【第二次世界大戦 なぜ、始めた?】 ② 「アメリカ合衆国の参戦」 ~日本は嵌められたのか?~ (制作) 2002年 イギリス TWI/カールトンTV
アメリカのルーズベルト大統領は戦争がしたくて仕方なかったのです。
これは、イギリスが困っているから、全体主義がどうの、という問題ではなく、ドイツがヨーロッパ大陸を統一し、アメリカを経済的に脅かす大国になることを、アメリカのエリート層と富裕層が恐れたからです。
1939年にドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まりましたが、この時にはアメリカに「中立法」という法律があり、また、ナチス・ドイツに友好的な国民も多く、ヨーロッパの国々が戦争で疲弊すればアメリカの経済が良くなるので、どちらにも属しませんでした。
しかし、フランスが降伏し、イギリスが孤立すると、1941年にアメリカは「武器貸与法」という、戦争をしている他の国への武器の輸出が出来る法律を成立させました。そして、公海域までの護衛まで宣言し、イギリス本土の近くまで護衛艦を出動させ、ドイツを挑発しています。
このアメリカの挑発へのドイツ海軍の怒りは激しく、ヒットラー総統はなんとか宥めていたのですが、1941年10月31日にアメリカ駆逐艦、ルーベン・ジェームズを撃沈してしまいました。
しかし、ドイツ・ヒットラー総統は、第一次世界大戦のルシタニア号の撃沈後のアメリカの参戦から敗戦の二の舞になるのを恐れ、アメリカに働きかけ、世論の沈静化に成功しています。
ルーズべルト大統領はヒットラー総統にしてやられた分けです。
ヒットラー総統はアメリカとの戦争はしたくなかったのです。
アメリカのルーズベルト大統領は、こうしたヨーロッパに対する策動に平行して、日本にも嫌がらせをしています。
アメリカは、1941年8月1日、日本への石油輸出を禁止しました。
日本の東条首相はヒットラー総統ほど見識が高くなく、また、日本国民はドイツ国民ほど冷静ではありませんでした。
話を日本に戻しますと、大戦前、日本には「総力戦研究所」という研究機関がありました。ここには、日本の最高頭脳が集まり、アメリカとの戦争の戦略について研究をしていました。
昭和16(1941)年4月の御前会議で同年夏のアメリカとの開戦が決定され、海軍、陸軍ともに戦争に準備に入りました。
開戦直前の8月27~28日に東条首相等列席の上で、総力戦研究所の研究結果の発表会が行われました。
その発表内容は「日本は4年間で戦闘能力を失い、それを見たソビエト連邦軍が満州国に侵攻してきて、日本は息の根を止められ、無条件降伏しか選択の余地が無くなる。」というものでした。
東条首相は震え上がりました。そして、9月6日の御前会議で開戦の延期が決定したのですが、海軍が猛反対しました。
海軍艦艇は、平常時は1/3が実戦配備に就き、1/3がドックで修理、残りの1/3は修理後の新装備等の訓練というローテーションで回していましたが、開戦日が決まったことで、全艦艇の戦闘態勢の準備をしていました。このままの態勢を維持し続ければ、備蓄燃料の件もあり、海軍は艦艇を維持できなくなると、強固に抗議してきました。
その結果、東条首相は、泣く泣く12月開戦を決定させられました。
これは、決断というものではありません。清水の舞台から悲鳴をあげて、飛び降りた、という日本人的な行為でした。
日本軍は1941年12月8日、アメリカの真珠湾を奇襲しました。
ルーズベルト大統領は、ほくそ笑みました。やっと、アメリカは待望の参戦が出来たのです。
そして、史実は「総力戦研究所」のシミュレーションの通りに進みました。
ルーズベルト大統領は、ヨーロッパを主戦場に、太平洋を片手間に戦い(アメリカ陸軍の正規軍が太平洋に現れたのは、ドイツとの戦いの目途がたった後、硫黄島での戦いからです)、思惑通りに勝利し、「アメリカ イズ ナンバーワン」を維持したのです。
大戦以後、アメリカの覇権は確立され、「パスク・アメリカーナ」の時代が来ました。
戦争が終わったとき、アメリカ経済の優位は圧倒的でした。それは1948年には世界の工業生産の56.4%を、世界貿易における輸出も23.4%を占めていました。金保有も1949年には世界の公的保有の75%を集中しており、この頃、世界で唯一の債権国でした。