10分でわかるイタリア政治史
イタリア政治史(1915-46)
ローマ教皇関連の事項などを含む。
イタリア共産党(Partito Communista Italiano 1921)・・・・トリアッティらによって設立され、ファシズム政権にたいしてレジスタンス運動を展開した。戦後も西欧最大の共産党として柔軟路線を行く。
イタリア人民党(Partito Popolare Italiano 1919)・・・・イタリア統一以後、教皇は信徒の政治参加を禁じていたが、第一次世界大戦後自由党、社会党への反対の必要から、ストゥルツォは独自のカトリック政党結成に踏み切った。大衆政党となったが、ファシズム政権成立で解党した。43年キリスト教民主党として復活した。
ヴァティカン市国(Citta del Vaticano)・・・・ラテラン条約の結果成立したローマ教皇を君主とする独立国。ローマ市内の一角を占め、面積0.44平方キロ、人口約1000人の小国。
ヴェルサイユ体制・・・・ヴェルサイユ条約を中心として成立した第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序を指す。民族自決の結果東欧に多くの小国が誕生したが、これらはソ連の共産主義に対する防壁という意味あいがあった。また国際連盟が設置され、平和の維持に努めた。ロカルノ条約とドイツの国際連盟加盟によって一時的に安定するが、世界恐慌によって動揺し、ドイツのヴェルサイユ条約破棄によって崩壊した。
オルランド(Vittorio Emanuele Orlando 1860-1953)・・・・イタリアの政治家、首相(1917-19)。パリ講和会議に出席したが、ヴェルサイユ条約の結果が国内では批判を招いた。
九カ国条約(Nine Power Treaty 1922)・・・・ワシントン会議において、1922年2がつ成立した「中国に関する九カ国条約」。英米日仏伊、オランダ、ベルギー、ポルトガル及び中国が調印した。中国の独立と主権の尊重、門戸開放と機会均等を約束した。これによって日本は二十一カ条要求から後退させられた。
協調組合国家(Stato corporativo)・・・・イタリアのファシズム政権が目指したもので、労資対立を国家が調停することを考えた。産業別の労働組合と資本家組織を整備し、国家の行政機関とした。1939年にはこの協調組合は立法権まで与えられた。
グラムシ(Antonio Gramsci 1891-1937)・・・・イタリアの政治家、共産主義者。元社会党員だったがイタリア共産党設立に参加し、コミンテルンに出席した。ムッソリーニが共産党を非合法化すると、1926年逮捕された。30冊もの「獄中ノート」は政治学的価値が非常に高いとされる。
クローチェ(Benedetto Croce 1866-1952)・・・・イタリアの歴史家、政治家。ジョリッティ内閣の文相を務め、ファシズム運動を支持した。しかしファシズム独裁体制が出来ると反対に転じた。思想的には倫理的自由主義を主張し、レジスタンス運動にも否定的だった。
グロンキ(Giovanni Gronchi 1887-?)・・・・イタリアの政治家、大統領(1955-62)。イタリア人民党の創設者の1人で、ファシズム時代は引退していたが1943年キリスト教民主党を結成し、戦後は商工業相などから大統領に就任した。
国家ファシスタ党(Partito Nazionale Fascista 1921)・・・・第一次世界大戦後1919年3月、ムッソリーニはイタリア戦闘ファッシを結成し、ファシズム運動を開始した。ファッショ団は黒シャツ隊を組織し、労働運動の弾圧に当たった。やがてファッショ団は政党へ変質し、1921年11月、国家ファシスタ党が結成された。しかし暴力的性格はなくならず、翌年ローマ進軍で政権を奪取することになる。1943年までファシストの政権は続いた。
ゴベッティ(Piero Gobetti 1901-26)・・・・イタリアの作家、政治家。自由主義とマルクス主義からファシズムを批判し、後のレジスタンス運動に影響を与えた。ファシストに暴行を受け死亡した。
ジェンティーレ(Giovanni Gentile 1875-1944)・・・・イタリアの哲学者。ファシズム政権の文相をつとめ、クローチェと対抗したが政敵に殺された。
ストルツォ(Luigi Sturzo 1871-1959)・・・・イタリアの政治家、宗教家。イタリア人民党の創設に関わり、書記長となった。ファシズム政権が成立すると亡命し、長年ロンドンで反ファシズム闘争を続けた。戦後帰国し、終身議員となった。
ストレーザ会議(Stresa 1935)・・・・ドイツのヴェルサイユ条約侵犯問題などをめぐってイギリス、フランス、イタリアの首脳が35年5月に北イタリアで行った会議。ドイツに対するストレーザ戦線が形成されたが、エチオピア戦争により崩壊した。
戦闘ファッシ(Fasci Italiani di Combattimento 1919)・・・・1919年3月にムッソリーニの創始したファッシ(ファシズム運動団体)で、初めは当時雨後の竹の子のように群生していたファッシの一つに過ぎなかった。やがて様々な地方のファッシを統合し、国家ファシスト党に発展していった。
ソンニーノ(Sidney Sonnino 1847-1922)・・・・イタリアの政治家、首相(1906,09-10)。下院議員、蔵相を経て首相に就任したが、外相(1914-20)のときの第一次世界大戦への参戦に大きな役割を果たしたことでよく知られる。
第一次世界大戦(World War ? 1914-18)・・・・1914年7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦を布告、第一次世界大戦が始まった。同盟国側は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリアが加わった。協商国側には、イギリス、フランス、ロシア、イタリア(1915年参戦)、アメリカ(1917年参戦)、バルカン半島3国、ラテンアメリカ諸国、日本などが加わった。イタリア戦線では戦争の始まった1915年5月以降、イタリア軍はイソンツォ河の突破を目指し、オーストリア軍の抵抗を抑えて秋にはカポレット地方での渡河に成功した。ところがドイツから援軍が来るとイタリア軍は敗退した。一方ヴェネチア方面では、オーストリアが攻勢に出たがこれもイタリア軍の抵抗で失敗した。しかし18年には同盟国の敗戦は避けられない見通しとなり、ドイツ、オーストリアで革命が発生、11月11日ドイツが休戦協定に調印し、戦争は終結した。この戦争は史上初めての本格的な総力戦であった。
第二次世界大戦(World War ? 1939-45)・・・・1930年代、日、独、伊のファシズム諸国は、膨張主義をとり、イギリス、アメリカ、フランスと衝突した。後者は当初宥和政策をとったが、ファシズム諸国の増長に、やがて開戦を余儀なくされた。1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻し、大戦が始まった。イタリアは1940年、北アフリカで要衝のエジプトを占領しようとしたが、イギリス軍に撃退された。ドイツのロンメル将軍が参加し、エジプトをめぐる戦いが行われたが、結局エル・アラメーンの戦いで敗れ、1943年5月に枢軸軍はチュニジアで降伏した。その後7月10日に連合国軍はシチリア島に上陸し、短期間で占領した。ムッソリーニは失脚し、バドリオ政権は10月に降伏したが、進駐してきたドイツ軍がムッソリーニを救出し、抗戦を継続した。激戦の末、1944年6月ローマが解放された。戦線は徐々に北上したが、連合国軍はアルプスに引かれたゴシック線で足止めを受けた。45年5月ドイツは降伏し、全イタリアが解放された。8月には日本も無条件降伏して戦争はようやく終わった。
ダヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio 1863-1938)・・・イタリアの軍人、詩人。詩人としてはイタリアのデカダンティズムを代表する(その作品には恋人の死体を投げ捨てるなんて話が出てくるらしい)が、第一次世界大戦では積極参戦を主張した。1919年義勇軍を率いてユーゴスラビアのフィウメを占領し、イタリア政府に左遷されるまで独裁者となった。またムッソリーニを強く支持した。
チァーノ(Galeazzo Ciano 1903-44)・・・・イタリアの政治家、ムッソリーニの娘婿。ファシストとして宣伝相(1935)、外相(36-43)をつとめたがのちにムッソリーニと対立し、1944年処刑された。
デ・ボーノ(Emilio De Bono 1866-1944)・・・・イタリアのファシストで、ローマ進軍を指揮した4巨頭のひとり。植民相を務め、エチオピア戦争の総司令官を務めた。43年ムッソリーニに反対して銃殺された。
ドゥーチェ(Duce)・・・・古代ローマで将軍、属州総督を意味した言葉で、ファシズム時代にムッソリーニ個人の呼称として用いられた。
トゥラティ(Filippo Turati 1857-1932)・・・・イタリアの社会主義者。イタリア社会党の指導者として第一次世界大戦中は反戦運動を行った。1922年統一社会党に加わり、第二インターナショナル代表を務めた。
トリアッティ(Palmiro Tgliatti 1893-1964)・・・・イタリアの政治家、共産主義者。元社会党員だったが1921年、グラムシらとイタリア共産党を設立した。ファシズム政権に抵抗し、「エルコリ」なる筆名で非合法活動を指導した。43年イタリア解放後は帰国し44年副首相となった。戦後はイタリア独自の革命論をとなえた。
日独伊三国同盟(Tripartite Pact 1940)・・・・1936年結ばれた日独防共協定に、イタリアを加えたものをさらに発展させて、40年9月、ベルリンで三国の軍事同盟が調印された。ドイツの電撃的勝利に刺激された日本の軍部と、ドイツ側の要請が一致して成立した。しかし実際には日本とドイツの戦争協力はあまり行われず、この同盟はファシズム諸国同士が自国の侵略に相手を利用しようとしたものに過ぎなかった。
日独伊防共協定(Anti-Comintern Pact 1937)・・・・1936年11月、コミンテルンの活動に関する情報交換、対ソ連政策に関して結ばれた日独防共協定に、翌年イタリアが加わって成立した。世界的に反ファシズムの動きがあらわになる中で、日本、ドイツ、イタリアが孤立を脱しようとして結んだ。
バドリオ(Pietro Badoglio 1871-1956)・・・・イタリアの軍人、政治家で首相(1943-44)。第一次世界大戦中からイタリア軍を指揮し、戦後1926年陸軍元帥となった。1935年エチオピア戦争の総司令官として活躍したが、第二次世界大戦への参戦には反対した。1943年7月ムッソリーニの後継首相となり、軍事独裁をしき9月に連合国と休戦を結んだ。その後もブリンディシ政府を指揮して逆にドイツに宣戦し、44年6月引退した。
バルボ(Italo Balbo 1896-1940)・・・・イタリアのファシスト。第一次世界大戦を積極的に支持し、戦後はフェルラーラのファシスト指導者としてローマ進軍ではファシスト四天王の一角を占めた。国防義勇軍司令官、航空相、リビア総督を歴任したが、飛行機事故で死亡した。
ファシズム(fascism)・・・・ファシズムの本家であるイタリアのムッソリーニの政権をはじめ、ナチス・ドイツ、軍国主義の日本、スペインのフランコ体制や東欧の権威主義体制など類似の形態を持つ政治体制を総称する。ファシズムとは帝国主義時代に入って矛盾を激化させた資本主義社会における国粋主義、暴力主義で、社会政策を行い中間層、農民の支持を受けた。またロシア革命への反革命という性格も持つ。ドイツ、イタリアなどではファシズム政党が下からの疑似革命で政権を奪取したが、日本では既存の体制そのものが上からファシズム化した。1930年代にはイギリスやフランスにおいてすらファシズム的運動が見られた。
ファシスト大評議会(Gran Consiglio del Fascismo)・・・・本来国家ファシスタ党の最高機関だったが、1928年以降は正式な国家機関として、首相、党、議会、軍部の代表者で構成された。党の問題には決定権を持ち、国政には審議権だけを持った。43年にはムッソリーニの罷免を要求した。
フィウメ問題・・・・イストリア半島南端のフィウメは元々スラヴ系民族が住んでいたが、19世紀後半以降イタリア系住民が増加し、イタリアはパリ講和会議でフィウメの併合を主張した。1919年9月にはダヌンツィオが義勇軍を率いてフィウメを占領するなどしたが、ユーゴスラビアとの交渉の結果、イタリアが24年併合した。
仏伊ローマ協定(Patto di Roma)・・・・1935年1月7日、フランス外相ラヴァルとムッソリーニとの間で調印された。フランスはアフリカの植民地の一部をイタリアに譲る代わり、チュニジアのイタリア系住民問題を解決した。ラヴァルはこのとき、イタリアのエチオピア征服を了承した。
ボッタイ(Giuseppe Bottai 1895-1959)・・・・イタリアのファシスト。ローマ進軍を計画し、1936年文相となった。ムッソリーニ失脚に加担したが戦後終身刑に処せられた。
ボノーミ(Ivanoe Bonomi 1873-1951)・・・・イタリアの社会主義者、首相(1921-22,44-45)。首相としてラパロ条約に調印し、ムッソリーニ政権下では国民解放委員会議長を務めた。またバドリオの後継首相も務めた。
マッテオッティ(Giacomo Matteotti 1885-1924)・・・・イタリア社会党代議士で、1924年5月ファシストの暴力選挙を批判する演説を行い暗殺された。これに抗議して反ファシズム政党は議会を離脱し、アヴェンティーノ・ブロックを形成し、ファシズム政権は一時危機に陥った。アヴェンティーノとは古代ローマ時代に反対派が立てこもった丘の名前で、反対派のことを指す言葉。
マラパルテ(Curzio Malaparte 1898-1957)・・・・イタリアの作家。ファシスト党に参加したが、ムッソリーニを批判し流刑になった。主著「クーデターの技術」(1931)はボリシェヴィキ革命、ブリュメール18日のクーデター、プリモ・デ・リベラ、ピウスツキ、イタリア・ファシズム革命を比較し、クーデターは純粋に技術の問題であるとした。本書は終章ではヒトラーの危険性を説き、30年代のヨーロッパで政治的に利用された。
ミュンヘン会談(Münchener Konferenz 1938)・・・・ナチス=ドイツはドイツ系住民の多いことを理由にチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。そこで英仏独伊4カ国首脳は1938年9月29日-30日会談し、ミュンヘン協定でドイツの要求を受け入れた。この会議にはチェコスロバキアもソ連も参加できず、宥和政策の頂点といわれる。
ムッソリーニ(Benito Mussolini 1883-1945)・・・・イタリアの政治家、独裁者。はじめイタリア社会党の左派に所属し、「前進」誌の編集に当たった。第一次世界大戦に際しイタリアの参戦を主張し、党から除名された。戦後ファシズム運動をおこし、22年ローマ進軍を行い、首相(1922-43)に就任した。議会政治に代わって全体主義政策を行い、バチカン市国樹立、エチオピアとアルバニアの侵略を進め、ドイツと同盟した。ドイツとともにイギリス、フランスに宣戦布告したが、アフリカ、バルカン半島で連敗し、連合軍のシチリア上陸で、43年7月政権は崩壊した。ドイツ軍に救出され北イタリアにイタリア社会共和国をたてたが、これは全くドイツ軍の傀儡で、45年にパルチザンによって射殺された。
四カ国条約(Four Power Pacific Treaty 1921)・・・・ワシントン会議中、1921年12月英米日仏間で成立した、正式名称「太平洋における島嶼たる属地および島嶼たる領地に関する四カ国条約」。太平洋の領土に関する現状維持と、紛争の平和的解決を定め、日英同盟を終了させた。
ラテラン条約(Patti Lateranensi 1929)・・・・1929年2月、ローマ教皇とムッソリーニとの間で結ばれた協定。教会の国家からの独立を保障し、バチカン市国の独立を認めた。教会と国家の関係を規定し、戦後もイタリア共和国憲法第七条で守られている。
ラパロ条約(Rapallo Treaty)・・・・(1)1920年11月、イタリアとユーゴスラヴィアの結んだ条約で、フィウメの一部をユーゴ領、残りを独立自由市とすることを決めた。(2)1922年4月、ドイツが国際社会ではじめてソ連を承認した条約。賠償の放棄、外交関係の回復、経済協力を定めた。
労働総同盟(Confederazione Generale del Lavoro CGdL 1906)・・・・イタリアの労働運動は労働会議所(地域別組織)が強く、またアナルコ・サンディカリストの勢力が強いという特徴を持っていた。これはフランスに類似している。
ロカルノ条約(Locarno Pact 1925)・・・・イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、ポーランド、チェコの7カ国が、スイスのロカルノで調印した集団安全保障条約。仏独国境の現状維持、チェコ、ポーランドとフランスとの相互援助条約、ドイツの国際連盟加盟を内容とした。この条約でヨーロッパは安定し、ロカルノ体制と呼ばれる。
ロッコ(Alfredo Rocco 1875-1935)・・・・イタリアのファシスト。ファシズム政権成立後は下院議長、法相などを歴任し、法制面での独裁化を進めた。
ローマ進軍(Marcia su Roma 1922)・・・・1922年10月、国家ファシスタ党は、ナポリに4万人を集めてデモを行った。しかしムッソリーニは怖じ気づいてミラノで待機していた。28日ローマ近郊から進軍が開始され、ファクタ首相は戒厳令を求めたが国王は拒否した。ファシストはローマに入り、29日ムッソリーニに組閣が命じられた。
ワシントン会議(Washington Conference1921-22)・・・・第一次世界大戦後、日本の進出を押さえるために、アメリカが開催した国際会議。米英日仏伊、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国が参加し、中国、太平洋問題について協議した。その結果、四カ国条約、九カ国条約、海軍軍縮条約が結ばれ、日本の膨張は押さえられた。そのかわり日米関係はその後緊張することになった。
ワシントン海軍軍縮条約(1922)・・・・1922年2月、米英日仏伊の間で、「海軍軍備関する条約」が結ばれた。主力艦の保有トン数を、順に5:5:3:1.67:1.67に制限した。
イタリア政治史(1815-1915)
ローマ教皇関係を含む。
イタリア革命(Italian Revolution 1848-49)・・・・ミラノの五日革命の後、サルディーニャ王国はオーストリアに宣戦した。同時にヴェネチアではマニンが独立共和国を宣言した。教皇ピウス9世、モデナ、パルマ、トスカナ、ナポリの指導者の支援も受けて、イタリア連合軍は7万のオーストリア軍を攻めた。しかしサルディーニャ王カルロ=アルベルトの優柔不断のため敗れ、イタリア諸国の連合は解体した。サルディーニャ軍は48年7月クストッツァで大敗を喫したうえ、翌年3月ノヴァラの戦いでも敗れ、カルロ=アルベルトは退位した。王位を継いだ息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は厳しい講和を受け入れなければならなかった。一方なお革命委員会の支配していたローマではガリバルディが介入してきたフランス軍を撃退した。さらにナポリ、スペイン軍も敗退させたが、フランス軍の増援についに敗れた。49年6月ローマは陥落し、教皇の支配が再び復活した。ヴェネチアのマニン軍もオーストリア軍に抵抗したが、8月に降伏した。
イタリア社会党(Partito Socialista Italiano 1892)・・・・イタリアの社会主義政党で、第一次世界大戦後、一時第一党となったが、左派が共産党を組織すると弱体化し、ファシズム台頭を招いた。第二次世界大戦後は共産党と連立したのち、左右に分裂した。
イタリア独立戦争(Italian War of Independence 1859-61)・・・・サルディーニャのカヴール首相は、イタリア統一のためにナポレオン3世と同盟した。これに刺激されたオーストリアは1859年4月に宣戦布告した。フランス、サルディーニャ連合軍は、ソルフェリーノとマジェンタで勝利し、ミラノを占領した。しかし統一イタリアの出現をおそれたフランスはヴィラフランカ講和を結んでしまい、サルディーニャはロンバルディアを得たにとどまった。この事態を受けてカヴールは責任をとって辞職した。60年カヴールは首相に復帰し、サヴォイアとニースの割譲を認める一方、支配者の亡命したモデナ、パルマ、トスカナ、ロマーニャを国民投票で併合した。シチリア島ではガリバルディが征服を行っていた。カヴールは当初彼に反対していたが、途中からガリバルディの両シチリア王国征服を支援した。カヴールは教皇軍を攻撃する一方、ガリバルディに圧力をかけ、シチリアと南イタリアを献上させた。61年2月、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はトリノの国会でイタリア王と宣言された。この段階でも、オーストリア占領下のヴェネチアと、フランス軍占領下のローマだけはイタリア王国に加われなかった。カヴールの死後、ガリバルディは再起しローマ攻撃を準備したが、イタリア軍の妨害を受けた。後にプロイセン・オーストリア戦争に乗じてイタリアはプロイセンと同盟し、オーストリアと戦った。戦闘は1866年6月24日、クストッツァの戦いでも7月20日リッサ沖の海戦でもイタリアは敗れたが、講和条約でヴェネチアはイタリアに帰属した。なおこのとき戦闘で敗れたことから、南チロル、イストリア半島はなおオーストリア領にとどまり、「未回収のイタリア」問題は20世紀に至るまで持ち越されることになった。翌年ガリバルディはまたしてもローマ奪回を意図したが、フランス軍に敗れた。70年になって普仏戦争が発生し、フランス軍がローマから撤退すると、イタリアは容易にローマを併合することができ、首都をフィレンツェからローマに移した。
イタリアの反乱(Italian Revolts 1831-34)・・・・オーストリアの支配下にあったイタリア諸国はフランス革命の思想とマッツィーニの運動に影響されて、臨時政府を樹立しようとした。モデナ公は失脚し、パルマ、ロマーニャ、マルケ、ウンブリアでも臨時政府が作られたが、教皇の要請を受けたオーストリアによって鎮圧された。
五日革命(Five Days Revolt 1848)・・・・1848年3月、ミラノでは専制支配に対する激しい抵抗が起きた。18日から23日まで続いた暴動で、市内1650ヶ所でバリケードが築かれ、オーストリア軍を一時撤退させたが、数ヶ月後には再びかえってきたオーストリアによって支配された。
ヴァティカン公会議(第一回 1869-70)・・・・教皇ピウス9世が召集した20回目の公会議。600人以上が参加し、教皇首位権、教皇の不可謬性が確認され、近代的異端説を攻撃した。イタリア軍のローマ併合で閉幕した。教皇無謬説に反対する人々は、後にカトリックから分裂し、古カトリック教会を結成した。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele ? 1820-78 イタリア王 位1861-78)・・・・1849年サルデーニャ王として即位し、カヴールを首相に任命した。オーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得した。一連のイタリア統一を推進したが、サヴォイアとニースはフランスに割譲した。プロイセン・オーストリア戦争ではプロイセン側に立って戦い、ヴェネチア地方を獲得した。普仏戦争ではローマを併合したが、「未回収のイタリア」はその後のイタリア史に影を落とした。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele ?1869-1947 イタリア王 位1900-46)・・・・立憲君主制をとったが、やがて議会に対抗した。第一次世界大戦ではイタリアを協商国側に立って参戦させ、戦後はムッソリーニを首相とした。ファシズム政権期には権力を失ったが、ムッソリーニ失脚には重要な役割を果たした。しかしファシズムへの責任を問われ、退位した。
ヴィラフランカの講和(Villafranca 1859)・・・・ナポレオン3世は、サルディーニャの対オーストリア戦争支援を約束したものの、強大な統一イタリアの出現をおそれ、ソルフェリーノの戦い後、59年7月にオーストリアと講和を結んだ。この結果サルディーニャはロンバルディアを獲得しただけで戦争を中断しなければならなかった。
ウィーン体制・・・・ウィーン会議によって樹立されたヨーロッパの国際秩序で、復古主義を旨とする反動体制であった。神聖同盟、四国同盟によって担保され、諸国はメッテルニヒの指導で各地の民族運動、自由主義運動を弾圧したが、ギリシャの独立や30年の諸革命によって動揺し、48年二月革命と三月革命によって崩壊した。
ウンベルト1世(Umberto ?1844-1900 イタリア王 位 1878-1900)・・・・若き日にはイタリア統一のために戦い、第二代イタリア王に即位した。1900年アナキストによって暗殺された。
カヴール(Camillo Benso conte di Cavour 1810-61)・・・・サルディーニャ王国の政治家。英国政治に心酔し、首相(1852-59)として経済の振興に努め、ナポレオン3世を味方にしてオーストリアと戦ったが、ヴィラフランカ講和条約をめぐって辞任した。しかし翌年復帰し、ガリバルディを支援してシチリア、南イタリアを獲得した。統一達成後に急死した。
ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi 1807-82)・・・・イタリアの愛国者。1834年青年イタリア党に加わり、死刑判決を受けるが亡命した。49年にはローマ共和国に加わるが、再び亡命を余儀なくされた。イタリア統一の方式をめぐって一時カヴールと対立したが、1860年「千人隊」とともにジェノバを出航、シチリア島に上陸し、ナポリ王国から解放した。さらに南イタリアを征服し、ナポリ王を追放した。その後南イタリアをヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、ヴェネチア、ローマを解放したあとは個人的な報酬をことごとく辞退して隠遁生活に入った。
カルボナリ党(Carboneria)・・・・1806年頃結成された秘密結社。組織は幾段もの階層に分かれ、複雑な入会の儀式を行った。北イタリアに浸透するにつれ、立憲自由主義運動として、20年のナポリ革命、21年ピエモンテ革命、31年中部イタリア革命を指導したが、後に衰退した。
カルロ=アルベルト(Carlo Alberto 1798-1849 サルディーニャ王 位1831-49)・・・・サヴォイア家出身で、1821年ピエモンテ革命の時は憲法発布を約束したが、叔父に王位を奪われた。31年即位し、絶対君主としてアルベルト憲法を発布し、議会を創設した。イタリア統一を目指しオーストリアに対し戦争を起こすが、ノヴァラの戦いで敗れて退位した。
クリスピ(Francesco Crispi 1818-1901)・・・・イタリアの政治家で、1860年シチリアで民族運動を組織した。首相(1887-91,93-96)を務めアフリカ侵略を企てたが、アドワの敗戦の責任をとって辞職した。
クリミア戦争(Crimean War 1853-56)・・・・かねてより南下政策を進めていたロシアは、イェルサレムの聖地管理権を口実にオスマン・トルコ帝国と開戦したが、ロシア艦隊がシノーペの海戦で勝利すると、イギリス、フランスがトルコ側で参戦した。イギリス軍2万、フランス軍3万、トルコ軍6千の連合軍はクリミア半島に上陸、ロシア軍5万の立てこもるセヴァストポリ要塞を攻撃した。1855年9月に要塞は陥落し、翌年のパリ条約ではオスマン帝国の領土保全、黒海の中立化などが決められた。この戦いは後進的な農奴制ロシアの西欧への敗北であり、南下政策は挫折した。また、オーストリアがロシアに味方しなかったことで、神聖同盟以来の両国関係に亀裂が生じ、ドイツ、イタリアの統一を容易にした。なおこのときサルディーニャ王国は英仏側に立って参戦している。
サヴォイア家(Savoia)・・・・11世紀のサヴォイア伯ウンベルト1世に由来するサルディーニャ王国、1861年以降1946年に王制が廃止されるまでイタリアの王家だった。
サルディーニャ王国(Sardegna)・・・・トリノを都とするサヴォイア家の小王国で、イタリア統一の母体となった。
三国同盟(Triple Alliance1882)・・・・1881年フランスがチュニジアを保護国化すると、当地に植民していたイタリアはドイツに接近し、1882年オーストリア・ハンガリー帝国との間で三国同盟が成立した。同盟は四回にわたって更新されたが、やがてイタリアはフランスと妥協し中立に向かった。1915年、イタリアの協商国側にたっての参戦で消滅した。
サンディカリズム(Syndicalisme)・・・・労働組合の直接行動による革命を志向する思想で、19世紀末のフランス、イタリア、スペインで有力であった。労働者の議会への進出に反対したが、第一次世界大戦後は退潮した。
サン・マリノ(Republica di San Marino)・・・・中部イタリアにある世界最小の共和国。ティターノ山を中心とする要害にあり、10世紀以来共和制を取っている。
自由主義(Liberalism)・・・・封建的な束縛からの政治的、経済的自由を求める市民階層の思想を指す。イギリスにおいては名誉革命後に政治的自由ならびに資本主義の発展に不可欠な経済的自由が希求された。経済的自由主義は古典派経済学で表現されている。一方中東欧では、19世紀にナショナリズムと結合して政治的自由を求める運動が行われ、1848年革命にいたった。
ジョリッティ(Giovanni Giolitti 1842-1928)・・・・イタリアの自由主義政治家で、五回にわたり首相(1892-93,1903-5,06-09,11-13,20-21)を務め、ジョリッティ時代を築く。北部の工業化を進め、選挙法を改正し、カトリック教徒の支持を得た。第一次世界大戦には中立を守ろうとしたが失敗し、戦後はファシストと連合したためムッソリーニの台頭を助けた。
神聖同盟(Holy Alliance 1815 )・・・・1815年9月に、ロシア、プロイセン、オーストリアの三君主の間に結ばれた同盟。キリスト教的友愛を理念とする抽象的な内容で、後にイギリス王、ローマ教皇、オスマン帝国スルタン以外のヨーロッパの全君主が参加した。ウィーン体制下のヨーロッパの反動政策の基盤となった。
スブリーミ・マエストリ・ペリフェッティ(Sublime Maestri Perfetti)・・・・「完全至高の親方達」の意味で、ブオナローティ派の秘密結社。カルボナリ党と同じく位階制を持ち、土地の均田制という最終目標は上層部だけで共有されていた。
青年イタリア党(Giovine Italia)・・・・マッツィーニによって1831年結成された秘密結社。リソルジメント運動を代表し、共和制による統一を目指して反乱を繰り返したが、激しい弾圧によって壊滅した。
千人隊(Il Mille)・・・・通称赤シャツ隊。1860年シチリアで反乱が起きた際、反乱を支援するためにガリバルディがジェノバで編成した義勇軍。5月11日シチリア島に上陸し、7月までに全島を征服した。さらに南イタリアを征服し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上した。
ソルフェリーノの戦い(Solferino 1859)・・・・イタリア独立戦争で、フランス軍がオーストリア軍を破った戦い。イタリア勝利の基礎となった。
第二インターナショナル(The Second International 1889-1914)・・・・1870年代から80年代にかけて、各国で社会主義政党が設立されたのにあわせて、89年パリで19カ国の代表が集まって国際社会主義者大会を開き、第二インターナショナルの設立を決議した。ドイツ社会民主党が中心となった労働者政党、労働組合のゆるやかな連合で、無政府主義者はのちには排除された。しかし今世紀にはいると左右の対立で動揺し、1907年戦争反対を決議したものの、14年大戦が始まると各国の社会主義者達は戦争に協力し、第二インターナショナルは崩壊した。
帝国主義(Imperialism)・・・・19世紀後半、資本主義が高度に発達し、独占資本主義の段階に入った国に現れた先進諸国で見られた対外膨張主義。国によって様々な形態をとったが、1870年代末のイギリスに始まるといわれる。資本の集積を背景に、原料及び市場を求めてイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、日本、アメリカなど列強は対外進出を行い、アジア、アフリカに植民地を獲得、資本投下を行った。一般に帝国主義勢力は国内の左翼、進出先の民族運動を抑圧した。1900年頃世界分割が完了し、以後は列強同士の植民地再分割の動きが激化した
トスカナ(Toscana)・・・・イタリア中西部の大公国で、18世紀以来ナポレオン戦争期をのぞいてハプスブルク系君主が統治した。1859年サルディーニャ王国に併合された。
トラスフォルミズモ(Trasformismo)・・・・妥協により多数派をつくり出すイタリア政治の伝統をいう。1876年にデプレティスの左派政府が保守派に妥協したことに始まる。以後、ジョリッティや戦後の中道左派政権にいたるまでこの傾向が見られる。
ナショナリズム(Nationalism)・・・・19世紀のヨーロッパでは、ナショナリズムとは主に抑圧された諸国民の民族自決あるいは国家統一を求める主張を指した。イタリアの場合、オーストリア支配からの解放と国家統一という両方の要素をもっていた。前者に傾斜した東欧と、後者に傾斜したドイツとの中間的な存在だったわけである。やがて帝国主義の時代になると、国家の膨張主義をもナショナリズムと呼ばれることがあり、ファシズムはその極端な形だった。
ナポリ革命(Neapolitan Revolution 1820-21)・・・・1820年7月、民主的な改革を求める兵士の反乱がナポリ王国で発生し、国王は立憲革命を認めた。しかし神聖同盟諸国は介入を計画し、国王も援助を求めた。1821年3月には占領軍がやってきて、国王の専制政治が復活した。
バルボ(Cesare Balbo 1789-1853)・・・・イタリアの歴史家、政治家。穏健自由主義貴族として、1848年サルディーニャ王国の初代首相となった。
パルマ(Parma)・・・・北イタリアの古都で、ウィーン体制では1815年から47年までマリ・ルイーズが君主を占めた。1859年サルディーニャ王国に併合された。
ピウス9世(Pius ? 1792-1878 ローマ教皇 位 1846-78)・・・・1840年枢機卿に選出され、ローマ教皇となってからは、数々の改革に乗り出すが、48年の革命では一時亡命した。革命後次第に反動的となり、進神学の近代主義を批判した。バチカン公会議を召集し、教皇の不可謬性を宣言した。イタリア統一にともなってローマ教皇領を失い、イタリアとの和解を拒否して「バチカンの囚人」として暮らした。なお、ピウス9世の教皇在任期間は史上最長。
ピエモンテ革命(Piemontese Revolution 1821)・・・・サルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世の反動政治に対し、立憲制をもとめてカルボナリ党が自由主義貴族とともに蜂起した。のちの国王カルロ・アルベルトの支持を受けて現国王を退位させたが、オーストリア、サルディーニャ連合軍の前に鎮圧された。
フェルディナント1世(Ferdinando?1751-1825 両シチリア王 位 1816-25)・・・・ナポリ国王(1795-99,99-1806)としてはフェルディナンド4世。フランスに支持されたローマ共和国を弾圧したが、1801年には和解せざるをえなかった。ウィーン条約で両シチリア王国を復活させ、厳しい絶対王政をしいた。
ブオナローティ(Filippo-Michaele Buonarroti 1761-1837)・・・・イタリア生まれの革命家。フランス革命時のバブーフ派の残党で、革命後ジュネーブ、ブリュッセル、パリでバブーフ主義に基づく革命運動を指導した。
プロイセン・オーストリア戦争(七週間戦争 Seven Weeks’ War 1866 )・・・・プロイセン宰相ビルマルクは、デンマーク戦争後の協定でオーストリアの管理が決まっていたホルシュタインを占領し、プロイセンはオーストリアと開戦した。プロイセンはオーストリア側に付いたザクセン、ハノーヴァー、ヘッセン、ボヘミアを占領し、ケーニヒスグレーツの戦いで大勝した。ナポレオン三世による仲介でプラハ条約が結ばれ、オーストリアはドイツ内部に干渉しないこと、プロイセンのシュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ハノーヴァー、ヘッセン、ナッサウ、フランクフルトの領有が決まった。ドイツ統一に関しては小ドイツ主義路線が確立したが、講和に際し賠償金を取らなかったことから、この後もプロイセン、オーストリアの関係は良好だった。そのほか、プロイセン側に付いたイタリアは戦闘では敗れたが、ヴェネチアを回復することができた。
プロンビエールの密約(Plombi?re 1858)・・・・ナポレオン3世とカヴールの間で結ばれた密約。サルディーニャ王国がサヴォイア、ニースをフランスに割譲する代わり、フランスはサルディーニャの対オーストリア戦争を支援することを約束した。しかし翌年の戦争でフランスは単独講和してしまい、約束を守らなかった。なお、サヴォイア、ニースの方は約束通りフランスに割譲された。
マッツィーニ(Giuseppe Mazzini 1805-72)・・・・ジェノバ出身のイタリアの愛国者、共和主義者。はじめカルボナリ党に加わり、投獄されたが、1831年青年イタリア党を結成した。1848年ロンバルディアの反乱に関わり、49年ローマ共和国の三頭制の一角を担ったが、フランスの干渉で失敗した。59-60年にもイタリアの共和制を目指したが失敗した。
マニン(Daniele Manin 1804-57)・・・・1848年革命でヴェネツィア共和国大統領に選出された。対オーストリア戦争を指導したが翌年敗北し、亡命した。
未回収のイタリア(Italia Irredenta )・・・・イタリアはプロイセン=オーストリア戦争でヴェネチアを併合したが、南チロル、イストリア半島はなおオーストリア領にとどまった。これらの地域が未回収のイタリアと呼ばれ、その解放を目指す運動がイレデンティズモである。この問題はイタリア、オーストリア・ハンガリー帝国の関係を緊張させ、第一次世界大戦でのイタリアの参戦の原因にもなった。戦後これらの地域はイタリアに帰属した。
モデナ公国(Modena)・・・・北イタリアの大公国で、ウィーン体制下ではハプスブルク家が君主となった。1860年サルディーニャ王国に併合された。
モナコ公国(Monaco)・・・・仏伊国境に位置する公国で、1911年に憲法を制定した。賭博場のあることで名高い。
リカソリ(Bettino barone Ricasoli 1809-80)・・・・イタリアの政治家、首相(1861-62)。解放戦争期にトスカナ臨時政府を指揮し、カヴールの後を次いでイタリア王国首相となった。マッツィーニ派を利用してでもローマ併合を実現しようとしたが、国王と衝突し辞職した。
リソルジメント(Risorgimento)・・・・イタリアの自由、独立、統一を目指す運動を指す。31年の反乱の後は、穏健派が有力になり、教皇ピウス9世の即位は教皇主導の統一の期待感を高めた。しかし48年のイタリア独立戦争の過程で教皇主導路線は破綻した。かわりにヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が三色旗と自由主義憲法を守ったことはサルディーニャ王国主導の統一への期待を高めた。カヴール首相は近代化を進め、クリミア戦争で英仏側で参戦し、ナポレオン3世と結んでオーストリアと戦ったが、統一イタリアの出現をおそれたフランスは単独で講和してしまったので、ロンバルディアをえたにとどまった。その後カヴールはガリバルディを支援してシチリア島、南イタリアを獲得し、61年イタリア統一を達成した。
両シチリア王国(Due Sicilia 1815-61)・・・・ウィーン体制下で、ブルボン朝のシチリア王フェルディナント3世(=ナポリ王フェルディナント4世)が復位して成立した王国。1861年ガリバルディに征服された。
レオ13世(Leo ?? 1810-1903 ローマ教皇 位 1878-1903)・・・・ドイツの文化闘争、フランスの政教分離などで柔軟に対応したが、イタリアとは妥協しなかった。また、1891年社会主義を批判する回勅を発した。
ロンドン秘密条約(London 1915)・・・・第一次世界大戦が始まったのちも、イタリアは中立を守っていた。そこで協商国は1915年4月、イタリア参戦の代償に「未回収のイタリア」を戦後回復させることを約束した。この結果、イタリアは協商国側に立ってオーストリア・ハンガリーと戦うこととなった。
ロンバルド・ベネト王国(Lombardo・Veneto)・・・・ウィーン体制下で北イタリアに建設された王国。オーストリア皇帝が国王を兼ね、その実態はオーストリア領だった。