虐殺者毛沢東が建国の英雄である限り、中国に未来はない…文化大革命から50年①~③
① 文革は毛沢東の妄執から始まった
1965年、当時の中国は、大躍進政策の失敗による混乱の中にあった。大躍進政策は数千万人の餓死者を出し、毛沢東は自己批判を余儀なくされ、第一線からは引いていたが、そのカリスマ性は依然として強かった。その年の11月、姚文元は上海の新聞『文匯報』に、京劇の『海瑞罷官』が、大躍進政策を批判して失脚した彭徳懐を暗に弁護し、毛沢東を非難したものであると批判し、文化大革命の口火をきった。…
② 彭徳懐、劉少奇らは、長期の拷問で恥辱を与えられ殺された
紅衛兵は、「造反有理」「革命無罪」を叫び、毛沢東を背景として官僚や党幹部への攻撃を正当化した。この「造反有理」は、毛沢東の「マルクス主義の道理は、造反有理の一言に尽きる」と言ったことに由来する。同時期の日本での大学紛争期において、全共闘や社会主義学生同盟(社学同)や共産主義者同盟(共産同)内のML派のスローガンとして使用されたことで知られ、東京大学の正門には毛沢東の肖像画とともにこの標語が掲げられ、日本の新左翼が自らの暴動やテロ活動を正当化するスローガンとして使われていた。…
③ 悪魔に魂を売った紅衛兵の狂気
紅衛兵の狂気の矛先は権力者のみならず、市井の住民や家族にも及んでいった。ある学校では校長や教員がその標的にされた。校長は、いちばん高い三角帽子がかぶせられ、いちばん重い札がかけられた。頭は虎刈りにされ、顔には墨を塗りつけられた。紅衛兵は入れ替わり立ち代わり延々と校長批判を続け、その批判演説で狂気を昂ぶらせていった。…
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