5分で分かる鉅鹿の戦い
鉅鹿の戦い |
楚 | VS | 秦 | ||
項羽 | 章邯 王離 |
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70000 | 500000 |
背景 紀元前210年の中国の秦の始皇帝の死後、その圧政により紀元前209年の陳勝・呉広の乱を皮切りに、各地で反乱が起きた。それに対し、秦は章邯(しょうかん)という官吏が将として反乱軍を討伐の任にあたった。文官出身であるはずなのに、章邯の働きは目覚しく、陳勝を倒し、かつて秦に滅ぼされたがこの乱により復活した趙(国名)王を部下の王離に鉅鹿城(きょろく)にて包囲させた。 それに対し、反乱軍の諸侯たちは援軍を送ったものの、いずれも小勢で、安全な位置から傍観しているにすぎなかった。彼らと同様に楚(趙と同様の国)王もまた援軍を出した。 経過 楚軍の上将軍(司令官)の宋義は彭城(楚王の居城、鉅鹿の東南)を出発後、急遽46日も進軍を止めさせ、毎日のように宴会を開いた。副将の項羽は宋義のこの行為が自身が権力を握るための策略と知ると、次の日の早朝に宋義の首を刎ね、楚王に事を知らせ、自身は上将軍となった。 その後 項羽は諸侯の軍を加え、九回にわたり秦軍を破り、ついに章邯は降伏した。しかし、項羽は捕虜になった秦軍の間に不穏な動きがあると言う容疑で章邯、司馬欣(しばきん)、董翳(とうえい)の三人の降将を残して鯨布に20万人の捕虜を皆殺しにした。そのおかげで項羽と戦う者は皆最後の一兵まで死力を尽くして戦った。 |