5分でわかるアブキール湾の戦い
アブキール湾の戦い
フランス共和国(ブリュイ:十七隻)VS大ブリテン=アイルランド連合王国(ネルソン:十四隻)
背景 1789年より始まったフランス革命によりブルボン朝が倒され、第一共和制が始まった。政権は共和制に対しては穏健派のジロンド派が、続いて急進派のジャコバン派が握った。しかしジャコバン派のロベスピエールが独裁者となったため、彼は処刑され、政体は五人の総裁による総裁政府なった。 対外的には革命精神が波及すれば自身の地位が危ないと考えたヨーロッパの君主たちとの戦争となり、その最中ナポレオン・ボナパルト将軍らの活躍により、戦局は連敗の当初よりはましになった。 そこでナポレオンはフランス海軍の劣位により、進攻の難しい仇敵イギリスに対抗するため、イギリスのインドの植民地との交易路を断ちオスマン帝国領エジプトをフランスの植民地にし、あわよくばインドも奪取せんと、エジプト遠征を企画した。そして遠征計画は総裁たちの承認を得て、軍人奴隷マムルークの支配からエジプト市民を解放するという名目の元実行に移された。 1798年五月十九日、三万二千の兵士と一万七千の水夫と水兵、二百の学者(学術調査も兼ねていた)や芸術家と共にナポレオンはトゥーロン港を発った。 六月九日、フランス軍はマルタ島を攻撃し、十二日に占領する。そして、四千の守備隊を残し、十九日に出発。ナポレオンの意図に気付いたイギリス海軍少将ネルソン提督は五月下旬に追跡を開始した。 一方フランス軍は七月一日にエジプトに上陸し、翌日アレクサンドリアを占領、ベドウィンのゲリラ戦法と暑さと乾きに悩まされつつも進軍し、二一日カイロ付近での「ピラミッドの戦い」でマムルーク軍を破り、二三日カイロを占領した。 その間、海軍少将ブリュイ提督麾下のフランス艦隊十七隻はアブキール湾に留まっていた。ナポレオンはブリュイにアブキール湾は危険だからアレクサンドリアに移れと命じたが、ブリュイはアレクサンドリア旧港が浅いこととアブキール湾が防御向きの地形であることを主張し、動かなかった。さらに、数的優位と地形の優位を過信したブリュイらは油断し、士気は落ち、軍記は弛緩し、兵士は演習もせずに遊びほうけていた。 なお、フランス艦隊の陣形はブリュイの座乗の七番艦「オリアン」を中心とした三日月状で、西側は陸で、東から攻めてきても艦の右の大砲で迎撃でき、図の※の付近は逆風により守られていた。また、エル=ベキエ島には五十人の兵士を配置した。 経過 その後 |