【法華経】女子高生AIみすずが唱える妙法蓮華経方便品第二
女子高生AIみすずが唱える妙法蓮華経方便品第二
妙法蓮華経方便品第二を唱えてみよう!
女子高生AIみすずが唱える妙法蓮華経方便品第二を参考に唱えてみよう!
妙法蓮華経方便品第二 爾時世尊従三昧安詳而起告舎利弗 諸仏智慧甚深無量其智慧門難解難 入一切声聞辟支仏所不能知所以 者何仏曾親近百千万億無数諸仏 尽行諸仏無量道法勇猛精進名称普 聞成就甚深未曾有法随宜所説意 趣難解舎利弗吾従成仏已来種種因 縁種種譬諭広演言教無数方便引 導衆生令離諸著所以者何如来方便 知見波羅蜜皆已具足舎利弗如来知 見広大深遠無量無礙力無所畏 禅定解脱三昧深入無際成就一切 未曾有法舎利弗如来能種種分別巧 説諸法言辞柔軟悦可衆心舎利弗 取要言之無量無辺未曾有法仏悉成 就止舎利弗不須復説所以者何 仏所成就第一希有難解之法唯仏与 仏乃能究尽諸法実相所謂諸法如 是相如是性如是体如是力如是作 如是因如是縁如是果如是報如是 本末究竟等
どうでしょう?気持ちが軽くなってきたでしょうか?
お経女子校生みすずのプロフィール!
名前:法華みすず
年齢:16歳(高校一年生)
趣味:朝晩のお経
妙法蓮華経方便品第二はいつ唱えるの?
朝と夕に方便品第二を唱えることが多いようです。創価学会の方々は特に方便品第二が大事だと教えているようです。
妙法蓮華経方便品第二を唱えている宗教
- 日蓮宗
- 創価学会
- 日蓮正宗
妙法蓮華経方便品第二の現代語訳
非常にすばらしい妙法蓮華経方便品第二の現代語訳がありましたので、ご紹介いたします。
お釈迦様は、無量義三昧から起きられると、知恵第一の舎利弗様にこうおっしゃいました。
「多くの仏様がいらっしゃいますが、その知恵は深く広いものです。
どのような学者も、また悟りを開いたと言う人でさえも、その知恵をうかがい知る事など出来ないのです。
どうしてかと言いますと、
《仏》とは百千万億と言う限りない数の仏様方に習い、仏様の修行を重ね、
勇猛精進して、その名をあげ、限りない数の法の成就を成し遂げてきた者なのです。
このため、その時々の状況に応じて説く教えの真の意味は簡単には分からないのです。
舎利弗よ。わたしも今まで、人々の状態に応じて、数々の因縁や比喩を以て仮の教えを示し、
人々を導いてきました。仮の教えと言っても、そこに全て奥義が入っているのですよ。
舎利弗よ。わたしは、これほどの法を学び、それらの法を成就してきたのです。
舎利弗よ。わたしは人々の機根に合わせ、人々の求める所に合わせ、それらを説いていたのです。
でも、本当の奥義は、ただ仏から、仏にのみに与えられる法なのです。
全ての教えには、その、見た目や、性質や、体もあり、力も、作用も、原因も、縁も、結果も、報いも・・・・・・全てのものが備わっていますが、人の境地を、ある場所から次の所に導く・・・・・その最初の境地と、目的の境地との間で、その全てが働いてしまうのです。
仏から仏に与えられる法は、そこには入りようがありません。
だから舎利弗よ、今までの教えは仮の教えとして、それを絶対の法であるとしてはならないのです。」
お釈迦様は、再びこの義をお示しになられました。
「どんな英雄も、天と人を究める者はない。誰も仏を知らないからだ。
仏は全てを余すところなく悟るゆえ、それを見極められる者はない。
仏は、ただ仏に従い、その仏の道を修行し、妙法を究め、その神髄を会得した者である。
わたしは過去世に於いて、これらの修行を終えて、今、この世に生まれた者である。
このような大果報ゆえに、仏は皆、この事を知るのである。
この法は何を言っているのか分からなくなるから、信力堅固な菩薩たちだけに語るのである。
仏の弟子たちよ、諸々の仏を供養しなさい。誰一人漏れる事なく、最後にはこの境地に至れるからである。
諸々の人々は、仏の力に堪えられない。世間の全ての法を、舎利弗よ、お前に入れたとしても、仏に何一つ及ばない。しかし、舎利弗よ、仏を、お前や諸々の弟子たちに入れたとすると、一人一人全てが皆、仏となる。
これを、量る事が出来ない、知る事が出来ないと言うのである。
悟りを得たと言う者も、この理により、最終的には仏となる。
十方界にある全ての人も、その知恵や知識に関わらず、
菩薩心を出して、仏を供養しようとしさえすれば、仏の実の智を得る事が出来るのである。
諸々の義と意味を知り、それらを達観し、また正しい説法を行い、全てに満ちる仏。
一心にその智を求め、凄まじい量の勉強をしても知る事が出来ない仏。
菩薩の地位を、凄まじい期間保って、一心に求めても知る事が出来ない仏。
・・・・・・・・しかし・・・・・・
舎利弗よ。わたしが知る妙法によれば、
一切全てが漏れる事なく皆、仏そのものなのだ。
舎利弗よ。仏は皆同じ事を言う。
『仏の説くところを説き、大信力を生ぜよ』と。
だから、わたしも長くかかったが、この真実の法を説くのである。
六道に囚われる者には、《苦》よりの解脱、死の恐れに囚われなくする為に、
声聞、縁覚、菩薩の三つの境地を教えた。これは、これらの経を引いて、
六道から出る事を教える為である。」
お釈迦様がこの事を語られた時、お釈迦様の言葉を守り修行してきた、多くの人々は、このように思われたのです。
『どうして、お釈迦様は、今まで語られた事を仮の教えと言われ、
《妙法は》我々では及びもつかぬものとおっしゃられるのだろう。
お釈迦様が解脱の義を御説きになった時は、我々もそれを悟り、涅槃に至ったと言うのに、
わたしたちは、お釈迦様が何を言われているのかさっぱり分からない。』
舎利弗様は、人々の思いをお知りになり、また御本人もお判りにならなかったので、
お釈迦様にお尋ね申し上げました。
「お釈迦様。どうしてお釈迦様は今までの教えを《仮の教え》とされ、
その今までの教えを《仮の教え》とする妙法を《正しい》と称賛されるのですか。
わたしは、今までお釈迦様がこのような事をおっしゃられるのを聞いた事がありません。
人々は疑念を持っております。お釈迦様どうか人々の為に、
これがどういう意味なのかをお教えください。
お釈迦様は、数々の説法をされましたが、このように誰に問われたわけでもないのに、
解脱の禅定から起きてすぐに、御自分から法を説かれた事はありませんでした。
わたしは、なぜ問う者もないのに、自ら御説きになられ、それを称歎されるのかさっぱり判りません。
『仏の知恵は甚微妙』とおっしゃられるのに、悟りの有無も一切関係なく、皆《仏》だとか。
今、人々は『お釈迦様はなぜこのような事を言うのか』と疑念を持っています。
悟りを求める者、修行者たち、龍や鬼神、一般の人も、疑いを抱かぬ者はありません。
この事は何を言っているのですか。お釈迦様お教えください。
当然の事ながら、他の人々よりもお釈迦様のおっしゃる事が第一である事を、疑ってなどいません。しかし、この話は、究極の法と究極の道であるので、わたしの智の及ぶところではなく、わたしでは彼らの疑いが晴らせないのです。
ですから、お釈迦様。お願いですから、その究極の法、真実の法を、
数え切れないほどの諸天龍神と八万以上の菩薩衆、多くの王たち、人々の為に分かるようにお教えください。」
お釈迦様は、このようにおっしゃいました。
「舎利弗よ。駄目です。駄目です。そのような説き方をすれば、
それこそ一切世間、諸天も、人も皆、驚き疑うでしょうから。」
舎利弗様は、重ねてお釈迦様にお願いしました。
「お釈迦様。どうか、どうか、これをお教えください。
お釈迦様はこうお教えくださいましたでしょ。
『お釈迦様の説法を聞く全ての人々は、皆、過去世に於いて、知恵明瞭なる仏様方に会い、
その説を聞き、仏様方を敬った縁によって、今、お釈迦様の説法を聞いているのだよ』と。
だから、ここにいる人々は単なる会衆ではなく、信仰の厚い功徳の厚いものたちなのです。
このような者たちが、驚いたり疑ったりするはずがないではありませんか。」
お釈迦様は、舎利弗様にこう申し上げました。
「舎利弗よ。わたしがこの事を説かないのは、もし、これを説いて、僅かでも驚き疑う、
増上慢の者があれば、無限地獄に落ちてしまうからです。
止めましょう。止めましょう。
わたしが難思の妙法を説けば、諸々の増上慢の者は、必ずそれを信じないからです」
舎利弗様は、お釈迦様にまたまた、お願いしました。
「お釈迦様。どうかどうかお教えください。今ここに集まっているのは、わたしと同じく、
永遠と呼べるほど長い期間お釈迦様に導かれて来た者たちです。
お教えくだされば、わたしたちは必ず、その教えを敬い信じます。
でも、教えてくださらなければ、毎日、それはどのようなものかと思い悩み、
夜も寝られないでしょう。このように、多くの利益があるのです。
全てに勝るお釈迦様。是非その第一の法をお教えください。
仏の長子であるわたしに、その意味をお教えください。
ここにいる全ての者は、必ずその法を敬い、信じますから。
お釈迦様は、今までお教えくださいました。
皆、一心に合掌して、お釈迦様の言葉を聞いてまいりました。
我ら千二百と他の道を求める者たちの為に、その意味をお教えください。
この法を聞けば、我らは大歓喜しますから。」
お釈迦様は、舎利弗様にこう言われました。
「あなたは、三回も理を以て、わたしに説くように請いました。こうまでされて、説かないわけにはいかない。
わたしはあなたに分かるように、これを解説しましょう。」
これをお釈迦様が語られた時、五千人の会衆が、お釈迦様に一礼して立ち去りました。
この者たちは根深い罪を持つ者たちと増上慢なのです。
悟りを得ていないのに得たと思い、あかしを得ていないのに得たと言う者たちなのです。
この為、ここにいる事が出来ないのです。
お釈迦様は彼らを引きとめずに、黙って彼らをお去らせになりました。
そして、舎利弗様にこう言われました。
「舎利弗よ。彼らは熟す前に落ちた実なのですよ。このような増上慢の人は、退くもまた良し。
わたしはあなたの為に説きましょう。」
舎利弗様は、こうおっしゃいました。
「よろしくお願いします。」
お釈迦様は舎利弗様にこうおっしゃられました。
「この妙法は、条件が整った時にのみ、諸仏如来が説かれるものです。舎利弗よ。絶対に信じなくてはなりません。仏の言葉に盲語、嘘はないのです。
仏の説法の内、この時に《感じて行う》説法は非常に難解なのです。
わたしは、いろいろな方便や因縁や比喩を用いて説法してまいりました。
唯、この妙法はそのような思慮分別により語る法ではありません。
ただ、仏が知っているだけの法です。
理由は、すべての仏さまは一大因縁によって此の世に出現されるからです。
何が、その仏が世に出現される因縁かと申しますと、
仏は人々に、《仏界》を開かせ、清く浄化させようと、この世に出現されるのです。
仏は人々に、《仏界》そのものを悟らせようと、この世に出現されるのです。
仏は人々を、《仏界》への道に入らせようと、この世に出現されるのです。
舎利弗よ。仏はこの一大因縁により、この世に出現されるのです。」
お釈迦様は舎利弗様に更にこのように、おっしゃいました。
「仏様は皆、菩薩にお教えになり教化されます。
これは、自身の身命をかけて人々を救う菩薩の境地よりも深いものがあるからです。
これが《仏界》です。人々にこの《仏界》を悟らせる為に仏様は皆、世に出現されるのです。
舎利弗よ、この《仏界》に人々を至らしめる為に仏様は皆、いらっしゃるのであって、
人々を菩薩にしようとしていらっしゃるわけではないのです。
ましてや、仮の悟りを得させたいわけでも、学者にしたいわけでもありません。
舎利弗よ。全ての仏様に例外はありません。
舎利弗よ。過去の数々の仏様が数え切れないほどの方便、因縁、比喩を以て
いろいろな法をお説きになられたのも、人々を最終的には《仏界》に至らせる為なのです。
また、未来に於いても、数々の仏様が数え切れないほどの方便、因縁、比喩を以て
いろいろな法をお説きになられるでしょう。
このような方々も皆、人々を最終的に《仏界》に至らせる事を目的とされるのです。
舎利弗よ。現在も、数え切れない程の仏土に於いて、
多くの仏様が、人々の為に数え切れないほどの方便、因縁、比喩を以て
いろいろな法をお説きになっておられますが、
これも人々を最終的には《仏界》に至らせる為なのです。
舎利弗よ。『菩薩を教化し仏知見を開かせる』事を人々に示すと言う事は、
人々に《仏界》がある事を悟らせ、その《仏界》に入りたいと思わせる事になるのです。
舎利弗よ。わたしもまた同じなのです。
人々の数々の欲望を知り、その深いところにある本性に従って、
数々の因縁、比喩、方便を説いてきました。
舎利弗よ。これらはみな《仏界》と言う一乗の智の種を心に植える為なのです。
舎利弗よ。真の悟りの境地は《仏界》と《菩薩界》の二つが、あるわけではありません。
ましてや、《菩薩》《縁覚》《声聞》の三つがあるはずはありません。
《菩薩》も、《辟支仏》も、《阿羅漢》も真の悟りを開いた者ではないのです。
仏様は、皆さま五濁悪世と呼ばれる世の中においでになるのです。
すなわち、真理を忘れ、煩悩に悩まされ、人に思考に埋没し、真理を示す者もなく、
命の本質を見失った人々の元においでになるのです。
舎利弗よ。人々は元々持っている真理を忘れてこの世に生まれてくる事により、
こだわり、むさぼり、嫉妬等の悪感情に支配されます。
これらの悪感情に支配されているので、本来の真理である
《仏》を分けて、菩薩、辟支仏、阿羅漢と言う悟りの境地を説明しているのです。
舎利弗よ。仏教の経典を用いて、自ら《阿羅漢》である。
また《辟支仏・・(大日如来、観音などの仏)》であると語る者があっても、
全ての仏は菩薩を更に教え、導く者であると言う事を聞いた事もなく、知らないのであれば、
その者は《阿羅漢》でも《辟支仏・・(大日如来などの仏)》でもないのです。
また、舎利弗よ。修行者が《阿羅漢》に至り、これが究極の悟りであるとして、
更なるものを求めなければ、このような者たちは皆増上慢の人なのです。
なぜかと言いますと、真の阿羅漢は此の妙法を知る者だからです。
ただし、末法の世で、仏が現れる前は除きます。
末法の世で、この経を受持読誦する者、此の義を解き明かす者は得難いのです。
もし、他の仏様がこの妙法に会えば、此の意味を明らかにされるでしょう。
舎利弗よ。あなた方は、わたしの此の言葉を一心に信じなさい。
《仏如来の言葉に嘘はなく、真の悟りは一つしかない》」
お釈迦様は、此の事を重ねてお示しになりました。
「既に最高の悟りを手に入れたと慢心する者は此の妙法を信じない。
自身の僅かの悟りから出ず、その小智を守るためである。このような者は、ここに居る事は出来ない。
彼らは福徳が少ない故に、此の妙法を受けるに堪えられないからである。
彼らは、熟さずに落ちた実である。その実が芽吹く事はない。
舎利弗よ、よく聞きなさい。仏は、数々の方便の法を説く。人々の心に思う所。行動。欲望。過去世の悪行。
仏はこれら全てを見極め、人々をより良い状態にする為に、比喩、言辞方便をもって人の為に法を説く。
修羅を教える為に、《戒律》を説き、平常心、喜びを教える為に《許し》を説き、
生死にとらわれる者の為に、《諸行無常》を説き、死を恐れる者の為に、《涅槃》を説く。
わたしも、同じように数々の方便の教えを説く。これらは皆、仏の知恵に導く為である。
でも、誰も仏の知恵に至った者はいない。誰も至らない理由は、仏の知恵そのものを説かないで、
仏の知恵を人々の状態に応じて開いたものしか示していないからである。
人々の機根に応じて説く法は九界を出る事は無い。
わたしは、仏子の心清らかで、考え方が柔軟で、根の良いものは、
無量の諸仏の元で妙法の修行をすると教えてきた。このような仏子たちの為に、此の妙法を説こう。
そして、《未来に於いて必ず仏となる》と言う言葉を成就しよう。
《仏を深く念じ、浄戒を保つ者は、仏の声を聞き、更には仏となる》と言う言葉を成就しよう。
わたしは、かの者たちの心行を知り、妙法を説く。
声聞、縁覚も、菩薩も、わたしが説くところの妙法の一言でも、受け保つならば、仏になる事疑いなし。
真の悟りは一仏乗《仏界》のみ。《仏界》《菩薩界》の二つがあるわけではない。
菩薩、辟支仏、阿羅漢の三つがあるわけではない。
方便の教えは、人々を導く為、仏の知恵を仮の名により明かすものである。
この為、一仏乗《仏界》を明かすものではない。
仏は、唯この一つの真実の故に、世に出現したもう。一つの事に、二つの原則はない。
仏は自ら《仏界》にある。仏の法により、知恵を出し、自らを荘厳している。
人を教えるのに、この仏界の道を以ってし、全ての人を仏にしようとあかしする。
もし、他の人を菩薩、仮の仏、阿羅漢に導き、それを最高と、一人にでも教えるならば、わたし自身がその一人に対して、自分自身を決して超える事が出来ない者として示す事となる。
わたしは慳貪に堕ちてしまう事になるので、これは不可である。
もし、人が仏に帰る事を信じるならば、わたしは嘘つきとはならない。
わたしは人々の信仰を集めたいわけでも、人々を愚かな信者にしたいわけでもない。
ただ、諸々の法の悪の根を断ちたいだけである。
だから、どのような多くの仏の中にあっても、わたしは畏れる事なく、
自分自身を荘厳し、自身の光明で以て世間を照らす。
全ての人々が尊ぶべき実相の印を、人々の為に説く。
舎利弗よ。わたしの本願は、全ての人を、わたしと同じ仏にしようと言うものなのだ。
そして、今、ここに全ての人を仏にする為の真の法を説く。これゆえに、わたしは、所願満足している。
全ての人に、仏道を語ろうとしたが、無知の者は錯乱し迷い惑うために、此の教えを受ける事が出来なかった。
わたしは、このような人々は善本を修める教えに出会わなかったために、
五欲に執着し、五欲を愛する故に悩みを生じる事を知った。
諸々の因縁故に三悪道に堕ち、六道に心は巡り 諸々の苦しみと毒をその身に貯め、
産まれ変わっても 世々それを増長し 徳の薄い福の少なき人となり、世の苦がその身に逼迫するところとなる。
邪見の中に、自身が知る、知らないにかかわらず迷い込み、邪見に帰依し、その戒律を守る。
邪見がその身に深く入り、その虚妄の法に執着し、それを捨てる事が出来ない故である。
邪見により悟りを得た者として高い地位を得、慢心し、法をねじ曲げその真の意味を知らない。
長い間、仏に会った事もなければ、仏の説法を聞いた事もないからである。
このような人を教え導くのは難しい。
舎利弗よ。わたしはこの様な者を教え導く為に、方便を設けた。
諸々の苦を尽くす道を説き、涅槃を以てこれを示した。
涅槃とは、
『人の死は真の滅びではない。物事は全て、寂滅があると言うのが真理である。
今の死は、来世に於いて、今の世に道を行ずる事により仏になる為の仮の死である。』
わたしは、このように、順次《仏》に近づくべしと、三乗道を示したのである。
全ての仏は、皆、このように究極的に《仏》を説くのである。
ここにある全ての人は疑ってはならない。
仏は全ての人を仏にしようとして法を説くのである。
過去世に生まれた数え切れないほどの仏も、皆種々の縁や比喩により、
方便力を以て、数々の法をお説きになった。
これらの仏様も皆、全ての人々を仏にする妙法をお説きになり、
数え切れないほど多くの人々を仏としていらっしゃったのである。
また、諸々の神々や天使等も、その深い心をお知りになり、
更に、別の方便を以て、第一義である妙法を助け現わされようとされるのである。
だから、人々の内、過去に仏に会い、その仏の法を聞き布施をし、
持戒忍辱、精進禅智などの、福徳を修める者は皆仏となっているのである。
世に仏がないと言っても、もし、人に善軟の心あれば、
その人たちは既に過去世に於いて仏となっている者なのである。
世に仏がないと言っても、仏の意思を継ぎ、人々の心を荘厳する者あれば、
その心そのままで、清浄であろうとも、瓦礫のような心であろうとも、
すぐに崩れる土のような心であろうとも、幼児の遊びであろうとも、
皆過去世に於いて既に仏となっている者達なのである。
人を仏になそうとして、数々の偶像を建て、人々が仏となった姿を刻む者は、
みな、既に仏となった者なのである。
人を仏になす目的で、七宝、金属、木や焼き、漆喰などで、仏の像を作る者は、
皆、過去世に於いて仏となった者なのである。
人を仏となす目的で、絵画や写真などで、仏を示す者は、皆、過去世に於いて仏となった者なのである。
人を仏となす目的で、もし、童子がいたずらに書いたものを仏と見る者があれば、
このような者は、功徳を積み、思いやりの心豊かな者であるから、皆、過去世に於いて仏となった者なのである。
諸々の菩薩を教化し、無量の人々を仏界に導くために、
数々の礼を以て、仏像や画像を供養する者、音楽を奏で、歌を歌い供養する者があれば、
このような者は、皆、過去世に於いて仏となった者なのである。
心を乱すことなく、一輪の花を供え、画像を供養し、そこに無数の仏を観る者、
あるいは、合掌したり、手を挙げたり、頭を低く垂れ、偶像を供養する事により、
そこに無数の仏を観る者があったとしよう。
もし、そこより無上の道が開け、自身の煩悩が燃え尽きて、無量の人々が悟りに入るのを観るならば、
その人は、自身の身を仏にささげた者なのであり、それゆえに仏となった者なのである。
今、そして、わたしの滅後に於いて、此の妙法を聞く者は、皆、過去に於いて仏となった者たちなのである。
また、未来に於いても数多くの仏が、方便の説法をされる。
このような、数々の如来も、無量の方便を以て、人々の内、唯ひとりをもその智より外すことなく、
唯一人をも、仏にならぬ者がないようにしようとされるのである。
諸仏の本願は、『わたしの行ずる所の仏道、普く全ての衆生をして、我と同じくなさん』と言うものである。
未来の世に、諸仏が百千億の無数の法門を説くであろうが、その実は此の一乗である。
このように、諸々の仏の説く法は変化自在である。これらはみな、この一乗を説くためである。
この妙法は、一切世間の物事を見定める為の法であるので、一切世間の相は此の妙法から外れる事はない。
だから、妙法を知る者は、数々の方便を説けるのである。
諸天の神々が供養する世間に出現される数多くの仏様も、人々を安穏にしようと、また数々の法を説くが、
人々が妙法を忘れている事を知り、色々な角度から思い出させようとして説くのである。
数々の仏は、人々の行いを知り、深い心の所念を知り、過去の習業を知り、精進力を欲する性質を知り、
諸々の根本の利鈍を知り、数々の因縁、比喩、言辞を以てその知るところに応じて方便を説くのである。
今、わたしもかくの如し。人々を安穏に導く為に、仏道を開いた種々の法門を説く。
わたしは、仏界を開いた知恵の力で、人々が望む性質を知り、方便を以て諸法を説き、人々を歓喜させてきた。
舎利弗よ。わたしは仏眼で以て、六道衆生の貧しく、困窮し、福なく、知恵の無い様子を観る。
このような者達は、生死にこだわり、不断の苦しみを受け、五欲に深くとらわれる。
小さな愛にこだわる弊害ゆえに貧しく、いたずらに瞑想するが、
大勢の仏を求めず、苦を断つ法に及ぶ事はない。
諸々の邪見が深くその身に入り、苦を以て苦を捨てようとする。このような人々の為に、大慈悲心を起こす。
わたしは菩提樹の下で悟りを開いて、21日間この事を思ったのだ。
『わたしの知恵は微妙にして、しかも第一のものである。人々は悟りに遠く、眼が見えない故に、白痴の楽しみに執着している。このような人々をどのように導けばよいのか。』と。
その時、梵天、帝釈天、四天王、自在天、諸々の天衆、その眷属百千万は、わたしに合掌礼拝し、
『仮の教えをまず説いて、転じて仏乗を説くように』と、わたしに請い願ったのだ。
わたしが、唯仏乗の妙法のみを説き、それをいくら賛嘆しても、
人々は妙法を信じる事が出来ないであろう。
信じる事が出来ないゆえに、苦に沈み、苦から離れる事が出来ず、三悪道に堕ちる。
このような者には、妙法を説かない方が、結果が良い。
また、過去の数々の仏の説法を尋ねると、方便を説いて人々を導いている。
『わたしも今、妙法を得る。わたしもまた、菩薩、悟りの仏、阿羅漢の三を説いて人々を導くべきではないのか』
と考えていたところ、数多くの仏が現れて、わたしにそのようにするようにと諭したのだ。
第一の導師、この無上法を得る者、全ての仏は方便力を用いる。
わたしもまた此の妙法を得、人々の為にこれを菩薩、仮の仏、阿羅漢の三つに別けて説く。
知恵の少ないものは、《自らが仏ではなく仏を信じよ》と言う小法が分かりやすい。
此の為、方便を以て説き、その分別された仮の結果を得させたのだ。
ここに、菩薩、悟りの仏(仮の仏)、阿羅漢の三種の話を出すのは、
これらの最高位である菩薩に対して教える法として妙法を示し、その位置を明らかにする為である。
舎利弗よ、まさに知りなさい。此の妙法は、《聖獅子》《深浄微妙音》《喜称南無仏》である。
また、此の妙法は、全ての仏の説法の源であり、
わたしは、此の妙法を説く為に、濁った悪いこの世に来たのである。
此の妙法を知るから、諸仏の説法の意味が理解でき、
わたしも同じように数々の説法を行えるのである。
諸法には、理解する事が難しい本質がある。
この為、《見る、聞く、味わう、触れる、嗅ぐ》の五識を主にして物事を認識している者達には、
まず方便を以て、それらにとらわれる事の無い境地、《阿羅漢》を目指させる事を教えたのである。
これは、生死にとらわれる事のない涅槃を説き、教える為である。
舎利弗よ。わたしは、多くの者たちがこのような方便の教えを聞き守り、更に仏を求めているのを知ったのだ。
わたしがこの世に生まれたのは、仮の教えを説き人々を仮の悟りに導く為ではない。全ての人を仏とする為なのだ。
そして、わたしは《今こそ、人を仏とする法・・・仏の知恵そのものを人々に教えるべき時である。》と知った。
舎利弗よ。根が鈍く小智の者は、悟りを得ていないのに得たと思うものなのだ。
これゆえ、この妙法を信じる事は出来ない。今、説いているこの妙法は、このような者たちに合わせ、仮の教えで導く事をやめ、仮の教えを捨てて、ただ無上の道を説いているのだ。
菩薩よ。この法を聞け。疑ってはならない。《全ての人は、ことごとく仏》なのだ。
三世諸仏が説いたが如く、わたしも仏と人を分けない法を説く。
仏は世に多く現れるが、此の妙法に遭遇するのは難しい。
仏は世に多く現れるが、此の妙法を説く事はほとんどない。
幾度となく生死を繰り返しても、此の妙法を聞く事は難しい。
人は多くあれど、此の妙法を真に聞ける者もまた少ない。
天上に至る人も稀なのに、その天上で数億年に一回だけ咲くと言われる優曇華の花を見るようなものである。
諸仏は、妙法故に仏である。妙法は諸仏の源であるから、妙法を供養する者は、全ての仏を供養する事となる。
かくの如き人は、天上の優曇華の花に勝る。決して疑ってはならない。
わたしは諸法の王として、こう宣言しよう。
《この菩薩を教化するただ一乗の法により、わたしの弟子は全て仏である》と。
舎利弗よ、阿羅漢たちよ、菩薩たちよ。此の妙法こそ、仏が仏たる理由である。
自身の欲望を満たす事のみに終始する人々は、仏道を求めない。
このような人々が、この一乗を聞けば、信じず受けない故に迷い惑い、妙法を破り悪道に堕ちる。
その悪道の中に於いて、その悪を悔い改め仏道を求めるようになるのだ。
広い意味では、皆この一乗道を讃えるようになり、人は仏である事を知る。
舎利弗よ。知りなさい。
万億の方便を以て、人に合わせて法を説いても、これを学び知る事は出来ないのだ。
汝らの疑惑を晴らそうとすると方便の教えとなる。だから、
《大歓喜を起こしなさい。あなた自身が仏である》と、此を教えるのである。」
http://book.geocities.jp/petero_rom/details1001.htmlより