5分でわかるヘースティングズの戦い
ヘースティングズの戦い |
イングランド王国 | VS | ノルマンディー公国 | ||
ハロルド2世 | ギョーム2世 | |||
歩兵6000 | 歩兵4000 騎兵2000 |
背景 1066年、イングランド王エドワード懺悔王が死去した。王は死に際し、王妃の兄ハロルドを後継者に指名し、彼はハロルド2世として即位したた。しかし、王の存命中に王位継承権を与えられたと主張するノルマンディー公ギョーム2世はそれに納得しておらず、ハロルドから王位を奪わんと戦争の準備を始めた。 王位を狙うのは彼だけではなかった。ハロルドの弟トスティはノルウェー王ハーラル3世の協力を得て、兄から王位を奪わんとしていた。 これを憂慮したハロルドは1066年7月初頭に地方民兵を2ヶ月の契約で招集して、対ギョーム策としてドーヴァー方面に配置したが、その間は何も起きなかった。地方民兵たちの契約期間が終え、解散した直後に、トスティ・ハーラル連合軍が東北部に、上陸した。それに対してハロルドは近衛部隊と残余の民兵を率いて迎撃に向かい、9月25日のスタンフォードブリッジの戦いでそれを破った。ハーラルとトスティは戦死し、大将を失ったノルウェー軍は早々に引き上げた。 ハロルドの受難はこれでは済まなかった。その3日後の9月28日にギョーム率いるノルマン軍がイングランド南部に攻め込んできたのである。新たな敵の来襲を知ったハロルドは急ぎ南下し、10月6日にロンドン入りするやいなや5日で軍の再編をし、ノルマン軍を討つべく出陣した。 10月13日の金曜日、ハロルドはセンラックの丘に布陣し、翌日そこに至ったノルマン軍は丘を見上げる形で布陣した。 イングランド軍には騎兵も弓兵もおらず、全てが歩兵で構成されていたのに対し、ノルマン軍は歩兵3000、弓兵1000、騎兵2000から成っていた。 経過 その後 |
ヘースティングスの戦い |
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項 目 |
内 容 |
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日付 |
1066年10月14日 | ||
場所 |
ヘースティングズの北西約7マイル(イギリスの南東部沿岸) | ||
戦いの口実 |
イングランド王位継承戦争 | ||
参加軍 |
イングランド エセックス伯 ハロルド・ゴドウィン |
ノルマンディ公国 ギョーム(征服王ウイリアム1世) |
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軍の編成 |
約7000 (農民兵、約6000) |
約6000 (約3分の1が騎兵) |
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勝敗 |
ハロルドが戦死、ノルマンディ軍の圧勝 | ||
戦死者 |
約?人 | 約?人 | |
戦いの背景 |
この話は、イングランドがデーン人の王クヌートに征服されたところから始まる(1016年)。クヌートはデンマーク王でもあり、後にノルウェーも征服する。この間、アングロ・サクソンの王室関係者は、ノルマンディ公国に亡命する。 エドワードにも子供はできなかった。妻はイングランドの有力貴族の娘であり、ただの政略結婚であった。エドワードは、少年時代に亡命していたノルマンディのウイリアムの方に親近感を抱いたようだ。 1066年1月、エドワードが没した。この時、後継者に妻の弟であるハロルドを指名したとされる。これで、イングランド王ハロルド2世が即位する。 ところがこの間、ノルウェー王ハラール3世が王位継承権を主張して、イングランド北東部に侵攻を開始した。ハロルドはノルマンディー軍の侵攻を予測して南部に軍を集中させていたが、兵役期限のきれた民兵を解散したところだった。残りの兵をかき集めて、急遽北部に転進するのだが... |
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戦いまでの経過 |
ノルウェー軍上陸の報がもたらされると、ハロルドは解散せずに残っていた民兵を集めて、ポニーに乗って北に急行した。9月25日、ヨークシャーのスタンフォード橋で敵を急襲し、激戦の末ハラール3世は戦死し、イングランド軍は勝利した。 ハロルドはロンドンに5日間滞在し、集められるだけの兵を集めた。この間、戦略についての議論がなされ、持久戦にすべきとの意見もあったが、長期間の戦闘により国内が疲弊・分裂する事を恐れたハロルドは、一気に勝負を付けるべくヘースティングに向かった。 ウイリアムは上陸後、ヘースティングに土と材木で堅固な基地を築いていた。イングランド軍はまだ北にいるものと信じていたため、さすがに驚いたがうろたえはしなかった。即座に6000の兵を裂き、センラック丘に向かった。 |
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経過概要 |
センラック丘は長さ550mほどの小さな丘だった。ハロルドはこの頂の中央部に近衛兵とともに陣取り、本陣とした。丘の斜面には、農民兵が盾をならべて堅固な壁を作っていた。両側面は険しい斜面になっており安全だった。 戦端は午前9時頃に開かれた。ノルマン軍はまず弓兵が攻撃を行った。イングランド軍はほとんど弓兵を持っていなかったので、ノルマン軍はほぼ無傷だった。 この後も一進一退の激戦が続いたが、イングランド軍は強固な防衛線を作り、ノルマン軍に突破を許さなかった。夕方、ウイリアムは猛攻の後全軍に退却を命じた。これを見たイングランド民兵は、敵が逃げていくと思い込み、計略を見抜いていたハロルドの制止も聞かずに、次々に追撃に移った。イングランド軍が丘を降りた時、ノルマン軍は一気に反撃に転じた。盾の壁が無ければ、イングランド民兵は装備と訓練で勝るノルマン軍の敵ではなかった。 ノルマン軍騎兵の総攻撃の前に、イングランド軍の盾と斧の壁も崩れ始めた。不運にも大激戦の中で、ハロルドは流れ矢に右目を射抜かれてしまう。 この戦いの10週間後、1066年のクリスマスに、ウイリアムはイングランド王の座に就いた。 |
イングランド農民兵の武器「斧」
11世紀においても、この後数世紀の間も、剣は主要な武器であった。
しかし、うまく使いこなすには力と熟練が必要だった。
イングランド農民兵はほとんどが斧を持っていた。
木製の棒の先には鉄の頭部が突けられていた。斧の刃は一つのものと二つのものが有った。兵士は盾を地面に突き刺し、自由に斧が使えるようにした。
この斧が、歴戦のノルマン軍の猛攻を丸一日食止めたのである。
イングランド軍の前線は550mだった。ここに約5000人の兵を配置したのだから、一人1mを受け持ったとして、10段の壁を構成できた計算になる。
農民兵がウイリアムの計略にかからずに、壁を堅持していたなら、少なくともこの日は持ちこたえられたであろう。
退却したと見せかけて敵をおびき出すという作戦は、頻繁に使われるものであり、通常ならば引っかからないものだと思うが、なぜかこの作戦はたびたび成功している。攻められてばかりいるとストレスが溜まり、ついつい攻撃したくなるものらしい。これを克服するためには、かなりの訓練と経験が必要なようだ。