五丈原の戦いとは -三国志-
時代背景
諸葛亮は内政に力を入れて3年。
再び北伐する事にした。
諸葛亮は孫権に手紙を書いて、呉も魏攻めに
協力してほしいと頼んだ。孫権はこれをいれて、
自分も兵を出す約束をした。
司馬懿は蜀の食糧切れをまつ作戦にでた。
諸葛亮も兵糧問題改善のため、輸送には「木牛・流馬」
を使っていた。諸葛亮は上方谷を蜀の食糧倉庫だと
見せ掛け、司馬懿をおびき出して焼き殺そうとするが、
突然のにわか雨で火は全部消え司馬懿を取り逃がしてしまった。
また呉は合肥で簡単に敗戦して引き揚げてしまっていた。
図解・解説
持久戦の構えを見せる司馬懿に業をにやした諸葛亮は
司馬懿に女性の衣裳をプレゼントとして送った。
要は「おまえは女か。男らしく出てきて戦え」と挑発している
のである。司馬懿は怒らないで逆に使者に孔明の様子はどうか聞いた。
食事や仕事のことを聞くと、司馬懿は「孔明も長くない」と言った。
使者は諸葛亮にこのことを告げた。
諸葛亮は「さすが、あいつは見抜いている」と思った。
しかし、諸葛亮は血を吐いて倒れてしまう。諸葛亮はなんとか
延命の祈祷を行ってみるが、祈祷最後の日に魏の軍勢が攻めてきたと
魏延が注進を入れてきたため、蝋燭が倒れて祈祷は失敗に終わる。
諸葛亮は姜維に自分が今まで極めた兵法のをさずけ、
連弩(弓を10本ぐらいを一斉に射る道具)の作製法を伝授した。
密かに馬岱を呼び自分の死後の、魏延の始末について策を授けた。
そして、重臣に「後任には蒋[王宛]をつけよ」と言った。
「蒋[王宛]の後は誰がよろしいでしょうか」とたずねる「費[示韋]がよい」
「費[示韋]の後は」たずねるがもう返事はなかった。建興12年(234年)
秋8月23日、年は54歳であった。
司馬懿は天文をみて、諸葛亮が亡くなっている事を悟り、攻撃に出た。
蜀軍は逃げた。司馬懿が迫ってくる時、蜀軍はくるりと向き直し
魏軍を攻め、四輪車を前に押し出した。旗には「漢丞相不郷侯諸葛亮」
と書いてあるではないか。「司馬懿!丞相はここにおるぞ」姜維は大声
で叫んだ。司馬懿は仰天し一目散に逃げた。追ってきた夏侯覇・夏侯恵に
「おれの首はついているか」といった。そのぐらい司馬懿は肝を潰していた。
後で聞いてみて、やはり諸葛亮は死んでいて、車上のは木像の孔明である
と分かったのである。
こうして「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いはやした。
諸葛亮のいた陣をみた司馬懿はため息をついて「孔明は天下の奇才だった」
といった。