5分でわかるマラトンの戦い
マラトンの戦い |
アテナイ プラタイア |
VS | ペルシア王国 | |
ミルティアデス含む10人 | ダティス アルタプレネス |
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アテナイ 9000 プラタイア 1000 |
20000(推定) |
背景 紀元前499年から494年にかけてイオニア地方(アナトリア半島のエーゲ海沿岸)のギリシア諸都市がペルシアの支配に対して反乱を起こした。一時はアナトリアの主要都市サルディスを落としたギリシア連合軍も、大帝国ペルシアの圧倒的国力の前に敗れ去った。 この反乱にアテナイが手を貸していたことを知ったペルシア王ダレイオス1世は報復処置としてギリシアにアルタプレネスと甥のダティスを派遣した。両名に率いられたペルシア軍は瞬く間にエーゲ海のギリシア諸都市を占領し、ギリシア本土のアッティカ地方(アテナイはアッティカにある)に上陸した。この遠征に同行していたヒッピアス(アテナイを追放された僭主でアテナイ人に恨みを持っていた)によるマラトンは行動に好都合であるとの助言を容れ、両ペルシア軍はマラトンに布陣した。 一方、この危機に際してアテナイはスパルタに援軍を要請したが、スパルタではアポロンを祀るカルネイア祭の期間中だったので、すぐには出陣が出来ないとの返答が返ってきた。スパルタの名誉のために言っておくが、別にスパルタ側は祭を楽しみたいからそう応えたのではなく、祭の期間中は戦争はしない、というルールがあったのでそのような返答を返さざるを得なかった。 そして、アテナイからは9000人が出陣し、それに近隣の都市国家プラタイアからの援軍1000人が合流した。軍を率いる10人の将軍たちは作戦会議をしたが、彼らの間ではペルシア軍との戦力差を考えてスパルタ軍の到着まで決戦を見送るか、すぐに決戦を挑むかで意見が真っ二つに割れた。そこで交戦派の将軍ミルティアデスは10人の将軍の他に投票権を持つ軍事長官カリマコスを説得した。その後、将軍たちは共和制で有名なアテナイらしく多数決で作戦を決めた。結果として、カリマコスの説得によって数の上で勝ったミルティアデスら交戦派の意見が通り、決戦の運びとなった。 10人の将軍たちは日替わりで指揮権を持ち合っており、ミルティアデスは自分の番が回ってくると、戦列を整えさせ、戦いの準備をした。 ミルティアデスは、左翼にプラタイア軍を、右翼にカリマコス指揮下のアテナイ軍主力部隊を配置したが、数で勝るペルシア軍の戦線の幅に自軍の戦線の幅を合わせたため、中央が手薄となり、わずか数列の厚みしかなかった。また、アテナイ・プラタイア連合軍は丘のふもとに布陣しており、その丘の周囲には木々が生い茂っていたため、ペルシア軍は騎兵の機動力を活かした包囲という手を使えなかった。 しかし、ダティスは自軍の数を頼っており、さらにスパルタ軍が来る前に勝負を決めようと、決戦の腹づもりだった。 ペルシア軍の数については、ローマの伝記作家コルネリウス・ネポスは「ミルティアデス伝」において歩兵200000、騎兵10000としているが、誇張が入っているのは疑いようがなく、そのまま信じることは出来ない。したがって、通説となっている数値をここでは採用した。 経過 その後 |