元亀争乱を語れwww
〇荒らしの「~ねぇ」は立ち入り禁止。1匹出ると100匹出るのでさわるのも禁止
〇この時期の畿内全般の話もあり
〇ifは所詮結論は出ないので押し付けはやめましょう
〇まったりまったりが大事
元亀争乱って始まりは金ヶ崎の戦いでいいのかな?
それで良いかと
あれもいまいち真相が不明な戦いではありますなぁ
けど兵数的には織田が圧倒的していたし浅井の兵数で足りるのでしょうか?
上手くいけば大軍の利がきく狭い場所で挟み撃ちだしどうしょうもないと思う
急な出撃で兵がちゃんと集まっていたなら
ピークはやっぱり信玄の西上でいいのかな?
志賀の陣の方が滅亡の危機みたいな切迫感はあるけど
ウイキだと7月の浅井攻めでも5万だし3万は少なすぎだと思うんですけれども
配置しなくちゃいけない場所が多いので岐阜にどれくらい集められるかはわからないけど
近江と伊勢は混乱してるから集められないだろうなぁ
伊勢は長島がおらついてるのはいつものことだし2月末には滋賀郡も平定してるしね
このちょっと後の槇島城攻めでは誇張があるにしろ7万集めてるんだから志賀の陣の時とかに比べればピンチ度は低い気がするけどね
3月時点の二条城の戦いでは16000しか集まって無い様だけど?
それは単純にまだ武田が長篠にいるから美濃・尾張からそんなに兵を引き抜けなかったんじゃないの?
地味に朝倉も敦賀に出てきているし
2週間くらい前の細川への書状に美濃・尾張の守りは固めてますから安心してくださいって書いて送っていたし
信玄の体調のこともわからんだろうしね
三好三人衆とか岩成以外どこにいってしまったのか?
信玄死ななかったら本当は織田と直接対決する説ととりあえず東海方面を切り取るだけ説があるからね
俺も織田に一撃かまして浜松城を囲んでも援兵を送れない形にして返す刀で遠江、三河を切り取るって形だと思うわ
流石に岐阜にたどり着くためには時間を遠江でかけすぎだと思うし
遠州で時間かけ過ぎたっていうより、二俣城を落とすのに予想外に時間が
かかり過ぎたってとこでは?
信玄が健康なら尾張までは間違いなく進んだと思うけどなあ
浜松落としたならともかくまだいくらかの徳川軍が動けるのに尾張に進んだら前後から挟み撃ちだしいくら何でもリスク高すぎない?
織田が武田と同数で尾張に出てきたとして長篠城との兵坦を徳川に切られたら敵地で孤立するし
もちろん士気向上はあるにしろ
まあ武田が東濃に入るのか三河に行くのかで対応は全然違う
織田との戦いもその方がやりやすいし、織田も東方を常に警戒しなきゃならなくなるから制圧ペースが鈍るんじゃないのかな
甲府に戻ってすぐの内藤と勝頼の起請文のやり取りがかなりアレだし難しいんじゃないかなぁ
そもそも日本の中世の軍隊は総大将の大名が死んでも何事もなく活動できる形態にはなってないと思うわ
特に勝頼はなんら実権を譲られていたわけじゃないし
あと鴨川氏の著書には越中の一向一揆のテコ入れを信玄が考えていて本願寺に三河・遠江での活動を継続するよう依頼したって話があったし朝倉の撤退で遠征継続の意欲が薄れていた可能性もないわけじゃない
越中のテコ入れを考えている信玄に本願寺が三河・遠江での活動を継続するよう依頼したの間違いでした
まさか岐阜城まで落とさないと失敗ってわけではないだろうし。
丁度謙信が北条と和睦した事で信用を失って佐竹が台頭したように
確かに三方ヶ原は信玄の会心譜で流石信玄とは思うけど、家康が釣られてくれたから出来た戦いでもあるじゃん
もし当初の信長や家臣の忠告通り浜松に籠城していたらそのまま素通りして野田城まで行くのかしら?
浜松城に付城作って家康の動きを封じて徳川領の国人に対し調略を大々的にやりそう。対浅井の時の信長のように。
普通そうだと思うんだけど三方ヶ原勝った後やらなかったからな~
勝った後なら尚更有効なのに
正直三方ヶ原の前から何か信玄にとって誤算な事があったような気がする
家康の脅威が半減したことによる後方の安全確保が図れたこと、信玄の体調の悪化、浅井・朝倉の信長に対する抵抗力の低下への懸念、信玄と信長の国力の差や長期遠征による補給等の問題から一気に尾張まで攻め込んで信長との決戦を急いだのかもね。
武田って付け城築いて長期包囲とかしたことあったっけ?
朝倉との連携の再構築ができる前に発病して死んだから、いろいろ中途半端。
野戦で叩ける--という思惑だったのが失敗。折悪しく信玄も危篤になったから撤退、だったんかねぇ?
あの宇佐山すら守りきった森一党だけに面白いカードになりそう(笑)
近江は六角、浅井が敵で、水面下では朽木も危ない
元亀4年3月末の荒木村重の臣従までは、将軍が離反するわ、国人は寝返るわ、武将の討ち死には多いわの
織田家の勢力圏がどんどん縮小して、朝倉家とどっこいどっこいかそれ以下の下り坂だったと思う
湖西の朽木含む西佐々木七氏は足利将軍家との繋がりが強い地域で浅井・朝倉とも繋がりが強いからほぼ一貫して織田の敵だよね
湖西は清水山と新庄を押さえた磯野と坂本の明智、それに打下の林と堅田の猪飼野の水軍以外ほぼ敵じゃないかな
義昭としては挙兵したときに朝倉に湖西を通りがてら西佐々木七氏を引き連れて上洛してほしかったみたいだけど何故か上手くいかなかったな。信長の思った以上に早い上洛とそれが義昭の誤算だったと思うわ
三瀬舘は三重と和歌山の県境では全くないし、
宮川の上流で伊勢支配の重要地点だということは玄人なら一目で見抜くんだけどね。
実際、文書発給は天正3年6月まで行われていたと織田政権研究者が認めている。
更に言えば、現地には三瀬坂峠が畿内から伊勢へ行く街道であるという
説明まであったけど、見落としたのかな?
実際浅井領をかなり食いとって虎御前山砦まで進んでるし筒井を傘下に入れて裏切った松永にも大和では優勢に進めてる
三好の中でも松浦や安宅はそのまま織田についたし
確かに安宅氏や筒井氏が元亀2年以降、ずっと織田傘下だったという研究者も昔は居たけれど、
阿波はどう見ても篠原長房率いる三好軍の制圧下で、安宅氏が織田傘下というのは無理がある。
筒井氏は歴史的に、ずっと反三好(特に反松永)、親足利勢力で、義昭との縁が深い。
織田傘下になったのは、足利義昭の敗勢が明らかになってからだろう。
織田と義昭が仲違いするまでは織田と義昭は不可分の関係だし義昭傘下であり織田傘下で問題ないと思う
あの足利織田連合政府に服属した領主は皆そんな感じだったし
実際に京都の政務からは距離を置こうとした信長に領地関係の安堵や訴訟の案件が次々に持ち込まれて信長が関わらざる得なくなってるし
まあこれは久野氏の本の受け売りだけどw
だだ筒井は松永との関係上織田の助力を欲した面も強く普通に織田から直接筒井に付け城を作るようにとか指令を受けてるからその度合いは強いと思う。
個人的には72年の5月に織田と筒井が一緒に多聞山城を囲んだのが決め手だと思うけど
もちろん仰る通り筒井はあくまで松永と戦う後ろ楯&本願寺とは関係が難しいという背景があるからそれ以外に積極的に兵を出すような強い繋がりとは思わないけどね
ただ織田としても大和の東が味方になり松永を抑えてくれるなら文句はないだろう
実際に筒井は松永を押し込んでいて久秀が大きく動けなかったのは間違いないし
73年に足利織田連合政府が崩壊して傘下にいた領主たちは選択を迫られるけど織田についたのが筒井や畠山で足利についたのが伊丹、旗色をはっきりさせる前に追い出されたのが和田って感じかな
細々なのはたくさんあるだろうけど
あと、安宅信康は72年の11月に信長が曽我に
「信康の件は義昭の話で問題ないと思うが難題であること。領知の件は信康の要請を容れてよいと考えている」
と通知しているから少なくとも三好方ではなく足利織田連合政府傘下だったんじゃないかな?
義昭と織田が別れたあとは知らないけど
朝倉・浅井連合軍と決戦することは、統制取れた近代軍隊じゃないから、やはり不可能かね?
京都や湖南に戻らないと、浅井が湖東を南下して本国(美濃・尾張)との連絡線が遮断されるだろうし。
湖北だと前後に挟み撃ちだから無理かと
湖西に上手く軍を引ければ可能性はあるけど(そこで止まれば浅井も南下は出来ないし)、湖西の地侍は基本的に浅井と繋がりが強いし足下が危ういところで無理するくらいなら1度帰還して体勢を整えた方が良かったんじゃない?
「朝倉殿が天下を持ち給え~」ってこの時の話だよね。
いつのまに話が変わったのかな?
織田も朝倉も手詰まりはわかりすが、朝倉と連携していたような三好と本願寺は何であんなにあっさり和睦に応じたんですかね?
朝倉にしてみれば梯子を外された、みたいな感じですけど
摂津三守護に河内の三好畠山が義昭側として機能しているなら、阿波三好が攻勢に出ても勝てないからじゃ?
伊丹は荒木と敵対していたから参陣できなかっただけで、
「織田」についたのが筒井、「足利」についたのが伊丹
と分析するのは難しいんじゃないかな
足利織田連合政府が崩壊した時点で信長より幕府の方が権威があったわけで。
書き方が悪かったです
72年5月の段階はまだ足利織田連合政府が崩壊したわけではないと思っていますので筒井はその時は両属だと思います
ただ織田と筒井の繋がりが強くなった所という感じですかね
足利織田連合政府は複雑なので人により考えは違うとは思いますが個人的には9月の17条の意見書で大分危うくはなっていますが完全な崩壊は73年の2月の義昭挙兵だと思っています。
それまでは筒井は足利織田の両属。以降は松永がいる以上織田につくしかなかったと考えています。松永や岩成はその後討伐されていますが筒井は松永との交戦もありますし松永討伐の際には佐久間軍記ではありますが参加もしているようですし。
もちろん積極的に織田というよりは松永がいる以上という形でしょうが。
伊丹については信長と藤孝との書状でも立場が二転三転してよくわかりませんが寝返った荒木が討伐しているわけですから敵方だったのかなぁ、と
安宅信康については72年11月なので73年はないと思います。73年だと義昭云々にならんですから。
あと、72年11月でも義昭の側近の曽我と安宅信康の処遇について話していることから72年11月の段階では足利織田連合政府は存続していると思っています
足利(和田、筒井)、三好(荒木)、松永陣営は1572年4月の河内騎西城の戦いの後には、
激しかった争いが急に無くなっており、足利織田連合政府は早い段階で崩壊していたようにも思う。
安宅氏については謎が多い。
なんども阿波三好氏が畿内に進出していることから見て、淡路の安宅氏が独立できていた様子は見られない。
紀伊の安宅氏だろうか。
書状に年代は書かれていないから、1572年という比定も写本した人の勘違いの可能性がある。
織田と婚姻関係の畠山昭高はともかく、安宅氏が親織田というのは前後関係からみてほとんど信用できないと思う。
多聞院日記は、元亀3年(1572)と4年(1573)の記事が混ざっているから、その時期の年代否定は要注意。
それから安宅神太郎は信康とは別人の可能性が高い。つまり安宅の当主かどうかわからない。
72年11月の書状は宛名信康になってなかったか?
多門院のは筒井を囲んだ方のことですね。勘違いした。
73年5月はそれこそ松永の多聞山を囲んでいるのはありえなくないですか?5月は佐和山で大船作っている時期ですよね?
安宅が別人の可能性が高いのは初めて聞きました。信康・清康で混乱があるのは知っていますが・・
多聞院日記は1573年の記事が完全に抜けていて、
1572年5月に織田の大軍が大和に到来したことになっている。
信長公記でも大和遠征は1572年となっているが、
信長公記は松永の投降が1573年正月と誤記されていて、
大和関連の記事が1年ずれている可能性が高い。
1573年4月、二条城の戦い
1573年5月、大和遠征(信長公記1572年、多聞院日記1572年)
1573年5月19日 織田信長、大和を退き美濃へ向かう。(信長公記1572年)
1573年5月22日 織田信長、近江国佐和山城へ寄り、「大船」建造を急ぐ。(信長公記1573年)
1573年7月 松永久秀が信長の江北出陣の隙を窺い山城出撃の風聞(多聞院日記1572年)
1573年8月 朝倉滅亡
1574年1月 松永投降 (信長公記1573年)
この流れのほうが自然。
これだと筒井は義昭と信長が決裂したあとはずっと中立だったってこと?
あと松永と筒井は72年の後半も普通に小競り合いは幾度もしているみたいよ
まさに敵の敵は味方理論
河州表へ出陣。松永久秀の軍勢を河内国河内郡騎西城を攻囲。〔『兼見卿記』一〕
ここに筒井氏の名は無い
筒井と織田の共闘は1573年5月からでは無いだろうか。
何で大して信憑性のない織田軍記とか明智軍記にしかない3,000説が通説になったのだろう?
一種の徳川史観?
磯田氏は近世社会史が専門
ただ自身の専門以外にもあっちゃこっちゃやってる
専門外のことについては雑
1572年11月の信玄の朝倉宛の書状で
織田の援軍3000が浜松に来たぞ、おかしいじゃねーか
ってのがある
武田としては織田は朝倉の相手して徳川に援軍出す余裕はないと思っていたんだろう
wikiだと
織田家の援軍の数も諸説が有り、
①佐久間軍記 – 七頭(約1.5万人:1頭は2,100人とされる)
②明智軍記 – 5,000人
③総見記(織田軍記) – 3,000人
④甲陽軍鑑 – 「信長加勢を九頭まで仕る」(約1.9万人)
⑤前橋酒井家旧蔵聞書 – 信玄軍2.8万、徳川6千、織田の援軍2万
ってなってるね。5千以下と2万の両極端やな
>松永と筒井は72年の後半も普通に小競り合いは幾度もしている
多聞院日記だとしたら1573年の後半のことと思われる。
丁度義昭が織田と敵対した直後の
2月23日に筒井3000が松永と戦っているby尋憲記
筒井からしてみれば松永との小競り合いは続いていたし松永の相手で手一杯ってことにして大和より外のことには関わらないで様子を見ていたってところだろうけど
池田は荒木に乗っ取られ中
和田は高山の下剋上中
伊丹は荒木高山と敵対
河内は
三好義継は康長畠山と敵対
畠山は遊佐と揉めていて三好らと敵対中
遊佐は最終的に畠山殺すが、三好らと敵対中
三好康長は三好義継畠山遊佐と敵対中
とこんな感じか?