日本の古代史がモロ見えの東京国立博物館の平成館!日本は伽耶、百済、新羅らによる中国の冊封国だった!ただ肝心の高句麗(北朝鮮や旧満州)が出てこないのは何故?日本での高句麗(北朝鮮)復興を隠蔽?
東京国立博物館の平成館 展示内容
http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=hall&hid=10
東京国立博物館 – トーハク
http://www.tnm.jp/
冊封
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81
冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。
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冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。
冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。
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高句麗論争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E8%AB%96%E4%BA%89
高句麗論争(こうくりろんそう)は、かつて朝鮮半島北部から満州南部を支配した高句麗が「朝鮮史」なのか「中国史」なのかという帰属をめぐる論争。
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忌部氏の出自
http://saigonronin.blog.fc2.com/blog-entry-264.html
四国阿波の地は日本神話の舞台であり、忌部氏一族がその中心的役割を担い?一部は房総半島にも移住し、関東に養蚕を広めた・・・というような動画を紹介しましたが、アノ動画の中でワタシ、重要な事実を知ったワケです。それは
忌部氏は扶余(夫余)族
だということです。
忌部氏が夫余族の出自であることはほぼ間違いないように思われるのですが、夫余族といっても「高句麗」を建国したグループと、さらにそこから分かれて「百済」を建国したグループがあり、忌部氏の生活風習である「高地性集落」が高句麗に見られるものであることから、忌部氏は高句麗系の渡来人であることが推察されます。
さらには北関東・・・群馬とも縁があり、「あらたえ」を織るために植える「大麻」の種は群馬から送られてくる種を使用するしきたりからしても、阿波と群馬の間にはただならぬ関係が伺え、そのココロは、北関東も高句麗系=夫余系渡来民族の勢力圏下にあり、阿波の忌部氏とは「同族」であった・・・と見るのが、妥当なのではないか?と。
そこで例の「関東騎馬王朝」にも繋がるワケです。
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白ひげさんの伝説 高麗若光
http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-25/index.html
「しらひげ」神社は全国に散らばっていますが、これは、新羅からの渡来人が住み着いた場所で食の神を祀った場所だったのではないかと考えるのです。
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高麗若光(こまのじゃっこう)
どうして1799人もの人々を、それも、7カ国に分散し、既に安住を始めた中で集められたのでしょうか。そこには、「高句麗」の復興という目的が隠されていたのではないかと思えてならないのです。そうでなければ、668年に滅んだ時から、50年も経っているのに再び新たな開拓地に出向こうとは思わなかったと考えるからです。
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高来神社と、高麗神社が同じ経度にあるのも偶然ではないと思われます。高来神社の渡辺宮司さんは、高句麗の直線文化の現れであると言っておられました。
一歩進んで、私は、四神の考えを当てはめているのではないかとも推測します。玄武若光の名前からもわかるように、若光は玄武、すなわち、北の守り神でなければならなかったのではないかと思うのです。青龍の地が上総、大磯に朱雀、甲斐に白虎であったのではないかとも考えます。
高麗郡の設置は、大変な成功であったのだと思われます。その後、埼玉県には、幡羅郡(はらぐん)と新羅郡が設置されます。渡来人の文化や知識を活用し、再生しようとする活力を利用するという良い政策であったのかもしれません。
実は、この高麗郡の場所というのは、非常に微妙な要素を含んでいるところでもあります。ひとつは、幡羅郡(はらぐん)や新羅郡とともに、武蔵国で力を持っていた笠原一族を囲い込むことのできる場所であるのです。もうひとつは、秩父から群馬にかけて、当時大きな力を持っていた羊一族の牽制です。
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