三国志に登場する魏の人物
曹操
曹操、字は孟徳、幼名を阿瞞(あまん)、または、吉利という。
曹操の身長は、7尺(1尺は約23センチ、曹操はあまり背は高いほうではなかった。)である。
目が細く、派手な格好をするのが好きな男である。
曹操は、魏の国をつくったことで有名だが、正確に言うと、曹操は帝の位にはつかなかった。
さて、曹操の若いころは、狩りを好んだ。あまり遊びすぎているのを見かねた、曹操の叔父は、曹操の父、曹嵩にこのことを告げると、曹操は、叔父の前で、病気になったふりをした。
曹嵩が叔父から聞いて、とんでくると,曹操はけろりとして、「叔父は私が、憎いのでしょう。」といった。 これより、曹嵩は、叔父を信じなくなった。
このように、若いころから悪知恵が働いていた。
しかし、こんな曹操も、「宦官の孫」とばかにされた。
父の曹嵩は、もともと夏侯氏で、宦官の曹騰のところへ養子に行ったので(だから父はもともとは夏侯嵩ということになる)、このように言われた。
曹操陣営に夏侯の姓の奴が多いのも、こういう理由からである。
20 才で中央政府に推挙され、黄巾賊をたたく。
董卓なき後、黄巾の残党で兵力を増強、時の帝、献帝(本名、劉協)を保護し、一気に力をつける。
そして、官渡で袁紹を破り、100万の軍勢となった。しかし、赤壁で劉備、孫権に敗北。
次に、馬超と戦う。馬超と韓遂の仲を裂き、馬超に大勝。漢中では、張魯を破った。
しかし、その漢中も蜀をとった劉備が攻めてきて、戦いに敗れた。
曹操は病気になり、66才の生涯を閉じた。
余談だが、曹操は、自分の墓が見つからないように、72の偽の墓を作らせたらしい。 次に、曹操の魅力について述べる。
やはり、頭がキレたし、人の言をよく取り入れたことだろう。曹操は兵法に通じ、自ら「孟徳新書」なる書物を書いた。
また、決断力もあり、官渡の戦いでは少数の兵で大軍の袁紹を破った。
そして、関羽とのやり取りも忘れられない、名場面の一つだ。
横山光輝の漫画では、「避客牌をかけた自分が恥ずかしい」率直な気持ちを述べるところが気持ちよい。
敵なのだけれども、実力をみとめるなど…。
左慈におちょくられる曹操も、ちょっと間抜けっぽくて、ぼくはいいと思う。
皆さんは、曹操をどのような人物として見てるのでしょうか?
張遼
張遼、字は文遠、呂布の配下として登場。
曹操軍を濮陽で破る。
袁術との戦いでは袁術のほうが味方に裏切られ逃げた。
後、劉備が曹操に送った文書を発見した陳宮(呂布の参謀)は張遼を差し向ける。
ここで、関羽との対面となる。関羽が「貴公は優れているのになぜ賊に仕えるのか」 と言ったので、張遼は恥じて軍を退いた。
徐州で破れた呂布は下ヒ(地名)に逃げ込む。それから冬になり、曹操軍は
城の周りの川を切って下ヒ城を水攻め、呂布は配下に裏切られ、曹操につかまる。
張遼も曹操軍に攻められ捕まった。張遼は「国賊を濮陽で殺せず、惜しいことをした」
と曹操に雑言。曹操が怒って斬ろうとするところ、関羽は止めて「彼こそ忠義な人物」
と言った。曹操は自分の着物を脱いで与えた。こうして、張遼は曹操の配下となった。
やがて、劉備が曹操暗殺に加担しようとしたため、曹操は徐州を攻める。
下ヒには関羽が残っていた。張遼は関羽の降伏の説得に行かせてくれと頼み、 山に追いつめた関羽に説得をする。「劉備が生きていた場合、桃園の誓いの背く。
また、劉備の家族を見捨てるのは臣下としてすることか?そして、漢王朝復興は どうなりますか?以上3つの罪を犯すことになる。曹操殿に降伏するのが最上」 と巧みに降伏を促す。関羽は3つの条件をだして(条件の詳しくは関羽コーナー参照)曹操に降る。
曹操は関羽が自分のことをどう思っているかを張遼に聞きに行かせた。
張遼は「関羽は心は劉備の元にあります」と報告した。
関羽が6将斬った後、夏侯惇と対立しているところを止めた。
やがて、袁紹との戦いでは、烏巣を攻め勝利を上げる。
倉亭の戦いでは、十面埋伏の計の第2部隊で活躍。
赤壁の戦いでは、曹操に襲いかかった黄蓋に矢を射る。張遼は曹操を守って逃げる。
のち、合肥をまもり孫権と戦う。呉は太史慈の策で城の中の戈定と内応しようとした。
城では「謀反だ!」の声。火も上がった。しかし、張遼は冷静に判断し、戈定を 捕らえ、この策を逆手にとり、太史慈をやぶる。
のち、劉備が荊州を返すのと引き替えに孫権に魏を攻めさせた。孫権は合肥の迫る。
張遼は自分の命令に従わない李典(あまりにも敵兵が多いので)を巧みに励また。
張遼は李典に自分の策を与え、これがみごとに奏し、孫権軍の方が乱れる。
呉では張遼の名前を聞いただけで、子供の夜泣きがおさまるほどっだった。
翌日、張遼は大軍で孫権を囲むが、呉の周泰によって孫権は助かった。
そして、孫権と曹操は和睦した。
のち、曹操が死に曹丕となった。呉と蜀の連係を知った曹丕は呉の討伐軍を出す。
「趙雲が魏の領内に攻めてくる」知らせに曹丕はあわてて退却。
そこを呉につかれて大敗。張遼も丁奉に矢を受けた。そのため許昌に帰ってから 矢傷がもとで死んだ。
郭嘉
郭嘉、字は奉孝、潁川の人。程イクの推挙で曹操の元に行く。そして、劉曄を推挙した。
徐州で陶謙の援軍の劉備と戦ったとき、エン州を呂布にとられたとき、
郭嘉は、劉備の和睦を受けて恩を売っておいて、呂布を攻めるよう進言する。
劉備が呂布に負けて、曹操を頼ったとき、荀イクらは劉備を殺すべき、
と進言したのに対し、郭嘉は「劉備は有徳の人物、殺しては天下に悪名を響かせることに なりましょう」と諌めた。その後、劉備の演技に騙されて、兵を与えた曹操に「これは 虎を野に放してやったようなもの」と言った。
のち、袁紹の兵力の多さに劉備討伐をためらうと、「袁紹は疑り深く、配下の者も 出世だけを考えていて、内部はバラバラです」と討伐をすすめた。
また、江東の孫策の力を認めつつあったときに、郭嘉は「所詮、孫策は匹夫の勇です。 いずれ弱者の手にかかって死ぬでしょう」と言った。
孫策はその通りに、3人の刺客に襲われ、それが元で死んだ。
袁紹の死後、袁紹の子供たち(袁譚と袁尚)を争わせ、荊州を攻めるように進言する。
袁譚の死後、并州を平定。さらに北方異民族の平定ものぞむが、風土病にかかり、
養生する。しかし、曹操が帰ってきたときには、すでに郭嘉は死んでいた。
歳は38歳。曹操は残されていた手紙を読み、「奉孝の先見に狂いはない」と言った。
(手紙に記されている通り袁尚の首が届いたので曹操はこのように言った)
のち、赤壁の戦いに敗れた曹操は「もし、郭嘉がいてくれたなら、このような敗戦には ならなかっただろうに」と語った。
郭嘉は活躍期間は短かったが、すごい先読みの天才であった。
赤壁で生きていればどうなっていただろうか…
典韋
陳留の人。陳留の張バクの配下だった。
夏侯惇に見い出され、夏侯惇が曹操に推挙した。
曹操はあまりの怪力に「これこそ、古の悪来じゃ」と言った。
(悪来・・殷の紂王の臣。怪力で有名)
さて、曹操は徐州を攻める。しかし、呂布が留守に攻めてきたため、
引き返す。しかし、呂布の軍に囲まれてしまう。
曹操は逃げた。この時典韋は活躍した。「敵が五歩以内に来たら知らせろ」
と言い、部下が「五歩です」と言うと、典韋はほこを投げた。すべて命中し
典韋は敵を散々に蹴散らした。
その後、食糧調達に行ったとき、黄巾の残党と戦い、その時、許チョが現われる。
典韋は許チョと戦ったが勝負が着かなく、曹操は典韋にわざと負けてもらい、 許チョを捕えて味方にした。
濮陽攻めで許チョと典韋は呂布と戦うが、引き分けた。
後に、帝をないがしろにしていた李カクらと戦い献帝を助ける。
後に、張繍の降伏を受けて、曹操が宛城に駐屯。典韋も同行していた。
曹操が張繍の叔父張済の妻・雛氏の魅力にとりつかれる。
張繍は怒り、参謀の賈クの策で曹操の寝込を襲う。
典韋も酒を飲まされていて、武器も張繍配下の胡車児に奪われていた。
典韋は曹操を逃がすために陣の入り口で奮戦。
しかし、奮戦空しく、背中にやりを受け死んだ。
曹操は典韋の死に涙をながし、後悔した。
夏侯惇
夏侯惇(かこうとん、又はかこうじゅん)、字は元讓。
沛国ショウの人。前漢の劉邦の臣・夏侯嬰(かこうえい)の子孫。
十四歳のとき武術の師を辱めたものを殺して、さすらいの身となったが、
董卓が政権をとり、曹操が反董卓連合の募集をしたとき、一族の夏侯淵(かこうえん)
と共に曹操の元へ行く。曹操が董卓軍の徐栄に襲われたとき夏侯淵と共に
徐栄を殺して引き揚げる。
後、典韋を曹操に推挙した。まもなく、曹操の父・曹嵩が陶謙の部下に襲われ、
復讐戦の先鋒をつとめる。しかし、にわかに狂風が吹き撤退した。
濮陽では呂布が待ち受けていて、呂布軍の陳宮の計にかかってしまう。
しかし、どうにか火攻めから逃れた。再び呂布と戦い、呂布を誘い出し大勝した。
董卓の残党・李カク・郭シが洛陽に駐屯したとき、曹操の命令で献帝を保護して
曹洪と共に李カクらを迎撃して勝利した。
次に袁術攻めで于禁と先鋒をつとめる。袁術軍は破ったが、
呂布軍の攻撃に遭い、呂布の配下の高順と戦う。しかし、その最中、夏侯惇は
呂布の武将・曹性に左目を矢で射抜かれてしまう。夏侯惇は「父母から授かったもの、
捨てる訳にはゆかぬ!」と言うと、その矢を抜き左目を食べた。
そのまま曹性を突き殺し夏侯淵に守られ陣にかえり、傷の養生にあたった。
そんな訳で、禰衡からは「五体満足将軍」などと悪口を言われる。
後、曹操暗殺に加担していた劉備を攻めて破り、関羽攻めの先鋒をつとめる。
関羽が劉備の元に向かうとき、「丞相の許しもないまま将を斬り、無礼も甚だしい」
とし、関羽と戦う。曹操の使者が夏侯惇を止めるが夏侯惇は聞く耳を持たない。
張遼が到着し関羽と夏侯惇を止めた。
官渡の戦いでは、曹洪と袁紹の陣を攻撃するが大敗した。
曹操が烏巣の袁紹軍の食糧基地を攻める際、留守をあずかり、袁紹軍を蹴散らす。
倉亭の戦いでは「十面埋伏の計」の左第一隊として活躍。この隙に軍を動かした
劉備を破り、汝南を守る。遼東では袁紹の息子たち(袁煕・袁尚)が公孫康を頼っていた。
夏侯惇は「遼東を攻めましょう」と言ったが、郭嘉の予想どおり公孫康は袁煕・袁尚 の首を送ってきた。
後、徐庶が曹操の元に来て孔明について「私が螢の光りなら彼は月の光り」と言って
警戒するように進言したが、夏侯惇は「たいしたことはない、私が生けどりにしてくれる」
と言い、新野攻めにゆく。博望坡で副将の于禁・李典が火攻めに警戒して進むように
進言したが時すでに遅く火攻めに遭い敗れてしまう。改めて曹操に従い劉備攻めに 加わった。
赤壁の戦い以降、夏侯惇は襄陽の守りに着くが孔明が兵符を手にいれていて、
孔明に誘い出されて襄陽を取られてしまう。
後、夏侯惇は呉と蜀の対策として、「漢中の張魯を攻めてから蜀に進攻すべきです」
主張し、曹操も同意した。漢中攻めでは後詰めをし食糧運搬をする。
占い師・管輅(かんろ)によれば許都に災いがあるという。曹操は早速夏侯惇に巡回 させる。
侍中(帝の側近)の耿紀・韋康らが反乱をおこすが、夏侯惇は冷静に対処し、
これらのものを捕えた。漢中に進攻した蜀軍に対して先鋒として出陣するが、
戦いが長引く。楊修が陣払いの準備をしたので「鶏肋」の真意を聞き、
夏侯惇も帰る準備をはじめる。曹操はおこって楊修を処刑し、夏侯惇も処刑しようと したが、これを止め軍を引き締めた。
後、曹操の臨終の際呼ばれたが、伏皇后らの霊を見て昏倒し、病気になる。
曹操の息子・曹丕が曹操の墓をまつっているところへ、夏侯惇の危篤が知らされ、
曹丕はギョウ(地名)へ戻ったが夏侯惇はすでに死亡していた。
司馬懿
司馬懿、字は仲達。御存じの通り、孔明のライバル。
曹操は、司馬懿のうわさを聞き、使者を送った。
しかし、司馬懿は病気を理由に仕官を断わった。
曹操は、司馬懿が仮病を使っている事を知り、再び使者をだした。
使者には首に縄をかけてもつれてこい、と命令を与えていた。
司馬懿はついに、仕官することになる。
曹操が漢中を得たときに、蜀も取るように進言したが、曹操は
「隴をえて、また蜀を望まんや」と言って聞かなかった。
曹操が、関羽を恐れて遷都を言い出したとき、司馬懿はこれを止めた。
また、呉が関羽の首を送ってきたとき、その真意(責任転嫁)を見破り、
関羽を手厚く葬るように進言した。曹丕が後を継ぐと、曹丕を帝位に
という動きがおこった。司馬懿は、禅譲の形式のため、献帝が来ても、
三回は辞退させ、民衆のそしりを免れるようにした。
劉備が死ぬと、蜀、五路攻撃(鮮卑・羌族・孟獲・孟達・孫権)を進言したが
失敗に終わった。
その後、司馬懿は西涼の守りについた。孔明はこれに大いに驚き、
「今のうちに征伐を」と考えた。
馬謖の献策で、洛陽やギョウに流言をまき、司馬懿は官職を失った。
そして、孔明の北伐が始まった。
太傅の鍾ヨウの進言で、司馬懿は復帰した。孟達の裏切りを防ぎ、
自ら、街亭へ進行した。街亭では馬謖をやぶる。
しかし、孔明の空城の計にかかり、あと一歩で孔明を逃してしまう。
やがて、曹真が病につき、呉の陸遜は兵は出してこない、とよんだ。
やがて、孔明は血を吐き、密かに退陣していた。
司馬懿はだた感嘆した。
のち、蜀の食糧係、苟安を利用し、蜀に流言を流した。
孔明は竈の数をふやして退却。司馬懿は警戒して追わなかった。
つぎに、麦刈りの蜀軍を襲うが、孔明の神兵のからくりにかかり、「神出鬼没の計」と
嘆息した。
最後の戦いでは、孔明の木牛流馬の計にかかり、廖化の伏兵にやられる。
つぎに、祁山を襲うと見せかけ、上方谷の食糧基地を襲う作戦に出た。しかし、
孔明の罠にはまり、地雷で焼き殺されそうになるが、突然の雷雨で助かる。
孔明から女服が送られてきたが、司馬懿はこれに耐えた。
司馬懿は天文をみて、孔明の死を知り、蜀に攻撃をかける。しかし、そこに待っていたのは
孔明であった。司馬懿はあわてて逃げ出した。しかし、この孔明は木像であり、孔明が
作らせておいたものだった。のちの人は「死せる諸葛、生ける仲達を走らすと言いはやした。
このあと、司馬懿は遼東の公孫淵の反乱を平定する。
曹爽は、司馬懿がじゃまでしかたない。司馬懿は太傅(実権がない名誉職だった)にさせられた。
司馬懿はボケ老人の真似をして機会をうかがった。
そして、クーデターをおこし、実権を握った。
しかし、251年、本当に病気にかかり、「事を成すときは慎重にせよ」と遺言し、亡くなった。