アイラウの戦い
フランス帝国(ナポレオン1世:七万五千)VS
ロシア帝国・プロイセン王国(ベニグセン:八万三千・うちロシア軍七万三千五百、プロイセン軍八千五百)
背景
東プロイセンに逃れたプロイセン王を追うためにナポレオン率いるフランス軍は一八〇六年十一月二十五日にベルリンを発った。同月二十七日にポズナニに到り、フランス軍はプロイセンからの解放者として熱烈な歓迎を受けた(というのも十八世紀にオーストリア、ロシア、プロイセンによるポーランド分割がなされ、ポーランドと言う国は消滅していた)。
十二月十九日、フランス軍はワルシャワに到着した。二十六日にはプルトゥスクの戦いでランヌがベニグセン率いるロシア軍に勝利したが、フランス軍は泥と悪天候、そして飢餓により苦しんだ。
経過
翌年二月七日、ミュラとスールトがアイラウの街を占領する。それに対し、ロシア軍は奪還すべくフランス軍との戦いを意図する。その時のフランス軍は五万、対するロシア軍は七万四千五百であった。
二月八日午前八時、ロシア軍によるスールト麾下のフランス軍左翼への砲撃を皮切りにフランス軍への攻撃が始まる。ナポレオンは圧迫された左翼の危機収捨のために、中央のオージュローにロシア軍中央への突撃を命じるも、吹雪による視界不良と地理不案内により苦戦を余儀なくされ、ついには撃退される。次にミュラ率いる騎兵軍団一万に攻撃を命じ、ようやく戦況は小康となる。
昼にはダヴーが到着し、ロシア軍左翼を側面より攻撃する。これにより一時フランス軍が有利に立ったものの、午後三時にはプロイセン軍が到着し、左翼を立て直す。
その後も両軍は互角の戦いを繰り広げ、日暮れ前にネイの到着によりフランス軍の勝利は決定的となり、夜にはロシア軍は退却した。しかし、フランス軍は悪天候の中での長時間にわたる戦いにより疲弊し、とても追撃できる状態ではなかった。
この戦いでフランス軍は二万二千の死傷者と一線の捕虜を出したのに対し、ロシア・プロイセン連合軍は二万三千の死傷者と三千の捕虜を出した。このように両軍共に大損害を出しただけの戦いであり、フランス軍にとってはさしたる戦果のない辛勝と言える戦いであった。
その後
この戦いに際しナポレオンは「何と言うひどい殺し合いだ!何にもなりはしないのに。こんな図を見たらどんな君主でも平和を愛し、戦争を憎悪するようになるだろう!」と言う言葉を残した。
ともあれ、フランス軍はさらに軍を進め、五月にダンツィヒを占領した。 |