10分でわかるドイツ政治史
ドイツ政治史(1871-1914)
アイゼナハ派(Eisenacher)・・・・1869年ベーベルによって創設されたドイツ社会民主労働者党は、ラサール派に対してアイゼナハ派と呼ばれた。のちに両派は社会主義労働者党として合同した。
アルヘシラス会議(Algeciras Conference 1905)・・・・第一次モロッコ事件の処理のために、1906年スペインで開かれた国際会議。ドイツはフランスによるモロッコ植民地化を阻止しようとしたが孤立し、結局フランス人の警察権、モロッコの財政管理が認められ、モロッコはフランスの勢力圏に入った。
イエズス会取締法(Jesuitengesetz 1872)・・・・イエズス会の禁止と国外追放を定めた。文化闘争の一環をなす法律。
ヴィルヘルム2世(Wilhelm ? プロイセン王、ドイツ皇帝 1859-1941 位1888-1918)・・・・ビスマルクを1890年に辞職させ、積極的な新航路政策(Neuer Kurs )を展開した。しかし他の列強との対立を深める結果となり、やがて第一次世界大戦に至った。大戦中は影響力を失い、ドイツ革命に伴って退位、オランダに亡命した。「ドイツの将来は海上にあり」、「針路は前と同じ、全速力で前進」、「ドイツ帝国は世界帝国となった」、等の演説が知られる。
ヴィントホルスト(Ludwig Windthorst 1817-91)・・・・ドイツの政治家。中央党指導者としてカトリックを擁護、ビスマルクの文化闘争と戦った。
ヴェルフ党(Welfen-Partei)・・・・プロイセン・オーストリア戦争で敗れ取りつぶしになったハノーファー王国の復活を願う人々の政党。
エルザス・ロートリンゲン党(Ersa?-Lothringer im Reichstag)・・・・普仏戦争の結果帝国直轄領となったエルザス・ロートリンゲンの地域政党。1874年以来15人の議員を帝国議会に送った。
エルフルト綱領(Erfurter Programm 1891)・・・・カウツキーが起草し、ドイツ社会民主党のエルフルト大会で採択された。マルクス主義をとり、社会主義の建設を最終目的とした。しかし具体的には普通選挙、労働者の団結権を掲げており、既存の秩序を認めている点が矛盾しているとしてエンゲルスから批判された。
カウツキー(Karl Kautsky 1854-1938)・・・・ドイツの歴史家、社会主義者。1883年「新時代」誌を創刊し、91年エルフルト綱領の起草に努力した。独立社会民主党に参加したが、第一次世界大戦後はドイツ社会民主党に復帰した。晩年ナチスに追われ、亡命先のオランダで死亡した。
教壇条項(Kanzelparagraph 1871)・・・・文化闘争の始まりを告げる立法で、1871年11月成立した。カトリック教会の政治目的での利用を禁止した。
クリューガー(Paul Kruger 1825-1904)・・・・第一次ボーア戦争で活躍し、1883年南アフリカ共和国大統領となる。金鉱の発見後は、、ドイツやオランダから援助を求めて、イギリスに対抗した。1896年イギリス軍を撃破したとき、ヴィルヘルム2世から祝電を受けた。(クリューガー電報事件)これはドイツにとってイギリスの反独感情を高めただけだった。第二次ボーア戦争ではヨーロッパに亡命して、抗戦を叫んだ。
結集政策(Sammlungspolitik)・・・・プロイセン蔵相ミーケルらによって推進された「鉄と穀物の同盟」。つまり農業関税を引き上げ、それを財源に艦隊建設を進める政策によって国内のユンカー、農民と工業家の利益を同時にみたした。
ケッテラー(Wilhelm Emanuel Freiherr von Ketteler 1811-77)・・・・ドイツのカトリック聖職者、政治家。社会主義に関係し、中央党にも影響を与えたが文化闘争を招いた。
建艦競争・・・・1897年ヴィルヘルム2世は海軍拡張論者のティルピッツを海相に迎え、世界の制海権を握っていたイギリスとの間に建艦競争が始まった。ドイツが建艦法によって7年間で12隻の戦艦の建造などを決めると、イギリスはドレッドノート級の戦艦を建造した。ドイツ側も1900年、06年とさらなる軍拡を決定し、イギリスも08年ド級戦艦計画を決めるなどと競争は発展していった。やがてイギリスはフランスと結んでドイツを押さえる政策に出ることになった。
五月法(Maigesetze 1873)・・・・文化闘争中、1873年5月にだされた一連のカトリックへの抑圧法規を指す。僧侶資格の国家統制、教会裁判権の制限、脱会手続きの簡素化を定めた。
国民自由党(Nationalliberale Partei 1867-1918)・・・・プロイセン・オーストリア戦争の勝利後、ビスマルクを支持した進歩党議員で結成された。保護関税政策をめぐって分裂したが、資本家の利益を代表し、世界政策を支持した。ワイマール共和国のドイツ人民党の前身となった政党。
ゴータ綱領(Gothaer Programm 1875)・・・・ドイツで社会主義労働者党結党に際して採択された綱領。マルクス主義の立場からは妥協の産物と批判された。
再保障条約(R?ckversicherungsvertrag 1887)・・・・ブルガリアへの進出をめぐってロシア、オーストリア・ハンガリー帝国が対立したため、三帝同盟は崩壊した。そこでビスマルクはロシアからの保障を得るため、再保障条約を締結した。3年間の期間満了後、消滅した。
三国同盟(Triple Alliance1882)・・・・1881年フランスがチュニジアを保護国化すると、当地に植民していたイタリアはドイツに接近し、1882年オーストリア・ハンガリー帝国との間で三国同盟が成立した。同盟は四回にわたって更新されたが、やがてイタリアはフランスと妥協し中立に向かった。1915年、イタリアの協商国側にたっての参戦で消滅した。
三帝同盟(Dreikaiserb?ndnis 1873,1881)・・・・アレクサンドル2世とフランツ・ヨーゼフとの協約にヴィルヘルム1世が参加して成立した、ロシア、オーストリア・ハンガリー、ドイツ間の同盟。ベルリン会議で一旦消滅するが、1881年に再度復活し、1887年まで存続した。ビスマルク外交の基本をなすといわれる。
3B政策・・・・帝国主義時代のドイツの中東政策を指す。ベルリン、ビザンティウム、バグダードの頭文字をとったもので、バグダード鉄道敷設権を獲得したが、列強の投資拒否で建設は難航した。この間オスマン帝国でのドイツ人の活動が活発化した。
七年制予算(Septennat 1874)・・・・ドイツ帝国で軍事費は7年間毎に決定するとした制度。1893年には五年制予算に改められた。
社会主義者鎮圧法(Sozialistengesetz 1878-1890)・・・・ドイツのビスマルクが議会の反対を押しきって成立させた法律で、正式名称は、「社会民主主義の公安を害するおそれのある行動に対する法律」。
社会主義的な運動を一切禁止した。しかし運動は後を絶たず、ドイツ社会民主党の選挙での勝利で廃止された。
社会主義労働者党(Sozialistische Arbeiterpartei)・・・・ドイツの社会主義政党で、1875年ラサール派の全ドイツ労働者教会と、アイゼナハ派の社会民主労働者党が合同して成立した。ゴータ綱領を採択し、社会主義者鎮圧法にも関わらず、党は飛躍的に発展した。1890年総選挙で第一党に躍進し、ドイツ社会民主党に改称した。
自由思想家党(Deutsche Freisinnige Partei 1884)・・・・進歩党と国民自由党分離派が合同して結党した。
自由主義連合(1880)・・・・1881年選挙で国民自由党分離派によって結成された。自由貿易政策を支持するグループ。
修正主義(Revisionismus)・・・・19世紀から今世紀初頭にかけて、ベルンシュタインが新カント派の立場からマルクス主義を批判し、ドイツ社会民主党の主流派から修正主義と呼ばれた。のちに主流派からみて右派のマルクス主義を批判する言葉となった。
「新時代」(Die Neue Zeit)・・・・1883年カウツキーが創刊し、ドイツ社会民主党の機関誌となった。マルクスのゴータ綱領批判、ベルンシュタインの修正主義展開の場となった。
進歩党(Fortschrittspartei 1861)・・・・プロイセンのヴィルヘルム1世の軍備増強政策に対抗し、自由主義左派と急進民主主義者とが結成した政党。ビスマルクと憲法紛争をしたが、67年オーストリアとの戦争で一部が離党してビスマルク支持にまわった。84年には再度合同して自由思想党を結成、93年再度分裂、1910年にはドイツ人民党とともにまたしても再合同した。戦後は民主党の系譜に加わった。
世界政策(Weltpolitik)・・・・世界的規模にわたる積極的なドイツの対外政策をさす。フランスの歴史学者、ルネ・ジローによると、世界政策とは軍事的な征服を意味するのではなく、世界中にいるドイツ系住民、ドイツ企業、ドイツ人の科学、文化活動をいかなる場合にも軍事的手段を使ってでも保護することをさすという。
第二インターナショナル(The Second International 1889-1914)・・・・1870年代から80年代にかけて、各国で社会主義政党が設立されたのにあわせて、89年パリで19カ国の代表が集まって国際社会主義者大会を開き、第二インターナショナルの設立を決議した。ドイツ社会民主党が中心となった労働者政党、労働組合のゆるやかな連合で、無政府主義者はのちには排除された。しかし今世紀にはいると左右の対立で動揺し、1907年戦争反対を決議したものの、14年大戦が始まると各国の社会主義者達は戦争に協力し、第二インターナショナルは崩壊した。
中央党(Zentrumspartei 1870)・・・・保守派と自由派の中央に立つという意味のカトリック政党。
ツァーベルン事件(Zabern 1913)・・・・エルザス州ツァーベルンで起きた住民と軍隊との衝突事件。帝国議会で保守党以外の全政党が宰相への不信任を決議したが、皇帝は宰相を辞職させなかった。
ツェッペリン(Ferdinand von Zeppelin 1838-1917)・・・・ドイツの軍人で、普仏戦争にも参加した。1900年飛行船の開発に成功し、ツェッペリンは飛行船の代名詞となった。第一次世界大戦では100機もの飛行船が活躍した。
帝国議会(Reichstag)・・・・ドイツ帝国における立法機関。男子普通選挙によって選ばれ、責任内閣制ではなかったが、予算審議権を有し時の政府に反対した。
帝国主義(Imperialism)・・・・19世紀後半、資本主義が高度に発達し、独占資本主義の段階に入った国に現れた先進諸国で見られた対外膨張主義。国によって様々な形態をとったが、1870年代末のイギリスに始まるといわれる。資本の集積を背景に、原料及び市場を求めてイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、日本、アメリカなど列強は対外進出を行い、アジア、アフリカに植民地を獲得、資本投下を行った。一般に帝国主義勢力は国内の左翼、進出先の民族運動を抑圧した。1900年頃世界分割が完了し、以後は列強同士の植民地再分割の動きが激化した。
帝国党(Deutsche Reichspartei 1871)・・・・ビスマルク支持の自由保守派の流れをくむ政党。カルテル三党の中で保守党と国民自由党の間に位置してキャスティングヴォートを握った。
ティルピッツ(Alfred von Tirpitz 1849-1930)・・・・ドイツの海軍軍人、長く海相(1897-1916)を務め、大提督となった。戦争前は海軍の軍備拡張を推進し、戦争が始まると無制限潜水艦戦を主張した。のちに祖国党、国家人民党の代議士となった。
デーリ・テレグラフ事件(The Daily Telegraph 1908)・・・・1908年10月28日付のイギリスの新聞、デーリ・テレグラフに掲載されたヴィルヘルム2世の会見を発端とする事件。ヴィルヘルム2世は会見の中で、ブール戦争時イギリスに助言を行った、ドイツ艦隊は日本に対抗するものだとの発言を行ったが、イギリスとの関係はかえって悪化した。国内で皇帝は批判され、ビューロー宰相も擁護しなかったため、帝政の衰退が始まるきっかけになったといわれる。
デルブリュック(Rudolf von Delbr?ck 1817-1903)・・・・プロイセンの政治家。外国との自由貿易主義に努めたがビスマルクの政策転換に伴い1876年辞職した。
デンマーク党・・・・北シュレスヴィヒに住むデンマーク人の議員集団。帝国議会で1議席前後を占めた。
ドイツ・オーストリア同盟(German-Austrian Alliance 1879)・・・・ベルリン会議後、三帝同盟は事実上消滅してしまったので、ビスマルクはオーストリア・ハンガリー帝国との間に軍事同盟を締結した。両国の堅い同盟は、第一次世界大戦終結までヨーロッパの国際関係の基本となった。
ドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands SPD)・・・・ドイツの社会主義政党。社会主義者鎮圧法の廃止にともない、1890年社会主義労働者党が改称して成立した。翌年エルフルト綱領を採択し、ベーベルの指導で発展した。修正主義が主流となり、第一次世界大戦では戦争に協力した。革命後ワイマール共和国を樹立し、政権を握った。33年第三帝国成立とともに解散した。戦後東ドイツでは統一社会党に参加し、西ドイツでは大政党となった。現在のドイツ首相、シュレーダーも社会民主党出身である。
ドイツ保守党(Deutsche Konservative Partei 1876)・・・・ドイツ帝国でユンカーの利益を代弁した保守政党で、長年自由保守党とともに政府与党として体制の維持に努めた。ワイマール共和国における国家人民党の前身である。
ドイツ・マンチェスター派(Deutsche Manchester Schule)・・・・ドイツにおける経済自由主義者で、1860年代以降勢力を伸ばした。資本主義の発達に伴う貧困には自己責任と放置を主張した。
農業者同盟(Bund der Landwirte 1893-1921)・・・・カプリヴィの農業関税引き下げに反対して結成された政治団体で、保守党と結んで中小農民をも結集して政府に圧力をかけた。ワイマール共和国の全国農村同盟の前身となった。
パンかご法(Brotkorbgesetz 1875)・・・・・文化闘争の一環をなす立法。カトリック教会への補助金の停止を定めた。しかし1880年には破棄された。
パン・ゲルマン主義(Pan-Germanism)・・・・ドイツ国外に住むドイツ系住民を統合し、中東欧に一大帝国を築こうとする主張。全ドイツ連盟のような右翼団体によって主張された。
ビューロー(Bernhard von B?low 1849-1929)・・・・ドイツの政治家、宰相(1900-1909)。中国の膠州湾租借、バグダード鉄道の建設、艦隊建設などの膨張的な世界政策を推進した。国内ではビューロー・ブロックを形成し、帝国主義を遂行したが、1909年これが崩壊、辞職した。
ビューロー・ブロック(B?low-Block)・・・・ホッテントット選挙の結果、1907年保守党、帝国党、国民自由党のカルテル三党に自由派三党まで加えた大連合が成立した。これは艦隊建設や植民地政策を自由派が支持した結果であった。
ビヨルケ密約(Treaty of Bj?rk? 1905)・・・・1905年7月24日、フィンランドのビヨルケでヴィルヘルム2世とニコライ2世とのあいだで結ばれた秘密条約。相互援助条約でフランスを加えた大陸同盟を目指したものだったが、フランス側にその意思がなく、すぐに消滅した。
ヒルシュ・ドゥンカー労働組合(Hirsch-Dunkersche Gewerkvereine 1868)・・・・ドイツの自由主義者のヒルシュ、ドゥンカー、デーリッチらによって設立された労働組合で、労働者の自己救済や労資協調を唱えたが、大きく発展することはなかった。
ファルク(Adalbert Falk 1827-1900)・・・・ドイツの政治家。プロイセン文相として文化闘争を戦った。
フォアヴェルツ(Der Vorw?rts 1891)・・・・ドイツ社会民主党の機関誌。ヴィルヘルム・リープクネヒトが初代編集長で、1933年ヒトラー政権によって禁止されたときも’Neuer Vorw?rts’として国外で発行され続けた。1955年に復刊された。
文化闘争(Kulturkampf)・・・・ドイツ統一後、ビスマルクは反プロイセン的なカトリック勢力に対し、弾圧を行った。僧侶資格の国家統制、教会による裁判権の排除、脱会手続きの簡素化などを「教団条項」や「五月法」で定めたが、カトリック教徒は屈しなかった。カトリック教徒との和解を必要としたビスマルクは反ビスマルク派の教皇ピウス9世が1878年に死亡したのを機に文化闘争を終了した。
ベートマン=ホルヴェーク(Theobald von Bethmann Hollweg 1856-1921)・・・・ドイツの政治家で、首相(1909-1917)。内政改革、イギリスとの和解を目指したが、国内の反対にあった。第一次世界大戦勃発時の首相。ベルギーへの不可侵を平然と破った。
ベーベル(August Bebel 1840-1913)・・・・ドイツのマルクス主義者で、66年ドイツの民主的統一を目指してザクセン人民党を結党したのち、69年社会民主労働党を結成した。71年帝国議会議員になると、ビスマルク批判で活躍し、禁固刑を受けた。75年には社会主義労働者党を結成し、長く指導者となった。多数の著作があるが、「婦人と社会主義」が主著。
ヘルゴラント・ザンジバル協定(Helgoland-Sansibar-Vertrag 1890)・・・・東アフリカのドイツ領ザンジバル島付近の権益と北海の英領ヘルゴラント島を交換した英独間の協定。これによりイギリスを三国同盟に引き入れようとしたがそれは果たせなかった。
ベルリン会議(Berliner Kongre?1878)・・・・サン=ステファノ条約によってロシアのバルカン半島と地中海への進出が成功したように見えた。そこで脅威を覚えたイギリスとオーストリア・ハンガリーは異議を唱え、ドイツが調停に乗り出した。この結果ベルリン条約が結ばれ、ロシアはペッサラビアと小アジアの一部をえた。一方イギリスはキプロス島を獲得し、オーストリア・ハンガリーはトルコ主権下でボスニア・ヘルツェゴビナの行政権を獲得した。そのほかルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立は承認された。ブルガリアは領土を半減された上、トルコの属国にとどまり、ロシアのバルカン進出は頓挫した。この結果、ロシア、オーストリア・ハンガリーは対立し、三帝同盟の崩壊につながった。
ベルンシュタイン(Eduard Bernstein 1850-1932)・・・・ドイツの社会主義者で、72年社会民主労働者党に入党した。エンゲルスの同士となり、フェビアン社会主義の影響を受けて議会主義的な傾向を帯びた。1896年以後修正主義理論を展開し、「社会主義の前提と社会民主党の任務」(1899)をあらわした。第一次世界大戦では独立社会民主党に参加したが、戦後ドイツ社会民主党に復帰した。
ホーエンローエ(Chlodwig F?rst zu Hohenlohe-Schillingsf?rst 1819-1901)・・・・ドイツの政治家、宰相(1894-1900)。バイエルン首相としてドイツ統一に努力した。パリ大使を経て宰相となり、中国の膠州湾租借や三国干渉など帝国主義的政策を展開した。
ポーランド党・・・・プロイセン政府のドイツ語強制やポーランド人の土地買い上げに抵抗する西プロイセンや上シュレジエンのポーランド人は、ポーランド党を組織しプロイセン議会、帝国議会で十数議席を占め続けた。
ホルシュタイン(Friedrich von Holstein 1837-1909)・・・・ドイツの政治家。ビスマルク後のドイツ外交の黒幕。再保障条約の不更新を主張した。
マントイフェル(エトヴィン)(Edwin Freiherr von Manteuffel 1809-85)・・・・プロイセンの軍人でオットーの従兄弟。普仏戦争時に陸軍総司令官を務めた。また、1879年からはエルザス・ロートリンゲン総督として住民の反ドイツ運動を弾圧した。
モロッコ事件(Moroccan Crisis 1904,1911)・・・・モロッコをめぐり、フランスとドイツの帝国主義が衝突した国際危機。フランスはスペインとの秘密条約、英仏協商によりモロッコへ政治的、経済的に進出しようとしたが、そこへドイツが割り込もうとした。1905年3月、ヴィルヘルム2世がモロッコのタンジールに上陸、(第一次モロッコ事件、別名タンジール事件)フランスの植民地化に異議を唱えた。アルヘシラス会議が開かれ一旦フランス優位の妥協が成り立ったが、ドイツは11年再びモロッコのアガディールに軍艦を派遣し、フランスを威嚇した。(第二次モロッコ事件、別名アガディール事件)しかしドイツは結局コンゴの一部を獲得しただけで引き下がらざるをえなかった。
ラスカー(Eduard Lasker 1829-84)・・・・ドイツの政治家。プロイセン議会、帝国議会議員として国民自由党を指導した。ビスマルクの保護貿易に反対した。
リヒター(Eugen Richter 1838-1906)・・・・ドイツの自由主義政治家。帝国議会でビスマルクと対決し、1884年ドイツ自由思想家党を結成した。
連邦国会(Bundesrat)・・・・ドイツ帝国における、連邦諸政府代表者会議。ドイツ帝国宰相が議長を務め、法律の批准、議会解散権、宣戦、条約への発言権を有した。
ドイツ政治史(1929-45)
アイヒマン(Karl Adolf Eichmann 1906-62)・・・・ドイツの軍人で、ナチスの戦犯。1932年親衛隊に入隊し、ゲシュタポのユダヤ課長として、ユダヤ人虐殺にあたった。45年逮捕されたが逃亡し、偽名を使ってアルゼンチンに潜伏した。60年イスラエルに移送され、処刑された。
アウシュヴィッツ(Auschwitz)・・・・ポーランドの東部にあり、1940年ナチスにより作られた強制収容所では実に400万人以上のユダヤ人、ポーランド人が殺害されたといわれる。
一般兵役義務(allgemeine Wehrpflicht 1935)・・・・ヴェルサイユ条約で徴兵制は禁止されていたが、1935年3月一般兵役義務制が復活された。オーストリア問題と合わせて英仏伊はこれに対抗、4月にはストレーザ戦線を形成した。
ヴァイスラー(Friedrich Wei?ler 1891-1937)・・・・ドイツのプロテスタント牧師で教会の法律顧問。1935年5月総統崇拝やナチの教会への干渉その他政治問題に関してナチを批判する建白書を起草した。これは保身を図る教会指導部からも擁護されず、彼は逮捕、殺害された。
ヴァンゼー会議(Wannseekonferenz 1942)・・・・1942年1月、ベルリン郊外のヴァンゼー湖畔で内閣官房、外務省、内務省、東部占領地域省、四ヶ年計画庁、ゲシュタポ、党官房など15名が参加してユダヤ人問題の「最終的解決」が決定されたことで悪名高い。戦争中ホロコーストの犠牲になったユダヤ人は600万人近くにのぼるという。
英独海軍協定(Britisch-Deutsches Flottenabkommen 1935)・・・・ドイツの再軍備宣言に対し、イギリスは英独海軍協定によってこれを抑える政策に出た。対英35パーセントまでの海軍保有を認めることでドイツを抑えようとした。
オシエツキ(Carl von Ossietzky 1888-1938)・・・・ドイツの平和主義者。第一次世界大戦に不本意にも参加し、戦後は反戦運動を展開した。週刊誌「世界展望」を編集し、ドイツの再軍備の動きを暴いて反逆罪に問われた。ヒトラー内閣が成立すると強制収容所に送られたが、1935年獄中でノーベル平和賞を受けたのち、結核により死亡した。
カイテル(Wilhelm Keitel 1882-1946)・・・・ドイツの軍人で、第一次世界大戦で砲兵隊参謀将校を務めた。戦後熱狂的なナチス党員となり、1938年国防軍最高司令長官となった。フランスとの休戦条約、45年の降伏文書の調印に加わった。ニュルンベルク裁判で処刑された。
強制収容所(Konzentrationslager)・・・・ドイツの第三帝国で政治犯を大量に収容した監禁施設を指す。第二次世界大戦が発生するとドイツ軍の占領地にも拡大され、絶滅収容所では毒ガス、銃殺、餓死により多くのユダヤ人が虐殺された。その管理にはSSがあたった。
強制的同質化(Gleichschaltung)・・・・ナチス政権成立後州政府はナチ化され、1934年には州議会も廃止された。地方自治は死滅し、中央政府任命の新設の国家総督に治められることになった。
グデーリアン(Heinz Guderian 1881-1954)・・・・ドイツの軍人。ポーランド、フランス、ソ連の各戦線で活躍した。1945年参謀総長となった。
クラウゼナー(Erich Klausener 1895-1934)・・・・ドイツの「カトリック行動団」の指導者。ナチスの人種政策を公然と批判し、レーム事件の時に親衛隊員に殺害された。
ゲシュタポ(Gestapo Geheime Staatspolizei)・・・・国家秘密警察の略称で、ヒトラー政権下にゲーリング、ヒムラーらによって設置された。SSの管轄下で、ナチス・ドイツの支配に大きな役割を果たした。
ケッセルリング(Albert Kesselring 1885-1960)・・・・ドイツの軍人。1936年に空軍参謀総長、40年には元帥となり地中海方面で活躍した。戦後死刑を宣告されたが52年釈放された。
ゲッベルス(Joseph G?bbels 1897-1945)・・・・ドイツの政治家、足が不自由なため徴兵を免れ、いくつもの大学を放浪する。ヒトラーの忠実な部下となり、33年宣伝相となった。生涯にわたって女性を求め、激しいユダヤ人差別主義者だった。大衆扇動の才能があり、戦時中はヒトラーが戦争に熱中する中で国政を取り仕切った。最後までヒトラーの下にとどまり、妻と六人の子供とともに自殺した。
ゲーリング(Hermann G?ring 1893-1946)・・・・ナチス=ドイツの軍人、政治家。第一次世界大戦では空軍で活躍し、22年ナチスに入党した。突撃隊を指揮し、33年入閣した。航空相、4ヶ年計画長官として軍備拡大を行い、開戦後は軍最高司令官となるが、戦況の悪化とともに権勢を失い44年クーデターに失敗し亡命した。ニュルンベルク裁判で死刑を宣告され、自殺した。
ゲルデラー(Karl Friedrich Goerdeler 1884-1945)・・・・ドイツの政治家で、ライプツィヒ市長、価格統制委員を務めたが、のちにヒトラーに反対した。1944年のヒトラー暗殺事件に加担し、処刑された。
告白教会(bekennende Kirche)・・・・ファシズム政権の宗教政策に反対したプロテスタント教会の運動。ニーメラーの牧師緊急同盟から発展し、1934年バルメン大会で信仰の維持と全体主義の拒否を宣言した。1937年以降弾圧が激化したが、闘争は続行された。
国防軍統合司令部(Oberkomando der Wehrmacht)・・・・ブロンベルク軍務相罷免後にヒトラーの元に設置された。カイテル長官、ヨードル作戦部長、ブラウヒッチュ陸軍総司令官とヒトラー子飼いの人々が就任し、国防軍の政治的影響力を最終的に奪った。またヒトラーの作戦への介入をも保障することになった。
国民啓蒙宣伝省(Ministerium f?r Volkserkl?rung und Propaganda)・・・・1933年3月13日新設され、ゲッベルスが宣伝相に就任した。帝国文化院を通じた文化統制やラジオによる宣伝に力を入れ、国民文化の均質化、ナチ化に尽くした。
国会議事堂放火事件(1933)・・・・1933年2月27日、ベルリンで国会議事堂が炎上した。オランダ人の元共産党員が逮捕され、ナチスは放火は共産党による革命の合図だったと宣伝した。一説にはゲーリングらが計画したものといわれるが詳細は現在も不明。
ザウケル作戦(Saukelaktion)・・・・戦争中の労働力不足に対応するためザウケル労働配置総監が担当者となって、占領地から外国人を大量に連行して働かせた。そのkずは1944年には800万人近くにのぼった。
ジークフリード線(Siegfriedstellung)・・・・1937年以降建設されたドイツの西部国境の防衛線。1944年冬以降、激戦の末連合軍に突破された。
七月二十日事件(der 20. Juli 1944)・・・・第二次世界大戦末期のヒトラー暗殺未遂事件。ベック退役上級大将、元ライプツィヒ市長ゲルデラーらクライザウ・サークルが首謀し、シュタウフェンベルク大佐が実行犯となったが失敗した。連累者たちへの報復は苛烈を極めた。
シュタウフェンベルク(Claus Stauffenburg 1907-44)・・・・ドイツの軍人。第二次世界大戦で負傷し、片足を失い予備軍司令部参謀長となった。1944年ヒトラー暗殺を企てたが失敗し、翌日銃殺された。
シュトラッサー(オットー)(Otto Johan Maximilian Strasser 1897-1974)・・・・ドイツの政治家で、グレゴールの弟。ナチでは左派に属し、1932年には早期入閣をヒトラーに勧めた。結局1934年亡命した。
シュトラッサー(グレゴール)(Gregor Strasser 1892-1934)・・・・ナチ党内で小市民的社会主義を主張し、左派と規定されている。総統への絶対服従に異議を唱え、1930年脱党した。
シュペーア(Albert Speer 1905-81)・・・・ドイツの政治家、著作家。1931年ナチスに入党し、ヒトラーの主任建築家、1942年には軍需相となったが、戦争末期にはヒトラーを批判した。ニュルンベルク裁判でナチスの犯罪を認め、懲役20年となった。出所後は著作家となった。
シュミット(Carl Schmitt 1888-1985)・・・・ドイツの法律、政治学者。ケルン、ベルリン大学でナチスの御用学者として全体主義的な政治思想を吹聴した。しかし後にはナチ主流派から疎外された。
シュライヒャー(Kurt von Schleicher 1882-1934)・・・・ドイツの軍人、政治家。第一次世界大戦中、参謀幕僚を務め、戦後再軍備政策の実現に努めた。ナチスの宿敵で、ブリューニングの成立と崩壊に関与した。次いで首相(32-33)となったが、独裁権をえられず、ヒトラーに政権を譲った。翌年夫婦共々ナチスに殺害された。
ショル兄妹(Scholl Geschwister, Hans 1918-43 Sophie 1921-43)・・・・ドイツの反ナチス抵抗運動家。1942年ミュンヘン大学で「白ばら」と題したビラを配布、宗教的、倫理的立場からナチスと戦争政策を批判した。1943年2月に逮捕、処刑された。
シーラハ(Baldur von Sehirach 1907-74)・・・・ドイツの政治家。1933年ドイツ青少年指導者となり、1940年にはウィーン大管区総督となった。1943年失脚し、ニュルンベルク裁判で20年の刑を受けた。
親衛隊(Schutzstaffel)・・・・略称SS。ヒトラーを保護する軍事組織として1925年発足し、29年ヒムラーが隊長に就任した。レーム事件の後突撃隊から独立し、戦争が始まると、占領地域での軍政を行い、後には強制収容所の運営まで担った。その隊員は肉体的思想的に厳選されたエリート集団だった。
水晶の夜(Kristallnacht 1938)・・・・第二次世界大戦前夜の1938年11月9日にナチスによって行われた組織的なポグロム。多数のユダヤ人の商店を破壊し、割られたガラスにちなんで水晶の夜といわれた。900人以上が殺害され、2万6千人が強制収容所に送られた。
枢軸国(the Axis)・・・・1936年11月ムッソリーニが演説の中でドイツ・イタリアをヨーロッパの枢軸と規定したことに由来する名称で、のちに日本も加えたファシズム諸国を指すようになった。
スターリングラード(Stalingrad 1942-43)・・・・独ソ戦の天王山となった戦場。1942年9月ドイツのB軍集団第六軍がスターリングラードに侵入、激戦が始まった。しかし11月、ドイツ軍三十万は包囲され、退却を申し出たがヒトラーは聞き入れず、結局翌年1月パウルス司令官は降伏した。
ストレーザ会議(Stresa 1935)・・・・ドイツのヴェルサイユ条約侵犯問題などをめぐってイギリス、フランス、イタリアの首脳が35年5月に北イタリアで行った会議。ドイツに対するストレーザ戦線が形成されたが、エチオピア戦争により崩壊した。
全権委任法(Erm?chtigungsgesetz 1933)・・・・1933年3月行政権を代表するヒトラー首相に、立法権をも与えた前代未聞の法律が可決された。議会とワイマール共和国は、自殺した。
総統(F?hrer)・・・・当初ナチスの指導者、1934年以降は首相と大統領を兼ねたヒトラーの称号として用いられた言葉。イタリアのドゥーチェにならったもので、国家の絶対的指導者を意味するとされた。
ゾルゲ(Richard Sorge 1895-1944)・・・・ドイツの共産党のスパイ。駐日ドイツ大使館職員だった時にドイツの対ソ開戦情報をスターリンに流した。
第三帝国(Drittes Reich 1933-45)・・・・ナチスが政権獲得の過程で使用し、政権獲得後は禁止したがナチス=ドイツを表す用語として定着した。神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に続く第三の帝国という意味。1933年ヒトラーが政権を握ると、全権委任法によりワイマール憲法は死文化され、「上に対する服従、下に対する権威」がスローガンとなった。党と政府が一体化し、強力な中央集権制がとられたが、国内対立はやまなかった。経済面では失業者を救済し、軍需生産を増大させた。戦争が始まると市民生活は窮乏し、強制収容所や拷問がまかり通った。45年敗戦により崩壊した。
第二次世界大戦(World War ? 1939-45)・・・・1930年代、日、独、伊のファシズム諸国は、膨張主義をとり、イギリス、アメリカ、フランスと衝突した。後者は当初宥和政策をとったが、ファシズム諸国の増長に、やがて開戦を余儀なくされた。1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、大戦が始まった。英仏はドイツに宣戦布告したものの、戦闘を行わず、奇妙な戦争といわれた。これはドイツとソ連との衝突を期待したものだといわれる。しかしドイツとソ連はポーランドを分割してしまい、ドイツの矛先は西へ向いた。ドイツは翌年5月以降、フランスとベネルクス3国を短期間のうちに制圧してしまった。英仏はダンケルクでかろうじてイギリス本国に撤退できたという有り様だった。ドイツは直ちにイギリス本国上陸に向けて空爆を開始したが、これはドイツ軍の損害が大きく、イギリス本土上陸は延期された。イギリスが降伏しないのはソ連の参戦を期待しているからだと考えたヒトラーは、41年6月、独ソ戦を開始した。さらに12月には日本がアメリカに宣戦布告し、アジア太平洋戦争が開始され、戦争はまさに世界中に広がった。枢軸国側は当初優勢だったが、英米にソ連を加えた連合国側は次第に態勢を立て直し、太平洋でも東欧でも日本、ドイツを追いつめていった。43年10月にはイタリアが降伏し、44年6月、英米は100万人を動員してフランスに上陸し、ドイツを挟み撃ちした。45年5月、ドイツは降伏し、8月には日本も無条件降伏して戦争はようやく終わった。
多頭制支配(Polikratie)・・・・近年のナチズム研究で注目されている概念。第三帝国では必要以上に多数の機関が乱立した結果、多頭の怪物のように各権力機関が管轄をめぐって争っていたという。たとえば外交では外務省とは別個にナチ党外国政策局、外国組織部、リッベントロップ事務所、宣伝相その他が独自に外交を行い、混乱を招いた。
ダンツィヒ(Danzig)・・・・バルト海に面した位置にあり、ドイツ領だったがヴェルサイユ条約で国際連盟の管理下に入った。この都市に関する要求が第二次世界大戦開戦の原因の一つにもなった。
ツィターデル作戦(Zitadelle 1943)・・・・スターリングラードでの敗北後ドイツ軍はハリコフを奪回し、さらにクルスクのソ連軍撃滅を狙った。1943年7月に始まった作戦はこの大戦最大の戦車戦となったが痛み分けに終わり、予備兵力のないドイツ軍は以後戦局の主導権を永遠に失った。
デーニッツ(Doenitz Karl 1891-1980)・・・・ドイツの海軍軍人で、提督。第一次大戦後、ドイツの潜水艦隊再建に努力した。36年潜水艦隊司令官、43年海軍最高司令官となり、45年ヒトラーから後継首相に任命された。降伏後連合国に逮捕され、ニュルンベルク裁判で禁固10年の判決を受けた。
電撃戦(Blitzkrieg 1939)・・・・1939年9月1日、ドイツはポーランドに宣戦を布告し、電撃戦が始まった。ドイツ軍は陸と空から同時にポーランドを攻撃し、鉄道、幹線道路を寸断した。同時にソ連もポーランドに侵略を開始した。ポーランド軍は果敢に抵抗したが、27日にワルシャワは陥落し、35日目にはポーランドの抵抗は壊滅した。
広義にはフランスやバルカン半島でのドイツの速戦勝利も電撃戦というが、近年その概念に疑問を呈する声が挙がっている。
ドイツ-オーストリア合邦(Anschlu? 1938)・・・・サン・ジェルマン条約では、オーストリアのドイツとの合邦は禁止されていた。31年のドイツ-オーストリア関税同盟すらもフランスの反対で実現しなかった。ヒトラーは合邦を実現しようとしたが、オーストリアのカトリック勢力はドルフースの指導の下で合邦反対に転じ、34年の暴動もイタリアの威嚇で失敗した。しかし38年にヒトラーは最後通牒を発し、政権を握ったオーストリア・ナチスによってドイツによるオーストリア併合は実現した。両国は第二次世界大戦後は再び分離した。
「ドイツ的キリスト者」(Deutsche Christen)・・・・ワイマール共和国末期に成立した反共和制的、民族主義的な信仰運動。指導者の一人のミュラーはナチから福音教会問題全権に指名された。さらに聖職者へのアーリア条項適用の動きにも加担した。
ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront DAF)・・・・打倒された労組に代わるナチの御用労働組合。労働者の組織化、レクなど組合員への広範な福祉事業、世界観教育を行った。
独ソ戦(1941-45)・・・・1941年6月22日、ナポレオンのロシア遠征にちなんだこの日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連領に進撃を開始した。ドイツ軍は10月にはモスクワに迫ったが、今一歩のところで陥落はならず冬を迎えた。翌年5月、ドイツ軍は再び攻勢に出て、スターリングラード攻略を目指した。しかし43年1月、破滅的な敗北を喫することになった。補給の続かないドイツ軍は、ナポレオンと同じく冬将軍に敗れたのだった。戦局は逆転し、43年中にはドイツ軍はソ連領から追い出された。45年5月にベルリンは陥落し、5月8日ドイツは無条件降伏し、戦争は終わった。
独ソ不可侵条約(Deutsch-sowjetischer Nichtangriffsvertrag 1939)・・・・第二次世界大戦前夜の1939年8月23日にドイツとソ連の間で結ばれた不可侵条約。付属秘密議定書で、ポーランド、バルト三国、ベッサラビアの勢力圏を設定していた。41年6月、独ソ戦開始に際して、ドイツ側が一方的に破棄した。
独ポ不可侵条約(Deutsch-polnische Nichtangriffsvertrag 1934)・・・・1934年1月、ドイツ、ポーランド両国の出した宣言で、パリ不戦条約を尊重し、国際紛争を平和的に処理すること、有効期間は10年などが内容であった。フランスとソ連の接近に対抗して、ドイツは孤立から脱却することを目指した。
トラウトマン(Oskar Trautmann 1877-1950)・・・・ドイツの外交官。日中戦争初期に日本と蒋介石との和平工作を行った。
日独伊三国同盟(Tripartite Pact 1940)・・・・1936年結ばれた日独防共協定に、イタリアを加えたものをさらに発展させて、40年9月、ベルリンで三国の軍事同盟が調印された。ドイツの電撃的勝利に刺激された日本の軍部と、ドイツ側の要請が一致して成立した。しかし実際には日本とドイツの戦争協力はあまり行われず、この同盟はファシズム諸国同士が自国の侵略に相手を利用しようとしたものに過ぎなかった。
日独伊防共協定(Anti-Comintern Pact 1937)・・・・1936年11月、コミンテルンの活動に関する情報交換、対ソ連政策に関して結ばれた日独防共協定に、翌年イタリアが加わって成立した。世界的に反ファシズムの動きがあらわになる中で、日本、ドイツ、イタリアが孤立を脱しようとして結んだ。
ニーメラー(Martin Niem?ller 1892-1984)・・・・ドイツのルター派の牧師。第一次世界大戦に加わったのち聖職者となり、1933年牧師緊急同盟を結成し、ヒトラーに公然と反対した。告白教会を指導し、1937年から敗戦まで強制収容所で過ごした。戦後も宗教活動、平和活動に参加した。
ニュルンベルク法(N?rnberger Gesetze 1935)・・・・ユダヤ人へのあからさまな差別的法規で、ドイツ国公民法とドイツ人の血と名誉を守る法からなる。ユダヤ人の公民権を奪い、ドイツ人との結婚を禁止した。
ネロ命令(Nero-Befehl 1945)・・・・敗戦が誰の目にも明らかになった1945年ヒトラーはドイツ軍に撤退する際に国土を完全に破壊するよう命令した。しかしこれはシュペーアの努力により完全には実施されずに済んだ。
ノイラート(Konstantin von Neurath 1873-1956)・・・・ドイツの政治家、外相(1933-38)。ヒトラー内閣の外相として、再軍備政策を展開した。39年チェコスロバキアを併合すると、ボヘミア、モラヴィアの総督となった。1943年引退し、ニュルンベルク裁判で懲役15年に処せられたが54年釈放された。
ノルマンディー上陸作戦(1944)・・・・第二次世界大戦中の、連合国側のフランス北西部への上陸作戦。前年11月のテヘラン会議で確認され、44年6月6日決行された。アイゼンハウアー将軍の指揮で、100万人にのぼる大部隊を動員して行われた。
ハイドリヒ(Reinhard Heydrich 1904-42)・・・・ドイツの政治家。ヒムラーの部下から親衛隊保安部長、ゲシュタポ長官などをつとめ、ユダヤ人問題の最終的解決も実行した。1941年ボヘミア・モラヴィア保護領統監に就任したが、テロにより殺害された。
ハウスホーファー(Karl Haushofer 1869-1946)・・・・ドイツの軍人で、地政学を用いてナチス・ドイツの併合政策を合理化した。戦後妻とともに自殺した。
パウルス(Friedrich Paulus 1890-1957)・・・・ドイツの軍人。第六軍司令官としてスターリングラードで戦い、1943年1月ソ連軍に降伏した。後に自由ドイツ委員会に参加し、祖国解放に尽くした。
ハーケンクロイツ(Hakenkreuz)・・・・鉤十字。逆まんじは古代のインダス文明に由来するらしいが、ナチスの党章として使用され、1935年第三帝国の国旗となった。
バービー・ヤールの虐殺(Babi Yar Massacre 1941)・・・・独ソ戦によってドイツに占領されたキエフで1941年9月、10万人ものキエフ市民がナチス親衛隊によって銃殺された。
パーペン(Franz von Papen 1879-1969)・・・・ドイツの軍人、政治家で、中央党に所属し、シュライヒャーに推されて首相(1932)に就任した。ナチスの取り込みに失敗して退陣したが、ヒトラー内閣の副首相を務めた。のちにオーストリア駐在大使、トルコ駐在大使を務めたが、ニュルンベルク裁判では無罪判決を受けた。
バルジの戦い(Bulge)・・・・第二次世界大戦末期、ドイツ軍の西部戦線における最後の攻勢。1944年12月、ヒトラーはルクセンブルクとベルギー南部のアルデンヌの森にいる連合国軍への攻撃を命じた。これはフランスを破った戦いの再現をねらったものだったが、当時とは状況が違った。ドイツ軍は一時的に勝利したが結局一ヶ月あまりで元の戦線まで押し戻された。
ハルダー(Franz Halder 1884-1972)・・・・ドイツの軍人。1938年参謀総長となったがヒトラーの戦争政策に反対し、収容所に送られた。
バルバロッサ作戦(Unternehmen Barbarossa 1941)・・・・総統指令第21号のソ連征服作戦。1940年12月18日署名された。来る戦争はユダヤ・ボリシェヴィズムに対する「絶滅戦争」であり、捕虜の内ユダヤ人や共産党政治委員は直ちに殺害するものとされた。このように独ソ戦では戦争法規は初めから無視されていた。
ヒトラーユーゲント(Hitlerjufgend 1926)・・・・ナチスの少年団で、政権獲得後は14歳から18歳までの男子が強制的に加入させられ、思想教育を受けた。女子にも同様のドイツ女子青年団があった。
ヒムラー(Heinrich Himmler 1900-1945)・・・・ナチス=ドイツの指導者。25年ナチスに入党し、29年から親衛隊長となった。ゲシュタポを指揮し、ユダヤ人の抹殺を行った。43年内相となるが、敗戦後イギリス軍に逮捕され、自殺した。
V1, V2ロケット・・・・Vとは「報復兵器」の頭文字から取った。陸軍兵器局のブラウンらの開発チームが44年6月に実用化した。V1号は敗戦までに一万基以上が使用されたが大半はイギリス側に迎撃され、効果はそれほどでもなかった。V2号も44年9月から使用され、3千基以上が使用された。こちらは音速の数倍で飛行するため連合国側も迎撃は不可能だったが戦局を挽回するには遅すぎた。
ファシズム(fascism)・・・・イタリアのムッソリーニの政権をはじめ、ナチス・ドイツ、軍国主義の日本、スペインのフランコ体制や東欧の権威主義体制など類似の形態を持つ政治体制を総称する。ファシズムとは帝国主義時代に入って矛盾を激化させた資本主義社会における国粋主義、暴力主義で、社会政策を行い中間層、農民の支持を受けた。またロシア革命への反革命という性格も持つ。ドイツ、イタリアなどではファシズム政党が下からの疑似革命で政権を奪取したが、日本では既存の体制そのものが上からファシズム化した
武装親衛隊(Waffen-SS)・・・・親衛隊の武装組織。ホロコーストなどの犯罪行為から擁護する声もあるが実際は無縁ではなかったらしい。当初は純粋アーリア人に限っていたが、後には占領地のあらゆる民族から半強制的に徴募した。
フランスの戦い(Battle of France 1940)・・・・フランスでは、マジノ線の強固さに関する過信から、対独戦楽観論が支配的であったが、ダンケルク作戦を経てそれは根底から揺らいだ。1940年6月、ドイツ軍はフランスに攻撃を開始し、一気に数カ所でマジノ線を突破した。6月10日にはイタリアもフランスに宣戦を布告し、連合国軍は撤退を余儀なくされた。6月14日パリは陥落し、勝ち誇ったドイツ軍はシャンゼリゼ通りを行進した。フランス政府は南フランスに逃れたが、22日休戦協定に調印した。22年前ドイツが第一次大戦の休戦協定に調印した同じ車両をわざわざ博物館から運んできての、フランスにとって屈辱的な休戦だった。北フランスはドイツが併合、南フランスにはヴィシー政府が成立した。多くの人々がその後もレジスタンス運動でドイツに抵抗したといわれるが、一方でドイツへの協力者も後を絶たなかった。
フリック(Friedrich Flick 1883-1972)・・・・ドイツの実業家、政治家。鉄鋼業で財をなし、ナチスにも積極的に資金協力した。ニュルンベルク裁判で無罪判決を受けた。
フリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch 1880-1939)・・・・ドイツの軍人。1935年国防軍最高司令官になったが、ヒトラーの早期開戦論に反対して同性愛疑惑をかけられ1938年左遷された。
ブリューニング(Heinrich Br?ning 1885-1970)・・・・ドイツの政治家で、首相(1930-32)。中央党、保守派の支持で組閣し、デフレ政策で不況を克服しようとしたが、大統領緊急勅令に依存する権威主義政治に陥った。
プロイセン・クーデタ(Staatsstreich gegen Preu?en 1932)・・・・強権支配を狙うパーペン首相が治安対策が不十分であるとしてプロイセン首相を更迭した事件。「プロイセンの陵辱」として名高い。
フロム(Friedrich Fromm 1888-1945)・・・・ドイツの軍人。国内軍総司令官として七月二十日事件鎮圧に当たったが陰謀に加担したと疑われ、1945年3月処刑された。
ブロンベルク・フリッチュ危機(Blomberg-Fritsch-Krise 1938)・・・・ヒトラーの早期開戦構想に反対したブロンベルク軍務相、フリッチュ陸軍総司令官が、1938年初頭ゲーリングらの陰謀で同性愛の嫌疑をかけられて追放された事件。突発的な事件だったとする説もある。
フンク(Walther Funk 1890-1960)・・・・ドイツの政治家。シャハトの後任の経済相として、帝国銀行の頭取などを務めた。独ソ戦ではロシアにおける占領地軍政の経済面で大きな役割を果たし、ニュルンベルク裁判で終身刑となった。
ヘス(Rudolf He? 1894-1987)・・・・ドイツの政治家で、ナチスの副党首を務める。独ソ戦開始の直前、単身イギリスに飛び独断で和平交渉をしようとするが、相手にされず終戦まで捕らえられる。ニュルンベルク裁判で終身刑を受けるが、奇行が多く、精神異常ともいわれる。ベルリンのシュパンダウ刑務所に服役し、1966年以降はただ一人の受刑者となった。87年に怪死をとげ、ネオナチでは英雄にされているという。
ベルヒテスガーデン会談(Berchtesgarden1938)・・・・ミュンヘン会談直前の1938年9月15日になされたチェンバレンとヒトラーの会談で、ヒトラーは戦争も辞さずという強硬な態度をとり、イギリス側はズデーテン地方の割譲を認めることを示唆した。
ポーランド回廊(Polish Corridor )・・・・ヴェルサイユ条約によってポーランドが獲得したバルト海への出口。ドイツ系住民が多かったので、ナチス・ドイツは1935年以降ポーランド回廊を通過する鉄道道路の使用権を要求した。ミュンヘン会談以降はドイツ側の領土要求は一層硬化し、国際問題となった。
ボルマン(Martin Bormann 1900-45?)・・・・ドイツの政治家で、ヒトラーの側近。ミュンヘン一揆にも参加し、41年国務大臣となる。最後までヒトラーに従い、ソ連の狙撃兵によって射殺されたといわれる。72年に発見された遺骨が、ボルマンのものであると鑑定された。
ホロコースト(Holocaust)・・・・始めから反ユダヤ的性格の強かったナチスだが、戦争が始まるとさらにエスカレートし、1942年1月、ヴァンゼー会議によってユダヤ人問題の最終的解決(絶滅政策)が決定された。これ以後戦争の続く間に、600万ともいわれるユダヤ人が各地の強制収容所で虐殺された。
ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer 1906-45)・・・・ドイツのルター派の聖職者。1933年ナチスの反ユダヤ主義に反対していったん亡命したが、1935年ファシズムと戦うために帰国した。告白教会神学校校長を務め、同校の閉鎖後も抵抗運動を指導した。1943年逮捕され、45年絞首刑となった。
マンシュタイン(Erich von Manstein 1887-1973)・・・・ドイツの軍人、元帥。フランスとの戦いでアルデンヌの森で主攻勢をかける計画を作成、その後はクリミア半島、ハリコフと転戦した。
ミュンヘン会談(M?nchener Konferenz 1938)・・・・ナチス=ドイツはドイツ系住民の多いことを理由にチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。そこで英仏独伊4カ国首脳は1938年9月29日-30日会談し、ミュンヘン協定でドイツの要求を受け入れた。この会議にはチェコスロバキアもソ連も参加できず、宥和政策の頂点といわれる。
メーメル(Memel)・・・・かつてのドイツ騎士団領にあり、ヴェルサイユ体制下でリトアニアに併合された都市。ナチス・ドイツが返還を強く要求し、1939年3月にドイツに帰属した。
モーゲンソー・プラン(Morgenthau-Plan 1944)・・・・アメリカの財務長官モーゲンソーが提示した戦後ドイツの処理案。領土の大幅削減、軍備禁止、バイエルンの分離独立、ドイツ工業の破壊と農業国化を内容とした提案。あまりに露骨な提案に反対が相次ぎ、9月大統領によって否定された。
モスクワ(Moskau 1941)・・・・独ソ戦開戦以来進撃に継ぐ進撃を続けたドイツ軍は10月にモスクワ攻撃作戦を開始した。中央軍集団はモスクワまで数十キロまで迫ったが寒波のために攻勢は頓挫、退却を強いられた。
宥和政策(Appeasement Policy )・・・・1930年代に、イギリス、フランスがナチスに対してとった妥協的な政策を指す。英仏はドイツの侵略に対し、小国を犠牲にして平和を得ようとしたが、ファシズムを増長させるだけに終わった。ミュンヘン会談が宥和政策の典型といわれる。
ヨードル(Alfred Jodl 1890-1946)・・・・ドイツの軍人。第一次世界大戦で砲兵隊准大尉を務めた。1940年砲兵隊対象となり、ドイツ軍の作戦立案を担当し、ヒトラーの主席顧問になった。ニュルンベルク裁判で処刑された。
四ヶ年計画(Vierjahresplan)・・・・1936年10月、ニュルンベルク党大会後に公表された。四年以内に戦争準備を完了するという計画。開戦によりすべてが実施されたわけではないが、戦争準備に役立った。外貨は軍需に当てて従来輸入していた物資を国産化する、それでも足りない原料や食糧は「生存圏の拡大」によって補うという内容だった。
ラインラント進駐(Rheinlandbesetzung 1936)・・・・1936年3月7日、ドイツは突如ラインラントの非武装地帯に国防軍を進めた。これはヴェルサイユ条約及びロカルノ条約の破棄を意味した。当時ドイツ軍の戦争準備はなかったが、フランスが干渉しないことに賭けたヒトラーの計画は成功した。
リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop 1893-1946)・・・・ドイツの政治家、外相(1938-45)。1932年ナチスに入党し、外務省を無視して英独海軍協定(1935)を締結、外相として独ソ不可侵条約をはじめドイツの全外交を指導した。敗戦でイギリス軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で絞首刑となった。
リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl 1902- )・・・・ドイツの映画製作者。1935年ニュルンベルクのナチス党大会を記録した「意志の勝利」を発表し、翌年のベルリン・オリンピックに関しても「民族の祭典」でその実力を発揮した。しかしナチスを美化したということでのちに批判されることとなった。
ルントシュテット(Karl Rudolf Gerd von Rundstedt 1875-1953)・・・・ドイツの軍人。ポーランド侵攻を指揮した後、西部方面軍最高司令官として連合軍のノルマンディー上陸を迎え撃ったが敗退し、ヒトラーに解任された。
レーダー(Erich Raeder 1876-1960)・・・・ドイツの海軍軍人。第一次世界大戦中に参謀長となり、戦後はヴェルサイユ条約で制限された海軍の再建を推進した。のちに海軍提督となったが、ヒトラーと衝突し、1943年罷免された。ニュルンベルク裁判で終身刑を受けた。
レーム(Ernst R?hm 1887-1934)・・・・ドイツの政治家。古参ナチ党員で、突撃隊を組織した。突撃隊を正規軍と並ぶほどに育てたが、そのことでヒトラーと対立し、34年暗殺された。(レーム事件)
ローザンヌ会議(Lausanne Conference )・・・・スイスのローザンヌで開かれた国際会議。(1)1922年11月-23年7月、トルコと連合国との間で開かれ、セーヴル条約を破棄し、トルコの独立を決定した。(2)1932年6月-7月、世界恐慌によりドイツ経済が崩壊の危機に瀕したため開かれた。賠償金の大幅削減を決めた。
ローゼンベルク(Alfred Rosenberg1893-1946)・・・・ナチスの思想家で、1920年入党。ナチスの機関誌を編集したのち、一時同党の外交政策を指導するまでになり、教育政策も担当した。主著は「20世紀の神話」だが、ニュルンベルク裁判で絞首刑になった。
「我が闘争」(Mein Kampf 1925-27)・・・・ヒトラーの主著で、ナチスの聖典とされる。獄中時代に口述筆記させたもので、反民主的、反ユダヤ的世界観を展開している。
ワルキューレ(Walk?re)・・・・ワルキューレとは外国人労働者の蜂起に備えた非常事態宣言だったが、1944年ヒトラー暗殺未遂事件の時に反乱グループによって発せられた。
ドイツ政治史(1945-)
アッカーマン(Anton Ackermann 1905-73)・・・・ドイツの政治家。亡命共産党員の指導者で、戦後帰国した。SEDにいたが六月十七日事件の責任を問われ、1954年失脚した。
アデナウアー(Konrad Adenauer 1876-1967)・・・・ドイツの政治家。長くケルン市長を務めたあと、ヒトラー政権下では抑圧された。1946年キリスト教民主同盟を再建し、西ドイツ初代首相(1949-63)に就任した。経済の再建、NATOと西側陣営への加入に尽力した。
ヴァイツゼッカー(Richard Freiherr von Weizs?cker 1920-)・・・・ドイツの政治家、ドイツ連邦共和国大統領(1984-94)。法律家やプロテスタント教会で活躍した後キリスト教民主党に入党し、1981年には西ベルリン市長となった。大統領としてドイツ統一の条約に調印した。
ウルブリヒト(Walter Ulbricht 1893-1973)・・・・ドイツの政治家。社会民主党からドイツ共産党に参加し、モスクワで学んだ。ナチスの政権掌握後はソ連で活動し、戦争中は「自由ドイツ委員会」を結成し、祖国解放に尽くした。1949年ドイツ民主共和国副首相となり、1960年以降は国家評議会議長となった。
エアハルト(Ludwig Earhard 1897-1977)・・・・ドイツの政治家、ドイツ連邦共和国首相(1963-66)。ナチスへの入党を拒否し、戦後西ドイツの通貨改革に尽くした。アデナウアー内閣の蔵相から首相となった。
オーデル・ナイセ線(Oder-Nei?e-Linie)・・・・戦後ポーランドの西部国境線。東ドイツは1950年に既にポーランドとの間で諒解していたが、戦前のドイツ領を大幅に含んでいるため西ドイツでは1972年ようやく条件付きで認められた。
キージンガー(Kurt Georg Kiesinger 1904-88)・・・・ドイツの政治家、ドイツ連邦共和国首相(1966-69)。キリスト教民主同盟、社会民主党の大連立をまとめた。
基本条約(Grundlagenvertrag 1972)・・・・東西ドイツがそれぞれ主権と領土保全を承認し、対等平等の原則に立って正常な隣人関係を結ぶことを約束した。両国は互いの首都に常設代表部を置き、ソ連は西ベルリンと連邦共和国との自由往来を保障した。この条約はその後のヨーロッパ冷戦における緊張緩和の重要な前提となった。
基本法(Gr?ndgesetz1948)・・・・ドイツ連邦共和国の憲法に当たる。統一ドイツへの希望を込めてあえて憲法とは名付けられなかった。基本法第23条に基づき東ドイツ5州が連邦に加盟する形で1990年ドイツは統一された。
キリスト教社会同盟(Christlich-Sozialistische Union CSU)・・・・キリスト教民主同盟のバイエルン地方での別組織。
キリスト教民主同盟(Christlich-Demokratische Union CDU)・・・・かつての中央党の後身で、ドイツ連邦共和国の政党。いわゆるキャッチオールパーティーで、その支持層は幅広い。民主主義、連邦主義、社会保障などを政策とする。なおバイエルン地方ではキリスト教社会同盟と称する。
グローテヴォール(Otto Grotewohl 1894-1964)・・・・ドイツの政治家、ドイツ民主共和国初代首相(1949-64)。戦前の社会民主党員で1933年から45年まで投獄された。戦後ソ連占領地域で社会民主党を再建し、1946年には共産党と合同を強いられ社会主義統一党結成に参加した。
コール(Helmut Kohl 1930-)・・・・ドイツの政治家、ドイツ連邦共和国首相(1982-98)。キリスト教民主党党首として首相に就任し、ドイツ統一を成し遂げた。98年総選挙の敗北により退陣するまで長期政権を担った。
社会主義統一党(Sozialistische Einheitspartei Deutschlands SED)・・・・1946年ソ連占領地域で社会民主党と共産党との合同によって成立した政党。東ドイツで翼賛体制を作り上げていた。
自由民主党(Freie Demokratische Partei FDP)・・・・ドイツ連邦共和国の政党。旧自由主義系の政党で、CDU政権にしばしば協力した。
シュタージ(Ministerium f?r Staatssicherheit 1950)・・・・国家保安省の略。東ドイツの秘密警察で、住民を監視し体制を維持するのに大いに役立った。国民の実に10%が密告をしていたというデータもある。
シューマハー(Kurt Schumacher 1895-1952)・・・・ドイツの政治家。社会民主党に属し第三帝国期は獄中で過ごした。戦後イギリス占領地域で社会民主党再建に当たり、1946年同党議長となった。
シュミット(Helmut Schmitt 1918-)・・・・ドイツの政治家、首相(1974-82)。SPDとFDPの連立政権を率いて、ケインズ主義者として石油危機やそれに伴う不況に立ち向かった。シュライヤー誘拐事件ではテロに果敢に対処した。
通貨改革(W?hrungsreform 1948)・・・・1948年6月20日、西側占領地域で独自の通貨改革が行われた。従来のライヒスマルクを回収しドイツマルクに交換したが、3日後ソ連占領地域でも対抗して通貨改革が行われ、東西分断を固定化する上で重要な画期となった。
通貨同盟(W?hrungsunion 1990)・・・・1990年5月18日に調印された「通貨、経済、社会連合の創出に関する条約」に基づき東ドイツ経済は西ドイツに統合された。7月1日から一対一の比率で通貨交換が始まったが、経済が弱体化していた東ドイツでは失業、インフレの嵐に襲われた。
デ・メジエール(Lothar de Maizi?re 1940-)・・・・東ドイツの政治家、首相(1990)。1990年3月18日の歴史的選挙後、勝利したキリスト教民主同盟からSPDと連立して組閣した。東ドイツ最後の首相としてドイツ統一を実現した。
デモンタージュ(Demontage)・・・・敗戦直後に占領軍がドイツの生産設備を解体して自国に持ち去ったこと。ドイツ国民への心理的ショックは大きかった。
ドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands SPD)・・・・戦後西側占領地域では社会民主党は亡命党員らを中心にいち早く活動を再開した。しかしその組織は古く閉鎖的で、長く政権から遠ざかることになった。現在では分権的な国民政党に脱皮している。
ドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik DDR)・・・・通称東ドイツ。1949年10月にソ連の占領地域に成立した。1990年に消滅した。
ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)・・・・通称西ドイツ。第二次世界大戦後、米英仏の占領地域に1949年5月成立した共和国。ボンを首都とし、西ベルリンを飛び地として領土としていた。1990年東ドイツがドイツ連邦共和国に加入する形でドイツ統一を果たした。
統一条約(Einigungsvertrag 1990)・・・・1990年8月31日に両ドイツによって調印され、10月3日のドイツ統一を決定した歴史的条約。
NATO(North Atlantic Treaty Organization)・・・・北大西洋条約機構。1949年調印された、アメリカと西側諸国との軍事同盟。西ドイツもこれに加盟しワルシャワ条約機構と対峙した。1999年コソボ紛争でドイツは戦後初めてNATOの域外で軍事行動を行った。
ニュルンベルク裁判(N?rnberg 1945-46)・・・・連合国による戦犯の処罰。ナチの衝撃的な蛮行が世界中に明らかにされ、ゲーリング他12名が死刑、ヘス他3名が終身刑、シュペーア他4名が有期刑になった。
ハイネマン(Gustav W Heinemann 1899-1976)・・・・ドイツの政治家、ドイツ連邦共和国大統領(1969-74)。キリスト教民主同盟から政界入りし、アデナウアー内閣内相を務めた。その後全ドイツ人民党を結成したが結局社会民主党に入党した。
ハルシュタイン原則(Hallstein-Doktrin)・・・・東ドイツを承認する国とは国交を結ばないという西ドイツ戦後外交の原則。ブラント政権によってようやく破棄された。
ピーク(Wilhelm Pieck 1876-1960)・・・・ドイツの政治家、東ドイツ大統領(1949-60)。社会民主党から反戦運動、ドイツ共産党に参加した。第三帝国期にも国外から活動を続け、1946年社会主義統一党委員長、ドイツ民主共和国初代大統領となった。
非ナチ化(Entnazifizierung)・・・・占領軍の基本方針の一つ。ナチ党の解体と禁止、党員の追放、戦犯の処罰などが行われた。
ブラント(Willy Brandt 1913-92)・・・・ドイツの政治家、ドイツ連邦共和国首相(1969-74)。1957年よりベルリン市長、1964年社会民主党党首となり、キージンガー内閣副首相兼外相を務めた。首相としては東方外交によりノーベル平和賞を受賞した。
ベルリンの壁(Berliner Mauer)・・・・東西対立が激化しつつあるなか、1961年にベルリンに築かれた。1989年崩壊した。
ベルリン封鎖(Berliner Blokade)・・・・1948年4月頃から西ベルリンに対して小封鎖が行われていたが、西側占領地域で通貨改革の動きが見えるとソ連側は一気に硬化し、6月西ベルリンは完全に封鎖され陸の孤島となった。アメリカは最大で一日1400機もの輸送機を動員し、210万人の市民を何とか生きながらえさせることができた。翌年5月、国連での交渉でようやく封鎖は解除された。
ホイス(Theodor Heuss 1884-1963)・・・・ドイツの政治家、ドイツ連邦共和国大統領(1949-59)。自由主義左派から1918年ドイツ民主党に参加した。1946年自由民主党を結成した。
ホーネッカー(Erich Honecker 1912-94)・・・・東ドイツの政治家、国家評議会議長(1976-89)。戦争中は投獄されており、戦後ウルブリヒトの後継者として地歩を築いた。経済の行き詰まりによって民主化要求運動が進展し、89年辞職した。
マーストリヒト条約(Vertrag ?ber Europ?sische Union 1992)・・・・ECからEUに発展させ、通貨統合を推進することを決定した。1999年1月からは実際に共通通貨ユーロが流通している。
緑の党(Die Gr?nen)・・・・環境問題を考える市民運動から出発した政党。州レベルではすでに根を下ろし、連邦政府でもシュレーダー政権に参加している。
民主社会主義党(Partei des Demokratischen Sozialismus)・・・・統一ドイツにおける旧SEDの後継政党。
モスクワ条約(Moskauer Vertrag 1970)・・・・西ドイツとソ連との間で結ばれた条約で、東方外交の重要な成果の一つ。バール・ペーパーを土台にして交渉が行われ、現在の国境線を認めつつ将来のドイツ統一について明記された。
モドロウ(Hans Modrow 1928-)・・・・東ドイツのSED政治家、首相(1989-90)。民主化運動とベルリンの壁開放という嵐の中、11月首相に就任した。自由選挙を初めとする政治、経済改革を表明したが市民の信頼を得られず、運動は一層激化し、3月の選挙後辞任した。
ヨーロッパ経済共同体(European Economic-Community 1958)・・・・フランスとの接近を狙うアデナウアーと国際的な苦境に立たされていたフランスを中心にヨーロッパ経済共同体が結成された。
ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(Europ?ische Gemeinschaft Kohle und Stahl ECSC 1951)・・・・シューマン・プランに基づく独仏の歴史的和解の象徴。後のヨーロッパ統合の出発点となった。これによってルール機関が廃止され、ルール地方の石炭、鉄鋼産業は新しい国際体制の下に入った。
ラウ(Johannes Rau 1931-)・・・・ドイツの政治家、大統領(1999-)。社会民主党から1978年ヴェストファーレン州首相に就任、87年には連邦首相候補となったが選挙で敗退、後に大統領となった。
六月十七日事件(1953)・・・・1953年6月17日東ドイツ全土でSEDの支配に反対する労働者や住民のストやデモが発生したが、ソ連軍が出動し、運動は押しつぶされた。
ワルシャワ条約(Warschauer Vertrag 1970)・・・・西ドイツとポーランドとの間の条約で、東方外交の一環をなす。オーデル・ナイセ線をポーランド西部国境と認めた。
ワルシャワ条約機構(Warschauer Pakt 1955)・・・・NATOに対抗する東側諸国の軍事同盟。当然東ドイツも加盟していた。