5分でわかる垓下の戦い
by
sekaishi1
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公開
· 更新済み
楚 |
VS |
漢 |
項羽 |
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劉邦 |
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100000 |
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600000 |
背景
漢と楚が争い始めて五年が経ち、楚は項羽の戦略性の無さと、項羽に嫌気がさした者の漢への裏切りによりぼろぼろになっていた。流石の項羽もまずいと考え、劉邦と中国を東西に二分する内容の和約を取り付けた。
和約を結んだ後、項羽は楚への帰路についたが、漢の参謀張良と陳平は楚が弱っている今が項羽を討つ好機と考え、劉邦に楚軍の背後を襲うことを献策した。劉邦は楚軍を追撃してと戦ったが、返り討ちにあった。
弱った劉邦は北伐中の韓信、別行動をしている彭越(ほうえつ)に褒賞を約束し、彼らを呼び寄せた。彼らの軍が加わって漢軍は総勢600000もの大軍となった。項羽との戦いは自身には荷が勝ちすぎると考えた劉邦は名将韓信に全軍の指揮権を与えた。
経過
韓信は両翼にそれぞれ100000、自身率いる前衛に100000、劉邦を守る後衛に300000、を配置した。
布陣が完了すると、韓信は前衛に楚軍への攻撃を命じた。楚軍はそれを迎え撃ち、突如漢軍は退却を開始した。楚軍は自軍が戦いを有利に進めていると思ってそれを追った。しかし、それは韓信の罠であり、漢軍の両翼が左右から回り込み、楚軍は包囲されてしまった。
包囲したとはいえ、相手は常勝将軍項羽と彼の率いる百戦錬磨の猛者であり、無理に攻めると大損害は必至だった。そこで、張良はその夜に全軍に楚の歌を一斉に歌わせ、楚軍の望郷の念をかきたてて、楚軍の戦意を奪おうという策を立案し、その策は実行に移された。その結果多くの楚軍の将兵が戦場を離れた。その中には項羽の叔父の項伯、鐘離昧、季布など楚の中心的な武将も含まれていた。漢軍は戦場を去る彼らを攻撃しなかった。
翌朝、残っていた楚軍はわずか800人だった。これでは勝負にならないと悟った項羽は包囲を脱出した上で、本拠地に戻って態勢を立て直そうと謀った。包囲の突破はその夜に実行に移された。
明け方、楚軍の包囲突破作戦にようやく気付いた漢軍では、将軍の灌嬰(かんえい)が数千の兵士とそれを共に追った。漢軍の追撃により、項羽が淮水を渡った頃には楚軍は百人に、さらに追撃してきた漢軍と戦った後には項羽に従っているのは28人になっていた。その時、項羽は部下に
「私は死を覚悟した。今ここに苦しむのは天が私を滅ぼそうとしているのであって私が弱いためではない。今諸君のために三回漢軍と戦って三回勝とう!」
と言って一隊七騎の四隊に分け、散らせた。そして、項羽とその部下たちは追撃した漢軍を相手にそれを見事成し遂げた。これによる死者はわずか二人だった。 そして項羽はついに本拠地まで目と鼻の先の烏江にたどり着いた。そこでは亭長(下っ端役人)が項羽のために船を用意して待っていて、船に乗るよう言ったが項羽は
「天が私を滅ぼそうとするのにどうして渡れようか。その上、私は江東の若者と戦いに出たのに今は一人の生還者もいない。それなのに何の面目があってその親たちに顔向けできようか。どうして自分に恥じずにいられようか」
と拒否した。拒否はしたものの、亭長の申し入れに感激した項羽は感謝の印として愛馬の騅(すい)を与えたが、騅は項羽と離れるのを嫌がって川に落ちて溺れ死んた。
馬を失った項羽は部下に馬を下りるよう言い、剣や槍を持って追ってきた漢軍と戦った。項羽自身は十数か所傷を受けたが、多くの敵兵を殺した。戦いの最中彼は旧友の呂馬童を漢軍の中に見つけ、
「お前は私の旧友ではないか!」
と言ったが、呂馬童は顔をそむけて近くにいた味方の王翳に
「あれが項王(=項羽)だぞ」
と言った。項羽は
「漢は私の首に千金と一万戸の邑を掛けていると言う。お前に得をさせてやる」
と言って、自ら首を刎ねた。項羽の死体には多くの兵士が手柄欲しさに群がって同士討ちをして、何十人もの兵士が死んた。
その後
劉邦は項羽を滅ぼし、項羽に最後まで味方していた魯の国を降伏させ、ついに中国統一を成し遂げた。その年紀元前202年から(王莽によって一時なくなるが)四百年続く漢帝国が中国全土を支配し始めた。 |