5分でわかるオランダ独立戦争
オランダ独立戦争
戦いの背景
オランダ |
14世紀以前のオランダの前史を概説することはとても困難である。少なくとも私のような素人の手におえるモノではない。何故ならば、これ以前にオランダという国が存在したことが無く、統一した組織のもとに統合されたことも無いからである。ここでは、必要最小限の歴史だけを記述しようと思う。 そもそもオランダという国名自体が、この地域の中心地であるホラント州からつけられている。また、良く知られたネーデルラントという呼び方は「低地地方」という意味であり,古くはベルギーなど周辺地域も含んでいた。 ローマ帝国が崩壊してからはゲルマン人やノルマン人の侵入を受け混乱に陥るが、5~6世紀にかけて低地地方のほとんどがメロヴィング朝フランク王国に統合される。843年のヴェルダン条約におけるフランク王国の分割の際にはほとんどがロタール王国に属したが、その滅亡後には東西フランク王国に分割された。低地地方は地理的に有利であったため、中継貿易などによって常にヨーロッパ商業の中心地の一つだった。 この頃はまだ、低地地方が一つのまとまった地域を構成するという考えすら生まれていなかった。 |
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ブルゴーニュ |
このように、小領邦の寄せ集めでしかなかった低地地方に、15世紀に大きな転機が訪れる。 そして15世紀の中頃、フィリップ善良公の時代には,領主同士の紛争に介入したり,相続権を買収したりして低地地方における領地を大きく広げていった。広大になったブルゴーニュ家の領土はフランス王国あるいは神聖ローマ帝国に組み込まれていたが,善良公はあえてこれらの宗主権を無視し,独自の国家経営を行い始めた。 シャルル突進公は父フィリップ善良公の政策を受け継ぎ,領土の拡張を目指した。1473年、内紛に乗じて北部のヘルデルランドを乗っ取り、低地地方のほとんどを手中に収めた。さらにロートリンゲン公国を手に入れて、強力なブルゴーニュ王国が誕生するかと思われた矢先、スイス遠征に失敗してつまづき、その後勢力を盛り返したロートリンゲン公ルネに無謀な戦いを挑んで戦死してしまった。(1477年) ブルゴーニュ家が解体の危機に瀕していた時、シャルル突進公の娘で低地地方を統治していたマリーが、後の神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルグ家のマクシミリアンと結婚した。これによってフランス軍を撃退することができたが,今度はハプスブルグ家による支配への道を開くこととなった。次に政権を握ったマリーとマクシミリアンの息子フィリップ端麗公は,後退していた中央集権化の回復に努める。彼が低地地方生まれの土着の君主と見なされたため,比較的反抗も少なく平穏な治世であった。その王妃にはスペインの王女を迎えたため,低地地方とスペインを結びつけることになった。これは、強大なハプスブルグ帝国を出現させる直接の要因でもあった。 端麗公の長子カールは、父王が早逝したため幼くして低地地方の統治者となった。(1506年)そして1516年にスペイン王位を継承してカルロス1世となり、1519年にはハプスブルグ家の当主として神聖ローマ帝国皇帝に選出され、カール5世を名乗った。カール5世は広大なハプスブルグ帝国の統治者となったため,低地地方の統治に多くの時間を割くことができなくなった。そこで彼は低地地方の統治を叔母や妹を執政に任命して委任した。しかし、生まれ故郷には特別の思いがあったようで,独立を保っていた北部諸州の併合に乗り出す。そして1543年、強い抵抗を退けてヘーデルラントを統合し,低地地方のすべてをその手中に収めた。 |
オランダ独立戦争
反抗の始まり
フェリペ2世 |
1555年、カール5世は自ら退位し、低地地方の統治をスペイン生まれの息子フェリペに委ねた。さらに翌年,彼はスペイン王位を継承しフェリペ2世を名乗った。フェリペはしばらくは低地地方に滞在したが,1559年に対仏戦争が一段落するとスペインに帰国してしまった。低地地方には異母姉のマルガレータを執政として任じ,これに側近会議をつけて行政の補佐をさせた。 低地地方でも他のヨーロッパ諸国の例に漏れず、16世紀には宗教改革の波が押し寄せていた。ドイツからはルター派や再洗礼派、スイスからフランスを経由してカルヴァン派などが流入した。低地地方の未来に大きな影響を及ぼすカルヴァン派は、1540年ごろから流入し始め1560年頃には南部を中心に拡大していった。そして、ルター派や再洗礼派を吸収しながら低地地方全域に根をおろすことになった。 ところが、熱烈なカトリックであるスペインで生まれ育ったフェリペは、カール5世の新教弾圧を忠実に、しかも厳格に行ってしまった。宗教迫害によりなおさら信仰心を増大させるのは,ローマ帝国以来のキリスト教の特徴であり,強力な弾圧に対して逆にカルヴァン派は本格的に普及し始めていた。また、中央集権化をさらに推し進めようとしたことから,政治的にも不満が募っていった。 |
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カルヴァン派 |
より厳しくなった宗教迫害に対抗するために,カルヴァン派やルター派の下級貴族らが中心になって「貴族同盟」を結成した。この指導者の中には、オラニエ公の弟ルートヴィヒ・フォン・ナッサウもいた。貴族同盟には新教弾圧に同情的であったり、フェリペの支配に不満を持っていたカトリック貴族も参加していた。その同志は2千人に上り、オラニエ公も密かに好意を寄せていたと言われる。 マルガレータのあいまいな対処は,予想外に大きな反響を生んだ。カルヴァン派信徒たちは事実上迫害が停止されたと考え,公然と集会を開くようになった。国外に亡命していた貴族たちも次々に帰国し,カルヴァン派の組織は急激に進展していった。 このままカルヴァン派が勝利するかに見えたが,新教徒に同情して参加していたカトリック貴族たちが、貴族同盟から離れて執政に和を求めたことによって事態は大きく変わる。もちろん自分たちの信仰するカトリック教会を略奪されたこともあるが、それ以上に、一般民衆を巻き込んだ過激な闘争によって、社会構造そのものが揺らぐ危険を感じたためと思われる。貴族同盟はあっという間に解体してしまった。 |
オランダ独立戦争
八十年戦争突入
アルバ公 |
低地地方の騒乱は一応沈静化したが,フェリペの怒りは収まらなかった。彼はこの機会に新教勢力を一掃し,中央集権化を推し進めようと決意した。フェリペは一万人の軍隊と執政に匹敵する権限をアルバ公に与えて、低地地方に派遣した。 反乱側では、ドイツに亡命しカトリックからルター派に改宗したオラニエ公を中心に、低地地方の開放計画が進められた。 新教徒の反撃を首尾良く撃退したアルバ公は,いよいよ低地地方の中央集権化に向けて動き出した。低地地方では課税は全国議会の承認を得る必要があったが,アルバ公は議会に煩わされること無く課税を行うために,継続的に賦課できる新しい間接税を提案した。この税は低地地方の伝統に反するだけでなく、すべての商取引にかかる税であったため、この地方の生命線である商工業に悪影響を及ぼすことになる。当然、議会は反発したが,スペイン軍の力を背景に半ば強引に承認させてしまった。しかし、世論のあまりの反対の声に押されて、1572年まで実際の税の執行を遅らせなければならなかった。 |
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乞食党 |
乞食党とは、アルバ公の圧制を逃れてドイツ,フランス、イギリスなどに亡命して反スペイン運動を行った、主にカルヴァン派下級貴族のことである。ある者はドイツに亡命していたオラニエ公のもとに集まってカトリック教会への攻撃を行い,ある者はフランスのユグノー軍に参加した。特に、ドイツ、フランス、イギリスの海岸を拠点として、スペイン船や沿岸のカトリック教会を襲ったのが海乞食である。海乞食はスペイン船の拿捕状を与えられるなど、オラニエ公と密接に連携していた。 イギリスのエリザベス女王は、スペインと反目する立場からオラニエ公の拿捕状を承認していたが、アルバ公からの抗議によって海乞食がイギリスの港に出入りすることを禁止してしまった。1572年2月、イギリスを追われた海乞食の一隊24隻はザイデル海を目指していたが,その途中ホラント州の島デン・リブレが無警戒であることを知り,4月1日に数時間でこの島を占拠することに成功した。さらに彼等はゼーラント州のフリシンゲンやホラント州の北側に位置するエンクハイゼンをまたたくまに占領し、一ヶ月以内には各地に亡命していた仲間たちが援軍を率いて合流した。 この海乞食の一派の成功に刺激されて低地地方全土で反スペイン運動が発生するが,運動を指導するべき貴族たちは既に亡命しており,まとまりの無い反乱はあっという間にスペイン軍に鎮圧されてしまった。 アルバ公は南部を平定すると、ドイツからの援助を遮断するため東部の再征服を行った。そして1572年12月、スペイン軍はついに反乱側の中心であるホラント州に進攻し、ハーレム市を包囲した。ハーレム市の反乱軍はスペイン軍の猛攻を良くしのぎ,オラニエ公もハーレム市救出に全力をあげたためなかなか陥落しなかったが,1573年7月補給路を断たれたため反乱側は結局降伏してしまった。 |
オランダ独立戦争
統一と分裂
ガンの |
アルバ公が反乱を鎮圧して以来,ホラント・ゼーラント両州以外の諸州はスペイン軍の支配下に取り込まれており、駐留スペイン兵の横暴や重税の影響を大きく受けていた。このため、スペインの圧制に対する不満が大きく膨らんでいった。この頃,給与不足から続発するスペイン兵の暴動には執政レセケンスも手を焼き,反乱側と和平交渉を試みるが失敗に終わってしまう。 財政はますますひっ迫し,各州に対し強制公債割り当てが行われた。政情の不安が続く中、低地地方の中心的な位置を占めていたブラバント州のブラッセルやフランドル州のガンでカルバン派が蜂起し,ついに市政を把握することに成功した。次に、数千人もの住民を殺戮していたスペイン軍を退去させるために、ブラバント州議会は兵を集めることを決定した。低地地方を蹂躙していたスペイン兵に対する憎悪は頂点に達していたのである。これに対しオラニエ公はすぐさま協力を申し出ため、ブラバント側もカトリック信仰の維持と国王への忠誠を条件に,オラニエ軍を受け入れることを決定した。 しかし、「ガンの平和」は長くは続かなかった。 |
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分裂 |
レセケンスの死後、新しい執政として派遣されたのは,カール5世の私生児でレパントの海戦で勇名を馳せたオーストリアのドン・ファンであった。反乱側が南部まで勢力を伸ばしていたため、彼はしばらくルクセンブルグで様子を伺っていたが、ガンの平和を受け入れない限り首都ブリュッセルには入城できないことを悟った。 一旦は議会と和睦したドン・ファンであったがすぐに強硬な態度を示し始め、1577年7月には武力によってナミュール城を占領した。このため、議会の面目は丸つぶれとなり、すぐに執政と全国議会とは袂を分かつことになってしまった。ドン・ファンを解任した全国議会は,急速に人気を高めていたオラニエ公の勢力に対抗するために、新執政としてオーストリア大公マティアスを招いた。 1578年10月にドン・ファンが死去して以来、スペイン側の執政となっていたパルマ公はこの機会を逃さなかった。彼ははワロン諸州に、過去の権利の尊重、スペイン軍の退去,貴族への恩賞などを条件に講和を持ちかけた。1579年1月6日、ワロン諸州(アルトワ、エノー、ワロン・フランドル)はアラス同盟を結成、7月には全国議会から離脱してスペイン国王に忠誠を誓った。 この時点で、北部を中心とする反スペイン派と、南部の親スペイン派の分裂が決定的になってしまった。この後も境界線は大きく移動するものの、本質的に南北で和解の道を見つけることはできなかった。反スペインを唱えて結集した「ガンの平和」だったが、実にあっけなく崩壊してしまった。その理由は何だったのか。宗教的な反目か,保守派と急進派の対立か、あるいは地理的な条件が働いたのか。おそらく、これらの諸条件が複雑に絡み合ってこのような結果になったのだろうが,数冊の本を読んだだけの私には、明確な答えは見出せなかった。 |
オランダ独立戦争
連邦共和国成立
模索 オラニエ公 |
1579年5月、ドイツ皇帝(ルドルフ2世)とローマ教皇(グレゴリウス13世)の仲介により,議会とスペイン国王との間で和平交渉が始められた。しかし、両者に妥協の道は無く、半年後にこの交渉は決裂した。 確実にユトレヒト同盟を切り崩してくるパルマ公によって、議会側は苦境に追い込まれていた。このままではパルマ公の軍事力と政治力の前に、同盟はずたずたにされてしまう。危機感を募らせた議会は、外国の援助によって苦境を打破しようとした。しかし、援助を得るためには見かえりが必要である。そこで彼等は低地地方の君主権を委譲する方法をとることにした。 しかし、アンジュー公の招聘はたいした効果を生まなかった。アンジュー公はカトリックであったために人気が無く、しかも名目のみの国王であって実権はほとんど与えられなかった。このような状況に耐えられなかったアンジュー公は1583年1月、フランス軍によるクーデターを起こしたが失敗し、フランスに帰ってしまった。(フランス兵の狂暴) ホラント、ゼーラントおよびユトレヒトの諸州は協議の末、オラニエ公を主権者とすることに決し、オラニエ公もこれを受け入れる決意をした。しかし、この称号授与の儀式の2日前である1584年7月10日オラニエ公は暗殺者の凶弾に倒れた。反乱が勃発して以来、反乱側の政治的、精神的支柱であったオラニエ公の死は、全国議会およびユトレヒト同盟にとって悲劇的な出来事であり、前途に大きな暗雲を予感させるものであった。 |
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連邦共和国 |
パルマ公の勢いはとどまるところを知らず、次々と反乱側の都市を制圧していった。南部ではフランドル、ブラバントなどをほぼ掌握し、東部でも重要な拠点が陥落していた。議会側はこの時点でも海軍力によって海・川を押さえていたため、ホラント、ゼーラントまでは危険が及んでいなかったが、いまや劣勢に立たされているのは誰の目にも明らかだった。 議会はこの難局を乗り切るために、再度外国の支援を要請することにした。今回支援を引き受けたのはイギリスのエリザベス女王だった。但し、その支援はごく限定されたものであり,女王の腹心レスター伯が5000人の軍勢と共に上陸しただけだった。 アンジュー公に続きレスター伯の招聘も無残な失敗に終わった結果、全国議会は2度と同じ過ちを繰り返さないことを決めた。低地地方は2度と外国の君主を求めないことになったのである。これ以前は,従来の王制の枠組みの中で各州の権利を保持しようとしていたが,この時から共和制が重要な選択肢として登場した。 レスター伯による内政の混乱の中,軍事的な状況は悪化するばかりであった。しかしこのとき、2つめの幸運が訪れる。フェリペ2世がフランス、イギリスとの戦いに力を注ぐことにしたため,パルマ公をフランスとの戦いに振り向けたのである。このため議会側は危機を脱し、さらにスペイン無敵艦隊の敗北(1588年8月)が大幅に有利な状況を生み出した。この後の10年間は、有能な軍人に成長したマウリッツの指導の基、ユトレヒト同盟が周辺諸都市をスペインから奪回し,共和国の基礎を形作った時期であった。マウリッツは北部7州の領土を回復し,さらに南部の一部分をも手に入れた。 その後,スペイン側にパルマ公(1592年没)に替わって名将スピノザが登場したため,戦局は膠着状態に陥った。そして1607年からスペインと共和国の間で、再度休戦交渉が始められた。共和国では、休戦するべきと主張するオルデンバルネフェルト派と、徹底抗戦を主張するマウリッツ派にわかれて対立していた。フランスの仲介もあって結局休戦派が主導権を握り,1609年4月9日ついに12年間の休戦が実現した。スペイン側は共和国を事実上の独立国として扱い,フランドル、ブラバントにおける国境を設定した。これがほぼ現在のオランダに相当する。 スペインの圧制に対して宗教的あるいは政治的な反発を発端とした反乱は、幾度と無く発散しそうになりながら,オラニエ公という纏め役のもと連邦共和国設立という当初は予想もしていなかったであろう結末を迎えた。ここまで見てきた通り,彼等は当初から共和国の設立を目指していたわけではなく,緩やかな王権のもとで各州の独自性を確保しようとしていたように思える。しかし、王権強化に向かう強国の思惑から外れ,残された選択肢として共和制をとらなければならなかったようだ。 |
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連邦共和国 |
もうご存知のことと思うが,現在のオランダの正式な国名は「オランダ王国(於日本)」である。今はオラニエ家の王国になっている。それでは連邦共和国はどこに行ってしまったのか。 最後に一つ、興味深いデーターを示しておこう。現在のオランダとベルギーの宗教構成である。
アラス同盟を母体としてスペイン側にとどまったベルギーはほとんどがカトリックである。これに対し,オランダではプロテスタント、さらに無宗教が大きく3分している。これはパルマ公の政策により,ベルギーのプロテスタント(カルヴァン派)が北部に流入したためだろう。さらに目を引くのは無宗教の多さである。古来の宗教的寛容の精神がしっかり生きているのがわかる。このおかげで日本など非キリスト教国から排斥されず,近代まで貿易が続いていたのは周知のとおりである。 |