中国史の名将語るスレ
軍隊の指揮官として戦場に臨んだことがあれば、王侯、文官、農民、盗賊、誰でも問いません
議論のベースは基本的に史書からの引用でお願いします
戦術の傑作や鬼謀神算のような戦略があればマイナーでも構わないのでどんどん紹介してください
可能であれば古代(後漢中期まで)、中世(後漢末~唐中期)、近世(唐末以降)でそれぞれ代表者を(人数は未定ですが)
選出したいと思います
1.統一事業軍事功労者(君主を含む)部門
秦:王翦
前漢:韓信
後漢:劉秀
西晋:杜預
隋:楊素
唐:李世民
北宋:趙匡胤
大元ウルス:クビライ
明:徐達
清:ドルゴン?
2.群雄部門
西楚の覇王 項羽
魏武帝 曹操
後趙明帝 石勒、前秦 苻堅、東晋大司馬 桓温、後燕成武帝 慕容垂
宋武帝 劉裕、北魏道武帝 拓跋珪、太武帝 拓跋燾
北魏太原王 爾朱栄、北斉文宣帝 高洋
魏公 李密、鄭帝 王世充、夏王 竇建徳
燕 安禄山、史思明
後唐太祖 李克用、荘宗 李存勗、後周世宗 柴栄
北元河南王 拡廓帖木児、陳漢高祖 陳友諒、蘇州 張士誠、海賊 方国珍
闖王 李自成、国姓爺 鄭成功、平西王 呉三桂
3.国土防衛戦指揮官部門
これは有名どころだけで、東晋の謝玄、南宋の孟珙、明の于謙、袁崇煥みたいな人たち
4.異民族平定部門
国外遠征組
5.国内反乱鎮圧部門
特にこの部門には拘りがあるわけではありませんが
各時代の代表者を選出後に、惜しくも漏れた連中を部門代表で選出できればと思って設けています
明らかに政治制度や社会の構成要素が変わってるっぽいところがあるからこの形で区分しました
春秋戦国以前:保留
古代:秦の天下統一(紀元前221年)~後漢後期(180年代頃)、約400年間
(秦、前漢、新、後漢の4つの正統王朝)
中世:後漢後期(180年代)~中唐(850年代)、約670年間
(晋、隋、唐の3つの正統王朝、曹魏、前秦、北魏、北周の4つの華北統一政権)
近世:唐末以降(850年代~1911年)、約1050年間
(正統王朝としての宋、征服王朝としての元、後期中華帝国としての明、清、4つの王朝)
各時代の枠は、(正統王朝+同時代の覇権国家)×期間/1000で計算して
古代:16名、中世47名、近世40名ぐらいがちょうどいいのではないかと見積もってます
乱世が長かった中世期にある程度枠増やした方が良いのではないかと愚考しました
最強の人物一名選出でも問題はないかもしれません
確かに、期を逃さずに挙兵して新帝を担いで政権取れたのは非凡だが、名将かといわれると違うんじゃないか。
北魏なら太武帝だろ。もしくは、ギリギリの状態から王朝立ち上げた道武帝か。
まあ、群雄部門はとりあえず列挙しただけなんで
どんどん名前挙げてってもらった方が良いです
そのうち獲得領土評価とかしますか
でも、名将かと言われると違うような。
高歓は挙げたい人物ではあるんだが、そうすると東魏・北斉の元首である
高歓、高澄、高洋、高演、高湛の五名は全員名将入りしてもおかしくない面々だから
ちょっと躊躇して、一番糞強かった高洋にとどめておいた
北斉は軍事的に有能な人間が多すぎてバランスがとりにくい
西魏・北周側は、宇文憲、尉遅迥、韋孝寛は名将確定かなあ
君主があんまり親征しないんだよな
二人とも時代を代表する人物ではあるが、それほど強い印象ないな
お互い配下が名将良将揃いでそこ等の優越も付けがたい
高歓の軍事指揮官としての手腕は、爾朱氏討伐の一連の戦で遺憾なく発揮されてますし
華北再統一の直前まで行ったということで、少なくとも同時代では陳慶之や爾朱栄を抑えて
トップだったと評価しています(狭いスパンでの評価になっちゃいますが)
ただ、西魏の連中が半端じゃなく粘り強かったのが大誤算
韋孝寛ってこの時期から活躍して隋の簒奪直前まで生きていたんですよねえ、長生きだ
>高歓の軍事指揮官としての手腕は、爾朱氏討伐の一連の戦で遺憾なく発揮されてますし
そうなんだ
韓陵の戦いで爾朱一族の大軍破ったのは知ってたけど
最後の最後の戦いで、その韋孝寛に後れを取った印象が強くて
著名な軍人を挙げますか
東魏・北斉編
斛律光:北周との熾烈な陣取り合戦でことごとく勝利を収めた北斉屈指の名将
宇文憲や韋孝寛といった北周の精鋭軍のみならず北周・突厥連合軍すらも撃破している
主戦場は主に汾水流域、北は朔州から南は洛陽まで、北周との国境線全線にわたって
八面六臂の大活躍、大規模な会戦、劣勢下での迎撃戦、攻城戦等、あらゆる作戦を
勝利に導いた(指揮する軍の規模は歩兵・騎兵混成の約5万前後のケースが多い)
でも若い頃は候景に撃退されていたりします
段韶:東魏~北斉の後半期まで、ほぼ全期間通じて政軍の柱石として活躍した名将
陳覇先を江淮で撃破し淮水流域を確保するとともに、564年には邙山で斛律光、高長恭
らとともに北周10万の軍を迎え撃ってこれを撃破している
戦術眼、情勢分析に優れ高歓もその見識を高く評価していた(参謀適正あり)
騎射が得意で騎兵指揮官として運用される場面が多い(兵数は不明)
慕容紹宗:当初は爾朱栄配下として出仕、高歓の決起に際しては高歓を侮ることがない
ように爾朱氏一党に諫言したが聞き入れられず、韓陵において惨敗に至る
爾朱氏が敗亡時、高歓に降伏することとなったが、すぐさま重用されるようになる
主戦場は徐州、潁州方面、西魏独孤信らを撃破する等の功績を挙げているが、最大の
功績はやはり高歓没後、候景の造反の際の鮮やかな梁軍殲滅戦と返す刀の候景撃破
さらに西魏の潁州攻略戦において劉豊とともに水攻めを計画・実行し、(本人は後に間抜け
な死に方をしてしまうことになるが)その後の高澄による潁州陥落のお膳立てをしている
最大で指揮した兵力は対候景戦で10万(自ら騎兵1万を率いて奇襲したりもしている)
獲得した領域・人口だと斛律光≧段韶>慕容昭宗になりますが、候景基準で考えると、慕容
紹宗が他二名を圧倒します
三者三様でタイプが微妙に異なりますが
広大な戦域全体では斛律光の指揮が光ります、おそらく戦争全体の指導能力は斛律光が最も有能だと思います
逆に慕容紹宗は個別の戦場での指揮能力は他二名に勝っている印象です、戦死?したけど
段韶は高歓の片腕として時々ケツを叩く場面も見られる、参謀タイプとしては申し分ない人物
しかし、斛律光がいくら頑張っても、国境線はなかなか押し出せないのが難しいところ
陣地戦になると戦線が固定化してなかなか決着つかなくなるものですが、あれだけ北周を
撃破していて、それでも北周は頑強に侵攻してくるわけですから、戦況を打破するような
もう一手が必要だったのではないかと思わされるところです
大帝国と同盟することで戦力の不足分を補填できていた面もあるので
関東のみで連合軍を撃退しまくった北斉の戦争能力は中国史で見てもトップクラスに位置する
可能性はあります
韓信は劉邦(あと蕭何)ありきなので手放しでは称賛できないところがあります
本人が一番分かっていたというのが面白い部分ではありますが
著書は単なる戦術の指導者とは言えない只者ではない感が漂ってる
孫武は半端じゃないですね
そもそも戦争したら国家財政が傾くからやめろ、なんて普通は言えないですから
さまざまな提言がありますが
「戦いは正をもって合い(戦争は正面決戦することでお見合い、均衡状態となり)
奇をもって勝つ(奇襲(間接アプローチ的戦略)によりその均衡を崩す)」
は現代戦でも通用する軍事理論です(孫子学派でもこの部分は熟練者が教育に
当たっていた可能性が高いそうです)
奇襲がその効果を発揮するのは初めだけで時間の経過とともにその効果を失い、均衡状態に
陥る(ゆえに奇襲に次ぐ奇襲が必要となる、この概念は20世紀の軍事理論である電撃戦
などに反映されています、英のリデル・ハートを通じて)
今の軍事学者が頭突き付けても孫子レベルの軍事理論書は書けないと思います
整理力が異次元レベル、そのせいで初学者は完全に置いてけぼりですが
すごい分かりやすい部分はあります、あるいは呉子に通暁していた方が戦場では
勝てた可能性も高かったかもしれません
孫子は「戦争って何?」という矛盾や曖昧さを含んだわけの分からん事象を対象にした
研究の成果なので、孫子の著作の実践=勝利、ではなく
「自分が直面している戦争の形態はこういうものだ」「これに対してこのように対応する必要がある」
と考えるためのひとつの参考書的な位置づけだと自分の中で勝手に定義しています
(情報活動の必要性が喚起されるのは、そういう判断するための必要条件だからだと思います)
ルーチンワークに堕することなく自分で考えることが肝要、当たり前のことですけど実践はやはり難しい
やはり韋叔裕が最強なのか。
西魏・北周編の前に、宇文泰と高歓の泥仕合の概要を紹介します
534年に賀抜岳が高歓に内応した候莫陳悦により暗殺、宇文泰がその残党を掌握したことで
北魏孝武帝から大都督、雍州刺史兼尚書令に任じられ、関西における指導的地位を確立
536年正月、東魏は高歓自ら西魏の夏州を陥落させるとともに、西魏の霊州・涼州刺史を
降伏に追い込む、その後若干の小競り合いの後に、同年12月本格的な西魏征討作戦が
開始される 司徒高昂を上洛に、大都督竇泰を潼関にそれぞれ派遣し、高歓自らは蒲阪
から、三経路をもって西魏に侵攻する計画であった(字面では分かりにくいが、関中を北から
囲むように東魏が北辺の諸州を降伏に追い込み、関中の東の玄関口から主力をもって侵攻
するという形勢)この年、西魏は大飢饉に見舞われた
537年正月、宇文泰が機先を制して奇襲的に潼関の竇泰を撃破、自殺に追い込み、高歓
による三路侵攻作戦(蒲津の高歓が大規模な渡河準備をして囮となりつつ、その実潼関
方向から竇泰らの戦力を流すというもの)を頓挫させる
同年8月西魏が李弼を司令官に、于謹を前鋒にして東魏の陝(弘農)を攻略、続いて
楊標による河北(邵郡)の諸豪族らに対する帰順工作を実施、成功を収める
同年閏10月沙苑の戦い(高歓20万+高昂3万対宇文泰は弘農で1万、関中の主力は不明)
※有名なので省略します、戦役の結果、西魏が河東~洛陽まで奪取します
538年2月東魏大都督賀抜仁が南汾州を、大行台候景が河南の穎州、豫州、廣州を奪還
同年7月、候景、高昂らは金墉城に西魏の独孤信を包囲
同年8月宇文泰が金墉救援の軍を発すると、東魏軍は洛陽から撤退して河橋~邙山の間に
布陣、宇文泰が軽騎兵をもって追撃し、両軍の間でかつてない激戦が繰り広げられる
(河橋・邙山の戦い)宇文泰が落馬して捕虜になりかけたり、高昂が味方に見捨てられて
斬殺されたりと、実にしっちゃかめっちゃか、戦役の結果として、東魏軍は軍の枢軸とも言うべき
司徒高昂、西兗州刺史の宋顕らが戦死、兵の損失は戦死1万、捕虜1万5千
対する西魏は総兵力を投入しての救援作戦であったため、国力の損耗が大きく、洛陽の維持
が困難となり、弘農まで国境線を下げざるを得なくなった、両軍の完全な痛み分けである
538年12月西魏は洛陽を再度奪回し、襄州~廣州以西を版図に回復する
540年2月候景が出撃して荊州に迫るも、西魏は李弼、独孤信を武関に派遣し防備を
固めたため、候景は軍を撤退、会戦には至らなかった
541年東魏は製塩や穀物備蓄の経済振興策を実施し民力の回復に努めた
542年8月~10月高歓自ら軍を率い汾州、絳州方向から西魏へ侵攻、西魏は王思政を
もって玉壁においてこれを阻止、折からの大雪を受け多数の餓死者、凍死者を出した高歓は
成す術なく撤退する(第1次玉壁の戦い)
543年2月東魏の高慎が虎牢関をもって西魏に降伏(高澄が高慎お妻に言い寄り拒否され
た腹いせに彼女の服をズタズタに引き裂いて辱めたのが原因です、アホです)、支援要請を
受けた宇文泰が東魏領への侵攻を開始
同年3月西魏軍が河橋の南城を包囲、これに応じて高歓が10万の兵を率いて河北へ展開します
高歓の渡河を阻止するために燃え盛る舟艇を黄河上流域から流して河橋を焼き払おうとします
が、斛律金に防がれ失敗に終わり、高歓は無事に黄河の渡河を完了、邙山へ布陣し西魏軍
と対峙します(第2次邙山の戦い)
西魏軍は東魏軍への夜襲を図ったものの、これを察知した高歓が適切に対処して迎え撃った
ため惨敗を喫し、48名にも及ぶ将軍、幕僚たちを捕虜とされてしまいます
翌日、宇文泰は再度決戦を挑み、自ら率いる中軍、若干恵の右軍においては東魏軍を撃破
し敗走に追い込みましたが、左軍の趙貴が逆に東魏軍に撃破されたことにより、宇文泰の中軍
も劣勢に追い込まれ、遂に総崩れとなります
潰走する西魏軍を追撃する東魏軍に対し、独孤信、于謹が敗残兵を再編成して逆襲を敢行
するとともに、若干恵の欺騙・陽動により追撃は阻まれ、その間に宇文泰は関中まで撤退する
ことができました 高歓は陝を攻囲しますが達奚武の防戦により抜くことはできず、軍議の結果
一部をもって宇文泰を追撃するにとどめ、主力は東魏へと撤退するに決しました
両軍とも多大な損害を出したと推測されますが、特に西魏においては被害が大きく、その後の
軍制改革(府兵制)へとつながっていくこととなります
同年4月には候景が洛州、北豫州を奪取し、5月には虎牢関まで回復します
心労となり、高歓は病没することとなりました
西魏と東魏の初期の抗争を見ていると、両国とも完全に予備の縦深戦力が不足していて
敵領奥深くまでの追撃が実行不可能という問題点が導出されます
この両軍の対峙がやがて欧州の第1次世界大戦のような長期にわたる陣地戦を惹起することと
なります、戦線が膠着して、両軍が相互の城塞のラインにひたすら人的・物的資源を投入して
消耗し続ける不毛な戦争の幕が切って落とされたわけです
西魏・北周は四川、湖北に進出して、生産基盤を増強することに成功しますが、この上突厥と
結託してなお、正面から東魏・北斉を撃破することができなかったのが実情です
西魏・北周の将軍で第一級の将器と言えるのは
・ 平斉戦の総司令官である宇文憲(でも斛律光には歯が立たないよ)
・ 玉壁の戦役、斛律光粛清、斉攻略の具申、尉遅迥討伐等で赫々たる戦績を残す韋孝寛
(宇文護に対斉作戦の具申を却下された上に逆境に追い込まれたけど腐らないのは偉い)
・ 宇文泰の前鋒を幾度となく務めた猛将于謹、晩年は江陵攻略でも活躍(先遣部隊として非常に有能)
・ 蜀併合の功労者尉遅迥、楊堅に対する反乱時も突厥・陳と結託し相州・青州をもって大規模に
挙兵するなど一歩間違ってたら普通に勝ってたかもしれない
・ 苦労人独孤信、北海王元顥の撃破(おそらくこの時に陳慶之も撃破している可能性あり)、
三荊平定、赤水蕃鎮圧、涼州討伐等、貢献度はかなり高い
宇文泰の粘り強さは主人公補正みたいなものだと解釈してます
際どいところで運が良すぎるだろう、こいつ
……とも思いましたが微妙なんだよなー、思政
圧倒的に強いというよりも、善戦する場面が多いから好印象という感じで
領土を切り取れていないからそう感じてしまうのかもしれない、高澄に負けたのもあるし
この時期、梁が傍観同然なのはどうかと思います
主導性なさすぎ
西魏北周が巴蜀を獲得して国力が上がって北朝統一がより困難になったからかな
北周は軍国主義化して官民軍みんなで軍備増強に走って、しかも突厥の尻の穴まで舐めてたのに
北斉でバカ殿が帝位に就くまで決定的な勝利を得られなかったというのが、何かいろんな意味で終わってる
北斉を褒めるべきなのか、それとも宇文護がダメなだけなのか
兵の質にしても、六鎮にいた鮮卑中心の兵戸はほぼ北斉にいたわけだし、戦力でも劣ってたからそうそう勝てんわ。
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆