10分でわかるロシア政治史
ロシア政治史(1917-45)
アルテリ(артель)・・・・コルホーズの基本的形態で、初期には共同化の程度が低かった。
アントノフ・オフセエンコ(Владимир Александрович Антонов-Овсеенко1883-1939)・・・・ロシアの革命家、軍人。十月革命ではペトログラード軍事革命委員会書記として冬宮攻撃を指導した。さらに陸海軍人民委員、赤軍政治部長などを務めたが、後に左遷された。
ヴァシレフスキー(Александр Михайлович Василевский1895-1977)・・・・ソ連の軍人。第二次世界大戦で参謀総長に就任し、スターリングラードの戦いで指揮をとった。極東軍の司令官として、満州での作戦にも活躍し、戦後は軍事相、陸相を務めた。
ヴェルサイユ体制・・・・ヴェルサイユ条約を中心として成立した第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序を指す。民族自決の結果東欧に多くの小国が誕生したが、これらはソ連の共産主義に対する防壁という意味あいがあった。また国際連盟が設置され、平和の維持に努めた。ロカルノ条約とドイツの国際連盟加盟によって一時的に安定するが、世界恐慌によって動揺し、ドイツのヴェルサイユ条約破棄によって崩壊した。
ウリヤーノフ(Dmitrii Iliich Uliyanov 1874-1943)・・・・ロシアの革命家、医師でレーニンの実弟。第一次世界大戦中に反戦運動を行い、革命後は保険人民委員部、スヴェルドロフ大医学部長を務めた。
ウリヤーノワ(Mariya Iliinichana Uliyanova 1878-1937)・・・・ロシアの革命家、レーニンの実妹。ボリシェヴィキに参加し、1917年には「プラウダ」編集長を務めた。
ウンゲルン(Roman Ungern fon Shternberg ?-1921)・・・・ロシアの軍人。革命後の内戦で白軍を指揮して外モンゴル方面で活動したが赤軍とモンゴル人民連合軍に敗れて処刑された。
英ソ相互援助条約(Anglo-Soviet Mutual Assistance Treaty 1942)・・・・第二次世界大戦中の1942年5月26日、イギリスとソ連との間で結ばれた相互援助条約。ソ連側はポーランド東部の領有の保障を求めたが、イギリス側はこれを拒否した。
オルジョニキーゼ(Георгий Константинович Орджоникидэе1886-1937)・・・・ロシアの政治家、革命家。1903年入党し、ザカフカスで活動した。革命後はウクライナ地方非常任委員などを経て1930年重工業人民委員、政治局員となった。スターリンと対立して自殺した。
カーゾン線(Curzon Line)・・・・第一次世界大戦後のパリ講和条約で確定されたポーランドの東部国境を指す。当時のカーゾン英外相にちなんでこう呼ばれる。カーゾン線はほぼポーランド人とロシア系ベラルーシ人、ウクライナ人との居住地域の境界にそっていたが、のちのポーランド・ソヴェト戦争の結果、国境線ははるか東方に移動し、ポーランド国内のロシア系住民の問題が残った。
カーメネフ(Лев Борисович Каменев1883-1936)・・・・ロシアの政治家、革命家。1905年革命でレーニンにしたがった。十月革命では蜂起に反対したが、モスクワの党責任者になった。のちにトロツキストとして失脚し、ジノヴィエフとともに粛正された。
カリーニン(Михаил Иванович Калинин1875-1946)・・・・ソ連の政治家。古くからのレーニンの盟友で、1919年中央執行委員会議長に就任した。1938年からは最高会議幹部会議長を務め、一貫して国家元首の地位にあった。
干渉戦争(Russian Civil War 1918-21)・・・・1918年1月、ロシアの憲法制定議会はボリシェヴィキによって解散された。数ヶ月後、権力側の共産主義者と反ボリシェヴィキの白軍との間で内戦が発生した。白軍はシベリア全土を一時制圧し、前皇帝一家はボリシェヴィキによって殺害された。イギリス、フランス、日本、アメリカはシベリアのチェコ軍救出の名目で干渉に乗り出し、各地で自治政府を樹立させた。しかし革命軍事会議議長のトロツキーは激戦の末、白軍に勝利し、両軍の間で激しいテロの応酬が続いた。白軍はペトログラードに迫ったが撃退され、黒海岸のノヴォロシスクで敗れた。1919年11月反共軍の拠点が陥落し、外国勢力が撤退すると、白軍は滅ぼされた。
キーロフ(Сергей Миронович Киров1886-1934)・・・・ロシアの革命家、政治家。十月革命と内戦に参加し、そのごスターリン派になったが、レニングラードで暗殺された。(キーロフ暗殺事件)これは反対派のテロ行為と宣伝され、スターリンによるジノヴィエフらの粛正の口実とされた。しかし暗殺はスターリンの教唆したものという説もある。
クラスノフ(Петр Николаевич Краснов1869-1947)・・・・ロシアの軍人、第一次世界大戦ではソヴェト政権に反抗して逃亡、ドイツの支援で反革命軍を率いた。第二次世界大戦でソ連に捕らわれ処刑された。
クロンシュタット軍港の反乱(Кронштадт1921)・・・・ロシアの共産党政権は戦時共産主義を取り、自由を制限して食糧の配給も十分行わなかったので、1921年3月、クロンシュタット海軍基地で反乱がおきた。共産党政治を終結させてソヴェトに全権を渡すこと、政治犯の釈放、権利と自由などを要求したが、トロツキーらによってただちに鎮圧された。しかし共産党政権も新経済政策への転換を余儀なくされた。
GPU(Gosudarstvennoe Politicheskoe Upravlenie)・・・・チェカの廃止後に設けられたソ連の秘密警察。反革命運動の取り締まりにあたり、内務人民委員部に属した。
ケレンスキー(Александр Федорович Керенский1881-1970)・・・・ロシアの社会主義者、政治家。二月革命後、ペトログラード・ソヴェトの副議長となり、1917年7月21日臨時政府の首相となった。十月革命で政権を打倒されると反革命軍に参加、のちにフランス、第二次世界大戦後はアメリカに亡命した。
五ヶ年計画(пятилетка)・・・・社会主義国で取られた経済発展の計画。ソ連での第一次五ヶ年計画は、1928-32年のもので国民経済を社会主義的に発展させるために計画され、ソ連の重工業化、農業の集団化が進んだ。一方では生活必需品よりも重工業に傾斜した経済発展で庶民の生活は窮乏したので、第二次五ヶ年計画(1933-37)では搾取階級の一掃、社会主義建設は完了したとして、修正が図られた。戦争中は五ヶ年計画は中断されたが、戦後は復活した。
国家防衛委員会(Государственный Комитет Обороны ГКО)・・・・独ソ戦勃発に対処するために設置された委員会。党と国家の指導体制を一元化させ、効率的な戦争、政治指導を行った。
コミンテルン(Коминтерн)・・・・共産主義インターナショナルの略称で、第三インターナショナルともいう。1919年3月レーニンが創設し、各国共産党を指導した。当初世界革命を目指したが、やがて30年代には人民戦線戦術をとった。43年5月、ソ連の資本主義諸国への接近のため解散した。
コルチャーク(Александр Васильевич Колчак1874-1920)・・・・ロシアの軍人。日露戦争、第一次世界大戦に参加し、1916年黒海艦隊司令長官となった。1918年イギリスの支援でオムスク白色政府の陸海相、赤軍と戦ったが敗れて処刑された。
コルニロフ(Лавр Георгиевич Корнилов1870-1918)・・・・ロシアの軍人。二月革命後ケレンスキー政府から最高軍司令官に任命され、軍隊での綱紀粛正と死刑の復活を主張した。やがて8月には軍隊をペトログラードへ進軍させ、反革命運動を行ったが労働者と兵士のソヴェトによって挫折し、逮捕された。のちに脱走して反革命戦争に加わったが、1918年4月に戦死した。
コルホーズ(колхоэ)・・・・ソ連で作られた集団農場。第一次五ヶ年計画の時期から増加し、90パーセント以上の農民が参加した。土地、農具、家畜の共有による共同農業経営だった。
ジェルジンスキー(Феликс Эдмундович Дэержинский1877-1926)・・・・ソ連の政治家。革命前はしばしば投獄され、十月革命では武装蜂起を指導した。その後非常委員会委員長に指名され、反革命と激闘した。
「四月テーゼ」(Апрельские теэисы 1917)・・・・二月革命後、レーニンがボリシェヴィキに与えた行動指針。1917年4月スイスから帰国したレーニンは党会議で臨時政府を支持せず、「すべての権力をソヴェトへ」移すことを主張した。
ジノヴィエフ(Григорий Евсеевич Эиновьев1883-1936)・・・・ロシアの革命家、ソ連共産党指導者。1905年革命でレーニンに従い、十月革命の蜂起には反対したが、革命後初代コミンテルン議長となった。レーニン死後党主流派となったが、スターリンに反対してトロツキストとされ、失脚、粛正された。
十月革命(Октябрьская революция1917)・・・・二月革命と同様、新暦では十一月革命ともいう。コルニロフの反革命後、勢力を強めたボリシェヴィキに対し、ケレンスキーは10月24日ペトログラードのボリシェヴィキの機関誌発行所を閉鎖しようとしたが、ソヴェト支持の軍隊は市内を制圧した。翌日第2回ソヴェト大会で権力掌握が決定され、平和と土地に関する布告がだされた。一方トロツキーは臨時政府軍を破り、ケレンスキーは亡命した。臨時政府は倒れ、ボリシェヴィキは一ヶ月あまりで全土を制圧した。
ジューコフ(Георгий Константинович Жуков1896-1974)・・・・ソ連の軍人、政治家。内戦に参加し、ノモンハン事件でも第一軍団長として活躍した。独ソ戦ではレニングラード、ウクライナ方面で戦い、42年参謀総長となった。スターリングラード、クルスク戦を指導し、1945年ベルリン作戦総司令官となった。戦後は1955年国防相となったが58年引退した。
新経済政策(Novaia ekonomicheskaia politika)・・・・略称NEP。戦時共産主義で経済が崩壊したのに対応し、1921年3月レーニンの提案により採用されたソ連の経済政策。穀物徴発の中止、小商店の認可を行い、経済再建に成功した。
スヴェルドロフ(Яков Михайлович Свердов1885-1919)・・・・ロシアの革命家。ヴォルガ河沿岸でボリシェヴィキのオルグとして活躍した。反動期にも地下活動を続け、革命後は中央執行委員会議長を務めたが、夭逝した。
スコロパツキー(Pavel Petrovich Skoropadskii 1873-1945)・・・・ロシアの軍人。第一次世界大戦にカフカス師団長として参加し、内戦ではウクライナ占領ドイツ軍の傀儡政権首班となり、赤軍と戦ったが敗れて亡命した。
スタハーノフ運動(стахановское движение)・・・・1930年代のソ連で行われた能率向上運動。炭坑夫スタハーノフがノルマを大幅に上回る作業を行ったことに由来する。
スターリン(Иосиф Виссарионович Сталин1879-1953)・・・・ロシアの政治家、ソ連共産党の指導者。初め社会民主党に属し、カフカスで革命運動を行った。 1912年ボリシェヴィキ党中央委員となり、「プラウダ」誌発刊、革命後は民族人民委員、党中央委員会書記長となった。その後党内でのライバルを次々と追放し、1920年代末には独裁的な地位を確立した。やがて個人崇拝と粛清に向かったが、ドイツとの総力戦には勝つことができた。
スターリングラードの戦い(Сталинград1942-43)・・・・第二次世界大戦の帰趨を決めた独ソの重要な決戦。1942年11月、ソ連軍はスターリングラードに入ったドイツ軍22万と死闘を繰り広げ、補給の途絶えたドイツ軍はヒトラーの撤退禁止によって実に9万人が降伏した。これにより独ソ戦の戦局が転換することになった。
スターリン憲法(Сталинская конституция1936)・・・・スターリンによる粛清のさなかに制定された憲法。すべての市民に平等な権利、民族の平等、コルホーズと国営企業からなる経済機構などを定めた。
スターリン主義(Stalinism)・・・・スターリンの政治を批判的にいう言葉。トロツキー派によると官僚支配を指すという。のちのスターリン批判の際には個人崇拝と粛清が批判された。
セミョーノフ(Grigorii Mikhailovich Semynov)・・・・ロシアの軍人。第一次世界大戦に参加した後、ソヴェト政権に反対して日本軍の支援を受けて赤軍と戦ったが敗れ、亡命した。日本の敗戦により満州でソ連軍に捕らえられ、処刑された。
戦時共産主義(Voennyi kommunizm)・・・・干渉戦争の時期に1918-20年までソ連で取られた経済政策をいう。戦争を遂行するために中小企業の国有化、穀物の強制徴発、食糧配給、強制労働などを行ったが、かえって経済は崩壊状態になった。
ソヴェト(Совет)・・・・1905年の革命の際にできた都市における労働者の代表会議。二月革命後にも労働者、兵士代表のソヴェトが全国各地に成立し、軍事力を握った。臨時政府と二重権力状態を現出したが、十月革命後は唯一の権力機関となった。
ソフホーズ(sovkhoz)・・・・ソ連の国営農場で、かつての地主の土地に作られた。ソフホーズの労働者は、賃金をもらう。
ゾルゲ(Richard Sorge 1895-1944)・・・・ドイツ人の共産党スパイ。駐日ドイツ大使館員で、独ソ開戦の情報をモスクワに伝えたが、スターリンはなぜか信じなかった。
ソ連・フィンランド戦争(Russo-Finnish War 1939-40,41-44)・・・・第二次世界大戦が発生すると、ソ連はレニングラードの安全を確保する名目で、フィンランドにたいしハンコ半島の海軍基地租借、マンネルハイム線の非武装化、フィンランド湾の諸島の割譲という不当な要求を行った。フィンランド側が拒否すると、1939年11月、ソ連は100万もの大軍を持ってフィンランドに侵入した。30万のフィンランド軍は善戦し、スオルサルミ村の戦いではソ連の2個師団を壊滅させる戦果を挙げた。しかし大量の砲撃と空襲の前にマンネルハイム線は突破され、40年3月フィンランドは講和を求め、カレリア地峡など国土の約10パーセントを割譲した。この戦争の結果、ソ連は国産連盟を除名された。41年6月、ソ連の脅威の前にドイツと結んでいたフィンランドは、ソ連に侵攻し戦争が再開された。44年9月フィンランドは再び敗れ、領土割譲と3億ドルの賠償金をかせられた。
第一次世界大戦(World War ? 1914-18)・・・・1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が始まった。同盟国側は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリアが加わった。協商国側には、イギリス、フランス、ロシア、イタリア(1915年参戦)、アメリカ(1917年参戦)、バルカン半島3国、ラテンアメリカ諸国、日本などが加わった。列強による世界分割が1900年頃には完了した中で、経済力と植民地との不均衡発展が根本原因といわれる。新興国ドイツは、植民地再分割を要求したのだ。近年の研究では、列強との不和で閉塞感が続く中、サライェヴォ事件を利用してこの機に一転突破をねらったドイツ、オーストリア・ハンガリー側に開戦の責任を見いだしている。戦況は、ドイツ側の短期決戦構想が、西部戦線のマルヌで進撃を止められて失敗した。しかし東部戦線ではタンネンベルクでドイツ軍はロシアに大勝した。戦闘は塹壕戦となり、長く膠着した。イギリスのガリポリ遠征も、無惨な失敗に終わった。やがてドイツは17年無制限潜水艦戦に訴え、これが4月のアメリカの参戦を促した。17年にはロシアで革命が起こり、ボリシェヴィキ政権は18年3月、ブレスト=リトフスク条約でドイツと講和した。18年には同盟国の敗戦は避けられない見通しとなり、ドイツ、オーストリアで革命が発生、11月11日ドイツが休戦協定に調印し、戦争は終結した。この戦争は史上初めての本格的な総力戦であり、毒ガス、戦車、飛行機といった新兵器がこの戦争で初めて登場した。
大粛清・・・・1930年代後半、スターリン独裁下のソ連で行われた大規模な反対派の粛清。キーロフ暗殺を契機にして始まり、いくつかの陰謀事件が明らかにされ、多数の軍、政府の指導者が粛清の対象になった。また数多くの党員がシベリアに送られたり、処刑されたりした。
第二次世界大戦(World War ? 1939-45)・・・・1930年代、日、独、伊のファシズム諸国は、膨張主義をとり、イギリス、アメリカ、フランスと衝突した。後者は当初宥和政策をとったが、ファシズム諸国の増長に、やがて開戦を余儀なくされた。1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、大戦が始まった。英仏はドイツに宣戦布告したものの、戦闘を行わず、奇妙な戦争といわれた。これはドイツとソ連との衝突を期待したものだといわれる。しかしドイツとソ連はポーランドを分割してしまい、ドイツの矛先は西へ向いた。ドイツは翌年5月以降、フランスとベネルクス3国を短期間のうちに制圧してしまった。英仏はダンケルクでかろうじてイギリス本国に撤退できたという有り様だった。ドイツは直ちにイギリス本国上陸に向けて空爆を開始したが、これはドイツ軍の損害が大きく、イギリス本土上陸は延期された。イギリスが降伏しないのはソ連の参戦を期待しているからだと考えたヒトラーは、41年6月、独ソ戦を開始した。さらに12月には日本がアメリカに宣戦布告し、アジア太平洋戦争が開始され、戦争はまさに世界中に広がった。枢軸国側は当初優勢だったが、英米にソ連を加えた連合国側は次第に態勢を立て直し、太平洋でも東欧でも日本、ドイツを追いつめていった。43年10月にはイタリアが降伏し、44年6月、英米は100万人を動員してフランスに上陸し、ドイツを挟み撃ちした。45年5月、ドイツは降伏し、8月には日本も無条件降伏して戦争はようやく終わった。
チェカ(Cheka)・・・・十月革命後に設置された「反革命、サボタージュ及び投機活動取り締まり全ロシア非常委員会」。干渉戦争が行われる中で活動したが、1922年に廃止された。
チェルノフ(Виктор Михайлович Чернов1873-1952)・・・・ロシアの政治家。エス・エルの指導者で、1917年臨時政府の農相を務めた。内戦ではチェコ軍を扇動して赤軍と戦い、その後亡命した。
チチェーリン(Георгий Васильевич Чичерин1872-1936)・・・・ロシアの外交官。1905年入党。1918年外務人民委員となり、内戦期にチチェーリン外交と呼ばれる平和共存路線を展開した。その後ジェノヴァ会議、ローザンヌ会議にも出席した。
張鼓峰事件(1938)・・・・1938年7月、満州とソ連との国境で発生した日ソの国境紛争。日本軍が先制攻撃したが、ソ連の攻勢により敗退し、8月11日停戦した。
デニキン(Антон Иванович Деникин1872-1947)・・・・ロシアの軍人。第一次世界大戦で活躍し、二月革命後はコルニロフと反革命軍に参加した。のちに帝政派の白軍を率いてウクライナ方面でボリシェヴィキと戦い、19年にはモスクワに進撃したが破れて国外に亡命した。
テヘラン会談(Teheran Conference 1943)・・・・1943年11月、チャーチルとアメリカのルーズヴェルト大統領、ソ連のスターリン首相との間で開かれた会談で、ソ連側の求めに応じ、翌年のフランスへの上陸で第二戦線を形成することで同意した。
独ソ戦(1941-45)・・・・1941年6月22日、ナポレオンのロシア遠征にちなんだこの日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連領に進撃を開始した。ドイツ軍は10月にはモスクワに迫ったが、今一歩のところで陥落はならず冬を迎えた。翌年5月、ドイツ軍は再び攻勢に出て、スターリングラード攻略を目指した。しかし43年1月、破滅的な敗北を喫することになった。補給の続かないドイツ軍は、ナポレオンと同じく冬将軍に敗れたのだった。戦局は逆転し、43年中にはドイツ軍はソ連領から追い出された。45年5月にベルリンは陥落し、5月8日ドイツは無条件降伏し、戦争は終わった。ちなみにナポレオンの遠征をロシアでは祖国戦争と呼ぶのに対し、独ソ戦は大祖国戦争とよんでいる。
独ソ不可侵条約(Deutsch-sowjetischer Nichtangriffsvertrag 1939)・・・・第二次世界大戦前夜の1939年8月23日にドイツとソ連の間で結ばれた不可侵条約。付属秘密議定書で、ポーランド、バルト三国、ベッサラビアの勢力圏を設定していた。41年6月、独ソ戦開始に際して、ドイツ側が一方的に破棄した。
トロツキー(Лев Давидович Троцкий1879-1940)・・・・ロシアの革命家、政治家。はじめメンシェヴィキに属していたが、1905年革命ではペテルブルクのソヴェト議長を務めた。二月革命後ボリシェヴィキに入党し、ペトログラードのソヴェト議長に復帰して十月革命を指導した。革命政権では外務人民委員、陸海軍人民委員を務めたが、世界革命論をとなえて党の主流派と対立し、スターリンによって失脚した。国外で第四インターナショナルを組織し、ソ連を批判したがメキシコでスターリンの諜報部員に殺害された。
トロツキズム(trotskizm)・・・・プロレタリア独裁を実現するには世界革命が必要であるとするトロツキーの路線にスターリンらから与えられた蔑称。歴史的には共産党からの造反グループにしばしばトロツキズムという非難が浴びせられた。余談ながら日本では第四インター派(純トロ)が存在し続ける一方、スターリン批判以後はトロツキズムを批判的に摂取するという新左翼の出現を見た。
二月革命(Февральская революция1917)・・・・当時のロシアは旧暦を使っていたので、新暦にあわせて三月革命ともいう。2月23日、国際婦人デーのこの日、ペトログラードで行列に並んでいた人々の間から自然発生的に暴動が起こった。ニコライ2世は鎮圧を命じたが兵士も暴動を支持した。ツァーリは前線から軍を呼び戻そうとしたが軍隊は動かず、労働者と兵士からなるソヴェトはペトログラードの防衛に当たった。議会側も臨時政府を樹立し、ニコライ1世は退位に追い込まれた。ここにロマノフ王朝はついに滅亡した。
日ソ中立条約(Russo-Japanese Neutrality Pact 1941)・・・・1941年4月、ドイツと日本との2正面作戦を回避したいソ連と、南進を計画していた日本との間で、第三国との戦争における互いの中立が約束された。期限は5年間とされたが、45年4月のソ連の不延長通告ののち、8月9日の対日参戦に伴って破棄された。
ノモンハン事件(Nomonhan 1939)・・・・1939年5月満州とモンゴルとの国境紛争が元で発生したソ連と日本との局地戦争。日本軍はモンゴル軍を攻撃したが、8月ソ連の機械化部隊の攻勢により大打撃を受けた。9月日本軍は停戦協定を結び、ソ連側の主張通りの国境線が確定した。
ブキャナン(George William Buchanan 1854-1924)・・・・イギリスの外交官で、1910年以来ロシア大使となった。革命に際してはカデットの臨時政府を支持した。
仏ソ相互援助条約(France-Soviet Treaty of Mutual Assistance 1935)・・・・1935年5月2日パリで調印されたフランスとソ連の相互援助条約。ドイツの再軍備宣言に対抗し、国際連盟の枠内にとどまるが、フランス側は批准を先延ばしにし、ドイツはロカルノ条約違反と非難した。
ブハーリン(Николай Иванович Бухарин1888-1938)・・・・ロシアの政治家。ソ連共産党の指導者として革命後は「プラウダ」編集長などを務めたが、1929年スターリンと対立し失脚、粛清された。
ブルシーロフ(Алексилов Алексеевич Брусилов1853-1926)・・・・ロシアの軍人。第一次世界大戦では南西方面軍司令官としてオーストリア軍を撃破、臨時政府の軍最高司令官に任命された。しかし攻勢に失敗して解任、後に赤軍に降った。
ブレスト・リトフスク条約(Брестский мир1918)・・・・1918年3月3日、ロシアの革命政権と同盟国側とのあいだで結ばれた講和条約。ロシアは当時の戦線よりさらに後退した320万平方キロもの広大な領土を失った。この中には、ポーランド、リトアニア、ウクライナ、エストニア、フィンランド、クールランドなどが含まれていた。その上賠償金の支払いをも約束した。これはドイツ側が平和を望む革命政権の弱腰に乗じたもので、当然西部戦線に全力を傾注する意味もあった。この条約はドイツ革命によって破棄された。
ベーリヤ(Лаврентий Павлович Берия1899-1953)・・・・ソ連の政治家。1917年ボリシェヴィキに入党し、内戦期にカフカスの秘密警察で活躍した。ゲーペーウー長官に抜擢され、スターリンの下で血の粛清を実行した。第二次世界大戦後副首相となったが、スターリンの死後クーデターを起こして失敗し、銃殺された。
ポドヴォイスキー(Nikolai Iliich Podvoiskii 1880-1948)・・・・ロシアの軍人。1901年入党。第一次革命ではイワノヴォに初のソヴェトを結成した。1917年には軍事革命委員会委員長、ペテルブルク軍管区司令官、軍事人民委員を務めた。
ポーランド・ソヴェト戦争(Polish-Soviet War 1919-20)・・・・第一次大戦の休戦協定にしたがってドイツ軍が東部戦線から撤退すると、ソヴェトはポーランド支配地域まで進出した。これに対しポーランドのピウスツキ将軍はソヴェト軍を押し戻し、一時キエフまで占領した。ところがソ連のトゥハチェフスキー将軍は強力な反攻を開始し、ワルシャワ付近まで迫った。結局リガ条約で、ポーランドの東方領土への要求は認められた
マリク(Jakov Aleksandrovich Malik 1906-80)・・・・ソ連の政治家。駐日ソ連大使館参事(1939-42)、駐日大使(42-45)を務め、戦後は国連安保理でのソ連代表を長年務めた。そのほか駐英大使や朝鮮戦争停戦の提案、戦後の日ソ交渉にも当たった。
マリノフスキー(Родион Яковлевич Малиновский1898-1967)・・・・ロシアの軍人、政治家。1942年スターリングラードの戦いで司令官として活躍し、45年対日作戦でも指揮を執った。フルシチョフのもとで国防相(1957-67)を務めた。
マールキン(Nikolai Grigorievich Markin 1893-1918)・・・・ロシアの革命家。革命で外務人民委員部書記となり、帝政ロシアの秘密外交を暴露、翌年内戦で戦死した。
モロトフ(Вячеслав Михайлович Молотов1890-1986)・・・・ソ連の政治家。1906年入党で、革命時は軍事革命委員、「プラウダ」誌編集に関わった。後に党書記局員となりスターリンに仕えた。1930年人民委員会議長、1941年外務人民委員として独ソ不可侵条約に調印した。戦争中はテヘラン、ヤルタ、ポツダム会談にも参加したが、スターリン死後はフルシチョフに反対し、左遷された。
ヤルタ会談(Yalta Conference 1945)・・・・1945年2月、クリミア半島のヤルタでチャーチル、ソ連のスターリン、アメリカのルーズヴェルト大統領とのあいだで開かれた会談。ドイツの占領、戦犯の裁判、東欧の戦後処理や国際連合の設立などで合意したが、ドイツの降伏後2、3ヶ月以内にソ連が対日参戦することを約束した秘密議定書もあった。
ヨッフェ(Адольф Абрамович Иоффе1883-1927)・・・・ロシアの政治家、外交官。革命前はメンシェヴィキに属していたが、1917年ボリシェヴィキに入党した。ブレスト・リトフスク条約、ドイツ、中国、日本、オーストリアの大使を歴任したが、やがて国内事情から除名された。
ラゾー(Sergei Georgievich Lazo 1894-1920)・・・・ソ連の軍人。第一次世界大戦で戦った後、革命後はイルクーツク軍事総督になった。内戦ではセミョーノフを破り、シベリア出兵に対抗してパルチザン闘争を行ったが、日本軍に捕まり処刑された。
ラデック(Карл Бернгардович1885-1939)・・・・ソ連の政治家、評論家。ポーランド、ドイツ社会民主党で活動した後、十月革命で外務人民委員部の中欧局長に就任した。またソヴェト代表としてドイツ共産党結党に参加した。帰国後トロツキー派に加わり失脚した。
リヴォフ(Георгий Евгеньевич Львов1861-1925)・・・・ロシアの政治家、首相(1917)。穏健自由主義者として地方自治運動、立憲民主党に参加した。二月革命後臨時政府で2月から7月まで首相を務めた。
リトヴィノフ(Максин Максимович Литвинов1876-1951)・・・・ソ連の政治家、外交官。ロシア社会民主労働党に参加し、イスクラ派、ボリシェヴィキに所属した。十月革命後駐英大使となったが、ソ連政府のスパイ逮捕事件に関連してイギリスに拘禁された。30年代には外務人民委員として集団安全保障に努力した。のちには駐米大使となった。
ルイコフ(Алексей иванович Рыков1881-1938)・・・・ソ連の政治家。地下活動の結果のシベリア流刑中に革命が発生し、初代内務人民委員、最高国民経済会議長を務め、レーニン死後は人民委員会議長(1924-30)を務めた。後に失脚し、粛清された。
レーニン(Владимир Ильич Ленин1870-1924)・・・・ロシアの革命家で、ロシア革命と、ソ連共産党の指導者。サンクトペテルブルクで法律学を学び、社会民主主義者と交わった。1890年代にはロシア資本主義発展の必然性の論証、ナロードニキの批判に努めた。1900年亡命し、新聞「イスクラ」誌上でレーニン主義を展開した。1903年ロシア社会主義労働者党第2回大会でマルトフ派と対立し、ボリシェヴィキを起こした。第一次革命では、農民の革命的エネルギーを重視したが、反動期には再び亡命した。第一次世界大戦中には「帝国主義論」を著し、1917年二月革命で帝制が倒れると、帰国して四月テーゼを発表した。十月革命成功の後は、ソヴェト政権の人民委員会議議長となった。ドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、続く干渉戦争を戦い抜いた。21年には新経済政策を導入するが、これは資本主義との妥協と見られ、批判を浴びた。ペトログラードは彼に敬意を表してレニングラードと改名されたが、共産主義崩壊後、サンクトペテルブルクというピョートル大帝にちなんだ旧名に復した。
ロシア政治史(1945-)
INF全廃条約(1987)・・・・米ソ間で合意された新思考外交の成果の一つ。ゴルバチョフ書記長の訪米で中距離核戦力の全廃が実現した。
アフガニスタン侵攻(1979)・・・・70年代のデタントの流れに水を差した事件。アフガニスタンに樹立されたアミン政権が親米的だとして79年12月、ソ連は軍事介入に踏み切った。ソ連は傀儡政権を立てたが、89年まで泥沼の戦争に足を取られることになった。
アンドロポフ(Юрий Владимирович Андропов1914-84)・・・・ロシアの政治家。1939年入党。1954年ハンガリー大使としてハンガリー動乱に対処した。1962年党中央委員会書記となり、中ソ論争にも当たった。1982年党中央委員会書記長となった。
エリツィン(Борис Николаевич Ельцин1931-)・・・・ロシアの政治家、大統領(1991-99)。1961年入党。1985年党書記となり、ゴルバチョフ政権下では一時役職を解任された。89年急進的な地域間代議員グループの指導者として台頭し、1990年ロシア共和国最高会議長に当選した。翌年ロシア共和国大統領となり、ソ連邦を消滅させた。
ガガーリン(Юрий Алексееви ч Гагарин 1934-68)・・・・1961年4月、ヴォストーク一号に乗って世界で初めて有人宇宙飛行に成功、「地球は青かった」の言葉を残した。
キャンプ・デーヴィド会談(1959)・・・・1959年9月フルシチョフは家族と共に、ソ連の指導者としては初めてアメリカを訪問した。フルシチョフ訪米のハイライトがアイゼンハワー大統領とのキャンプ・デーヴィド会談だった。具体的な成果はなかったが米ソ関係が好転したのは間違いなかった。
キューバ危機(Карибский кризис1962)・・・・62年10月22日アメリカの偵察機がキューバに配備されていたソ連の核ミサイルを発見した。ケネディ大統領はキューバの海上封鎖を宣言、キューバ危機が始まった。フルシチョフはトルコからのミサイル撤去を条件にキューバからの核兵器撤去を容認したが、アメリカ側は拒否した。逆にアメリカはキューバに侵攻しないという条件でキューバのミサイル撤去を提案、フルシチョフはこれに同意し、核戦争は回避された。
グラスノスチ(гласность)・・・・ゴルバチョフ政権の行った情報の自由化。情報公開が進められ、報道も自由化された。
グロムイコ(Андрей Андреевич Громыко 1909-89)・・・・ソ連の経済学者、政治家。駐米大使として国連の創設に尽力した後、戦後駐英大使、57年外相を務めた。ソ連共産党でも中央委員、最高会議幹部会、政治局員を歴任し、85年最高会議幹部会議長に就任した。
コスイギン(Алексей николаевич Косыгин1904-80)・・・・ロシアの政治家。1927年入党。1938年レニングラード市長、1939年中央委員、1943年ロシア共和国人民委員を歴任した。1964年首相となった。
コミンフォルム(Коминформ 1947-56)・・・・共産党情報局の国際的な情報交換組織。ソ連、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、フランス、イタリアの共産党が当初加盟した。1948年にユーゴ共産党が除名され、56年スターリン批判の衝撃の中で解散した。
ゴルバチョフ(Михаил Сергеевич Горбачев1931-)・・・・ロシアの政治家。1980年政治局員となり、85年党中央委員会書記長となった。1988年最高幹部会議長、1990年ソ連大統領となり、ペレストロイカとグラスノスチ政策を展開した。その後ソ連の解体により辞職した。
ジュガノフ(Геннадий Андрееви Зюганов1944-)・・・・ロシアの政治家。解散されたソ連共産党に代わるロシア共産党の書記長。1996年の大統領選挙ではエリツィンを追いつめたが当選はならなかった。
シュワルナッゼ(Здуард Амвросиевич Шеварднадзе 1928-)・・・・グルジアの政治家。1972年グルジアの党第一書記、85年ソ連外相に就任した。ゴルバチョフ政権の元で改革に努力した。
新思考(новое мышление)・・・・ゴルバチョフ政権の推進した東西緊張緩和外交をさす。一方的な核実験の停止、INF全廃条約、アフガニスタンからの撤退などの成果を上げた。
スースロフ(Михаил Андреевич Суслов1902-82)・・・・ロシアの政治家。1921年入党、「プラウダ」編集に関わり、戦後は毛沢東批判を行った。
スターリン批判(1956)・・・・1956年2月のソ連共産党第二十回大会でフルシチョフの秘密報告が行われ、スターリンの個人崇拝と専横を批判した。スターリンの粛清と独ソ戦での失敗が暴露され、国内外に大きな衝撃を与えた。
スプートニク(Спутник 1957)・・・・1957年10月、ソ連は世界で初めて人工衛星の打ち上げに成功、この快挙はフルシチョフの国内的な政治基盤の強化に貢献した。
戦略兵器制限交渉(第一次)(SALT ? 1970-72)・・・・アメリカのベトナム戦争敗退の中で米ソ関係は改善に向かい、ニクソン、ブレジネフ間で核軍縮が行われた。
戦略兵器制限交渉(第二次)(SALT ? 1979)・・・・ブレジネフ、カーター間でさらなる核軍縮が同意されたが、その年の年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻によってアメリカ議会はSALT?条約の批准を拒否、新冷戦と呼ばれる事態になった。
大陸間弾道ミサイル(ICBM 1957)・・・・航続距離5500?以上のミサイル。ソ連がアメリカよりも四ヶ月早く開発に成功した。これによりソ連から直接アメリカ本土が核ミサイルの射程距離に入った。
チェチェン紛争(1994-96)・・・・民族紛争のくすぶるロシア連邦のチェチェン共和国でエリツィン大統領は94年12月ついに軍事介入に踏み切った。戦闘は泥沼化し、チェチェンの事実上の独立を承認して紛争は一旦終息した。
チェルネンコ(Константин Устинович Черненко1911-85)・・・・ロシアの政治家。1941年党地方委員会書記、1960年最高ソヴェト幹部会事務局長を務め、1984年党中央委員会書記長、最高ソヴェト幹部会議長に登りつめた。
チェルノブイリ原発事故(1986)・・・・1986年4月、キエフ近郊のチェルノブイリで原発事故が発生、大量の放射性物質が外部に漏れ、深刻な被害が発生した。
チェルノムイルジン(Виктор Степанович Черномырдин1938-)・・・・ロシアの政治家、首相(1992-98)。政府系与党「我が家ロシア」を主催する。
中ソ友好同盟相互援助条約(1950)・・・・内戦に勝利した中華人民共和国とソ連との間の軍事同盟。日本とその同盟国から攻撃を受けたときの相互の軍事的援助を約束した。
独立国家共同体(Содружество независимых государствСНГ 1991)・・・・ソ連邦の解体に伴い、新たにバルト三国を除くソ連邦諸国が参加して結成された。独立国家共同体の再編強化を求める声もあるものの、概してその権限は弱いようである。
日ソ共同宣言(1956)・・・・フルシチョフと日本の鳩山首相との間で合意された宣言。日ソ間の平和条約締結後、歯舞、色丹二島を返還することを約束した。
八月クーデタ(1991)・・・・1991年8月18日、ヤルタで休暇中のゴルバチョフ大統領をボルジン大統領府長官らが訪問し、非常事態宣言と大統領権限のヤナーエフ副大統領への移譲を要求した。大統領がこれを拒否すると翌日ヤナーエフ、ヤゾフ国防相、パヴロフ首相、プーゴ内相、クリュチコフKGB議長らは国家非常事態委員会を結成、クーデタを敢行した。しかしエリツィンら多くの要人は支持を手控え、市民もクーデタ阻止に動いた。やがて軍もクーデタ側から離反し、21日までにクーデタは失敗に終わった。
プリマコフ(Евгений Максимович Примаков1929-)・・・・ロシアの政治家、首相(1998-99)。改革派の首相だったが、解任後は反エリツィン派「祖国・全ロシア」を率いている。
ブルガーニン(Николай Александрович Булганин1895-1975)・・・・ロシアの政治家。1917年入党。1938年人民委員会議長代理、47年陸相兼副首相などを歴任し、中国、ユーゴ訪問も行った。1956年日ソ基本条約ではソ連側代表を務めたが、58年失脚した。
フルシチョフ(Никита Сергеевич Хрущев1894-1971)・・・・ロシアの政治家。1918年入党。スターリンの後継者として中央委員会第一書記となったが、1956年第二十回党大会で衝撃的なスターリン批判を行った。対外的には米ソ共存路線をとり、世界的な論争を呼び起こした。1964年失脚した。
ブレジネフ(Леонид Ильич Брежнев1906-82)・・・・ロシアの政治家。1931年入党。独ソ戦では南部戦線軍政治部長を務めた。1960年ソヴェト最高幹部会議長となり、フルシチョフの後継者となった。彼の路線は従来と違った緊張緩和、平和共存を原則とし、国際共産主義運動の再統一を目指した。
ブレジネフ・ドクトリン(1968)・・・・プラハの春への介入を正当化するためにブレジネフが発表した制限主権論。社会主義圏全体の防衛のために、各国の主権が部分的に制限されることもあり得るとした。
ペレストロイカ・・・・1985年共産党書記長に選出されたゴルバチョフが推進した政治、経済の改革路線。ソ連社会の欠点が忌憚なく指摘され、経済の自由化が行われた。
ポドゴールヌイ(Николай Викторович Подгорный1903-83)・・・・ロシアの政治家。30年入党。1957年ウクライナ第一書記、1963年党中央委員会書記、1965年最高会議幹部会議長となった。
ミコヤン(Анастас Иванович Микоян1895-1978)・・・・ロシアの政治家。1915年入党。内戦ではバクー方面で活躍した。1935年党中央委員会政治局員、スターリン批判では口火を切る役割を果たした。1964年最高会議幹部会議長に就任したが翌年辞任した。
ミーチン(Марк Борисович Митин1901-87)・・・・ロシアの政治家。1919年入党。1939年より党中央委員、1952年からコミンフォルム機関誌を編集するなどした。
モスクワ・オリンピック(1980)・・・・ソ連軍のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国は参加をボイコットした。
ヤナーエフ(Геннадий Иванович Янаев 1937-)・・・・ロシアの政治家。1990年12月副大統領となり、八月クーデタで中心的役割を果たした。
ヤブロコ(Яблоко)・・・・穏健改革派のエリツィンに反対する勢力による政党。
U2型機事件(1960)・・・・1960年5月、アメリカの偵察機がウラル山脈で撃墜される事件が発生した。フルシチョフは激怒しアメリカを激しく非難、アイゼンハワー大統領は再発防止を約束したが米ソ関係は著しく悪化した。
ロシア共産党(Коммунистическая партия 1990)・・・・ソ連邦構成諸国の中で唯一独自の共産党を持たなかったロシアだったが、ソ連共産党保守派が中心となってポロスコフを第一書記としてロシア共産党が結成された。彼らは八月クーデタではあいまいな態度をとった。
ワルシャワ条約機構(Организация Варшавского договора ОВД 1955)・・・・ソ連が東欧八カ国と結成した軍事同盟。統一軍司令部を持ち、NATOに対抗した。