10分でわかる世界各国の政治史
ハンガリー政治史(1918-)
カダール(K?d?r J?nos 1912-89)・・・・ハンガリーの政治家、首相(1956-58,61-65)。1931年共産党に入党、戦後内相を務めたが反スターリン主義のため逮捕された。ハンガリー動乱ではソ連の傀儡政府に寝返った。
カーロイ(K?rolyi Mih?ly 1875-1955)・・・・ハンガリーの政治家、首相(1918-19),大統領(1919)。元は普通選挙を主張した自由主義政治家だったが、敗戦で政権を奪取した。クンの政権樹立後亡命した。
グロース(Gr?sz K´roly 1930-)・・・・ハンガリーの政治家、首相(1987-88)。1945年ハンガリー社会党に入党し、第一書記(1984-87)を務めたあと首相に就任した。その後党書記長(1988-89)時代に政治経済の改革に努めた。
クン(Kun B?la 1886-1939)・・・・ハンガリーの革命家。1918年ハンガリー共産党を結党し、赤色政権を樹立した。政権が打倒された後はソ連に亡命した。後にスターリンによって粛清された。
クンの赤の恐怖(Kun’s Red Terror 1919)・・・・ハンガリー共和国の大統領となったカーロイ伯が連合国の領土要求に抗議して辞任すると、レーニンによって送り込まれたクン・ベラはハンガリー共産党を組織し、ロシアの支援を約束して政権を奪取し、赤軍によるテロルを強行した。しかしルーマニアのブダペスト占領を受けてクンは亡命し、反革命派のホルティが摂政兼国家元首となった。ホルティは王なき王国を築いた。
ナジ(Nagy Imre 1896-1958)・・・・ハンガリーの政治家、首相(1953-55,56)。1918年共産党入党、1944年民族臨時政府の農相、ハンガリー動乱時に首相に復帰した。複数政党化、ワルシャワ条約機構脱退を目指し、ソ連軍の介入に世界の救援を要請したがカダールらによって逮捕、処刑された。
ハンガリー革命(Hungarian Revolution 1918)・・・・第一次世界大戦の敗戦にあって、ハンガリーの民族主義運動は高まり、オーストリアからの独立を主張した。ハンガリー議会は軍隊を帰国させ、カーロイ伯の指導で蜂起が起こった。皇帝カール1世はカーロイを首相に任じ、急進派が権力を握った。カーロイはフランスと講和し、共和国を宣言した。
ハンガリー動乱(Hungarian Revolt 1956)・・・・1956年10月23日、ブダペストで自由主義的な学生や労働者らが暴動を起こした。彼らはソ連の支配に批判的なナジの首相復帰を求めた。翌日ソ連軍が介入に乗り出したが、動乱は全国に広がり共産党政府は倒れた。ナジ首相はワルシャワ条約機構からの脱退を表明したが、11月4日態勢を立て直した20万人のソ連の大部隊が主要都市に進撃し、ナジは失脚してスターリン主義の政府が復活した。
ハンガリー内戦(Hungarian Civil War 1921)・・・・スイスに亡命していた前オーストリア皇帝カール1世は、突然ハンガリー王位を主張して、ホルティに権力放棄を求めたが、反対を受けていったん去った。しかし同年再び軍勢を引き連れてブダペストに進軍し、王座を奪回しようとしたが、ハンガリー政府軍によって逮捕され、追放された。以後ハプスブルク家によるハンガリー王位の要求は一切無効となった。
ホルティ(Horthy Mikl?s 1868-1957)・・・・ハンガリーの政治家で、王なき王国の摂政(1920-44)。ハンガリーの反革命勢力を率いて、クン・ベラの共産党政権を倒した。ハンガリーの独裁者として、第二次大戦では枢軸国を支持したが、44年休戦を企ててドイツ軍に監禁された。連合国軍の解放後は、ポルトガルに亡命した。
矢十字党(Nyilaskereszt)・・・・ハンガリーのファシズム運動。詳細不明。
ラーコシ(R?kosi M?ty?s 1892-1971)・・・・ハンガリーの政治家、首相(1952-53)。1918年入党し、第二次世界大戦後はスターリン主義者として粛清を行った。ハンガリー動乱後失脚した。
アイルランド政治史(1801-)
アイルランド(Ireland)・・・・カトリック教徒のゲール人の住むアイルランドは古くからイギリスに植民地化されていたが、1801年イギリスに併合された。カトリック教徒解放法により政治的な差別はなくなったものの、イングランド人地主とアイルランド人小作人との土地問題は深刻で、アイルランド人は貧困にあえいだ。1840年代のじゃがいも飢饉や長年の移民流出によりアイルランドは19世紀に人口が減少したヨーロッパで唯一の国となった。イギリス当局もいくどか土地法を成立させた。さらにアイルランド人は政治面では自治を求めたが、グラッドストン内閣の自治法案は失敗に終わり、1914年になってようやく成立したがこれも戦争で実施が延期された。戦後1922年アイルランド自由国が成立し、自治領となった。さらに1937年にはエール共和国となり、49年にはアイルランド共和国として完全な独立国となったが、北部のアルスター地方はイギリス領にとどまり、現在でも紛争は解決されていない。
アイルランド国民党(Irish Nationalist Party)・・・・1874年以降ウェストミンスター議会に登場したアイルランド自治獲得のための保守党、自由党に次ぐ第三の政党。1918年総選挙でシン・フェイン党に破れ消滅した。
イースター蜂起(Easter Uprising 1916)・・・・第一次世界大戦中の1916年4月24日、復活祭の日に1500名のアイルランド義勇軍はダブリンで武装蜂起を決行した。ところが準備が混乱していた上、イギリス軍の強力な反撃を受けてわずか一週間でピアスの臨時政府は壊滅した。当時アイルランドは大戦景気である程度潤っており、この武装蜂起はまったく市民の支持を受けられなかった。しかしその後のイギリス側の陰惨な報復に世論は変化することになった。
オコンネル(Daniel O’Connell 1775-1847)・・・・アイルランドのカトリック解放運動の活動家。1823年カトリック協会を設立し、当選と無効を繰り返し、カトリック教徒解放法を実現した。さらにイギリスとの併合を撤廃しようと運動したが一時逮捕された。晩年青年アイルランド党と対立し、アイルランドを去った。
オブライエン(William Smith O’Brien 1803-64)・・・・アイルランドの民族主義者、政治家。彼自身はプロテスタントの保守党議員として当選したが、ホィッグ党に転じてアイルランドのカトリックを指導した。1848年武装蜂起したが惨めな失敗に終わり、流刑にされた。
カトリック教徒解放法(Catholic Emancipation Act 1829)・・・・イギリスの自由主義的改革の一つで、カトリック教徒にもほとんどの公職を解放した。これは1801年併合したアイルランドの民族運動に対応した。
共和党(Fianna Fáil)・・・・イギリスとの条約反対派によって1926年に結成された。1932年以降アイルランドで一党優位を誇るようになった。
グラタン(Henry Grattan 1746-1820)・・・・アイルランドの政治家。アイルランド議会の権限強化を運動し、1782年グラタン議会を勝ち取った。アイルランド併合後はイギリス議会でカトリック教徒解放に努めた。
グリフィス(Arhur Griffith 1872-1922)・・・・アイルランドの政治家で、1905年シン・フェイン党を結成した。第一次世界大戦後、国民議会議長に選出され、1921年イギリス・アイルランド条約に調印した。アイルランド自由国の初代大統領となったがすぐに死去した。
ケースメント(Sir Roger David Casement 1864-1916)・・・・アイルランドの民族主義者。ベルギー領コンゴの過酷な支配の実態を告発するなどした後帰国し、シン・フェイン党に参加した。第一次世界大戦中にはドイツと結びイースター蜂起を計画したが失敗、処刑された。
ゲール協会(Gaelic League)・・・・1893年ハイドらによって設立されたアイルランドの文化団体。ゲール語とゲール文学の振興、アイルランド史の再認識を通して、民族意識を高めようとした。
国民党(Fine Gael)・・・・イギリスとの条約賛成派が結成した政党。共和党との政策距離は実際にはあまりない。
コノリー(James Connolly 1868-1916)・・・・アイルランドの社会主義者。1896年アイルランド社会共和党を結成し、1916年には200名の市民軍を組織してイースター蜂起に参加したが失敗、銃殺された。
シン・フェイン党(Sinn Féin)・・・・シン・フェインとはゲール語でわれら自身を意味する。1905年グリフィスによって結成され、イースター蜂起後勢力を拡大した。第一次世界大戦後はデ・ヴァレラの左派と右派に分裂し、前者は共和党、後者は統一党となった。
青年アイルランド党(Young Ireland)・・・・1841年設立したアイルランド独立を目指す民族主義団体。「ネーション」誌を発行して運動し、48年にはオブライエンの指導で蜂起したが鎮圧された。
デヴァレラ(Eamon De Valera 1882-1975)・・・アイルランドの政治家。アイルランド義勇軍に参加し、イースター蜂起でも指揮官として逮捕されたが釈放された。第一次世界大戦後シン・フェイン党党首として共和政府主席となった。1921年イギリスとの和平条約を不服として蜂起したが失敗、またアイルランド共和党の党首として自由国の首相となり、イギリスとの間で経済戦争を行った。後にエール共和国の首相となり、大統領(1959-73)も務めた。
ハイド(Douglas Hyde 1860-1949)・・・・アイルランドの政治家。学者としてもゲール語の復興に努め、1893年ゲール協会を設立した。彼の活躍によりアイルランド・ルネサンスと呼ばれる文化状況が生まれた。後にエール共和国の大統領(1928-45)も務めた。
パーネル(Charles Stewart Pranell 1846-91)・・・・アイルランドの民族主義者。アイルランド国民党党首、土地同盟議長となったが投獄された。1890年女性問題で失脚した。
ピアス(Patrick Henry Pearse 1879-1916)・・・・アイルランドの詩人、民族主義者。ゲール協会に参加し、のちにアイルランド共和軍を組織してイースター蜂起を決行した。しかし蜂起は失敗し、イギリス側に処刑された。
マクニール(Eoin MacNair 1867-1945)・・・・アイルランドの民族主義者。ダブリンの大学教授で古代史を専攻した。ゲール協会に参加し、ゲール文化復興に努めた。アイルランド義勇軍の最高司令官を務めたが、イースター蜂起には関与しなかった。1919年には国民議会に参加した。
ラーキン(James Larkin 1876-1947)・・・・アルスター生まれのアイルランドの労働運動指導者。1913年ダブリンストライキを指導し、アメリカに渡ったが1923年帰国した。
レドモンド(John Edward Redmond 1856-1918)・・・・アイルランドの政治家。アイルランド国民党の指導者としてアスキス内閣の時に第三次自治法を成立させた。
労働党(Paírti Lucht Oibre)・・・・国民党、共和党と共にアイルランドの三大政党の一角を占める。
ノルウェー政治史(1814-)
オラーフ5世(Olav ? 1903-91ノルウェー王 位 1957-91)・・・・若いときはスポーツが得意だった。ドイツ軍の占領中は国内で抵抗を図った。
クヴィスリング(Vidkun Quisling 1887-1945)・・・・ノルウェーの軍人、政治家。ドイツ軍占領下のノルウェーで国民連合を率いて首相となったが、解放後処刑された。
国民連合(Nasjonal Samling NS)・・・・ナチスの支援によってノルウェーで伸長したファシズム政党。ナチによる占領下で与党となったがドイツ軍がいなければなにもできない存在だった。
自由党(Venstre)・・・・保守党と同時期に成立した近代政党。
1814年憲法・・・・ノルウェーは長くデンマークの支配下にあった関係で貴族階層がなく、1814年の段階ですでに同君連合のスウェーデンよりも自由主義的な憲法を制定していた。当時としては広範な選挙権付与と閣僚の責任追及の制度を保障していたため、ノルウェーでは順調に議会の権限が発達した。
ノルウェー侵攻(Invasion of Norway 1940)・・・・第二次世界大戦でノルウェーは中立を宣言していたにもかかわらず、1940年4月9日ドイツ軍はノルウェーの資源を求めて侵略を開始した。一部にドイツへの協力者はいたが大方の国民は優勢なドイツ軍によく抵抗した。結局ノルウェーは占領され、国王と政府は亡命した。
ハーコン7世(Haakon ? 1872-1957 ノルウェー王 位 1905-57)・・・・近代ノルウェー王国初代の王。虚飾を廃し、ドイツの占領中は亡命して抵抗運動を指揮した。
保守党(Høyre)・・・・19世紀末に成立した近代的な保守政党。
フィンランド政治史(1918-)
愛国人民連盟(Is?nmaallinen Kansanliike)・・・・ラプア運動に代わって出現したファシズム的な運動。反共、東カレリア地方のソ連からの奪還を唱えて1933年の選挙で政界に進出したが、政権奪取はならなかった。
ウィーン体制・・・・フィンランドはスウェーデンからロシア支配下のフィンランド大公国となった。しかし統治機構は独自のものをもっており、スウェーデンとも引き続き交流が盛んで、周辺地域でありながら経済的水準は高かった。
社会民主党(Suomen Sosialidemokraattinen Puolue)・・・・フィンランドの社会民主党は1906年ロシア革命の影響で伸長し、さらに過半数を占める有力政党となった。独立後は穏健化した。
ソ連・フィンランド戦争(1939-40,41-44)・・・・第二次世界大戦が発生すると、ソ連はレニングラードの安全を確保する名目で、フィンランドにたいしハンコ半島の海軍基地租借、マンネルハイム線の非武装化、フィンランド湾の諸島の割譲という不当な要求を行った。フィンランド側が拒否すると、1939年11月、ソ連は100万もの大軍を持ってフィンランドに侵入した。30万のフィンランド軍は善戦し、スオルサルミ村の戦いではソ連の2個師団を壊滅させる戦果を挙げた。しかし大量の砲撃と空襲の前にマンネルハイム線は突破され、40年3月フィンランドは講和を求め、カレリア地峡など国土の約10パーセントを割譲した。この戦争の結果、ソ連は国産連盟を除名された。41年6月、ソ連の脅威の前にドイツと結んでいたフィンランドは、ソ連に侵攻し戦争が再開された。44年9月フィンランドは再び敗れ、領土割譲と3億ドルの賠償金をかせられた。
パーシキヴィ(Juho Paasikivi 1870-1956)・・・・フィンランドの政治家で、首相(1918,44-46)、大統領(1946-56)。フィンランドの独立直後、保守党の首相としてソ連との交渉に当たった。ソ連・フィンランド戦争の休戦に努力し、戦後もソ連との友好に尽くした。
フィンランド共産党(Suomen Kommunistinen Puolue)・・・・独立戦争では白軍との間に激烈な内戦を戦ったが結局敗れ、成立したフィンランド共和国では非合法化されてしまった。
フィンランド独立戦争(Finnish War of Independence 1918-20)・・・・ロシア革命に伴い、フィンランドは1917年12月、ロシアからの独立を宣言した。しかしスヴェンフードの連立政権はすぐにボリシェヴィキによって打倒され、マンネルハイムの白軍と、フィンランド共産党との間で内戦が始まった。赤軍はヘルシンキを制したが、ドイツ軍の支援を受けた白軍は18年4月、ビボルグの戦いで赤軍を破った。白軍は恐怖政治を行い、何千人もの虐殺を行った。1919年6月、フィンランド共和国が建国され、今度は西カレリアをめぐってロシアと武力衝突に至ったが、ドルパット条約で戦闘は終結し、フィンランドの独立が再確認された。
マンネルハイム(Carl Gustaf Mannerheim 1867-1951)・・・・フィンランドの軍人、政治家で大統領(1944-46)。1918年のフィンランドの独立時に、最高司令官となった。1931年国防会議議長となり、ソ連・フィンランド戦争では総司令官として戦線に復帰し、大統領にもなった。
ラプア(Lapua)・・・・世界恐慌に対抗して起こったフィンランドの農村を基盤とする反共運動。一時は強勢を誇ったが、やがて没落した。
スペイン政治史(1812-)
愛国同盟(Uni?n Patri?tica 1924)・・・・プリモ・デ・リベラの作った支持組織。後のファランヘ党同様大衆組織とは言い難く、プリモのファシズム的運動のもくろみは失敗に終わった。
青い師団・・・・フランコは日独伊防共協定に参加していたが、ヒトラーはこれを根拠に第二次世界大戦に参戦するよう要求した。そこで「青い師団」なる義勇軍を東部戦線に派遣したが、枢軸国が不利になるにしたがって非交戦国から中立へ外交政策を転換させていった。
アサーニャ(Manuel Aza?a 1880-1940)・・・・スペインの政治家で、大統領(1936-39)。作家から共和党左派の領袖となり、1931年の王政廃止に功績があった。民主的改革を目指し、人民戦線を率いたが、内乱でフランコに敗れパリに亡命した。
アストゥリアスの蜂起(Asturian Uprising 1934)・・・・アストゥリアス革命、十月革命ともいう。1934年10月、カトリック勢力のスペイン自治右翼連合(CEDA)の政権参加に反対してアストゥリアスで7万人の労働組合員が蜂起した。蜂起はフランコ将軍の残虐な弾圧によって2週間で鎮圧された。
アナキズム・・・・1870年代以降スペインの労働運動にはバクーニン派のアナキズムが広まった。特にアンダルシア地方では神秘主義と結びつき、カタルーニャではアナルコ・サンディカリズムとなり、根強い勢力を持った。内戦では反フランコ側に立ち実際にアナキズムの実験を行った。
アブド・アル=カリーム(‘Abd al-Karim 1882-1963)・・・・モロッコのベルベル人の指導者で、1919年フランスとスペインの支配に対して反乱を起こした。1921年リーフ共和国の初代大統領を称したが、ペタン元帥率いるフランス軍に敗れ、1926年降伏した。レユニオン島に流刑になったが、第二次世界大戦後恩赦となった。
アルフォンソ12世(Alfonso ?? 1857-85 スペイン王 位 1874-85)・・・・王政復古により即位したスペイン王。彼の治世は近代スペイン史の中でも政治的安定を享受した時期に当たった。
アルフォンソ13世(Alfonso ?? 1886-1941 スペイン王 位 1886-1931)・・・・父王の死後に誕生した。イギリスのヴィクトリア女王の孫娘と結婚した。米西戦争を経験し、第一次世界大戦では中立を守ったが、戦後モロッコでムーア人に敗北した。23年以降プリモ・デ・リベラと結んだが、31年の革命で亡命した。
イサベル2世(Isabel ? 1830-1904 スペイン王 位 1833-68)・・・・サリカ法典を改正してフェルナンド7世の後を次いで即位したために、カルリスタ戦争を招いた。長じては進歩派の九月革命のクーデタにより退位した。
EC(European Community)・・・・スペインは1962年にEC加盟を申請したことがあったが独裁制のため却下、77年に加盟申請が受理された。85年にようやく加盟が決定したが、これによりスペインで外国からの投資ブームが起こり、スペイン企業も国際化に対応することが出来た。1999年にはEUの通貨統合第一陣にも参加している。
ヴェロナ会議(Verona 1822)・・・・神聖同盟諸国を北イタリアのヴェロナに集めて行われた会議。スペインの革命運動の弾圧を決めた。
エスパルテロ(Baldomero Espartero 1793-1879)・・・・スペインの軍人、政治家、首相(1854-56)。カルリスタ戦争などで活躍した後、イサベル二世の元で首相を務めたが、のちに女王に見捨てられ辞職した。
オドンネル(Leopoldo O’Donnell 1809-67)・・・・スペインの軍人、政治家、首相(1858-63)。エスパルテロ内閣の陸相を努め、自由統一党を率いて首相となった。
カシキスモ(caciquismo)・・・・アルフォンソ12世の治世の頃以降の政治体制。カシケと呼ばれる地方のボスが徴兵、徴税など地方政治を牛耳った。
カタルーニャ(Cataluna)・・・・バルセロナを中心とするスペインの地方名。近代史上幾度か自治運動を行っている。
カタルーニャ同盟(CiU)・・・・民主化後のカタルーニャの地方政党。中央レベルでは社会労働党政権に協力していた。
カタルーニャの反乱(Catalan Revolt of 1934)・・・・農地法や自治をめぐってカタルーニャ自治政府のコンパニス大統領は1934年10月6日、スペイン連邦からの独立を宣言した。政府軍は直ちに弾圧に乗り出し、カタルーニャの治安を回復した。
カノバス・デル・カスティリョ(Antonio Canovas del Castillo 1828-1897)・・・・スペインの政治家、首相(1868-69,74-75,75-79,79-81,84-85,90-92,95-97)。保守党の指導者で、革命後長年首相を務め、王制を支えた。1896年には新憲法の制定にも関与した。
カルリスタ戦争(第一次 Carlist 1834-39)・・・・スペイン国王フェルナンド7世の死後、娘のイサベル2世が即位したが、王弟ドン・カルロスは女性の皇位継承を禁じたサリカ法典を盾に取り、即位に反対した。スペイン王カルロス5世を名乗るドン・カルロスを指導者に、カルリスタ(カルロス党)は、カトリック勢力及び北部の支持を受けて蜂起した。イサベル2世の摂政である皇太后マリア・クリスティナは自由主義者の支持を受け、外国の支援も確保して、カルリスタ戦争を戦った。緒戦はカルリスタ側が勝利を重ねたが、外人部隊の支援を受けたクリスティナ派は勢力を挽回した。特にフランス部隊は、テラペギの戦いとウエスカの戦いで勝利した。ドン・カルロスはマドリードから撤退し、39年8月、カルリスタ軍の最高司令官マロトは独断で和睦し、クリスティナ側に寝返った。これによりドン・カルロスはフランスに亡命した。残存カルリスタ軍もカタローニャで戦い続けたが、40年には敗走した。19世紀も半ばになろうという時期に、未だに中世のサリカ法典を持ち出したり、王位継承をめぐる内乱が起こるところに、時代遅れのスペインの姿があった。
カルリスタ戦争(第二次 Carlist 1873-76)・・・・イサベル2世の退位の後、スペインの議会であるコルテスは70年にようやくサヴォイア家のアマデオ1世を国王に選出した。しかし継承者争いに敗れたものや民衆の反対で新国王は幾度か命をねらわれ、73年には退位に追い込まれた。コルテスでは急進派が主導権を握り、スペイン史上初めて共和制が宣言された。(第一共和制)これにドン・カルロス3世(1世の孫)をかつぐカルリスタが蜂起した。カルリスタはバスク人の支持を得て優位に戦いを進めた。将軍の裏切りが続く中で共和制政府ではドミンゲス将軍の独裁政権が成立した。以後カルリスタと政府軍との凄惨な内戦が続いた。カルリスタはエストレリャとクエンカで勝利したが、政府軍はイサベルの子であるアルフォンソ12世を即位させ、ブルボン朝が復活した。政府軍はカタルーニャとアラゴンを制圧し、76年にはバスク人の本拠地も占領した。ドン・カルロス3世はフランスに亡命し、1万人のカルリスタが国外追放された。バスク人も独自の軍制、税制を廃止された。7月にコルテスは新憲法を承認し、内乱はようやく収拾した。
急進党(Partido Republicano Radical RRR)・・・・名前に似合わぬ右派政党で、1933年選挙後はCEDAの協力を得て組閣した。
共産党(Partido Comunista de Espana)・・・・1921年に結成され、第二共和制成立時に合法化された。当初は共和政府に反対していたがやがて人民戦線を形成し、内戦期にはソ連の援助で勢力を拡大した。しかしソ連に従属していたために粛清までもスペインに持ち込む結果となり、内戦に敗れた。
「ゲルニカ」(Guernica)・・・・内戦でフランコに敵対するバスク自治政府の拠点ゲルニカに対し、ドイツは大規模な空爆を行い、約3000人の人口のほとんどが死傷し、街は壊滅した。従来より政府軍を支持していたピカソはこれに講義して「ゲルニカ」と題した壁画を描いた。
ゲリラ(guerrilla)・・・・スペインを侵略したナポレオンの軍隊に対する武装闘争にちなんで、「ゲリラ」という言葉が世界的に定着した。
国民党(Partido Popular PP 1989)・・・・国民連合から改組されたが、中道政党として国民の信頼を回復、1996年念願の政権についた。
国民連合(Alianza Popular AP 1976)・・・・フランコ政権下で内相などを歴任したフラガが旧フランコ体制派を結集して創設した保守政党。新しい民主主義に適応しようとしたが選挙で苦戦を強いられ、あまつさえ新憲法承認に反対した極右は離党していった。1989年党名を国民党として心機一転、再起を図った。
サガスタ(Praxedo Mateo Sagasta 1827-1903)・・・・スペインの政治家、首相(1881-83,85-90,92-95,97-98,1901-2)。イサベル二世への反対運動で頭角を現し、後に自由党を結成してカノバスと共に妥協の政治を行った。
ジブラルタル・・・・スペインはイギリス領ジブラルタルの返還を強く求めたがイギリスは応じず、1967年の住民投票でもほぼ全員がイギリス領に留まることを希望した。スペインはジブラルタルを68年から82年まで封鎖するなどしたが効果はなく、いまだにイギリス領である。
社会労働党(Partido Socialista Obrero Espa?ol)・・・・コミュニズム派の労働運動から1879年に結成された。アナキズムに反対し改良主義的で、後には人民戦線に参加した。内戦期の共和国でも重要な役割を果たしたが、結局敗れて以後国内と海外で分かれて活動するようになった。1976年12月内戦終結以来初めて国内で党大会を開き、選挙にも参加した。マルクス主義的綱領を外し、1982年選挙で大勝利し96年まで長期政権を担った。
自由党(Partido Liberal-Fusionista)・・・・19世紀末の政治的安定期に保守党と交互に政権を担当したが、これは近代的な二大政党制ではなく、有力者の利益分配を目的とするトーリーとホィッグのそれであった。
人民戦線(Front populaire)・・・・1930年代、ファシズムの脅威に対して各国で結成された左翼勢力の連合。共産党が左翼中産階級政党とも連携したことが注目される。1935年のコミンテルン第七回大会で公認され、フランス、スペインでは実際に人民戦線政府が成立した。
スペイン王位継承問題・・・・1868年の革命でイサベル2世が退位すると、スペインのコルテスは後任国王の人選にかかった。白羽の矢が立ったのがホーエンツォレルン家の親戚であるレオポルトだった。スペイン政府はうかつにもこれを公表してしまい、フランスの激しい反発を招いた。スペインと神聖ローマ帝国の王位を兼ね、フランスを脅かしたカール5世の時代の再来をおそれたのだ。エムス温泉で交渉が行われ、レオポルトは身を引くことなったが、ここでエムス電報事件が発生した。
スペイン革命(Spanish Revolution 1854)・・・・スペインのオドンネル将軍(1809-67)とカノバス(1828-97)は、秘密主義で人気のない皇太后、マリア・クリスティナ(1806-78)を追放しようと考え、蜂起した。1854年6月末、革命軍はマドリード近郊で政府軍と戦ったが勝負はつかず、カノバスはマンサナーレス声明を出して支持を呼びかけた。この中では政治改革と国民軍の復活が約束され、自由主義者の支持を受けた。7月、首都をはじめ各地で反乱が起き、国王イザベル2世は自由主義改革を約束した。女王はエスパルテロを首相に任じ、秩序を回復した。オドンネルは陸相となり、マリア・クリスティナは国外追放された。
スペイン革命(Spanish Revolution 1868)・・・・国王イサベル2世の専制政治に対し、1868年武装蜂起が起きた。一度は壊滅したものの、イサベル2世がフランス訪問中に、またも革命が起きた。女王は帰国したがアルコレーアの戦いで国王軍は大敗し、イサベル2世は廃位を宣言された。臨時政府が樹立され、政教分離と普通選挙、出版の自由、反動的な法律の廃止を行った。召集された憲法制定議会は、君主制を議決し、新憲法を公布した。
スペイン革命(Spanish Revolution 1931)・・・・1930年スペインでは、世界恐慌の影響を受け、社会主義者や共和派の反王制運動が高まった。アルフォンソ13世は退位し、共和制憲法が制定されたが、大土地所有は解体されず、反動勢力の攻勢もあって共和制政府は安定しなかった。
スペイン共産党(PCE Partido Comunista Espa?ola)・・・・1922年に設立されたが、当初はCNTに押されてふるわなかった。人民戦線政府の成立以降勢力を伸ばし、内戦が始まるとやがて共和国の指導権を握った。他の左翼諸党派を抑圧したが、最終的にはフランコに敗れた。1976年合法化されたが往時の勢いは見る影もない。
スペイン自治右翼連合(CEDA Confedracion Espanola de Derechas Autonomos)・・・・第二共和制期のカトリックの政治団体で、共和制政府の反教会政策に反発した。1933年の総選挙ではナチスからの援助もあって議席をのばし、政権に参加したことが十月闘争の原因となった。
スペイン内戦(Spanish Civil War 1820-23)・・・・アルゼンチン、コロンビア、チリ、などラテンアメリカの植民地の独立によって収入源を失ったスペインは再征服を企てたが、カディスに集められた軍隊は逆にリエゴ大佐を指導者として暴動を起こした。反乱軍は1812年憲法に忠誠を誓い、マドリードへ進軍した。国王フェルナンド7世は憲法を受け入れ、立憲革命が成功した。しかし左派はさらに国王を幽閉し、左右両派の間で内戦が起こった。四国同盟はヴェロナ会議を開きフランスに解決を委任した。フランス軍は革命派を壊滅させ、フェルナンド7世を復位させた。フェルナンドは10年にわたって絶対王政を復活させた。
スペイン内乱(Spanish Civil War 1936-39)・・・・1936年左翼が選挙で勝って人民戦線内閣が成立し改革を続けると、特権喪失をおそれる右翼のファランヘ党はフランコに率いられ、暴動を起こした。7月17日モロッコで暴動が始まり、各地に広まった。こうしたナショナリスト達は各地で政府軍を圧倒し、占領地を広げた。政府軍が戦争拡大をおそれる英仏から援助を受けられなかったのに対し、反乱軍は独伊から公然と支援されたからだった。ソ連の武器援助と国際義勇軍によって政府軍は頑強に抵抗したが、共産党の比重増大に伴って粛正がおき、内紛から政府軍は自壊した。マドリードは陥落し、共和制支持派はフランコによって処刑された。スペイン内乱の意義としては軍事的にはゲルニカの爆撃など独伊の新兵器の見本市となったこと、政治的にも第二次世界大戦の前哨戦となったことがあげられる。
赤道ギニア・・・・スペイン最後の植民地では1958年以降スペインの県として同化政策が行われたが、国連の圧力で1963年住民投票の結果自治権が認められた。68年に正式に独立したがスペインはなおも赤道ギニアに影響力を行使しようとしたため、マシアス大統領に追い立てられるように出ていくはめになった。
1978年憲法・・・・民主化に合わせて新たに憲法が制定された。各種の人権保障、責任内閣制、下院の優越などが定められている。国王に軍の統帥権が与えられている点が興味深い。
1812年憲法・・・・スペインの政治的近代の幕開けを告げる憲法で、フランスの圧力下に制定された。主権在民を内容とした。
第一共和制(1873-74)・・・・九月革命後、自由主義者らはサヴォイア家のアマデオ1世を国王に選出したが、彼は73年2月に退位し第一共和制が成立した。しかし南部の反乱、カルリスタの蜂起、キューバの反乱によって軍は短い共和制に終止符をうった。
第二共和制(1931-39)・・・・プリモ・デ・リベラ独裁崩壊後の1931年4月12日の地方選挙は、事実上王制か共和制かを争点として行われた。選挙結果が明らかになるのを待たずに各地で共和制が宣言され、国王はフランスに亡命し、第二共和制が成立した。直後に召集された憲法制定議会ではワイマール憲法にならった民主的な憲法が制定された。しかし反動勢力の巻き返しでアサーニャ内閣の農地、軍制改革はやがて頓挫し、36年の総選挙に当たっては左派勢力は人民戦線を形成した。選挙は人民戦線の辛勝に終わり、初めての人民戦線政府が成立した。フランコ将軍は7月、クーデタを宣言し内乱が始まった。結局内乱はフランコの勝利に終わり、独裁体制が成立した。
統一マルクス主義労働者党(Partido Obrero de Unificaci?n Marxista)・・・・スペイン共産党結成時に分かれたグループという事情から、後に共産党から憎悪された。カタルーニャの地方政党で、五月事件ではCNTと共に攻撃された。
西サハラ・・・・西サハラではリン、水産資源が豊富であった。スペインは西サハラを経済的つながりを保ったままで独立させる方針だった。ところが隣国モロッコとモーリタニアが西サハラの領有権を主張し始め、事態は予想外に紛糾した。1975年国際司法裁判所で両国とも領有権なしとの判決が出たためモロッコのハッサン2世は実力行使にで、危機が発生したが結局マドリード協定によりスペイン軍は西サハラから撤退した。
ネグリン(Juan Negr?n 1894-1956)・・・・スペインの政治家で、社会党の指導者として人民戦線内閣の蔵相(1936-37)を務めた。さらに首相(37-39)をつとめ、内乱の収拾に当たったが敗北し、亡命した。
バスク人(Vascongadas)・・・・スペインの北部、ピレネー山脈付近に住む人々。他の地方の人々と言語的、人類学的に異なっている。一説には原住イベリア人という。
バスク祖国と自由(ETA 1959)・・・・PNVの穏健路線に飽き足らない若者達によって結成された。フランス、スペインにまたがるバスク地方の独立を求めてテロ路線を推進している。またマルクス・レーニン主義を標榜してもいる。武闘派はやがてカレロ・ブランコ首相を暗殺するほか、無差別テロに走った。民主化後もテロを棄てず、問題となっている。国民から孤立したETAは1998年秋ついに休戦宣言を出した。
バスク民族党(PNV)・・・・1894年以来の伝統を持つ地方政党。現在でも存在する。
反テロリスト解放グループ(GAL 1983-87)・・・・ETAのテロに実力で対抗するために結成されたグループ。政府が裏で支援していた可能性も指摘されるなど謎の多い団体だった。
ヒル・ロブレス(Jos? Maria Gil Robles Quinones 1898-1980)・・・・スペインの政治家。第二共和制期にカトリック保守派の希望の星として活躍した。後の内戦ではフランコ側についた。
ファシズム(fascism)・・・・イタリアのムッソリーニの政権をはじめ、ナチス・ドイツ、軍国主義の日本、スペインのフランコ体制や東欧の権威主義体制など類似の形態を持つ政治体制を総称する。ファシズムとは帝国主義時代に入って矛盾を激化させた資本主義社会における国粋主義、暴力主義で、社会政策を行い中間層、農民の支持を受けた。またロシア革命への反革命という性格も持つ。ドイツ、イタリアなどではファシズム政党が下からの疑似革命で政権を奪取したが、日本では既存の体制そのものが上からファシズム化した。1930年代にはイギリスやフランスにおいてすらファシズム的運動が見られた。
ファランヘ党(Falange Espa?ola)・・・・スペインのファシズム政党で、プリモ・デ・リベラの息子の創設による。37年フランコがこの政党を再編成し、彼を党首とする独裁下唯一の政党として君臨した。
フェルナンド7世(Fernando ? スペイン王 位 1808,14-33)・・・・1808年、父王を退位させ即位したが、ナポレオンの圧力により一旦追放された。解放後は極端な反動政治を強行し、リエゴらの立憲革命を招いた。
フランコ(Francisco Franco 1892-1975)・・・・スペインの軍人、独裁者。1934年アストゥリアスの蜂起の弾圧にあたり、36年7月人民戦線に対する反乱を開始した。反乱軍の総司令官に選ばれ、国民戦線を勝利に導いた。スペインの独裁者になってからは、最初独伊寄りの政策をとるが、戦局の展開につれ、微妙に距離を置くようになる。戦後は反共主義のおかげで西側諸国と関係を修復し、生涯政権を維持した。
プリモ・デ・リベラ(Miguel Primo de Rivera 1870-1930)・・・・スペインの将軍で、米西戦争に参加した。1923年9月、軍事クーデターで祖国、宗教、王制をとなえる独裁者となった。モロッコの民族運動や国内の反王制はを弾圧したが、知識人、労働者の反独裁運動に軍部と国王の支持を失い、30年政権を失い、まもなく死亡した。
ブルボン家(Bourbon )・・・・1589年以降フランスの王家だったが、18世紀以降はスペインの王家も務めた。19世紀以降いくどかの革命を経て、1975年ファン・カルロス1世が王政復古で即位している。
プロヌンシアミエント(pronunciamiento)・・・・スペインでしばしば見られる政変の際のクーデタ宣言のことを指す。
米西戦争(Spanish-American War 1898)・・・・キューバの独立運動に対するスペイン当局の過酷な弾圧は、ジャーナリズムの扇動もあってアメリカ国民の憤激をかっていた。1898年4月にハバナ港アメリカ船メーン号が謎の爆発を起こすと、アメリカはスペインに宣戦布告した。フィリピン戦線ではスペイン艦隊は壊滅し、マニラ市を占領された。キューバ方面の戦いでも陸海ともにスペイン側の敗北に終わり、8月スペイン軍は休戦した。スペインはキューバの統治権を放棄し、フィリピン、プエルトリコ、グァム島をアメリカに割譲した。この敗北にショックを受けたスペインでは、「1898年の世代」というペシミスティックな一群の知識人が登場した。
保守党(Partido Liberal Consavador)・・・・カノバスに代表され、カシキスモと呼ばれる名望家の支配体制を自由党と共に支えた。
マルティネス・デ・カンポス(Arsenio Mart?nez de Campos 1831-1900)・・・・スペインの軍人、政治家、首相(1879)。のちにキューバの独立運動を弾圧した。
マルティネス・デ・ラ・ロサ(Francisco Mart?nez de la Rosa 1787-1862)・・・・スペインの作家、政治家、首相(1820-23,34-35)。グラナダ大学教授だったが穏健自由主義者として政界入り、後に上下両院議長などを務めた。
民主中道連合(UCD)・・・・1976年7月首相に就任したスアレスが総選挙に合わせて体制内外の革新派を結集したにわかづくりの選挙連合。1977年、79年の総選挙では第一党を確保したが、政権運営ではトラブル続きで、82年総選挙で壊滅した。
モロッコ植民地・・・・フランスと共同支配していたモロッコだが、56年フランスはフランス保護領モロッコの独立を認めた。そのためスペインも4月モロッコの支配地域の独立を認めざるを得なくなった。ところが南部のイフニの引き渡しを拒否したため57年にはモロッコとの間に軍事衝突まで起きた。イフニは69年FE巣協定によりようやく返還された。この間58年にはタルファヤも返還された。
ラルゴ・カバリェロ(Francisco Largo Caballero 1869-1946)・・・・スペインの政治家で、社会党左派として人民戦線内閣の首相(1936-37)となった。フランコの反乱軍と戦ったが、人民戦線の内紛で辞任した。
リエゴ(Rafael del Riego y N??ez 1785-1823)・・・・スペインの政治家。解放戦争で活躍し、1820年の立憲革命を主導したが、王党派に処刑された。
リーフ戦争(Rif War 1893)・・・・モロッコのベルベル人がスペインの要塞を攻撃したので、スペインは2万5千の軍勢を派遣した。当地のスルタンは2000万ペセタの賠償金の支払いを約束させられた。
リーフ戦争(Rif War 1919-26)・・・・スペインはフランスとともにモロッコを支配していたが、1919年モロッコ人の攻撃を受けた。一方は撃退したが、アブド・アル=カリームの軍勢にはスペイン軍は惨敗し、リーフ共和国の樹立が宣言された。この事態はスペイン本国でも王制の動揺をまねいたが、プリモ・デ・リベラ自ら出陣し、1925年フランスと協力して反乱の鎮圧に乗り出した。ペタン元帥の活躍でアブド・アル=カリームの軍は敗れ、1926年5月彼は降伏してレユニオン島に流刑になった。
労働全国連合(CNT Confederaci?n Nacional del Trabajo)・・・・1911年、バルセロナで結成されたアナルコ・サンディカリズムの立場に立つ労働組合。UGTと並立したが、第二共和制の議会政治には参加しなかった。内戦期には共和国地域でアナキスト革命を実行し、独自の民兵を組織したがやがて共産党に押された。
労働総同盟(UGT Uni?n General de Trabajadores)・・・・1888年成立の社会党系の労働組合。アサーニャ政権を支持し、内戦期には大土地所有を解体した。
ポルトガル政治史(1815-)
ブラジル帝国関係を含む。
アンゴラ(Angola)・・・・アフリカ南西部のポルトガルの植民地で、古くから奴隷貿易で知られた。
共和党(Partido Republicano Portugu?s)・・・・ロタティヴィズモの最終段階に登場し、1910年の共和革命を主導した。共和政府では近代化改革を行ったが、やがて分裂した。
国民同盟(Uni?no Nacional)・・・・
刷新党(Partido Regenerador)・・・・19世紀の後半、歴史党と共に長期にわたり交互に政権を担当した。
サラザール(Ant?nio de Oliveira Salazar 1889-1970)・・・・ポルトガルの政治家、独裁者。1928年カルモナ将軍の独裁下に蔵相に就任し、財政再建に成功した。1932年首相に就任して以来、68年に引退するまでポルトガルの独裁者として君臨した。国家統一党というファシズム的な政党を組織し、33年には新憲法を採択した。
サルダニャ(Jo?o Carlos de Oliveira e Daun Saldanha 1790-1876)・・・・ポルトガルの軍人、政治家、首相(1846-49,51-56,70)。ブラジルで活躍した後歴史党を率いて政権を執った。
ジョアン6世(Jo?n ? 1767-1826 ポルトガル王 位 1816-26)・・・・ナポレオン戦争中はブラジルに避難していたが、1820年帰国した。
ドン・ミゲル(Dom Miguel 1802-66)・・・・ポルトガルの王族、政治家。1828年ポルトガルの王位簒奪に成功したが、イギリスの支援を受けたドン・ペドロの巻き返しにより1833年追放された。
フォンテス(Pereira de Melo Fontes 1819-87)・・・・ポルトガルの政治家、首相(1871-77、77-79,81-86)。1851年から経済閣僚を務め、道路、橋、鉄道の整備を行った。
フォンテス主義(Fontismo)・・・・フォンテスの行った自由主義的な経済政策を指す。イギリスからの借款により社会資本を整備した。
ペドロ1世(Pedro ? 1798-1834 ブラジル皇帝 位 1822-31)・・・・ナポレオン戦争時に父のジョアン6世ら王族と共にブラジルに避難した。 父王帰国時にブラジル統治を任されたが、1822年にブラジルの独立を宣言し、初代皇帝に就任した。しかし後に民衆の反乱により退位した。
ペドロ2世(Pedro ? 1825-91 ブラジル皇帝 位 1831-89)・・・・父王ペドロ1世の後を次いで即位し、実権掌握後は奴隷解放、普通選挙など近代化に努めたが、共和主義革命により亡命した。
ポルトガル内戦(Portuguese Civil War 1823-24)・・・・1823年、ポルトガルで2回にわたり王党派による暴動が起きた。これを支持していたジョアン6世の3子、ドン・ミゲルは、反政府運動をおこし、王妃と兵士達から国王と認められた。しかしドン・ミゲルの専制に市民は離反し、父王に謝罪した。ドン・ミゲルはウィーンに追放され、ジョアン国王はブラジルの独立を認めると同時に、ブラジル皇帝である息子のペドロ1世を自分の後継者とした。
ポルトの革命(Revolution at Oporto 1820)・・・・ジョアン6世は半島戦争中、ブラジルに亡命していた。戦争中ポルトガル軍を指揮していたイギリス人ベリズフォードは、国王の帰国を促したが、1820年8月、ジャコバンクラブの革命が成功した。イギリスのたてた摂政政府は倒れ、革命委員会によってイギリス勢力は追放された。帰国したジョアン6世は、立憲王政を行った。
ミゲリート戦争(Miguelite Wars 1828-34)・・・・ポルトガルではジョアン6世が死ぬと、予定通りブラジル皇帝ペドロ1世がペドロ4世として即位した。ペドロ4世はイギリス風の憲章を発布したが、すぐに娘のマリア2世(1819-53)に王位を譲った。ペドロの弟のドン・ミゲル(1802-66)はマリアを補佐すると約束したが、ドン・ミゲル支持派(ミゲリート)はリスボンを掌握し、立憲主義者と対立した。いったんはミゲリートはイギリス軍の支援を受けた立憲主義者に制圧され、ドン・ミゲルは憲章を認めた。しかしドン・ミゲルはやがて貴族を高官に任じ、28年5月ついに王を称した。マリアはイギリスに亡命し、立憲派と絶対王政派のミゲリートとの間で再び内戦となった。ミゲリートは6月コインブラの戦いで勝利し、ドン・ミゲルは7月に即位した。アゾレス諸島以外の全領土がミゲリートの手に落ちた。しかしペドロは息子にブラジル帝位を譲り、イギリスの支援を受けて戦いを続けた。ミゲル派は1833年7月、ネイピアのイギリス艦隊にサン・ビンセント沖海戦で敗れ、リスボンも奪われた。イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルの4カ国同盟が結ばれ、1834年サンタレンの戦いで敗れたミゲルは降伏し、マリア2世が再び即位した。
モザンビーク(Mozambique)・・・・アフリカ南東部にあったポルトガルの植民地で、大航海時代の遺産のひとつ。
歴史党(Partido dos Progressistas Hist?ricos)・・・・後進歩党(Partido do Progresso)。刷新党との政策距離は少なかった。
ロタティヴィズモ(rotativismo)・・・・1851年から1908年にかけて歴史党と刷新党の間で政権がたらい回しにされた現象をさす。政治は非常に安定化したが、それはカシキスモを基盤としたものでスペインの保守党と自由党同様、近代的な二大政党制ではなかった。
ギリシャ政治史(1821-)
アドリアノープルの和(Peace of Adrianople1829)・・・・ギリシャ独立戦争のロシア・トルコ間の講和。戦争中ロシアはアドリアノープルまで進出し、モルタヴィア、ワラキア公国を放棄し、黒海沿岸を割譲させた。
アレクサンダー1世(Alexander ?1893-1920 ギリシャ王 位1917-1920)・・・・父王コンスタンティノス1世とヴィルヘルム2世の妹との間の子で、第一次世界大戦中、ギリシャが連合国の参戦要求にあうと、父は退位し、代わって即位した。
イディオニム法(1929)・・・・保守化したヴェニゼロスはせいぜい4%程度の得票率しかなかったギリシャ共産党を非合法化してしまった。
イプシランティの反乱(Ypsilanti Rebellions 1821)・・・・イスタンブールのギリシャ人特権階級に属していたアレクサンドロス・イプシランティは、ロシアに亡命していたが、1820年にはギリシャ人の独立を目指す民族組織「フィリケ・ヘタイリア」の指導者となった。イプシランティは1821年3月大部隊を率いてロシアからルーマニア方面に進撃したが、ロシアはイプシランティを罷免し、ルーマニア人の支持も得られなかったので反乱は6月には壊滅した。一方弟のディミトリオス・イプシランティはギリシャに逃れて独立戦争を開始した。
イミア島紛争(1996)・・・・トルコ本土に近い小さな岩島のイミア島にトルコ船が座礁したため救助しようとしたところ、ギリシャはイミア島は1947年ギリシャに帰属したドデカネス諸島の一部であると主張、両国関係は一気に緊迫化した。紛争海域で両国海軍がにらみあったがアメリカの調停で両国とも撤退することで危機は終息した。
ヴェニゼロス(Eleutherios Venizelos 1864-1936)・・・・ギリシャの政治家、首相(1912-15,17-20,24,28-32,33)。クレタ島出身で、1896年の蜂起に活躍した。その後クレタ自治政府の首相からギリシャ首相としてバルカン同盟を推進し、第一次世界大戦では連合国側での参戦を主張して国王と対立した。1917年にはサロニカに臨時政府をたてて国王を退位に追い込んだ。1935年には王政復古に反対して再び蜂起したが失敗し、パリに亡命した。
ヴェルヒオティス(1905-45)・・・・ギリシャの政治家。共産党に入党し枢軸国の占領中はELASの指導者としてゴルゴポタモス川陸橋破壊工作にEDESと共に関わった。1945年2月には共産党のイギリスとのヴァルキザ停戦協定を非難して独自の闘争を行おうとしたが追いつめられて自殺したと見られる。
エーゲ海紛争(1976)・・・・エーゲ海には油田が存在する可能性があることから、1976年トルコはギリシャとの紛争海域に調査船シミスク一号を派遣、ギリシャとの間に一触即発の危機に陥った。ギリシャ側では調査船撃沈の強硬意見も叫ばれる中、トルコ側が譲歩して危機は避けられた。
オットー1世(Otto ? 1815-67 ギリシャ王 位 1834-62)・・・・ギリシャ独立に際してバイエルン王家からギリシャ王に迎えられた。クリミア戦争をきっかけにして退位した。
カポ・ディストリアス(Joannes Antonios Capo d’Istrias 1776-1831)・・・・ギリシャの政治家で、ロシア外相(1816-22)。ロシアの介入によるギリシャの独立を目指し、1827年独立戦争中大統領に選出され、翌年就任した。しかし独裁を志向し、1831年暗殺された。
カラマンリス(Konstantinos Karamanlis 1907-98)・・・・ギリシャの政治家、首相(1955-63,74-80)、大統領(1980-85、90-95)。戦前人民党にいたが、1952年パパゴス元帥の内閣で公共事業相、ギリシャ国民連合を国民急進党に再編した。1963年選挙に敗れてフランスに移住、74年軍事政権崩壊後の政局収拾に当たった。共産党の合法化,NATOやアメリカから離れ、EC加盟を志向した。
キプロス紛争(1974-)・・・・キプロス島の住民は8割がギリシャ系で、ギリシャへの帰属を望んでいた。ところが宗主国のイギリスは東地中海の軍事基地を確保するため、ギリシャ帰属を認めず、1959年独立国としてイギリス連邦内に留めた。その後1974年軍事政権崩壊の混乱に乗じてトルコ軍はキプロスの4割を占領、追い立てられたギリシャ系住民との間で緊張が続いている。
共産党(Kommunistikó Kómma Elládas KKE)・・・・反ヴェニゼロス派に立った。戦間期はまだ主要な政治勢力とは言い難かったが、第二次世界大戦中のレジスタンス運動を通じて勢力を拡大し、ギリシャ内戦を呼ぶことになった。
ギリシャ国民連合(1951)・・・・パパゴス元帥がド・ゴールの国民連合にならって結成した右翼政党。1956年国民急進党に再編された。
ギリシャ独立戦争(Greek War of Independence 1821-29)・・・・オスマン帝国の支配下にあったギリシャではディミトロス・イプシランティによって独立戦争が開始された。22年には正式に独立が宣言され、軍事的にも要衝を抑えた。オスマン帝国軍がキオス島で虐殺を行い、10万人を捕虜にしたのはこの頃である。ところが立憲政府が樹立されると内紛が生じ、オスマン帝国側が要請したエジプトの援軍が参戦すると戦況は逆転し、半島の支配権はオスマン帝国側に回復され、アテネも陥落した。この苦難にヨーロッパ諸国は援軍を送り、イギリス、ロシア、フランスの連合艦隊はナヴァリノの海戦でエジプト・トルコの連合軍を撃破した。その後の戦闘でもトルコ軍は破れ、1829年アドリアノープル条約でオスマン帝国は独立を承認、30年のロンドン会議で列国もこれを認めた。
ギリシャ・トルコ戦争(Greco-Turkish War 1919-22)・・・・第一次大戦の敗戦で、トルコは連合国に分割されてしまった。ギリシャはセーブル条約によって与えられたアナトリアのイズミル地方だけでなく、アンカラまで獲得しようとした。そこでムスタファ・ケマル(後のケマル・パシャ)は民族運動を指揮し、アナトリアやいくつかの島々からギリシャ軍を追い払った。
ギリシャ内戦(Greek Civil War 1944-49)・・・・第二次世界大戦末期の1944年12月、当時ギリシャを占領していたイギリス軍に対し、ギリシャ共産党が反乱を開始した。反乱は鎮圧されたが1946年5月、王政復活が国民投票で決まると共産党は再度周辺のソ連衛星国の支援で蜂起した。これによりギリシャは全面的な内戦に突入したが、トルーマン・ドクトリンに基づくアメリカの強力な援助により共産党は敗れ、1949年10月内戦は終結した。
グリヴァス(George Grivas 1898-1974)・・・・ギリシャの軍人。第二次世界大戦後キプロスで独立運動を行い、一旦帰国したが再びキプロスでキプロス駐在ギリシャ軍司令官となった。のちに再度帰国した。
グレゴリウス5世(Gregorius ? 1746-1821)・・・・コンスタンティノープル総主教だったが、ギリシャでの反乱勃発の責任を取らされてオスマン帝国により処刑された。彼自身は決起の指導者を破門し、オスマン帝国への服従を呼びかけていただけにこの処刑は内外の憤激を呼ぶことになった。
クレタ島・・・・元々オスマン帝国領だったが、三十日戦争で自治領となり、バルカン戦争後ギリシャに帰属した。
クレタの蜂起(Cretan Upspring 1866-68)・・・・ギリシャの独立戦争時にクレタ島も蜂起したが、イェニチェリ軍は残酷に弾圧し、クレタ島はオスマン帝国にとどまっていた。1866年オスマン帝国が改革の約束を破ると、クレタ島で蜂起が発生し、一時優勢となったがやがてオスマン帝国軍は村を破壊し、住民を虐殺して鎮圧に当たった。そこでギリシャなどがクレタ島の支援に乗り出したが、結局屈服しクレタ島は独立できなかった。
クレタの蜂起(Cretan Upspring 1896)・・・・1896年クレタ島でまたしても蜂起が発生すると、ギリシャや列強が介入した。1897年三十日戦争が行われた一方、イギリスなどはクレタ島からトルコ軍を撤退させ、クレタはオスマン帝国の自治領になった。
ゲオルギオス1世(Georgios ?1845-1913 ギリシャ王 位1863-1913)・・・・デンマーク王クリスティアン9世の次男で、オットー王の廃位にともない、ギリシャ国会で国王に選出された。在位中、露土戦争、三十日戦争、バルカン戦争、クレタ島の反乱などがあり、若干の領土を獲得した。サロニカで暗殺された。
ゲオルギオス2世(Georgios ?1890-1947 ギリシャ王 位 1922-23,35-47)・・・・父王の2度目の廃位後、ギリシャ王に即位したが24年には共和制採用によって退位を迫られた。しかし国民投票によって35年復位した。第二次大戦中、ドイツ軍の侵略を受けてイギリスに亡命し、戦争が終わると46年、国民投票で三度ギリシャ王となった。
コレッティス(Ioannis Kolettis 1774-1847)・・・・ギリシャの政治家、首相(1844-47)。元へイタリア・フィリケで独立戦争に活躍した。1843年9月の改憲を求めるクーデタに伴いパリから帰国し、制憲議会では大きな役割を果たした。国外の民族ギリシャ人の地位向上に努めた。
コロコトロニス(1770-1843)・・・・ギリシャの軍人。もとクレフテス(山賊)だったが独立戦争で活躍し、1827年軍最高司令官となった。カポ・ディストリアスを支持しオットー王と衝突して処刑されそうになったが赦された。
コンスタンティノス1世(Konstantinos ?1868-1923ギリシャ王 位1913-17,20-22)・・・・バルカン戦争で活躍し、即位したが、ドイツ皇帝の妹と結婚していたことから第一次世界大戦で連合国の参戦要求を断った。そこでヴェニゼロスら参戦派との間で内戦が発生し、英仏による干渉を招き退位した。戦後復位したが、トルコとの戦争に敗れ、軍の反乱もあって再び退位した。
コンスタンティノス2世(Konstantinos ? 1940- ギリシャ王 位 1964-73)・・・・1967年軍事政権に対するクーデタを行ったが失敗、亡命した。その後73年に廃位され、翌年国民投票で王政そのものも廃止されることが確定した。
左派進歩連合(1989)・・・・合法化された共産党系の諸派を結集して成立した。
ザハリアディス(1903-1973)・・・・ギリシャの政治家。1935年共産党書記長に就任し、メタクサス独裁期には投獄された。戦争中はダッハウ強制収容所で過ごし、1945年帰国し党の指導者に返り咲いた。内戦に敗れるとソ連で共産党軍の残党を指導したが1957年党を追放された。
三十日戦争(Thirty Days’ War 1897)・・・・クレタ島の反乱に呼応してギリシャはオスマン帝国と開戦したが、クレタ、テッサリア両戦線ともギリシャ軍の惨敗に終わった。ギリシャは賠償金とテッサリアの一部を割譲、国際委員会によるギリシャ財政管理という屈辱的な講和条約を結んだ。
自由党(Kómma Filelefthéron KF)・・・・1910年結成され、戦間期ギリシャのヴェニゼロスを支持した一派。反王制を旗印にした。ヴェニゼロス失脚後一時衰退したがレジスタンス運動を通じて復活、1950年国民進歩同盟に改組された。
新民主主義党(1974)・・・・独裁崩壊後に結成された右派政党。のちに国家行動党(1977)や政治の春(1993)といった分派を生じた。
人民党(1920)・・・・反ヴェニゼロス派の政党。その末裔が戦後のパパゴスのギリシャ国民連合であった。
ゼルヴァス(1891-1957)・・・・ヴェニゼロス派と離合集散していたが1941年枢軸国占領下でEDESを結成した。1942年11月には名高いゴルゴポタモス川陸橋破壊工作に成功した。そのご共産党系のELASと戦闘状態に陥った。1945年国民党を結成したが50年には古巣の自由党に戻った。
全ギリシャ社会主義運動(1974)・・・・パパンドレウが独裁崩壊に伴い結成した。選挙の度に支持を拡大し、中道左派路線で81年政権獲得した。
第一共和制(1828-31)・・・・独立戦争末期にカポ・ディストリアスが大統領に選出されたが彼は暗殺され、1832年5月列強の合意でオットー王が迎えられることが決定するに至って共和制は潰えた。
第一次世界大戦(World War ? 1914-18)・・・・開戦直後ヴェニゼロス首相はイギリスに参戦を申し入れたが、時のグレー外相はトルコ、ブルガリアの同盟国側での参戦を恐れてそれを断った。やがてトルコが参戦するに及んでイギリスはブルガリアへの宥和を条件にギリシャの参戦を認めたが、国王がそれを拒否、ヴェニゼロスは1915年3月辞任した。6月の選挙ではヴェニゼロス派が大勝し、首相に復帰したヴェニゼロスは再度参戦しようとしたが、国王はまたも拒否した。12月に再び行われた選挙をヴェニゼロス派はボイコットし、ギリシャは参戦をめぐって分裂状態に陥った。1916年1月連合国はセルビア軍の退路確保を口実にコルフ島を占領して国王政府に圧力をかけた。8月にテッサロニキで反国王政府クーデタが発生し、分裂は決定的となった。連合国はヴェニゼロスの臨時政府を承認し、国王政府の支配領域を封鎖した。国王は国外に逃れ、内戦に勝利したヴェニゼロスは1918年にはマケドニア方面での連合国の攻勢に参加することができた。
第三共和制(1974-)・・・・独裁政権崩壊後の国民投票で王政廃止が決まり、以後共和制に疑問を抱く勢力が大勢を動かすことはほぼなくなった。
第二共和制(1924-35)・・・・国民投票によって王政が廃止され、成立した第二共和制はパンガロスの独裁を経てヴェニゼロスの反対派との大連合で一旦安定した。ところが世界恐慌の影響が現れるとヴェニゼロスは支持を失い失脚、反対派により王政が復活した。
第二次世界大戦(World War ? 1939-45)・・・・1940年10月、ギリシャはイタリアの最後通牒を拒否するとイタリアはギリシャに攻撃を開始、ギリシャは第二次大戦に巻き込まれた。当初はギリシャ軍は健闘し、イタリア軍をアルバニア内まで追い返したが、41年4月になるとドイツ軍が加勢にやってきてたちまち全土を占領された。その結果ギリシャはイタリア、ドイツ、ブルガリアに分割占領された。レジスタンス運動では民族解放戦線(EAM)が結成され、共産党が主導権を握った。民族共和ギリシャ連盟(EDES)という非共産党系の抵抗組織も存在したが、いずれにせよそれらは国王の亡命政府とは対立した。レジスタンス同士の内ゲバなどもあったが結局1944年10月にアテネは解放された。
大ギリシャ主義・・・・古代ギリシャのあの栄光を求めて(?)、ギリシャ人が多少でも住む地域はすべてギリシャ領に組み入れようとする膨張主義。
中央同盟(1961)・・・・国民進歩同盟から発展した。パパンドレウに指揮され、独裁崩壊後は全ギリシャ社会主義運動と民主中央連盟に分裂した。
ディリヤニス(Theodoros Deligiannis 1826-1905)・・・・ギリシャの政治家、首相(1885-87,90-92,95-97,1902-03,04-05)。本質的に西欧派のトリクピスに対してライバルのディリヤニスは伝統派であった。ベルリン会議に参加し、大衆動員を得意とし三十日戦争を遂行したが完敗して首相を辞職した。その後もいくどか首相を務めたが最期は暗殺された。
ドデカネス諸島・・・・元々トルコ領で約11万人のギリシャ人が住んでいたが、伊土戦争の結果イタリアが占領した。1947年に至ってようやくギリシャに帰属した。
トリクピス(Kharilaos Trikoupis 1832-96)・・・・ギリシャの政治家、首相(1875,78,80,82-85,86-90,92,93-95)。初めロンドンで過ごし、責任内閣制の確立に貢献した。また在外ギリシャ人からの財源で鉄道建設、運河開発を行い、選挙、軍事の近代化にも努めた。最期は選挙で敗北、国外に移った。
農民党(Agrotikón Kómma)・・・・ヴェニゼロスから支持層を奪った。
パウロス1世(Paulos ? 1901-64 ギリシャ王 位 1947-64)・・・・ギリシャ・トルコ戦争に参加した後第二共和制の樹立に伴い亡命、1935年帰国した。対イタリア戦にも活躍、ドイツ軍の侵攻で再び亡命、1946年再び帰国すると今度は内戦が発生した。その後はフレデリカ王妃の政治介入が問題となった。
パパゴス(Aleksandros Papagos 1883-1955)・・・・ギリシャの軍人、政治家、首相(1952-55)。バルカン戦争、ギリシャ・トルコ戦争で活躍した後メタクサス政権の陸相、参謀総長を務めた。対伊、独抵抗戦争では陸軍総司令官となり、強制収容所に送られた。内戦で総司令官に復帰すると1951年ド・ゴールにならったギリシャ国民連合を結成して政界入りした。1952年選挙で大勝し、首相として国土再建に当たった。
パパンドレウ(アンドレアス)(Andreas Papandreou 1919-96)・・・・ギリシャの政治家、首相(1981-89,93-96)。ゲオルギオスの子供で、アメリカで経済学者をしていたが1964年ギリシャ政界入りした。67年の独裁政権樹立により逮捕されたが亡命、全ギリシャ解放運動(PAK)を組織して激しい臨時政府反対運動を行った。74年帰国すると全ギリシャ社会主義運動を組織し、支持を拡大、1981年初の左派政権を樹立した。
パパンドレウ(ゲオルギオス)(Georgios Papandreou 1888-1968)・・・・ギリシャの政治家、首相(1944-45,63,64-65)。ヴェニゼロス内閣の教育相などを務めたが、そのクーデタ戦術に失望、民主社会党を結党した。メタクサス政権下には亡命した後、1944年亡命政府の首班となった。1950年その名もパパンドレウ党を結成し、連立政権に参加、自由党の指導者などを一時務めた。1961年今度は中央同盟を率いて選挙に勝利、首相となったがキプロス問題で政府は倒れた。1967年選挙を前にクーデタで自宅軟禁され、そのまま没した。
バルカン協商(Balkan Entente 1934)・・・・ギリシャ、トルコ、ルーマニア、ユーゴスラヴィアが参加して、1934年2月成立した政治機構。軍事同盟と経済協力を目指し、エチオピア戦争では協力したが、1940年戦争により崩壊した。
バルカン戦争(第一次)(Balkan War 1912-13)・・・・ロシアの指導の下に、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャはバルカン同盟を結んだ。イタリア・トルコ戦争の講和直後、バルカン同盟諸国はオスマン帝国内のキリスト教徒の虐待を理由に宣戦を布告した。オスマン帝国側は敗れ、休戦協定を結んだが、講和が難航する間にコンスタンティノープルでは青年トルコ党の革命が成功し、戦闘が再開された。オスマン帝国は再び敗れ、ロンドン講和条約が結ばれ、バルカン半島の大半の領土を失った。
バルカン戦争(第二次)(Balkan War 1913)・・・・オスマン帝国から奪取した領土の分割をめぐって、ブルガリアと他のバルカン同盟諸国は対立した。そこでブルガリアはセルビアを攻撃した。しかしギリシャ、セルビア、ルーマニア、オスマン帝国の連合軍に敗れ、ブカレスト条約が結ばれた。ブルガリアは新たに獲得した領土をすべて奪われた。
プラスティラス(Nikolaos Plastiras 1883-1953)・・・・ギリシャの軍人、政治家、首相(1945,50,51)。1909年クーデタやバルカン戦争でヴェニゼロス派として地歩を固め、コンスタンティノス王追放の軍事クーデタにも関与した。1933年ヴェニゼロス派のクーデタに失敗して亡命、メタクサス政権に反対する一方、枢軸国の占領下では民族共和ギリシャ連盟の頭目にかつがれた。1945年共産党の反乱鎮圧後イギリスの支持で首相に就任したが短期間で辞職、内戦末期に国民急進中央同盟を結党してその後一時政権を取った。
ヘタイリア・フィリケ(Hetairia Philike 1814)・・・・ギリシャ独立を目指す秘密結社で、友愛協会の意味。1814年3人で結成されたというが20年イプシランティが指導者になる頃には20万人を越えたとされる。21年の反乱失敗で壊滅した。
メガリ・イデア・・・・「偉大な理想」の意味で、大ギリシャ主義のイデオローグとして唱えられた。小アジアやマケドニア方面のギリシャ人居住地域に領土を拡大しようとする思想。1922年の敗戦によりギリシャ、トルコ間で住民の強制交換が行われ、破綻した。
メタクサス(Joannes Metaxas 1871-1941)・・・・ギリシャの軍人、政治家、首相(1936-41)。第一次世界大戦中参謀総長を務め、1921年ファシスト党を結成した。1923年クーデタに失敗したが1935年王政復古に成功した。その後は「1936年7月4日体制」と自称する軍事独裁体制を築いた。この体制は第三帝国にならって古代ギリシャ、中世ビザンツに続く「第三ヘレニズム文明」を標榜し、儀礼にもファシズム的色彩が見られたがサラザール体制同様ファシズム特有の現状打破性はなかった。また1940年10月以降イタリアの侵略には抵抗し、逆にアルバニア南部を占領するなどした。
メタポリテフシ(1974)・・・・1974年の独裁政権崩壊を指す。
ラプローチマン(1930)・・・・宿命のライバル、ヴェニゼロスとケマル・パシャとの和解条約。トルコ領から逃れたギリシャ人難民の土地の補償問題を解決した。
ブルガリア政治史(1878-)
IMRO(International Macedonian Revolutionary Organization)・・・・戦間期ブルガリアに勃興したマケドニア奪還を狙う右翼団体。1923年にはスタンボリスキ政権を倒すなどした。
コラロフ(Vasil Petkov Kolarov 1877-1950)・・・・ブルガリアの政治家、首相(1949-50)。戦前は第二インターで活躍した。初代人民幹部会議長で、パリ平和会議にも出席した。
サン・ステファノ条約(San Stefano 1878)・・・・コンスタンティノープル南西のこの町で結ばれた露土戦争の講和条約では、ロシアはペッサラビアを獲得し、大ブルガリアのロシア保護下での独立を認めたため、ロシアは地中海への出口を確保したかに思われた。そのほかすでに事実上独立していたルーマニア、セルビア、モンテネグロは領土を広げた。列強はロシアの利益があまりにも大きすぎると考え、孤立したロシアはベルリン会議で後退を余儀なくさせられた。
スタンボリスキ(Aleksandr Stamboliski 1879-1923)・・・・ブルガリアの政治家で、首相(1919-23)。農民同盟の指導者として、第一次世界大戦中は協商国側について国王と対立した。戦後首相として農民独裁を行いヌイイ条約を履行したが、右翼勢力によって暗殺された。
セルビア・ブルガリア戦争(Serbo-Bulgarian War 1885-86)・・・・ブルガリア公バッテンベルクが東ルメリアに侵攻すると、セルビアは領土割譲を要求した。調停をはかる国際会議が失敗すると、セルビアはブルガリアに宣戦布告した。ところがセルビアはスリヴニッツァで大敗し、オーストリア・ハンガリーの介入でかろうじてブルガリアによる占領を回避できる有り様だった。ブカレスト条約で両国の以前の国境が確認され、ブルガリアの東ルメリア併合も認められた。
ディミトロフ(Georgi Dimitrov 1882-1949)・・・・ブルガリアの政治家、首相(1946-49)。1919年ブルガリア共産党結成に参加し、1923年以降コミンテルンで活動した。1933年ドイツ国会議事堂放火事件で起訴されたが無罪になった。コミンテルン書記長(1935-43)となり、第7回大会における人民戦線戦術の発表で知られる。ナチスに対するブルガリアの抵抗運動を指導し、戦後首相となった。
ヌイイ条約(Treaty of Neuilly 1919)・・・・第一次大戦後、連合国とブルガリアとの間で結ばれた講和条約。1919年11月27日調印され、周辺諸国への領土の割譲、軍備制限、賠償金を課された。ブルガリアは海への出口を失うこととなった。
農民同盟(Bolgarski Zemedelski Naroden Soiuz BZNS)・・・・左翼的な農民政党。
バルカン戦争(第一次)(Balkan War 1912-13)・・・・ロシアの指導の下に、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャはバルカン同盟を結んだ。イタリア・トルコ戦争の講和直後、バルカン同盟諸国はオスマン帝国内のキリスト教徒の虐待を理由に宣戦を布告した。オスマン帝国側は敗れ、休戦協定を結んだが、講和が難航する間にコンスタンティノープルでは青年トルコ党の革命が成功し、戦闘が再開された。オスマン帝国は再び敗れ、ロンドン講和条約が結ばれ、バルカン半島の大半の領土を失った。
バルカン戦争(第二次)(Balkan War 1913)・・・・オスマン帝国から奪取した領土の分割をめぐって、ブルガリアと他のバルカン同盟諸国は対立した。そこでブルガリアはセルビアを攻撃した。しかしギリシャ、セルビア、ルーマニア、オスマン帝国の連合軍に敗れ、ブカレスト条約が結ばれた。ブルガリアは新たに獲得した領土をすべて奪われた。
フェルディナント1世(Ferdinand ?1861-1948ブルガリア王 位1908-18)・・・・オーストリア出身で、1887年ブルガリア公となった。1908年以来ブルガリア王を称し、第一次世界大戦では同盟国側で参戦してセルビアを攻撃したが敗退した。1918年には退位した。
ブカレスト条約(Treaty of Bucharest 1913)・・・・第二次バルカン戦争の講和条約で、1913年8月10日調印された。ブルガリアはマケドニア、ドブルジア、カヴァラなどを戦勝国のギリシャ、セルビア、ルーマニアに割譲した。
ブルガリア共産党(Bolgarska Komunistieheska Partiia)・・・・1923年6月スタンボリスキ政権が右翼に倒されるのを見て危機感を抱き、9月に蜂起したが時機を失し、鎮圧されてしまった。
ベルリン会議(Berliner Kongre?1878)・・・・サン=ステファノ条約によってロシアのバルカン半島と地中海への進出が成功したように見えた。そこで脅威を覚えたイギリスとオーストリア・ハンガリーは異議を唱え、ドイツが調停に乗り出した。この結果ベルリン条約が結ばれ、ロシアはペッサラビアと小アジアの一部をえた。一方イギリスはキプロス島を獲得し、オーストリア・ハンガリーはトルコ主権下でボスニア・ヘルツェゴビナの行政権を獲得した。そのほかルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立は承認された。ブルガリアは領土を半減された上、トルコの属国にとどまり、ロシアのバルカン進出は頓挫した。この結果、ロシア、オーストリア・ハンガリーは対立し、三帝同盟の崩壊につながった。
ベンコフスキー(Georgi Benkovskii 1844-76)・・・・ブルガリアの民族主義者。1876年四月蜂起を決行したが失敗した。
ボテフ(Botev 1848-76)・・・・ブルガリアの詩人、革命家。1876年四月蜂起を支援したがオスマン帝国軍との戦いで戦死した。
ボリス3世(Boris ? 1894-1943ブルガリア王 位 1918-43)・・・・ブルガリアの立憲君主として即位したが、右翼と結び、1934年には国会を停止して専制君主となった。43年に怪死した。
ルーマニア政治史(1878-)
アントネスク(Ion Antonescu 1882-1946)・・・・ルーマニアの軍人、政治家。1940年鉄衛団なる右翼団体の支持を受けて首相(1940-44)に就任し、国王を退位させた。ファシズム政権を率いてドイツと同盟し、独裁を行ったが、44年クーデターにより逮捕された。親ドイツ派の戦犯として処刑された。
カロル1世(Carol ?1839-1914 ルーマニア王 位 1881-1914)・・・・1866年プロイセンからルーマニア公に迎えられ、1881年正式にオスマン帝国から独立し、ルーマニア王を称した。経済発展と軍備増強に努め、農民一揆を弾圧した。第一次世界大戦では中立を宣言した。
カロル2世(Carol ?1893-1953 ルーマニア王 位1930-40)・・・・恋愛問題でいったん王位継承をあきらめたが、1930年クーデターにより即位した。しかし1940年息子に王位を譲って退位した。
クーザ(Alexandru Ioan Cuza 1820-73)・・・・ルーマニアの政治家。モルドヴァ公国とルーマニア公国との合邦に努力し、1859年両国の元首、ついで1862年統一ルーマニアの元首となった。政治の民主化を行ったが1866年失脚した。
グローザ(Petru Groza 1884-1958)・・・・ルーマニアの政治家、首相(1945)、大統領(1952-58)。1933年に農民同盟を組織し、共産党に加わり戦争中は対独抵抗運動に参加した。
ゲオルギュ-デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej 1901-65)・・・・ルーマニアの政治家、国家評議会議長(1961-65)。1930年共産党入党。戦後45年党書記長、首相(1952-65)を務めた。後にソ連からの自立路線を図った。
コガルニチャヌ(Mihail Kogalniceanu 1817-91)・・・・ルーマニアの政治家、首相(1863-65)。フランス留学中に二月革命に参加した。クーザの元で首相を務め民主化に務めたが反動派に追放された。
国家キリスト教防衛連盟(Liga Apararii National-Crestine LANC)・・・・鉄衛団の前身となった学生グループ。
コドリャヌ(Corneliu Zelea Codreanu 1899-1938)・・・・ルーマニアの政治家。反共反ユダヤ団体の大天使ミカエル団、鉄衛団を結成した。鉄衛団禁止後もファシズム運動を行ったが反逆罪で処刑された。
自由党(Partidul National-Liberal PNL)・・・・貴族、官僚の利害を代弁した二大政党の一つ。
小協商(Little Entente1921)・・・・第一次世界大戦後、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィア間に別個に結ばれた協定を総称する。共同でハンガリーに対抗する政治的意味と、ドナウ川経済圏の確立という経済的意味があった。フランスの保護を受けたが、ナチス・ドイツの台頭で解体していった。
大天使ミカエル団(Legiunea Arheangelui Mihail)・・・・国家キリスト教防衛連盟からクーザ教授を排除して1927年に結成された。このグループの戦闘部隊が鉄衛団だった。
チャウシェスク(Nicolae Ceausescu 1918-89)・・・・ルーマニアの政治家、大統領(74-89)。1936年共産党に入党し、戦後共産党書記長、国家評議会議長に就任した。一族を要職につけて独裁政治を行い、89年民衆蜂起で処刑された。
鉄衛団(Garda de Fier)・・・・宗教色、回顧色を混合した独自の示威行動を行ったルーマニアのファシズム組織。1937年選挙で第三党に躍進した。
ドブロジャーヌ・ゲレア(Constantin Dobrogeanu-Gherea 1855-1920)・・・・ルーマニアの政治家、文芸評論家。初めナロードニキ運動に参加し、後にルーマニアに移った。ルーマニア社会民主党の設立に功があった。
バルカン協商(Balkan Entente 1934)・・・・ギリシャ、トルコ、ルーマニア、ユーゴスラヴィアが参加して、1934年2月成立した政治機構。軍事同盟と経済協力を目指し、エチオピア戦争では協力したが、1940年戦争により崩壊した。
バルチェスク(Nicolaie Balcescu 1819-52)・・・・ルーマニアの革命家。オスマン帝国からの独立運動に参加した後,1848年革命にも参加した。その後はフランス、イタリアに亡命した。
ブカレスト条約(Treaty of Bucharest 1918)・・・・ブレスト・リトフスク条約成立後、ルーマニアもドイツと講和条約を結んだ。この条約でルーマニアはドブルジアをブルガリアに割譲したが、ドイツの休戦で破棄された。
保守党(Partidul Conservator-Democrat)・・・・スペインの自由党、保守党と同様、ルーマニアの二大政党も近代化の証とは言いがたいものだった。
ミハイ(Mihai 1921- ルーマニア王 位 1927-30,40-47)・・・・幼くしてルーマニア王となったが、1930年父に王位を奪われた。ドイツがルーマニアを占領した1940年王位に復帰し、1944年にはアントネスク政権を打倒した。その後は連合国側につきドイツと戦った。戦後共産党政権ができるとジュネーブに亡命した。
民族農民党(Partitul National-Taranesc)・・・・農民層の支持でマニウが政権を執っていたが、恐慌の影響で倒された。
ルーマニアの農民一揆(Romanian Peasants’ Revolt 1907)・・・・ルーマニアでは都市民に政治参加が独占されていたため、激烈な農民一揆が発生した。軍隊の参加によりこれは鎮圧され、形ばかりの改革案が議会を通ることになった。
ベルギー政治史(1830-)
ネーデルラント王国からの独立以降。
アルベール一世(Albert ?1875-1934 ベルギー王 位 1909-34)・・・・産業の振興に努め、ベルギー領コンゴの開発を行った。第一次世界大戦ではドイツに国土を占領され、戦後はその復興に努めた。
ヴァンデルベルデ(Emile Vandervelde 1866-1938)・・・・ベルギーの政治家。労働党議員で、第二インターでも活動した。第一次世界大戦時には国務相、食糧相、陸相を務めた。戦後は外相としてロカルノ条約締結に当たった。
カトリック党(Parti Catholique)・・・・第一次世界大戦以前は一党優位を誇ったが、戦後優位性が崩れ、三大主要政党の一角を占めるようになった。もちろんカトリック政党。
コンゴ自由国(Congo Free State 1885)・・・・ベルギー王レオポルト2世はイギリス人スタンリーにコンゴ地域を探検させ、1883年コンゴ国際会議の保護下においた。そして85年コンゴ自由国を発足させ、国王の私領という扱いにし、ベルリン会議で列国からも承認された。一部をフランス、ポルトガルに譲ったのち、1908年正式にベルギー領コンゴとなった。このときフランスに譲渡された地域はコンゴ共和国(首都名からコンゴ・ブラザヴィル)として1960年独立した。ベルギー領はコンゴ共和国(首都名をとってコンゴ・キンシャサ)として1960年独立したが、コンゴ動乱が発生した。
自由党(Parti Lib?ral)・・・・カトリック党、労働党にはやや劣るものの有力政党だった。
ハイマンス(Paul Hymans 1865-1941)・・・・ベルギーの政治家。自由党議員で、パリ講和会議、国際連盟第一回総会議長、ベルギー外相(1918-20,24-25,27-34)を歴任した。
フランデレン国民同盟(Vlaams Nationaal Verbond VNV)・・・・世界恐慌の頃に発生したフランデレン人の民族、言語政党。
フランデレン人(Flandre)・・・・ベルギー北部で、オランダ語を話す人々。19世紀においてはワロン地域よりも経済的に後進地域で、フランデレン語の地位向上を求めて運動した。
ボードゥアン1世(Baudouin ? 1930-93 ベルギー王 位 1951-93)・・・・第二次世界大戦中はドイツに捕らえられ、50年ようやく帰国した。1959年コンゴで暴動が起きると独立を認めた。
マン(Henrik de Man 1885-1953)・・・・ベルギーの政治家。ドイツにいたが世界恐慌で帰国し、労働党副委員長として恐慌対策に当たった。対独協力の罪により戦後は処罰された。
レオポルト1世(Leopold ?1790-1865 ベルギー王 位 1831-65)・・・・ヴィクトリア女王の叔父にあたり、ベルギーの独立時に初代国王に選ばれた。フランスと結んでオランダからの独立を守った。
レオポルト2世(Leopold ?1835-1909 ベルギー王 位 1865-1909)・・・・ベルギー王としてアフリカの探検を行い、1885年コンゴ自由国を私領とした。1908年には同国はベルギー領となった。彼の治世は軍備を増強し、経済的にもベルギーは発展した。
レオポルト3世 (Leopold ?1901-83 ベルギー王 位 1934-51)・・・・第二次世界大戦中、独断でドイツに降伏したため、英仏はダンケルク撤退で苦しむことになった。戦争中は捕虜となり、戦後帰国したが結局王位を譲った。
レックス党(Mouvement Rexiste REX)・・・・ワロン系の地域政党。1936年には選挙に初登場で11,48%の得票を得たが、そのファシズム的性格に次の選挙では国民の支持を失った。
労働党(Parti Ouvrier Belge POB)・・・・戦間期ベルギーでカトリック党と勢力を競った。世界恐慌では独自の労働プランを行った。
ワロン人(Wallon)・・・・ベルギー南部に住む、ワロン語(フランス語の方言)を話す人々。フランデレン人との対立は現在も完全には解消されていない。
スイス政治史(1815-)
カトリック保守党(Katholisch-Konservative Fraktion)・・・・1891年以降台頭した政党。のちに保守人民党(Konservative Volkspartei)と改名した。
社会民主党(Sozialdemokratische Partei der Schweiz SPS)・・・・保守人民党、自由民主党と拮抗した。
自由民主党(Liberaldemokratische Partei)・・・・急進派。
ゾンダーブント戦争(Sonderbund 1847)・・・・プロテスタントのスイス自由主義者らは、強力な中央政府、政教分離を進めたが、これに反対するカトリック教徒らはスイス7州でゾンダーブント(防衛同盟)を結成した。スイス議会はゾンダーブントの解散を決議し、これに反対するゾンダーブントとの間で小規模な内戦となった。連邦軍はゾンダーブントを破り、翌年新憲法で強力な中央政府を樹立したが、地方政府は残した。
農民-自営-市民党(Bauen-,Gewerbe-und B?rgerpartei)・・・・名前から察するにおそらくプチブル政党。主要三党よりは勢力は一歩劣った。