ドイツ帝国【ホーエンツォレルン家】について語る
泥をかぶるつもりがあって帝政が立憲制として残ってたらヒトラーの
台頭は無かった?
ビスマルクが居なくなっても、毎年経済成長率10%くらいのレベルで達成してたんじゃないかってくらい内政に力入れてたよな
ヒットラー政権は、政権獲得後わずか3年で600万の失業率を100万以下に引き下げた。
その後も「ヒットラーの経済奇跡」は、つづき、ドイツは「炭鉱労働者がアルプスに観光旅行に行ける」という当時の常識をはるかに越えた繁栄を続けた。
戦後の高度成長期の経済モデルは明らかに「ヒットラー・モデル」であり、娯楽でも、一般大衆の娯楽モデルは「ヒットラー・モデル」だった。
つまり、「高速道路でのドライブ」「夏の海外旅行」そして「オリンピックの大衆娯楽化」もそうだ。
ここヒトラーを語るスレッド無いのな
ドイツ史全般って事にして広く視野取った方が良いかも知れない
第二帝政だけを語るにしても、ネタがそんなに出てこない
この場合の予防戦争ってのは、日増しに発展拡大する第二帝政の国威に危機感を持った英仏(主に英)がドイツのこれ以上の勢力拡大の動きをここで叩き、出る杭を打とうとしたのでは、と言う意味。
当時の英仏もそう考えたからこそ、予防戦争仕掛けたわけだと思う。内政の実を図ろうとしても、同時に軍拡競争で厳しかったのではなかろうか
実際には先進国の中ではほとんど戦争しないで内政にいそしんでいたんだよな
1815年~1914年、要するにナポレオンのワーテルローから第一次大戦までの期間、先進国の戦争回数は次の通りであった。
イギリス・・・10
ロシア・・・7
フランス・・・5
オーストリア・・・3
ドイツ・・・3
もちろんこれは歴史教科書に掲載されるような「○○戦争」と名前が付くような大きな「戦争」の事だけであり、
ちょっとした小競り合いとか、植民地の現地部族の討伐みたいのは計算に含んでいないが。
(小競り合いや植民地の現地部族討伐まで含んだら、イギリスとフランスとロシアは千や万に達するであろう)
特に、1871年の統一以来、1914年までのドイツ帝国は、一度も戦争する事は無かったのである。
上記の「三回」とは対デンマーク、対オーストリア、対フランスの三回である。
日本ですら、この期間に日清・日露戦争を戦っているし、アメリカやスペインだって戦争している時代。
ウソ宣伝上手のイギリスを敵に回したからなのだろう。
ドイツ第二帝政やカイザーは誤解されすぎている。
起してるからそれでイメージが悪なったんではないか
さすがのウィルヘルム2世も、ドイツ統一以来戦争体験が無いドイツ軍では、戦争慣れした英仏軍相手の戦争は無理なのではないかという頭くらいは持っていた。
だから強気外交とそれを可能にするだけの高い軍事力を保有する事には全力を挙げたが、
決して軍事力を使って無理やりにでも利益を分捕ろうという無理押しだけはやらなかった。
ウィルヘルムにすれば、少しでも多くのドイツの国益さえ獲得できれば良いのであって、
強気外交も軍備拡大も、少しでも多くの譲歩を英仏から勝ち取るための手段、方便でしかなかった。
今の愚かで怠惰で臆病で無能な日本の政治家と比べれば、まだ一応の論理や合理性が在ったと言える。
つまり海軍は完全にイギリスに張り合う事を諦めてイギリスに譲歩し、
その代わりに陸軍についてはロシアとフランスをまとめて相手取れるくらいに拡張する事をイギリスに認めさせ、
侵攻方向はただひたすら東ヨーロッパ諸国を目指していたのであれば、
その頃のイギリスは、案外ドイツの提案を快く受け入れて同盟国とは言わなくとも、友好関係は保っていられたかも知れない
統一するようなパワーを持った国家の存在は容認できんでしょ
いや、それ以前に近代イギリスはロシア封じ込めこそが国是だった
だから日本みたいな極東の島国ですら手を組んだし
フランスやベネルクス三国をドイツの側から侵犯しなければ、
また、ドイツがイギリス海軍と張り合おうとか海外植民地がどうこうとか言い出さなければ、
そして、ただひたすら東ヨーロッパとロシアだけ目を向けていれば、
イギリスとしては反対する理由が無いと思うんだけど。
第一、ロシアを倒すと言ってもナポレオンを追い払った冬将軍もいるし、国土があれだけ広いのだから、そう簡単には終わらなかったろう
井上毅(こわし)の起草した帝国憲法はプロシア憲法の影響を受けている。我が国の医学関係の術語はドイツ語だし、西洋音楽と言えば、ドイツ音楽(オーストリーを含む)とほぼ、同義だ。
哲学(カント、ショーペンハウエル、ヘーゲル)、数学(ガウス、ライプニッツ)、経済学(マルクス)等々、枚挙にいとまない。
ゲーテ、カント、ショーペンハウエル、ヘーゲル、ベートーベン、ライプニッツ、大モルトケ。ドイツ文化抜きに日本の近代化はあり得ない。奈良、平安の律令日本にとっての隋、唐のような存在。
日本が参考にしたのが『ドイツ憲法』だったとかいう馬鹿話。
さすがに>>17は勉強家だけあってきちんと『プロシア憲法』と書いている。
そこは非常に誠実だし、実際それで正しい。
「ドイツ憲法」と「プロシア憲法」は全然全く異なる。
「ドイツ憲法」は、長らく統一されてこなかったドイツ地方を強力に中央集権体制とするために作られた。
従って、その内容はドイツ皇帝に至高の権力を与える物にならざるを得ない。
そうでもしなければ、せっかく統一されたドイツがまた再び分解してしまう恐れがあったのだ。
しかし、ドイツ統一以前のプロシア憲法は全く違う。
これはベルギー憲法に影響を受けた、当時としては自由主義的な憲法であった。
あくまでも『当時としては』という但し書きが必要だが。
日本が見習ったのはこの自由主義的なプロシア憲法の方であった。
ソースは古い本だが、西ドイツ(当時)で雑誌、シュピーゲル誌の編集したレポート記事「ヨーロッパは日本車に轢かれてしまう」(日本工業新聞社、1981出版)の中で日本の歴史に言及したチャプターがあり、その章の冒頭に「日本は東洋のプロイセンと呼ばれるようになったが……」云々とあったのを覚えているのだよ。
英仏の事前保証(暗黙の了承)抜きにロシア国境を越える行為はドイツ、オーストリーに何もいい事は待っていないように思われる。
しかし、東西挟撃と言う二正面作戦を避ける事が出来るなら、右の前提は崩れる訳で、その場合、ロシア皇帝の主宰する汎スラブ主義との全面対決もあり得る。
①イギリスやフランス、イタリアと言う当時の列強がどの規模まで、ドイツの東方経営を許容するか?
②単独ロシアとの全面対決に独墺両帝国は果たして、第一次大戦勃発直前の如き一致、共同歩調をとる事が出来るか?そうして、軍事同盟が機能すると仮定して、独墺はロシアを降伏させる事が出来るか?
私は②は、戦争目的さえ、事前に明確に規定しておけば、問題無いと思う。スラブ民族を隷属化させるとか、ロシア国家を滅亡させるとか言ったような誇大妄想かつ、無慈悲な目標設定さえ、しなければ、ロシア政府とは(ドイツにとって有利な)講和の落とし所を見出だせると予想する。
真の問題は、①であって、独の一人勝ちを周辺は許容出来ないだろう。
本来、それらの民族は非ギリシャ正教だ。バルカンのセルビアやモンテネグロとは異なる。ドイツは新教、カソリックのキリスト教徒をロシア皇帝と言う正教の支配者から、解放したい、との動機を強調し、決して、バルト三国を領土編入しない、寸毫もロシア本国への野心は持たない、と西欧列強に固く約束すれば、理解を得る事が出来るだろう。
但し、戦時賠償としての若干の領土の委譲はあり得る。
また、ウクライナに関しては、最大の譲歩をロシア皇帝から、引き出せた場合でも(極めて難しい)文字通りのウクライナの独立であり、決して、ドイツの傀儡化、属国化させない、との保証を英仏伊に約束しなければ、到底、理解は得られないだろう。
>戦時賠償 X
>戦後賠償 ○
と言うのは、ドイツに一敗地にまみれたロシアは以降、近代化、資本主義化を加速させ、英仏もドイツを牽制する意味から、それとの友好的通商関係を維持する。三十年後、新生ロシアは経済的、軍事的超大国として復活するだろう。
その心中に深く、ドイツへの復讐を誓って……
日露戦争だとか、アフガニスタンだとかクリミア戦争で、ロシアと表でも水面下でも戦いまくっていたイギリスが、
果たして、ロシアのためにドイツを牽制しようとか思うかな?
まずそこが疑問なんだが
勝手にドイツとロシアが潰し合ってくれるのであれば、イギリスは簡単に漁夫の利を得る事ができるとタカをくくっていられると思うんだけどね
むしろ、イギリスにとってヨーロッパ大陸での「敵」は、ロシアでなければフランスだったわけで
千年以上の昔から
むしろ、ドイツを敵視してフランスと一致協力するよりも、露仏同盟を牽制してドイツ有利な情勢にさせる方を選ぶと思うんだよね
何よりも、第二帝政の存在した当時、世界一の「軍国主義国家」と言えば、ドイツじゃなく「フランス」だった
総人口がドイツの半分しか居ないのに、軍事力や兵隊の数はドイツに勝るとも劣らないほど強化していたのがフランス
イギリスと植民地を巡る競争を繰り返していたのも、ドイツが出てこなければフランスだった
ドイツが海軍競争だとか海外植民地だとか言って出てこなければ、英仏協商は当然結ばれなかったはずなんだよね
時系列を本スレの対象、第一次大戦以前に戻すと、ドイツとしては、もっと、英仏間の潜在的ライバル関係に着目する必要があったと言えるかも知れん。
ただ、当時のフランスには、四十年前、パリのベルサイユ宮殿の鏡の間で、ドイツ帝国成立宣言をされた屈辱と怨念が未だ、燻っていて、ドイツに楽な外交ゲームをさせなかっただろうと思われる。
当然、対露・対仏同盟
露仏同盟に挟まれているドイツにとっても、フランスを逆包囲できるこの同盟は魅力的だったのだが、
同盟を締結すれば確実にロシアと対立する事になるので、
それを嫌がって結局無かったことに……
当時のドイツとしては、統一してからまだそんなにも経ってないのだから、戦争よりは内政だと思ってお断りしたのだろう
惜しいチャンスだったんだね。
第一次大戦の米軍だが、ドイツにすれば、お前、呼ばれてないだろ、って感じだったろうね。ま、参戦の口実を与えたのはドイツ自身なんだが。
ヒトラーだったら泣いて大喜びしただろうね
ヒトラーの『我が闘争』に書いてある外交論は、
【時代が第一次大戦前だったら】正しいと言えるものだった。
何も無茶苦茶に気の狂った内容が書いてあったわけじゃない。
問題は、イギリスが【第一次大戦前のイギリス】ではなくなってしまっていた事をヒトラーが最後まで気づけなかったこと。
逆に言えば、イギリスがかつての【第一次大戦前の賢明さ】を喪失してしまっていたこと、
これこそが第二次大戦の原因だった。
もしもディズレーリが、第二次大戦前のイギリスの首相だったなら、ナチスドイツを巧みに御しながら、それでも第二次大戦を引き起こさないという巧みな芸当ができていたはずだった。
決してドイツの目をイギリスや西部戦線に向かわせず、ロシア(と言うよりアカの国、ソ連)と噛み合わせることができただろうね
ドイツ帝国の成立は1871年。明治4年。終焉は1918年。大正7年。第一次大戦勃発は1914年。大正3年。
すなわち、帝政ドイツの歴史は、日本の明治時代とほぼ、年代的に重なるんだよね。
ドイツ帝国の終わりの始まりからも百年か
だが、今日、ルーテル教会とカソリックは最早、修復不可能と言う関係ではないように思われる。例えば、第一次大戦の独墺両帝国はそれぞれ、ルーテル派とカソリックの国柄だった。
私は、ナチスの幹部の南米への逃亡に関し、バチカンが関与している、との記事を読んだ事がある。これを見てもルーテル派(勿論、ルーテル派教会がナチスを肯定しているなどと主張するつもりはない)とローマ法王庁はともに、もっと、別の共通の敵を認識していたのではないだろうか?
『別の共通の敵』って、ソビエト=ボルシェヴィズムじゃないの?
こいつらは無神論者だし反キリストだし「宗教は阿片」とか放言していたわけじゃん
逆に言えば、唯物主義のマルキシズムが、キリスト教の分裂を繋ぎ止めたという皮肉な結末
>>40
確かに、共産主義はキリスト教の敵。
ナチスも「国家社会主義党」と言う屋号でなく、「反共十字軍」とでも名乗ればよかったのに。
ここにロシア正教会とカソリックの関係の歴史的修復が重なると言う未来の仮定項を加えれば、宗教界の関係性の変化は、やがて、世俗的地上権力にもトレースされるであろうから、ここに、地勢学の予見する東欧の重心部分にランドパワーの核心領域、゛ハートランド゛が生まれる可能性が現実味を帯びて来るのである。
独露同盟である。この手を携えるべき両者にとって、ゲルマン民族主義、スラブ民族主義は百害有って、一利無し、第一次大戦、第二次大戦でそれは骨身に滲みているはずだ。
勿論、日本はシーパワーである。しかし、現実は別のシーパワー、アングロサクソンの風下に立っている。仮に、米合衆国のマクロ国策が東半球の混沌の維持=ユーラシアに於けるハートランドを包有する一大軍事勢力の台頭を叩く、にあるとすれば、敵の敵は何とやら。アングロサクソンの忌み嫌う独露同盟こそ、日本の国益であろうと思われる。
地勢学では、白ロシア付近に想定されているようだ。独露墺波の四カ国の関係性には人類の未来がかかっているように思われる。
ランドパワーの空洞化が、シーパワー内に於ける相対的比較弱小勢力である我が国の外交を窮地に陥れた、とも申せるだろう。
左翼方面には社会主義要素をアピールできる
最適の党名じゃないのかな
「ヒットラーの経済奇跡」こそは、国民の支持の根本的な原因である。
実際、当時のことを語った話では、「ヒットラーが政権に付いてから、みるみる生活が良くなった」と言う話はよく聞く。
日本ではその1割も出てこないのな
第一次大戦の勃発こそ、最も教訓に満ち満ちたものは無いというのに
あの玉突き事故のような各国の参戦は、決して各国の指導者が望んだものではなかった
オーストリアがセルビアに宣戦した時点では、オーストリアは何も
「世界大戦の火蓋を切ってやろう」
などという大それた目論見を持っていたわけではない
セルビアを救うために動員令を発令したロシアのニコライ二世だって「世界大戦だ!」と思っていたわけではない
そもそもドイツのウィルヘルム二世とは個人的には「友人」であり、親しく文通する間柄だったのだ。
ドイツのウィルヘルム二世ですら、
「これでは世界大戦になるな」
と理解していたわけではない
当事者が意図しない所でとんとん拍子に世界大戦になってしまうという悲劇。
第一次大戦に「陰謀論」が未だにささやかれるのもそこが理由であろう
凄いことになってて一度発動したら解除がすごく難しい
状態でそれが原因で敵国が動員した!→じゃあ俺もって
どんどん参戦していったらしいな
なんでそんなに期待してたんだ
二正面作戦はキツいってのは、ドイツが第一次でも第二次大戦でも証明したでしょ。
それに仮にも伊土戦争には勝ってるのだから多少の戦力にはなるという判断もあった。
大体、第一次大戦の頃のイタリアは頑張った方じゃん。
イゾンゾ河渡河戦は11回か何か挑戦しているし、
アルプス山脈の一つの山々を占領するのに膨大な戦死者を出したんだけど。
グラッパ山の攻防戦なんて戦史に残る山岳戦でしょ。
ヒトラーと言えば「伍長」で有名だが、ムッソリーニは一つ上の「兵長」に昇進していたらしい。
けれど、将来権力を握った時には、「名誉伍長」の制服を作らせて愛着したし、ヒトラーに対しては、
『私も同じ伍長だったからあなたの気持ちはよく解る』
と語ったこともあったのだとか。
兵長時代よりも伍長時代の方が思い出深かったんだろう。
確か、ドイツの英雄のロンメルも敵側としてグラッパ山攻防戦には参加していたはずじゃなかったかな?
入植させたかったとか聞いた。
砂漠ってこと知らなかったのか?
少なくともあの時代では
そもそもイタリアはチュニジアが欲しかったんだよ
チュニジアと言えばアフリカでは穀倉地帯だし、ローマ帝国の昔からカルタゴとか言ってローマ人の植民地同然だったしな
そこをフランスに取られたから、フランスにリビアの支配権を認めさせた上でオスマン帝国と戦争したの
結局採掘できなかったけど。
それは日本にとっての満州国も同じ。
中国が満州で大慶油田を発掘したニュースを聞いた時、満州国で活躍していた岸信介とか、
同じく満州国で働いていたウチの爺さんなんかはショックで口も利けなかったそうだ。
石油が原因で戦争になったようなもんだし
内政は超一流だったし
二度のモロッコ事件で両方とも撤退してるのが良い証拠。
第一次大戦だって、オーストリアの強要とロシアの動員令がドイツ参戦の原因になったわけで、ウィルヘルムが望んだことではない。
ウィルヘルム二世の望みは、強気姿勢とそれを可能にする強力な軍隊によって
「ドイツの言い分を通す」
「ドイツの国益を貫徹する」
というやり方だったんじゃないの?
だから、戦争になったとしたらそれはもうウィルヘルムにとっては計算違い。
「おお神よ!あなたは40年間戦争から逃れてきた人々に地獄の苦しみを与えると言うのか!」
ドイツが普仏戦争以来40年間戦争に関わってこなかったことは歴史上の事実。
そもそもビスマルクの頃のプロイセン王国時代から数えても、ドイツ=プロイセンは3回しか戦争をしていない。
これで果たして近代戦争を戦えるのかという疑問は、当然ウィルヘルムにもあった。
なお、ウィルヘルムは、オーストリアとの同盟破棄すらちらつかせて、
「友人」ニコライ二世に動員令の解除をお願いしている。
ドイツは戦争したくなかったのだ。
オーストリアの皇太子が殺された事くらいで、なんで同盟国だからってドイツが味方しなければならんのか。
ドイツはオーストリアを支援せず、ロシアもセルビアを支援しない…
これで丸く収めようと提案している。
しかし、冷静に考えれば、腐っても大国のオーストリアと、小国セルビアがガチンコでぶつかり合ったらセルビアが負けるに決まっている。
当然ロシアはウィルヘルムの誠意を疑って動員令解除を拒絶。
結果、ロシアがオーストリアとの戦争に及べば、衰退国家のオーストリアに勝ち目が無いのでドイツも動員令を発令。
ドイツの動員を見て、アルザス・ロレーヌ地方を奪い返すチャンスだとばかりにフランスも動員開始。
世界大戦に至ったという訳だ。
日米戦争寸前の頃の日本は、開戦しなければ資源が逼迫していてどうにもならなかった状況。
ドイツとは異なる。
30年戦争で人口が0となった村も多数。
人口が3分の1になった地域すらもあった。
重ねてペストの流行もあったわけで、乏しかった人口がますます死に絶えた。
だから、ドイツ人ほど「戦争」という物を忌み嫌う人種は居ないと言っても過言ではない。
ドイツを代表する哲学者のイマニュエル=カントが『永久平和論』を著したのもそういう経緯があることを考慮しなければならない。
ドイツにはそういう歴史的経緯がある。
「強気に出る」のと「戦争をする」のでは全然意味は違うのであって、
今の日本みたいにアメリカにほんの少しも強気に出られない弱小属国ならばともかく、
「外交上のブラフ」として、ウィルヘルムの「強気姿勢」は一つの選択としてはアリだろう。
ただし、実際に「戦争になる」のでは、その強気姿勢は「失敗だった」と総括されてしまうわけだが。
外交というのは難しいものであって、今、中国が平然と小笠原諸島で珊瑚礁を根こそぎ分捕ってるのを見れば解る通り、
「弱気」で「下手」に出ていれば良いものでもない。
むしろ強気に出た時の方が「意外と成功する」というパターンの方が世界史には多い。
実際、日本から見れば小笠原諸島での傍若無人な振る舞いは日本から見れば『日本外交の失敗』だが、
中国から見れば『偉大で強気な中国外交の大勝利』であろう。
ドイツ人ではなく「オーストリア人」だったヒトラーだって強気、強気で押せ押せだったら、
「意外と」オーストリアもチェコも併合できてしまったわけだ。
最終的に大統領選挙に出馬する際にドイツ国籍に切り替えたが。
オーストリアは、同じゲルマン民族の国とは言っても「30年戦争の悲劇」を身に染みて知らなかったと言っても良い。
従ってヒトラーには、ドイツ人特有の戦争を忌避する感情が欠如していたという解釈もある。
まぁそれでも第二次大戦を始めたのはドイツ側ではなく、向こう見ずなポーランドと余計な介入をした英仏(特にイギリス)だったのだが。
まずポーランドは「民主主義国家」ではなかった。
これは声を大にして言わざるを得ない。
ピウスツキ元帥の独裁国家だったのだし、死後も独裁政治が続いており、ドイツとは元々友好的だったのだ。
チェコのズデーテン問題をこじらせた原因も、ポーランドとハンガリーの領土要求のせいでもあったのだ。
そして、ピウスツキ元帥の死後、外務大臣にヨーゼフ・ベックという軍人上がりの無能が就任してしまった。
『酒と煙草と賄賂と女とファッションにしか興味がない』と酷評されたほどの無能な男だった。
で、この無能極まるベック外務大臣は、ドイツからのありとあらゆる友好的な提案をことごとく蹴飛ばしたというわけだ。
ポーランド戦の頃はまだヒトラーは軍を完全には掌握も心服もさせておらず、ポーランド戦に反対するドイツ軍将校も数多く存在した。
だからヒトラーは下手に出ざるを得なかったのだが、ベックは何一つ提案に乗ってこなかった。
文字通り「何一つ」である。
一度ならず二度も、ヒトラーはベルヒテスガーデンまでベック外相を招いて懇談したこともあったが、
『酒と煙草と女とカネとファッションにしか興味のない外務大臣』は興味を持たなかった。
こんな外務大臣を見て、
「こんな話し合いの通じない国だったら攻撃したっていいんじゃないか」
とドイツ軍首脳たちが思い始めたというわけである。
また、ベックは外務大臣である以上、外国から抗議を受ければまず真っ先に矢面に立つべき立場にあるはずだった。
なのに責任を放棄した。
具体的には、ドイツとポーランドとの国境地帯では、ドイツ人とポーランド人の争いが盛んになっており、死者や重軽傷者まで出ていたのだ。
なのにベックはドイツから抗議を受けても、それに対して何の弁明もしなかったし、閣議で対策を取ろうと行動したことも無かった。
ドイツ人とポーランド人が衝突するに任せたのである。
ドイツ軍がポーランドに侵攻した理由は、
『ポーランド人が、ドイツ領内に存在するラジオ局を占拠して反ドイツ放送を行った』
などという理由であったが、
元々
「ポーランド在住のドイツ人が迫害されていた」
という【事実】があったからこそ、ドイツ人はこの言い分を信じたのである。
「ポーランド人に迫害されているドイツ人など一人もいない」と想ってれば、
いくらゲッベルスが宣伝の達人であってもドイツ人を戦争に立ち上がらせることは不可能だろう。
「ドイツの言い分を通す」
「ドイツの国益を貫徹する」
というやり方だったんじゃないの?
だから、戦争になったとしたらそれはもうウィルヘルムにとっては計算違い。”
今の中共じゃん。
超えようとしてる点は似てる
「軍事力拡張!」
とか言ってた時代じゃん。
一方で今の中国はどこの国も攻撃しようとか狙ってないのに、勝手に軍拡して周りの国々に迷惑かけてるだろ
全然違うだろ
ランドパワーが世界的なシーパワーに対抗する為に海軍力拡張
ってのは似てるんじゃない?
中共の海軍拡は日本だけでなくアメリカも超える予定だろう
「同じである」と考える事自体異様に思えるんだけど
中華思想って時点で・・・・
いや違う。
ウィルヘルム二世皇帝は、実は譲位してウィルヘルム三世皇帝陛下がいらっしゃる。
皇帝がオランダに亡命した後のこと。
戦争に負けると、どこの国も決まって「責任者探し」をやり始めるものらしい。
で、ウィルヘルム二世は、皇帝という地位も在り、またドイツ憲法で皇帝には絶大な権力が与えられていたかのように思われていたので、
「ウィルヘルムのあのヤロー!」
「あの馬鹿皇帝が戦争なんかしたせいで、今のオレ達の生活はボロボロだ!」
「ヴェルサイユ条約でドイツの誇りが奪われたのも全部皇帝のせいだ!」
ドイツ中で、ウィルヘルム二世皇帝への怨みの声が絶えることは無かった。
当然、ウィルヘルム二世自身も、自分への恨みつらみの声があることは充分すぎる程に知っていた。
しかし、そんな落ち目のウィルヘルム二世の下に、一通の手紙がドイツから届いた。
恨みつらみを書き連ねた手紙かと思いきや、
『皆は陛下を悪く言いますが、私は陛下を信じています。あまり気にやまないで下さい』
と、失意のウィルヘルム二世を励まし、慰める手紙であった。
この手紙の送り主に興味を持ったウィルヘルムは、手紙の送り主をオランダに招き、会談の場を設けた。
相手は貴族ではない一介の平民に過ぎなかったが、その顔つきやら、態度、所作に感ずる所があったウィルヘルム二世は、自分の娘と結婚しないかと提案。
婿養子という形で、その手紙の送り主は「ウィルヘルム三世」として位を譲られた。
そんな良い話がある。
仇役とされたナポレオン3世は、戦争する意思が全く無かったのに強引に戦争に持って行かれて涙したそうな。