劉秀とは
後漢 劉秀
★歴史的観点から★
字は文叔。後漢の始祖。南陽(湖北省)出身。光武帝と呼ばれる。王莽が建国した 新代末、各地で反乱が起こっていた時に、漢朝の血筋を引く劉玄を頭に推したて、 兄の劉エンと劉秀は兵を挙げた。(劉エンが荒っぽい性格であったため、同族の劉玄を 推したてた)
劉玄の武将として軍事にあたった劉秀は勝利を重ね、ついに王莽を殺し、首都長安を 回復した。しかし、味方の裏切りによって、兄劉エンは殺され、姉も殺され、彼自身も 逃亡する羽目になる。だが、彼はそんな状況にも耐え続け、天下を平定するために 群雄達の征伐にあたり続けた。最も勢力が強く、劉玄をも殺したのは赤眉の賊と 呼ばれる軍団であった。その後、彼は赤眉への対抗上、自ら帝位に即き、配下の?禹と 馮異とともに赤眉軍を降し、天下を統一する。彼には、?禹と馮異の他にも、数々の 名将が配下にいた。この軍団は光武の二十八将を呼ばれる。
統一後は、外国に対しての軍事行動は行わず、内政の充実に努めた。全てを皇帝の 親政とし、政治全般を掌握することで、外戚、宦官などに権力を与えなかった。また、 儒学を尊重した。外交面では、全匈奴を臣従させている。
しかし、彼の死後には、彼ほどの力量を持つ皇帝が現れず、外戚・宦官の台頭を 許すことになってしまうのである。
★私見★
日本で漢といえば、劉邦と劉備が有名である。劉備は 三国志演義という有名な小説があるからであり、劉邦も また同じである。しかし、この2人も、名君という点ではこの劉秀には適わない。 劉秀は劉備と違い、天下を統一している。劉邦は統一こそ しているが、統一後の功臣の粛正で、その晩年を汚している。劉秀は功臣の粛正とは 無縁であったのだ。
内政を充実させ、軍事行動を行わなかった。これだけをとっても名君と呼ばれるに 値する。
彼は好んで皇帝になったわけではなかった。自分の命がおしいからだったと 言われている。自分の命を救うには皇帝になるしかなかったからだそうだ。私には 彼のぼやきが聞こえてきそうだ。
「あ~あ、皇帝になるしかないのか。 嫌だなぁ…」と。
残業代が出ない管理職になる気分であろう(笑)