本能寺の変 スレ
果たして本能寺の変の黒幕は誰なのか?
明智光秀の単独犯なのか?羽柴秀吉なのか?徳川家康なのか?足利義昭なのか?朝廷なのか?
本能寺の変についていろいろ考察・検討していきましょう。
※前スレ
本能寺の変の真実
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1436049039/
光秀「寝タバコで死ぬなんて無様すぎる!わしが殺したことにしたろ!」
ブログで反論したらおもしろいんだが
・光秀は自分の判断で裏切ったのであって黒幕がいたなどというのは光秀をバカにしすぎ
・家康にしろ秀吉にしろ光秀に裏切らせてもそのまま光秀に天下をとられたら意味がない
・そもそも明智子孫の論法は歴史学じゃなくて推理小説
しかし謀反ってのはだいたい協力者や糸を引いてる者があるもんだと思うがな。
一族背負ってるわけだから
四国外交説が本当ならば、観応の擾乱の高師直のように政策変換を強いるとか、大寧寺の変のように当主をすげ替えるつもりが、信長・信忠との間で戦端が開いてしまってそのまま死なせてしまったのではないだろうか
光秀は外様だから累代の家臣であった高や陶とは違うからね
そこまで主家を重んじる義務がない。
黒幕説←光秀と黒幕が連絡を取った形跡がない
しかし、現場で秀吉家臣の目撃証言はある
ならば光秀と秀吉が合同で謀反して後に秀吉が光秀のみに謀反の罪を押し付けたか
秀吉が謀反して光秀に濡れ衣を着せたかではないか
信忠が包囲されていた御所で、逃げ遅れた公家を秀吉家臣が迎えに来たと
公家の日記に書かれてるよ
内心痛いんだろうな
確かに呉座の専門は室町だけどそれをあんたが言うのか…
光秀がそんな織田軍団相手に謀反を起こすわけがないだろ
本当は少人数で来てる家康らを殺す信長の指示だったかもな
要は情報錯乱で本能寺にいると思って単純に殺す相手を間違ったんだなw
>家康らを殺す信長の指示
自称明智の子孫かよ
光秀暗殺とかのほうがまだ可能性があるわ
密告されるか、良くても断られたら最悪じゃん。だから、あなたにはどんなことが
あっても味方になる・・・みたいに暗に言ったのかもしれん。それなら光秀が謀反を
起こしても起こさなくても問題無い。
だってその程度のことしか言えてないのだから
家康一行が雑兵200人ほどを討ち取ったという松平家忠の日記のことか
そもそもたった34人で安全に伊賀越えできるはずがない
斉藤利三が内々に手引きがあったからこそだろう
真相を知ってた穴山梅雪一行は家康に殺されたんだな
家康にして見たら穴山さんレベルの雑魚を殺す必要はない
穴山さんは殺されたと言うより知らない道を勝手に行動して巻き込まれて死んだが正解
家康は周りに詳しい人間や親切にしてくれる人々にきちんと御礼と書付を残して無事生還
見てたの?
せやで
信行の謀反、武田の反抗、浅井の裏切り、松永足利荒木の裏切り
つまり、本能寺もこれと同じなんだよ。
本能寺がたまたま成功しただけ。
上にあげた例の中に光秀の謀反の理由も含まれているわけ。中には間接的に影響もしている
信行はなんで逆らった?武田はなんで一方的に同盟を破棄した?浅井はなんで裏切った
松永足利荒木は何を恐れた?
ここには調停の意向も影響しているだろう
織田信長の長男織田信忠は妙覚寺にいて
本能寺に行っても兵の数で負けると判断
人質にしようとしたのか
誠仁親王(正親町天皇の長男)と
誠仁親王の長男和仁王(後の後陽成天皇)の住む
二条御新造に移動
明智軍に二条御新造を囲まれ
誠仁親王と和仁王を人質解放した後
織田信長の長男織田信忠は二条御新造に放火し自害!
本能寺の変の後、逆臣として狙われるのを防ぐため
細川ガラシャは丹後の山奥で2年間隠れ住む生活をした時、
世話係で一緒に暮らしたのが公家・清原枝賢の娘の清原マリア!
信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、
光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、
寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、
西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。
また、境内には光秀の供養塔が立っている。
天正18年(1590年)、後陽成天皇は綸旨を発し、応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた
京都・岡崎の法勝寺をその末寺である西教寺に合併させることとした。
法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、法勝寺伝来の仏像、仏具等も西教寺に移された。
寺の別名を「兼法勝西教寺」というのはここから来ている。現在、西教寺客殿の仏間に
安置される、秘仏・薬師如来坐像は、法勝寺の遺物とされている。
法勝寺
天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えを披瀝し、
仏教を保護して統治する伝説上の金輪聖王(転輪聖王)にならって法勝寺を建立した。
代々の天皇の尊崇を受けた法勝寺を、後に慈円は「国王の氏寺」と呼んだ。
「国王の氏寺」とは単なる「家」としての天皇家の氏寺という意味だけでなく、
太政官機構の頂点に位置する”日本国の王”の寺院でもあった。
大坂玉造の細川屋敷で自害!
1600年8月27日 西軍は細川幽斎がいる丹後田辺城を攻撃!
知った後陽成天皇が西軍の丹後田辺城を攻撃を
止めろと勅命!
天皇陛下は細川ガラシャの子供の子孫です!
明智光秀・細川ガラシャ・
徳川家康・織田信長・石田三成の子孫です!
天皇陛下は
明智光秀15世
細川ガラシャ14世
徳川家康13世
織田信長15世
石田三成15世
です!
明智光秀・細川ガラシャ・
徳川家康・織田信長・石田三成の子孫で
最初に天皇に成ったのは
明智光秀・細川ガラシャ・ 徳川家康・織田信長の子孫の
仁孝天皇(1800年3月16日ー1846年2月21日)です!
仁孝天皇は
明智光秀10世
細川ガラシャ9世
徳川家康9世
織田信長10世
です!
細川忠興とガラシャとの間に生まれた多羅は稲葉一通の正室となり、
その子孫は仁孝天皇(孝明天皇の父)に繋がる(稲葉知通#系譜を参照)。
細川忠興とガラシャとの間に生まれた忠隆の娘の徳は西園寺実晴の室と成り
子孫は孝明天皇の生母となった正親町雅子である!
孝明天皇の父も母も明智光秀・細川ガラシャの子孫で
孝明天皇(明治天皇の父)の明と明治天皇の明は
明智の明です!
孝明天皇は生誕後、煕宮(ひろのみや)と命名された。
明智光秀の嫁・細川ガラシャの母の名前は煕子(ひろこ)!
孝明天皇の母である正親町雅子は
明智光秀11世
細川ガラシャ10世で
徳川家康・織田信長の子孫ではありません!
織田信長の次男織田信雄の子孫である!
織田信雄は本能寺の変にも山崎の合戦にも
参戦していない!さらに信長の後継を目指して、
6月に安土城に入るが、失火で安土城を全焼させた!
山崎の合戦で豊臣秀吉軍だった
織田信長の三男織田信孝と織田信孝の子孫を絶滅させ、
小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉を敵にし、
関ヶ原の戦いの時は大坂城内に居て西軍の情報を徳川に知らせ、
大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身した!
陵の敷地の桃山は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは
明治天皇の遺言によるものという。すぐ東には皇后である昭憲皇太后の
伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接する。また、
桓武天皇の柏原陵にもほど近い。周囲一帯は宮内庁の管理地となっており、
京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する
宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がある。
平安神宮
創建 明治28年(1895年)3月15日
平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。
皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である
第121代孝明天皇が祭神に加えられた。
天皇陛下のお住まいの
皇居には桔梗門があります!
桔梗門は江戸時代は内桜田門と
呼ばれていました!
桔梗門のすぐ側に
皇宮警察本部が有ります!
土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は「天(あめ)が下(した)治る(しる)」
であり、すなわち「今こそ、土岐氏の人間である私が天下を治める時である」
という大望を示したものと解釈される。
明治
明治天皇の父である孝明天皇は父も母も明智光秀の子孫である!
明治とは明智が天下を治めるという意味かも!
大正天皇が崩御した時、号外が発行され
東京日日新聞が次の元号は『 光文 』と発表
明智光秀の『 光 』かも!
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%8F%B7%E5%A4%96+%E6%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%E5%B4%A9%E5%BE%A1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa#mode%3Ddetail ndex%3D5 t%3D160
大正天皇の皇后の追号は貞明皇后(ていめいこうごう)ですが
貞明皇后の明は明智光秀の『 明 』かも!
ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に
報告していたが、そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に
近い内容のラテン語の戯曲「強き女…またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が
制作されることになった。この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの
聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にウィーンの
イエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演された。脚本は
当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが
書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲した。
アドルフは、この戯曲の要約文書において、物語の主人公は「丹後王国の
女王グラツィア」であると述べている。さらに、彼が執筆に際して直接の
典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-
全世界に広まったカトリック信仰」の独訳本の第1部第13章、
「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」であったことをも明記している。
戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれている。
夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、
最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な
筋書きである。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに
特に好まれたとされる。
ローマ法皇も天皇陛下が細川ガラシャの子孫だと知っているから頭を下げる!
外国人要人が天皇陛下に会いたがるのも細川ガラシャの子孫だから!
織田信長の長男織田信忠は妙覚寺にいて
本能寺に行っても兵の数で負けると判断
人質にしようとしたのか
誠仁親王(正親町天皇の長男)と
誠仁親王の長男和仁王(後の後陽成天皇)の住む
二条御新造に移動
明智軍に二条御新造を囲まれ
誠仁親王と和仁王を人質解放した後
織田信長の長男織田信忠は二条御新造に放火し自害!
織田信忠の子孫が出世していないから
織田信忠は誠仁親王と和仁王を人質に取って
明智光秀が人質救出したといえる!
明智光秀が織田信長を本能寺で殺害した日、
誠仁親王と和仁王(後の後陽成天皇)が
二条御新造で織田信長の長男織田信忠の人質に成り
明智光秀が人質救出した大事件は、
朝廷による明治新政権が誕生するまでの
日本の権力争いに大きく影響した!
豊臣国松は処刑され豊臣秀吉の子孫は絶滅した!
西園寺公朝(1515年‐1590年)
1576年に左大臣辞職。
西園寺実益(1560年- 1632年)
西園寺公朝の息子。
1620年には右大臣となるも翌年に辞職している。
西園寺公益(1582年5月22日‐1640年)
西園寺実益の息子
1631年に内大臣となったが、翌年には辞した。
西園寺実晴(1601年-1673年)
西園寺公益の息子
1667年左大臣まで上った。
明智光秀のひ孫の徳姫(1605-1663)を嫁にする!
西園寺公満(1622年ー1651年)
西園寺実晴の息子
三十歳の若さで薨去した。
西園寺公満のひ孫のひ孫の息子が孝明天皇に成る!
大勢の人前で
織田信長と織田信長の長男織田信忠が
正親町天皇を激しく罵倒した!
源氏の子孫で足利義昭の元家臣で天皇を尊敬する
明智光秀もその時その場所にいた!
明智光秀は織田信長と織田信長の長男織田信忠を
確実に殺害できる機会を待った!
元号『 昭和 』の『 和 』は後陽成天皇の名前の和仁の和です!
天皇陛下の母の香淳皇后(昭和天皇皇后)は後陽成天皇の子孫です!
昭和天皇の母の貞明皇后(大正天皇皇后は後陽成天皇の子孫です!)
貞明皇后は石田三成の子孫ですが石田三成の娘の子孫です!
信長が天下取りそうになってきたから、そうはさせないよ~♪て感じ。
光秀が長宗我部を援助して秀吉が三好と手を組んでいたとかマジかよ
こうなると話が大分変わってくるな
さっそく徳川幕府は豊臣秀吉が神として祀ってある神社をすべて破壊し
徳川幕府は明智光秀の家紋の桔梗紋だらけの日光東照宮を建設した!
廃止された同御用邸は、戦中の19年7月から約1年間にわたり、皇太子時代の天皇陛下が
疎開されていたことで知られる。一方、あまり知られてはいないが、日光にはこれとは別に、
明治期に東照宮の付属施設を買い上げた日光御用邸というのもあったという。日光御用邸は
山内御用邸などとも呼ばれ、現在は輪王寺の本坊となっている。戦中は天皇陛下と同様に、
“日光の地”に疎開していた弟の常陸宮さまが滞在されていた。
織田信長の長男織田信忠は妙覚寺にいて
本能寺に行っても兵の数で負けると判断
人質にしようとしたのか
誠仁親王(正親町天皇の長男)と
勧修寺晴子(和仁王と智仁王の生母)と
誠仁親王の息子の和仁王(後の後陽成天皇)と
智仁王(後の八条宮智仁親王)の住む二条御新造に移動
明智軍に二条御新造を囲まれ
誠仁親王・勧修寺晴子・和仁王・智仁王を人質解放した後
織田信長の長男織田信忠は二条御新造に放火し自害!
織田信忠の子孫が出世していないから
織田信忠は誠仁親王・勧修寺晴子・和仁王・智仁王を人質に取って
明智光秀が人質救出したといえる!
孝明天皇は父も母も明智光秀の子孫です!
天皇陛下の母の香淳皇后(昭和天皇皇后)は後陽成天皇の子孫です!
昭和天皇の母の貞明皇后(大正天皇皇后)は後陽成天皇の子孫です!
大正天皇の母の柳原愛子は八条宮智仁親王の子孫です!
桔梗紋は明智光秀の家紋です!
天皇陛下のお住まいの皇居には桔梗門があります!
桔梗門は江戸時代は内桜田門と呼ばれていました!
桔梗門のすぐ側に皇宮警察本部が有ります!
436年後の決着か!?
ついに真実が明らかになるのか!
『ルイス・フロイス日本史』では
織田信長の事を大絶賛し、
明智光秀・織田信雄の事をボロクソに書き残した
バカ者である!
「あんな裏切り者には絶対味方しちゃダメ!」ってボロクソのこと言ってるよ
全てはこれ細川と縁組したからってだけの話だよな
「石ころ同然」だった光秀にそんな話が飛び込んだのは、信長の口利きによるもの
その信長を光秀は頃しちゃった
細川が後に「光秀、その忘恩は甚だしく、大罪に値する」だっけ?書き残したのには納得する
父の細川幽斎は三条天皇の子孫で三条天皇22世!
本能寺の変の時、細川ガラシャと細川忠興の間には
すでに2人の子供がいた!
明治天皇の母の中山慶子は三条天皇の子孫!
後陽成天皇と八条宮智仁親王の
母の勧修寺晴子の異母兄の勧修寺晴豊の子孫!
勧修寺晴豊は日記『晴豊公記』(晴豊記、日々記)には信長や本能寺の変に関する記述も多く、
史料価値が高い一級史料とみなされている。本能寺の変前日の天正10年(1582年)6月1日、
信長の上洛を祝うための勅使として甘露寺経元と共に本能寺を訪れ信長と会見。
変直後に見聞した二条御所などの状況を記録している。
山崎の戦い後には、明智光秀の女子の一人を保護している。
自分が見た「綿考輯録」は編纂書だから、高い確率で写しだろうけど、
編纂の元になったやつが、原本で細川家にあるのかも知れん
明智光秀「何しとんねん!」
これだろ
黒幕がいないならそれが一番妥当に思えてきたw
これだな
光秀唆すなんて出来ないだろ
と、ボクシング5ちゃんねるで、
まことは言うのである
本能寺の変発生の時
織田信長の長男織田信忠は妙覚寺にいて
本能寺に行っても兵の数で負けると判断、人質にしようとしたのか
誠仁親王(正親町天皇の長男)と
勧修寺晴子(和仁王と智仁王の生母)と
誠仁親王の息子の和仁王(後の後陽成天皇)と
智仁王(後の八条宮智仁親王)の住む二条御新造に移動
明智軍に二条御新造を囲まれ
誠仁親王・勧修寺晴子・和仁王・智仁王を人質解放した後
織田信長の長男織田信忠は二条御新造に放火し自害!
織田信忠の子孫が出世していないから
織田信忠は誠仁親王・勧修寺晴子・和仁王・智仁王を人質に取って
明智光秀が人質救出したといえる!
天正10年6月7日、誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、
明智光秀に京都の治安維持をまかせている。
正親町天皇・誠仁親王に対して
威圧的態度の織田信長・織田信忠を
天皇を尊敬する明智光秀は見てしまった!
織田信長・織田信忠を確実に殺害できる機会を待った!
用明天皇の息子!西暦600年、遣隋使を派遣し国を大きく発展させた!
仏教を学び普及させ日本の釈迦と呼ばれ信仰される!
西暦643年、蘇我入鹿が聖徳太子の子孫を殺害し絶滅させる!
【天智天皇と藤原鎌足】
西暦645年、天智天皇と藤原鎌足が蘇我入鹿を殺害!
天皇陛下は天智天皇と藤原鎌足の子孫です!
織田信長・織田信忠が
明智光秀に朝廷を滅ぼせと命令した!
「朝廷が天下を治めるべき」と考えていた
明智光秀は織田信長・織田信忠を
確実に殺害できる機会を待っていた!
当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。
比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した事実が指摘されている。
永禄12年(1569年)に天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を
求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。
その子孫は仁孝天皇(孝明天皇の父)の母の勧修寺婧子である!
仁考天皇の母の勧修寺婧子は
後陽成天皇と八条宮智仁親王の
母の勧修寺晴子の異母兄の勧修寺晴豊の子孫!
勧修寺晴豊は日記『晴豊公記』(晴豊記、日々記)には信長や本能寺の変に関する記述も多く、
史料価値が高い一級史料とみなされている。本能寺の変前日の天正10年(1582年)6月1日、
信長の上洛を祝うための勅使として甘露寺経元と共に本能寺を訪れ信長と会見。
変直後に見聞した二条御所などの状況を記録している。
山崎の戦い後には、明智光秀の女子の一人を保護している。
明治天皇の母の中山慶子も勧修寺晴豊の子孫!
天皇陛下の母の香淳皇后も勧修寺晴豊の子孫!
なんで朝廷が光秀を保護しなかったのかね
織田信長の命令で殺害された
築山殿(松平信康の母)・松平信康(徳川家康の長男)の子孫です!
織田信長を殺害した明智光秀は徳川幕府にとっては神!
幕末の天皇の孝明天皇は
築山殿・松平信康・明智光秀の子孫で
徳川幕府に意見する事ができる
最強の天皇であった!
羽柴筑前秀吉「うむ、そのようじゃ。HAHAHA!」
そうやって重要な部分を事前に何とかしない状態で謀反に踏み切ったせいで結局失敗した例なんていくらでもあるし
いろいろ不可解なことが多い
光秀のそれらしき書状と言われている2通は偽書の可能性がある
本能寺の変前の村井貞勝の怪しい行動についてはろくに調査されていない
これで黒幕説はたいてい論破可能
稲葉信通の先祖に勧修寺教秀(1426年生まれ)がいて
勧修寺教秀の子孫に正親町天皇 ・誠仁親王・後陽成天皇
・八条宮智仁親王・勧修寺晴子・勧修寺晴豊がいる!
ハゲを怒らせてはいけない(戒め
本能寺の変の黒幕は井伊直虎である
まず信忠が信長を助けに行きもせず、逃げずに二条城に籠りもせず
切腹したこと
信長もなんで本能寺から脱出しなかったのか?
つまり信忠は、逃げても明智以外に殺されると判断したから切腹した
じゃだれを恐れたのか?秀吉や徳川の可能性もある
恐れてたら黒幕確定で単独は不可能になるの?
ですよなあ。光秀から逃げ切れないと思ったで説明がつく
不自然さ強調して通説を批判しながら、通説よりもっと不自然な仮説を打ち上げているような…
緒形直人演じる繊細な信長が新鮮だったが
濃姫『私としの殿とどちらが大事なのですか!?』
ノブ『しのは儂の跡継ぎを生んでくれたのじゃ、粗略にはできぬ。
だが愛おしいのはそちだけじゃ』
生駒『私と帰蝶殿とどちらが大事なのですか!?』
ノブ『帰蝶は親父殿を殺され故郷に帰る事もできぬ、憐れとは思わぬか?
だが愛おしいのはそちだけじゃ』
うん、こんな事やってれば誠氏ねで謀反も起こされるよねw
信忠の最期の真相は怪しい。
むしろ、信忠は御所に行って親王に激怒したという事実は
信忠が最後まで足掻いたことを示唆しているような気がする
羽柴秀吉(ニヤリッ)
羽柴秀吉(ニヤリッ)
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1527039267/l50
家康は堺にいたし…
6月2日の早朝に堺を出るタイミングが絶妙
家康は安土を出て京に入った後、茶屋四郎次郎の屋敷で宿泊してる
その後四郎次郎は家康と一緒に堺に行ったのに、本能寺の変の前に自分だけ京に戻ってる
その茶屋四郎次郎が家康に本能寺の変を伝えて伊賀越えを手伝ってるし
どこに宿泊してたんだろね。
帝に近い商人が、当日親王救出に行ってるし
研究者ならこの事実はわかってると思うんだけど
お薬の時間ですよー
>周辺の状況を総合
具体的に書いてくれ
何を総合しているのやら
家康が嫌いだから貶めとけ派がいるんじゃないかなあ
だからと言って、主君の寝込みを襲う行為には結構な数の武士たちがドン引きしたわけだ。
その国の中流上流階級が関わっている
特に上流階級の不満が多い。この上流階級が裏で庶民を扇動して政権を打倒させる
リビアのガタフィ政権が倒れたのもこれで
ガタフィは庶民には人気で、むしろ政治、政権は安定していた。
じゃ本能寺はどうなのか?
現代も大企業が政府に与える影響力は大きい
戦国時代の大企業、商人は物凄くて
堺をみればわかるが、商人も武装していて独立国状態だった
当時の商人は武器商人でもあって、例えば鉄砲の火薬は海外からの輸入でしか手に入らない
戦国大名は生命線の商人がいないと戦争ができなかった
さらに商人は情報ネットーワークの中心を担っていた
全国各地の情報を集めてさらに情報を拡散させる
戦争をして、その戦争の結果を全国に拡散しないと意味がない
これをやってたのが商人のネットワークと仏教のネットワーク。
つまり商人の知らないところでクーデターを起こすとかまず考えられないわけね
当時は商人・仏教が目に見えて世の中を支配していた時代
光秀が起こした本能寺の情報も商人や宗教勢力がいないと世の中や後世に流れない
止まないが、ハッキングもそうである
これも仮の姿
まことの統合失調症は、ここまで逝っていることは
この前、触れた
あとは明智が徳川を攻め取れば天下統一となり、信長は国王を宣言し
天皇などを廃止していた。天皇擁護派の明智はそれが許せなかった。
狡猾と評された明智にしては用意周到さがないので直前まで迷っていたか?
最新の研究をまとめるとこんな感じだね
誰とは言わないけど
光秀こそが革新的な人物で信長のような保守的な人物を許せなくなったのかもしれないね
信長には皇室をどうこうする意図はなくとも
天皇は信長の意図を曲解したかもしれん
一部の相違点を「武家と天皇の対立」にまで風呂敷を広げるからくっそ批判されとる。
親王が信長信忠の暗殺を命じたから、信忠が責めたと考えられないか?
ってのを
信忠が親王を拘束したと立花京子氏が誤読した件のこと?
それとも別に何か逸話があるの?
立花氏はとりつめを「拘束する」と解釈し、反論側は「包囲する」と解釈した。
この前の文では信忠が御所に来たという文なので、とりつめの主語は信忠と解釈すべきと思う。
すると、明智軍が「包囲する」より信忠が「拘束する」のほうが妥当ではないか
立花氏の解釈は単純な誤読ではないと思う。
しかしながら、立花氏は「拘束する」と解釈したが、素直にとりつめを解釈すると
「責める」の意味のほうがメジャーなので、「責める」のほうが好いとも思う。
サンクス
逃げた所で他に討たれるから逃げずに諦めて自害した
もう一つ朝廷関与の根拠がある。
本能寺の変の前に朝廷は村井貞勝に勅使を遣わしている。
勅使は信長に遣わすもので信長家臣に遣わすものではない。
本能寺の後に朝廷は光秀に勅使を送っているじゃないかという反論があるかもだが
本能寺後は非常時で本能寺前は平時。
平時に村井に勅使を送るのは、朝廷と村井に何かあったということ
朝廷は村井に送ってるよ確か
それは勅使だったか?
本能寺の変発生の時、
織田信長の長男織田信忠は妙覚寺にいて
本能寺に行っても兵の数で負けると判断、人質にしようとしたのか
誠仁親王(正親町天皇の長男)と
勧修寺晴子(和仁王と智仁王の母)と
誠仁親王の息子の和仁王(後の後陽成天皇)と
智仁王(後の八条宮智仁親王)の住む二条御新造に移動
明智軍に二条御新造を囲まれ
誠仁親王・勧修寺晴子・和仁王・智仁王を人質解放した後
織田信長の長男織田信忠は二条御新造に放火し自害した!
織田信忠の子孫が出世していないから
織田信忠は誠仁親王・勧修寺晴子・和仁王・智仁王を人質に取って
明智光秀が人質救出したといえる!
天正10年6月7日、誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、
明智光秀に京都の治安維持をまかせている。
【明智光秀の娘の細川ガラシャ】
本能寺の変・山崎の合戦の後、豊臣秀吉から殺害されるのを防ぐ為、
細川ガラシャは丹後の山奥で2年間隠れ住む生活をした時、
世話係で一緒に暮らしたのが公家・清原枝賢の娘の清原マリア!
【西教寺】信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に
与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも
近かった西教寺との関係が深く、 寺の復興にも光秀の援助があったと
推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を
寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の
供養塔が立っている。 天正18年(1590年)、後陽成天皇は綸旨を発し、
応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた京都・岡崎の法勝寺を
その末寺である西教寺に合併させることとした。 法勝寺の寺籍は
西教寺に引き継がれ、法勝寺伝来の仏像、仏具等も西教寺に移された。
寺の別名を「兼法勝西教寺」というのはここから来ている。
【法勝寺】天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた
仏法なり」との考えを披瀝し、仏教を保護して統治する伝説上の金輪聖王
(転輪聖王)にならって法勝寺を建立した。 代々の天皇の尊崇を受けた
法勝寺を、後に慈円(1155年生まれ)は「国王の氏寺」と呼んだ。
「国王の氏寺」とは単なる「家」としての天皇家の氏寺という意味だけでなく、
太政官機構の頂点に位置する”日本国の王”の寺院でもあった。
1600年8月25日、関ヶ原の戦いの時、西軍が細川ガラシャを人質にする為
大坂玉造の細川屋敷を包囲!細川ガラシャは人質に成るのを拒絶し自害!
知った東軍の士気が向上し関ヶ原の戦いで東軍が西軍に圧勝した!
1600年8月27日 西軍は細川幽斎がいる丹後田辺城を攻撃!
知った後陽成天皇が西軍の丹後田辺城の攻撃を止めろと勅命!
天皇陛下は細川ガラシャの子供の子孫です!
天皇陛下の母の香淳皇后(昭和天皇皇后)は後陽成天皇の子孫です!
昭和天皇の母の貞明皇后(大正天皇皇后)は後陽成天皇の子孫です!
大正天皇の母の柳原愛子は八条宮智仁親王の子孫です!
元号『 平成 』の『 成 』は後陽成天皇の成です!
元号『 昭和 』の『 和 』は後陽成天皇の名前の和仁の和です!
明智光秀・細川ガラシャ・徳川家康・織田信長の子孫です!
天皇陛下は
明智光秀15世・細川ガラシャ14世・徳川家康13世・織田信長15世です!
明智光秀・細川ガラシャ・ 徳川家康・織田信長の子孫で
最初に天皇に成ったのは仁孝天皇(1800年生まれ)です!
仁孝天皇は
明智光秀10世・細川ガラシャ9世・徳川家康9世・織田信長10世です!
仁考天皇の息子の孝明天皇は父も母も明智光秀・細川ガラシャの子孫で
孝明天皇は生誕後、煕宮(ひろのみや)と命名された。
明智光秀の嫁・細川ガラシャの母の名前は煕子(ひろこ)!
孝明天皇(明治天皇の父)の明と明治天皇の明は明智の明です!
明治とは明智が国を治めるという意味です!
孝明天皇の母である正親町雅子は
明智光秀11世・細川ガラシャ10世で
徳川家康・織田信長の子孫ではありません!
細川忠興とガラシャとの間に生まれた多羅は稲葉一通の嫁と成り、
子孫は仁孝天皇(孝明天皇の父)の母の勧修寺婧子である!
細川忠興とガラシャとの間に生まれた忠隆の娘の徳は西園寺実晴の嫁と成り、
子孫は孝明天皇の母の正親町雅子である!
天皇陛下は織田信長の子孫でもあるが
織田信長の次男織田信雄の子孫である!
織田信雄は本能寺の変にも山崎の合戦にも
参戦していない!さらに信長の後継を目指して、
6月に安土城に入るが、失火で安土城を全焼させた!
山崎の合戦で豊臣秀吉軍だった
織田信長の三男織田信孝と織田信孝の子孫を絶滅させ、
小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉を敵にし、
関ヶ原の戦いの時は大坂城内に居て西軍の情報を徳川に知らせ、
大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身した!
【伏見桃山陵】陵の敷地の桃山は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、
京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものという。
すぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまの
ひがしのみささぎ)が隣接する。また、桓武天皇の柏原陵にもほど近い。
【平安神宮】創建 明治28年(1895年)
平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として
創祀された。 皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で
過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。
桔梗は明智光秀の家紋です!
天皇陛下のお住まいの皇居には桔梗門があります!
桔梗門は江戸時代は内桜田門と呼ばれていました!
桔梗門のすぐ側に皇宮警察本部が有ります!
さっそく徳川幕府は豊臣秀吉が神として祀ってある神社をすべて破壊し
徳川幕府は明智光秀の家紋の桔梗紋だらけの日光東照宮を建設した!
明治32年に造営されたのが、日光田母沢御用邸だ。日光東照宮に近く、
戦後の昭和22年に廃止された同御用邸は、戦中の19年7月から
約1年間にわたり、皇太子時代の天皇陛下が疎開されていたことで知られる。
一方、日光にはこれとは別に、明治期に東照宮の付属施設を買い上げた
日光御用邸というのもあったという。日光御用邸は山内御用邸などとも呼ばれ、
現在は輪王寺の本坊となっている。戦中は天皇陛下と同様に、
“日光の地”に疎開していた弟の常陸宮さまが滞在されていた。
比叡山焼き討ち 元亀2年9月12日(1571年9月30日)
当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。
比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した
事実が指摘されている。永禄12年(1569年)に天台座主応胤法親王が
朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を
下しているが、信長はこれに従わなかった。
明智光秀の娘の細川ガラシャの配偶者の
細川忠興は三条天皇の子孫で三条天皇23世!
本能寺の変の時、細川ガラシャと細川忠興の間には
すでに2人の子供がいた!
仁考天皇の母の勧修寺婧子は
後陽成天皇と八条宮智仁親王の
母の勧修寺晴子の異母兄の勧修寺晴豊の子孫!
勧修寺晴豊は日記『晴豊公記』(晴豊記、日々記)には信長や
本能寺の変に関する記述も多く、史料価値が高い一級史料と
みなされている。本能寺の変前日の天正10年(1582年)6月1日、
信長の上洛を祝うための勅使として甘露寺経元と共に本能寺を訪れ
信長と会見。変直後に見聞した二条御所などの状況を記録している。
山崎の戦い後には、明智光秀の女子の一人を保護している。
明治天皇の母の中山慶子も勧修寺晴豊の子孫です!
天皇陛下の母の香淳皇后も勧修寺晴豊の子孫です!
明智光秀の娘の細川ガラシャの娘の多羅の息子は稲葉信通で
稲葉信通の先祖に勧修寺教秀(1426年生まれ)がいて
勧修寺教秀の子孫に正親町天皇 ・誠仁親王・後陽成天皇
・八条宮智仁親王・勧修寺晴子・勧修寺晴豊がいる!
勧修寺晴豊の御先祖様を男限定でさかのぼると
藤原鎌足にたどりつきます!
【聖徳太子】
用明天皇の息子!西暦600年、遣隋使を派遣し
先進的な中華文化を輸入し国を大きく発展させた!
西暦643年、蘇我入鹿が聖徳太子の子孫を殺害し絶滅させる!
【天智天皇と藤原鎌足】
西暦645年、天智天皇と藤原鎌足が蘇我入鹿を殺害!
天智天皇は大化の改新・遣唐使を派遣し国を大きく発展させた!
天皇陛下は天智天皇と藤原鎌足の子孫です!
天皇陛下は
織田信長の命令で殺害された
築山殿(松平信康の母)・松平信康(徳川家康の長男)の子孫です!
織田信長を殺害した明智光秀は徳川幕府にとっては神!
幕末の天皇の孝明天皇は築山殿・松平信康・明智光秀の子孫で
徳川幕府に意見する事ができる最強の天皇であった!
当時の最高権力者である信長が生きてるか死んでるかは一番重要
明智の最大の誤算はこれだろう
仮に、本能寺は光秀の冤罪だとするとすっきりするけどね
明智軍は謀反していないから信長の遺体がなくて、
信長の遺体は他の実行犯が持ち出していました、とか
安土で光秀が数日過ごしたのは信長暗殺の情報収集してました、とか
本能寺の変の後に安土城で見つけた
金銀財宝を明智光秀は朝廷に渡している!
光秀は信長と四国との仲介を担当していたが、信長本人にその友好関係を断ち切られてしまったのである。
これにより、自分の将来に不安を抱いた光秀が、謀反に及んだのではないか。
現在では、これが最も有力な説とされている。
光秀が将来を悲観した、その一環が四国を巡る政策の対立だと思うなあ、
なぜか必ず被害者ポジション、どうしてだ???
ヘマ?光秀が何かやらかしたったけ?
空気読めない光秀が利三を擁護
例えれば、A社社員がライバルB社に身内がいるんでとか言って、B社員としても活動
これはいかんことだけど、何が悪い?とドヤ顔の利三光秀
そりゃ信長じゃなくても担当から外すよなぁと
といって自分も史料を直接見たわけではないんで、ぜひ見たいんだが
利三への切腹指示は稲葉家から人材引き抜きを連続して行ったことが理由で
四国政策絡みとは書いてなかったような
例の石谷家文書でも天正十年一月の時点で、利三は信長の朱印状(恐らく土佐と阿波南部
のみ領地として認めそれ以外の占領地域の領有は認めない)を長宗我部に受け入れるよう
に要請してるから長宗我部側の利益代弁のみを行っていたわけでも無いし
って稲葉家文書のこと言ってるんだよね?
ただ利三が二重スパイ?二重工作員みたいなことやってたの、
その史料じゃないみたいよ
当時の信長評って
聖人、恩徳ある人、日本史上稀に見る傑出した人、だからな
正当性ない気分の人事なんかやってたらこんな評価出てこないし、
あれだけの大組織には成長しない
こういうの全部隠して
「信長のプッツンで光秀翻弄され可哀想」としか言わない今が異様なだけであって
四天王のなかで一番早く領地をもらって
坂本城を建てた、あんな謀反や裏切りの多い時代にですよ
人の気持ちは変わるもんやで
少し前はそういうこと書くと
めちゃんこ叩きまくってたもんだったなぁ。
光秀が本能寺の変に無関係で、秀吉に濡れ衣を着せられた場合。
大勢で本能寺を襲撃したら、味方のふりをされ紛れこまれ逃げられるかもしれない。
お互いの顔がわかる少数で本能寺を襲撃したら、数の優位が無くなるので、必死に抵抗され逃げられるかもしれない。
大勢でも少数でも本能寺で襲撃するのは、襲撃する側にとって不利な要素が大きい。
確実に殺したいと思う実行者は、光秀が謀反したと嘘を信長に言う。
光秀を信頼してる信長は、本能寺から出ようとしない。
そこで「謀反が本当か間違いかわかりません。いったん味方の城まで避難してそこで事実確認しましょう」と言った。
この発言者を光秀と同じくらい信頼してたので、本能寺から出て城に向かった。
殺す場所をあらかじめ決めてて、そこには武器を持った暗殺犯が何人も隠れてた。
殺されたあと死体はすぐに埋められた。
これなら本能寺で信長の死体が見つからないのも説明できる。
本能寺に残ってる連中を殺して、光秀の家紋が入った旗をばら撒けば光秀謀反を印象付けられる。
>この発言者を光秀と同じくらい信頼してたので、
発言者は村井貞勝だな
京都山崎の天王山の登山口を訪問されている!
山崎の戦い:天正10年6月13日(1582年7月2日)