10分でわかるイギリス政治史
イギリス政治史(1815-1914)
アイルランド自治法案(第一次)(Irish Home Rule Bill 1886)・・・・アイルランド国民党との提携の必要から第三次グラッドストン内閣はアイルランド自治法案を提出した。内容は外交、税制、通貨などを除く自治権を持つアイルランド議会の設置というカナダ並の自治権付与を定めていたが、保守党、自由党造反派の反対であえなく否決された。自治反対派は離党し自由統一党を結成し、総選挙でも保守党が大勝したためグラッドストン内閣は倒れた。
アイルランド自治法案(第二次)(Irish Home Rule BIll 1894)・・・・政権に復帰した第四時グラッドストン内閣はまたしてもアイルランド自治を導入しようとしたが今度も上院の反対にあって失敗した。
アイルランド自治法案(第三次)(Irish Home Rule Bill 1912)・・・・アスキス内閣はアイルランド国民党との連携の必要から自由党として三度目の自治法案を提出した。内容は第一次法案と同じだったが、今度はアルスターの分離をめぐって事態は紛糾した。アイルランド義勇軍とアルスター義勇軍との間で内乱の危機が深まる中、1914年3月自治法案は下院を三度通過したため議院法に基づき成立した。調停の努力は失敗したが第一次世界大戦の勃発により問題は一時的に棚上げされた。
アイルランド土地法(第一次)(Irish Land Act 1870)・・・・グラッドストン内閣が制定したが、プロテスタントのアングロ・アイリッシュ系地主にカトリックのアイルランド人小作人の窮乏という構図のアイルランド土地問題の解決にはほとんど効果はなかった。
アイルランド土地法(第二次)(Irish Land Act 1881)・・・・第二次グラッドストン内閣は再度土地問題に取り組み、小作権の保障、土地裁判所の設置、適正地代を定めた。
アスキス(Herbert H Asquith 1852-1928)・・・・イギリスの政治家で首相(1908-16)を務めた。自由党議員として内相、蔵相をへて組閣した。1911年に議院法で下院の優越を定め、婦人参政権運動、アイルランド自治問題、第一次大戦の危機に直面した。戦争指導への批判が高まり辞職した。
アバディーン(George Hamilton Gordon Aberdeen 1784-1860)・・・・イギリスの政治家、首相(1852-55)。ウェリントン、ピール内閣の外相を務めた自由貿易論者で、穀物法問題でもピール派にしたがった。連立政権の首相に就任したが、クリミア戦争での不手際で辞職した。
アフリカ縦断政策(Cape-to-Cairo Project)・・・・ケープタウンからカイロまでの植民地を獲得しようとするイギリスの政策。アフリカ縦断鉄道を計画し、エジプトからスーダンへと征服を進めた。
ヴィクトリア女王(Victoria 1819-1901 イギリス王 位 1837-1901)・・・・叔父のウィリアム4世の死去により即位し、メルバーン首相や夫ギルバート公の指導で立憲君主としての責務を全うし、国民から尊敬された。1861年のギルバート公死後は喪に服し義務を怠ったが、1877年にはインド皇帝の称号も受けた。イギリス王としての在位は最長で、それはちょうどイギリス帝国の栄光の絶頂期と重なっていた。
ウィリアム4世(William ? 1765-1837 イギリス王 位 1830-37)・・・・兄ジョージ4世の死により即位し、第一回選挙法改正に努力した。議会の過半数の支持を受けていたメルバーン内閣を国王大権で更迭したが、そうした行為はその後の国王には見られなかった。
ウィーン会議(Wiener Kongre?1814-15)・・・・フランス革命ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパの秩序回復をはかった国際会議。1814年9月から翌年6月まで開かれた。ロシア、オーストリア、イギリス、プロイセンの4大国が主導権を握ったが、領土配分をめぐって協議は遅々として進まず、「会議は踊る、されど進まず」といわれた。ナポレオンの百日天下を機に列国は妥協に向かい、6月9日121条にわたるウィーン議定書が調印された。諸国民の民族主義的、自由主義的要求は認めず、革命以前の王朝を正統とする正統主義、列強の勢力均衡を原則とした。主な内容としては、フランスではブルボン家が復活、教皇領の復旧、ナポリにブルボン家が復活、サルディーニャ王国はジェノバを併合、ドイツ諸邦は、34君主国、4自由市からなるドイツ連邦を結成した。ほかスイスの永世中立化、オランダのベルギー併合、ロシアのポーランド獲得、オーストリアのヴェネチア、ロンバルディア獲得、プロイセンのザクセン、ラインへの領土拡張、イギリスはケープ植民地、セイロン島を獲得した。
ウィーン体制・・・・ウィーン会議によって樹立されたヨーロッパの国際秩序で、復古主義を旨とする反動体制であった。神聖同盟、四国同盟によって担保され、諸国はメッテルニヒの指導で各地の民族運動、自由主義運動を弾圧したが、ギリシャの独立や30年の諸革命によって動揺し、48年二月革命と三月革命によって崩壊した。
ウェッブ(Sidney James Webb 1859-1947 Beatrice Webb 1858-1943)・・・・シドニー・ウェッブは法律家で、フェビアン協会で活躍していた。1892年ビアトリスと結婚後、協力して社会、労働問題に著作を発表した。シドニーは1914年以降労働党の指導者となり、1918年には新綱領「労働階級と新社会秩序」を起草した。のちに商務相、植民相を務めた。
ウェリントン(Arthur Wellesley Wellington 1769-1852)・・・・イギリスの軍人、政治家。はじめフランス革命軍と戦い、後にインドに転戦した。イベリア半島でフランス軍に対する戦いを指揮し、1815年にはワーテルローの戦いでイギリス軍の英雄となる。そのご政治活動に復帰し、首相(1828-30)にも就任し、カトリック教徒解放法を保守派の反対を押して成立させた。
ウェールズ(Wales)・・・・ブリテン島西南部をしめる連合王国を構成する国の一つ。16世紀にヘンリ八世のころイングランドに併合されたが、最近史上初めてウェールズ議会が設置された。
栄光ある孤立(Splendid Isolation)・・・・19世紀後半、他のヨーロッパ列強がこぞって同盟関係を結んだのに対し、イギリスは軍事力や経済力で他国より優れていたので、戦争のリスクを負うことになる同盟に頼る必要がなかった。そこで当時のイギリスの国際関係における地位を「栄光ある孤立」と呼ぶ。しかし他の列強との競争が一層激しくなると、1902年日英同盟を結んで「栄光ある孤立」を放棄せざるをえなかった。
英仏海軍協定(Anglo-French Naval Agreement 1912)・・・・第三国の攻撃を受けた際、両国の参謀本部が協議を行うことを定めた協定で、ドイツを目標とした軍事協定だった。
英仏協商(Anglo-French Entente 1904)・・・・ファショダ事件後、英仏両国は接近し、ドイツへの対抗から協力関係を結ぶにいたった。当初は世界中での英仏の植民地の利害の妥協を定めたものだったが、後に三国協商に発展し、第一次世界大戦の国際関係を決定したという意味で重要である。
英仏通商条約(1860)・・・・両国の交渉役の名前を取ってコブデン・シュヴァリエ条約ともいう。英仏間で関税を引き下げ、自由貿易の原則を確認した。第三国との貿易にも自由貿易が適用されることになっていたので、これでヨーロッパ中に自由貿易が広まった。
英露協商(Anglo-Russian Entente 1907)・・・・イギリス、ロシアはインド周辺の植民地、ペルシアをめぐって長年対立してきたが、ドイツへの対抗上、妥協するにいたった。これによって三国協商が完成した。
エドワード7世(Edward ? イギリス王 位 1901-10)・・・・ヴィクトリア女王の長男で、皇太子時代にはいくつかのスキャンダルをおこし、即位してからは王室外交を展開した。
エンクロージャー(第二次)(enclosure)・・・・16-17世紀前半の第一次エンクロージャーに対して、18世紀から19世紀にかけてのものは第二次エンクロージャーと呼ばれる。この第二次囲い込み運動では、議会の立法に基づいて、広大な土地を囲い込み、農業の資本主義化を合法的に進めた。その結果多数の農民は賃労働者となった。それとともに伝統的なヨーマンリーも没落していった。
オーウェン(Robert Owen 1771-1858)・・・・イギリスの社会主義者で、1800年にニュー・ラナーク紡績工場の経営者として、「モデル共同体」を作り上げた。労働者の生活改善、年少者の教育に努め、社会の改善による人格の改良を主張した。オービストンやアメリカのニュー=ハーモニーのような実験村で自分の理論を実践したが、失敗した。34年には全国労働組合大連合を組織したが、これもストの方針をめぐってすぐに解体した。晩年には心霊主義者となった。マルクス主義の立場からは、サン・シモンらとともに空想的社会主義者とされる。
オコンナー(Feargu Edward O’connor 1794-1855)・・・・イギリスの政治家で、チャーティスト運動の指導者。32年下院議員となったが35年失職し、チャーティスト運動を指導して47年議員に復帰した。
カスルレー(Robert Stewar Viscount Castlereagh 1769-1822)・・・・イギリスの政治家。アイルランド出身で、ホイッグ党からトーリー党に転校し、アイルランド相を務めた。1809年カニングと決闘を行い、リヴァプール内閣の外相として、フランスとの戦争に活躍した。ウィーン会議でイギリスを代表し、会議外交を主張した。保守反動の政治家とされるが、人気は高かったという。
カトリック教徒解放法(Catholic Emancipation Act 1829)・・・・イギリスの自由主義的改革の一つで、カトリック教徒にもほとんどの公職を解放した。これは1801年併合したアイルランドの民族運動に対応した。
カニング(George Canning 1770-1827)・・・・イギリスの政治家で、首相(1827)。トーリー党の下院議員を務め、1807年外相となったが、09年陸相カスルレーと決闘を行い、負傷した。22年再び外相として、イギリス製品の市場獲得のため諸国の自由主義的運動を支援、ラテンアメリカ諸国の独立を支援し、モンロー宣言を支持、ギリシャの独立も支持した。27年念願の首相となるが、わずか4ヶ月で病死した。
議院法(Parliament Act 1911)・・・・予算に関わる上院の拒否権廃止、下院で三度可決された法案は上院の否決を無視して法律とされること、下院議員の任期を5年とすることを定めた。上院は猛反対したが、自由党は新貴族を創設してでも法案を通そうとしたため、保守党弥縫派が賛成に回り、上院でも可決された。
キャンベル・バナマン(Henry Campbell-Bannerman 1836-1908)・・・・イギリスの政治家、首相(1905-08)。自由党下院議員からアイルランド相、陸相、自由党党首を経て首相に就任した。南アフリカにボーア人の自治を認め、国内の選挙でも勝ったが、病気により辞任した。
救貧法(Poor Law)・・・・エリザベス1世時代から存在したイギリスの貧民救済法。救貧法でいう救貧院とは、外の社会でえられる最低限度以下の生活を保障することを原則とした。すなわち、院外で働いた方が高い生活水準がえられるようにすることで堕落を防ごうとした。そのために救貧院で入所者に行わせる作業も徒労と思われるものが多かった。院外での救助は1834年以降廃止された。今世紀に入ってからはその他の近代的な社会保障制度が充実した。
教育法(Education Act 1880)・・・・1870年のフォスター教育法をさらに進め、児童の就学を義務化した。1891年には初等教育の無償化も実現し、大衆教育の時代となったが宗教教育や教育体系、技術教育をめぐって争いは絶えなかった。
禁酒運動(temperance campaign)・・・・労働者の飲酒を撲滅しようとする19世紀的な社会運動。一時チャーティスト運動や労働運動と結合したが、その後は純粋に道徳的な運動になった。プロテスタンティズムとは必ずしも同一ではなかった。
グラッドストーン(W.E.Gladstone 1809-98)・・・・イギリスの保守党、後に自由党党首の政治家で、首相(1868-74,80-85,86,92-94)。イートン校、オックスフォード大学で学び、1832年保守党の下院議員となる。穀物法廃止でピールを支持し、保守党から離れる。蔵相を2回勤めたあと67年自由党党首となり、組閣した。アイルランド国教会の廃止、教育、軍制、司法の改革を行った。アイルランド自治法を2回にわたり議会に提出するが、いずれも否決された。1884年第三回選挙法改正で農業、鉱山労働者に選挙権を与え、翌年には小選挙区制を原則とした。
クリミア戦争(Crimean War 1853-56)・・・・かねてより南下政策を進めていたロシアは、イェルサレムの聖地管理権を口実にオスマン・トルコ帝国と開戦したが、ロシア艦隊がシノーペの海戦で勝利すると、イギリス、フランスがトルコ側で参戦した。イギリス軍2万、フランス軍3万、トルコ軍6千の連合軍はクリミア半島に上陸、ロシア軍5万の立てこもるセヴァストポリ要塞を攻撃した。1855年9月に要塞は陥落し、翌年のパリ条約ではオスマン帝国の領土保全、黒海の中立化などが決められた。この戦いは後進的な農奴制ロシアの西欧への敗北であり、南下政策は挫折した。また、オーストリアがロシアに味方しなかったことで、神聖同盟以来の両国関係に亀裂が生じ、ドイツ、イタリアの統一を容易にした。
クリューガー(Paul Kruger 1825-1904)・・・・第一次ボーア戦争で活躍し、1883年南アフリカ共和国大統領となる。金鉱の発見後は、、ドイツやオランダから援助を求めて、イギリスに対抗した。1896年イギリス軍を撃破したとき、ヴィルヘルム2世から祝電を受けた。(クリューガー電報事件)これはドイツにとってイギリスの反独感情を高めただけだった。第二次ボーア戦争ではヨーロッパに亡命して、抗戦を叫んだ。
グレー(Charles Grey 1764-1845)・・・・イギリスのホイッグ党政治家で、首相(1830-34)。1790年代には議会改革の指導者となった。ナポレオン戦争期に海相、外相を務めた。1830年ウェリントンのあとを受けて組閣した。懸案の議会改革に取り組み、32年国王大権で上院を威嚇してまで第一回選挙法改正を行った。他に植民地における奴隷制廃止を行ったが、アイルランド問題をめぐって辞職した。
グレー(Edward Grey 1862-1933)・・・・イギリスの自由党政治家で、外相(1905-16)として英露協商の締結、バルカン戦争の処理、第一次大戦の開戦などに当たった。
建艦競争・・・・1897年ヴィルヘルム2世は海軍拡張論者のティルピッツを海相に迎え、世界の制海権を握っていたイギリスとの間に建艦競争が始まった。ドイツが建艦法によって7年間で12隻の戦艦の建造などを決めると、イギリスはドレッドノート級の戦艦を建造した。ドイツ側も1900年、06年とさらなる軍拡を決定し、イギリスも08年ド級戦艦計画を決めるなどと競争は発展していった。やがてイギリスはフランスと結んでドイツを押さえる政策に出ることになった。
公衆衛生法(Public Health Act 1875)・・・・長年懸案だった都市問題に対して、ディズレーリ内閣は上下水道の整備、清掃、道路舗装などを全国的に進めた。
工場法(Factory Acts)・・・・1802年、幼少者の12時間労働を規定した法律が最初で、以後何度も改正された諸法令をさす。19世紀にはオーウェンやシャフツベリ7世の努力で、徐々に労働者の労働条件は改善されていった。この種の労働者立法は、産業革命の進展とともに各国に広まっていった。
穀物法(Corn Laws 1815)・・・・ナポレオン戦争終結の際に、ロシア産の安価な穀物の流入を防ぎ、イギリス本国の農業を保護するために制定された法律。国内価格が1クオーター80シリング以上の時は外国産の穀物の輸入を禁止した。のちに関税方式に改められたが、反穀物法同盟が結成され、1846年ピール首相の決断により廃止された。
コブデン(Richard Cobden 1804-65)・・・・イギリスの商人、政治家。キャラコ業者で、自由貿易運動の指導者だった。穀物法はロシア恐怖症であると痛烈に批判し、1839年反穀物法同盟を結成し、下院議員となった。46年穀物法廃止に成功し、60年フランスと通商条約を結んだ。
三国協商(Triple Entente)・・・・露仏同盟、英仏協商、英露協商を総称していう。後者二つは植民地の勢力範囲の調停だが、事実上三国同盟に対抗するブロックの形成を意味した。
3C政策・・・・19世紀後半、イギリスはケープタウン、カイロ、カルカッタをむすぶ三角形を勢力下に収めようとした。スエズ運河株買収から、ディズレーリ、ジョセフ・チェンバレン、セシル・ローズらが推進した。この政策はフランスのアフリカ横断と鋭く対立した。
ジェントルマン(gentleman)・・・・19世紀イギリスのジェントルマンとは教養があり、地方に土地と邸宅を持ち、地代や金利で生活でき、植民地官僚、投資家、あるいは議員でもある、一言で言えば社会の最高層である。単なる成り上がり者はオックスブリッジで学んだ教養がないため、ジェントルマンにはなりえない。ジェントルマンの文化的、社会的ヘゲモニーは強固だったが、ヴィクトリア中期には中産階級や成金がジェントルマンの真似をするスノビズムの傾向が見られた。
四国同盟 (1815)・・・・オーストリア、ロシア、イギリス、プロイセンの間で結ばれたウィーン体制維持のための同盟。18年にフランスが加わるが、後にイギリスは脱退する。
社会主義(Socialism)・・・・私有財産制の廃止、あるいは制限によって社会的不平等の是正を図ろうとする思想を指す。オーウェンがはじめて社会主義という言葉を使用したとされるが、サン・シモン、フーリエが初期の社会主義の代表者。のちにマルクス主義が主流になったが、アナキズムや修正主義も登場し、今世紀には社会民主主義や共産主義に発展した。
イギリスでは19世紀前半の急進主義運動の時代以来社会主義は低迷していたが1880年代になってようやくハインドマンらの運動が復活した。
シャフツベリ7世(Anthony Ashley Cooper Shaftesbury ? 1801-85)・・・・イギリスの政治家、慈善家。産業革命期の工場労働者の惨状を改善しようとする運動を指導し、1833,47,59年の工場法の成立に尽くした。また、国教会の福音主義運動も指導した。
自由主義(Liberalism)・・・・封建的な束縛からの政治的、経済的自由を求める市民階層の思想を指す。イギリスにおいては名誉革命後に政治的自由ならびに資本主義の発展に不可欠な経済的自由が希求された。経済的自由主義は古典派経済学で表現されている。一方中東欧では、19世紀にナショナリズムと結合して政治的自由を求める運動が行われ、1848年革命にいたった。
自由党(Liberal Party)・・・・イギリスの政党で、元のホィッグ党。グレー内閣の頃に自由党と呼ばれるようになり、ピール派を吸収して近代的な政党となった。パーマストン、グラッドストンの頃全盛期を迎え、自由主義的改革を行い、第一次世界大戦前には社会政策に力を入れたが、戦後労働党に代わられた。1987年社会民主党と合同して消滅した。
自由統一党(Liberal Unionists)・・・・イギリスの政党で、1886年グラッドストンのアイルランド自治法案に反対するジョゼフ・チェンバレンら約100名の議員が自由党を離党して結成した。やがて彼らは保守党と合同し、一時統一党と呼ばれた。1903年分裂し、チェンバレンの引退とともに消滅した。
ショー(George Bernard Shaw 1856-1950)・・・・イギリスの作家、社会主義者。フェビアン協会に所属し、社会主義の普及に努めた。批評家、劇作家としても評価が高く、1935年ノーベル文学賞を受賞した。
小英国主義(Little Englandism)・・・・19世紀半ばに自由貿易主義者達が、負担の大きい植民地の獲得に反対した思想を指す。しかしカナダやオーストラリアの自治権付与にしても独立を避けるために名を捨てて実を取った面が強く、小英国主義の現れと見ることは出来ない。
ジョージ4世(George ? 1762-1830 イギリス王 位 1820-30)・・・・父王の精神異常により1810年から摂政を務めた。カトリック教徒との結婚問題によるスキャンダルで知られる。
初等教育法(Elementary Education Act of 1870)・・・・第二次選挙法改正により選挙権を得た人々を教育する必要から、私立学校のない地域で国家が初等教育を行うことが定められた。これによりイギリス人のほとんどは初等教育を受けられるようになった。
審査律(Test Act 1673-1828)・・・・イギリスで公職に就くものは、国王に忠誠を誓い、国教会式の儀式を受けねばならないとした。これは非国教徒の公職就任を禁止したもので、自由主義の高まりとともに1828年廃止された。
人民憲章((People’s Charter)・・・・イギリスのチャーティストがその主張をまとめたもの。無記名秘密投票、男子普通選挙、議員の財産資格撤廃と歳費支給、選挙区の平等、毎年選挙などを要求した。
スエズ運河(Suez Canal)・・・・紅海と地中海に運河を作ろうという計画は古代からあったが、1869年フランス人技師レセップスによってこの全長160キロの運河は完成された。しかし1875年にイギリスはスエズ運河株の44パーセントを買収し、1882年にはアラービー・パシャの反乱に乗じて運河地帯を軍事占領した。
スコットランド(Scotland)・・・・連合王国を構成する国の一つで、ブリテン島北部をしめる。1603年以降イングランドと同君連合の関係に入り、1707年両国は合同したが現在ブレア政権の元でスコットランド議会が復活している。
選挙法改正(第一回)(Reform Act 1832)・・・・グレー首相の法案に上院は徹底抗戦を目指し、議会外では急進的運動が盛り上がっていた。結局首相は新貴族を創設することで上院の過半数を獲得しようとしたが、ここにいたって上院も折れ、第一回選挙法改正が実現した。内容は中産階級に選挙権を拡大し、腐敗選挙区をかなり整理したが、ジェントルマン支配はまだまだ揺るぎもしなかった。
選挙法改正(第二回)(Reform Act 1867)・・・・ダービー・ディズレーリ内閣が自由党の機先を制して選挙権拡大に踏み切った。都市の労働者階級に選挙権を与え、若干の選挙区再編を行った。
選挙法改正(第三回)(Reform Act 1884-85)・・・・都市選挙区の戸主選挙権を州選挙区にも拡大した。農業、鉱山労働者にも選挙権を与え、有権者数は440万人に増加した。同時に大幅な議席の再配分を行い、小選挙区制が確立した。
ソールズベリ(Robert Arthur Salisbury 1830-1903)・・・・イギリスの保守党政治家。外相としてベルリン会議に出席し、ディズレーリの死後首相(1885-86,86-92,95-1902)を務める。平和的な帝国主義政策を進めたが、ボーア戦争で失敗した。
第一インターナショナル(The First International 1864-72)・・・・ロンドンで創立された世界初の国際的な労働者組織で、国際労働者協会と呼ばれた。1863年のポーランド反乱に対する労働者の支持運動が契機となって結成された。マルクスが創立宣言と規約を起草した。マルクス派はプルードン派、ついでバクーニン派と対立したが、この組織を通じてマルクス主義は広まった。パリ・コミューンののち、各国政府の弾圧で活動を停止した。
大不況(the Great Depression 1873)・・・・ドイツに始まった全ヨーロッパ的な大恐慌。各国は一斉に保護貿易に向かったが、デンマークとイギリスだけは自由貿易を堅持した。この時期に生産や国民所得は増加したが、農業の衰退は深刻であった。
ダービー(Edward Geoffrey Smith Stanley 14th Earl of Derby 1799-1869)・・・・イギリスの政治家、首相(1852,58-59,66-68)。ホィッグ党の下院議員としてアイルランド相を務め、西インド諸島の奴隷解放法を通過させた。35年保守党に転向し、植民相を務めた。ピール首相の穀物法撤廃に反対し、保守党党首となった。1868年首相として第2回選挙法改正を達成した。
団結禁止法(Combination Acts 1799)・・・・労働組合を非合法化していた法律だったが、1824年に廃止され、全国的な労働者組織が成立するきっかけとなった。
地方自治体法(Local Government Act 1888)・・・・全国を62の州と60の特別市に整理し、州議会を設置した。また地方行政、司法権を州議会に移管した。これによりようやく名望家秩序の解体につながった。なお、1894年にはさらに区議会などが設置された。
チャーティスト運動(Chartists)・・・・1832年の選挙法改正で選挙権が得られなかった労働者階級は、選挙権獲得を要求して人民憲章を掲げ、運動を行った。1839年、42年、48年に議会に署名を集めて請願運動を行い、集会を開いて活動したが、48年以降は政府の弾圧と内部分裂で衰退した。
帝国主義(Imperialism)・・・・19世紀後半、資本主義が高度に発達し、独占資本主義の段階に入った国に現れた先進諸国で見られた対外膨張主義。国によって様々な形態をとったが、1870年代末のイギリスに始まるといわれる。資本の集積を背景に、原料及び市場を求めてイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、日本、アメリカなど列強は対外進出を行い、アジア、アフリカに植民地を獲得、資本投下を行った。一般に帝国主義勢力は国内の左翼、進出先の民族運動を抑圧した。1900年頃世界分割が完了し、以後は列強同士の植民地再分割の動きが激化した。
ディズレーリ(Benjamin Disraeli 1804-81)・・・・イギリスの保守党政治家で首相(1868,1874-80)。初め小説家を目指すが1837年下院議員となる。ピールの自由貿易政策を厳しく批判し、保守党のリーダーになる。ダービー内閣のもと1867年第2回選挙法改正に成功し、都市労働者に選挙権を与える。1875年スエズ運河株を買収し、1877年インド帝国を発足させた。ベルリン会議でも優れた外交手腕を発揮した。
東方問題(Eastern Question)・・・19世紀にはいるとオスマン・トルコ帝国の衰退は覆いがたく、「瀕死の病人」とまでいわれた。これに乗じて起こった帝国領の様々な民族、領土問題をヨーロッパ側から指していう。具体的には二度にわたるエジプト事件、クリミア戦争、露土戦争などを引き起こし、後にはパン・スラブ主義とパン・ゲルマン主義の対立にまでつながっていった。
独立労働党(Independent Labour Party )・・・・イギリスの政党で、1893年ハーディが設立した。労働者代表の議会選出と、社会民主主義的な思想をとなえた。1900年労働代表委員会に再編され、のちの労働党となった。第一次世界大戦中は反戦を貫き、戦後労働党内閣が社会主義政策を実現しないことを批判し、32年労働党から分裂した。
トーリー・デモクラシー(Tory Democracy)・・・・ディズレーリら保守党による選挙権拡大や社会立法を指す。労働者の保守党への取り込みを狙った。
トーリー党(Tory)・・・・イギリスの政党で、アイルランドのカトリックの呼称に由来する名前。名誉革命以後低迷していたが、ジョージ3世の支持政党として復活した。小ピットの指導で発展したが、産業革命後は再び苦難を迎えた。ピールの頃に近代的な保守党として再生した。
日英同盟(Anglo-Japanese Alliance 1902)・・・・イギリスは極東でのロシアへの対抗上、朝鮮をめぐってロシアと対立していた日本の軍事力に注目した。そこで1902年日英同盟が締結された。第1次同盟は有効期間5年の極東での相互の利益尊重と、攻守同盟を定めた。1905年第2次同盟が締結され、日本の朝鮮保護国化を認める代わりに条約の適用範囲をインドまで拡大した。また軍事同盟としても強化された。第3次同盟は1911年成立し、10年間の延長と条約の適用範囲からアメリカを除外した。日露戦争後は日露が接近し、第一次世界大戦後、四国条約で正式に破棄された。
農業革命(Agricultural Revolution )・・・・18世紀から19世紀にかけてイギリス農業で起こった革命的変革をさす。輪作法が普及し、第二次エンクロージャーがすすみ、資本主義的な大農地経営が発達した。
ハインドマン(Henry Mayers Hyndman 1842-1921)・・・・イギリスの社会主義者で、1881年民主連盟を創立し、マルクス主義を信奉した。労働者の政治的な役割を高めた。
パックス・ブリタニカ(Pax Britanica)・・・・19世紀にいち早く産業革命を達成したイギリスは、他国に優越した経済力と軍事力を持っていた。そのため比較的世界の平和が保たれたことをパックス・ロマーナにちなんでこう呼ぶ。
ハーディ(James Keir Hardy 1840-1915)・・・・イギリスの労働党指導者。スコットランド坑夫連盟書記をへて1889年スコットランド労働党を結成した。下院議員に当選後、1893年独立労働党を結成し1900年には労働代表委員会規約を起草した。
ハノーヴァー朝(Hanover 1714-1901)・・・・18世紀にジョージ1世が即位して成立した。ヴィクトリア女王まで続いたが、エドワード7世はサクス・コバーグ・ゴーサ家と改称した。
パーマストン(Henry John Palmerston 1784-1865)・・・・はじめトーリー党だったが、ホィッグ党に転じ、外相(1830-34,35-41,46-51)、首相(1855-58,59-65)を務めた。独断、頑固さのため「扇動家」と揶揄された。長くイギリス外交を指導し、クリミア戦争でも果断さを発揮した。
バルフォア(Arthur James Balfour 1848-1930)・・・・イギリスの政治家、首相(1902-05)。1878年ベルリン会議で国際政治の舞台にデビューし、保守党下院議員としてアイルランド相(1887)、蔵相(1891-92)などを歴任した。首相としてはボーア戦争の終結などに関わり、第一次世界大戦では海相(1915)、外相(1916-19)として活躍した。大戦中のパレスチナにおけるバルフォア宣言で知られる。パリ講和会議にも出席し、第一回国際連盟会議、ワシントン会議にいたるまでイギリス外交を指導した。
反穀物法同盟(Anti-Corn-Law League 1839)・・・・1839年、コブデン、ブライトらのイギリスの自由貿易主義者らが穀物法廃止のために結成した。過激な運動を展開し、46年ピール首相の決断により穀物法は廃止された。
非国教徒(Nonconformist)・・・・イギリス国教会に属さない人々をこう呼ぶ。ピューリタン、長老派、クエーカー教徒、バプティスト派、ユニテリアン等が入るが、カトリックは含まないことに注意。国教徒、非国教徒、カトリックと三分類するわけである。
ピータールーの虐殺(Peterloo Massacre 1819)・・・・1819年8月16日、イギリスのマンチェスター地方のセント・ピーター広場で、議会改革を求める労働者の集会にたいし、治安維持に当たっていた一部の未熟練の民兵が、襲撃をかけた事件。騎兵隊の突撃でわずか10分で混乱は収拾したものの、11名の死者と400名以上の負傷者をだした。査問の結果、官憲側は無罪になり、憤激した民衆はこの事件をワーテルローの戦いになぞらえて、ピータールーの虐殺と名付けた。
秘密投票法(Ballot Act of 1872)・・・・腐敗選挙の一掃に役立った。
ピール(Robert Peel 1788-1850)・・・・イギリスの政治家で、首相(1834-35,41-46)。1809年トーリー党下院議員となり、アイルランド相(1812-18)を務めたが、オコンネルらからオレンジ(親英プロテスタント)・ピールとあだなされた。内相(22-27,28-30)としてカトリック教徒解放法やロンドン警察の改革などを行った。首相としては、1846年穀物法を廃止したがこの問題をめぐって党は分裂した。以後落馬で死亡するまでピール派の領袖として政界に隠然たる影響力を保持した。トーリー党が近代的な保守党に脱皮したのもピールの時代といわれる。
ファショダ事件(Fashoda Incident 1898)・・・・19世紀末、アフリカの分割が進行し、横断政策をとるフランスと縦断政策をとるイギリスは対立した。マルシャンのフランス軍とキッチナーのイギリス軍はナイル河畔のファショダで偶然遭遇した。両軍は譲らず戦争の危機が訪れたが、フランス外相デルカッセは譲歩し、両国は英仏協商へ向かった。
フェビアン協会(Febian Society 1884)・・・・ロンドンで設立された社会主義団体で、ウェッブ、ピース、ショーらが参加した。改良主義的な社会主義を研究したが、1900年労働代表委員会に参加した。のちに労働党を理論的に指導する存在となり、現在でもフェビアン社会主義の普及に努めている。
ブライト(John Bright 1811-89)・・・・イギリスの政治家で、演説の得意なことで知られた。1839年コブデンとともに反穀物法同盟を結成し、反穀物法キャンペーンに活躍した。43年以降国会議員として活動し、商務相(68-70)となったが病気で辞職した。1880年ランカスター公領相に就任した
ベルリン会議(Berliner kongreß1878)・・・・サン=ステファノ条約によってロシアのバルカン半島と地中海への進出が成功したように見えた。そこで脅威を覚えたイギリスとオーストリア・ハンガリーは異議を唱え、ドイツが調停に乗り出した。この結果ベルリン条約が結ばれ、ロシアはペッサラビアと小アジアの一部をえた。一方イギリスはキプロス島を獲得し、オーストリア・ハンガリーはトルコ主権下でボスニア・ヘルツェゴビナの行政権を獲得した。そのほかルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立は承認された。ブルガリアは領土を半減された上、トルコの属国にとどまり、ロシアのバルカン進出は頓挫した。この結果、ロシア、オーストリア・ハンガリーは対立し、三帝同盟の崩壊につながった。
ホィッグ党(Whig)・・・・イギリスの政党で、スコットランドの暴徒の名前に由来する。王政復古期に結成され、名誉革命後優位に立った。18世紀末に分裂して衰退したが、産業革命後にブルジョワと結んで復活し、グレー内閣の頃に近代的な自由党に脱皮したといわれる。
保守党(Conservative Party)・・・・イギリスの政党で、元のトーリー党。1830年代から保守党と呼ばれるようになり、ピールの頃近代的な政党となった。ピール派の離党後は、ディズレーリによって指導され、トーリー・デモクラシーを明らかにした。自由党とともに二大政党制を構成し、のちに統一党と呼ばれた時期もあったが、現在でもイギリス二大政党制の一方を占める。
マルクス(Karl Heinrich Marx 1818-83)・・・・ドイツの社会主義者で、国際共産主義の祖。ヘーゲルやフォイエルバッハに学び、「ライン新聞」で急進的な政府批判を行い、弾圧されてパリに亡命した。研究を続け、プロレタリアートの使命と資本主義の必然的没落を説くマルクス主義を完成した。ベルギーで同士を組織し、48年「共産党宣言」を発表した。二月革命ではパリからドイツへ行き、「新ライン新聞」を主催した。革命失敗後、ロンドンに亡命し、生涯そこに住んだ。1864年第一インターナショナルができると理論的指導者となったが、無政府主義者と激しく対立した。大英博物館の図書館で研究を続け、主著となる「資本論」(第1巻 1864,第2巻 1884, 第3巻 1894)を執筆した。
マンチェスター派(Manchester school)・・・・最も古典的な自由貿易主義者。レッセ・フェールを信条とし、コブデン、ブライトらが代表だが、クリミア戦争をきっかけに支持を失った。
メルバーン(William Lamb Melbourne 1779-1848)・・・・イギリスの政治家、首相(1834,35-41)。ホィッグ党下院議員として、アイルランド相、内相を務め、首相に就任した。若き日のヴィクトリア女王を立憲君主として教育した。
ラヴェット(William Lovett 1800-77)・・・・イギリスの社会運動家。初めオーウェン主義者で、1832年の議会改革の時期には全国労働者階級同盟を組織した。後に人民憲章を起草してチャーティスト運動を指導したが、1841年離反した。
ラッセル(John Russell 1792-1878)・・・・イギリスの政治家、首相(1846-52,65-66)。1813年ホイッグ党下院議員となり、審査律廃止、カトリック教徒解放法、第一回選挙法改正など一連の自由主義的改革に努めた。穀物法廃止後首相に就任し、アバディーン内閣では外相を務めたがクリミア戦争の処理に失敗し、辞職したが、再び外相、首相となった。
ラッダイト運動(Luddite movement 1811-1817)・・・・産業革命期のイギリス北部で起きた初期の労働運動。ラッダイトという架空の少年を祭り上げ、機械の導入により失業の危機に瀕した労働者達が機械を破壊した。
リヴァプール(RobertBanks Jenkinson Liverpool 1770-1828)・・・・イギリスの政治家で、首相(1812-28)。1790年に国会議員に当選し、閣僚を歴任した。ナポレオン戦争の末期にイギリスを指導した。
リブ・ラブ主義(Lib・Lab)・・・・19世紀後半の労働組合(Lab)が自由党(Lib)への加入により政治参加を目指した路線をいう。労働党結成により破綻した。
労働組合法(Trade Union Act 1871)・・・・労働組合を合法化し、スト権を認めたが、ピケは1875年までなお禁止されたままだった。
労働党(Labour party 1906)・・・・イギリスの政党で、労働代表委員会が改称して誕生した。当初は既成政党から独立した労働者の代表を議会に送ることを目的としたが、1918年社会主義綱領を採択し、第一次世界大戦後政権獲得に成功した。第二次世界大戦後は、保守党と並ぶ二大政党制の一方としてたびたび政権についた。
ローズベリー(Archibald Philip Primrose Rosebery 1847-1929)・・・・イギリスの政治家、首相(1894-95)。自由党グラッドストン内閣の外相(1886,1892-94)、次いで首相となったが、すぐに選挙で敗北した。のちに伝記作家に転じた。
イギリス政治史(1914-45)
イギリス共産党(Communist Party of Great Britain 1920)・・・・ボリシェヴィズムや革命路線はイギリスになじまなかったのか、最盛期でも総選挙の得票数は10万票程度だった。
イギリス本土決戦(Battle of Britain 1940)・・・・フランスを制圧したドイツ軍は、次なる目標をイギリスに向けた。1940年8月15日、ドイツ空軍のイギリス本土爆撃が開始された。9月の大空襲ではロンドンは多大な被害を受けたが、イギリス人の戦意は衰えず、ドイツ軍も大きな損害を受けた。ドイツはついにイギリスの制空権獲得をあきらめ、アシカ作戦(イギリス本土上陸作戦)も無期延期となった。
ウィンザー朝(Windsor 1917-)・・・・現在のイギリス王家の名前。第一次世界大戦中、ジョージ5世がサクス・コバーグ・ゴータ家というドイツ系の名称を変更した。
ヴェルサイユ体制・・・・ヴェルサイユ条約を中心として成立した第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序を指す。民族自決の結果東欧に多くの小国が誕生したが、これらはソ連の共産主義に対する防壁という意味あいがあった。また国際連盟が設置され、平和の維持に努めた。ロカルノ条約とドイツの国際連盟加盟によって一時的に安定するが、世界恐慌によって動揺し、ドイツのヴェルサイユ条約破棄によって崩壊した。
ウェールズ国民党(Plaid Cymru 1925)・・・・ウェールズの独立国の地位ではなく、イギリス連邦内での自治領の地位を目指した。
英ソ相互援助条約(Anglo-Soviet Mutual Assistance Treaty 1942)・・・・第二次世界大戦中の1942年5月26日、イギリスとソ連との間で結ばれた相互援助条約。ソ連側はポーランド東部の領有の保障を求めたが、イギリス側はこれを拒否した。
英独海軍協定(Anglo-German Naval Agreement 1935)・・・・ドイツの再軍備宣言に対し、イギリスは英独海軍協定によってこれを抑える政策に出た。対英35パーセントまでの海軍保有を認めることでドイツを抑えようとした。
エドワード8世(Edward ? イギリス王 位 1936)・・・・第一次世界大戦では陸軍に参加し、人望も高かったが離婚歴のあるシンプソンとの結婚問題で退位した。「王冠を捨てた恋」と称される。
ガリポリ作戦(Gallipoli Campaign 1915)・・・・第一次世界大戦中、イギリスとフランスは戦略上の重要拠点であるダーダネルス海峡を制圧しようとした。ハミルトンのイギリス艦隊は砲撃によってトルコの要塞を攻撃したが、上陸した部隊は激戦を続けたが結局トルコ軍に敗れ撤退した。
国際連盟(League of Nations 1920)・・・・平和と国際協力を目的とした国家連合で、アメリカ大統領ウィルソンの提案で、1920年ヴェルサイユ条約発効と同時に発足した。総会、理事会、事務局からなり、侵略国に対しては総会の決議によって経済的政治的制裁を行った。しかし提案国のアメリカは議会の反対で参加できず、ソヴェトもはじめから排除されていた。20年代には国際紛争の解決に一定の効果を上げたが、34年に日本とドイツが脱退し、ソ連が加盟したが37年にはイタリアが脱退、39年にはソ連も除名され、有名無実となった。
サイモン(John Allsebrook Simon 1873-1954)・・・・イギリスの政治家、弁護士。自由党下院議員として、第一次世界大戦中内相(1915-16)を務めた。徴兵制度に反対して辞職したのちは、外相(1931-35)、内相(1935-37)、蔵相(1937-40)を務めた。
ジノヴィエフ書簡(Zinoviev Letter 1924)・・・・1924年10月、イギリス外務省が発表した文書で、コミンテルン議長のジノヴィエフがイギリス共産党に革命を扇動した内容だった。同年の下院選挙での労働党の大敗の原因となったが、偽書といわれる。
ジョージ5世(George ? 1865-1936 イギリス王 位 1910-36)・・・・イギリス王で責任感が強く、海軍にも所属したことがある。その治世中に第一次世界大戦などがあった。
ジョージ6世(George ? 1895-1953 イギリス王 位 1936-52)・・・・海軍軍人として第一次世界大戦に参加し、兄エドワード8世の退位により即位した。第二次世界大戦中はイギリス国民の模範となり、立憲君主の責務を果たした。
スコットランド国民党(Scottish National Party 1934)・・・・スコットランドの民族運動を結集して成立した。初めは単なる自治要求に留まっていたが、戦後は独立を要求するようになった。
ストレーザ会議(Stresa 1935)・・・・ドイツのヴェルサイユ条約侵犯問題などをめぐってイギリス、フランス、イタリアの首脳が35年5月に北イタリアで行った会議。ドイツに対するストレーザ戦線が形成されたが、エチオピア戦争により崩壊した。
スノーデン(Philip Viscount Snowden 1864-1937)・・・・イギリスの労働党政治家。独立労働党議長などを歴任した後マクドナルド内閣の蔵相となり、さらに31年の政変でもマクドナルドに従って留任したため党から事実上除名された。
選挙法改正(第四回)(Reform Act 1918)・・・・21歳以上の男子普通選挙と30歳以上の女性参政権が導入された。その背景には総力戦への女性の動員に対する見返りという意味もあった。
選挙法改正(第五回)(Reform Act 1928)・・・・21歳以上の男女普通選挙権が認められた。
戦車(tank)・・・・第一次世界大戦で登場した新兵器の一つ。1916年9月、ソンムの戦いでイギリス軍がはじめて使用した。
総力戦(Total War)・・・・前線も銃後もなく、全国民をかり出して行われる現代の戦争形態。第一次世界大戦ではじめて本格的に見られ、驚くべき死傷者を出した。
ソンムの戦い(Somme 1916)・・・・第一次世界大戦中、西部戦線で連合軍が行った大規模な反攻。1916年6月、北フランスのソンム河畔で連合軍の攻勢が始まったが、ドイツ側も11月まで死守した。連合軍75万、ドイツ軍50万の死傷者をだした。
第一次世界大戦(World War ? 1914-18)・・・・1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が始まった。ロシア、ドイツ、フランスが次々と宣戦する中、イギリスもドイツのベルギーの中立侵犯を理由に8月4日宣戦した。イギリスにおいても他の参戦諸国と同様ナショナリズムが一気に高まり、大半の国民は戦争熱に浮かされた。当初は軍への志願も盛んだった。戦争批判派は外交の民主的統制を求める人々、クエーカー教徒などの良心的兵役拒否者、一部の社会主義者たちのみであった。彼らは圧倒的少数派におかれ、ドイツ人同様に国民から憎悪されるはめになった。一方帝国内の自治領や植民地からも大量の兵士が動員され、これら諸地域の戦後の一層の離反傾向を招いた。また一部には戦争への非協力も見られた。戦闘は塹壕戦となり、長く膠着した。イギリスのガリポリ遠征も、無惨な失敗に終わった。やがてドイツは17年無制限潜水艦戦に訴え、これが4月のアメリカの参戦を促した。18年には同盟国の敗戦は避けられない見通しとなり、ドイツ、オーストリアで革命が発生、11月11日ドイツが休戦協定に調印し、戦争は終結した。この戦争は史上初めての本格的な総力戦であり、毒ガス、戦車、飛行機といった新兵器がこの戦争で初めて登場した。
大ブリテンおよび北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)・・・・1922年以降のイギリスの正式名称。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドをその主要な領土とする。
第二次世界大戦(World War ? 1939-45)・・・・1930年代、日、独、伊のファシズム諸国は、膨張主義をとり、イギリス、アメリカ、フランスと衝突した。後者は当初宥和政策をとったが、ファシズム諸国の増長に、やがて開戦を余儀なくされた。1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、大戦が始まった。英仏はドイツに宣戦布告したものの、戦闘を行わず、奇妙な戦争といわれた。ドイツとソ連はポーランドを分割してしまい、ドイツの矛先は西へ向いた。ドイツは翌年5月以降、フランスなど西欧の大半を短期間のうちに制圧してしまった。残存英仏軍はダンケルクでかろうじてイギリス本国に撤退できたという有り様だった。ドイツは直ちにイギリス本国上陸に向けて空爆を開始したが、これはドイツ軍の損害が大きく、イギリス本土上陸は延期された。この間イギリスの同盟国はギリシャのみという大変な苦境に立たされた。一方ヒトラーは41年6月、独ソ戦を開始した。さらに12月には日本がアメリカに宣戦布告し、アジア太平洋戦争が開始され、戦争はまさに世界中に広がった。第二次世界大戦は一部に帝国主義戦争の側面がないとはいえないものの、おおむねファシズム対反ファシズム・民主主義勢力の戦いと規定できる。そのためイギリスにとっては第一次大戦よりはイデオロギー的に正当性を主張しやすかった。枢軸国側は当初優勢だったが、英米にソ連を加えた連合国側は次第に態勢を立て直し、太平洋でも東欧でも日本、ドイツを追いつめていった。43年10月にはイタリアが降伏し、44年6月、英米は100万人を動員してフランスに上陸し、ドイツを挟み撃ちした。45年5月、ドイツは降伏し、8月には日本も無条件降伏して戦争はようやく終わった。
この戦争でも自治領、植民地からの動員が行われたが、ヨーロッパ戦線を重視する本国と日本の脅威を強く感じるオーストラリア、ニュージーランドとの軋轢やアイルランドの中立など帝国解体の兆候は多かった。
チェンバレン(オースティン)(Austen Chanberlain 1863-1937)・・・・ジョゼフ・チェンバレンの長男で、イギリスの政治家。保守党下院議員として、閣僚を歴任した。特に1925年のロカルノ条約に外相として活躍し、ノーベル平和賞を受賞した。
チェンバレン(ネヴィル)(Neville Chanberlain 1869-1940)・・・・オースティン・チェンバレンの異母弟で、イギリスの政治家。保守党下院議員として、マクドナルド内閣の成立に主導的役割を果たした。首相(1937-40)を務めファシズム諸国への宥和政策を行った。とくにミュンヘン会談でドイツに譲歩したことはソ連の不信をかい、開戦後の緒戦の失敗により辞任した。
チャーチル(Winston Churchill 1874-1965)・・・・イギリスの軍人、政治家として首相(1940-45,51-55)。はじめインドの戦争やボーア戦争に参戦した。ついで保守党下院議員となるが、保護貿易に反対して自由党に転向した。商務相、内相を歴任し、1911年海相となった。第一次世界大戦ではダーダネルス作戦に失敗し、辞任した。しかしすぐにロイド・ジョージ内閣で軍需相、陸相に復帰し、ロシアへの干渉戦争を行った。戦後保守党に復帰し、蔵相として金本位制の復活を行った。辞任後はファシズムへの宥和政策を批判し、第二次世界大戦が開始されると、海相に復帰した。40年5月、首相に就任し、F・ルーズヴェルト大統領とともにドイツとの戦争を戦い抜いた。45年総選挙で労働党に敗れて下野した。51年から55年まで再び首相を務め、数々の栄誉を受けた。政治家としてのみならず、画家、作家としても評価が高く、ノーベル文学賞を受賞、その死には世界中から追悼の意が送られた。
徴兵制(conscription)・・・・イギリスは伝統的に徴兵制を取っておらず、大戦が始まってしばらくも「通常通りの業務」を標榜して募兵制を続けた。ところが戦争が長期化するに従って総力戦の様相が濃くなり、1915年7月国民登録法、さらに16年1月には18-41歳の独身男性を対象に徴兵制が導入された。戦争が終わると徴兵制は廃止されたが、1939年5月には第二次世界大戦を前に再び徴兵制が導入された。
テヘラン会談(Teheran Conference 1943)・・・・1943年11月、スターリンとアメリカのルーズヴェルト大統領、イギリスのチャーチル首相との間で開かれた会談で、ソ連側の求めに応じ、翌年のフランスへの上陸で第二戦線を形成することで同意した。
ノルマンディー上陸作戦(Invasion of Normandy 1944)・・・・第二次世界大戦中の、連合国側のフランス北西部への上陸作戦。前年11月のテヘラン会談で確認され、44年6月6日Dデー作戦として嵐の中で決行された。アイゼンハウアー将軍の指揮で、100万人にのぼる大部隊を動員して行われ、7週間後には連合国軍の勝利は確かなものとなった。
ハリファックス(Edward Frederick Lindley Wood Halifax 1881-1959)・・・・イギリスの保守党政治家。インド総督(26-31)をへてチェンバレン内閣の外相(1938-40)に就任し、対独宥和政策を展開した。戦争中は駐米大使(1941-46)としてアメリカとの協力に努力した。
パンクハースト(エメライン)(Emmeline Pankhurst 1858-1928)・・・・イギリスの女性参政権運動の指導者。1903年以降女性社会政治同盟を結成し、戦闘的な運動を展開した。
パンクハースト(クリスタベル)(Christabel Pankhurst 1880-1958)・・・・エメラインの長女で、女性社会政治同盟の指導者としてゲリラ戦まで行って女性参政権運動を推進した。第一次世界大戦では右翼となった。1919年選挙法改正により運動は解体した。
ビーヴァーブルック(William Maxwell Aitken Beaverbrook 1879-1964)・・・・イギリスの政治家。もと実業家で、保守党政治家としては「帝国十字軍」なるファシズムまがいの組織を結成し、大衆動員を重視したためマクドナルドのような正統政治家からは異端視された。
武器貸与法(Lend-Lease Act 1941)・・・・イギリスへの武器、食糧の供給を定めたアメリカの法律。これによりイギリスはドイツの攻撃に耐え抜いたが、戦後はすぐに廃止された。
ブルック(Alan Francis Brooke 1883-1963)・・・・イギリスの軍人。防空戦の指導者で、1940年国内軍司令官を務めた。第二次世界大戦でのイギリスの戦争指導に当たり、1944年元帥に選ばれた。
ヘンダーソン(Arthur Henderson 1863-1935)・・・・イギリスの政治家で、第一次世界大戦中の労働党指導者。戦争に協力し、戦後は新しい党綱領を採択した。戦後は外相(1929-31)やジュネーブ軍縮会議への参加で活躍し、国際平和に努力した。
ヘンダーソン(Nevile Meyrick Henderson 1882-1942)・・・・イギリスの外交官。戦間期にエジプト、フランス、ユーゴ、アルゼンチン大使などを務めた。特に1937年ドイツ大使として難題に当たった。
ボールドウィン(Stanley Baldwin 1867-1947)・・・・イギリスの政治家で、首相(1923-24,24-29,35-37)。保守党下院議員として、はじめ商務相を務めた。ファシズムへの宥和政策や、スペインへの不干渉は批判を浴びた。内政ではエドワード8世を結婚問題で退位させた。
ボンドフィールド(Margaret Grace Bondfield 1873-1953)・・・・イギリスの労働党女性政治家。1929年マクドナルド内閣で初の女性閣僚となった。
ミュンヘン会談(M?nchener Konferenz 1938)・・・・ナチス=ドイツはドイツ系住民の多いことを理由にチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。そこで英仏独伊4カ国首脳は1938年9月29日-30日会談し、ミュンヘン協定でドイツの要求を受け入れた。この会議にはチェコスロバキアもソ連も参加できず、宥和政策の頂点といわれる。
モズリー(Oswald Mosley 1896-1980)・・・・イギリスの政治家。1929年労働党内閣に参加するが辞職してファシズム運動を行い、イギリス・ファシスト連盟の指導者となった。反ユダヤ暴動を指導し、ヒトラーを支持した。第二次世界大戦中は逮捕されたが戦後再び人種差別運動を指導した。
モンゴメリー(Bernard Law Montgomery 1887-1976)・・・・イギリスの軍人、陸軍元帥。ウェリントン以来の名将といわれ、第二次世界大戦ではイギリスの第8軍を率いて北アフリカ戦線で活躍した。1942年エル・アラメーンでドイツのロンメル将軍を破り、シチリアとイタリアでの戦いにも参加した。ノルマンディー上陸作戦も指揮し、イギリスの勝利に大きく貢献した。戦後はNATO軍副総司令官も務めた。
ヤルタ会談(Yalta Conference 1945)・・・・1945年2月、クリミア半島のヤルタでチャーチル、ソ連のスターリン、アメリカのルーズヴェルト大統領とのあいだで開かれた会談。ドイツの占領、戦犯の裁判、東欧の戦後処理や国際連合の設立などで合意したが、ドイツの降伏後2、3ヶ月以内にソ連が対日参戦することを約束した秘密議定書もあった。
宥和政策(Appeasement Policy )・・・・1930年代に、イギリス、フランスがナチスに対してとった妥協的な政策を指す。英仏はドイツの侵略に対し、小国を犠牲にして平和を得ようとしたが、ソ連の英仏への不信を深め、ファシズムを増長させるだけに終わった。ミュンヘン会談が宥和政策の典型といわれる。
ユトランド沖海戦(J?tland 1916)・・・・第一次世界大戦中のイギリスの戦略はドイツの海上封鎖にあった。1916年5月31日、ドイツ艦隊はデンマークとノルウェーのあいだのスカゲラク海峡でイギリスの小艦隊を発見し、壊滅した。しかしまもなく新手のイギリス艦隊が到着し、ドイツ艦隊を包囲したが、闇と霧でドイツ艦は危うく脱出した。この戦闘でドイツ側の損害はイギリスよりも少なかったが、イギリスの制海権は維持された。
ロー(Andrew Bonar Law 1858-1923)・・・・イギリスの政治家、首相(1922-23)。金融、鉄鋼業界から保守党下院議員となり、保護貿易を主張した。アスキス内閣のアイルランド自治法案に反対したが戦時内閣には植民相、蔵相として入閣した。首相としてはドイツの賠償金問題などに対処した。
ロイド=ジョージ(David Lloyd -George 1863-1945)・・・・イギリスの政治家で首相(1916-22)。自由党議員として帝国主義政策に反対した。戦争ではイギリスを勝利に導き、選挙でも大勝して講和会議に臨んイギリス政治史(1945-)
IRA(Irish Republic Army)・・・・北アイルランドのカトリック系住民の武装組織。1000人以上の兵力を持つといわれ、その武装解除が和平の鍵となっている。
アトリー(Clem Atlee 1883-1967)・・・・イギリスの政治家、首相(1945-51)。第一次世界大戦に進出し、1935年労働党党首となった。戦争中はチャーチル内閣の副首相を務め、選挙での勝利によってポツダム会談には首相として出席した。首相としては、重要産業の国有化、国民健康保険制度などの社会政策を実施した。外交面ではインド、ビルマ(現ミャンマー)など海外植民地の独立を次々に認めた。選挙で敗れて辞任してのちも、1955年まで野党党首を務めた。
イーデン(Anthony Eden 1897-1977)・・・・イギリスの保守党政治家、首相(1955-57)。第一次世界大戦に従軍し、1935年外相となった。しかしチェンバレン首相の政策に反対して辞職した。第二次世界大戦中は自治領相、国防相、外相を務め、戦後は外相(1951-55)となり、ジュネーブ首脳会議に参加した。首相としては第二次中東戦争で国際社会から孤立し、辞任した。
ウィルソン(Harold Wilson 1916-1995)・・・・イギリスの政治家、首相(1964-70,74-76)。労働党下院議員として活躍し、1963年党首となった。対外的には国際収支が悪化した。国内では1969年選挙法を改正し、18歳以上の男女に選挙権を与えた。
エリザベス2世(Elizabeth ? 1926- イギリス王 位 1952- )・・・・ジョージ6世の長女で、現在のイギリス王。1947年エディンバラ公と結婚し、三男一女をもうけている。
北アイルランド紛争(Northern Ireland)・・・・アイルランドとの併合を求めるカトリック系住民と連合王国に留まることを望むプロテスタント系住民との間で長年流血の紛争が続いていたが1999年12月双方の参加する自治政府が成立し、恒久和平への期待が高まっている。
北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization NATO 1949)・・・・ソ連の脅威に直面して、西欧同盟にアメリカその他を加えて結成された軍事同盟。冷戦終結後も解消されず、ユーゴ空爆で活躍したことは記憶に新しい。
キャラハン(James Callaghan 1912- )・・・・イギリスの政治家、首相(1976-79)。労働党下院議員としてウィルソン内閣の蔵相を務め、法人税の導入などを行った。
クロスマン(Richard Howard Stafford Crossman 1907-74)・・・・イギリスの労働党政治家。枢密院相、社会問題担当相などを経験した。
ゲイツケル(Hugh Gaitskell 1903-66)・・・・イギリスの政治家。アトリー内閣の燃料相として初入閣し、蔵相も務めた。のちに労働党党首となった。
サッチャー(Margaret Thatcher 1925- )・・・・イギリスの政治家、首相(1979-90)。弁護士から1959年保守党下院議員となり、シャドーキャビネットで活動したのち1975年には保守党党首となった。サッチャー政権は国有企業の民営化や自治体の機能縮小に努める保守的政策をとった。失業率は最悪を記録したが、フォークランド諸島戦争での成功に助けられ、1983年、87年の選挙で勝利した。断固とした「サッチャリズム」を展開したが、路線対立から辞任した。
社会民主党(Social Democratic Party 1981)・・・・労働党右派が党の方針に反対して結成した新党。二大政党制に挑戦したが果たせず87年自由党と合同し社会自由民主党となった。
バトラー(Richard Austen Butler 1902-82)・・・・イギリスの保守党政治家。チャーチル、イーデン内閣の蔵相となったが、前任者労働党のゲイツケルと同様の政策を採ったので二人の名前を組み合わせてバッケリズム(合意の政治)と呼ばれた。
ヒース(Eward Heath 1916- )・・・・イギリスの政治家、首相(1970-74)。第二次世界大戦に参加し、戦後保守党下院議員となった。労働相、保守党党首から、首相に就任した。労働党に選挙で敗れて辞任した。
ヒューム(Home of the Hirsel 1903-95)・・・・イギリスの政治家、首相(1963-64)。保守党下院議員として、チェンバレン首相の秘書官を務めた。スコットランド相(1951-55)、外相(1960-63)を務め、マクミランの後継首相となった。労働党に選挙で敗れて辞職し、1965年に党首も辞任した。
フォークランド諸島戦争(Falkland Island War 1982)・・・・南大西洋にあるフォークランド諸島(スペイン名マルビナス諸島)の領有権をめぐるイギリスとアルゼンチンとの戦争。1833年以来イギリスが占領していたが、1982年4月2万のアルゼンチン軍がフォークランド諸島の重要拠点を軍事的に制圧した。サッチャー首相は周辺320キロを戦域と宣言し、大規模海軍を派遣してフォークランド諸島の奪回に成功した。
ブレア(Tony Blair 1953- )・・・・イギリスの政治家、首相(1997-)。1983年労働党下院議員に当選し、シャドーキャビネットで活動したのち労働党党首となり、1997年選挙で勝利して首相に就任した。上院の世襲議員削減、北アイルランド和平などに努力している。
プロヒューモ事件(Profumo affair 1963)・・・・陸相プロヒューモの機密漏洩をめぐる事件。彼は議会でうその証言をしたとして辞任した。
「ベヴァレッジ報告」(Beveridge Report 1942)・・・・戦後イギリスの福祉国家の原点となった報告書で、健康保険、失業保険、年金などの制度の統一を提言した。
ベヴァン(Aneurin Bevan 1897-1960)・・・・イギリスの政治家。労働党左派で、戦前はスペイン内乱への干渉や人民戦線を主張するなどした。アトリー内閣で保健相、労相を努め、軍備強化にも反対した。
ベヴィン(Ernest Bevin 1881-1951)・・・・イギリスの政治家。元々労働組合指導者だったが下院議員になり、チャーチル内閣の労相、アトリー内閣の外相としては冷戦外交を推進した。
マクミラン(Harold Macmillan 1894-1986)・・・・イギリスの政治家、首相(1957-63)。保守党下院議員として、国防相(1954-55)、外相(1955)、蔵相(1955-57)を経て、首相となった。失政と病気により辞任した。
メイジャー(John Major 1943- )・・・・イギリスの政治家、首相(1990-97)。1979年保守党下院議員となり、その後は若くして出世し、外相(1989)からサッチャー首相の後継者となった。1997年選挙で労働党に敗れて辞任した。
モリソン(Herbert Stanley Morrison 1888-1965)・・・・イギリスの政治家。労働党右派で戦前運輸相、ロンドン市議会議長、軍需、内相などを務めたあと、アトリー内閣の副総理、枢密院議長、院内総務、さらに外相を歴任した。
ヨーロッパ共同体(European Community EC 1967)・・・・EUの前身。欧州市場を求めたイギリスはマクミラン政権(当時はさらに前身のEEC)、ウィルソン政権が加盟を望んだが、いずれもド・ゴールの反対でならなかった。1973年ヒース政権の時にようやくEC加盟が実現した。
ヨーロッパ自由貿易連合(European Free Trade Association EFTA 1959)・・・・ヨーロッパ統合の動きにイギリスが対抗して結成した。が、EECにはかなわなかった。
ラスキ(Harold Joseph Laski 1893-1950)・・・・イギリスの政治学者、政治家。ロンドン大学教授でフェビアン協会、労働党に所属した。1945年には労働党委員長となり選挙に勝利した。だ。アイルランド自由国を承認したことや、中東問題で失脚した。その後自由党は没落し、政界で孤立した。
ロンドン海軍軍縮会議(London Naval Conference 1930)・・・・ワシントンでの海軍軍縮条約の改定、及びジュネーブ海軍軍縮会議の失敗を受けて、補助艦問題を審議するために開かれた。米英日仏伊が参加し、仏伊は途中で脱退した。主力艦その他の軍艦の縮減と、35年に新条約を協議することが決められた。しかしこの第二次ロンドン海軍軍縮会議は失敗に終わることになる。
ワシントン海軍軍縮条約(1922)・・・・1922年2月、米英日仏伊の間で、「海軍軍備関する条約」が結ばれた。主力艦の保有トン数を、順に5:5:3:1.67:1.67に制限した。