ローマ皇帝たちまとめ
S.P.Q.R (Senatus Pupulusque Romanus)
王朝(時期) 在位 死因 要約(同時代人の評価)
ユリウス=クラウディウス朝 前27-68 (帝国の建設)
共和制末期の内戦に倦み疲れたローマにようやく安定をもたらしたのは統治の天才オクタヴィアヌスの巧妙な作品、共和制の外被をまとった事実上の一人支配であった。帝国の安寧を第一とする以上、共和制時代の膨張的な対外政策は守勢に転換せざるを得ず、ローマは蛮族に恐れられるより尊敬される道を選んだといえる。他方、共和制の見せかけとユリウス・クラウディウス両家の血縁による権力独占の矛盾は絶え間ない宮廷陰謀を招き、血で血を洗う骨肉の争いの果てに王朝は自壊する。しかし悪名高い皇帝たちの贅沢乱行にもかかわらず経済は健全で通貨価値は安定しており、蛮族に対しても十分な防衛体制が整っていた。 |
オクタヴィアヌス Gaius Octavianus |
前27-14 | 自然死(老齢) | ユリウス=カエサルの姉の孫。才能を認められ18歳でカエサルの財産と軍隊を相続。病弱で戦闘は下手だが、巧みな政略でマルクス=アントニウスを破り内乱を収拾。有能な友アグリッパを片腕に帝国を建設。元老院を尊重する装いをとり、Augustus=「尊厳なる者」の称号を受けて帝政を開始。全ローマ軍の唯一のパトローネスとして軍権を把握しつつ、属州を皇帝と元老院の管轄に分ける制度をとる。ゲルマニア征服失敗後は領土拡張を戒めて守勢策に転換。娘ユリア(アグリッパの妻、のちティベリウスに嫁ぐ)は淫乱浮気性で父帝を悩まし流刑に処せられる。彼の治下でオヴィディウス、ホラティウス、ヴェルギリウス、リヴィウスなど第一級の文人が出た(ラテン文学の黄金時代)。 | AA |
ティベリウス
Tiberius Claudius |
14-37 | 自然死(老齢) | アウグストゥスの後妻リヴィア(アウグスタ)の連れ子。有能な軍人で第一級の行政家だが、皇帝になれたのは有力な候補が消えたための消去法。テベレ河を改修し首都の食糧事情を改善。贅沢を抑制し緊縮財政で国庫は黒字、同時に金融は逼迫。共和制の見せかけを不本意ながら尊重したが、家庭の不幸で憂鬱過酷になる。重臣セイヤヌスを信頼して裏切られ、これを一族もろとも陰険残忍に処罰。晩年はローマ市に入らずカプリ島でAV的変態性戯と残酷趣味に耽溺する。死後の神格化は元老院によって拒否された。 | B |
ガイウス(カリギュラ)
Gaius Julius |
37-41 | 暗殺(近衛兵) | 人気者ゲルマニクス(ティベリウスの甥でアウグストゥスによってその後継と定められていたが熱病または毒殺で早死)の息子。最初は近衛隊長マクロと義父のシラヌスの後見で善政をしくがやがて精神異常をきたし、やたらと人を殺す。ティベリウスの残した国庫をたちまち蕩尽。妹ドルシラと近親相姦、誇大妄想癖(祖先のアントニウスの血の影響か?)で自分を神と崇めさせる。彼をモデルにしたC級ゲテモノ映画と、アルベール=カミュの傑作戯曲がある。近衛隊長カエレアの陰謀で妻子とともに刺殺される。宮殿にナイフを持ってくるのはやめましょう。 | C |
クラウディウス
Tiberius Claudius |
41-54 | 暗殺(宮廷陰謀) | ゲルマニクスの弟、脳性麻痺?ブサイクで女難続き。精神薄弱と思われてカリギュラの魔手を逃れ、近衛兵によって推戴される。大酒飲みの馬鹿者と言われるが、法律と古文辞学に造詣が深い歴史家でもある。ブリタニア南部を征服。4度も結婚、3度目の妻メッサリーナに裏切られてこれを殺し、姪の小アグリッピナを娶って最後はキノコ料理で毒殺される。死後セネカによって「ヒョウタン成り」とコケにされた。 | B’ |
ネロ
Lucius Domitius |
54-68 | 自殺(内乱敗北) | 哲人セネカと親衛隊長ブルスの後見で最初は善政、成人して本性を暴露。ギリシャの八百長芸能人、数々の競技の栄冠を独り占め。義弟ブリタンニクス(クラウディウスとメッサリーナの間の子)と妻オクタヴィア(左に同じ)と母親小アグリッピナを殺す。「黄金の館」を建てて贅沢を極める。邪悪な親衛隊長ティッゲリヌス、ニュンピディウス=サビヌスらを用いて虐政。ローマの大火と最初のキリスト教迫害(パウロ、ペテロ殉教)。ユダヤ人の反乱とガリア知事ヴィンデクスの謀反を皮切りに属州が次々離反、元老院から公敵国賊と宣言されて自殺。しかし市民にも外国人(パルティア)にも不思議な人気があり、死後にニセモノが何人も出現した。 | D |
第一内乱期 68-69 (4人の皇帝の年)
統治よりもギリシア流の芸能に励んだネロの自滅でユリウス=クラウディウス朝は断絶、帝国は各地の軍隊が皇帝を擁立して覇権を争う内乱に突入する。市民戦争の惨害に比べればネロの暴政など大衆にとっては牧歌的とさえ思われた。気難しい老規律屋、人生に執着しない放蕩者、御しやすい無計画な浪費家のいずれも短い惨めな治世。最後の勝利を手にしたのは家柄は低く大した武勲もないが、幸運と堅実な才能に恵まれ常識を備えた高齢の将軍、フラヴィウス家のヴェスパシアヌスであった。 |
ガルバ
Servius Sulpicius Galba |
68-69 | 暗殺(オト) | ヒスパニア・タラコネンシス知事、ツル禿の謹厳な老規律家。マッチョ好みのホモホモ。保守的で吝嗇短慮、取柄なし。ヴィンデクスの呼びかけに応じて謀反し「元老院とローマ人民の代行者」と称す。ネロの自滅で政権を取ったが自分を支持した近衛兵に然るべき恩賞を与えず憎まれる。古い貴族の出身のピソを後継者(養子)に宣言してオトの離反を招き殺される。「皇帝にならなかったなら、帝位につくべき人とみなされたであろう。」(タキトゥス) | C |
オト
Lucius Salvius Titianus Otho |
69 | 自殺(内乱敗北) | ネロの悪友(情婦ポッパエアを寝取られる)で享楽的浪費家。寝取られ男の恨みでネロに反逆し、ガルバの後継者に選ばれなかったことにまた怒って反逆。ヴィテリウス軍にベドリアクムで破れ、内戦の惨害を食い止めるために予備兵力がありながら従容と自殺した最期だけはまことに立派で、死後は高く評価された。 | C |
ヴィテリウス
Aulus Viterius |
69 | 処刑(内乱敗北) | 下ゲルマニア州軍司令官、無能怠惰、残忍下劣、浪費大食。自軍を統率できず、せっかく仲介役にヴェスパシアヌスの兄フラヴィウス=サヴィヌス(ローマ市長官)と息子のドミティアヌスを生かしておいたのに、降伏して助かる最後の機会を自軍兵士の反対で逸する。最期の惨めさはオトと対照的でエラガバルスと歴代皇帝中一、二を争う。 | D |
フラヴィウス朝 69-96 (帝国の復興)
69年の市民戦争で引き裂かれたローマ帝国はヴェスパシアヌスの堅実な手腕の下で復興を遂げる。今なおローマ市中心部にそびえ立つ円形闘技場、ティトゥスの凱旋門、ヴェスビアス火山の噴火で埋没したポンペイなど、この時代を今日に伝える遺跡も数多い。しかし後半は孤独な被害妄想の暴君と化したドミティアヌスにより、キリスト教徒の迫害やローマ上流市民の処刑が相次ぐ。臣下が武勇や才能を発揮すると嫉妬を買って身の危険を招いた。帝国はなお活力を保っていたが、未来のない孤独な王朝は滅びる前にできる限り多くの者を道連れにしようとするかのようであった。 |
ヴェスパシアヌス
Titus Flavius Vespasianus |
69-79 | 自然死(老齢) | 謹厳実直だがジョークもうまい野人、苛酷で悪知恵に長けた取税人。ネロに命ぜられユダヤ人の反乱鎮定中に内乱で即位。もっとも実際にヴィテリウスを倒したのはアントニウス=プリムスを将とするパンノニア軍団だが、戦後は巧みな政略でアントニウスを失脚させる。元老院決議でユリウス=クラウディウス朝の皇帝と同じ権限を獲得。財政を再建し大コロセウムを建設。華美浮薄な風潮を戒め、騎士階級の有能な人材(トラヤヌスの父もその一人)を登用。「皇帝になって前より良くなったのは彼一人である。」(タキトゥス) | A |
ティトゥス
Titus Flavius |
79-81 | 自然死(熱病) | ブリタンニクスの学友、有能で気前よい人気者。父の近衛隊長を務める。ユダヤの不倶戴天の敵(エルサレムを攻略し神殿を焼く)。ユダヤの皇女(実は大年増)ベレニケとの悲恋で文学のアイドルになる。ローマの火災、ポンペイの火山埋没など治世は災害続き。フォロ・ロマーノにシンプルな造りの凱旋門がある。人望厚かったが早死。民の声は神の声、神々に愛される者は早死にする(メナンドロス)。 | B |
ドミティアヌス
Titus Flavius Domitianus |
81-96 | 暗殺 | つねに兄と比較される陰気で不幸な独裁者。法律・行政には通じており馬鹿ではない。元老院を軽視し属州出身者や騎士階級の有能な人材を登用。嫉妬心強く、残忍の技巧はほとんど芸術的。キリスト教徒を迫害。孤独で虚栄を求め、自分を dominus et deus (主にして神) などと呼ばせる。詩人スタティウスのおべっか作品では名君に描かれている。残虐と気まぐれで身内にも恐れられ、ついに筆頭側近や親族まで加わった陰謀で暗殺される。死後、元老院により「記憶抹殺」処分を受ける。 | B’ |
五賢帝 = 養子皇帝時代 96-180 (善政と膨張、安定から斜陽へ)
実子のいない皇帝たちは養子の形式で最善の後継者を選ぶことになり、皇帝の家庭的不幸は帝国全体の幸福をもたらした。皇帝と元老院階級は何重もの姻戚関係を結び、イニシアチブはつねに皇帝がとったとはいえ、両者は概して良好な関係を保った。トラヤヌスのダキア征服と東方遠征で領土は最大になったが、ハドリアヌスは政策を転換し、帝国内の平和と安寧の追求に目標を切り替えた。公平な裁判、効率的な行政、有能な皇帝たちの仁政など、ローマの自由民にとって幸福な時代であったことは疑いないが、他方で貧富の差の拡大、イタリアの経済衰退や人口の減少など、徐々に没落の兆候が現れてきた。人類史上最も幸福な時代と呼ぶか、ローマの小春日和(Indian Summer)と呼ぶか、真実はその中間にあるというべきであろう。 |
ネルヴァ
Marcus Cocceius Nerva |
96-98 | 病死 | 寛仁深慮、病弱の老法律家。祖父はティベリウス時代の名法律家で自分もネロ時代から活躍。恐らく先帝暗殺陰謀の一味。元老院と協調し善政に努めたがドミティアヌスを懐かしむ近衛兵に侮辱され、血縁関係のないトラヤヌス(当時ゲルマニア総督)を養子として後継者に指名。侮辱した輩はのちにトラヤヌスに厳しく処罰された。 | A’ |
トラヤヌス
Marcus Ulpius Traianus |
98-117 | 遠征先で病死 | 属州ヒスパニア出身。文武両道の Optimus Princeps 「最善の元首」。ダキアとメソポタミアに侵攻した帝国主義者。一時はカスピ海とペルシア湾まで達しローマ帝国の領土最大となる。慈善活動(嬰児養育への補助金アリメンタ)や有益な公共事業(水道橋や港湾、市場整備)に尽力。虚飾を排し元老院を尊重、独断的ながら正義を守り(キリスト教徒に対しても匿名の密告や信徒狩りを禁止)、余計な血を流さず圧倒的な人気を得た。遺骨は黄金の壺に入れてトラヤヌス記念柱の基壇に納められたそうだが、盗まれて今はない。フロンティヌス、プルタルコス、小プリニウス、タキトゥス、スエトニウス、ユウェナリスらの文人が治下で活躍。本当にハドリアヌスを養子としたかどうかは今日まで確証はなく、妻プロティナの画策だったとする説も有力。 | AA |
ハドリアヌス
Publius Aelius Hadrianus |
117-138 | 病死 | トラヤヌスの遠縁。美少年大好きのやおい同性愛、文化の保護者(ラテン文学白銀時代)。大旅行家にして多芸多才、とりわけ建築(代表作は現在のパンテオン)と詩文に優れる。ギリシャ贔屓で哲学者風に髭を伸ばす。各地辺境に長城を建設し、対外的には守勢に転じる。ユダヤ人の最後の大反乱を粉砕して離散(ディアスポラ)させる。秘密警察(フルメンタリィ)を用いたり、帝位継承を円滑にするために殺人も辞さなかったなど陰険なところがあり元老院との関係は冷却。墓廟はのちに法皇庁の要塞(サンタンジェロ城)として用いられる。現代では評判が高いが一つ間違えば暴君扱いされるところだった。 | A |
アントニヌス=ピウス Titus Aurelius Fulvus Boionius Arius Antoninus Antoninus |
138-161 | 老齢病死 | 富裕な元老院議員の出身。五十歳でハドリアヌスの養子となって後を継ぐ。敬虔(→ピウスの称号)で篤実有能、Pax Romana の維持者。歴史上の事件の記録が残っていないのが最大の名誉。「すべての元首の中で彼だけは、その力の及ぶ限り、市民の血にも敵の血にも無縁であった」と伝記に書かれたほど。ブリタニア北方にアントニヌス長城を築く。最期もまことに穏やかで立派であった。彼からコンモドゥスまでを血縁から「アントニヌス朝」と呼ぶことがある。(セヴェルス朝も自称アントニヌス朝の延長) | A |
マルクス=アウレリウス
Marcus Aurelius Antoninus |
161-180 | 陣中病死 | ストア派の哲人皇帝。若くしてハドリアヌスに見込まれた有能で謙仰、克己仁慈の人。マルコマンニ族など蛮族と戦い各地を転戦しながら『自省録』を書く。ペルシアの侵入を撃退したが軍隊が持ち帰った疫病で帝国は大打撃を受け人口は減少。馬鹿息子コンモドゥス(母はアントニヌス=ピウスの娘、双子の一方の生き残り)に盲目の愛を注ぎ、養子皇帝のよき伝統を破る。憂鬱な風貌の青銅騎馬像は(コンスタンティヌスの像と間違えられたお陰でキリスト教徒による破壊を免れ)今日まで残る。本当は戦争大嫌いの平和主義者だったが、ストアの哲人はユリアヌスなども同様に必要とあれば戦いも辞さないのだ。彼の統治下でもキリスト教徒の迫害は続けられた。 | A’ |
ルキウス=ヴェルス (共治帝)Lucius Aelius Aurelius Commodus |
161-169 | 病死 | ハドリアヌスが最初後継者に考えたケイオニウス(まもなく病死)の息子。義理堅いマルクス=アウレリウスによって共治帝とされたが気楽な無能者、単なる添え物。ペルシア侵入軍の撃退も部下の将軍たちの功績。未亡人ルキラ Lucilla (コンモドゥスの姉)がのちに陰謀を企て災いを招く。 | B’ |
第二内乱期 = 6人の皇帝の年 (193) 180-197
1世紀近く続いた養子皇帝の善政は、意志薄弱で統治者失格の実子コンモドゥスの相続、暴政そして暗殺とともに無惨に崩壊した。再び各地の軍隊が皇帝を擁立し、血で血を洗う内戦が勃発する。三人の皇帝の謀略渦巻く陰惨な戦いの末に最後の勝者となったのは北アフリカ属州出身でローマの上層階級と折り合いが悪く、妻ユリア=ドムナを通じてシリアの太陽神崇拝と縁が深いセプティミウス=セヴェルスであった。 |
コンモドゥス
Marcus Aurelius |
180-192 | 暗殺 | 武芸を好み、剣闘士やヘラクレス気取り。父の遺訓に反して蛮族と中途半端な講和を結びローマに帰る。政治は貪欲無能な寵臣ども(ペレンニウス、クレアンデルら)に任せきりで放蕩遊興に明け暮れる。事績はゼロどころか大マイナス、世にも希な超越馬鹿だが再評価する人もいる。剣闘士の格好で執政官就任の儀式に臨もうとし、呆れ果てた身内の陰謀で殺される。映画『ローマ帝国の滅亡』の主人公だが、滅亡とはちと気が早すぎるのではないか? | E |
ペルティナクス
Publius Helvius Pertinax |
193 | 暗殺 | 解放奴隷の息子で古典教師の出身、マルクス帝に見出され高位に昇進。先帝の暗殺者たちに帝冠を提供される。有能な人格者だが清廉厳格過ぎたのが命取り。緊縮財政政策をとって近衛隊長ラエトゥスに逆らい、近衛部隊の暴動で殺される。在位2ヶ月強。 | C |
ディディウス=ユリアヌス Marcus Didius Severus Julianus |
193 | 処刑 | 愚かな金満家の元老院議員。帝位を近衛兵から競売で購入。たちまち属州の反乱を招き、セヴェルスとの和平に失敗して在位2ヶ月で殺される。なおラエトゥスはセヴェルスとの和平を求めたユリアヌスによって処刑された(当然過ぎる報い)。 | D |
ペスケニウス=ニゲル (僭帝)Gaius Pescennius Nigel Justus |
193-194 | 敗死 | シリア総督。セヴェルスよりは人望があったが戦争下手。「良いことも悪いこともしなかったので評価は難しい」と歴史に書かれる。イッソスの戦いで敗れて処刑される。根拠地のアンティオキアは降伏してラオデキアにシリア首都の地位を奪われる。ビザンティオン市は最後までニゲルに忠実に戦ったため、報復で一時廃虚にされてしまった。 | C |
クロディウス=アルビヌス (僭帝) Decimus Clodius Albinus |
193-197 | 自殺 | ブリタニア知事。後継者にするとの政敵セヴェルスの口約束を信じてセヴェルス対ニゲルの内戦に介入せず、結構な報いを受ける。リヨン郊外の戦いに敗れて自殺。帝位をめぐる二度目の内乱は69年のそれをはるかに凌ぐ惨禍を帝国にもたらした。 | C |
セヴェルス朝 193-235 (帝国の専制化・属州の比重増大へ)
内戦に勝ち残ったセプティミウス=セヴェルスはアントニヌス朝の後継者を標榜しつつ、実は東方的専制の色彩が濃い新たな王朝を開始した。カラカラによる全自由人へのローマ市民権の賦与は帝国の性格を大きく変え、ローマは一都市国家の名前ではなく文明世界全体をさす言葉となった。ローマ史上最大の暴君カラカラの暗殺後、帝国はセヴェルスの皇后ユリア=ドムナの一族、シリアのバッシアヌス家の女性たちによって牛耳られることになる。エキゾチックで奇怪な太陽神崇拝、それと密接に結びついた女系の支配は、長いローマ史の中でもひときわ異彩を放つものであった。セヴェルス朝はまた法学者の影響が強かった時代としても知られる。 |
セプティミウス=セヴェルス
Lucius Septimius Severus |
193-211 | 遠征先で病死 | 北アフリカのレプシウス=マグナ出身(フェニキア系アフリカ人?)。野心と迷信の混合、過酷ながら優れた権威主義者。パンノニア軍団を率いて都に侵攻、横暴な近衛兵どもを処罰。勝手にマルクス帝の養子と自称。星占いでシリア公女のユリア=ドムナと結婚。ローマに大きな凱旋門がある。蛮族撃退のため各地を転戦、遠征先のブリタニア(ヨーク)で病死。「兵士を富ませよ、兄弟力を合わせよ、あとは気にかけるな」が遺言。兵士の結婚を許し給料を引き上げるなど軍人優遇に努める。 | B |
カラカラ
Marcus Aurelius |
211-217 | 暗殺 | 暴虐無慙、実弟ゲタ殺し、兵士の人気取り。「アントニヌス法」(212) で帝国内の全自由人成人男子にローマ市民権を賦与(実は課税が目的)。壮大なカラカラ浴場を建設。悪鋳で質の低いアントニヌス銀貨を発行。何の理由もないのに滞在先のアレクサンドリアで市民数千人を虐殺。内政を母に任せてペルシア遠征中に暗殺される。美術の教科書でお馴染みの肖像彫刻に残忍な人柄がよく表現されている。マクリヌスが疑いを逸らすために神格化して祀ったので公式には暴君ではない。 | C’ |
共治帝ゲタ(Geta)
Lucius Septimius |
211-212 | 暗殺 | 兄と同じ気質、実行力がなかっただけ。無茶苦茶仲が悪い兄弟。帝国分割による平和的解決には母ユリア=ドムナが反対。ゲタの暗殺後、巻き添えでローマ市民2万人が殺されたとも言われる。兄の命令で凱旋門や彫刻から名前と肖像を抹消された。 | C’ |
マクリヌス
Marcus Opellius Macrinus |
217-218 | 敗死 | カラカラの近衛隊長。元老院議員出身でない初の皇帝、マウレタニア人。陰謀の嫌疑を受け、先手を打ってカラカラを殺害して帝位に就く。ローマに戻らずアンティオキアで軍を指揮。ユリア=ドムナ(危害は加えられなかったが怒って自殺)の妹ユリア=マエサがエラガバルスを奉じて起こした内乱で倒される。 | C |
デイアドメニアヌス
Marcus Opellius |
218 | 敗死 | マクリヌス帝の息子。頭の格好が冠(ディアデム)を被ったように見えたからという変な理由で名前が付いた。父帝の共同統治者にされ、悪意はあっても実行する暇がないまま運命をともにする。 | D |
エラガバルス
Varius Avitus Bassianus |
218-222 | 暗殺(暴動) | エメサ太陽神の祭司。カラカラの庶子と偽り14歳で即位。女装の性倒錯、贅沢を極めた完全な気違い。彫像はどことなくミック=ジャガーに似ている(?) 「戴冠せるアナキスト」(A.アルトー)。ローマに太陽神の神体(隕石)を持ち込む。副帝となったセヴェルスを殺そうとして失敗し、逆に暴動で母ユリア=ソエミアとともに惨殺される。暴動の背後では祖母ユリア=マエサが糸を引いていたとの説もある。 | E |
セヴェルス=アレクサンデル
Marcus Julius Gessius |
222-235 | 暗殺(兵士) | エラガバルスの従兄弟で性格は正反対。生真面目で文弱、母ユリア=ママエアの傀儡。法学者ウルピアヌスを近衛長官にしたり、16人の元老院議員の顧問会議を設けるなど文治主義をとる。ゲルマン人との戦いで遠征中に屈辱的講和を図り、怒った兵士を抑えられず、母子ともに暴動で殺される。カラカラが市民権を大盤振舞したため、それまではローマ市民になることが目的で補助軍に入っていた堅実な属州民がいなくなり、軍は蛮族と盗賊の集まりみたいなものになった。 | C |
軍人皇帝時代(前期) 235-268 (帝国の危機)
セヴェルス朝の断絶で帝国の混迷は新たな段階に入る。主導権を回復しようとした元老院の努力は近衛兵団の横暴の前にあえなく潰え去った。帝位は全く安定せず、野心家が軍隊の支持を得て帝号を称してはたちまち殺害されることの繰り返しであった。平和と繁栄の時代ならいざ知らず、これほど惨めな皇帝になぜそんなに候補者がいたのかは理解しがたい。蛮族は各地を荒らし回り、経済は疲弊、財政はほとんど破局状態となる。国難を打開せんとする帝国政府は混乱の元凶とみなされたキリスト教の組織的な大迫害を始め、帝国全体を暗雲が覆った。皇帝ヴァレリアヌスがペルシアの捕虜となった260年はローマにとって最悪の年というほかなかった。 |
マクシミヌス=トラクス
Gaius Julius |
235-238 | 暗殺 | トラキア(最近の説ではモエシア)農民レスラーの出。皇帝というより蛮族出身の侍大将。容貌怪異、野蛮大食、体力抜群。アントニオ猪木かアンドレザジャイアントの祖先かもしれない。自分たちより野蛮なローマ皇帝には蛮族もビビッたに違いない。即位に際して元老院の承認も受けず。蛮族との戦いに明け暮れ首都を無視。反逆した元老院を懲罰すべくローマに向かって進軍。北イタリアのアクィレイアを包囲中に味方の裏切りで殺される。 | C |
ゴルディアヌス一世 Marcus Antoninus Gordianus Sempronianus |
238 | 敗死 | 高名な元老院議員。親子してアフリカで皇帝に擁立され、元老院に承認された。マクシミヌス側のヌミディア属州知事カペリアヌスと戦い、わずか22日で親子とも敗死。それでも正規の皇帝に数えられ神格化までされたのがせめてもの慰めか。
“Cos’ I’ma hero, just for one day.”(David Bowie) |
D |
ゴルディアヌス二世 Marcus Antoninus Gordianus Sempronianus Romanus Africanus |
238 | 敗死 | D | |
バルビヌス Decimus Caelius Calvinus Balbinus |
238 | 暗殺 | いずれも高名なベテラン元老院議員。元老院の20人委員会によって共治帝に選出され棚ボタでマクシミヌスを倒す。ゲルマン人を身辺護衛に登用して横暴な近衛兵の恨みを買い暴動を招く。肝心な時に協力できず足の引っ張り合いで一緒に生命を失うことに。 | D |
マクシムス Marcus Clodius Pupienus Maximus |
238 | 暗殺 | D | |
ゴルディアヌス三世
Marcus |
238-244 | 処刑 | 一世の孫。少年の身でローマ市民と軍隊の要求で上の二人との共治帝に祭り上げられた完全な操り人形。頼りにしていた義父(近衛隊長ティメシテウス)の死で孤立し、後任のフィリップスに裏切られ、まだ二十歳にもならぬのにペルシア遠征の路上で哀れな最期を遂げる。 | D |
フィリップス=アラブス Marcus Julius Philippus |
244-249 | 敗死 | 最初で最後のアラブ人皇帝。ゴルディアヌス三世から帝位を簒奪。人気取りに壮大なローマ建国千年祭を行う。モエシア駐在軍の反乱の鎮圧に派遣したデキウスの反乱で息子とともに殺される。エウセビオスなどの記述に基づいて彼を「最初のキリスト教皇帝」とみなす説もあるらしい。今日に伝わる肖像彫刻はリアリズムの傑作である。 | C’ |
デキウス
Gaius Messius |
249-251 | 戦死 | 果敢な野心家。元老院を尊重してトラヤヌスの称号を受ける。キリスト教徒を帝国混乱の元凶と考えて大迫害。モエシアの Abrittus でゴート族と戦い、長男とともに華々しく戦死。古代的美徳の持主としてギボンの評価は高い。ところでエドワード=ギボンという人はカトリックへの改宗者だが、本質ははっきり言って無神論者より悪質な反キリスト教者ではないか? | B’ |
トレボニアヌス=ガルス Gaius Vibius Trebonianus Gallus |
251-253 | 敗死 | デキウスを見殺しにしたという説は嘘らしい(その遺族を優遇しているので)。前任者と同じくキリスト教を迫害、あとは取るに足りず。ローマに大疫病おこる。各地に蛮族が侵入し帝国の危機は一段と深刻化。 | C’ |
アエミリアヌス Marcus Aemilius Aemilianus |
253 | 敗死 | ドナウ方面の対ゴート戦で成功した将軍。軍に推戴されガルスに反逆してこれを倒す。治世わずかに4ヶ月ほどの軍人皇帝の典型、はっきり言って取るに足りず。 | D |
ヴァレリアヌス
Publius Licinius |
253-260? | 虜死 | デキウスとガルスに重用され、アエミリアヌスに復讐を果たす。キリスト教徒迫害を再開。わりと人望があったがペルシア遠征でシャプルの捕虜となる不名誉。異郷でイジメ殺されたとみられる。いじめはやめましょう。なお外敵との戦いで捕虜になったローマ皇帝はヴァレリアヌスとビザンティン帝国のロマノス4世の2人だけ。どちらも戦死した方がましなくらいの屈辱を受けた。ローマでは捕虜となった将軍は軍を指揮できないので死んだと同然と見なされ、兵士は忠誠の誓いから解放されたのである。 | C |
ガリエヌス Publius Licinius Egnatius Gallienus |
253-268 | 暗殺 | ヴァレリアヌスの薄情息子で冷淡な享楽家。この時代に在位の長さは驚き。怠惰だが多芸多才、騎兵を重視し無用な元老院議員を将校から排除するなどの軍事改革を行う。キリスト教迫害を緩和。この頃、貨幣は極度の悪鋳でほとんど価値を失い、現物経済への退行始まる。僭帝アウレオロスの反乱軍をミラノに攻囲中に敵味方の共謀で殺される。 | B’ |
三十僭帝時代: ガリエヌス帝の前後、各地に自立した僭帝が出現し、帝国は事実上分裂、外敵侵入に悩まされる。史料から存在が確認される帝位僭称者は19人とか。西方にはガリア帝国が分離し、10年以上にわたってブリタニア、ガリア、そして一時はヒスパニアも押さえたが、蛮族からの防衛に重点を置いてローマに侵攻しようとはしなかった。東方では隊商貿易の中継地として繁栄したシリアのパルミュラが有力者オダイナトゥスの下で事実上独立し、その死後は有名な美貌の未亡人ゼノビア女王が一時はエジプトまで支配した。しかし帝国はなお強力な兵士の供給源としてイリリクム、パンノニアを保持しており、アフリカの豊かな農業地帯は混乱の影響を比較的受けずに済んだことが3世紀後半の「帝国の逆襲」を可能にしたといえる。またこの時代の蛮族はのちの民族大移動とは異なりもっぱら略奪が目的で、定住志向は弱かった。 |
(ガリア帝国の僭帝たち)
ポストゥムス
Marcus Cassianus |
259-269 | 暗殺 | ガリエヌスに任命されたゲルマニア前線の担当者。ガリエヌスの息子サロニヌスと対立してこれを殺しガリアで自立。ライン河でゲルマン蛮族の侵入を防ぐ。有能だがラエリアヌスとの戦いで兵士の略奪を禁じて恨まれ殺された。 | B |
ラエリアヌス
Upius Cornelius |
269 | 敗死 | ポストゥムスの上ゲルマニア総督、反逆してマインツに包囲され敗れて殺される。 | D |
ヴィクトリアヌス
Marcus Piavonius |
269-271 | 敗死 | マリウスなる男の茶番劇のあと政権を掌握したが女癖が悪く恨みを買って殺される。母ヴィクトリアも三十僭帝の一人で、ラエリアヌスからテトリクスの三代にわたり玉座の背後からガリア帝国を操った女傑。 | D |
テトリクス
Gaius Pius |
271-274 | 自然死 | アクィタニア総督から嫌々ながら皇帝に祭り上げられ、尊敬もされず。腹を立てて自軍を裏切り敵前逃亡、アウレリアヌス帝に降伏し命を全うしたばかりか息子とともに官位まで授けられる。残された軍勢は最後まで戦って全滅。ローマ史上最も幸運な帝位僭称者。 | C’ |
軍人皇帝時代(後期) 268-284 (イリリクム農民出身の軍人皇帝 = 帝国の逆襲)
蛮族の侵入とうち続く内戦に引き裂かれたローマ帝国を崩壊の瀬戸際から救ったのは、イリリクム(=バルカン)出身の武勇に秀でた軍人皇帝たちであった。彼らは卑賤から実力で身を起こした超人的な勇気と精力の持主で、軍に厳しい規律を課し、内外の戦いに東奔西走して敵を撃破したが、多くは兵士の恨みを買って暗殺される悲運に果てた。戦乱の中でローマ市と元老院はますます重要性を喪失し、帝国の軍事化と遠心化が進む。半世紀の戦乱がディオクレティアヌスによって収拾されたとき、ローマは辺境下層民出身の叩き上げの軍人が帝位に座り、忠実な騎士階級出身者を用いて全国をあたかも軍団の兵営のように支配する官僚的軍事専制体制に変貌していた。 |
クラウディウス二世 Marcus Aurelius Valerius Claudius |
268-270 | 病死 | ガレリウスの暗殺後、その遺言と将校たちの推戴で即位。出身や経歴には不明な点が多い。32万人のゴート族侵入軍をナイソスで大破し帝国再建の足がかりをつかむ。残念ながら蛮族から伝染した病気で倒れる。世にも珍しい「殺されなかった軍人皇帝」。治世は短かったが元老院を尊重して後世の評判も高い。 | B |
クィンティルス
Marcus Aurelius |
270 | 暗殺 | クラウディウスの愚弟(?)、軍の支持もないのに帝位を僭称してたちまち殺される。スペースはあってもほかに書くことがない。 | D |
アウレリアヌス Lucius Domitius Aurelianus |
270-275 | 暗殺 | 武勇一徹、秋霜烈日の無敵剛直武人。恐れられたが愛されず。ガリア帝国とパルミュラ(ゼノビア女王)を破って帝国を再統一し、「世界回復者」 Restitutor Orbis の称号を受ける。もっともテトリクスもゼノビア女王も命を助けられ名誉ある隠退生活を許されたから、結構寛大な皇帝ともいえる。属州ダキアは放棄。幣制改革を企てローマで貨幣鋳造業者の反乱を招きこれを過酷に鎮圧。新しい異教「不敗太陽神」崇拝を始める。カエサル以来城壁のなかったローマに新たに大城壁を築く。ペルシア遠征に向かう途中、汚職を咎められた秘書官の陰謀で殺される。 | A |
タキトゥス
Marcus Claudius |
275-276 | 不明 | アウレリアヌス殺害後に有力な候補者が出ず、軍と元老院の譲り合いの末に元老院に指命される。元老院が選出した皇帝の最後の例。高齢で即位し、コーカサスまで遠征に引張り回された末に暗殺された?らしい。歴史家タキトゥスの子孫というのはもちろんガセネタ。 | C |
フロリアヌス
Marcus Annius |
276 | 暗殺 | タキトゥスの大愚弟(皇帝に入れない?)。兄帝の近衛隊長を勤め、帝位を称したがプロブス相手では勝負にならぬと悟った部下に殺される。この頃になると帝位争いに負けた本人は殺されるが、その家族までいちいち巻き添えにしていてはきりがないので助命されたそうである(ギボンによる)。 | D |
プロブス
Marcus Aurelius |
276-282 | 暗殺 | クラウディウス、アウレリアヌスにひけを取らぬ武勇抜群の軍人皇帝。本当は戦争・軍隊嫌いの国際平和主義者。シリア・エジプト駐在軍の支持で帝位に就く。戦争に明け暮れ、内外の敵をことごとく撃破。厳格過ぎたのが命取りとなり、軍隊廃止の意図を漏らして苦役に怒った兵士たちに暴動で殺される。惜しいかな。 | A |
カルス
Marcus Aurelius |
282-283 | 怪死 | 一徹軍人、反プロブスの軍に担がれて即位。このときから即位に元老院の承認は不要とされ行われなくなる。ペルシア遠征で戦果を上げたが、陣中で不審死(落雷?)を遂げる。近衛隊長アペルによる暗殺の疑いも。 | B |
ヌメリアヌス
Marcus Aurelius |
283-284 | 変死 | 文弱の徒、父カルスの遠征に同行し眼病を患って退却中にアペルに謀殺さる?残された兵士たちは士官ディオクレス(ディオクレティアヌスと改名)を皇帝に擁立。ディオクレスは自ら剣を執ってアペルを処刑した。もっとも彼が暗殺に関与していなかったという確証もない。 | C’ |
カリヌス Marcus Aurelius Carinus |
283-285 | 戦死 | カルスの長子、飽くなき獣欲の徒、贅沢な下劣漢(?)。ローマで遠征の留守役。ディオクレティアヌスの帝位を否認してこれと戦う。マルグスの戦場では自軍が優勢だったが、かつて妻を寝取られた味方の将校の復讐で殺される。悪評の幾ばくかはディオクレテイアヌス側の捏造であろう。 | D |
帝国四分統治 Tetrarchy 284-324 (帝国の遠心化始まる)
3世紀の混乱を収拾したデイオクレティアヌスは統治制度を抜本的に改め、軍権と民政を分離し、属州を再編成するとともに、元老院の権力を奪って統治から閉め出した。また四分統治制を採用し、協力者を正式の資格で権力に参画させることで帝位をめぐる内乱を予防しようとした。四分統治はデイオクレティアヌス本人の指導の下でしか機能せず、彼の引退後たちまち瓦解し、また物価統制やキリスト教迫害には失敗したとはいえ、新しい統治のシステムは初期ビザンツまで3世紀以上も命脈を保った。ディオクレティアヌスは自発的に帝位を放棄して私人に戻り、しかも天寿を全うして神々の列に加えられた唯一人のローマ皇帝である。 |
西方 東方 第一次
マクシミアヌス Marcus Aurelius Valerius Maximianus 286-305退位 処刑または自殺(310)ディオクレティアヌスの忠実な協力者で有能かつ野心的な将軍。ヘラクリウスの称号を名乗り、ミラノを都とする。ガリアのバガウダェの農民反乱を鎮圧。先輩と一緒に退位したがその後も野心を捨てられなかったのが命取り。復帰後に息子マクセンティウスと結んでは簒奪しようとしたり、一度手を結んだコンスタンティヌスの追い落としを謀って逆に殺されるなど、皇帝としては失敗。 |
C | ディオクレティアヌス Gaius Aurelius Valerius Diocletianus 284-305 316 自然死(老齢) 卑賤から身を起こし内乱を収拾。官僚的専制体制(ドミナトゥス)の創始者。ヨヴィウスと名乗りペルシア風の宮廷儀礼を導入。小アジアのニコメディアを都とする。アウグストゥスの統治組織を抜本的に変革し、元老院議員を統治から排除。属州(Provincia)を細分化し、道あるいは管区(diocesis)の下に再編成。民政と軍事を明確に分離。税制を改革し地租(jugatio)・人頭税(capitatio)制度を確立。ローマ市民に大浴場を建てて贈ったが、自分では滞在せず、イタリアの免税特権を奪って属州化。病を得て自発的に退位し、豪壮なスポレトの離宮(現存)で野菜を育てて生涯を終える。 |
A |
コンステンティウス一世 Flavius ValeriusConstantinus I ( Chlorus) 293-305 副帝有能篤実、自分は太陽神崇拝だがキリスト教徒迫害には消極的。異教の歴史家からも高い評価を受ける。最大の功績はカラウシウスの反乱を破ってブリタニアを回復したこと。トリアーに都を置く。クラウディウス二世の子孫との伝説もあるが恐らくは息子のコンスタンティヌスの捏造か。 |
B | ガレリウス Gaius Galerius Valerius Maximianus 293-305 副帝牧人の出身、獰猛な武人帝。ペルシア軍と戦い最初は失敗したが雪辱を果たす。最後の大規模なキリスト教迫害者。ディオクレティアヌスを脅迫して退位させたというのは悪意のガセネタらしい。テサロニキに都を置く。四人の正副皇帝たちが抱き合っている斑岩の石像がヴェネチアのサン=マルコ寺院にある。(私は触ってしまった!) |
C |
第二次
コンステンティウス一世 305-306
正帝昇進後まもなく病死し、そのため四分統治に暗雲がさす。麾下の軍隊は帝位継承序列を無視して息子のコンスタンティヌスを皇帝と宣言。 |
B | ガレリウス 305-311 正帝昇進
両副帝を通じて一時実権を握ったが、マクシミヌス親子とコンスタンティヌスの結託の前に失敗。引退したディオクレティアヌスを仲介役にカルヌントゥム会議 (308)を開くが、結局は不成功。業病で無惨な最期を遂げる直前に勅令を発してキリスト教迫害を緩和。 |
C |
セヴェルス(西の副帝) Flavius Valerius Severus 306-307ガレリウスの協力者。卑賤な出身でそれ以上の詳しいことは不明。 |
D | マクシミヌス=ダヤ Maximinus Daia 305-308副帝、308-313正帝ガレリウスの甥。キリスト教迫害を継続。のちにコンスタンティヌスと一時提携したリキニウスに破れて服毒自殺。 |
D |
第三次
セヴェルス 307
コンスタンティヌスとガレリウスの妥協(カルヌゥントゥム会議)で西正帝に昇進。マクセンティウスに破れて殺される。 |
D | 簒奪者マクセンティウス Marcus Aurelius Varelius Maxentius 306-312 マクシミアヌスの不良息子。父と近衛兵に支持され異教とローマ市の最後の栄光を飾る。コンスタンティヌスとの戦いでせっかく城壁を強化していたのに「市外で戦えばローマの敵が滅びるであろう」という予言を信じて出撃。ミルヴィウス橋の戦いで敗走中にテヴェレ河に落ちて惨めに溺死。悪評高いが、別にキリスト教を迫害したわけではない。かつては横暴をふるった近衛兵団を道連れにした彼の敗死でローマ市の政治的重要性は完全に失われた。 |
D | リキニウス Valerius Licinianus 308-324東正帝ガレリウスの盟友にして下僚、カルヌントゥム会議で妥協策として即位。名目上はセヴェルスに代わる「西の正帝」だが現実には東帝国を支配、マクセンティウスを除去できず。ミラノ勅令を支持してキリスト教には寛容政策をとる。 |
C |
コンスタンティヌス一世 Flavius Valerius Constantinus306-308 副帝 , 307-324 西正帝 コンスタンティウスの息子、ブリタニア軍に擁立される。勇敢で軍事的手腕に優れる反面、柔弱贅沢で予測不能な行動をとる複雑で謎が多い人物。対外的には成功し国境は安定。トラヤヌス凱旋門などの彫刻を盗んで巨大な凱旋門を建立。ミラノ勅令(312)でキリスト教を公認。母ヘレナ(バチカンに途方もなく豪奢な斑岩の石棺がある)はイエスの「真の十字架」を発見したと伝えられる。 |
A’ | リキニウス(正帝)313-324
コンスタンティヌスと名目上共治、有能だが過酷残忍。先任者たちの遺族のほか、ディオクレティアヌスの未亡人までを無実の罪で処刑。最後はコンスタンティヌスに敗れて息子とともに処刑さる。珍しい正面像の銀貨を鋳造。 |
コンスタンティヌス朝 324-364 (帝国のキリスト教化)
コンスタンティヌスの人格が複雑な矛盾に満ちていたのと同様に、彼の統治は過去との継続と断絶の奇妙な混合である。彼は相続の権利を主張し暴力で四分統治を否定して統一王朝を創始したが、後継者を一人に絞ることができず、死後は再び帝国分割の傾向が強まる。キリスト教の公認と皇帝の改宗、新都コンスタンティノポリスの建設などは新しいビザンツ帝国への橋渡しをなすものであるが、身分秩序の固定化、行政制度やライトゥルギー(国家への強制奉仕)の強化などの点ではディオクレティアヌス体制を受け継いでいる。いずれにせよ、彼はローマ帝国の文化遺産を選別して後世に伝える決定的役割を果たした皇帝であり、その影響は自身の王朝をはるかにこえて永続的なものになった。なおコンスタンティヌスの息子どもを最後に、ローマ市に帝国の記念建築物はほとんど建てられなくなる。 |
コンスタンティヌス一世 (大帝) |
306-337 | 病死 | 初のキリスト教徒皇帝 、臨終の床で司教エウセビオスの手で受洗。有能過酷、長子クリスプスと後妻ファウスタと義父マクシミアヌスとその息子マクセンティウスと更にその子供たち、義弟(異母妹を嫁がせた)リキニウスとその子供を皆殺しにする。ダキアを一時回復するなど外交軍事で成果を上げ、ローマに最後の公共浴場とバジリカを建てる。ビザンティオン市を大拡張してキリスト教の新都コンスタンティノポリスを建設(330)。コロヌスの土地緊縛を命令。新しいソリドゥス金貨を鋳造する。ニカエア公会議(325)でアリウス派を禁圧。死後は息子と甥たちの四あるいは六分統治体制を考えていたようだが、三兄弟は親族を大粛正し、帝国を三分して遺産争いを繰り広げる。父も息子らもまことに結構なクリスチャンだわい。 | A’ |
コンステンティヌス二世
Flavius Claudius |
337-340 | 敗死 | (西方、ガリア支配) 三兄弟の長兄。野望に燃えてイタリアに侵攻し、コンスタンスと戦ってあっけなく敗死。どうもコンスタンティヌスの名前を持つ皇帝よりコンスタンティウスの名前を持つ皇帝の方がましではないかと思われるが、のちのビザンツ帝国ではもっぱら前者だけが使われたのはこれいかに。 | D |
コンスタンティウス二世
Flavius Julius |
337-361 | 病死 | (東方支配) 同族殺しの張本人、異端のアリウス派。猜疑心の猛烈に強い小男。無能とも言えぬが賞賛もできぬ。ローマの競馬場に大オベリクスを寄贈。マグネンティウスを倒して単独統治者になる。従兄弟のガルスを副帝(カエサル)にして妹コンスタンツィアを嫁がせたがまもなく殺し、その次はガルスの異母弟ユリアヌスを取り立てたが今度は背かれ、敵対中に病死。しかし遺言にはユリアヌスを後継者とする旨書かれていたと伝えられる。娘のコンスタンティアはのちにグラティアヌスの妃となる。 | B |
コンスタンス
Flavius Julius |
337-350 | 敗死 | (イタリア支配) 三兄弟の末弟。宗教的にはニカエア信経を奉じる正統派。兄コンスタンティヌス二世の侵入を撃破したが、最後はマグネンティウスに反逆であっさり倒される。属州ブリタニアを訪れた最後の皇帝。 | C’ |
マグネンティウス (簒奪者)Flavius Magnus Magnentius |
350-353 | 自殺 | 帝位についた、あるいは僭帝として重要な唯一のゲルマン人。父はブリテン人、母はフランク人といわれる。なかなか有能、イタリア以西の支持を受けてコンスタンティウスに挑戦。マルサ・マジョレの大会戦(両軍の戦死者6万人以上、古代最大の戦いの一つ)でコンスタンティウスの騎兵隊に敗れる。なおも抵抗を続けたが最後は追いつめられて自殺。 | C |
ユリアヌス(背教者)
Flavius Claudius |
360-363 | 戦死 | コンスタンティヌスの甥で異教の哲人。コンスタンティウス2世の同族殺しを幼少のため免れる。成長後ガリアの平定と統治を委ねられて成功、軍によって推戴される。文武とも有能だが、ちょっと奇矯に過ぎた。アンテイオキア市民と不快な摩擦の後ペルシア遠征で戦死。異教復興にも失敗。挫折したハドリアヌスというべきか。多くの著作を残し古来より様々に論じられる人物。彼の死でコンスタンティヌス朝は断絶した。 | A’ |
ヨヴィアヌス Flavius Jovinus |
363-364 | 怪死 | コンスタンティヌスと血縁はない。近衛都督サルスティウスの辞退で皇帝に祭り上げられたハンサムなだけの敗走の指揮者。キリスト教会と皇帝権を和解させる。ペルシアに屈服しニシビス市を明け渡す。首都に帰り着く前に夜中に暗殺またはガス中毒死。 | D |
ヴァレンティニアヌス=テオドシウス朝 364-395分裂 (帝国の東西分裂、民族大移動開始)
コンスタンティヌス朝の断絶後を引き継いだヴァレンティニアヌス帝は帝国を弟ヴァレンスと東西に分割。軍隊と官僚制を再建し、宗教に対しては寛容政策を採って安定化に努めた。彼の改革は一応の成果を上げたが、その死の直後に民族大移動の大波はドナウの国境を突破する。ゴート族はもはや滅ぼすことも追い出すこともできない破壊的存在として帝国に居座った。最後の偉大な皇帝テオドシウスが帝位にある限り蛮族も大人しく振る舞っていたが、彼の早すぎた死とともに帝国は最終的に東西に分割され、同時に蛮族の堰を切ったような侵入の火蓋が切って落とされた。テオドシウスの治世下にキリスト教は最終的勝利を収めたが、それは同時に宗教論争が異端審問、国家的な権力闘争となることを意味した。寛容の精神がヨーロッパに復活するのは千年以上後の人文主義と近代啓蒙主義を待たねばならない。 |
ヴァレンティニアヌス一世 364-375
Flavius Valentinianus 軍会議の推戴で即位。パンノニア出身の野人。性格は陰険で残忍、嫉妬深いが有能かつ正義の人。西方帝国最後の有能で強力な皇帝。宗教的にはキリスト教の優越を認めながら異教にも寛容政策。弟ヴァレンスを共同統治者に任命し帝権を地理的にも東西分割、トリアーに都を置く。行政を改革し帝権と軍規を強化、ライン前線を防衛。生来怒りんぼで蛮族使節の無礼に怒り狂い脳卒中を起こし憤死。 |
A’ | ヴァレンス Flavius Julius Valens
364-378 戦死(ゴート族) 兄に忠実だったが能力は劣り臆病で残忍、アリウス派。プロコピウスの反乱の後もっぱらアンティオキアに滞在。フン族に追われたゴート族のドナウ渡河を認めるがすぐ反乱を起こされる。戦功を焦ってアドリアノープルの戦でグラティアヌスの支援を待たずにフリティゲルン率いるゴート軍に大敗して戦死。民族大移動の始まり。 |
D |
グラティアヌス(ヴァレンティニアヌス一世の子)
Flavius Gratianus 367-383 若くして帝王学を学び期待されたが本性は狩猟好きの馬鹿ボン。叔父ヴァレンス帝の救援に失敗。伝統ある大神祇官(Pontifex Maximus) の称号を放棄し、元老院議事堂から勝利の女神の祭壇を除去する。マクシムスの反乱で軍に見捨てられ逃亡中に裏切りで殺される。 |
C | テオドシウス一世(大帝)
Flavius Theodosius I 379-395 ヒスパニア出身。同名の父は有能な将軍だったが陰謀で処刑された。グラティアヌスに抜擢登用され危機に対処。ゴート族を硬軟両方の策で懐柔し自軍に組み入れる。 |
B |
僭帝 マグヌス=マクシムス Magnus Maximus 383-388グラティアヌスを倒し、ブリタニア・ガリア・ヒスパニアを支配。テオドシウスに帝位承認を求めたが拒否され、イタリアに侵攻して内戦を始めたがあっけなく倒される。 |
D | テオドシウス一世(続き)
フリギドゥス河畔の戦いでエウゲニウスを破り、最後の統一帝国の皇帝となる。ミラノ司教アンブロシウスの影響で異教・異端を厳しく迫害。1000年続いた古代オリンピックもついに廃止させられた。気まぐれでテサロニカ市民を数千人も虐殺してアンブロシウスから指弾され不名誉な屈服。 軍事奉仕と引き換えに蛮族に「同盟部族」(foederati)として集団での帝国領内居住を認め、意図に反して帝国の解体に拍車をかける。アラリック率いる西ゴート族はテオドシウスの死後数ヶ月も経ぬうちに反逆を開始した。 |
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ヴァレンティニアヌス二世 Valentinianus II
375-392 グラティアヌスの異母弟。テオドシウスの力で西の帝位につくが若年のため後見人の実力者アルボガスト(フランク族出身)の傀儡に成り下がり、これを除こうとして失敗し縊死体で発見される(恐らく暗殺)。姉妹のガラがテオドシウスの後妻となりガラ=プラキデア(ヴァレンティニアヌス3世の母)を生んだことで、ヴァレンティアヌス朝とテオドシウス朝の血縁関係ができた。 |
D | ||
僭帝 エウゲニウス Flavius Euganius
392-394 人文学教師の出身。ゲルマン人のため皇帝になれないアルボガストの傀儡。異教寛容政策の最後。ローマの異教徒元老院議員に支持されたが北イタリアのフリギドゥスの戦いでテオドシウスに敗れて処刑される。アルボガストは逃亡中に自殺。 |
D | ** テオドシウス大帝の死後、東は長子アルカディウスが、西は次子ホノリウス(摂政スティリコ)がそれぞれ継承し、大ローマ帝国は最終的に東西に分割された。 |