5分でわかるフリートラントの戦い
by
sekaishi1
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公開
· 更新済み
フランス帝国 |
VS |
ロシア帝国 |
ナポレオン1世 |
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ベンニグセン |
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80000 |
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60000 |
背景
アイラウの戦い後もフランス軍は進撃を続け、5月にはダンツィヒを落とし、5月27日にプロイセン軍守備隊が降伏した。一方、ロシア軍はプロイセンの臨時首都ケーニヒスベルクを拠点として態勢を立て直した。
6月にロシア軍は活動を再開したものの、同月10日にハイルスベルクの戦いでミュラ率いるフランス軍破れ、東プロイセンを南北に流れるアレル川東に後退する。
ナポレオンは、後退するロシア軍ではなく、ケーニヒスベルクを叩こうと兵を進めた。これに対してロシア軍は、フランス軍の中で最も東側にいたランヌ軍団を叩こうと、ケーニヒスベルク南東約50キロメートルに位置するフリートラントにおいて、再びアレル川を渡り、6月14日にアレル川を背に布陣した。
経過
午前9時、フリートラントのフランス軍の先遣隊がロシア軍の攻撃を受けて撤退した。とはいえ、ランヌと騎兵部隊を率いるグルーシー将軍は劣勢の兵力で、後退しつつ上手く本隊の到着まで時間を稼ぐのに成功する。また、ロシア軍は急いでフリートラントまで来たため、準備が十分ではなかったことも、フランス軍の時間稼ぎの一助となった。それからは続々とフランス軍の各隊が集結し、最終的には80000にもなった。
午後5時にフランス軍の砲撃が開始され、中央ののランヌが敵の注意をひきつけるおとりとして他の部隊に先んじて、ロシア軍中央を攻撃する。続いて、三日月の形に布陣していたフランス軍が総攻撃を開始する。ロシア軍右翼は反撃を開始するも、ナポレオンの近衛兵により食い止められ、失敗する。
午後8時にはバグラチオンの攻撃を退けたネイがフリートラントの街に突入し、戦いの流れは完全にフランス軍のものとなった。
午後11時、ロシア軍の敗走によって戦いは終了した。
この戦いにより、フランス軍は8000人を失ったのに対し、ロシア軍は20000人の死者を題した。
その後
この勝利が決定的となりフランスは、7月7日にはロシアと、9月にはプロイセンと「ティルジット条約」を結んだ。この条約によってプロイセンは18世紀後半に手に入れたポーランド領を失い、そこにはフランスの衛星国であるワルシャワ大公国(君主はザクセン王)が成立する。さらにハノーヴァー選帝候国、プロイセン領だったエルベ川とライン川の間はナポレオンの兄ジェロームが国王を勤めるウェストファリア王国が置かれ、ダンツィヒは自由都市となり、プロイセンの支配から外れた。これらの領土喪失によってプロイセン王国の人口一千万は半分になった。 |