5分でわかるドイツ農民戦争
ドイツ農民戦争 |
|||
---|---|---|---|
項 目 |
内 容 |
||
日付 |
1524年6月23日 ~ 1526年7月12日 | ||
場所 |
神聖ローマ帝国(ドイツ)南西部から中部にかけて | ||
戦いの口実 |
「古来の権利」を圧迫し始めた領主に対する、農民の一揆 聖書に基づき社会を変革する(「神の正義」思想) |
||
参加軍 |
各地の農民団 ハンス・ミュラー・フォン・ブールゲンバッハ トマス・ミュンツァー他 |
ロートリンゲン公アントン シュバーベン同盟軍 トゥルフゼス・ゲオルク・フォン・ワルトブルク ヘッセン方伯フィリップ |
|
軍の編成 |
不明 但し、数、装備、訓練度とも、領主側に劣らなかった。 |
不明 但し、ハプスブルグ家の主力は、イタリア戦争のため参戦できなかった |
|
勝敗 |
領主側の勝利。各農民団は各個撃破され、完全に鎮圧された。 | ||
戦死者 |
約10万人 | 約?人 | |
戦いの背景 |
14~15世紀のドイツでは、鉱山業や農村手工業の発達、フッガー家に代表される豪商の台頭など、経済的発展が進み、初期資本主義と言える状態になっていた。 農民が土地を世襲化し、領主の同意を得ずに売買することにより、土地が未知の人間の手に渡り、地代収入が途絶する事は、領主の最も怖れるところであった。領地支配に不安を感じた領主たちは、15世紀中頃から農民の既得権、いわゆる「古来の権利」を圧迫し始める。賦役の強要、増税や、牧草地などの共用地用益件の制限などを進めた。またその手段として用いられた農奴制の復活は、自由民に対しても拡張されていったため、経済的負担とともに、精神的屈辱を課すものだった。 国家的分裂、教会の腐敗などがこの緊張状態に拍車をかけ、この中から改革思想が芽生えてくる。 |
||
戦いまでの経過 |
農民戦争の前史は15世紀後半に始まる。 1493年には、エルザスのシュレットシュタットでブントシュー一揆の陰謀が発覚した。この時は、市民層が主導権を握ったため、宗教裁判の停止、ユダヤ人高利貸追放などが全面に出された。 1514年には、ヴェルテンベルク公国で、重税と中央集権化に反対する「貧しきコンラート」の運動がおこり、近隣に大きな反響を与えていた。こうして、広範な農民蜂起への気運が次第に高まっていた。 |
||
経過概要 |
くすぶっていた農民の油に火を付けたのは、領主婦人のちょっとしたわがままだった。 農民が解散しても、ハンス・ミュラーは一揆拡大の運動を続け、1525年春には南ドイツ全域で農民団が結成され、一揆が発生した。 シュワーベン地方では、複数の農民団がキリスト者兄弟団として大同団結して「12ヶ条」の綱領を起草し、これがその後の農民の綱領の中心となった。 最初は手をこまねいていた領主たちだが、徐々に反撃を開始する。 イタリア戦争のため、ハプスブルグ家の主力軍が不在であり、領主・諸侯の頼みの綱はシュワーベン同盟であった。シュワーベン同盟は農民団を各個撃破していった。 チューリンゲンで地方では、ミュールハウゼン市を拠点としてトマス・ミュンツァーが活躍していた。4月下旬にはミュールハウゼン農民団が成立した。しかし、農民団は相互の連帯が悪く、わずかな勝利で満足して温和化していった。また、ルターは急進的なミュンツァーは野農民たちを、「悪魔の手先」として弾圧するよう主張した。 中部ドイツの諸侯勢力の中心であるヘッセン方伯フィリップは、周辺諸侯の兵力をチューリンゲンに集中した。フランケンハウゼンで農民団と対峙したフィリップは、5月15日休戦を申し入れる。農民が合議に入ったところを不意打ちし、農民団を壊滅させた。この時の農民側の使者は6000人といわれる。ミュンツァーも捕らえられ、拷問の末に処刑された。 孤立したフランケンの農民団は、諸侯軍に各個撃破されていった。11月にはクレットガウ農民団が壊滅して、ドイツ農民戦争はほぼ終結した。この後もアルプス地方で1526年初夏まで、散発的な一揆は発生するが、農民にはもはや大同団結するほどのエネルギーは残っていなかった。 |
||
戦いの後 |
農民が敗北した結果、領主が進めていた封建反動政策を止める事ができなかった。また、農民団を壊滅させたのは諸侯連合軍であるため、諸侯の力が強くなった。中小領主たちは独立性を失い、領邦国家体制に組み込まれていった。 この結果、ドイツの分裂が進み、強力な中央集権体制を作る事は不可能になった。また、イギリス、オランダなどが大洋貿易によって力を付けていたのに対し、ハンザ同盟を中心としたドイツ諸都市は衰退に向かう。 この後に続く、宗教に名を借りた諸侯同士の無益な争いは、シュマルカルデン戦争を経て三十年戦争において、近代にまで影響を及ぼすほどの決定的な荒廃を、ドイツにもたらすのである。 |
「悪魔の手先」トマス・ミュンツァー
トマス・ミュンツァーは先鋭的で高い理想を掲げ、過激な活動を行ったために、マルティン・ルターから「悪魔の手先」と弾劾され、徹底的に撲滅するように求められた。
かつてルターは若く情熱的であった青年トマス・ミュンツァーに好感を抱き、説教師に推薦したほどである。どこでこの二人はこれほどまでに考えが違ってしまったのだろうか。
- ミュンツァーの経歴を追ってみる。
- 「生い立ちから思想の形成」
トマス・ミュンツァーは1490年頃、ルターの生地に近いシュトールベルクに生まれた。ライプチヒ大学に学び、非常な愛書家であり、学識豊かな真摯な人柄であった。
1520年、ルターはミュンツァーの人柄を愛し、ザクセン南部のツヴィッカウ市の説教師に推薦した。しかし、この地でミュンツァーは「ツヴィッカウの予言者」とばれる人々と接触し、従来の教会の枠にとどまらない独自の世界観を形成していった。 - 「放浪」
1521年4月、職布工の暴動を扇動したと見られ、ツヴィッカウ市を去る事になる。その後は、プラーハ、テューリンゲンザクセンなどの地を転々と放浪し、極貧の生活を送った。
1523年の復活祭に、ザクセンの小都市アルシュテットで、ヨハネ教会の牧師に仮採用され、24年8月までここに留まった。彼の著述のほとんどは、この地で書かれている。ここで、変革のために強固な党組織の結成を目指して、同盟を組織し始めた。しかし、1524年8月ザクセン公に圧迫されてアルシュッテットを去る。
その後、ミュールハウゼン市に移り、市民改革派に影響を与え「神との永久同盟」と称する組織へと発展させたが、9月にはここからも追放される。 - 「理想に向かって」
一度は追放された改革派だったが、1524年12月には政権を奪回した。ミュンツァーは南ドイツの巡歴の後、1525年2月ミュールハウゼンに戻った。そして、3月には旧市会の解散し、「永久市参事会」を設立させ、ミュールハウゼンはテューリンゲン一揆の中心拠点となった。
ミュンツァーは更にテューリンゲン、ザクセン一帯の一揆の組織化に活躍した。1525年4月中旬には各地で農民団が結成され、4月下旬には市民・農民合同のミュールハウゼン農民団が成立した。
これらの農民は一揆拡大のため各地に遠征を行い、多くの修道院や城塞を焼き払い、略奪を行った。 - 「破滅」
しかし、これら農民団は、ある程度の勝利を得ると温和化してしまった。ミュンツァーは一揆勢力を結集させて、来るべき諸侯軍との決戦に臨むべく説得を重ねたが、農民たちはもはやミュンツァーの言葉に耳を貸そうとはしなかった。そして、戦略上の重要拠点である、フランケンハウゼンへの援軍を組織する事に失敗したミュンツァーは、1525年5月10日ごろ、わずかな同士とともにフランケンハウゼンに移動した。
ヘッセン方伯フィリップと対峙した農民団に対し、フィリップは休戦提案を行った。農民側が合議に入った隙を突いて、諸侯軍が不意打ちに出た。農民団はなすすべなく蹂躪され、ミュンツァーも捕らえられてしまった。5月15日の事である。
1525年5月27日、ミュンツァーはむごたらしい拷問の末、斬首された。ミュールハウゼンが陥落した直後であった。
農民団の多くは穏健であり、ルターは当初農民に同情的であり、「12ヶ条に対する平和の勧告」を発し、農民には忍耐と祈りを、領主には譲歩をもとめた。しかし、ミュンツァー主導の元、テューリンゲン、ザクセンで一揆が過激な行動をとり始めると態度を一変させる。ルターは、ミュンツァーに率いられた先鋭的な農民たちを「悪魔の手先」と呼び、諸侯に対し彼等を「突き刺し、打ち殺し、絞め殺しなさい」と訴えた。
ルターの投げた石に反応して立ち上がった農民たちには、ルターのこの行為は裏切り以外の何者でもなかった。ルターが「裏切り博士」と呼ばれるゆえんである。と同時に、燃え上がっていた農民の頭を冷やすためには十分な言葉だったと思われる。
もともと農民たちは、ミュンツァーの目指すような理想的な国家を作る事を目指して立ち上がったわけではなく、封建反動をはじめた領主たちから、既得権を守りたかっただけである。共産主義的な社会を夢見ていたミュンツァーの思想には、とてもついていける下地は無かった。
農民たちはわずかの勝利と、領主の譲歩で満足して、団結する事を忘れてしまった。そのため、せっかく得たものをあっという間に失ってしまったのである。
本題に入ろう。
なぜ、ルターはミュンツァーを「悪魔の手先」とみなしたのか。
まず、ルターは所詮教会の人間であった。「95ヶ条」も教会の浄化を目指したものであり、かれの理論は「信仰のみ」という言葉に代表されるように、精神的なものに限定された。ルターの頭の中では、常に教会の保持が最優先であったと思われる。
これに対してミュンツァーは、従来の教会の枠にとらわれずに、万人司祭主義を具現化し、社会構造自体を改革しようとしていた。これは教会の瓦解をも招く事になる。このためルターは、ミュンツァーを排除しようとしたと思われる。
宗教改革という大事件を引き起こしたルターだったが、それは彼の思想をはるかに越えたものになってしまったのだろう。
また、ミュンツァーはあまりにも高い理想のため、農民の多くは彼が目指すものを理解できなかったのではないか。ちょっとかっこいい言い方をすると、「早すぎた改革者」とでも言えるかもしれない。
以上、ルターとミュンツァーの事を書いてみましたが、やっぱり私は宗教には弱いようで、宗教理論的なところはほとんど理解できませんでした。近代ヨーロッパを理解する上で避けて通れない道なので、おいおい勉強していきたいと思います。