アウエルシュタットの戦い
フランス帝国(ダヴー:二万七千)VSプロイセン王国(ブルンスヴィック公・フリードリヒ=ヴィルヘルム3世:六万三千)
背景
重複するのでイエナの戦いの背景を参照。
経過
十月十四日午前六時、ナウムブルクより西進中のダヴー率いるフランス軍第三軍団の先鋒ギュダン師団八千がプロイセン軍本隊のブリュッハー率いる前衛の騎兵師団七千と遭遇する。両軍共に濃霧により敵軍についての情報がなかったが、ギュダンは捕らえたプロイセン兵を司令官ダヴーの元に送り、彼はそれが敵の本隊であると知った。一方、プロイセン軍はブリュッハーを左翼、ブリュッハーの後に来たシュメッタウ師団の先鋒を右翼として布陣した。
午前八時、ブリュッハーがフランス軍に攻撃を仕掛け、戦いが始まった。ダヴーは兵士たちに対騎兵用の方陣を組ませて迎え撃たせる。フランス軍の方陣は強固であり、ブリュッハーは四度もの攻撃にもかかわらず、シュメッタウ師団との連携が不十分であったこともあって敵を抜くことが出来ず、かえって大損害を被る。一方で、ダヴーはまだ戦場に着いていない他の部隊とベルナドットに大至急駆けつけるよう要請する。
午前八時半、フランス軍のフリアン師団が到着し、ダヴーは右翼に展開させた。プロイセン軍は続々と後続の部隊が到着し、シュメッタウ師団の本隊が中央に、ヴァルテンシュレーヴェン師団先鋒が右翼に、オラニエ師団先鋒が左翼についた。劣勢の兵力にも関わらず、ダヴーは巧妙な用兵でプロイセン軍の攻撃を食い止めた。
午前九時、フランス軍のヴィアラーネ騎兵旅団が到着し、ダヴーはあえてそれを押されていた左翼に投入せずに右翼に投入し、ブリュッハーを押し戻す。それに対して、プロイセン軍の司令官ブルンスヴィック公は右翼の一部を左翼に移動させ、対抗する。これにより、ダヴーの読み通りフランス軍左翼の負担は軽減された。
午前十時、プロイセン軍のヴァルテンシュレーヴェン師団の本隊が到着して右翼に合流し、ブルンスヴィック公は総攻撃を命じる。それをフランス軍はダヴーの名采配によって何とか耐え切っただけでなく、ブルンスヴィック公とシュメッタウを負傷させるという戦果を挙げた。<ブルンスヴィック公の負傷に対して、プロイセン軍は副将カルクロイトが総指揮を執るべきであったが、彼はまだ戦場に到着していなかったために指揮系統は崩壊し、軍全体としての戦いが出来なくなり、各部隊それぞれが独自に戦わざるを得なくなった。
午前十時半、フリードリヒ=ヴィルヘルム3世はオラニエし団本隊を二分して両翼にそれぞれ投入したが、戦力を分散したことによって効果は今一つであった。
午前十一時、フランス軍のモラン師団が到着し、左翼に投入された。その援軍によって力を得たフランス軍左翼はオラニエ師団の半分とヴァルテンシュレーヴェン師団を撃破した。プロイセン軍はカルクロイト隊が到着したにもかかわらず、オラニエ、ヴァルテンシュレーヴェン師団の背走によって思うように前進できず、戦いに参加できなかった。
正午、モラン師団はさらに前進してシュメッタウ師団の側面を脅かした。それに対し、ヴィルヘルム親王の騎兵旅団が突撃を敢行するも、素早くモラン師団は方陣を組んでそれを撃退する。援軍をやられたシュメッタウ師団はすぐに崩壊し、敵が息切れしてきたのを見計らったダヴーは総攻撃を命じる。新手のキューハイム、アルニム両師団は味方の撤退を援護しようとするもすぐに倒され、すでに指揮系統の崩壊したプロイセン軍の各隊は連携をとるのもままならず次々と撃破されていった。そして勢いに乗ったフランス軍はプロイセン軍をアウエルシュタットにまで押し返す。
午後一時、フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の手元には若干の予備兵力があったが、王はすでに戦意を失っており、退却を命じた。
この戦いで、フランス軍は全体の四分の一弱の七千の死傷者を出したものの、プロイセン軍に一万の死傷者を強い、三千の捕虜を得た。
その後
イエナとアウエルシュタットの勝利により、ナポレオンにはプロイセン本土への道が開けた。そして十月二十七日にはフランス軍がプロイセンの首都ベルリンに入城した。さらに、十一月前半の段階で抵抗を続けたプロイセン軍のブリュッハー、シャルンホルストらも降伏した。この戦役で、ダヴーは第一の功労者とされ、1808年にはアウエルシュタット公に叙された。それに対し、どちらの会戦にも参加しなかったベルナドットはナポレオンの叱責を受けた。
一方で、フリードリヒ=ヴィルヘルム3世は東のケーニヒスベルクに逃れて、ロシアと組んで未だナポレオンと戦う腹であった。 |