5分でわかるマレンゴの戦い
マレンゴの戦い
フランス共和国(ナポレオン:二万八千)VSオーストリア帝国(メラス:三万一千)
背景 1799年のブリュメール18日クーデタで聖職者シェイエスやフーシェらと共に腐りきった総裁政府を 倒したナポレオンは三人の統領を中心とする統領政府を打ち建て、自身はトップの第一総領になった。 しかし、第二次対仏大同盟は未だ健在で、ドイツ方面では十万の兵士と共にナポレオンとは不仲のモ ロー将軍が戦っており、イタリア方面ではマッセナ将軍が四万の兵士と共にオーストリア軍にジェノ ヴァにて包囲されていた。 そこでナポレオンはイタリアに攻め込み、オーストリア軍を駆逐せんと予備軍三万六千を編成した 。その際ナポレオンは敢えてその予備軍を寡兵弱兵と見せかけて敵の油断を誘った。そしてそれは成 功し、諸国は新聞で傷痍兵や少年兵の絵で揶揄するほどになった。さらにナポレオンは兵力を集めよ うと五月五日にモローに二万五千をこの作戦のために派遣するよう命じるも、モローは一万五千しか 派遣しなかった。 このモローの行動に憤りつつも、ナポレオンは予備軍を率いてディジョンからスイスを経由し、五 月二三日にアルプスの難所サン=ベルナール峠を越えた。ちなみに有名な絵画『アルプス越えのナポ レオン』はその時のナポレオンを描いたものだ。もっとも、ナポレオンは馬に乗れなかったのだが。 この「第二次イタリア遠征」におけるナポレオンのプランはアルプスを越えて敵を後方から奇襲し、 退路を断ち、ジェノヴァのマッセナと挟み撃ちにする、というものであった。 しかし頼みのマッセナは食糧不足とチフスに悩み、三ヶ月もの篭城の末六月四日にオーストリア軍 と交渉して、ジェノヴァを放棄した。する。これによりナポレオンの戦略は頓挫した。さらにオース トリア軍の司令官メラス将軍はナポレオンを迎え撃たんと三万一千の兵力をアレッサンドリアに集結 させる。一方のナポレオンは敵は未だミラノにいると思っており、兵力を分散させたままで進軍し、 手元の兵力は二万二千と劣勢だった。 六月一三日にフランス軍のランヌ将軍の前衛部隊がアレッサンドリア近郊のマレンゴ平原に到った 。この時、ナポレオンはメラスが南に逃げると考えていたのでドゥゼ将軍を南に派遣していた。 経過 午後三時すぎ、ドゥゼ隊六千が到着し、中央に合流した。その頃、早くも勝利を確信したメラスは 本国に勝利を報告するために手勢を率いてアレッサンドリアに引き上げていた。一方ドゥゼの援軍に 力を得たフランス軍は反撃を開始する。 戦局を大きく動かしたドゥゼであったが、彼は戦いの最中敵の銃弾に倒れる。ドゥゼは日頃から兵 士達から慕われていたので、その死を知った部下達は悲しみを怒りに変え、勇み立ち、奮戦した。さ らに、フランス軍左翼で戦っていたケレルマン将軍が独断で指揮下の騎兵隊を大きく動かしてオース トリア軍中央を側面(位置的には図のシャンポー隊の正面)より攻撃し、左翼と分断した。この攻撃 によりオーストリア軍は総崩れとなり、敗走を始めた。 両軍の死者はフランス軍六千、オーストリア軍は九千四百、捕虜はフランス軍千、オーストリア軍 六千であった。 この勝利はナポレオンの軍事的才能よりもむしろドゥゼの到着とケレルマンの閃きによる負う所が 大きかった(というかむしろナポレオンは彼にしては珍しく兵力の分散というミスを犯したから、危 うく負けそうになった)。 その後 |