合肥の戦いとは -三国志-
時代背景
曹操は張魯討伐を行い漢中を手に入れた。
危機感を抱いた劉備は諸葛亮に相談した。
諸葛亮は、「荊州の3郡を返すかわりに孫権に
合肥を攻めさせましょう」と言った。
一度、関羽と荊州についてはトラブルがあったので
孫権もあまりいい顔はしない。しかし、劉備は
正式に荊州3軍を呉に返したので、孫権も
手薄の合肥攻めを開始したのだった。
図解・解説
呉軍は始めに[白完]城を攻め落とした。
勢いに乗る呉は合肥へ迫っていた。
対する曹操軍は張遼、楽進が守っていた。
曹操から勢いに乗る呉軍の出鼻をくじくことと
命令がでていた。
楽進は呉軍と戦った。呉は勢いづき、楽進は
逃げ出してしまった。呉の軍勢はここぞとばかり
追撃してきた。
じつは、これは呉軍をおびき出す、魏軍の作戦であった。
隠れていた張遼の軍勢が呉に襲いかかる。
呉の軍は混乱に陥った。孫権はこのままでは危ないと
引き返すが、何と橋が落とされている。孫権は馬で
一か八かで川を越えたのだった。孫権は濡須までさがった。
こんどは、曹操軍がせめてきたのだ。
ここで、孫権軍の甘寧は100人の兵士だけで曹操軍に
夜襲をかけた。曹操軍は味方、敵の区別がつかず
混乱になった。夜襲は成功したのだ。
翌日、魏と呉は激突したが魏の軍勢の多さに
呉はすっかり取り囲まれていた。孫権は周泰によって
助け出され、さらに周泰は徐盛まで助けに行っていた。
このあとも、一か月程魏と呉はにらみ合ったが、
勝敗はつかず、双方和睦して引き揚げた。