わせるんなら朝倉、浅井もかなりの数になる。
それと信長から離反した奴らで柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛とか重臣中の重臣は1人も離反していない。
朝倉から寝返った奴らのうち、前波は朝倉義景の奏者を務める側近中の側近、富田は重臣。お前が挙げてる奴らと格が違う。
それと織田と朝倉では元から規模が違うから、数が違うのは当たり前。そして朝倉家中に精通している重臣が寝返ったら致命的になるのは当たり前。織田で言うなら明智光秀、柴田勝家が寝返ったようなもの。
これくらいわからんか? ああ、わかるわけないか。過去レスで前波が裏切った、それがどうした、織田信長のほうが「数」が多いで通してとからな。
全く同意
>>650
明智…
余呉や塩津の近江越前の国境ラインは抑えていても、
70年の時みたいに今津から若狭抜けて敦賀のルートあるし、警戒だけはしとくだろうな。
>そもそも朝倉軍の主力を成す山崎と魚住を若狭に派兵して
こう書くとまるで義景自身は若狭に入って無くて余裕あるように見えそうだけど、
この時朝倉軍が攻めたの若狭から僅か10キロだから、単に本陣が敦賀にあっただけって気も。
>>650
この時期の信長の場合、離反っていっても家臣じゃなくて、
義昭政権下の格下の同僚や義昭の家臣レベルで、織田家の家臣とは言えないのがほとんどだから、
浅井朝倉と同列に扱う方がおかしいんだよな、
前波なんかと比較するなら織田家譜代で離反した連中を出すべきだろうな。
実際に、朝倉始末記によりますれば、この時の若狭への分遣軍勢の兵力数は三千余だったそうで、
2万近いとされる朝倉勢の主力は敦賀にそのまま在陣して、小谷方面とかの普請とかをやっていたわけでなのですから、
普通に湖東方面やら美濃方面やらを注意しているように思われる次第なのではございますけれどねえ。
さすがに、一時は明確に政権運営において共同化し、共に権威と国力でそれぞれを補い合ってきた、
義昭やその系列まで離反してますのに、「大したことはない」というのは不可思議に思われるのでございますけれどねえ。
で、ありながら、細川が織田についた事はものすごい事のように言われますのもどうなのでございましょうか、と思いますしねえ。
織田家臣、といいましても、信秀時代からの譜代重臣である、例えば平手の家は2線級の立場となっておりますし、
林家も嫡男新次郎が「一の重臣」とは信長公記に書いてありますが、そこまで派手な活躍をしているわけでもなく、
他の重臣達、とかは大抵は信長の急速な勃興によって大身となった者達ばかりでして、
そもそも、柴田も羽柴もこの時点では後年程の大身でもないわけですしねえ。
明智とか荒木とかは敵対勢力からの鞍替えをしてきた人々ですし、佐久間も信秀時代はそこまでの大きな立場だったわけでもないわけですしねえ。
このように、当時の織田の重臣達、とやらも信長一代による、急速な勃興に従ったり、参集したり、あるいはその出世途上であったりした者達ばかりですのに、
それらの参集組から敵対した人々を大した事はない、というのもかなり異なるように思われるのですけれどねえ。
お前本当に史料読んでるのか?
この時の朝倉義景の出陣に江北への進出なんか書かれてないぞ。
はいはい。
朝倉始末記の方では、若狭方面への分遣隊三千余の派遣、しか書かれてはおりませんが、
朝倉氏研究者の松原氏や、福井県史などの方では、この時期に義景は
小谷を普請してそれを保守する必要性があった事と、湖西方面への通路が確保されなかった事から、
敦賀にとどまり続けた、という事を述べておりますかねえ。
>>666
後年程の大身ではない、というだけの話でございますしねえ。
で、その貴方的な理屈で言いますならば、貴方的には大した重臣であらせられる、
羽柴や柴田の夜襲侵攻を、浅井は単独で撃退しているわけなのですから、
浅井、さらには織田勢主力相手にも戦果をあげている朝倉、は
十分に大した勢力、という事でよろしいのでしょうかねえ、
という事については、如何思われる次第なのでございましょうかねえ、
という件についてご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
浅井と朝倉は、宇佐山で織田信治と森可成、青地らを討ち取ったのを最後に大した戦果挙げてないだろ。お前が挙げてる戦果なんか、織田の前では蚊が刺した程もない。もともと国力の差があり過ぎるしな。
夜襲撃退とか戦果かどうか怪しいのまで引っ張るなよ。見苦しいから。その程度、宇佐山に比べたら浅井や朝倉も戦果と言い得るか微妙すぎるだろ。
いやいやいや、その後に普通に堅田の戦いで、織田家重臣の坂井が
朝倉側に攻撃されて部隊とそれに従う豪族勢達ともども、壊滅している、という戦果が
しっかりと起こっておりまして、それで信長が状況の力による打開策が困難となりまして、
土下座降伏宣言的な書状を出して、和睦詐欺とかをしております次第なわけでございますしねえ。
いやいやいや、明らかに、蚊が刺したよりも、大きいと思うのですけれどねえ。
当時の織田は信長の最晩年における時のような、圧倒的な国力を有していたわけではなく、
1575年の長篠で勝利までは、三万余の兵力を集結させるのにも苦労しており、
(北陸の抑えの武将達まで動員して、やっとこの三万余の軍勢を招集したとされておりますかねえ。)
高天神救援の時には、それだけの兵力を招集する事が出来ずに、2万5千とされる高天神城を包囲する武田勢に対して
救援戦闘を挑む事が出来ずに、高天神城を攻略される事になっておりますしねえ。
当時の織田は信長最晩年の時のような圧倒的な兵力は有していない、という事を
まず基本的な前提となさられるべきではないかと思う次第なのではございますが、
如何でございましょうかねえ。
いやいやいや、普通に浅井側の一次資料に残っておりますしねえ。
貴方が羽柴が朝倉浅井を防いだ、というのを大仰に仰せられるのでありますれば、
浅井が単独で羽柴・柴田の夜襲侵攻を撃退している事に関しましても、
同様に最大級の評価を与えていただいてしかるべきなのではないか、と思われる次第なのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ。
当時の柴田勝家や羽柴秀吉が大した人物ではないというのなら、その柴田勝家に破れた六角や羽柴秀吉の一部隊に負けた朝倉義景、浅井長政なんかもっと大したことないな。
お前以前は秀吉と勝家の攻撃を単独で防いだ浅井長政はすごいとか言ってなかったか?
1572年3月に北近江の誓願寺が本願寺に出した手紙では「朝倉義景は腰が重く、浅井への後詰も遅延しがちで、このために浅井方の国侍が次々に織田方に寝返った」と報告している。
捨て駒ごとあぼーんされたって事だ。
10年生きてても、捨て駒がもういないから無理。
織田軍を甲斐に引きずり込んで、泥沼の戦いをして(自分が捨て駒になって)
上杉か毛利にやっつけてもらうぐらいしかない。
織田の主力は西部に偏ってるし捨て駒としては十分機能しただろ
あとは岩村城から脆弱な城を順次陥落させて西進するだけ
のはずが死んじまっておじゃん
その「岩村城から脆弱な城を順次陥落させて西進するだけ 」が物凄く難易度高いんだよなあ
しかも朝倉本願寺足利どれかが帰ってしまうと終了という制限時間つき
これができるんなら最初っから武田信玄が覇権取ってるやろ
>>その「岩村城から脆弱な城を順次陥落させて西進するだけ 」が物凄く難易度高いんだよなあ
高くないよ。美濃は収容人数に限りがある山城しかないし
織田の主力は近江に磔だから豪雪を超えて大軍の移動は不可能
関ヶ原もそこそこ積もるけど、織田のいる南近江で豪雪なんてレベルの雪降ったら
浅井朝倉はもっと悲惨なことになるし、東濃も結構積もって大軍の移動は不可能な
ことになってるんじゃ
武田厨は本当にこういうアホなことしか言えない
美濃近江間が豪雪で閉ざされるようなら
朝倉武田のいるような場所なんてまともに機能しないだろw
>>660といい菅沼といい武田厨は本当にアホしかいない
現実として武田は滅ぼされて、武田が織田に勝って織田の
勢力を減衰させるタイミングなんて1570年以降はなかったんだよ
1570年という織田信長を大きく損耗させるチャンスを武田信玄は棒に振った
それが全てであり史実。それを無視してやれ朝倉が悪い足利が悪い織田は雑魚だの見苦しいにも程がある
武田信玄がボンクラだから反信長連合は織田信長に負けた。それ以外語ることは何もない
そんなボンクラが10年当主やったところで結果は同じこと
信長暗殺を考える方がよほど有意義というものだw
それから、貴方が述べられている後段に関しましてですが、
>勢力を減衰させるタイミングなんて1570年以降はなかったんだよ
そんな事はないように思われるわけでして、現に信玄西上の時は、
信長万歳の信長公記におきましても、普通に「方々手ふさがり」の状況であると書かれておりますし、
信長の当時の書状などからしましても、信玄の西上に関して、信長は警戒をしまくっておりまして、
その動向を非常に警戒して美濃に留まり続けたり、東美濃に大物見に来たりしているわけですし、
謙信に必死で武田領土の背後を攻撃してくれるように、要請したりしておりますかねえ。
さらに申し上げますと、信玄がそのまま10年生存を続けて、5月からの美濃侵攻を行えば、
武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力(三万近く)が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
この件についてご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>1570年という織田信長を大きく損耗させるチャンスを武田信玄は棒に振った
信玄はその時には普通に織田と同盟国でしたのに、貴方は何をいっておられるのかと思うのですけれどねえ。
>武田信玄がボンクラだから反信長連合は織田信長に負けた。それ以外語ることは何もない
そもそも上記のように、普通に信玄西上の時には、信長は信玄率いる武田の西上軍の動向を警戒しまくっておりますし、
謙信に対して必死に武田領土を背後から侵攻して欲しい、と要請したり、
信長公記には「方々手ふさがり」と書かれたり、という状況でして、
貴方がボンクラ認定を必死にしようとなさられている信玄に対して、ずいぶんと信長は苦しめられ、
警戒しまくっているようなのでございますが、この件についてご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
さらに5月侵攻が行われれば、上記のように十分に織田に対して戦略的に優位な状況を構築する事が可能であったように思われるわけでして、
この件について、貴方のおっしゃられておられます「貴方様の妄想願望的なように思われます史実」と
書状や各種資料などから伺われます「史実」には、非常に膨大なる相違が存在しておりますように思われる次第なのではございますが、
この件について、おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思う次第ではございます次第でありますかねえ。
だからさ、何で朝倉や長島が歩調を合わせて侵攻できるのが前提になってるんだよ。信長包囲網をみてたら常に歩調が合ってないだろ。朝倉義景なんか足引っ張りまくってるし。
朝倉義景なんか何回足引っ張りまくり、武田信玄から非難と怒りを込めた書状を送られるくらい采配に疑問符がつく武将。こいつが守り固める、織田主力を恐れて撤退の可能性はないの?
それと朝倉2万とあるが、過去の朝倉軍の山越え美濃侵攻は兵力どれくらいでやったのか早よ答えろや。あの山道を2万とか考えにくいし、だいたい2万だとほぼ全軍だが、江北や若狭の手当は無視してると見ていいのか?
長島が数万になってるが、長島って虐殺された人数が2万くらいだろ。数万とはどこから来た数なんだ? それとこいつらを指揮できる坊主はいるのか? 頼廉がいるなら別だが、あいつは石山付だろ。お前は守戦と攻勢の違いもわからんのか?
長島はデルタ地帯で輪中の地形もあるから織田軍は苦戦したのであり、林新次郎や氏家卜全を討ち取れたのも追撃戦の有利を生かしたゲリラ戦術によるもの。
しかし今度は敵地美濃へ自ら侵攻。敵地しかも敵の本拠地だから地の利は完全に織田方にある。しかも尾張放置で美濃へ出張ってるから、尾張の織田勢に背後または横腹を突かれる危険性がある。お前が過去に挙げてる長島の美濃での焼き働きとは規模が違いすぎて比較にならない。
越中の一向一揆を例に挙げていたが、あそこは1488年に冨樫を滅ぼした後、朝倉や畠山、長尾上杉とやり合い続けたから戦闘経験豊富な奴らが多いだけで、長島は越中ほど戦闘経験はない。野戦で実力を発揮できるかは微妙。
ましてや日宮城を謙信不在とはいえ落とした越中に比べ、長島は織田信興の城を落とすのに6日もかかり、しかも和睦まで半月は猶予があり志賀陣で動けない信長軍。これで手薄な尾張に侵攻できない長島に何ができるんだよ。
武田厨菅沼には何言っても無駄かな?
ですからあ、普通に包囲網側は志賀陣とかで歩調を合わせて行動をとっておりますし、
普通に織田勢主力が来た方面では守りを固め、他方面では侵攻をし、というのは
この志賀陣などでも普通に行われている、普通の戦い方なわけですし、
特に問題があるようには思われないわけなのでございますが、この件について
ご回答の方をおはやめによろしくお願いいたしますかねえ。
一度本国に撤収して、本願寺と武田から要請されてまた再出陣、という流れですし、
義景も志賀陣の時には普通に織田勢主力を相手に渡り合っております武将ですし、
五月からの美濃侵攻戦略は、述べてみますれば、志賀陣の時と同じような戦い方を
美濃という範囲内で、武田・長島と共に行う、というものなのですし、
特に問題があるようには思われない次第なのでございますしねえ。
ですからあ、今度は兵力規模で「朝倉の山越えは絶対にできない!」と喚かれておられるようではありますが、
貴方のその「朝倉の越前からの美濃侵攻は絶対にできない!できると思えない!」っていうのは
これまでこちら側からの指摘を受けて、何度も何度も論旨的な変遷をなさられておられますのに、
これで貴方に「出来るとは思えない!」と喚かれましても、こちらとしては困惑するしかない、という状況でございますしねえ。
貴方は最初は「越前から美濃への侵攻は絶対に無理!地形的に不可能!」と言い出されまして、
「宗滴が2度もそれを行っている。」と指摘されたら、「宗滴程の名将でないと不可能!」と言い出し、
「宗滴程に有名でない普通の武将達も、普通に行っている。」と指摘されたら、「義景には無理!」と言い出し、
「義景も遠征や戦果的には、宗滴以外の武将達と比べて圧倒的に劣るようには思われない。」とこちらから指摘されたら、
今度は兵力規模で「出来るとは思えない!」と喚かれるわけですかあ?もう、こちらとしては困惑しか湧きませんし、
正直な話、貴方のその「出来るとは思えない!」というのは、「義景に美濃に侵攻されると嫌じゃあああ!」と
貴方が喚いておられるようにしか思われない次第なのでございますが、
この件についてのご説明の方をよろしくお願いしたいと、>>649の方でも普通に聞いておりますし、
他にも膨大なるこちら側から聞かれている事柄を、必死にスルーしようと躍起になっているのが貴方でしかないように思われますので、
それらの件につきましても、おはやめにご回答の方をお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
江北には浅井の守備兵がおりますし、若狭に関しては、既に守備拠点を構築してありますし、
そもそも、織田側は若狭から越前に攻め込むどころの話ではない、という状況ですしねえ。
はいはい。上の方とか、他のスレとかでも、普通に一向宗が特に野戦に弱いわけではない、という事を何度も指摘されておりますし、
長島一向宗指導層も、普通に信長の侵攻を2度も撃退して追撃戦で殿軍部隊を壊滅させて敗北させ、
北伊勢豪族衆を取り込んで制圧し、さらには織田の小木江を攻略したり、美濃や尾張に侵攻したり、といった感じで
十分に実績を示しているわけですしねえ。貴方が「嫌じゃあああ!」と思うからといって、頼廉でなければ無理、とか喚かれましても、
普通に北陸一向宗も長島一向宗も、それぞれで普通に戦果をあげているのが実態なわけですしねえ。
>長島って虐殺された人数が2万くらいだろ。数万とはどこから来た数なんだ?
いやいやいや、元々の問題として、屋長島・中江の城において最後に虐殺された人数が2万、であって、
その前の攻防で「数多打ち捕り」「切り捨て」という文言がいくつもでてきますので、
最後に屋長島・中江の城にいて虐殺された人数2万に加えて、それらの人数が加わり、
さらには長島本城にこもっていた人々は、信長に対して降伏して、長島本城を明け渡して
他国へ撤収しようとしていたところを、織田勢に騙し討ちを受けて壊滅させられておりますので、
長島本城にこもっていて織田勢に騙し討ちされて虐殺された人々、の数が加わりますし、
さらに長島が織田勢に降伏する前に織田勢の兵糧攻めにあって、長島の人々は信長公記によりますれば
「過半餓死仕り」と書いてありまして、その分の人数も加わる事になるわけでして、
これらを総計しますれば、明らかに5万、6万は超える想定となると思われますし、
そのうちの数万が遠征に出る、という感じでございましょうかねえ。
70年でぐだぐだになったけど73年にはもう順番に潰していくような段階だしな。
>>686
一向宗が長島から出てきたら楽だろうな、
71年73年織田が勝てなかったのもデルタ地帯で攻めれない包囲しきれない軍が川で分断されるが理由だったし。
織田の方は地の利もあるし、平地で移動しやすいから武田朝倉は移動しにくい山間部で時間稼ぎの足止めして
その間にどっか叩くも出来るし。
だろうね。デルタ地帯で攻めにくいから織田軍も苦戦したようなものだし。実際、織田信雄も羽柴秀吉と敵対した時に長島城を居城にしていたから、ここは攻めにくいことは間違いない。
1573年だと、朝倉や浅井は限界だよね。どう考えても段階的だと私も思います。
71年ならまだあるいはって感じだけど、72年には浅井は小谷の目の前に砦作られてる状態だしな。
>>706
>>708
家康滅ぼすのも難しいと思う、信玄が死んだ段階の浅井は領土の半分以上失って、
本拠の目の前に砦作られてそれを排除出来ないって状態、
それに対しその時点の家康って領土ほとんど失っていない、
失ったのは山間部ばかりで面積はやたら広く見えるが。
(72年に小笠原が寝返った説は置いとく)
>>751
>川中島で謙信と10年間の消耗戦争
武田領ってだいたいこんな感じじゃ
1541年~1551年で23万石から41万石 約1.8倍
1552年~1562年で41万石から60万石 約1.5倍
1563年~1573年で60万石から108万石 約1.8倍
確かに川中島の時期は他の時期より領土の増加率低いけど、
それでもそれなりに増加しているのでそこまで消耗戦争ってほどじゃなかったと思う。
指摘ありがとうございます。
確かに石高は謙信との抗争時でもそれなりに増えてますし、北信濃を押さえたのはそれなりにメリットはあったんですが信玄が天下を狙ってた仮定すれば、その労力と何より時間のロスが大きかったと思います。
両雄がやりあってる間に信長が急激に台頭して巨大化したことを考えると、北信や上野の僻地でやりあってる場合じゃなく、早く西の京都に眼を向けるべきだったと。
実際に川中島の戦いは中央の政局にほとんど影響与えてませんし。
そもそもの問題として、関東管領を継承して、関東諸侯を従え、
小田原遠征では10万を超える超大軍を動員し長尾上杉に対し、
武田・北条はどうやってその勢力を守りきり、その勢力を削減して
パワーバランスを崩し、自勢力を存立させるか、というのが
西上野攻略戦争が勝利に終わるまでの、武田の切実なる課題であったわけでして、
第4次川中島も普通に武田側の防衛戦争ですし、
正直な話、武田が途中から上杉との戦いをやめて西側に向かおうとしましても、
上杉には上杉で、東国制覇、という戦略目標があるのですから、
武田をスルーしておいてくれるとは考慮しにくいと思うのですけれどねえ。
×小田原遠征では10万を超える超大軍を動員し長尾上杉に対し、
〇小田原遠征では10万を超える超大軍を動員した長尾上杉に対し、
です。失敬。
まあ、わかるとは思うのですが、一応訂正しておきますかねえ。
いやいや、やはり川中島で武田信繁、両角虎定と優秀な人材を何人も失ってるのは消耗だと思われます。特に信繁は。
ほとんど、という事はないと思われますけれどねえ。
当時の遠江と三河でフルでも55万石程。
それに対して、武田は山家三方衆を寝返らせ、他の三河北部の領域もとり、
遠江北部、遠江南部(高天神も含む。それがなくても、小山城などもありますし。
匂坂城・天方城・飯田城とかも明確に遠江南部の城ですし、
伊平小屋城とかは遠江西部の城ですし、
普通に考慮しますれば、石高的にも、10数万石は固いと思われる領域で、
当時の徳川領土の石高の4分の1くらいは制圧してる事になると思われるわけですしねえ。
信玄と関係ない良スレでも菅沼と延々とゴミみたいな議論を続けて埋め潰しまくってた
>>686は何だかそれっぽい
菅沼と一緒に消滅すれば良かったのに
いやいやいや、普通に朝倉・長島は武田と共に織田を美濃で攻撃する予定の戦力ですし、
捨て駒だなどとは到底思われないわけですしねえ。
そもそもの問題として、信玄西上を聞いた信長は美濃に戻って、三月末まで美濃で武田の動向を警戒しまくっておりますし、
信玄書状やら軍鑑の記述などを考慮しまするに、三月初頭には東美濃に大物見などにも来ていたようですから、
普通に信長は美濃、武田方面、などを警戒しまくっているわけでして。
朝倉浅井が捨て駒、というのは史実とは明らかに異なるように思われるわけでございますしねえ。
で、信玄の戦略としましては、この信長率いる織田勢主力を、武田・朝倉・長島によって5月から美濃に侵攻し、
遠藤なども内応させて、打ち倒す、というものだったようで、実際にその書状が残っているわけですしねえ。
で、そうなれば、武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力(三万近く程ですかね。)が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
人は鼻つまみになるよね。
なんと申しましょうかねえ。貴方は織田側有利!的な人が資料を基にして
「包囲網勢は織田には勝てない!」と主張なさられると、完全にスルー、
対して、包囲網側のこちらが、「いやいやいや、この書状や資料などを基にしますと
このように考慮されるわけでして、信玄生存IFなら、十分に包囲網側でも織田勢に対して
勝利できるのでは?」と主張を述べさせていただければ、
「書状とか資料とかを使って語るんじゃねえええええええええ!
難癖ばかりつけるなあああああああ!」とお述べになられているようにも思われまして、
なんといいますか、織田有利、という主張でなければ認めない、的な感じのように思われる次第なのでは
ございますけれどねえ。この件については、如何なものなのでしょうかねえ。
それこそ「相手の主要武将を刺客で全員暗殺」とかやったら
誰でも勝ちに持ち込めるし
いいんじゃないですか。したり顔で書状持ち出して他の意見に難癖つけて自分の意見以外は認めないというような、あの御方よりは荒唐無稽でも読んでて楽しいですよ。書いてる本人もIFだと割り切って書いてるだろうし。
あれの何処が割り切っているように見えるのかね? 自分の意見以外は完全に聞き入れないあいつそのものだけど。
>>647は>>640宛です。一応わかるとは思いますが、訂正しておきますかねえ。
貴方は貴方で、>>639の人の文章を、不可思議な風にお読みになられているように
思われてしまう次第なのではございますけれどねえ。
いやいやいや、信玄の五月侵攻戦略は、普通に当時の書状からも伺いしれる事ではありますし、
それが実行されたなら、そうなれば、武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力(三万近く程ですかね。)が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
普通に史実的に考慮しても、十分に想定が可能なのでは、といいますか、
蓋然性が高いように思われる範囲内の事であると思うのではありますけれどねえ。
そこらへんは如何なものなのでしょうかねえ。
武田が3万なのに武田の倍近く石高ある織田が3万wwww
そして朝倉武田長島は寸分違わず完璧な連携www
武田厨の考える妄想なんてこの程度だな
朝倉も武田もスマホ使ってる前提w
自画自賛か?第三者から見ると相当つまらんぞ。
貴方のその「朝倉義景は越前からの美濃攻めは絶対にできない!」という理由は
議論の流れや指摘などによって、どんどん理由が変遷しておられますように思いまして、
貴方が単に「義景に美濃に侵攻されると嫌じゃあああ!」と述べられておりますように、
こちら側には感じられてしまう次第なのではございますけれど、その件については如何なものなのでございましょうかねえ。
まず、貴方は最初に「越前から美濃への侵攻などは絶対に不可能!地形的に絶対無理!」的に申されまして
こちら側などから「宗滴が普通に2度もやっておりますが…」的に指摘されましたら、
「宗滴のような名将でなければ絶対に無理!」的におっしゃられ、
こちら側から、「宗滴程に有名ではない普通の武将達によっても、普通に侵攻が行われているようなのですが…」的にこちら側から指摘されると
今度は「義景には絶対無理!」という風に言おうとしていらっしゃられるように言おうとしておられるように思われまして、
正直な話、義景は普通に侵攻戦とかを志賀陣や北陸一向宗との戦いで行って勝利を得ておりますし、
宗滴程ではないにしても、他の2名と比して圧倒的に及ばないとは言えないように思われますし、
普通に越前から美濃への侵攻を無理、とする理由が、貴方のご希望以外にはないようにこちら側には思われてしまうのでございますが、
如何なものなのでございましょうかねえ、と思ってしまったりもする次第なので
ご回答の方をおはやめにいただきたいと思いますので、ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
あれ勝利じゃない。朝倉の家臣の竹内、上村が功名を挙げたいからと勝手な抜け駆けを行ない、虎御前の織田の陣屋を幾らか焼き払って織田軍は朝倉義景の夜襲か、と混乱した。
「しかし朝倉義景は織田信長がおびき出すための謀略と見て動こうとしなかった」
「さらに手柄があった竹内や上村には抜け駆けのため恩賞を与えず、この義景の対応のまずさに家臣は不信感を抱いた」
こんなの朝倉義景の勝利どころか、部下にさらなる不信感持たせてるんだから敗北も同然だろ。
まだある。
「織田信長は朝倉義景に決戦を求めて、堀秀政を使者として送ったが朝倉義景は応じなかった」
こんな意気地なく、まずい対応ばかりしている朝倉義景に美濃侵攻なんて危険な博打ができるのかよ?
それは始末記にもあったと思うけど、
一次史料でも一応義景が書状で陣屋を悉く焼き払ったって言ってる。
その日は京都で嵐なのに近江は嵐じゃなかったのだろうか、よく焼き払えたなって昔突っ込まれてたが事実なのかどうか。
既に>>654の人が指摘をしておりますように、同時代資料におきましても、
普通にこの戦果は戦果として述べられているようでございますし、
浅井側の書状では、朝倉景盛の戦果、とされているようですかねえ。
さらには、義景自身も常陸の縁戚から信長との戦いにおける勝利を祝福され、
「この勝利は武田家臣日向玄東の教えによるものです。更なる教えを請いたいと
思っております。」と述べておりますかねえ。
というか、戦果がありますのに、そのように貴方が敗北も同然、と申されましても
どうなのでしょうかねえ、と思う次第なのではございますが、
その件については、どうなのでございましょうかねえ。
で、信長が決戦を求めて義景が応じなかった、云々の件ではありますが、
極めて自然な事のように思われますけれどねえ。
信長は局所的な兵力において、義景側を上回り、そして複数の方面に敵を抱えているのですから、
可能な限り一つの相手勢力に対しては短期で決戦を求める、というのは極めて自然な話のように思われますし、
局所的な兵力においては信長には及ばずとも、複数方面の味方勢力との連携が有利な面である朝倉としては、
不用意な短期決戦には応じない、というのは極めて自然な事柄のように思われる次第でございますしねえ。
美濃侵攻は何度も申しますように、決して博打のような戦いではなく、普通に複数勢力が同盟して敵対勢力側に侵攻する時の、
セオリー的な戦い方のように思われる次第でございますしねえ。
武田・長島と連携して美濃に侵攻し、その後は志賀陣で他ならぬ義景自身がやっておりますように、
織田勢主力が来た方面では守りを固め、他方面では侵攻する、というのを進めていきますならば、
普通に堅実に侵攻を進めていく事ができるように思われる次第でございますしねえ。
現実は完全に無視。
他人の意見も無視。
何で朝倉、武田、長島が完璧な連携ができる前提なのか。
それにまずは答えてからほざけよな。
一旦冷却期間置いてからリスタートすりゃいいんじゃね?
ずばり信玄が後10年生きてたら、信長倒して天下をとれたと言いたいんですか?。枝葉の議論はいいですから、そこが聞きたいです。
ここはそのような議論をするスレであると思う次第なのでございますけれどねえ。
まあ、とりあえず、信玄が史実以降も10年生存していたら、というIFでありますならば、
普通に包囲網勢と連携して織田勢力を打ち倒す、
あるいは信長の畿内覇権を終了させる、という事は十分に可能であったのではないか、
と考慮しまする次第なのでございますかねえ。
674です。回答ありがとうございました。
私は個人的には織田と武田の国力の差や、反信長連合の連携の不味さを考えると当時の信玄が信長を倒すのは難しいかなとは思いますが、家康を滅ぼすくらいは可能であったと思います。
まあ後の謙信や毛利に比べると、信長が危機感を持つほど、信玄は信長を追い詰める状況に持っていったことは素直に評価したいですね。
家康もどうかなあと思いますね私は。
三方ヶ原で家康を討ち取っていたならともかく、それ以降だと家康は完全に徹底籠城を選択し、武田信玄が嫌う長期戦になり、難しいと思います。
信長は家康援護よりも畿内の安定が最優先っぼいので、反信長連合、特に浅井朝倉がどこまで持つかで家康の命運が決まりそうな気がします。
彼らが信長の攻勢に耐えきれば、家康は信長の援護を受けられずにじり貧で滅亡、もしくは信玄に降伏するような気がしますが、信長が畿内を素早く片付けて三河に出てくれば信玄も家康を潰すのは難しいでしょうね。
武田信玄が三方ヶ原直後に浜松城を攻めていればあるいは。
武田単独ではともかく、他の包囲網側勢力と共同しての攻勢ですしねえ。
現に、こういった包囲網側の一斉攻勢は、志賀陣で一度信長を
土下座降伏宣言的な書状を出しての、和睦詐欺を行わせるまでに追い詰めているわけですしねえ。
>>708
まあ、その前に普通に美濃に侵攻する予定ではあったと思われますがねえ。信玄は、当時の書状などから考慮いたしまするにねえ。
>>711
元々、5月から包囲網勢と連携して美濃へと侵攻するのは、転身を決めたわけではなく、三方ヶ原以前から決まっていた事で、
1572年11月の書状で述べられている事でありますしねえ。
信長さえ打ち倒してしまえば、普通に後は家康は武田に対して降伏やら、従属やらをせざるを得ない立場なわけではありますしねえ。
岡崎城無視してそのまま尾張に侵攻するとか自殺行為だし
あのー、このスレにおいて、何度も述べられている事だとは思うのですが、
信玄の戦略目標は、5月から、朝倉・長島と連携して、
美濃へ一斉に侵攻する事なのですがねえ。美濃へ侵攻するルートに関しましては、
そのまま武田領土の信濃から東美濃に入るなり、
制圧してある北三河から美濃に入るなり、が普通に行えるわけですしねえ。
これは信玄の書状にしっかりと残っている事ですし、
そのように5月から朝倉・長島と連携して美濃に侵攻しますれば、
武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力(三万近く)が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
そもそも、岡崎の戦力とは申しますが、三方ヶ原には東西三河の旗頭である、
酒井石川がそれぞれの軍勢を率いて参陣しているだけでなく、三河の軍勢や武将も
普通に参陣して武田側に敗北しているわけですしねえ。
その後の野田城救援に徳川が三千余程しか動員できていない事からも、
しばらくは徳川が動かせる動員可能兵力は数千、というところだと思われますので、
武田も数千程の抑えを置いて、東美濃に侵攻し、その分の数千は東美濃にいる
秋山勢やら岩村遠山勢やらで補充が可能であるように思われるわけですしねえ。
武田信玄の死去という変事があったとはいえ、徳川家康は1573年5月9日には駿河の岡部を攻めれるくらいにまで回復している。お前岡部と駿府の距離知ってるか?
別に家康は武田の城を落とす必要はない。ゲリラ戦やって武田領引っ掻き回したら、武田信玄は常に背後を気にしながら美濃侵攻をやらないといけない。
ですからあ、それへの対応は数千程の抑えを置いておけば十分ですし、
その分は東美濃にいる秋山勢やら東美濃岩村遠山勢やら、で補充が十分に可能なわけですしねえ。
この件についてご回答の方をよろしくお願いいたしいたいと思う次第なのでございますけれどねえ。
信長も岐阜時代には、領土全体から考慮しましても、明らかに東側に偏っておりますのに
各地に遠征した後で、律義に岐阜に戻って、またそこから遠征して、というのを
律義に繰り返している、という次第なのでございますけれどねえ。
特に武田もそれを原因として何がどうなるものでもないように思われる次第であると思われますし、
現に武田も普通にそれで数十年に渡って勢力を拡大してきた次第なわけでございますしねえ。
脳になんかの障害がある人だと思うよ。アホだのバカだのいきなりいう人は。
「ねえ」は無視して議論しましょう。
いやいやいや、こちらは普通に述べさせていただいているわけで、
見下している、と思われるのは、貴方がそう思っておられるだけのように思う次第なのでございますけれどねえ。
といいますか、貴方は織田優位以外の論を拒絶なさられているようにしか思われないのですけれどねえ。
他の人からも多数、語尾から改めるように言われて未だに改めないのは?
趣味ですかねえ。
そもそもの問題として、何度も言いますように、こちらが見下しているわけでもないのに、
必死に貴方が見下されている、とお喚きになられているのが実情なわけですし、
貴方は単に織田優位以外の論を拒絶なさられておられるかのように、
こちら側には思えて仕方がないように思われるのでございますが、
その件についてもご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
小学生かよw
ねえ、は無視してみんなで議論しましょう。
真理だわ
それは、貴方をはじめとした必死な織田厨さんの事をお述べになられていると思われますが、
ご自身側の事をそこまでご理解なさられておられますのは、大変ご立派であるとは思いますが、
こちら側から聞かれている事などにつきましては、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いしたいと思いますので
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
三河の完全掌握よりは美濃のほうが旨味は大きい
それはわかるけど、危険度や難易度が三河平定より格段に上がる。何しろ織田信長とその本隊との直接対決だから。
それよりは徳川家康をさらに痛めつけて、屈服させるか滅ぼすほうが危険度や難易度は低いのでは? 徳川家康を滅したら、浅井や朝倉、本願寺も勢いづくだろうし。
それよりは、包囲網勢と連携して、5月から美濃に侵攻して
織田勢主力を打ち倒して、美濃を制圧してしまえば、後の展開は非常に楽になるように思われる次第ではないかと思われるのですけれどねえ。
信玄が途中で病気になったからわからんが実際もうちょっと痛めつけてから美濃に侵攻したとは思う
三河平定の方が難易度は高いよ。浜松城、
吉田城、岡崎城をどうやって陥落させるのか?
それよりは美濃の方が現実的。美濃の中では堅牢と言われた岐阜城は
何度も落城してるしそれ以外は言うまでもない
何処かの基地外は、徳川家康は三方ヶ原のために3000から数千しか動かせない、とか言ってましたが、やはり武田信玄でも浜松、吉田、岡崎を抜くのは難しいですか?
尾張に入っても、那古野、清須、小牧、楽田、犬山とありますし。
貴方も必死になって「相手にしない!」とか喚かれて
必死でご自身で賛同なさられながらも、
必死になってビックンビックンと
反応なさられておいでのご様子ではございますが、
口調もだいぶいつもの御特徴があらわれているようでなによりでございますなあ。
実際に家康が三方ヶ原の後で、野田救援の為に動かせた兵力が三千程ですし、
十分にその範囲内であると思われますしねえ。
抜けなくはないけど相当の時間を要するかと
それだったら簡単な美濃に入った方が難易度は低い
美濃が簡単って織田の根拠地だぞ
そりゃ端っことかどうでも良い場所ならいけるだろうが
武田信玄が西上作戦で取った城って、遠州北部の要衝である二俣を除いたらどうでもいいような山城ばっかりで、重要な城で戦って無いからなあ。
岩村にしても、岐阜から100キロもある山城。美濃への足がかりにはなるが、経済的な価値は皆無だしなあ。
史実の段階で徳川家康の重要拠点である
岡崎、吉田、浜松、掛川が悉く落ちていないのがキツすぎるな
信長と信玄が膠着している間に家康が武田領侵入してきて終わりだろうな
家康を本格的に攻撃して滅ぼそうとすると今度は朝倉長島足利あたりが信長に攻め滅ぼされる
どっちにしろ無理だね
何度も述べている事ではありますが、三方ヶ原以後の家康は、
野田救援に三千程の兵力しか動かせなくなっており、
抑えに数千程の兵力を残しておけば、十分に封じる事ができる相手であると
思われますかねえ。で、その分の数千は、美濃に進出して、
既に東美濃にいる、秋山勢やら岩村遠山勢やら、と合流すれば十分補充できますので、
後は、予定通りに朝倉・長島と連携しての5月侵攻を開始し、
で、そうなれば、武田(三万近く)・朝倉(2万余)・長島(数万)の三勢力で三方向から美濃に侵攻し、
織田主力(三万近く程ですかね。)が武田に向かえば、武田が守りを固めて朝倉、長島がそれぞれのルートから侵攻、
朝倉に向かえば、朝倉が守りを固めて武田・長島が侵攻、長島に向かえばry、
という感じで、非常に包囲網が有利なように思われる戦略状況なのであって、
普通に侵攻を進めていけるのでは、という話なのですけれどねえ。
そもそも三方ヶ原の被害が過大に評価されすぎてるからね。確かに中根、夏目、成瀬と当時の幹部を喪い、2000の死者とそれ以上の負傷者が出たらしい。だが、負傷者は時間が経てば回復する。
また幹部にしても石川、酒井、高力、本多とまだ健在だから、立て直しはそこまで苦労しないと思います。事実、1573年5月に徳川家康は駿河の岡部に侵攻して武田領を焼き払っています。
これは武田信玄の死去という事変のため、も大きいですが、三方ヶ原から5ヶ月も経ち、負傷者が回復していたとも考えられます。
当時の徳川領は40万石と考え、単純計算なら1万2000。目一杯頑張ったら1万5000はいけます。そのうち2000を差し引いても、ふたたび8000を編成することは不可能ではないと思われます。
武田信玄が美濃へ行くなら、やはり織田信長みたいに長篠で武田に与えた大損害を徳川に与えないと、やはり徳川家康は時間次第で回復を図れると思われます。
徳川側の資料では戦死武将が50名近くになっているのですけれどねえ。三方ヶ原は。
>当時の徳川領は40万石と考え、単純計算なら1万2000。
通常の軍役計算では1万では?しかも、各地に守備兵を置いていますし、
しばらくの間は三千程しか動かせなかったわけですしねえ。
そもそも、長篠の時の決戦で、酒井別動隊を2千余派遣した結果、
本戦の徳川勢は「5千に及ばない」という状況になっていたようで、
およそ総勢6千数百程だったようで、三方ヶ原から2年経過しても、
8千もの兵力を招集する事は出来ていないように思われる次第でございますしねえ。
徳川の方が主要街道保持しているから、三河で反撃も出来れば駿河に嫌がらせも出来るというのも厄介。
>>766
>今川から離反した国人と秘密裏に連絡
信濃との国境沿いの国人に関しては自領への混乱の波及防ぐためまだ理解できると思う、
天野とかは義元が生きている頃にも連絡取ってたし。
>>772
三方ヶ原って軍鑑の記述だと討取数かなり少ないんだよな、
討ち取り数が兜首のみとするなら足軽合わせて2000とか死んでるかもしれないけど。
いやいやいや、三河北部の山家三方衆の寝返りに関しては、
信玄も重大事項として書いてますし、
家康もそれを再帰属させようと調略に躍起になったりしておりますし、
遠江北部の城等も、信玄死亡後に奪還しようと
躍起になったりしてますしねえ。
遠江南部の高天神も普通に信玄西上の時には降伏していたとされていますし、
「どうでもいいような城々」とは到底思われないわけなのですけれどねえ。
>>757 >>758
信玄は今川との同盟継続をかなり後まで固執しており、
それこそ、義信が死亡した後も、普通に同盟継続をしたいという要望を示しており、
義信未亡人の返還を求めた今川に対して、「未亡人は返しますが、これからも同盟は継続である、
という誓約書を書いてください。」という要請をしたりしてますかねえ。
色々とそちら側に誤解があるようなのではございますが、
>恐らく信長が上洛したのを知って謙信との戦を猛烈に後悔して、焦りが生じたんじゃ無いかと思います。
>信長上洛あたりから信玄の外交が支離滅裂になってきてますし。
これらに関しては、いわゆる、世間の一部で流布している小説的な論説、といいますか、
史学的にはだいぶ前から否定されている事ではありますかねえ。
信玄の外交が支離滅裂、と貴方がおっしゃられるのは、信玄の今川領土侵攻、北条との駿河争奪戦争、そして織田徳川相手の西上策戦、
の時期の武田の外交について述べられているのではないかと思われますが、これらはいずれも当時において、十分な合理性と妥当性をもった上で
行われた外交展開であった、と思われているわけでございまして。
まず、信長の上洛と信玄の駿河侵攻は表裏一体のものです。元々、信玄は東国世界の勢力で、
その最晩年に至るまで、西国世界の中心である京都に対する上洛という事にそれ程の興味を示している、
と思われる傾向は特にないと思われるわけでございまして。
信玄は小説的なイメージとは異なり、今川との同盟継続に義信が死亡した後も非常に固執しており、
それは>>762にも一部提示をさせていただいた通りでございますかねえ。
で、それにも関わらず、結局今川が上杉と組んで武田を包囲し、武田との同盟から離脱しようとする動きを示した事から、
武田の方は武田の方で、織田徳川と組んで、今川を攻撃する、という路線に切り替えていくわけでして。
信長としても、これから上洛を控えている、という時に自勢力に敵意を持つ今川と、それを支援する三国同盟体制は厄介で、
それが相互に戦いあってくれて、武田が背後を同盟国として守てくれるならありがたい、という事で、
武田を支持する事に決め、織田は上洛、武田は駿河侵攻、双方が同盟国として相互の背後の安全を守りあう、
という事で2勢力は同意するわけでして。
(信玄は北条との駿河争奪戦の時に、信長が擁する足利将軍に謙信との和睦を要請しておりますし、
信長の方も、信玄を仲介として本願寺との和睦を行っており、双方で援護をしあっておりますね。)
>>751宛続き
で、この駿河侵攻は北条が介入した事から、乱戦の傾向を示し、武田・北条のみならず、上杉・関東諸侯、関東公方、などなどが関与する、
東国世界全体を範囲とするほどの大戦争に発展するわけではありますが、
結局2年ほどで武田は駿河を攻略し、北条との再同盟にも成功しますね。
しかし、その間に今度は徳川が上杉と組んで武田を包囲しようとするのみならず、
織田に対して盛んに徳川・上杉と組んで武田包囲網を構築しよう、という誘いや讒言を行う事になり、
信玄はこれに対して、織田に「佞者(性根の悪いやつ。ここでは家康の事。)がしきりに讒言をしているようではあるが、
取り合わないで欲しい。」と書状で書いておりますが、少なくとも織田はこれに対して表面的にはスルーし、
徳川に対してもいい顔をし続けるわけでして。
織田としては、当時は信長包囲網のまっ最中なので、この上、徳川や武田まで敵に回すわけにはいかないので、
これはある意味自然な事だったわけですが、武田からすると、おそらく信長が駿河侵攻の時にでも
武田側にそういったのではないかと思われますが、「家康は信長の先手」「家康は信長のいう事をなんでも聞く人」
的な認識だったようなので、それが武田包囲網構築の動きを示し、それを武田が織田に抗議してもスルーし、
徳川にいい顔をし続けている事から、徳川の武田包囲網構築の動きが織田の承認を受けて進められているように思われ、
織田に対する不信と憎悪を抱いた、とされておりますかね。
(信玄の西上策戦の時の書状でも、「信長に対する三年の鬱憤を晴らす。」と述べていますね。)
おりしも、信玄が進めていた勝頼への足利将軍からの一字拝領と官位叙任が
信長と足利将軍との確執によって潰れてしまった事、信長が武田と織田の両属であった岩村遠山を織田領土に編入した事、などから
武田の織田に対する不信と憎悪は高まったようで、包囲網側からの参戦要請があった事もあり、
包囲網側に参戦して西上策戦を展開する事になるわけでして。
ですからあ、肝心なところをスルーしてませんかねえ?
重用なのは>>765の方なわけでして。
武田側としては、織田側がおそらくそういった事から、
「家康は織田の従属勢力」という認識。それが武田包囲網構築の動きをしている、
というのを武田が織田に抗議しても、織田はスルーして徳川にいい顔。
こうなれば、徳川の武田包囲網構築の動きが織田の承認を受けて進められているように思われても仕方ないですし、
信長は信長で、両属の岩村遠山を織田領土に編入したり、
信玄が進めていた勝頼への足利将軍からの一字拝領と官位叙任が
信長と足利将軍との確執によって潰れてしまったり、と色々と武田が織田に不信と憎悪を持つ要因は
あったわけですしねえ。
さすがに「兵も持っていない旗本」が守名乗りをしているとは
あまり思えないのですけれどねえ。
>>803
いや、ですから、なんか変な風に誤解をなさられておりませんかねえ?
重用なのは>>765の方なわけでして。
武田側としては、織田側がおそらくそういった事から、
「家康は織田の従属勢力」という認識。それが武田包囲網構築の動きをしている、
というのを武田が織田に抗議しても、織田はスルーして徳川にいい顔。
こうなれば、徳川の武田包囲網構築の動きが織田の承認を受けて進められているように思われても仕方ないですし、
信長は信長で、両属の岩村遠山を織田領土に編入したり、
信玄が進めていた勝頼への足利将軍からの一字拝領と官位叙任が
信長と足利将軍との確執によって潰れてしまったり、と色々と武田が織田に不信と憎悪を持つ要因は
あったわけですしねえ。
北条氏みたいに東国世界の覇者を目指し、天下を狙わないなら、反信長連合に入らずに織田に喧嘩売らなけりゃよかったのに。信長は畿内平定で忙しく、武田と事構える気はなかったので家康に圧力かけて武田との間を調停するくらいはやってくれたのでは?
武将って言っても兵も持たないような旗本含めてるだけかと。
徳川の場合後年天下取った影響で、
他の家じゃ記録に残らないような低い身分のものも記録に残るから。
>>789
>武田が遠藤に工作していて
正確には両遠藤家の片方、後に藩主になった方の家はこの時期の動きは不明。
個人的には関ヶ原の真田みたいにどっちが勝っても生き残れるように別れて行動したんじゃないかと思っているが。
>>794
最初の駿河攻めで武田が徳川にまで攻撃した時織田は武田徳川の調停してくれた、
それ以外にも武田はいろいろしてもらったのに恩を仇で返したため織田はブチ切れたと。
普通にその中には~守、とか奉行、とか、色々いますけれどねえ。
>最初の駿河攻めで武田が徳川にまで攻撃した時織田は武田徳川の調停してくれた、
それって、前に誰かが言っていた、
「秋山が勝手にやった事!当方はあずかり知らぬ事!」
と信玄が書状で述べている!的な話ですかねえ?
実際には、信玄の当時の書状では、徳川と遠江で合流するのは既定路線だったようで、
「こちらが遠江を競う事を貴方達が誤解するかもしれないから、
下伊奈衆は退かせます。」的に述べているだけで、
「秋山が勝手にやった事!当方はあずかり知らぬ事!」
などとは一言も言ってないわけですしねえ。
それから、甲越和与の仲介は足利将軍からのものですし、
信玄も本願寺と信長との和睦を仲介してますし、
信長は信長で、両属の岩村遠山を織田領土に編入したり、
信玄が進めていた勝頼への足利将軍からの一字拝領と官位叙任が
信長と足利将軍との確執によって潰れてしまったり、と色々と武田が織田に不信と憎悪を持つ要因は あったわけですしねえ。
下伊那衆が秋山だろ。
それと何とか守、とかは旗本でも平気で自称していたからなこの頃は。
ですからあ、信玄のその書状においては、下伊奈衆でも秋山でもいいですから、
それらが勝手にやった事、とは一言も述べてないわけで。
元々、その書状の前に出された家康宛の信玄書状で、
「氏真が逃げ込んでいる遠江掛川城を、貴方は先に包囲しておいてください。
私自身も三日の間には出陣します。其の地で貴方と会えれば大慶です。」
的に述べている書状があるわけで。秋山の下伊奈衆も、普通にこの武田徳川の
共同侵攻の一環として派遣されたと思われるわけでして。
で、下伊奈衆が、既に徳川に降っていた今川勢力を敵対勢力だと思って戦闘したところ、それが既に家康に降っていた事が明らかになり、
信玄はすぐに謝罪し、「こちらが遠江を競う事を貴方達が誤解するかもしれないから、 下伊奈衆は退かせます。」的に信玄が書状で述べているわけで。
で、信長に宛の書状でも「共同策戦の予定ではありましたけれど、
家康に遠慮して駿河に留まる事にします。」と述べているわけですしねえ。
さすがにある程度の身分の者でないと、
守名乗りはしてないように思うのですけれどねえ。
旗本がある程度の身分でないとは。
こいつの頭はどうなってるんだ?
この武田厨は本当にヤバイ。
三河物語では大井川を境にして駿河を武田信玄、遠江を徳川家康が取ることが決められていた。この武田厨が挙げてる書状はたぶん1569年春に武田信玄が徳川家康に出した書状。
だけど明確な違反行為に徳川家康は怒り、1569年5月に北条氏康を仲介人にして掛川を攻略し、今川氏真と和解。
それと、武田信玄がこの時期に家臣の市川十郎に宛てた書状だが内容がひどい。徳川家康のことを「織田信長の助言をもっぱら得る人」としていて、徳川家康を独立した大名と見ずに織田信長の手下大名と見ている。
さらにひどいのは、武田信玄はそれでいてぬけぬけと織田信長に「徳川家康と今川氏真が和解したのは不可解。今の私は三国同盟を喪い、信長殿を頼む他、味方がいない」とか抜かしていながら、織田信長に徳川家康を何とかしろ、というメチャクチャな要請を出している。
さすがの織田信長もこの対応には苦慮したみたいで、どう見ても武田信玄が織田信長や徳川家康に喧嘩を売ってるとしか思えん。
1569年春?
とりあえず、私が出している、信玄と家康の共同策戦を示している書状は
1568年12月のものなんですけれどねえ。
貴方は何を言っておられるのですかねえ?
それ、徳川側の2次資料の三河物語では、でしょ。
いやいやいや、その書状の中では、普通に家康を「信長の意見を得る人」とは言っていますが、「遠江が悉く家康に属したのは何の異論もありません。」的に書いていますのに、貴方は何を言ってるのかと思うのですけれどねえ。
普通に信玄は家康の遠州制覇を認めているわけですしねえ。
で、「それなのに、なんで家康が今川や北条と和睦をしているんですか。」と
家康の自称親玉の織田さんに聞いているわけですしねえ。
これでどうやったら、貴方の言っているような事が成立すると思われますのか、についてご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
いわゆる武田の上洛行動までは同盟が継続してる
だからこそ、上杉に手切れの一礼もできない無作法者と書き送ってるわけ
まあ、手切れの一礼云々言いますなら、両属の岩村遠山を勝手に織田領土に編入したのは、
無作法ではないのでしょうか、という話にもなるようにも
思えたりもするようにも思えてもしまうのですけれどねえ。
遠山の件は完全に武田信玄が先に織田信長に喧嘩を売った結果。
1572年9月に足利義昭の命令で、武田信玄に石山本願寺と織田信長の和睦調停、織田信長に武田信玄と上杉謙信の和睦調停が出されている。
信長は武田信玄と上杉謙信を和睦調停できれば味方にできると考えて調停に乗り出し、上杉謙信も既に武田信玄と戦う気はなく乗り気。
ところが、武田信玄が北信濃に進出したとする情報が信長に届き、信長は信玄に直ちに軍事行動をやめるように求める。
それに応じて武田信玄は撤兵したが、時期が冬のこともあり、10月5日付で武田信玄に和睦調停は翌年に持ち越し、とする旨の書状を送る。
ところが9月26日付で、武田信玄は一色藤長に宛てた書状で石山本願寺と織田信長の和睦調停を進めているが、俺の方は上杉謙信との和睦調停に応じかねる、旨の書状を出している。
しかも日にち不明だが、たぶんこの直後に武田信玄は上杉謙信に「朝倉義景が仲介に立つなら和睦調停に応じるが、織田信長なら応じない」とまで通告したと「上杉家文書」にある。
つまり織田信長は完全に面目丸潰れ。しかも10月1日からは武田信玄による徳川家康侵攻まで開始されていて、武田信玄の北信濃での軍事行動など一連の活動は、徳川領侵攻を隠匿するためのものだったにすぎない。
織田信長は11月20日付で上杉謙信に「武田信玄は前代未聞の無道。侍の義理を知らない。こんな奴とはもう絶対仲良くしない」とまで言ってる書状を出すほど。
ちなみに織田と武田に両属していた遠山は、1572年5月に直廉、8月に景任が死んだ。どっちも息子がいない。
そこで10月、面目丸潰れになった織田信長が景任の跡継ぎに勝長を、直廉の跡継ぎに友勝を入れた。
面目丸潰れで同盟破棄も同然なんだから信長が東美濃の領地を編入するのは当たり前。ちなみに上杉謙信が10月18日付で出してる書状で勝長が岩村入城に関することを書いているため、10月5日から18日の間に行なわれた可能性が高い。
だから先に手を出したのは武田信玄。無作法も武田信玄。遠山編入はやり返されたに過ぎない。
そういえば、浅井親子は下野守と備前守(自称)だったな。
朝倉義景は左衛門督で本物の官位(右京大夫の異説有り。しかしこの官職は代々…)。
織田信長の弾正小忠も本物の官位。
そのせいで信長が義昭連れて上洛した後、実質近江半国支配しているというのに
京極家臣扱いされるという……
浅井が離反した時には、信長は「浅井は近年特別に家臣にしてやったのに、
何が不満で離反したのだろう?」とか書いてますね。
色々と問題がありそうに思える話ではありますよねえ。
織田の主力引っ張り出してそれを叩くとか中濃荒らして織田の本拠に迫るとか
そうすりゃ将軍達へも義理は果たした事になるしね
それよりは中世の山城しかない美濃の方が容易
はい。そうします。
ご忠告、ありがとうございます。
信長を貶める表現で、返レスをおねだりする乞食技
完全に菅沼と同じ道を辿ってるわ
信長を貶める表現、も何も普通に志賀の陣で信長が
「畿内の寺社や公家の政道は貴方達(朝倉・浅井)のお沙汰に従う事にします!」
とかまで言って和睦してもらいながら、
その後で速攻でそれを破っているのは単なる史実ですしねえ。
志賀陣の和睦を信長さまの誠実なる和睦、というのは無理があるように思えますしねえ。
書状を独自解釈して恥を晒しながら、正しい読み方をおねだりする乞食技
(教えても、ありがとうございましたとは絶対言わない)
はいはい。いつ貴方が私に対して、書状についてお教えのような事をなさられた、
と申されるのでございましょうかねえ、と思うのですけれどねえ。
その件について、具体的にご提示の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
貴方は当時の意味合いで「筋道の外れた」的な意味である「失途轍」を
信玄が目標を見失っている!とか言い出したり、
勝頼が信玄生存を装って「(勝頼への家督継承への)祝儀の太刀を送ってくれてありがとう。
東美濃・三河・遠江の城等は静謐です。」的に書いた書状を、
「勝頼が武田勢の準備は整っている!的に書いている!」とかおっしゃられておられた、という感じでしたのに、
何をもって貴方がそのようにおっしゃられるのか、とこちらは非常に不可思議に思われたりする次第なのでございますので、
聞かれている事にはおはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしたい次第でございますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
といいますか、貴方は「もう相手にしない!」のではなかったのですかねえ?
ご自身でそのようにお喚きになられまして、ご自身でそれに賛同なさられたのですから、
ご自身で必死になって、それと異なるように思われますご所業をなさられますのは、如何なものなのかと思う次第なのではございますけれどねえ。
一般的には、防衛戦でない外征は収穫の終わった10月から耕作の始まる3月までに帰還出来る時期まで。
1572年時点で、信玄の健康に問題無くとも、史実で順調だった三方ヶ原までは12月はほとんど変わらず。
健康に自信があれば、まず家康を討つか、降して、信長とは仕切り直しが自然なスケジュールになる。健康に自信があれば自力本願当たり前。徳川を片付けるまで信長が邪魔しなければ信玄としては無問題。朝倉・浅井頑張れww
朝倉は本来外征出来ない時期に、国防上の緩衝地帯である浅井家存続の為、度々出兵しているから、限界近かった。
翌1574年の足利義昭降伏、朝倉・浅井の滅亡は史実通り。徳川の大半が武田方、水野ら西三河衆は織田方になり、仕切り直し。
一向宗の奮戦で越前は本願寺方に、近江衆と旧幕臣は史実通り織田方。今更、反織田につけない立場だからね。伊勢長島も状況同じ。しかし、浅井が居ない分は楽になるかな。
つまり畿内の状況は、信玄が生きていてもあまり変わらない。織田は最善手を打つし、武田も新領地の手当てに時間は必要。
結局だけど1574年、東三河衆までを動員した武田は濃尾平野に。しかし、その戦いは川中島と同様、痛み分けで武田の残り時間が減っていく。信長側に命がけで決戦を望む理由が全く無い。ついでに、本能寺の変も先送りw
史実では健康に自信が無かった信玄は、家康を後背に残してでも、信長と決戦を試み、果たせなかった。
信玄としては信長を討つか、信望が地に落ちるくらいの大勝を狙っていたんじゃないか?(大友宗麟の耳川の戦いみたいな)
1573年時点、信長の主力が温存されている限り、家康は粘るだろうし。
>一般的には、防衛戦でない外征は収穫の終わった10月から耕作の始まる3月までに帰還出来る時期まで。
まずこれが異なるように思われるわけですしねえ。
信玄の遠征は基本的には西上策戦のとは異なる時期に実行されたものの方が多いわけですしねえ。
そもそも、農民兵がどうたら、というの自体が、歴史学的には否定されて久しい感じですし、
そもそも信玄自身が書状で「百姓とかを連れて参戦しようとするな!」と述べているわけですしねえ。
そして、信玄が徳川領土とかを攻撃していれば、信長は朝倉浅井に向かう、的な主張を
なさられたいようではありますが、史実では、信玄がまだ美濃に向かう前から、
信長は美濃で武田勢の西上を警戒しまくってとどまっている事が、書状などから明らかなように思われるわけでして、
武田としても、美濃侵攻を5月から朝倉・長島と共に実行できれば、織田主力を打ち倒せる、あるいは大きく勢力を減少させる事ができる、
という可能性が高いわけですし、普通に寿命に自信があれば、そのまま美濃に行くのではないかと思われるのですけれどねえ。
武田と東美濃の遠山勢との戦いである上村合戦には三河から徳川側の軍勢も参加した、とされておりますし、
信玄死亡後に勝頼が東美濃に侵攻して18城を攻略した時に、その攻略した城の中に三河に属する城も入っている事から、
普通に美濃→三河、あるいは三河→美濃、のルートは、特にそれ程不可思議なルートでもなく、普通に使われていたようではあると思われますかねえ。
>>744
逆に言えば、信長には項羽ほどのチートレベルの強さがあるわけではなく、普通に敗北数が多い、ともいえるわけですしねえ。
戦略はあるが項羽ほどのチートレベルの強さがあるわけでもない信長と、戦略はそれほど、ではありますが、チートレベルの強さを持つ項羽、を同じ、というのは中々難しいような気もしますけれどねえ。
まあ状況を例えて言ったまでです。個人の資質なら項羽に該当する人は信長よりもむしろ北の軍神様がぴったりです。
なるほど、ですかねえ。
戦ではチートレベルの強さ。戦術の無敵レベルと戦略性の無さからくる無駄な戦、勝ち戦を戦略上生かせないところが似てますよ。謙信と項羽は。
武田信玄には戦略眼がないから無理だと思われます。後年に秀吉が武田信玄、上杉謙信の争いを「愚かなこと」と評してますし。
信玄も晩年は後悔したでしょうね。川中島で謙信と10年間の消耗戦争をしたことを。恐らく信長が上洛したのを知って謙信との戦を猛烈に後悔して、焦りが生じたんじゃ無いかと思います。信長上洛あたりから信玄の外交が支離滅裂になってきてますし。
天下をとった後の秀吉は、「世間で凄いとされているものをこきおろして、
自身の方が凄い、という風に述べる。」という逸話を複数残しており、
(源頼朝の像の前で、「裸一貫から天下をとったのは歴史上、俺とお前の二人しかいないが、
お前は源氏の棟梁の嫡流で、それに従う者達が多数いたが、俺は文字通りの氏素性なき者だった。
俺の方が凄いな。」と述べたり、奈良の大仏に対して「あんなもの、俺が作ればもっと大きなものが出来る。」
と述べたり、と。)信玄と謙信の川中島に対する批評も、家臣達の信玄・謙信の戦いぶりを称える言葉に答えたものだったはずで、
この逸話は逆説的に、信玄・謙信の川中島の戦いに関する、世間一般の評価が高かった事を示している逸話、であると思われるわけですかねえ。
それだって謙信が関東出兵したら結局は北条と上杉の争いに巻き込まれるだろうし。
義信なら武田はあるいはまとまれたのかな?
自分で読み返してみてほしい
恥ずかしくならないかな?
ねえ、の相手はやめましょう。
返答するのはねえに餌を与えているようなものです。
さらに言えば遠州忩劇の時に今川から離反した国人と秘密裏に連絡を取っててこの時点で今川領を狙っていた節も指摘されてる
氏真に非があると判断したなら氏康が敵対してないだろうし、そうならなかったのは信玄に非ありと氏康が判断したからだろうよ
ねえ、の相手はやめましょう。
いくら言っても自論を曲げないし他人の意見は聞かない。返答するのはねえに餌を与えているようなものです。
それは、そもそもの問題として、武田が上杉と西上野で戦争中で、
この上、西側で織田まで敵にまわすわけにはいかなかったからでして、
今川が昔のように強勢であるならば、織田と武田が仮に戦争になっても、
今川が援護してくれる、という事で、織田からの同盟要請を拒否する事も
できたのではないかと思われますが、当時の今川は内乱中であるばかりか、
独立した三河の家康にも勝てない状況でしたから、到底織田と武田が戦う時の
援護とかをしてくれそうにないので、自国の安全保障の観点からすれば、
武田の動きもむべなるかな、と思われるのですけれどねえ。
元々、武田も今川に配慮して、織田との接触は遠山領を緩衝地帯として、
不干渉でやっていきたかったようですが、その遠山領土において、
武田と織田の戦闘がおこってしまい、それでは武田が織田を撃退しましたが、
武田も織田も双方でそのまま争うわけにはいかない、という事情が存在したわけですしねえ。
その時期の信玄の書状とかって、普通に考慮すれば、関東遠征を一時中断してでも、
駿河の過半が制圧されたりしたら今川救援に赴く、的な書状とかですし、
義信事件の前とかにも、義信夫人の病気の為に、大々的な祈祷を行わせ、
今川に対して、武田が今川との同盟関係を大事にしようとしている事を
アピールしようとしていた事が指摘されておりますかねえ。
鴨川氏とかは「信玄が駿河を早期から狙っていた、的な証明は誰にもされていない。」的に述べられ、
信玄の駿河侵攻は書状などを素直に考慮すれば、普通に受動的なものだった、的に述べておられますかねえ。
今川との同盟関係をアピールしてたのは駿河に攻め入るギリギリまで戦備を整えたかったからでしょ
義信事件の後も普通に同盟継続を求めておりますし、
そもそも貴方のいってる時期は普通に上杉との西上野攻防戦の最中で、
まだそれが終結してもいない時期ですのに、
何をおっしゃっておられるのかと思われるのですけれどねえ。
そういう信玄が最初から駿河を狙っていた、的な論について
鴨川氏とかは「漠然とした思い込みであるにすぎない」と
述べられたりしておりますかねえ。
>>778
実際に徳川幕府が江戸時代に編纂した四戦紀聞、という資料には
三方ヶ原で死亡した徳川側の戦死武将名が50名近く羅列されておりますかねえ。
謙信との戦いの最中に駿河侵攻の準備を整えておき好機と見たら宣戦を布告し侵略する、ただそれだけのことじゃないですか
駿河侵攻から1週間もしないうちに今川の家臣たちが次々に寝返っていることからしても内通工作は以前から行なっていたのは明白だし
その戦いがいつ終わるかもわからない状況で、ですかあ?
さすがに無理があると思うのですけれどねえ。
そもそもの問題として、西上野攻略戦争が武田の勝利で終わった後も
普通に武田は今川との同盟継続を求めているわけですしねえ。
それでも今川が上杉と組んで武田を包囲する動きを示した事から、
武田も織田徳川と組んで今川侵攻の計画を進め、
今川側の武将達を調略していく事になるわけですしねえ。
といいますか、貴方自身が菅沼なんたら認定の為に立ててきた、膨大なスレが、
今ではオープンで数多く削除されている、という感じで
貴方自身が明確に運営から荒らし扱いされているご様子なのですが、
その件につきましても、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>789
はいはい。いつも通りに都合悪い事を必死にスルーして、
喚いておられるご様子ではあらせられますが、>>786にもありますように
そもそもの問題として、西上野攻略戦争が武田の勝利で終わった後も
普通に武田は今川との同盟継続を求めているわけですしねえ。
それでも今川が上杉と組んで武田を包囲する動きを示した事から、
武田も織田徳川と組んで今川侵攻の計画を進め、
今川側の武将達を調略していく事になるわけですしねえ。
ねえ、は相手にするだけ無駄。
自論を押し付けるだけ。
武田が遠藤に工作していて、なぜ今川家臣にしないのか? 23人も戦わずに裏切るなんて事前工作をかなり前にやってないと不可能なのに。
「信玄謙信を褒め称えた!流石信玄凄い!信玄最強!」と考えるような菅沼ガイジに
何言っても無駄だっていうのはその通りだな
(ちなみに「はかのいかぬ」の「はか」は捗る、計るの意)
痴呆老人は他人が止めても同じことを繰り返し、
自分が今何をやっているのかもわからないらしいが
今の菅沼はまさにそれだ
武田信玄が大好き 信長秀吉は死ぬまで叩き続ける
戦国板、歴ゲー板で荒らし活動し続けた結果、2013年●騒動で本名暴露
気に入らなくなったらコピペ連投でスレ落とし
知識はWikipedia程度もない
ソースは基本的に絶対出さない。曲解捏造の雨霰
「ねえ」の人
語尾に「ねえ」をほぼ必ずつける
武田厨。武田信玄は戦国最強と信奉している。
織田信長を褒めることは全くない、信長ageの書き込みは全て織田厨認定
織田厨の誰かを異様に敵視している
「菅沼」と言われただけで異様にレスを返す。しかも毎回同じ内容
返答に困るとコピペでゴリ押し。相手が黙るまでゴリ押し
「ねえ」の人 < 僕は菅沼遼太じゃない!絶対違う!あんなのは織田厨の捏造だい!
ふーんw
おーぷん民 < 菅沼遼太!菅沼遼太!(キャッキャッ)
「ねえ」の人 < 菅沼遼太は織田厨の捏造!織田厨の捏造!
おーぷん民 < どうでもいいや!菅沼遼太!菅沼遼太!(キャッキャッ)
「ねえ」の人 < 菅沼遼太って言うな!菅沼関連の話題は発言者が制裁を受けるぞ!
おーぷん民 < うるせーバーカ!菅沼遼太!菅沼遼太!(キャッキャッ)
「ねえ」の人 < 菅沼遼太って言った奴通報するわ!逮捕!警察!個人情報保護法!
おーぷん民 < 通報されちゃった!菅沼遼太!菅沼遼太!(キャッキャッ)
「ねえ」の人 < お望み通り通報してやった!おまえら個人情報保護法違反で逮捕!警察官がおまえの家に来るぞ!
おーぷん民 < 誰か逮捕された?菅沼遼太!菅沼遼太!(キャッキャッ)
「ねえ」の人 < やめろ!やめろ!やめてくれええええ!菅沼!捏造!発言禁止!
悲しくなる・・・・
なぜか菅沼遼太を連呼する人間を片っ端から通報したり
逮捕だ警察だと散々言いまくってる珍妙な状況がまとめられてるだけなのになあw
「ねえ」の人は「菅沼遼太」と言われるとやたらお怒り心頭になられるようだw
なんでやろなあ・・・・
信玄死後の勝頼が織田・徳川に悪戦苦闘して滅亡する原因を作ったのは甲尾同盟を破った信玄自身ですから。
では何処に侵攻すべきだったと?
別に悪手ってわけでもないでしょ寿命考えなきゃ
お前ら3連休ずっと続けてたらマヌケだぞ
べーつにこちらはおねだりとかをするつもりも必要性もないのですけれどねえ。
越後は東北と同じく換金作物を売って米を買う経済だし
それよりは三河と遠江の方が旨味がある
今川氏真との戦いでも信玄は盟約破って戦争
北条には「今川から破った」と散々に書状で書き連ねるが、
困った北条が今川と上杉に確認した結果武田の嘘八百が判明して武田と断行してる
さらにそれ以前には武田の同盟相手だった諏訪を無惨にも盟約を破り捨てて攻め込み
あろうことか敵の当主の娘(当時10代前半)を乱取りして自分の側室にしてるのだから始末に負えない
自分の父親を追放して自分の息子を廃嫡幽閉するような血も涙もない
鬼畜生の家が滅ぶなんて誰が見ても喜ばしいこと。
ましてやこんな鬼畜生を棚に上げて他所の大名が悪いなどというのは
北の将軍様にでも頭ヤラれたんだろ菅沼遼太は
悪とは言わないが、大義名分より戦術的利点を重要視した。
この点では織田信長のダブルスコア勝利。
将軍追放の時さえ、朝廷を介した和約を破棄したのは将軍方。
本願寺も朝廷を介した和約を破棄しながら、最後は朝廷に泣きつく形になった。
いやいやいや、信長の方は普通に当時からも悪評などが多いように思われるのですけれどねえ。
朝倉に対して上洛要請したら
朝倉側では評議で「信長は信を守らぬ男だから、殿を呼び寄せて謀殺するつもりかもしれないし、
信長に従ったって、あちこちの戦争に駆り出されて、国力が衰えさせられて、滅亡させられるだけだろう、と思いますよ。」的に家臣の一人が言ったら、
群臣一同がこれに賛同、って感じになったとされていますし、
斉藤龍興に対して、「義昭様を助けて上洛したいので、こちらと和睦して
美濃を通過させてください。」と信長が申し入れ、斉藤側がそれを承諾し、
信長が近江にまかり通ろうとしたら、いきなり「異変」して
美濃で動きを止めて居座りはじめたそうで、斉藤側は書状で
「こちらには案の定の事で、特に新しい事でもなかったですよ。」と述べており、
当時の信長の信用性、というのがどのようなものであったか、が伺えるように思われるのですけれどねえ。
さらには志賀陣の時も、普通に「畿内の公家や寺社の政道に関しましては、
貴方達から沙汰される事に相違などありません!」的にまで言って和睦したのに、
速攻でその和睦を破ったりしてますし、伊勢長島でも和睦詐欺で騙し討ちをしていますしねえ。
他にも北畠一門など、騙し討ちで粛清した相手側とかも多数存在しておりますしねえ。
これで、何をどうやったら、信長ダブルスコアになるのかと思うのですけれどねえ。
普通に、逆方向に信長がダブルスコア、っていう事になるのではないかと思うのですけれど、
如何なものなのでしょうかねえ。
武田信玄は若い頃から死ぬまでよく同盟破棄していますが、外交上の信用はあったのでしょうか?
信玄不慮を打った結果信長が遠山を手に入れたと書いてあるね
金子拓は信長はこのことが同盟を揺るがす行為であるという自覚が無かった、認識が甘いと指摘してるね
なお信玄時代もしばらくすると信虎と何も変わらないじゃないかと嘆いているのが
まさかの高白斎記に書かれているという有様
民主党政権で何か変わると勘違いした連中とやってることは一緒や
それ勝山記じゃなかったっけ?
マ?すまんな許して
中身見ないで何書いてるんだよ、ど素人君
甲斐を統一し、対外進行も佐久を手に入れてこれからって矢先にクーデターだからな
その統一と対外侵攻でかなり国衆の負担がでかかった。しかも運が悪いことに、1537年頃に甲斐をひどい飢饉が襲った。つまり国衆も人民も軍事と負担と税で限界が来ていた可能性がある。
しかも信虎は1519年の甲府移転以来、家臣団と人質の甲府集住化を命令して中央集権を進めていて、反発もかなりあった可能性がある。
ただ、事績を見る限りは、信虎は軍事はかなり有能で、甲斐一国で北条や今川と渡り合い、本拠を移して戦国大名武田の基礎を築き上げたのは間違いなく信虎。
たぶん信虎は行政手腕に欠けていたんだと思う。
甲州軍鑑では、家臣や人民を殺したり、妊婦の腹を切り裂いたりした暴君と記録されている。
中央集権がどうとかおっしゃられておりますが、
普通に同時代資料の妙法寺記には信虎が満座の中で重臣を打った事や、
重臣の一門を粛清し、それによって奉行衆が悉く国外に退去してしまった、
的にも書かれており、普通に信虎の中央集権、なるものは
政権運営の要である奉行衆にも退去されてしまっているようなのが
実状なように思われるわけですし、
普通に国外に遠征しても、領土をそれ程に得られなかった事や、
それによる負担、さらには飢饉、それらによる甲斐民衆の不満、
上記のような重臣達への暴挙に対する家臣達の不満、
などが原因のように思えるのですけれどねえ。
ですよねえ。実際には武田家の中央集権、とやらは信玄時代の方が
信虎時代よりも遥かに進展している、という事が資料的には明らかなように思われますのに、
なんで信虎が中央集権がどうとか、そういう話になっているのかと、
非常に不可思議な気持ちになってしまったりするのですけれどねえ。
同時代資料の妙法寺記で>>845みたいな信虎の所業とかが書いてありますのにねえ。
資料はないけど武田家への権限委譲が原因だと思う
戦国大名は自身の権限を強めるために同盟関係のはずだった国人達から様々な
権限を委譲させてたから。多分それを性急にやり過ぎたのが原因かと
そこにたまたま100年に一度の天災起きた
中央集権進めたことで武田家自体が強くなって国外進出出来るようになった矢先だったのに
具体的に何したかよく分からんのに
信虎の奇行は当てにならないけど有力な国人を多く潰したのは事実
中央集権化のためには必要不可欠だし、この時代は別に珍しい話じゃないよ。
それに危機感を抱いた重臣たちが信玄を担いでクーデターを起こしたのかと
それで、自身の政権運営の要である、奉行衆にすら、
他国に退去されている、というのが実態なのですけれどねえ。
これで中央集権、というのもどうなのかと思う次第なのでございますけれどねえ。
家臣団を甲府に集住化させただけでも中央集権のひとつだろ。だいたい本拠を石和から甲府に移せれただけでも中央集権のひとつ。
武田氏は歴史の長い家。そんな家で居城を移しただけでもよくやったわ。
で、結局、後の信玄時代と信虎時代では組織構成も別物になっており、
信玄時代の方が各種資料から、中央集権化が進んでおりますのに、
信虎は中央集権!信玄は分権的!とかいう主張とかはどうかと思うのですけれどねえ、と思う次第なのではございますけれどねえ。
中央集権が進んだ割には、居城を一度も変更してないな不便な甲斐に最後まで。
外交にしても、信玄はかなり分権的で取次をたくさん作ってる始末。勝頼の時代に跡部と信豊にまとめてこれが穴山の怒りを買うんだが。
組織構成が別って何のこと言ってる? 具体的に出せよ。信虎と信玄だと勢力拡大の差異があるから違うのは当たり前だけど。
いや、信虎自身が最後まで甲斐でしょ、それを言ったら。
いやいや、それを言いましたら、普通に信長も取次ぎをたくさん作っているのですが、
これだと信長も分権的、という事に貴方の中ではなるのですかねえ。
まあ、信長はかなり分権的なように思われますけれどねえ。
それから、穴山に関しては、信豊との武田家中における権力争いに敗北した結果、
織田徳川に接近する事になった、とされておりますかねえ。
信虎時代には有力豪族が多数政権の要職を占めており、
両職も板垣・甘利が務め、これは信玄初期にも継承されていきますかねえ。
しかし、信玄時代晩年には板垣や甘利をはじめとする信虎時代からの有力豪族達よりも
信玄が取り立てた山県・馬場・香坂・土屋・内藤、などが重臣として活躍するようになっておりますしねえ。
ほかにもいろいろありますけれど、普通に信玄時代と信虎時代では、
構成も氏族も異なる感じになっていると思われるのですけれどねえ。
構成違うのは当たり前だろ。武田信玄が板垣の息子をぶっ殺し、飯富は謀反の罪着せて自害させ、飯富の弟は山県に変えさせて断絶に追い込んだんだから。
ただ甘利は父親ほどでないにしろ残ってるし、馬場は信虎からの武田家臣、内藤も父親が信虎家臣で兄貴が工藤のままだし、春日高坂と土屋以外は信虎からの係累とも言えるんだがな。
ですからあ、結局違いまくってるではないですかねえ。
馬場は元々、信虎時代には重臣ではなかった家柄ですし、
そもそも苗字も異なりますし、内藤もそもそも信虎が追放した家柄の人間ですし、
これでどうやったら信虎の係累とか言えると思うのですかねえ。
そもそも、軍鑑では普通に81歳になった信虎が内藤に対して、
お前の親族をこの刀で斬り倒してやったのだ!的に述べてたりしますしねえ。
これで信虎の係累とか、普通に無理がありすぎると思うのですけれどねえ。
立地としては甲斐は信玄の領国ではそれなりに恵まれてるぞ
南信濃→石高低い
西上野→対徳川を考えると有り得ない。駿河の支配が困難になるうえ北条、上杉との前線
駿河→甲斐より石高が低く北信濃、西上野から遠ざかる
そもそも信玄没後の勝頼が甲斐から本拠地を移していない
何処に本拠地を移せばいいんだよ?
韮崎、つまり新府。
信玄はずっと甲斐の中で甲府から移動しなかったと言いたいのですが。ついでに言うなら築城すらしなかった。中世の館だけですね。
加減を間違えたんだろ。中央集権は信玄もやってるし
重臣たちから権限を取り上げるのは何処の大名もやってる
力持った国人潰して回って
家臣の集住に人質取って
甲斐全土に税を課せれるようにして
それに大名独自の軍事力として大名直属の部隊を作った
>>867
クーデターの年にたまたま天災が起きなければ
あるいは少人数で駿河にいかなければ、クーデターは起こせなかったろうな
そもそも今川諏訪と同盟しなければ甲斐は国外からの侵攻に備えなければならないから
危機感は外に向かって団結出来たままだったかも
とにかく思考が短絡的なのが特徴。
何を思って帰って来たのか知らんが、とんだ大迷惑だ。
放置しても驚異的粘着力で荒らすから無意味だけど、
見てわかるように、相手が何を言っても自分の意見を垂れ流すだけなので、相手しても無駄。
誰からも嫌われてるし、誰からも信用されてないが、
本人はその事が理解出来ない
情けない哀れな奴である。自業自得だが。
そんでこうやって叩かれてるうちはレスしないでROMってんだよ、ほとぼりが冷めたらまた書き込んでくるよ壊れたラジオみたいに同じ事を(笑)卑怯なやつだよねえ
明日には来るよ(笑)
とかいうのもいた
それもう史料自体価値ねえだろって
ご自身で行動とレスによってお認めになられておられる、必死な織田厨さんが、
必死になって一日中、菅沼なんたら認定に狂奔なさられようとなさられながら、
必死に複数端末による、複数ID自演を行われながら、必死な連投を繰り広げておられるご様子ではありますが、
ご主張になられたい事がおありなら、それについて、具体的に資料や論旨などをもって語られた方が有意義であると思うのですけれどねえ。
ご自身で行動とレスによってお認めになられておられる、必死に菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられます、
必死な織田厨さんに対しての、返レスの方をさせていただきたいと思いますかねえ。
>>852
はてさて、論旨的なご説明もなく、そのように喚かれましても、こちらとしては困惑の至りでございますし、
貴方はどのような論拠によってどのような論旨をご主張なさられる、どのような論旨的立場の方で、
こちらにどのような事柄についての説明を求められておられるのか、について、を具体的にお答えの方をいただきたいと思いますので、
ご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>853
いやいやいや、私が出している書状や資料などなどの事柄は、wikiには載ってない事の方が多いように思われるのですけれどねえ。
そのような事をおっしゃられるなら、貴方が資料や書状などを基にして、具体的にお答えの方をいただければ、
と思うのですが、ご回答の方をなにとぞよろしくお願いいたしますかねえ。
>>855
毎日毎日、とおっしゃいますが、ここ数日で考慮しましても、
私のレス数は30レスもいってない事の方が多数であるように思われるのですが、
貴方は何をおっしゃられておられますのか、についてご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>857 >>858
私は、そのような事はまったくしていないのですけれどねえ。
相変わらず、菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられるご様子ではございますが、
貴方は>>628や>>795にあるような、
菅沼なんたらの膨大なる設定矛盾やら、
を聞かれても一度も整合性をつけてのご説明をなさられる事がお出来にならずに、
聞かれるたびに発狂逃亡を繰り返しておりますし、
そもそも菅沼なんたら自体を、それを作った人ご当人がおーぷんの方の
「信長が本能寺で死ななかったらスレ」とかで複数人同一認定して作った架空人物レッテルだ、と
お認めになられている状況ですのに、どうやったら私をその菅沼なんたら認定できると思われているのですかねえ?
これらについて、ご回答の方をおはやめによろしくお願いしたいと思いますので、
おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
出たよ病気野郎(笑)
毎日毎日よほど暇なんでしょうねえ
誰も求めてない上に既存の情報のみをダラダラつまらない文に変換する無駄な作業意味ありますかねえ
武田信玄の息子達のうち、嫡男義信、次男信親、三男信之は清華七家の出の三条夫人、
五男盛信、六男信貞は武田一門の油川夫人。娘を含めても
三条夫人:武田義信、武田信親、武田信之、黄梅院(北条氏政正室)、見性院(穴山梅雪正室)
油川夫人:武田盛信、武田信貞、真理姫(木曽義昌正室)、菊姫(上杉景勝正室)、松姫(織田信忠許婚?)
と、信玄の家族の中心を担っているのはこの2人。一方の勝頼の母親は
滅ぼした諏訪家の当主の娘で、勝頼以外に信玄の子供もいない。(禰津御寮人を同一人物カウントしても、信清だけ)
家柄も武田に近いわけでもなく、しかも諏訪御料人は側室腹だから、武田の血も引いていない(頼重の正室は武田家一門)
母親の立場で言うなら下手すりゃ勝頼が一番低いんじゃないのかこれ
低いよかなり。
三条氏は言うまでもなく京都の上級公家だし、油川氏は武田親族衆だし。
しかも勝頼は諏訪本家ではなく、高遠諏訪氏。つまり諏訪の庶流高遠頼継の家系を継がざれていたらしいから、かなり勝頼の待遇は低い。
ご自身で行動とレスによってお認めになられておられる、必死に菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられます、
必死な織田厨さんに対しての、返レスの方をさせていただきたいと思いますかねえ。
>>859
いやいやいや、ただ単に外出していただけの話でございますしねえ。
おーぷん2chの方で、貴方自身がお認めになられている、複数端末による複数ID自演による、
多数派装い煽り罵倒レス、を一日中続ける、というのを貴方はご趣味となさられているご様子ではありますが、
こちらとしては、それに一日中お付き合いを続ける事は、中々に困難と申しますか、
その件について、ご了承の方をよろしくお願いしたい次第なのでございますけれどねえ。
>>860
いやいやいや、普通にそのまんま、的な訳をしているのですけれどねえ。
そのような事をご主張なさられますならば、どこがどうそう思われるのか、について、
資料を基にしつつ、ご説明の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
>>861
まーた菅沼なんたら認定に狂奔なさられておられるのかとは思いますが、私はそのような事を特にした事はないように思われる次第なのでございますけれどねえ。
とりあえず、こちらを菅沼なんたら認定なさられるのであれば、貴方は>>628や>>795にあるような菅沼なんたら認定の設定矛盾について、
整合性をつけたご回答の方をよろしくお願いいたしたいと思いますので、おはやめにご回答の方をよろしくお願いいたしますかねえ。
不慮を打つ、を不意打ち、なんて訳す奴に何言ったも無駄だろうが。黙ってろタコ。
ここで書くようなことではないし書くべきではないかもしれないが