10分でわかるフランス政治史
フランス政治史(1815-1870)
アナーキズム(anarchism)・・・・アナーキズムとは、国家権力をはじめあらゆる種類の抑圧を否定する革命思想を指す。プルードンが先駆者とされ、バクーニンやクロポトキンによって発展した。労働者の直接運動を協調し、第一インターナショナルではマルクス主義と対立した。世紀末にはアナルコ・サンディカリズムへ継承された。
アンファンタン(Barthélemy Prosper Enfantin 1796-1864)・・・・フランスの社会主義者。サン・シモン派の領袖となった。
イタリア独立戦争(Italian War of Independence 1859-61)・・・・サルディーニャのカヴール首相は、イタリア統一のためにナポレオン3世と同盟した。これに刺激されたオーストリアは1859年4月に宣戦布告した。フランス、サルディーニャ連合軍は、ソルフェリーノとマジェンタで勝利し、ミラノを占領した。しかし統一イタリアの出現をおそれたフランスはヴィラフランカ講和を結んでしまい、サルディーニャはロンバルディアを得たにとどまった。この事態を受けてカヴールは責任をとって辞職した。60年カヴールは首相に復帰し、サヴォイアとニースの割譲を認める一方、支配者の亡命したモデナ、パルマ、トスカナ、ロマーニャを国民投票で併合した。シチリア島ではガリバルディが征服を行っていた。カヴールは当初彼に反対していたが、途中からガリバルディの両シチリア王国征服を支援した。カヴールは教皇軍を攻撃する一方、ガリバルディに圧力をかけ、シチリアと南イタリアを献上させた。61年2月、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノの国会でイタリア王と宣言された。この段階でも、オーストリア占領下のヴェネチアと、フランス軍占領下のローマだけはイタリア王国に加われなかった。カヴールの死後、ガリバルディは再起しローマ攻撃を準備したが、イタリア軍の妨害を受けた。後にプロイセン・オーストリア戦争に乗じてイタリアはプロイセンと同盟し、オーストリアと戦った。戦闘は1866年6月24日、クストッツァの戦いでも7月20日リッサ沖の海戦でもイタリアは敗れたが、講和条約でヴェネチアはイタリアに帰属した。なおこのとき戦闘で敗れたことから、南チロル、イストリア半島はなおオーストリア領にとどまり、「未回収のイタリア」問題は20世紀に至るまで持ち越されることになった。翌年ガリバルディはまたしてもローマ奪回を意図したが、フランス軍に敗れた。70年になって普仏戦争が発生し、フランス軍がローマから撤退すると、イタリアは容易にローマを併合することができ、首都をフィレンツェからローマに移した。
ヴィラフランカの講和(Villafranca 1859)・・・・ナポレオン3世は、サルディーニャの対オーストリア戦争支援を約束したものの、強大な統一イタリアの出現をおそれ、ソルフェリーノの戦い後、59年7月にオーストリアと講和を結んだ。この結果サルディーニャはロンバルディアを獲得しただけで戦争を中断しなければならなかった。
ヴィレール(Jean-Baptiste Guillaume Joseph Comte de Villèle 1773-1854)・・・・フランスの政治家、首相(1822-26)。帝政末期から王党派の秘密結社に参加、王政復古後ユルトラの指導者となった。出版統制の強化、スペインへの干渉政策、十億フラン法などを推進、七月革命後まで王党派を指導した。
ウィーン会議(Congrès de Vienne 1814-15)・・・・フランス革命ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパの秩序回復をはかった国際会議。1814年9月から翌年6月まで開かれた。ロシア、オーストリア、イギリス、プロイセンの4大国が主導権を握ったが、領土配分をめぐって協議は遅々として進まず、「会議は踊る、されど進まず」といわれた。ナポレオンの百日天下を機に列国は妥協に向かい、6月9日121条にわたるウィーン議定書が調印された。諸国民の民族主義的、自由主義的要求は認めず、革命以前の王朝を正統とする正統主義、列強の勢力均衡を原則とした。主な内容としては、フランスではブルボン家が復活、教皇領の復旧、ナポリにブルボン家が復活、サルディーニャ王国はジェノバを併合、ドイツ諸邦は、34君主国、4自由市からなるドイツ連邦を結成した。ほかスイスの永世中立化、オランダのベルギー併合、ロシアのポーランド獲得、オーストリアのヴェネチア、ロンバルディア獲得、プロイセンのザクセン、ラインへの領土拡張、イギリスはケープ植民地、セイロン島を獲得した。
ウィーン体制・・・・ウィーン会議によって樹立されたヨーロッパの国際秩序で、復古主義を旨とする反動体制であった。神聖同盟、四国同盟によって担保され、諸国はメッテルニヒの指導で各地の民族運動、自由主義運動を弾圧したが、ギリシャの独立や30年の諸革命によって動揺し、48年二月革命と三月革命によって崩壊した。
ヴェロナ会議(Verona 1822)・・・・神聖同盟諸国を北イタリアのヴェロナに集めて行われた会議。スペインの革命運動の弾圧を決めた。
運動派(Mouvements)・・・・オルレアニストの内、外国の革命運動をも積極的に支援しようとしたグループ。七月王政期ではラフィット内閣のみが運動派であった。
栄光の三日間(Les Trois Glorieuses 1830)・・・・1830年7月27日から三日間繰り広げられたパリの市街戦をいう。ブルジョワジーと民衆の蜂起に国王は亡命し、七月革命が成功した。
エムス電報事件(Despesche von Emus 1870)・・・・スペイン王位継承問題は、ヴィルヘルム1世と駐独フランス大使ベネデッティのあいだで、ドイツ系のレオポルトを擁立しないことで合意したにもかかわらず、ベルリンで電報を受けたビスマルクは故意に電文を圧縮し、国王が大使を門前払いしたかのように思わせて発表した。これはフランスを挑発し、独仏戦争に持ち込むためであった。
オスマン(Georges Eugène baron Haussmann 1809-91)・・・・フランスの都市計画者。ナポレオン三世の下でセーヌ県知事となり、パリの改造を行った。通りを広げ、公園や橋を造ったが、これは市街地でのバリケード戦を無力化させるためでもあったといわれる。
オリヴィエ(Emile Ollivier 1825-1913)・・・・フランスの政治家、首相(1870)。第二帝政期にナポレオン三世に接近し、自由帝政を要求した。1870年憲法を発布したが普仏戦争の敗戦に伴い辞任した。
オルレアニスト(Orléanistes)・・・・復古王政期以来第三共和制に至るまでオルレアン家の王位を主張した政治党派を指す。政治的には制限王政の立場に立つ。
改革宴会(Banquet)・・・・七月王政末期に街頭での政治活動が禁じられていたために、宴会にかこつけて普通選挙運動を行ったもの。幅広い層が参加し、改革宴会禁止が二月革命の引き金となった。
カヴェニャック(Louis Eugène Cavaignac 1802-57)・・・・フランスの軍人で、政治家。二月革命の動乱の中で陸相に就任し、六月暴動鎮圧に当たった。大統領選挙に出馬するが、ルイ=ナポレオンに敗れた。
カベ(Étienne Cabet 1788-1856)・・・・フランスの初期共産主義者。カルボナリ党に加わり、七月革命に参加した。代議士に選出されたが1834年追放され、1840年共産主義ユートピアを構想した「イカリア旅行記」を著した。晩年にはテキサスで「イカリア」なる理想郷を建設した。
ガルニエ・パジェス(Louis Antoine Garnier-Pagès 1803-78)・・・・フランスの政治家。七月王政期に共和制を主張して活躍した。改革宴会戦術を指導し、臨時政府蔵相、パリ市長を務めた。普仏戦争時には国防政府に参加した。
ギゾー(François Pierre Guillaume Guizot 1787-1874)・・・・フランスの歴史家、政治家で首相(1847-48)。七月王政期に外相、文相を務め、制限選挙と利権で大ブルジョワジーの政権維持に努めた。二月革命にともないルイ・フィリップとともに亡命した。
ギリシャ独立戦争(Greek War of Independence 1821-29)・・・・オスマン帝国の支配下にあったギリシャではディミトロス・イプシランティによって独立戦争が開始された。22年には正式に独立が宣言され、軍事的にも要衝を抑えた。オスマン帝国軍がキオス島で虐殺を行い、10万人を捕虜にしたのはこの頃である。ところが立憲政府が樹立されると内紛が生じ、オスマン帝国側が要請したエジプトの援軍が参戦すると戦況は逆転し、半島の支配権はオスマン帝国側に回復され、アテネも陥落した。この苦難にヨーロッパ諸国は援軍を送り、イギリス、ロシア、フランスの連合艦隊はナヴァリノの海戦でエジプト・トルコの連合軍を撃破した。その後の戦闘でもトルコ軍は破れ、1829年アドリアノープル条約でオスマン帝国は独立を承認、30年のロンドン会議で列国もこれを認めた。
グヴィオン・サン-シール法(Loi Gouvion Saint-Cyr 1818)・・・・軍人の採用と昇進に一定の規則を導入することで、国王大権の恣意的な行使を制限した。
九月諸法(Lois de septembre 1835)・・・・共和派や職人の度重なる蜂起による七月王政の動揺に対処するため、出版の自由を制限した。
クザン・モントーバン(Charles Comte de Palikao Cousin-Montauban 1796-1878)・・・・フランスの軍人、首相(1870)。中国では北京条約締結に関わり、普仏戦争ではオリヴィエに代わって首相を務めたが帝政崩壊により辞任した。
クリミア戦争(Crimean War 1853-56)・・・・かねてより南下政策を進めていたロシアは、イェルサレムの聖地管理権を口実にオスマン・トルコ帝国と開戦したが、ロシア艦隊がシノーペの海戦で勝利すると、イギリス、フランスがトルコ側で参戦した。イギリス軍2万、フランス軍3万、トルコ軍6千の連合軍はクリミア半島に上陸、ロシア軍5万の立てこもるセヴァストポリ要塞を攻撃した。1855年9月に要塞は陥落し、翌年のパリ条約ではオスマン帝国の領土保全、黒海の中立化などが決められた。この戦いは後進的な農奴制ロシアの西欧への敗北であり、南下政策は挫折した。また、オーストリアがロシアに味方しなかったことで、神聖同盟以来の両国関係に亀裂が生じ、ドイツ、イタリアの統一を容易にした。
権威帝政(Empire autoritaire)・・・・1852年12月の第二帝政開始から1860年の転換に至るまでの政治体制を指す。反体制勢力は完全に封じ込まれ、形式上国民の支持に基づいた専制政治が行われた。
憲章(Charte Constitionelle 1815)・・・・復古王政の政治体制を規定した欽定憲法。議会の権限は議決権、請願権のみで、選挙権は全人口のわずか0.8%に過ぎなかった。また王権神授説を信奉し、カトリックの国教を定めていた。
国立作業場(Ateliers Nationaux)・・・・二月革命の際に社会主義者の要求で設置された失業者救済のための施設。失業者を集めて土木事業を行った。
コンシデラン(Victor Prosper Considérant 1809-93)・・・・フランスの社会主義者。フーリエ主義者で、1848年亡命した。マルクスに影響を与えた。
コンスタン(Benjamin Constant de Rebecque 1767-1830)・・・・フランスの作家、政治家。共和主義者として帝政に反対、王政復古後は自由主義者として活躍した。文学者としては初期ロマン派に属する。
サン・シモン(Claude Henri de Rouvroy Saint-Simon 1760-1825)・・・・フランス社会主義の創始者で、アメリカ独立戦争に参加した経歴を持つ。科学技術を人間の精神的よりどころとし、産業を中心とする未来社会を空想した。彼の後継者達は、二月革命前後の政局にも登場した。著作としては、「産業体制論」(1821)、「新キリスト教論」(1825)がある。
シェルシェル(Victor Choelcher 1804-93)・・・・フランスの政治家。植民地における奴隷制廃止論者で、ナポレオン三世のクーデタに反対した。のちにパリ・コミューンと臨時政府の調停に努力した。
四国同盟 (1815)・・・・オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンの間で結ばれたウィーン体制維持のための同盟。18年にフランスが加わるが、後にイギリスは脱退する。
七月王政(Monarchie de Juillet )・・・・七月革命によって成立したオルレアン家のルイ=フィリップの王政を指す。1830年憲章では立憲王政が定められ、復古王政期同様の財産資格による制限選挙が行われた。この時期に産業革命が進行し、労働運動の発生が見られた。1848年二月革命によって崩壊した。
七月革命(Révolution de Juillet 1830)・・・・ブルボン朝最後の王シャルル10世は、ユルトラの指導的存在で、非常に反動的であった。1830年には議会と衝突し、出版の自由の制限や、選挙法の改悪を強行したため、パリで民衆が蜂起し、シャルル10世は亡命し、大ブルジョワジーの支持の下にルイ・フィリップが即位し、七月王政が始まった。
七月勅令(1830)・・・・選挙での反政府派の勝利に対してシャルル10世は出版の自由の停止、議会の解散、選挙権の縮小を内容としたクーデタ的な勅令を発表した。これにパリの民衆が蜂起し、七月革命に至った。
社会主義(Socialism)・・・・私有財産制の廃止、あるいは制限によって社会的不平等の是正を図ろうとする思想を指す。オーウェンがはじめて社会主義という言葉を使用したとされるが、サン・シモン、フーリエが初期の社会主義の代表者。のちにマルクス主義が主流になったが、アナキズムや修正主義も登場し、今世紀には社会民主主義や共産主義に発展した。
ジャックミノー(Jean François Vicomte Jacqueminot 1787-1865)・・・・フランスの軍人。第一帝政下で活躍し、王政復古時に辞職した。七月革命で復帰し、パリ国民軍参謀長、下院議員、上院議員を務めた。
シャトーブリアン(François René Vicomte de Chateaubriand 1768-1848)・・・・フランスの作家、政治家。フランス革命期に王党派に加わりエミグレとなった。王政復古後、ベルリン、ロンドン駐在大使を経て1823年外相に就任した。七月王政には敵対し下野した。
シャルル10世(Charles ? 1757-1836 フランス王 位 1824-30)・・・・ルイ16世、18世の弟で、フランスブルボン朝最後の王。革命中はイギリスに亡命し、ナポレオンの没落後帰国した。極端な王党派で、10億フラン法(1825)などその反動的抑圧的な政治は七月革命をもたらした。
十億フラン法(Milliard des Émigrés 1825)・・・・シャルル10世が成立させた反動立法。フランス革命中に土地を没収された貴族に対し、補償を支払うというもので、民衆の反感をかった。
自由主義(Liberalism)・・・・封建的な束縛からの政治的、経済的自由を求める市民階層の思想を指す。イギリスにおいては名誉革命後に政治的自由ならびに資本主義の発展に不可欠な経済的自由が希求された。経済的自由主義は古典派経済学で表現されている。一方中東欧では、19世紀にナショナリズムと結合して政治的自由を求める運動が行われ、1848年革命にいたった。
自由帝政(Empire Libéral)・・・・イタリア政策でのナポレオン3世の裏切り行為に内外の非難が集中する事態となり、第二帝政は自由帝政への譲歩を余儀なくされた。以後1860年代を通じて次々と自由化が進められることになった。
純理派(dectorinaire)・・・・ギゾーを中心とする復古王政期の政治党派。ユルトラに対し立憲君主制を強化しようとして1818年にはグヴィオン・サン-シール法を導入した。
神聖同盟(Holy Alliance 1815 )・・・・1815年9月に、ロシア、プロイセン、オーストリアの三君主の間に結ばれた同盟。キリスト教的友愛を理念とする抽象的な内容で、後にイギリス王、ローマ教皇、オスマン帝国スルタン以外のヨーロッパの全君主が参加した。ウィーン体制下のヨーロッパの反動政策の基盤となった。
スペイン王位継承問題・・・・1868年の革命でイサベル2世が退位すると、スペインのコルテスは後任国王の人選にかかった。白羽の矢が立ったのがホーエンツォレルン家の親戚であるレオポルトだった。スペイン政府はうかつにもこれを公表してしまい、フランスの激しい反発を招いた。スペインと神聖ローマ帝国の王位を兼ね、フランスを脅かしたカール5世の時代の再来をおそれたのだ。エムス温泉で交渉が行われ、レオポルトは身を引くことなったが、ここでエムス電報事件が発生した。
スルト(Nicolas Jean de Dieu Duc de Dalmatie Soult 1769-1851)・・・・フランスの軍人、政治家。第一帝政期に元帥となり、スペインの戦場で活躍した。1814年陸相、百日天下中はナポレオンに従ったため追放された。しかし七月王政下で再度陸相、首相を務めた。
1851年クーデタ・・・・第二共和制憲法では大統領の再選が禁じられていたので、大統領を辞める気のなかったルイ・ナポレオンは1851年12月2日クーデタに踏み切った。彼は軍を動員して議会を解散、反対派を全員逮捕し戒厳令を施行した。同月21日の人民投票では新憲法が圧倒的多数で承認され、共和制は事実上終焉した。
1852年憲法・・・・ルイ・ナポレオンのクーデタ直後の人民投票で承認、翌年1月に施行された。任期10年の元首制をとり、彼が大臣を指名する。普通選挙によって選ばれる立法院は法律の審議権を持つが行政権への歯止めはない。
ソルフェリーノの戦い(Solferino 1859)・・・・イタリア独立戦争で、フランス軍がオーストリア軍を破った戦い。イタリア勝利の基礎となった。
第一インターナショナル(The First International 1864-72)・・・・ロンドンで創立された世界初の国際的な労働者組織で、国際労働者協会と呼ばれた。1863年のポーランド反乱に対する労働者の支持運動が契機となって結成された。マルクスが創立宣言と規約を起草した。マルクス派はプルードン派、ついでバクーニン派と対立したが、この組織を通じてマルクス主義は広まった。パリ・コミューンののち、各国政府の弾圧で活動を停止した。
第三党(Tiers Parti 1869)・・・・1869年5月の立法院選挙の結果形成された共和派でも権威帝政派でもない多数派。オルレアニスト、カトリック、官選候補などからなり議会主義を要求した。
第二共和制(Deuxième République 1848-1852)・・・・フランスで二月革命の結果成立した共和制。六月蜂起や王党派の揺さぶりで安定しなかった。三権分立、大統領制を定めた憲法が採択されたが、12月に大統領に当選したルイ・ナポレオンは1851年クーデターを起こし、翌年皇帝に即位したため共和制は倒れた。
第二共和制憲法(1848)・・・・二月革命後憲法制定議会が開かれ11月に圧倒的多数により第二共和制憲法が採択された。アメリカ合衆国憲法から影響を受け、大統領と立法議会が平等な立場に立つ。行政権を担う大統領は直接普通選挙で選ばれ任期4年で再選不可、立法議会は750名で構成され任期3年であった。しかし議会と大統領の対立を調整する制度がなく、後にルイ・ナポレオンは議会を無視して自己に忠実な大臣のみを任命することになった。
第二帝制(Second Empire 1852-1870)・・・・1852年ルイ=ナポレオンはナポレオン3世として即位し、第二帝制を開始した。議会は有名無実で、皇帝が行政、司法権を握った。内政面ではブルジョワジーとプロレタリア、中間層の農民の均衡の下で政治を行うボナパルティズムといわれる政治形態をとった。やがて専制から自由帝政に移行したが、メキシコなどでの失態により権威を失墜し、普仏戦争でのセダンの敗北により第二帝制は崩壊した。
タレーラン(Charles Maurice de Talleyrand 1754-1838)・・・・フランスの政治家で、はじめ総裁政府に外相として加わったが、1807年反ナポレオン派に転じた。ウィーン会議にフランス代表として参加し、外交手腕を発揮した。ブルボン王朝は革命の被害者であると主張することで、敗戦国としての責任から逃れた。
秩序党(Parti de l’Ordre)・・・・六月蜂起後、正統主義者、オルレアニスト、カトリックの連合が成立し、秩序党が結成された。彼らは執行委員会から権力を奪い、カヴェニャック内閣に入閣を果たした。
ティエール(Adolphe Thier 1797-1877)・・・・フランスの政治家で、首相(1836,39)、大統領(1871-73)。七月王政期に首相を務め、1848年にはナポレオンを支持したが逮捕され、63年に議員に復帰した。第二帝政崩壊後、臨時政府の首班としてパリ・コミューン弾圧に当たった。歴史家としては「執政政府と第一帝政の歴史」がある。
抵抗派(Résistance)・・・・オルレアニストの内、革命運動の外国への波及に消極的なグループ。ペリエ以降の七月王政期の内閣はすべて抵抗派だった。
デュポン・ド・ルール(Jacques Charles Dupont de l’Eure 1767-1855)・・・・フランスの政治家。復古王制に反対し、七月革命に参加した。二月革命では臨時政府首相になった。
ドカズ(Elie Duc Decazes 1780-1860)・・・・フランスの政治家、首相(1820)。帝政期に判事として活躍した後復古王政では立憲王政派を組織し、1815年警察相、19年内相を務めた。ルイ18世の覚えのめでたい寵臣。
トクヴィル(Alexis de Tocqueville 1805-59)・・・・フランスの歴史家、政治家。自由主義を信奉し、高邁な理想の持ち主で、第二帝政に反対して隠遁した。「アメリカの民主制」(1835)では近代社会と大衆化の必然性を明らかにし、「アンシャン・レジームとフランス革命」(1856)では革命前後の連続性を明らかにし、後世に多大な影響を与えた。
涜聖禁止令(1825)・・・・復古王政の反動政策の一つ。教会への窃盗に対して死刑を適用するとしたがかえって反教権主義の風潮を強めることになった。
ド・セール諸法(Lois De Serre)・・・・復古王政期の立憲的改革の一つ。出版物の事前検閲制を廃止した。
ナポレオン伝説・・・・ナポレオン1世の栄光を賛美し、その人物像を極度に美化した伝説。私の辞書に不可能の文字はないとか、1日4時間しか眠らなかったなど聞いたことのある方も多いだろう。復古王政期におけるナポレオンは敗戦でフランスを破滅させた人物として、実際には民衆の怨嗟の的となっていたという。こうしたナポレオン伝説が広まるのは七月王政に入った頃であった。1840年にはナポレオンの遺骸がフランスの帰還し、正式に名誉回復がなされた。ナポレオン崇拝の風潮は、二月革命後にボナパルト派の結成を促し、ルイ=ナポレオンを台頭させた。
二月革命(Révolution de Février 1848)・・・・1848年2月、パリと地方で選挙権拡大を目指す改革宴会が開かれていたが、時のギゾー内閣はこれを禁止したため、蜂起が起こった。市街戦の後ルイ=フィリップの退位と共和派の臨時政府樹立が宣言された。この革命には労働者層の広範な参加が見られたが、これがブルジョワの不安をかき立て、その後の保守化の原因になった。
バザール(Saint-Amand Bazard 1791-1832)・・・・フランスの社会主義者。初めカルボナリ党を結成、共和制を目指したが失敗、アンファンタンと共にサン・シモン派の指導者となった。
バロ(Camille Hyacinthe Odilon Barrot 1791-1873)・・・・フランスの政治家。七月王政期に立憲王政派として政府に対抗した。改革宴会を組織し、第二共和制期には首相となった。
ファルー(Alfred Frédéric Comte de Falloux 1811-86)・・・・フランスの政治家。バロ内閣の下で文相を務め、公教育をカトリック化した。王党派として帝政には反対して逮捕された。
ファルー法(Loi Falloux 1850)・・・・第一帝政期に中等教育は大学に独占されていたが、学校教師を聖職者の影響下に置くことを定めた法律が制定された。その後も教師の間に反教権主義がはびこることになった。
復古王政(Restauration 1814-15,15-30)・・・・ウィーン会議の結果復活したブルボン朝の制限王政。単純な革命以前への復帰はもはや不可能であったが、その反動性は明らかであった。
普仏戦争(Franco-Prussian War 1870-71)・・・・フランスの第二帝政を崩壊させ、ドイツの統一をもたらした戦争としてその歴史的意義は極めて大きい。南ドイツ諸邦を北ドイツ連邦に加えることでドイツ統一を考えていたビスマルクは、エムス電報事件を利用し、フランスに宣戦させた。バゼーヌ元帥のフランス軍はモルトケ伯のプロイセン軍にメッスで降伏、ナポレオン三世自ら率いる軍もセダンで降伏し、第二帝政は崩壊した。パリではティエールの臨時政府が成立し、プロイセン軍との交渉に当たった。1871年1月包囲されていたパリは降伏したが、講和に屈辱を感じた市民は3月パリ・コミューンを組織した。この間1月18日にベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立とヴィルヘルム1世の皇帝即位が宣言された。5月フランクフルト条約でフランスは賠償金10億ドルとアルザス・ロレーヌ地方の割譲を約束した。
ブラン(Charles Louis Blanc 1811-82)・・・・フランスの社会主義者、政治家。七月王政を批判し、二月革命後リュクサンブール委員会を指導したが失敗し、六月蜂起後イギリスに亡命した。1871年国会議員に復帰した。
ブランキ(Louis Augusute Blanqui 1805-81)・・・・フランスの革命家で、76年の生涯のうち33年間を獄中で過ごした。プロレタリアート解放のために、少数の武装した革命家による独裁権力の樹立を目指し、秘密結社を組織した。その思想はブランキシズムとよばれ、彼の信奉者であるブランキスト達は獄中のブランキをパリ・コミューン大統領に選んだ。
フーリエ(François Marie Charles Fourier 1772-1837)・・・・フランスの社会主義者。その思想は、自ら商業活動を行った経験から、構成員の協力と自己実現を最大限に可能とするファランジュと呼ばれる自給自足的単位に社会を再構成しようと考えた。「4運動の理論」(1808)、「産業的、社会的新世界」(1829)が主著で、いくつかの実験的なユートピアがフランスとアメリカに実際に建設された。それらは失敗に終わったが、その思想は多くの支持者を集めた。
プルードン(Pierre Joseph Proudhon 1809-65)・・・・フランスの社会主義者で、「所有とは何か」(1840)の中で、所有とは必然的に他者の労働を搾取することになるとし、窃盗であると定義した。私有財産制を批判し、「経済的諸矛盾の体系」(1846)を出版した。二月革命後、代議士として社会改革を主張し、無政府主義に大きな影響を与えた。
プロンビエールの密約(Plombiére 1858)・・・・ナポレオン3世とカヴールの間で結ばれた密約。サルディーニャ王国がサヴォイア、ニースをフランスに割譲する代わり、フランスはサルディーニャの対オーストリア戦争を支援することを約束した。しかし翌年の戦争でフランスは単独講和してしまい、約束を守らなかった。なお、サヴォイア、ニースの方は約束通りフランスに割譲された。
ペリエ(Casimir Pierre Périer 1777-1832)・・・・フランスの政治家、首相(1831)。王政復古期には王党派と対立し、七月革命に尽力した。
ペリシエ(Aimable Jean Jacques Duc de Malakoff Pélissier 1794-1864)・・・・フランスの軍人。1851年クーデターに協力し、クリミア戦争にも従軍した。後に駐英大使、アルジェリア総督を歴任した。
ボナパルティスト(bonaparteliste)・・・・ナポレオンの帝政を追慕する党派。ルイ・ナポレオンを指導者にして七月王政期に既にいくどか蜂起を起こしていたが、1848年には彼を大統領に当選させることに成功した。彼らは第二帝政崩壊後も共和制に敵対した。
ボナパルティズム(Bonapartism)・・・・フランスにおけるナポレオン3世の政治形態を指す言葉。その特徴としては、第一に資本主義を基本とし、産業を振興しブルジョワの利益を追求することが挙げられる。第二に労働者に対しては社会政策を充実させること、第三に、民衆への統制は強かったものの、ともかくも男子普通選挙が行われたことは、民主化のレベルとしては相当に高かったといえる。第四に体制がナポレオン個人の人気によるところが大きく、特に農民や中間層の支持を得るためには常に対外的な栄光を必要としたことが指摘される。クリミア戦争、中国への遠征、サヴォイアとニースの併合まではよかったが、メキシコ遠征(1861-67)には失敗し、普仏戦争の敗戦で第二帝制は崩壊した。これらの特徴は、ビスマルクのドイツにも類似のものが見られるとされる。
ボナール(Louis Gabriel Ambroise Vicomte de Bonald 1754-1840)・・・・フランスの政治家、政治思想家。フランス革命期にはドイツに亡命し反革命思想を鼓舞したが、第一帝政の文相も務めている。王政復古後神政政治を説き、ユルトラの理論的指導者となった。
ポリニャック(Jules Auguste Armand Marie Polignac 1780-1847)・・・・フランスの政治家、首相(1829-30)。ユルトラ(過激王党派)の指導者として復古王制下に活躍した。七月革命の口火を切り、革命後終身刑に処せられたが後に釈放された。
マクシミリアン(Joseph Ferdinand Maximilian 1832-67 メキシコ皇帝 位 1864-67)・・・・ハプスブルク家の大公で、ナポレオン3世にかつがれてメキシコ皇帝に即位した。しかしフランス軍はやがて撤退し、彼は革命軍によって逮捕、処刑された。
メキシコ遠征(Mexican-French War 1861-67)・・・・メキシコ大統領フアレスが対外債務の支払い停止を宣言すると、フランスはイギリス、スペインと共同出兵に踏み切った。英、西はメキシコ側と協議の結果撤退したが、フランスはナポレオンの野心もあって、ロランセス将軍の郡を送ったがメキシコ軍に敗北した。フランスはフォレーの援軍を送りメキシコシティーを占領、傀儡皇帝のマクシミリアンを帝位につけた。しかしフランスはフアレスのゲリラ活動に悩まされ、南北戦争を終えたアメリカの圧力もあって、マクシミリアンを見捨てて1837年メキシコから撤退した。マクシミリアンは降伏し、処刑された。
モルティエ(Edouard Adolphe Casimir Joseph Mortier 1768-1835)・・・・フランスの軍人、政治家。第一帝政期に軍人として活躍し、1804年元帥となった。その後代議士となりルイ・フィリップの側近となった。首相(1834-35)を務めたが、国王暗殺未遂事件で死亡した。
モルニ(Charles Auguste Louis Joseph Morny 1811-65)・・・・フランスの政治家、ナポレオン三世の異父弟。1851年クーデターを支持し、内相、立法院議長などを務めた。
モンタランベール(Charles Forbes Comte de Montalembert 1810-70)・・・・フランスの作家、政治家。自由主義カトリックを指導し、教育の自由化を主張した。ルイ・ナポレオンを支持したがやがて反政府に転じた。またユルトラ・モンタニズムにも反対した。
ラスパイユ(François Vincent Raspail 1794-1878)・・・・フランスの政治家、科学者。七月革命に参加し、穏健共和派として活躍、二月革命後大統領選で落選した。その後投獄、追放され1876年下院議員に復帰した。
ラ・ファイエット(Marie Joseph La Fayette 1757-1834)・・・・フランスの軍人、政治家。若い頃アメリカ独立革命に参戦し、本国の革命勃発後は自由主義者としてフィーヤン派を指導し、パリ国民軍司令官となった。後に亡命、帰国したが、ナポレオン、復古王政に一貫して反対し、大革命の象徴となる。七月革命に際して、再びパリ国民軍司令官となった。
ラフィット(Jacques Laffitte 1767-1844)・・・・フランスの政治家、銀行家。フランス銀行の理事、総裁を務め、七月革命を支持した。首相、蔵相として大資本家の支配を実現したが、1831年下野した。
ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Part de Lamartine 1790-1869)・・・・フランスの詩人、政治家。詩人として活躍するかたわら七月王政期に代議士となり、臨時政府の外相となった。その後は詩作に専念した。
リヨンの反乱(1831)・・・・不況に苦しむリヨンの絹織物工たちが商人達の約束違反に抗議して蜂起した。彼らはサン・シモン主義の影響を受けていたが、統一した政治綱領もなかったためわずか数日で鎮圧された。
ルイ18世(Louis ?? 1755-1824 フランス王位1814-15 1815-24)・・・・フランス革命で処刑されたルイ16世の弟で、革命中はイギリスに亡命して王党派の中心として活動していたが、ナポレオンの没落で名実ともに即位した。百日天下中は王位を失ったが、ワーテルローの戦い後再び即位した。1815年憲章は制限選挙による王政を認めた。
ルイ=ナポレオン(Louis Napoleon 1808-73 フランス皇帝 位1852-70)・・・・ナポレオン1世の甥に当たる人物。1836年、40年と反乱を企てて失敗し、投獄された。二月革命後大統領選に立候補し、当初は泡沫候補とみられたがナポレオン崇拝の波に乗って当選した。ボナパルティズムと呼ばれる政治方式を展開し、1851年クーデターにより憲法を改正、翌年人民投票の結果皇帝ナポレオン3世として即位した。立法、行政権を握り、議会は有名無実となったが、1860年代になると、メキシコ遠征の失敗など対外的な権威の失墜もあって次第に譲歩を迫られ、自由帝制、議会帝制へと移行した。普仏戦争におけるセダンの敗北により、第二帝制は崩壊した。
ルイ=フィリップ(Louis-Philippe 1773-1850 フランス王 位1830-48)・・・・ブルボン家の分家であるオルレアン家出身で、復古王政期には自由主義者らと交わった。七月革命にともない国王に即位した。大ブルジョワジーの支持を受け立憲王政を行うが、凶作で不満が高まり、選挙制度改革をめぐる反政府暴動の高まりに早々と亡命した。
ルエル(Eugene Rouher 1814-84)・・・・フランスの政治家。ナポレオン三世の忠臣として首相(1863-69)などを歴任し、「副皇帝」と称されるほどだった。普仏戦争敗戦で亡命し、帰国後はボナパルト派の指導者となった。
ルクセンブルク問題(Luxemburg)・・・・ルクセンブルク大公国は、ウィーン体制下でネーデルラント王国の一部でありながら、ドイツ連邦にも所属していた。ベルギー独立後もルクセンブルクはオランダと同君連合の地位にとどまり、ウィレム2世時代には立憲政治が導入された。しかしウィレム3世は1853年クーデターで憲法を停止してしまった。ドイツ連邦が解体すると、ナポレオン3世はルクセンブルクの買収を希望しオランダ側も条件付きで了承したが、プロイセンは軍の駐留を続けてこれに反対した。そこで67年ロンドン会議が開かれ、ルクセンブルクからのプロイセン軍の撤退と永世中立化が決定された。
ルドリュ・ロラン(Alexandre Auguste Ledru-Rollin 1807-74)・・・・フランスの政治家、七月王政期に普通選挙を主張し、改革宴会を指導した。臨時政府の内相となり、山岳派を率いたが、のちに亡命した。
六月蜂起(Journées de Juin 1848)・・・・二月革命後も経済危機が続いていたにもかかわらず、臨時政府は労働者のための国立作業場を閉鎖した。そこで労働者達は再び蜂起したが、陸相カヴェニャックにより鎮圧された。
フランス政治史(1914-44)
アクション・フランセーズ(Action Fran?aise 1899)・・・・フランスでドレフュス事件を契機に結成された団体。反ドレフュス派に属し、国粋主義的な王党派で、30年代にはファシズム的な運動を行った。36年禁止されたがヴィシー政権下で復活した。
アンリオ(Philippe Henriot 1889-1944)・・・・フランスのジャーナリスト。ヴィシー政権下で極端な対独協力プロパガンダに明け暮れた。解放を前に暗殺された。
ヴィシー政府(Gouvernement de Vichy 1940-44)・・・・ドイツ軍の傀儡政権として、1940年7月中部フランスのヴィシーに成立した。ペタン元帥が元首として、理論上は絶対権を行使したが、本国の3/5はドイツに占領され、植民地も一部は自由フランスの勢力に入った。第三共和制を否定し、ドイツに協力したが、レジスタンスも発達し、連合軍のフランス解放とともに消滅した。
ウェーガン(Maxime Weygand 1867-1965)・・・・フランスの軍人で、第一次世界大戦中、フォッシュの元で活躍した。1930年陸軍参謀総長に就任した。1940年6月にはガムランに続いてフランス軍の指揮を執ったが敗れ、ドイツとの休戦を主張したので、戦後は投獄された。
ヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles 1919)・・・・第一次世界大戦におけるドイツと連合国との講和条約で、1919年6月28日調印された。15篇440条からなり、第1編で国際連盟規約を定めている。対独復讐心に燃えるフランスは講和会議でライン川を国境とする案、南ドイツの分離案と露骨な要求を出した。この条約により、ドイツは一切の海外領土を失い、アルザス=ロレーヌ地方はフランスに返還、周辺諸国に領土を割譲した。ダンツィヒは国際連盟の管理下に置かれ、ザールその他の地方は住民投票によって帰属を決定することになった。ドイツは戦前の面積、人口の10パーセント以上を失い、オーストリアとの合邦も禁じられた。ブレスト=リトフスク条約も当然破棄された。軍備では、陸軍10万人以下、海軍1万5千以下に制限され、参謀本部を廃止、徴兵制の禁止、飛行機、潜水艦の保有は禁止された。また、多額の賠償金を追って支払うことになった。
ヴェルサイユ体制・・・・ヴェルサイユ条約を中心として成立した第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序を指す。民族自決の結果東欧に多くの小国が誕生したが、これらはソ連の共産主義に対する防壁という意味あいがあった。また国際連盟が設置され、平和の維持に努めた。ロカルノ条約とドイツの国際連盟加盟によって一時的に安定するが、世界恐慌によって動揺し、ドイツのヴェルサイユ条約破棄によって崩壊した。
ヴェルダンの戦い(Verdun 1916)・・・・第一次世界大戦における西部戦線の主要な戦場の1つ。1916年2月、ドイツ軍はムーズ川沿岸にあるフランスのヴェルダン要塞を攻撃目標とした。ドイツ軍の猛攻はその年の12月まで続いたが、ペタン元帥のフランス軍は死守した。この戦いでドイツ側34万、フランス側36万の死傷者を出した。
ヴェル・ディブ事件(Rafle de V?l’ d’hiv. 1942)・・・・ドイツ軍占領下のパリで行われたユダヤ人狩り事件。フランス人民党と警官隊が実行部隊となり、13000人のユダヤ人が逮捕、強制収容所に送られた。事件の行われた7月16日は1993年国民の日と定められた。
エリオ(Edouard Herriot 1872-1957)・・・・フランスの政治家、首相(1924-25,32)。第一次世界大戦中の運輸大臣で、戦後は急進社会党の党首を務めた。首相としては平和政策を採り、ルール撤兵、ジュネーブ議定書を成立させた。文芸に造詣が深いことでも知られる。
カシャン(Marcel Cachin 1869-1958)・・・・フランスの政治家。元哲学者で、統一社会党からフランス共産党の成立に関わり、国会議員にもなった。
ガムラン(Maurice Gustave Gamelin 1872-1958)・・・・フランスの軍人。第二次世界大戦開戦時、英仏軍の総司令官になったが、堅固な要塞線を守るという時代遅れの戦術を採り、ドイツ軍の電撃戦に大敗した。
奇妙な戦争(Dr?le de guerre 1939-40)・・・・1939年9月ドイツと戦争状態に入ったフランスは、第一次大戦の経験から塹壕深くにこもっての持久戦術をとり、ザールに一時進出した他は攻勢を一切とらなかった。バクー油田爆撃、フィンランド支援も実行されず、フランス軍の士気は上がらなかった。
共和国臨時政府(Gouvernement Provisoire de la R?publique Fran?aise GPRF 1944-46)・・・・ノルマンディー上陸作戦の直前にCFLNは臨時政府に発展した。首班のド・ゴールは解放に伴う混乱を収拾したが46年1月に退陣し、第四共和制が発足した。
クロワ・ド・フ(Cloix de Feu1927)・・・・「火の十字軍」の意味で、在郷軍人団体として発足したが、1930年代には大衆化し、ファシズム団体となった。人民戦線内閣から解散を命じられたが、改称し、第二次世界大戦中まで存続した。
コティ(Fran?ois Coty 1874-1934)・・・・フランスの実業家、政治家。香水で財をなし、「フィガロ」誌を買収、「フランス人の連帯」という保守的政治団体を組織して反共運動に努めた。
コンピエーニュ(Compi?ne)・・・・北フランスの小都市。1918年11月11日、ドイツとの休戦協定が結ばれた。このとき使われた客車は博物館に保存されていたが、1940年6月、ヒトラーはわざわざその客車を運んできて、場所も同じコンピエーニュでフランスとの休戦協定を結んだ。
サロー(Albert Sarraut 1872-1962)・・・・フランスの政治家、首相(1933,36)。インドシナ総督、植民相などを歴任し、戦争中はナチスに逮捕された。
塹壕新聞(Journal de tranch?es)・・・・第一次世界大戦が長期化する中塹壕戦を戦う兵士達の間で発行された新聞。200種類ほどが現存しているという。
シャトーブリアン(Aophonse de Chateaubriant 1877-1951)・・・・フランスの作家。第二次世界大戦中は右翼文芸誌を創刊してドイツに協力、戦後は戦犯に問われ文壇追放となった。
ジュアン(Alphonse Juin 188-1967)・・・・フランスの軍人。第一次世界大戦中はモロッコ軍に参加し、1938年には北アフリカ参謀長となった。ヴィシー政府のモロッコ軍政府長官となったがのちに連合国軍に参加し、ド・ゴール派の司令官として北アフリカ、イタリアで活躍した。国防軍参謀総長(1944-47)、モロッコ総督(1947-51)を務め、陸軍元帥に昇進したが、アルジェリア問題でド・ゴールに反対し、引退した。
自由フランス政府(France Libre)・・・・第二次世界大戦中、フランス本国がドイツ軍に占領されたのにともなって発足した亡命政府。イギリスに脱出したド=ゴールが組織し、レジスタンス運動と連絡を取り、アルジェリアからパリに移って、第四共和制成立までの臨時政府の役割を果たした。
週四十時間労働法(Loi de journ?e de 40 heures 1936)・・・・ブルム人民戦線内閣の主要な政策。労使間のマティニヨン協定に基づいて実施された。社会政策と経済政策を兼ねたものだった。のちにダラディエ内閣によって骨抜きにされた。
ジュオー(L?on Jouhaux 1879-1954)・・・・フランスの労働運動指導者。1909年労働総同盟の書記長に就任したが、第二次世界大戦後は反共主義の立場から脱退し、<労働者の力>派を結成した。51年ノーベル平和賞を受賞した。
ショタン(Camille Chautemps 1885-1963)・・・・フランスの政治家、首相(1930,33-34,37-38)。急進社会党の指導者で、ブルムのあとをついだ人民戦線内閣を組織したが、共産党を追放し、人民戦線は解体した。第3共和制最後のペタン内閣の副首相を務め、のちにアメリカに亡命したが、戦後禁固5年に処せられた。
ジョッフル(Jacques Joffre 1852-1931)・・・・フランスの軍人。インドシナで活躍したのち、1910年陸軍参謀総長となり、第一次世界大戦中はマルヌの戦いを指揮した。陸軍元帥や連合国軍事会議議長を務めた。
ジロー(Henri Honor? Giraud 1879-1949)・・・・フランスの軍人で、第一次世界大戦中はドイツ軍の捕虜となった。1940年のドイツとの戦いでは第七、第九軍を指揮したが、またもドイツに捕らわれた。しかし脱出し、北アフリカで自由フランス軍を指導したがド・ゴールとは対立した。フランス解放後は最高軍事会議副議長を務めた。
神聖連合(Union sacr? 1914)・・・・フランス軍が戦端を開きつつあった8月4日、ポワンカレ大統領は神聖連合を呼びかけた。これは祖国防衛という神聖な目的のために国内の対立は休戦しようというものであった。カトリックも社会主義者も一時はヴィヴィアーニ内閣に結集したが、やがて戦争の長期化に伴い神聖連合は破綻していく。
人民戦線(Front populaire)・・・・1930年代、ファシズムの脅威に対して各国で結成された左翼勢力の連合。共産党が左翼中産階級政党とも連携したことが注目される。1935年のコミンテルン第七回大会で公認された。フランスでは1936年ブルム内閣が成立し、人民連合全国委員会は38年11月まで形骸化しながら存続した。
人民党(Parti Populaire Francais PPF)・・・・ドリオの結成したファシズム政党。ナチスを支持した。
スタヴィスキ事件(Stavisky 1933)・・・・バイヨンス市債発行をめぐる汚職事件。急進社会党など多くの政治家が関わっていたため民衆の議会政治への不満が高まり、翌年の二月六日事件につながった。
ステーグ(Th?odore Steeg 1868-1950)・・・・フランスの政治家、首相(1930-31)。中道右派政権を組織したがわずか一ヶ月で退陣した。
ストレーザ会議(Stresa 1935)・・・・ドイツのヴェルサイユ条約侵犯問題などをめぐってイギリス、フランス、イタリアの首脳が35年5月に北イタリアで行った会議。ドイツに対するストレーザ戦線が形成されたが、エチオピア戦争により崩壊した。
全国抵抗評議会(Conseil National de la R?sistance CNR 1943)・・・・1942年1月フランスに潜入したド・ゴールの代理人、ムーランによって43年1月南部の抵抗組織が統一されてCNRが発足した。CNRはやがてド・ゴールの後見から自立し、1944年には戦後のプランをCNR綱領として採択した。
総力戦(Total War)・・・・前線も銃後もなく、全国民をかり出して行われる現代の戦争形態。第一次世界大戦ではじめて本格的に見られ、驚くべき死傷者を出した。
ソンムの戦い(Somme 1916)・・・・第一次世界大戦中、西部戦線で連合軍が行った大規模な反攻。1916年6月、北フランスのソンム河畔で連合軍の攻勢が始まったが、ドイツ側も11月まで死守した。連合軍75万、ドイツ軍50万の死傷者をだした。
第一次世界大戦(World War ? 1914-18)・・・・1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が始まった。同盟国側は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリアが加わった。協商国側には、イギリス、フランス、ロシア、イタリア(1915年参戦)などが加わった。戦況は、ドイツ側の短期決戦構想が、西部戦線のマルヌで進撃を止められて失敗した。戦闘は塹壕戦となり、長く膠着した。やがてドイツは17年無制限潜水艦戦に訴え、これが4月のアメリカの参戦を促した。17年にはロシアで革命が起こり、ボリシェヴィキ政権は18年3月、ブレスト=リトフスク条約でドイツと講和した。18年には同盟国の敗戦は避けられない見通しとなり、ドイツ、オーストリアで革命が発生、11月11日ドイツが休戦協定に調印し、戦争は終結した。
この戦争でフランスは主要な工業地帯である北東部を戦場とされたため、石炭、鋼鉄の輸入が急増した。熟練工は工場に動員された。また全般的な労働力不足から40万人にのぼる女性やのべ22万の植民地からの労働者徴募が行われた。毎年戦前の国家予算の7倍以上の国家支出が行われ、それらは国債と外国からの借款でまかなわれた。軍需生産では統制経済が確立し、農業生産は低下した。また140万人にのぼる死者は戦後フランスの活力を奪うことになった。
ダラディエ(Edouard Daladier 1884-1970)・・・・フランスの政治家、首相(1933,34,38-40)。急進社会党の指導者としていくどか首相を務め、1936年には人民戦線内閣の陸相ともなった。38年にはミュンヘン協定に調印するなど宥和政策を行い、フランスが降伏すると逮捕され、45年までドイツに抑留された。
タルデユー(Andr? Pierre Gabriel Am?d?e 1876-1945)・・・・フランスの政治家、首相(1929-30,32)。対独強硬派としてヴェルサイユ条約の起草に参加した。国内政治では右翼中央派に属し、中央共和党を組織した。
ダルナン(Joseph Darnand 1897-1945)・・・・フランスの政治家。ヴィシー政権下でドイツに協力して1943年に民兵団を組織、武装親衛隊の傘下に入りテロルを行った。フランス解放後処刑された。
ダルラン(Fran?ois Darlan 1881-1942)・・・・フランスの政治家。1941年2月ヴィシー政権の副首相、外相、内相などに就任し、積極的にドイツに協力した。ドイツのために軍需物資を生産、フランス植民地をドイツ軍の使用に供したり、連合国へのヴィシー政権の参戦を主張したが42年4月解任された。そのご連合国との和平工作を行ったが暗殺された。
ダンケルク撤退(Evacuation of Dunkirk 1940)・・・・ベルギーを制圧したドイツは、数十万の連合軍を北フランスのダンケルクに包囲した。英仏は必死の撤退作戦を行い、5月26日から6月4日までかけて34万人の兵士をイギリス本国に救出した。
デア(Marcel D?at 1894-1955)・・・・フランスの政治家。社会党を離れてネオ・ソシアリストを標榜、1940には国家人民連合の企てや、ヴィシー政権では労働相を務めドイツに協力した。解放に伴いドイツに逃亡した。
統一労働総同盟(Conf?d?ration G?n?rale du Travail Unitaire CGTU 1921-36)・・・・労働総同盟の内共産主義者やサンディカリストら反ジュオー派が除名されて結成した労働組合組織。やがて寄り合い所帯は内部対立から衰退した。人民戦線の時代にCGTに再統一された。
トゥヴィエ(Paul Touvier 1915-)・・・・ドイツ軍占領下のフランスで民兵団の指導者としてドイツに協力した。1989年に潜伏先で逮捕、一旦免訴となったが激しい抗議行動に94年に終身刑が下された。
ドゥメルグ(Gaston Doumergue 1863-1937)・・・・フランスの政治家、首相(1913-14、34)、大統領(1924-31)。急進社会党の指導者として、1930年代には行政権を強化しようとしたが失敗した。
ド・ゴール(Charles de Gaulle 1890-1970)・・・・フランスの軍人、政治家で臨時政府主席(1944-46)および首相(1958-59)として第四共和制を終わらせ、第五共和制初代大統領(1959-69)を務めた。第一次世界大戦では参謀総長ペタンの幕僚として活躍し、レイノ内閣の陸軍次官も務めた。1940年6月フランスがドイツに降伏すると、ロンドンに自由フランス政府を樹立し、ドイツへの抗戦を続けた。1944年8月パリ解放後は臨時政府主席となったが、46年憲法問題で辞職した。1958年アルジェリア問題を機に政権に復帰し、国民会議の信任と国民投票によって第五共和制を樹立した。大統領としてはアフリカ植民地の独立承認、核兵器の開発、中華人民共和国承認、西ドイツとの講和など独自の外交を展開した。69年地方自治と議会に関する国民投票で敗れ引退した。
トマ(Albert Thomas 1878-1932)・・・・フランスの社会主義者。1910年初当選し、参戦派として1916年軍需相として戦争経済を取り仕切った。戦後国際連盟国際労働局長などを歴任した。
ドリオ(Jacques Doriot 1898-1945)・・・・フランスの政治家。共産党下院議員から1934年に極右に転向し、フランス人民党を結党、ナチスを積極的に支持した。
ドリュ・ラ・ロシェル(Pierre Drieu La Rochelle 1893-1945)・・・・フランスの作家。第一次世界大戦後ダダイズム、シュールレアリスム、共産主義と遍歴した後ファシストに転向した。ヴィシー政権では著名な文学誌「NRF」の編集者としてドイツに協力した。解放後自殺した。
トレーズ(Maurice Thorez 1900-64)・・・・フランスの政治家、共産党員。元社会党左派だったが共産党に参加し、党書記長、国会議員を務めた。人民戦線の推進役で、第二次世界大戦にも参加した。1940年以降はモスクワと連絡を取ってレジスタンス運動に参加し、解放後臨時政府の国務相兼副首相を務めた。その後はド・ゴール独裁に反対し、国際共産主義運動を指導した。
ドロンクル(Eug?ne Deloncle 1890-1944)・・・・フランスの政治家。1937年に極右テロリスト、カグール団が摘発された。ヴィシー政権では反ボリシェヴィズム・フランス義勇軍団を編成、独ソ戦に参加した。
ニヴェル(Georges Nivelle 1856-1924)・・・・フランスの軍人。ジョッフルの後任として陸軍総司令官となった。二月革命後ロシアの脱落前に西部戦線で攻勢をかけることを主張、陸相の反対を押しきって1917年4月に攻勢をかけたが完全に失敗、辞任した。
二月六日事件(le 6 fevrier)・・・・アクション・フランセーズやクロワ・ド・フの反政府デモ行進が下院に押し寄せ、時の急進党のダラディエ内閣が倒された事件。街頭政治によって内閣が倒されたのは第三共和制始まって以来のことであった。
パリ講和会議(1919-20)・・・・第一次世界大戦の講和会議。32カ国が参加し、1919年1月開催された。敗戦国は参加を許されず、ソ連への干渉戦争も続いていた。会議を主導したのは米英仏伊の四大国で、アメリカのウィルソン大統領の14ヶ条に基づき、国際協調、民族自決を原則とし、東欧諸国の独立、国際連盟設立が決められた。しかしイギリス、フランスに対しては植民地獲得の要求が認められてしまった。また、東欧以外の地域では民族自決は貫徹されなかった。会議の結果、ヴェルサイユ条約、サン・ジェルマン条約、トリアノン条約、ヌイイ条約、セーブル条約が結ばれた。なおフィウメ問題は持ち越され、また中国代表は調印を拒否した。
パリ不戦条約(Treaty for the Renunciation of War 1928)・・・・ケロッグ・ブリアン協定とも呼ばれる。1928年8月15カ国が、のちに63カ国が加わって調印され、国際紛争解決及び国策遂行の手段としての戦争を放棄した。戦争違法化の上で大きな意味を持ったが、条約は抽象的で第二次世界大戦を阻止できなかった。
バルトゥー(Jean Louis Barthou 1862-1934)・・・・フランスの政治家、首相(1913)。穏健共和派に属し、首相としては兵役を延長し第一次世界大戦の準備を進めた。ジュネーブ軍縮会議に出席し、1934年外相として東欧の小協商、ソ連と連携してドイツに対抗しようとしたが、ユーゴ王とともに暗殺された。
パンルヴェ(Paul Painlev? 1863-1933)・・・・フランスの数学者、政治家、首相(1917,25)。エコール・ポリテクニク(工科大学校)教授を務めたあと共和社会党から政界入りした。大戦中の一時期首相兼陸相を務め、戦後も左翼連合を組織、下院議長、陸相、航空相などを歴任した。
ブイッソン(Fernand Bouisson 1874-1959)・・・・フランスの政治家、首相(1935)。短期間首相を務めた。
フェーソー(Faisceau 1925-28)・・・・イタリア・ファシズムの影響を受けヴァロワによって結成された右翼団体。反議会主義的コルポラティズムを標榜したがすぐに解散した。
フォッシュ(Ferdinand Foch 1851-1929)・・・・フランスの軍人。第一次世界大戦でマルヌの戦いを指揮してドイツ軍の進撃を阻止した。イープルの戦いや1918年のドイツ軍の大攻勢に際しても活躍し、連合軍の勝利に貢献した。戦後も対独強硬路線を主張した。
フォール(Paul Faure 1878-1960)・・・・フランスの政治家。社会党書記長としてミュンヘン協定に賛成、ブルムと対立した。
ブスケ(Ren? Bousquet 1909-93)・・・・フランスの官僚。警察長官としてヴェル・ディブ事件に関与した。
仏伊ローマ協定(Patto di Roma)・・・・1935年1月7日、フランス外相ラヴァルとムッソリーニとの間で調印された。フランスはアフリカの植民地の一部をイタリアに譲る代わり、チュニジアのイタリア系住民問題を解決した。ラヴァルはこのとき、イタリアのエチオピア征服を了承した。
仏ソ相互援助条約(France-Soviet Treaty of Mutual Assistance 1935)・・・・1935年5月2日パリで調印されたフランスとソ連の相互援助条約。ドイツの再軍備宣言に対抗し、国際連盟の枠内にとどまるが、フランス側は批准を先延ばしにし、ドイツはロカルノ条約違反と非難した。
仏独委員会(Comit?-France-Allemagne 1935)・・・・リッベントロップ機関の努力でフランスに結成されたドイツとの友好を図る団体。フランス政府の後援を受けていたがナチスの宣伝機関と化し、後の対独協力者を輩出した。
ブラジャック(Robert Brasillach 1909-45)・・・・フランスの文筆家。仏独委員会出身で、ファシズム知識人となった。反ユダヤ主義を鼓舞したが解放後処刑された。
フランス共産党(Parti Communiste Francais PCF 1920)・・・・社会党はロシア革命の評価をめぐって分裂し、多数派がフランス共産党を結成した。PCFはモスクワの第三インターナショナルに忠実に従ったため国民には違和感をもたれ、党勢は伸び悩んだ。
フランス国民解放委員会(Comit? Fran?ais de Lib?ration Nationale CFLN 1943)・・・・ド・ゴールとジローの二人を議長として結成された。これによりド・ゴールはアルジェのフランス勢力を取り込み、翌年6月2日には共和国臨時政府へと発展した。
フランス社会党(Parti Social Fran?ais PSF 1936)・・・・クロワ・ド・フが衣替えしてできたSFIOとは正反対の極右政党。
フランス人民党(Parti Populaire Fran?ais 1936)・・・・共産党を除名されたドリオが結成したファシズム政党。ムッソリーニから資金援助を受け、財界ともパイプを持った。ヴィシー政権下では積極的な対独協力に奔走した。
フランスの戦い(Battle of France 1940)・・・・フランスでは、マジノ線の強固さに関する過信から、対独戦楽観論が支配的であったが、ダンケルク作戦を経てそれは根底から揺らいだ。1940年6月、ドイツ軍はフランスに攻撃を開始し、一気に数カ所でマジノ線を突破した。6月10日にはイタリアもフランスに宣戦を布告し、連合国軍は撤退を余儀なくされた。6月14日パリは陥落し、勝ち誇ったドイツ軍はシャンゼリゼ通りを行進した。フランス政府は南フランスに逃れたが、22日休戦協定に調印した。22年前ドイツが第一次大戦の休戦協定に調印した同じ車両をわざわざ博物館から運んできての、フランスにとって屈辱的な休戦だった。北フランスはドイツが併合、南フランスにはヴィシー政府が成立した。多くの人々がその後もレジスタンス運動でドイツに抵抗したといわれるが、一方でドイツへの協力者も後を絶たなかった。
フランダン(Pierre Eienne Flandin 1889-1958)・・・・フランスの政治家、首相(1934-35)。民主連合委員長を務めるなどして首相になったが後にヴィシー政府の外相となった。1946年対独協力罪で五年間市民権剥奪を宣告された。
ブリアン(Aristide Briand 1862-1932)・・・・フランスの政治家で、首相(1909-11,13,15-17,21-22,25-26,29)。実に11回も首相に選ばれた。最初ジョレス派社会党代議士として、1905年政教分離法を成立させた。翌年離党し、労働運動を弾圧して社会主義から離れた。第一次世界大戦後は外相(25-32)を務め、ワシントン会議、ロカルノ条約、パリ不戦条約と集団安全保障の実現に努力した。ノーベル平和賞を受賞し、晩年はヨーロッパ合衆国構想をとなえた。
ブリノン(Fernand de Brinon 1885-1947)・・・・フランスのジャーナリスト。ヴィシー政府のパリ代表としてドイツに協力、解放後ドイツに逃亡したが戦後処刑された。
ブルム(L?on Blum 1872-1950)・・・・フランスの政治家、首相(1936-37,46)。第一次世界大戦後、統一社会党の指導者として1936年には人民戦線内閣の首相となった。社会政策を行ったが経済政策には失敗した。外交ではスペインへの不干渉が国民の失望を招いた。第二次世界大戦中はドイツに抑留され、戦後暫定内閣を組織した。
ペタン(Henri Philippe Petain 1856-1951)・・・・フランスの軍人、政治家。第一次世界大戦のヴェルダンの戦いで国民的英雄となった。1940年ドイツとの休戦を主張し、ヴィシー政府の首班としてドイツに協力した。フランス解放後、反逆罪で終身禁固刑になり、服役中に死亡した。裏切り者か愛国者か、いまだに評価の別れる人物。
ボナール(Abel Bonnard 1883-1968)・・・・フランスの作家。1941年のヴァイマール国際作家会議に出席するなどドイツに協力した。
ボネ(Georges Bonnet 1889-1973)・・・・フランスの政治家。急進社会党員で1937年蔵相、1938年外相としてミュンヘン協定に参加した。敗戦後はドイツ軍に協力、1944年亡命した。
ポール・ボンクール(Joseph Paul-Boncourt 1873-1972)・・・・フランスの政治家、首相(1932-33)、外相(1933,38)。社会共和同盟を結党し、上下両院の議員、陸相、国際連合創立会議代表などを歴任した。
ポワンカレ(Raymond Poincar? 1860-1934)・・・・フランスの政治家、首相(1912-13,22-24,26-29)、大統領(1913-20)。1887年保守派の下院議員になり、第一次世界大戦前には三国協商の推進や、軍備拡張を進めた。戦後はルール占領を実行し、経済財政問題に取り組んだ。
ポワンカレ・フラン(1928)・・・・総選挙後の6月25日、ポワンカレ首相兼蔵相はフランを80%切り下げ、一フラン=金65.5?とするポワンカレ・フランの導入に踏み切った。フランの金との兌換性が復活し、強いフランが復活した。
マジノ(Andr? Maginot 1877-1932)・・・・フランスの政治家。1910年初当選し、陸相(1922-24,26-31)としてドイツとの国境の要塞化を進め、マジノ線と呼ばれた。なお、マジノ線の堅固さに対する過信が、マジノ線心理といわれる対独戦楽観論を生んだといわれる。
マティニョン協定(Accords Matignon 1936)・・・・激発するストを収拾するため労使間で結ばれた協定。就任したばかりのブルム首相の仲介で6月7日に調印された。ストの中止と引き替えに労働時間短縮、有給休暇の義務づけなどが約束された。
マルヌの戦い(Marne 1914)・・・・1914年8月、ドイツ軍は短期決戦のつもりで西部戦線で進撃を開始した。フランス軍は9月5日、必死の反撃を開始した。6万の増援軍が送られ、9月10日までにドイツ軍の進撃をくい止めた。ここに今までなかった塹壕戦という戦いが始まり、戦況は長い膠着状態に陥った。
マンデル(Georges Mandel 1885-1944)・・・・フランスの政治家。クレマンソー派で1938年植民相、40年内相を務めた。対独主戦論者で、対独協力に反対してドイツに処刑された。
ミュンヘン会談(Munichois Conf?rence 1938)・・・・ナチス=ドイツはドイツ系住民の多いことを理由にチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。そこで英仏独伊4カ国首脳は1938年9月29日-30日会談し、ミュンヘン協定でドイツの要求を受け入れた。この会議にはチェコスロバキアもソ連も参加できず、宥和政策の頂点といわれる。
ムーラン(Jean Moulin 1899-1943)・・・・フランスの政治家。ド・ゴールの意を受けて1942年フランスに潜入、CNRを結成してその議長となったがドイツ軍に逮捕、処刑された。
モラス(Charles Maurras 1868-1952)・・・・フランスの詩人、思想家。反ドレフュス派で王党派としてアクション・フランセーズを結成した。超国家主義者で第二次世界大戦後は対独協力者として終身禁固刑に処せられた。
宥和政策(Appeasement Policy )・・・・1930年代に、イギリス、フランスがナチスに対してとった妥協的な政策を指す。英仏はドイツの侵略に対し、小国を犠牲にして平和を得ようとしたが、ファシズムを増長させるだけに終わった。ミュンヘン会談が宥和政策の典型といわれる。
四カ国条約(Four Power Pacific Treaty 1921)・・・・ワシントン会議中、1921年12月英米日仏間で成立した、正式名称「太平洋における島嶼たる属地および島嶼たる領地に関する四カ国条約」。太平洋の領土に関する現状維持と、紛争の平和的解決を定め、日英同盟を終了させた。
ラヴァル(Pierre Laval 1883-1945)・・・・フランスの政治家で、首相(1931-32,35-36,42-44)を務める。当初左派であったが次第に右傾化し、ドイツへの敗戦後はヴィシー政権の成立に重要な役割を果たした。その後もドイツに協力を続け、解放後反逆罪で処刑された。
ラマディエ(Paul Ramadier 1888-1961)・・・・フランスの社会党政治家、首相(1947)。ペタン政権に反対し、戦後再び下院議員となり産業の国有化を進めた。
ラ・ロック(Fran?ois Casimir de La Rocque 1886-1946)・・・・フランスの軍人。第一次世界大戦後ポーランド、モロッコでの戦争に参加した。1928年クロワ・ド・フを結成し、1936年にはフランス社会党(PSF)を結党した。のちにはレジスタンス運動に関わった。
リュシェール(Jean Luchaire 1901-46)・・・・フランスのジャーナリスト。仏独委員会を通じてナチスに親近、ヴィシー政権でも「フランス新聞全国同業組合」の責任者として言論統制に協力した。
ルブラン(Albert Lebrun 1871-1950)・・・・フランスの政治家、大統領(1932-40)。左翼共和党下院議員として、植民相などをつとめた。第一次世界大戦後は上院議員、上院議長を経て、第3共和制最後の大統領になった。1940年敗戦を前に引退した。
レイノ(Paul Reynaud 1878-1966)・・・・フランスの政治家、首相(1940)。いくつかの閣僚を務めたあと1940年3月に首相となったが、ドイツ軍に敗れ6月に辞職した。
レジスタンス運動(Mouvement de R?sistance)・・・・第二次世界大戦中、枢軸国の占領下に置かれた、フランスや東欧各地で見られた抵抗運動を指す。特にフランスでは、多数の人々が参加して、新聞の発行、ドイツ軍へのテロ、サボタージュを行い、フランスの解放に大きな役割を果たした。
ロカルノ条約(Locarno Pact 1925)・・・・イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、ポーランド、チェコの7カ国が、スイスのロカルノで調印した集団安全保障条約。仏独国境の現状維持、チェコ、ポーランドとフランスとの相互援助条約、ドイツの国際連盟加盟を内容とした。この条約でヨーロッパは安定し、ロカルノ体制と呼ばれる。
ローザンヌ会議(Lausanne Conference )・・・・スイスのローザンヌで開かれた国際会議。(1)1922年11月-23年7月、トルコと連合国との間で開かれ、セーヴル条約を破棄し、トルコの独立を決定した。(2)1932年6月-7月、世界恐慌によりドイツ経済が崩壊の危機に瀕したため開かれた。賠償金の大幅削減を決めた。
ワシントン会議(Washington Conference1921-22)・・・・第一次世界大戦後、日本の進出を押さえるために、アメリカが開催した国際会議。米英日仏伊、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国が参加し、中国、太平洋問題について協議した。その結果、四カ国条約、九カ国条約、海軍軍縮条約が結ばれ、日本の膨張は押さえられた。そのかわり日米関係はその後緊張することになった。
ワシントン海軍軍縮条約(1922)・・・・1922年2月、米英日仏伊の間で、「海軍軍備関する条約」が結ばれた。主力艦の保有トン数を、順に5:5:3:1.67:1.67に制限した。