1.西欧世界の成立
[1]ヨーロッパの風土と民族
{1}ヨーロッパの範囲
◎ユーラシア大陸のウラル山脈以西、カフカス山脈以北、ボスホラス海峡以西及び
その周辺諸島をもって一応の定義とする(厳密ではない)。{2}自然と風土
(1)西欧
→西岸海洋性気候に属する。日照量少ないが、豊かな土壌と推量豊富な
河川に恵まれる。農業、牧畜業が発達。
(2)東欧
→内陸性気候。森林、山岳が多く、ウクライナを除いて農牧は貧弱。
(3)南欧
→地中海性気候。石灰岩質の痩せた土地柄。牧畜、果樹栽培が盛ん。{3}主要民族構成
(1)印欧語族(西方系)
(a)西欧:ケルト人、ゲルマン人
(b)東欧:スラブ人
(c)南欧:ギリシア人、イタリア人、スペイン人
(2)ウラル・アルタイ語族(東方系)
◎フン族、アヴァール族、マジャール人、トルコ人、モンゴル人など。
→しばしばヨーロッパへ侵入。 |
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1.西欧世界の成立
[2]古ゲルマン人の社会
{1}原住地
(1)当初、バルト海沿岸一帯に居住。
(2)先住民のケルト人を圧迫しながら南下を開始。
(3)紀元前後頃に黒海沿岸、ライン川右岸に進出。ローマ帝国と接触。
→トイトブルクの戦い(9A.D.)起こる。
(4)しばしばローマ帝国へ侵入して領土を荒らす。
→平和的移住も始まる(下級官吏・傭兵・コロヌスとして){2}ゲルマン人社会と宗教
(1)社会:部族国家(キヴィタス)が数十ほど分立して存在
(a)各部族国家は1名の王、または数名の首長が統率。
(b)貴族・平民・奴隷の身分的区別が存在。
(c)最高決定機関として民会を組織。
→王または首長が主宰し、貴族と平民が参加。
(2)生活(大移動前)
→牧畜・狩猟・農業などを営むが、後に農業主体となる。
(3)宗教
→自然崇拝の多神教。後にアリウス派のキリスト教が流入。 |
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1.西欧世界の成立
[3]西ローマ帝国の滅亡
{1}ゲルマン諸族の侵入
(1)ゲルマン諸族のイタリア侵入(405~407)
→西ローマ帝国の臣、スティリコの活躍で撃退。
(2)ブルグンド族、ライン川中流域へ侵入(406)。
(3)ヴァンダル族のイスパニア侵入始まる(406~)。
(4)アラリック(370?~410)率いる西ゴート族、イタリアへ侵入(410)
→ローマを占領して掠奪。帝室はラヴェンナに遷都して逃れる。
(5)ブルグンド族、ライン川を遡る(413)。
(6)フランク族がライン川を渡ってガリアの北、ベルギカに入る(420)
(7)ヴァンダル族、西ゴート族に追われアフリカへ移る(427)。
→西帝国、最大の穀倉地帯を失う。
(8)ヴァンダル王ガイセリック(390~477)、地中海を越えてイタリアに上陸。
→ローマ市を占領、14日間にわたって掠奪(455)。{2}「神の鞭」:フン族の侵入
(1)フン族:アジア系。匈奴と同族と推定される。
→当初、カスピ海の北、東部に居住。
(2)西進の開始(375~):ゲルマン民族大移動の外的要因となる。
(a)ドン川を渡って東ゴート族を圧迫。これを西へ奔らす。
(b)ドニエストル川を渡って西ゴート族を圧迫。これをドナウ川南岸へ追いやる。
(3)アッティラ(位434~453):フン族最盛期の王
(a)ハンガリア高原を本拠地に定め、ライン川、ドナウ川、スカンジナヴィア南部、
カスピ海を境界とする大国家を建設(アッティラ帝国)。
(b)東ローマ帝国領へ侵入、マケドニアを掠奪し、コンスタンティノープルに迫る(447)。
→東帝国皇帝テオドシウス2世に貢納を要求。
(3)アッティラ帝国の崩壊
(a)アッティラ軍、ガリアへ侵入し各地を掠奪。
(b)西帝国将軍アエティウス(490?~454)が西ゴート族、ブルグンド族、サクソン族など
ゲルマン諸族の協力を取り付け、反アッティラ勢を結集。
→カタラウヌムの戦い(451)起こり、西帝国が勝利。
(c)アッティラ軍、その後イタリア侵入を企図するがローマ教皇レオ1世の説得で中止。
→撤退の途上、急死し(453)、その帝国は瓦解。{3}破滅を急ぐ帝侯達
(1)ホノリウス帝(位394~423)
(a)ゲルマン民族の侵入を撃退したスティリコを殺害。
(b)逼迫する情勢に有効策を出せず、ラヴェンナに引きこもる。
(2)ヴァレンティニアヌス3世(位425~455)
(a)後背の権力者達の傀儡と化す。
(b)ガイセリックにアフリカと地中海制海権を奪われて西帝国の致命傷を作る。
(c)アッティラ軍を撃退したアエティウスを殺害。
(3)内戦による混乱
◎軍権を掌握したリキメルと、アンテミウス帝(位467~472)の争い
→特にローマ市は著しく荒廃。
{4}滅亡
◎ロムルス=アウグストゥルス帝(位475~476)
(1)西帝国に雇われていたゲルマン人傭兵隊長のオドアケルにより廃される(476)。
(2)オドアケル、ローマの帝号を東帝国に返還。
→西ローマ帝国滅亡(476)。 |
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1.西欧世界の成立
[4]ゲルマン民族の大移動
{1}大移動の開始
(1)要因
(a)内的要因:人口増加・土地不足による対外膨張熱
(b)外的要因:フン族の西進による圧迫
(2)大移動
(a)期間
→375年の西ゴート族の南下(376年に大挙してドナウ川を渡る)から、
イタリアでのロンバルト族の建国(585)までの約200年間。
(b)各部族単位で、社会組織を維持しつつ移動。{2}西ゴート族:ドナウ川北岸からイベリア半島へ
(1)ドナウ川を渡り、ローマの属州モエシアを占拠(376~)
(2)更に南下を続け、アドリアノープルで迎撃のローマ軍と戦う(378)。
→ローマ皇帝ヴァレンスを戦死させて勝利。マケドニア・トラキア地方にとどまる。
(3)ローマ帝国のテオドシウス大帝に「同盟部族」として領内居住を認められる。
(4)アラリック王(370~410)の下、イタリア半島に進出。
→ローマ市を占領して掠奪。ローマの帝室はラヴェンナへ(この直後にアラリック戦死)。
(5)ガリア南部に移動、西ゴート王国を建国(415)。首都をトロサ(トゥールーズ)に定める。
(6)イベリア半島に進出してその大半を支配下に収める(~470)。
→その後、フランク族に敗れてトロサを失陥、ガリアの領土を失い、トレドに遷都(508)。
(7)東ローマ皇帝ユスティニアヌスの遠征。一時的にイスパニア南部を失う(554)。
(8)ウマイヤ朝イスラム軍の大攻勢
→へレスの戦いに敗北し、西ゴート王国滅亡(711)。{3}ヴァンダル族:チェコ地方から北アフリカへ
(1)ライン川を渡ってローマ領に侵入。イスパニアまで進む(406)。
(2)西ゴート族からの圧迫を受け、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカへ。
(3)ガイセリック(390~477)を王として、北アフリカにヴァンダル王国を建設(429)。
→カルタゴを占領し、後に首都とする(439)。
(4)西ローマ帝国の内紛に乗じ、ガイセリック王が地中海からイタリアへ上陸。
→ローマ市を占領。14日間に渡って掠奪。
(5)東ローマ皇帝ユスティニアヌスの攻勢
→トリカメロンの戦いに敗れ、その王国は崩壊(534)。
{4}ブルグンド族:オーデル川流域から中部ガリアへ
(1)ライン川中流に定住(406)。後に王国を建設し(413)、首都をウォルムスに定める。
(2)フン族により、王国は崩壊(437)。再び移動を開始。
→「ニーベルンゲンの歌」にその悲運をうたわれる。
(3)南下してローヌ川、ソーヌ川、レマン湖を結ぶ地域に入る。
→ブルグンド王国を建国(443)、首都をジュネーヴに定める。
(4)従来のアリウス派からカトリックに改宗(516)
(5)フランク王国により併合され、その王国は滅ぶ(534)。
{5}東ゴート族:黒海北岸からイタリア半島へ
(1)テオドリック王(456?~526)の下、ドナウ川を渡る(488~)。
(2)イタリア半島に侵入し、西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルを倒す。
→東ゴート王国を建設(493)。首都をラヴェンナに定める。
(3)イタリア半島全域・シチリア・イリリクム地方などを制圧。
→テオドリックの善政の下、荒廃したイタリアは一時的に復興。
(4)東ローマ皇帝ユスティニアヌスの攻勢(544~)
→東ローマの将軍、ベリサリウスの活躍の前に劣勢となり、最終的に滅ぼされる(553)。
{6}ロンバルド族:ライン・エルベ川上流域からイタリア半島へ
(1)イタリア半島へ侵入、ユスティニアヌスにより征服されたイタリア北部を奪う。
→ロンバルド王国を建国(568)。首都をバヴィアに定める。
(2)残存する東ローマ領のイタリア各地を侵犯。
→半島南端域とローマ、ネアポリス、ラヴェンナなどを除く大部分を占拠。
(3)アリウス派からカトリックに改宗(603)。
(4)8世紀前半に最盛期を迎える。イタリアにおける東ローマ帝国
最後の拠点、ラヴェンナを占領(751)。
→フランク王国の小ピピンが奪い、ローマ教皇に寄進される(756)。
(5)フランク王国のカールにより滅ぼされる(774)。
{7}フランク族:ライン川右岸からガリア北部へ
(1)小部族に分立した状態で、ベルギカ(ガリアの北にあるローマの属州)に入る。
(2)大規模な移動はせず、膨張的に領土を拡大。
→最終的に、西ヨーロッパ世界の統一に成功。
{8}アングロ=サクソン族:ユトランド半島からブリタニアへ
(1)イングランドに侵入を開始、これを征服(449~)
(2)七王国(ヘプターキー)の分立
→アングロ・サクソン族の作った7つの王国が互いに争う。(七王国時代)
※七王国:ノーザンブリア、マーシア、イーストアングリア、
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1.西欧世界の成立
[5]フランク王国の発展
{1}大移動期のフランク族
(1)ライン川右岸から、左岸(ベルギカ)へ移る(420~)
(2)移動前後を通じ、小部族の分立状態が続く。{2}メロヴィング朝時代(481~751)
(1)グローヴィス(初代、位481~511)
(a)ソワソンの戦いで最後のローマ人による軍事政権を破り、王国を建設(486)。
(b)首都をパリに定める。
(c)以後、分立する支族を次々と支配下に組み入れ、最初の統一王国を建設。
(d)アタナシウス派に改宗(496)
◎以後、ローマ系住民や教会勢力との関係が緊密化。
◎ランスで受洗の儀式を受ける(498)
→以後、ランスはフランス諸王の戴冠・聖別の地となる。
(e)西ゴート王国を攻撃し、イベリア半島へ駆逐(508)。ガリアの過半を制圧
(f)死に際して領土を4分して相続させる。
→以後、領土の分割と統一が繰り返される(メロヴィング朝衰退の一因)。
(2)グローヴィス後の領土拡張(移動はせず、膨張的に拡大)
(a)ブルグンド王国を滅ぼしてガリアの全域を手中に収める(534)。
(b)ライン川右岸域へ再び進出(6c~)。
(c)アヴァール族との抗争始まる(6c~)
→中央アジアのモンゴル系民族で、ドナウ川北岸に移って王国を建設(568)。{3}メロヴィング朝の衰退と宮宰の台頭
(1)宮宰職の創設(7c~)
→「家政の長官」の意で、フランク王国の行政・財政の長として君臨。
(2)王家の衰退
(a)王領の分割相続と互いの抗争により、王家の勢力が衰退。
(b)宮宰職を独占したカロリング家が代わって実権を掌握。
(3)カール・マルテル(688?~741)の活躍
(a)前宮宰ピピン2世(中ピピン)の子。父の後を継いで宮宰に就任(714)。
(b)イスラム勢力の進出(イベリア半島から侵入。)に対し、全土に動員令を発令。
→トゥール・ポワティエ間の戦い(732)に勝利してイスラム勢力を駆逐。
ローマ教会の信任を獲得、後のカロリング家の興隆に貢献。
※集合してきた重装騎兵・重装歩兵達を給養するためには世襲地の分与だけでは
足らず、教会・修道院領を収公して家臣団に与え、更には教会の権利を
認めて土地を分与された家臣団が教会に対して一定の賃貸料を払うこととした。
(後の十分の一税の設定となる)
{4}カロリング朝時代(751~987)
(1)ピピン3世(小ピピン)(初代、位751~768)
(a)カール・マルテルの子。全フランクの宮宰に就任(749)。
(b)メロヴィング朝を廃して自ら王位につき、ローマ教皇ザカリアスが承認。
→カロリング朝の成立(751)
(c)ピピンの寄進(756)
→イタリアのロンバルド王国を討伐、ラヴェンナ他、イタリア中部を教皇へ寄進。
教皇領の端緒となり、フランク王国とローマ教皇の関係が更に緊密化。
(2)カール1世(大帝、位768~814)
(a)積極的な外征を行い、西欧の主要部を統一。
◎イタリアのロンバルド王国を完全に征服(774)。
◎ライン川右岸において異教のサクソン族を征伐(サクソニア戦争、772~804)。
◎イベリア半島へ侵攻。ピレネー山脈の南麓にイスパニア辺境伯領を設置(778)。
◎ドナウ川上流、北岸域からのアヴァール族の侵入を撃退して反攻(791~795)
→以後、アヴァール族はスラブ人やマジャール人と同化。
(b)内政:中央集権体制の確立
◎全国を州に分け、伯(グラーフ)を置いて統治させる。
◎各伯には巡察使を派遣して監察させる。
◎諸法律の制定(国王の法律)
◎積極的な経済政策(ギリシア・ユダヤ商人を保護、度量衡を統一、銀を通貨に)
(c)カロリング・ルネサンスの開花
◎ラテン古典文化の復興に努める。
◎宮廷都市アーヘンに宮廷学校を設立。
◎教会・修道院には付属の学校(スコラ)を創設。
◎各地から学者を招聘(イングランド僧のアルクィンなど)
{5}青天の霹靂:カールの戴冠
(1)カールの戴冠(800)
→ローマ教皇レオ3世がクリスマスのミサに出席したカールに、
突如としてローマの帝冠を与え、西ローマ帝国の復活を宣言。
(2)事件の背景
(a)ローマ教皇が東ローマ帝国に代わる新たな支持勢力を求める。
→東ローマ皇帝レオン3世の聖像禁止令(726)発令以後、
教皇と東ローマの関係は決定的に悪化していた。
(b)教皇が皇帝を任命するという前代未聞の行為を敢えて行うことで、
教皇権優位の既成事実化を狙う(後の教皇権と王権の対立の伏線)。
(3)事件後の影響
(a)政治的意義
◎西ヨーロッパ世界における「正統な」政治的勢力の出現
◎東ローマ帝国から政治的に独立。
(b)文化的意義
◎ローマ的(古典古代)要素、ゲルマン的要素、キリスト教的要素の最終的融合。
→西ヨーロッパ文化圏が成立。
(c)宗教的意義
◎ローマ教会が東ローマ帝国から独立、以後東西教会の分離が一層進む。
※東西教会の正式分裂は、1054年におけるローマ教会枢機卿と、
コンスタンティノープル総主教の相互破門の時。以後、ローマ・カトリック教会と
ギリシア正教会は事実上和解することなく今日に至る。 |
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2.西欧封建社会の発展
[1]フランク王国の分裂
{1}カール大帝後の混乱
(1)ルードヴィヒ1世(敬虔王、位814~840)
(a)カール大帝の第3子。父帝の死後、全領土を相続。
(b)ランスでローマの帝冠を戴く(817)。この時領土を3人の子に分封。
→3人の子(ロタール1世、シャルル2世、ルードヴィヒ2世)は次第に離反。
(2)ロタール1世(位840~855)
(a)ルートヴィヒ1世の長子。父帝の死後、西ローマの帝冠を継ぐ。
(b)2人の弟(シャルル2世、ルートヴィヒ2世)との抗争が激化。
→フォントノワの戦い(841)にて敗退し、帝国の3分割に同意。{2}帝国の分裂
(1)ヴェルダン条約(843)
→皇帝ロタール1世とその弟2人による帝国の3分割。
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西フランク王国
(フランス) |
西ローマ皇帝領 |
東フランク王国 |
初代 |
シャルル1世
(位843~877) |
ロタール1世
(位840~855) |
ルートヴィヒ2世
(位843~876) |
領土 |
西部フランク |
中部フランク・イタリア |
東部フランク |
(2)メルセン条約(870)
(a)皇帝ロタールの死後、子のロドヴィコ2世が継いで帝位につく(位855~875)
→皇帝領だった中部フランク(ロタリンギア地方)を東西フランクに割譲。
(b)現在のフランス・イタリア・ドイツの国家的基礎を形成。
→おおよその民族性、歴史的伝統の相違を示し、言語境界線を形成。 |
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2.西欧封建社会の発展
[2]フランク分裂後の動向
{1}西ローマ皇帝領(イタリア王国)
(1)ロドヴィコ2世(位855~875)
(a)父帝ロタール1世の子。後を継いでローマの帝冠を戴く。
(b)メルセン条約において、帝領の中部フランクを東西に割譲。
(c)高い文化的地位を保持(旧ローマ帝国の中心地、教皇庁の所在地)
→ロドヴィコ帝の死により、イタリアのカロリング家は断絶。
(2)ロドヴィコ帝死後の動勢
(a)諸勢力は次第に分立の様相を呈し、群小諸侯や都市が激しく対立。
(b)東フランク王国(=神聖ローマ帝国)、東ローマ帝国の干渉。
(c)半島南部にイスラム勢力が進出。
(d)半島の諸都市は自衛の為に城塞化。
(e)貿易が盛んとなり、海港都市が発達(ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァなど){2}東フランク王国
(1)ルードヴィヒ2世(位.843~876)
(a)ヴェルダン条約にて東フランクの王となる。
(b)メルセン条約で皇帝領を割譲させ、西部へ領土拡大。
(2)カール3世(肥満王、位876~887)
(a)イタリアの王位を兼ねる(880~)。
(b)フランスの王位を兼ね(884~)、一時的に帝国を再統一。
→膨大な領土を保持できず、廃位される。
(3)アルヌルフ(位887~899)以後
(a)大諸侯の勢力が強大化して分権化の傾向を呈する。
(b)東方からのマジャール人(アジア系。9c頃にウラル(?)から移動)の侵入に悩む。
(c)ルードヴィヒ4世(幼童王、位900~911)の死で東フランクのカロリング家は断絶。
(4)選挙王政の開始(911~):諸侯の選挙により王を選出
(a)コンラート1世(位911~918)
→フランコニア公爵のコンラート、王位につく。
(b)ハインリヒ1世(位919~936):ザクセン朝の成立(919~1024)
◎ザクセン公ハインリヒが王位に。以後ザクセン家の王位継承続く。
◎マジャール人・スラブ人・デーン人との国境にマルク(辺境伯領)を設置し城塞化。
→マルクの役人は辺境伯(マルク=グラーフ)と呼ばれる。
(5)オットー1世(大帝、位936~973):ザクセン朝第2代
(a)マジャール人をレヒフェルトの戦い(955)で撃破し服従させる。
→以後マジャール人はハンガリーに定住し、マジャール人やスラブ人と混血。
(b)東方に遠征し、ポーランドの一部とベーメン(現チェコ)を奪取。
(c)フランス・イタリアへ干渉して出兵。豪族勢力に悩むローマ教皇を援助。
(d)「帝国教会政策」の推進
→国内の教会や修道院に王領地を寄進、特権を与えて皇帝直属の宗教諸侯とする。
(e)オットー1世の戴冠(962)
◎時のローマ教皇、ヨハネス12世がローマの帝冠を与える。
◎神聖ローマ帝国(962~1806)の成立。
(f)イタリア政策の開始
◎オットー1世、イタリアに度々遠征軍を送る。
◎以後の神聖ローマ皇帝もその名の下にイタリアの征服・支配に執着。
→本国内の不統一と国内諸侯の強大化・分立化を招く。
{3}西フランク王国
(1)シャルル1世(位843~877)
(a)ヴェルダン条約で西フランクの王となる。
(b)メルセン条約で皇帝領を割譲させ東部へ領土拡大。
(c)イタリアのカロリング家断絶後、イタリアの帝位を兼ねる
→カール2世(禿頭王)と称される。
(2)シャルル1世死後の動勢
(a)9c頃からのノルマン人の侵入に慢性的に苦しむ。
(b)ルイ5世(位986~987)の死により、西フランクのカロリング家は断絶。
(3)ユーグ・カペー(位987~996):カペー朝の成立。(987~1328)
(a)パリ伯の爵位にあったが、ノルマン人の撃退に功があり、王位につく。
(b)封建諸侯が半自立状態で、王権は弱体。王領はパリとオレルアンを結ぶ線のみ。
→カペー家に匹敵する大諸侯だけでも約50存在。
※当時の有力諸侯
→ノルマンディー公、アキテーヌ公、ブルゴーニュ公、フランドル伯、パリ伯、
シャンパーニュ伯、アンジュー伯、トゥールーズ伯 |
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2.西欧封建社会の発展
[3]ノルマン人の社会
{1}ノルマン人の民族構成
(1)民族:ゲルマン民族の一派(北ゲルマン民族)。
→主にノール人、デーン人、スウェード人の3部族から成る。
(2)原住:スカンディナヴィア半島、ユトランド半島
(3)ヴァイキング:ノルマン人の異称。
→「入り江の民」「市場の民」を意味する。商業活動と深い関わりがあったことに由来。
海上略奪行為を盛んに行うようになることから、「海賊」を意味する言葉ともなる。{2}古ノルマン人の生活
(1)主に狩猟・牧畜・漁業にて生計を立てる。
(2)氷河削り取られた土地は痩せ、農業は発展せず。
(3)早くから他地域との交易活動に乗り出す(海賊行為含む)。
{3}ノルマン人の対外活動:第2次民族大移動
(1)アジア系のマジャール人と同様、西ヨーロッパ諸国への進出活動が激化(9c~)
(2)各国海岸の諸都市に侵入して掠奪行為。
(3)後代には河川を遡って内陸部にも進出、西ヨーロッパ各地に国家を建設。 |
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2.西欧封建社会の発展
[4]ノルマン人の対外活動
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西暦 |
イングランド |
フランス北部 |
イタリア・シチリア |
デンマーク・ノルウェー・スウェーデン |
ヨーロッパロシア |
西暦 |
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750 |
{1}アングロ・サクソン7王国時代
(1)5世紀半ば以降、互いに争って覇を競う。
→ノーザンブリア、マーシア、イーストアングリア、
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(2)8c後半頃よりノルマン人の侵入はじまる。
(3)エグバート(ウェセックス王、位802~839)
(a)はじめて7王国の統一に成功(829)。
(b)侵入を続けるデーン人勢力を撃退。
(4)アルフレッド(大王、位871~899)
(a)再び侵入したデーン人を撃退。
→デーン人と協定、イングランドの独立を守る。
(b)アングロ・サクソンの諸族をを従える
→「全イングランドの王」として認められる。
(c)法整備・学問奨励・兵制改革を行う。 |
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(ロンバルド王国) |
(ビザンティン帝国) |
(ノルマン諸族) |
(スラヴ諸族) |
750 |
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(カロリング朝フランク王国) |
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800 |
{2}ノルマン人の対外進出
(1)9世紀以降、爆発的に膨張。
→通商・植民・略奪・征服を目的とする。
(2)主に3民族による3方向への活動。
(a)ノール人:アイルランド・ブリテン諸島
(b)デーン人:イングランド・西欧沿岸
(c)スウェード人:ヨーロッパロシア |
800 |
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(西フランク王国) |
(イタリア王国) |
{3}ノルマン諸国の成立
(1)ノルウェー王国(9c頃~)
→アイルランド経由で北方へ植民。
(a)アイスランド(860頃)。
(b)グリーンランド(983頃)
(c)北米大陸(1000頃)
(2)デンマーク王国(8c頃~)
(a)8c終わり頃より英仏海岸を荒らす。
→10c末以後は同国を拠点とし、
イングランドへ組織的に侵入。
(b)クヌート(位1014~1035)
◎イングランド王、ノルウェー王等を兼位。
→北海を内海とする海上帝国を建設。
◎死後、その帝国は急速に瓦解。
(c)スウェーデン王国(10c頃~)
→北西ロシアへ進出。
◎広い通商ルートを開拓、スラヴ人他、
ビザンティン帝国・イスラム帝国と取引。 |
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850 |
850 |
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{4}ノヴゴロド公国
(1)ルス族(ノルマンの一派)の
リューリクが建国(862?)。
(2)首都をノヴゴロドに定める。
(3)ロシアの起源(「ルスの国」)
(d)次第に先住のスラヴ人と同化。 |
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{5}キエフ公国(882~1240)
(1)リューリクの部将、オレーグが建国
(2)後にギリシア正教を奉ずる
→ビザンティン帝国と密接な関係。
(3)キプチャク・ハン国に服属し、消滅。 |
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900 |
900 |
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{6}ノルマンディー公国
(1)族長ロロの率いる
デーン人が沿岸部に侵入
→フランス王を悩ませ、
ノルマンディーを与えられる
(2)フランス王の臣の立場。
しかし実質的には自立。
(3)公領の貴族が各地に進出
→イタリア・イングランドなど |
(フランス王国) |
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950 |
950 |
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(神聖ローマ帝国) |
(諸勢力の分立状態)
ビザンティン帝国
ローマ教皇領
イスラム勢力
諸都市国家 |
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1000 |
1000 |
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{7}デーン朝(1016~1042)
(1)デンマーク王クヌートがイングランドを征服。
→イングランドの王として君臨。
(2)クヌートの死後、支配力低下し、朝は消滅。 |
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{8}アングロサクソン王朝(1042~1066)
(1)エドワード(懺悔王、位1042~1066)
◎ノルマンディー出身の貴族を優遇。
→国内貴族の反感を買う。
(2)ハロルド(位1066)
(a)エドワードの義弟として王を称する。
(b)侵入したノール人を征伐。 |
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1050 |
1050 |
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{9}ノルマン朝(1066~1154)
(1)ウィリアム1世(征服王、1066~1087)
(a)元はノルマンディー公国の爵。エドワード懺悔王と血縁関係。
→イングランド王位を要求。
(b)イングランド王ハロルドの出陣の虚をついて上陸。
→ヘイスティングスの戦いで勝利、王として即位(ノルマンコンクエスト)。
(c)中央集権色の濃い封建体制を確立(他国に比べ、当初より王権が強大)。
(d)全国的な土地台帳(ドームズデーブック)を作成。
(e)ノルマンディー経由で大陸文化が伝播。
※ノルマンディー公はイングランド王とフランスの臣を兼ねる
→後々の英仏紛争の原因のひとつとなる。 |
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{10}ナポリ王国
(1)建国者:ロベール・ギスカール
→元はノルマンディーの貴族。
(2)教皇を救援。その支援を受けて、
弟のルッジェーロがシチリアを征服
→イスラム・ビザンティン帝国の勢力を駆逐。 |
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1100 |
1100 |
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{11}両シチリア王国(1130~1861)
(1)ルッジェーロ2世(ルッジェーロの子)が、
伯父と父の領土を併せて継承。
(2)ビザンティン帝国の勢力を完全に排除。
(3)神聖ローマ皇帝から教皇を保護。
→他勢力を排除しつつも文化を吸収。
(4)12世紀に入って十字軍に参加。 |
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西暦 |
イングランド |
フランス北部 |
イタリア・シチリア |
デンマーク・ノルウェー・スウェーデン |
3.カトリック教会と教皇権
[1]カトリック教会の成立
{1}ローマ教会の成立
(1)ミラノ勅令後の教会勢力
(a)キリスト教が公認され、アタナシウス派が正統とされる。
(b)次第に布教拠点として、五本山を形成。
◎ローマ
◎コンスタンティノープル
◎アンティオキア
◎イェルサレム
◎アレクサンドリア
→ローマとコンスタンティノープルの教会が有力となる。
(2)初期ローマ教会の動向
(a)早くから他教会に対する首位性を主張。
(b)ローマの司教はペテロの後継を自認し、教皇と尊称される。
(c)ローマ帝国の重心が東へ移り、コンスタンティノープル総主教との対立深まる。
(d)西ローマ滅亡後、ビザンティン帝国(コンスタンティノープル教会)の圧力強まる。
→西教会の権威を否定する動きに対し、西帝国にかわる後ろ盾を求める。
(3)レオ1世(位440~461)
→混乱を極めるイタリア情勢の沈静化に努める。
(a)フン族の王アッティラを説得し、イタリアへの侵入を思いとどまらせる。
(b)ヴァンダル族のローマ劫略に際して、殺人行為を止めさせる。
(c)コンスタンティノープル教会に対するローマ教会の首位権を主張。
(4)グレゴリウス1世(大教皇、位590~604)
(a)北方からのロンバルド族の圧迫に対抗。
(b)カトリックを信奉するフランク族に接近。
(c)アングロ・サクソン族、西ゴート族の改宗に成功。
(5)東西教会対立の深刻化
(a)聖像崇拝論争
→聖像崇拝禁止派の勢力が強い小アジアを版図とするビザンティン帝国と
聖像崇拝を容認するローマ教会との間で対立が強まる。
(b)聖像禁止令(726)
◎ビザンティン帝国皇帝レオン3世により発布。以後843年の
コンスタンティノープル公会議まで聖像崇拝が禁止される。
◎東西教会の対立が一段と深まり、ローマ教会はフランク王国を後ろ盾とする。
→ピピンの即位承認、ピピンの寄進、カールの戴冠{2}修道院の活動
(1)修道院の創設(4c末以降~)
→エジプト・シリアなど、東方での修道院活動(禁欲・苦行・瞑想の生活)が伝播。
(2)聖ベネディクトゥス(480~543?)の改革
(a)中部イタリアのモンテ・カシノに修道院を創設(529)。
→服従・清貧・貞潔を徳目とし、信仰生活に労働の戒律を加える。
(b)聖ベネディクトゥス会則の制定
(c)聖書研究・古典の写本など行う。
(d)農業・手工業に従事し自給生活しつつ、民衆の教化に努める。
(e)以後、西欧各地の修道院がベネディクトゥス戒律を採用。 |
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3.カトリック教会と教皇権
[2]教会権力の隆盛
{1}ローマ・カトリック教会の権威高揚
(1)精神的な権威の確立
(a)修道士による民衆への教化が浸透。
(b)国王・諸侯から土地の寄進を受け、聖界諸侯として各地に君臨。
(2)聖職階層制(ヒエラルキー)の成立
(a)ローマ教皇を頂点として、大司教・司教・司祭・修道院長などが序列化。
(b)教会の規律などに関する問題は、公会議での決定が最高権威となる。{2}教会の刷新運動
(1)教会の世俗化と腐敗
(a)私有教会制(アイゲンキルヘ)による教会の世俗支配
→新造された教会はその土地の領主により支配される。
(b)帝国教会政策
→神聖ローマ帝国内の教会施設は帝国教会として皇帝・国王の支配を受ける。
(c)聖職売買(シモニア)・聖職者妻帯の横行
(2)修道院運動:教会内部からの批判と改革
(a)クリュニー修道院
→910年、フランス南東部に設立。ベネディクトゥス戒律を継承し、
聖職売買や聖職者妻帯を厳しく批判。教会刷新運動をリード。
(b)シトー修道院
→1098年、フランス中部のシトーに設立。ベネディクトゥス会を継承。
ヨーロッパ森林原野の開墾活動も進める。
(3)托鉢修道会の運動:信者の喜捨で運営し清貧を実践
(a)フランチェスコ修道会
→アッシジの聖フランチェスコが創設(1209)。清貧を徹底(無所有)。
(b)ドミニコ修道会
→南フランスを中心にドミニコが設立(1215)。
{3}聖職叙任権闘争と教皇権の隆盛
(1)レオ9世(ローマ教皇、位1049~1054)
→改革派の人物を枢機卿とし、積極的な教皇庁改革(グレゴリウス改革)を開始。
(2)グレゴリウス7世(ヒルデブラント)(ローマ教皇、位1073~1085)
(a)「教皇教書」(1075):教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言。
→帝国教会政策を統治政策におく神聖ローマ帝国との対立が激化。
(b)神聖ローマ帝国のハインリヒ4世(位1056~1106)と対立し、これを破門。
(c)カノッサの屈辱事件(1077)
◎ハインリヒ4世が北イタリアのカノッサにて教皇に謝罪。
◎後にハインリヒがローマに進軍、教皇は退位させられ、叙任権に関する闘争続く。
(3)ウォルムス協約(1122)
→神聖ローマ帝国のハインリヒ5世(位1106~1125)と
ローマ教皇カリストゥス2世(位1119~1124)が妥協。
教会権力の自立性が認められ、皇帝の叙任権は縮小。
{4}教皇権の絶頂
(1)ウルバヌス2世(ローマ教皇、位1088~1099)
(a)教会権力の伸長に努力。
(b)クレルモンの公会議(1095)にて十字軍を提唱。
(2)インノケンティウス3世(ローマ教皇、位1198~1216)
(a)封建諸侯勢力を利用し、各国君主に圧力をかけて優位性を確立。
(b)フランス王フィリップ2世、イギリス王ジョン、神聖ローマ皇帝オットー4世を破門。
→教皇権の絶頂期を現出。
(c)ラテラノの公会議(1215)にて司教による異端裁判の制度化などを決定。
→異端審問の非公開、密告制、拷問などが現実化。
(d)第4回十字軍を提唱。 |
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3.カトリック教会と教皇権
[3]十字軍
{1}十字軍の展開とその背景
(1)宗教的情熱の高まり
(a)聖地巡礼熱の高揚
→イェルサレム、ローマ、サンチャゴ=デ=コンポステラが3大巡礼地として人気。
が、いずれもイスラム勢力との緊張関係を持つ地域に位置。
(b)国土回復運動(レコンキスタ)の展開
→巡礼地のキリスト教圏への組み込みを目指す(特にイベリア半島)。
(2)封建社会の安定
(a)農業生産力の上昇と人口増加による拡大欲求の発生
(b)君主、封建諸侯の領土や物品的欲求
(c)イタリア商人の経済的欲求(東方貿易の利益)
(3)直接的契機
(a)セルジューク=トルコの小アジア進出とイェルサレム占領(1071)。
→圧迫されたビザンティン帝国のアレクシオス1世がローマ教皇に救援を要請。
(b)クレルモンの公会議(1095)
→ローマ教皇ウルバヌス2世(位1088~1099)が十字軍を提唱、聖地回復を決議。{2}十字軍の経過(1096~1291)
(1)第1回十字軍(1096~1099)
(a)フランス、イタリア半島、神聖ローマ帝国の諸侯・騎士を中心に4軍団を編成。
(b)コンスタンティノープルに集結後、小アジアを横断、セルジューク軍と戦う。
(c)アンティオキア侯国(1098~1268)、エデッサ伯国(1098~1146)、
トリポリ伯国(1102~1289)といった十字軍国家が成立。
(d)シリア沿岸を南下して、イェルサレム王国(1099~1291)の建国に成功。
(2)第2回十字軍(1147~1149)
(a)イスラム勢力の反撃(エデッサ伯国滅亡(1146)、アンティオキア侯国の劣勢)
(b)フランス王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート3世が十字軍を組織。
(c)シリア内陸の拠点、ダマスクスを攻撃するが失敗に終わる。
(3)第3回十字軍(1189~1192)
(a)イスラム勢力(アイユーブ朝のサラディン)によるイェルサレム占領(1187)
(b)神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世(赤髭王)、フランス王のフィリップ2世(尊厳王)、
イングランド王のリチャード1世(獅子心王)が参加して十字軍を結成。
(c)フリードリヒ1世、小アジアにて不慮の事故死(1190)。
(d)フィリップ2世、リチャード1世と対立。イェルサレムの北、アッコンを奪回後に帰国。
(e)リチャード1世、サラディンと戦うも、聖地奪回には失敗。
(4)第4回十字軍(1202~1204)
(a)時の教皇、インノケンティウス3世により提唱される。
(b)輸送を担当したヴェネツィアの思惑が絡む。
◎十字軍、輸送費支払いの代償として、ヴェネツィアがハンガリーに奪われていた
アドリア海沿岸の都市、ツァラを攻略する行動を取る。
◎教皇は激怒して全将兵を破門、破門された十字軍という前代未聞の事態となる。
(c)ヴェネツィア総督ダンドロの進言とビザンティン帝国内の内紛に乗じて、
コンスタンティノープルを占領・略奪(1204/4/13)。
(d)十字軍はフランドル伯のボードゥワンを皇帝としラテン帝国(1204~1261)を建設。
→ビザンティン側は各地に亡命政権を建ててラテン帝国と争う。
(5)子ども十字軍(1212)
(a)北フランスの少年エティエンヌを中心として数千の子どもが従う。
→マルセイユから乗船して聖地を目指すが7隻中2隻が難破。
残った子どもはアレクサンドリアで奴隷として売却される。
(b)ドイツのケルンからニコラウス少年を中心にライン川沿いに南下。
→イタリアの港に到着するも司教に強く阻止されて帰される。
(6)第5回十字軍(1228~1229)
(a)神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世が結成。
(b)アッコンを経由してエジプトに向かうが、カイロに到達する前に敗北。
(c)アイユーブ朝との外交折衝により一時イェルサレムを回復(~1244)。
(7)第6回十字軍(1248~1254)
(a)トルコ人によりイェルサレムが再び奪われる(1244)。
(b)フランス王のルイ9世、単独で十字軍を結成。
(c)エジプトを攻撃するも、マムルーク朝により撃退される。
(8)第7回十字軍(1270)
(a)ルイ9世、再び十字軍を結成。
(b)北アフリカのチュニスを攻撃するが、その地で病没し失敗に終わる。
(9)十字軍の終結
(a)マムルーク朝の侵攻でアンティオキア侯国(1268)、トリポリ伯国(1289)が滅亡。
(b)十字軍最後の拠点、アッコンが陥落し(1291)、聖地回復の念願潰える。
{3}十字軍とその影響
(1)ビザンティン帝国の疲弊(協力を強要される)と衰退の加速。
(2)十字軍の提唱による教皇権の隆盛とその失敗による失墜。
(3)諸侯・騎士の没落による相対的な王権の伸長(絶対主義国家への布石)
(4)ビザンティン商人に代わる北イタリア諸都市の繁栄(東方貿易を掌握)
(5)イスラム文化、ビザンティン文化の流入(ルネサンスへの刺激となる)
{4}宗教騎士団(騎士修道会)とその活動
(1)宗教騎士団の成立と目的 (a)十字軍に際して騎士以上の階層から募集される。
(b)主にキリスト教徒巡礼者の保護、傷病者の看護、聖地の警備などを担当。
(c)国王・諸侯の保護、寄進を受けて大きな勢力となる。
(d)十字軍終了後も本拠を変えて活動するが、本来の目的は失われる。
(2)3大宗教騎士団
(a)聖ヨハネ騎士団(1113設立)
→当初キプロス島に本拠を置いたが、後にロードス島へ移動。イスラム勢力と戦う。
神聖ローマ皇帝のカール5世にマルタ島を与えられる(1530)
(b)テンプル騎士団(1119設立)
→当初キプロス島に本拠を置く。後にフランスに移るが、フランス王により解散。
(c)ドイツ騎士団(1190設立)
→当初アッコンに本拠を置くが、聖地ではあまり活躍は見られず。
後にキリスト教の伝道と農業開発を目的にプロイセンへ入植(1230~1283)。 |
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3.カトリック教会と教皇権
[4]教会権力の衰微
{1}王権の伸長と教皇権の失墜
(1)ボニファティウス8世(ローマ教皇、位1294~1303)
(a)教書「ウナム=サンクタム」にて教皇権の絶対性を主張。
(b)フランス国内にある教会領への課税措置を巡り、フランス王フィリップ4世と対立。
→フィリップ4世、三部会(フランスの身分制議会)を召集し、支持をとりつける。
(c)アナーニ事件(1303)
◎教皇、ローマ南方のアナーニにて捕らえられ一時監禁される。
◎教皇は関係者を即座に破門するが効果が無く、後に憤死。
(2)教皇のバビロン補囚(1309~1377)
(a)クレメンス5世(ローマ教皇、位1305~1314)
◎元ボルドーの大司教。ボニファティウス8世の後継として教皇に即位。
◎政情不安なイタリアを避け教皇庁をフランス南部のアヴィニョンに遷す(1309)
(b)フランスによる教皇庁への干渉
◎アヴィニョン遷庁後、フランス人による枢機卿団を組織。
◎クレメンス5世以後、グレゴリウス11世(ローマ教皇、位1370~1378)が
ローマに戻るまで、7代の教皇がフランス王の監視下に置かれる。
(3)教会大分裂(シスマ、1378~1417)
(a)教皇ののローマ帰還後、フランス人枢機卿団がアヴィニョンに対立教皇を立てる。
(b)ローマ・アヴィニョンいずれも正当性を主張して対立。
◎アヴィニョン教皇を支持:フランス・イベリア諸国・ナポリ・スコットランドなど
◎ローマ教皇を支持:イタリア諸国・神聖ローマ帝国・イングランドなど
(c)ピサの公会議(1409)
◎教会代分裂の打開を目指して開催されるも失敗に終わる。
→ピサにも教皇が立ち、教皇庁は3分裂。{2}異端派の活動と教会改革
(1)異端派の動勢
(a)カタリ派(11c~13c)
◎マニ教の影響を受ける。純潔の保持、断食などの戒律厳守を説く。
◎バルカン半島に定着後、西欧各地に広まる。
◎特に南フランスでは地方貴族の支持を得て盛んとなる(アルビジョワ派)
→インノケンティウス3世が提唱したアルビジョワ十字軍(1209~1229)に同調した
フランス王フィリップ2世、ルイ9世の討伐を受けて滅亡。
(b)ワルド派(12c~13c)
◎フランスの商人ワルドにより創始される。
◎私財を貧民に施し、清貧と悔い改めを説く。教会組織を批判。
◎南フランス・南イタリアに広まるが、激しい弾圧を受ける。
(2)教会改革 ~宗教改革の先駆~
(a)ウィクリフ(1320?~1384)
◎オクスフォード大学の神学教授の兼イングランド宮廷司祭。
◎イングランドが教皇から政治的・宗教的に独立することを主張。
◎聖書主義(聖書こそ唯一の信仰の拠り所であるとする)を主張。
◎聖書の英語訳(四福音書)に従事(今日の英語の基礎となる)。
→ローマ教会により異端視されるが、ランカスター公の保護を受けて存命。
その説はロラード派により広められる。
(b)フス(1370?~1415)
◎ベーメン(ボヘミア)のプラハ大学総長・神学教授、ベツレヘム聖堂司祭を務める。
◎ウィクリフの説に共鳴して聖書主義を唱え、教会を批判。
◎ベーメンの大学からドイツ人を追放(チェック化)、チェコ国民文学に貢献。
◎ベーメンのチェック人民族運動を指導。
→ローマ教会から攻撃を受け、破門される。
(3)コンスタンツの公会議(1414~1418)
(a)神聖ローマ皇帝、ジギスムント(位1411~1437)により提唱・開催。
(b)ローマ教皇を正統と決定し、教会大分裂を終わらせる(1417)。
(c)教皇権に対しての王権、及び公会議決定の優位が確定。
(d)ウィクリフを異端とし、フスの焚刑を決定。
→ベーメンのフス派住民の反感を買い、後に「フス戦争」(1419~1436)勃発。
ジギスムントの十字軍に勝利、ローマ教会側に譲歩させて和約が成立。 |
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4.西欧社会体制の変遷
[1]封建社会の成立
{1}ヨーロッパ式封建社会
(1)特に西欧で発展した、荘園制を基礎とした主従関係による階層組織を持つ社会。
(2)階級・職能・身分が世襲的となった身分制社会。
(3)聖職者・貴族が支配身分となり、土地農民を所有。
(4)自給自足を原則とする自然経済を基礎とする。{2}封建制度の成立
(1)ヨーロッパ封建制度の定義
(a)封土の授受を媒介とした騎士間の主従関係
→主君が臣下に封土(知行地)を与え、臣下は主君に忠誠を誓った上で
軍役などの義務を負う制度。
(b)制度の全盛期は11c~13cにかけて。主に西ヨーロッパ諸国。
(2)成立への過程
(a)封建制度の源泉
◎恩貸地制度(ローマの制度)
→土地所有者が自分の土地を有力者に献じてその保護下に入り、
その土地の使用権を改めて授与された上で有力者に奉仕する制度。
◎従士制度(古ゲルマン人の制度)
→自由民・貴族の子弟が有力者に忠誠を誓って保護を受け、その従者となる制度
従者は軍役義務を負う場合が多く、土地の授受はほとんどない。
(b)封建制度の成立(8c~9c):カール・マルテルが重装騎兵の家臣団を編成。
◎教会の領土を収公して家臣団に分配し、その所有を保障(封建制度の萌芽)。
◎一方教会側の権利も認めて一定の賃借料を支払う(十分の一税の萌芽)。
(c)封建制度の完成(9c~10c):マジャール人、ノルマン人の侵入が激化。
◎住民は近隣在地の有力者に保護を求める。
◎有力者は諸侯として城を造り、騎士を従えて次第に自立化。
{3}封建制度の特色
(1)双務的契約:君臣双方が守るべき個人間の契約
(a)契約を破った場合、いずれの側からも契約を破棄できる。
(b)当初一代限りだった契約は後に世襲化、国王を頂点として、
大諸侯(公・侯・子・伯・男)、中小諸侯、騎士へと至る階層制度が成立。
→封建制度下での国王は実質的には地方の一諸侯に過ぎず、
時には他の諸侯へ臣従することも。
(2)家臣は複数の主君を戴いても良く、双方の義務は契約者に対してのみ発生。
→「余の家臣の家臣は、余の家臣ではない。」
(3)家臣は不輸不入権を行使して、主君からの封土への干渉を排除。
{4}荘園制度:封建社会の根幹
(1)人的構成
(a)領主
→封土を授与された世俗諸侯、聖職諸侯。防衛を担当し、農民を支配。
(b)農民
→大多数は農奴(ローマ時代のコロヌス、没落したゲルマン自由民)
農奴は家族、住居、耕具の所有などの人格の自由は認められるが、
移住と職業選択の自由はない。
(2)物的構成
(a)領主の居館、教会(修道院)
(b)水車、鍛冶屋、パン焼き小屋、葡萄絞り器などの農産関係施設
(c)耕地
◎領主直営地(農奴の賦役により耕作)
◎農民保有地(農奴が世襲して小作に従事)
◎共有地、人会地(森林・牧草地など農民が共同で利用)
(3)農民の負担
(a)賦役(労働地代):領主直営地での週に2~3日の農耕作業
(b)貢納(生産物地代):農民保有地の作物から納入。
(c)諸税:十分の一税、結婚税、死亡税、人頭税、パン焼き小屋使用料
(d)領主裁判権に服すること
{5}騎士道の成立
(1)国王から下級騎士にいたるまで、封建貴族として遵守を求められた道徳規範。
(2)「武勇」と主君に対する「忠節」を重視。
(3)「敬神」の心を重んじ、神と教会への奉仕を実践。
(4)社会的弱者(特に女性)へのいたわり、教養と名誉を重んずる。 |
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4.西欧社会体制の変遷
[2]封建社会の衰退
{1}荘園制の崩壊
(1)古典荘園とその崩壊
(a)中世農業革命(11c~12c)
◎三圃制農業の普及
→農地を春耕地、秋耕地、休耕地に3分して3年で一巡させ、地力を確保。
◎重量有輪犂、水車による耕作効率の向上
→古典荘園制の経営方式が確立し、農業生産性が向上。
(b)古典荘園の変質
◎封建制度の衰退に伴う商工業・都市の発達により、貨幣経済が復活。
◎余剰物の売却など、自給自足に代わる新たな活動が発生。
→領主の貨幣需要が高まり、従来の賦役中心の荘園経営の見直し迫られる。
(2)純粋荘園の発生
(a)領主直営地とが廃され、農民保有地を中心に生産活動を行う。
(b)賦役は廃止され、農民の負担は生産物地代・或いは貨幣地代となる。{2}農奴解放とその反動
(1)富裕化した農奴の出現
→余剰生産物を市場で売却し、解放金を支払って自由身分になる者も。
(2)ペストの流行と戦火による農村人口の激減
(a)1347~1348年の大流行で全ヨーロッパ人口の20~30%が失われ、労働力激減。
労働力確保を目的とする農民の待遇改善(低地代化など)が進む。
(b)イングランドでは百年戦争・ばら戦争が重なってこの傾向が顕著。
少額の地代を納めるのみで身分的に殆ど自由な独立自営農民(ヨーマン)が出現。
(3)領主側の反動的動向
(a)封建反動(西ヨーロッパ)
→領主側による農奴制の再編(再版農奴制)を図る動き
(b)グーツヘルシャフト(ドイツ東部)
→反動傾向の強いエルベ川以東で見られた大規模な直営地農場経営。
(4)農民一揆:封建反動の動きに反発して各地で続発
(a)ジャックリーの乱(1358)
◎百年戦争と重税に苦しむフランスの地方住民が組織的に領主の城館を襲撃。
◎パリ市民の反乱と呼応してフランス西部一帯に拡大。
◎指導者のギョーム・カルルが処刑されて勢いを失う。
(b)ワット・タイラーの乱(1381)
◎百年戦争の戦費調達のため、イギリスで導入された人頭税に農民が反発。
◎指導者のワット・タイラー、説教僧のジョン・ボールらを中心にロンドンへ進撃。
→「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰が領主だったのか?」(ジョン・ボール)
◎ワット・タイラーが謀殺され、一揆は鎮圧される。
{3}封建制の崩壊
(1)騎士の地位低下
(a)戦術の変化(従来の個人的騎兵戦から火砲・鉄砲を使用した歩兵戦への移行)
(b)傭兵を主体とする常備軍が騎士にかわって採用される。
(2)王権の伸長(諸侯は王の廷臣化が進み、自立性を次第に喪失)
(3)荘園制の崩壊による政治的・経済的基盤の喪失。 |
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4.西欧社会体制の変遷
[3]中世都市の成立
{1}背景
(1)古代都市の衰退と商業の衰微
◎西ローマ帝国の滅亡と民族大移動による混乱
→都市と商業が衰退し、自給自足の荘園経済へ移行。
(2)都市の復活(中世都市)
(a)封建制度下で安定期を迎える。
(b)生産力の向上による余剰物資の交換活動。
→定期市の開催が始まり、停滞していた商業が復活。
(c)ヴァイキング・ムスリム商人などによる貨幣の使用が進む。
→交通の便利な場所に商人集落を形成、中世都市の萌芽となる。{2}都市の自治権獲得
(1)初期中世都市の環境
(a)封建的領主(皇帝・王・聖職諸侯)の支配下で保護を受ける。
(b)経済力の高揚と共に自治への欲求が高まる。
(2)自治権の獲得(11~12c)
(a)特許状の購入による獲得
→貨幣鋳造権・居住権・交易権などの各権利を封建領主から買い取る。
(b)コンミューン運動 →都市住民が制約の下に軍団を結成して封建領主と戦う。
セーヌ川・エルベ川間の都市で頻発。
(c)封建諸侯による都市の建設
→自領の要衝を固め、商工業者を招聘して経済的繁栄を図る。
ドイツの新興開発地に多く見られる。
→13c以降、西欧各地に独自の都市法と裁判所を持つ自治都市が形成され、
従来の3身分(貴族・聖職者・農民)に加えて市民身分が成立。
(3)都市自治権の温度差
(a)都市共和国(コムーネ)
→封建的権力の欠乏したイタリアに多い。司教を中心に市民自身が市政を運用。
ヴェネツィア・ミラノ・フィレンツェ・ジェノヴァ・ピサなど。
(b)帝国都市
→王領地の多いドイツ南部に多い。諸侯と同格である一方、皇帝へ貢納。
(c)自由都市
→帝国都市と比較してほぼ完全な自治権を保有。かつての司教都市から発展した
7都市をさす。(バーゼル・シュトラスブルク・シュパイアー・ウォルムス・マインツ・
ケルン・レーゲンスブルク) |
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4.西欧社会体制の変遷
[5]中世都市の対外活動
{1}都市同盟の結成
(1)ロンバルディア同盟(12c成立)
(a)神聖ローマ帝国の南下に対抗して、北イタリア諸都市が結成。
(b)中心都市:ミラノ
(2)ライン都市同盟(13c成立)
(a)神聖ローマ帝国の大空位時代においてライン川沿岸の諸都市が結成。
(b)中心都市:マインツ・ウォルムスなど
(3)シュワーペン同盟
(a)南ドイツの諸都市が結成。
(b)中心都市:アウグスブルク・コンスタンツ・バーゼルなど。
(4)ハンザ同盟(1241~1648)
(a)北欧一帯の貿易圏で活動する商人の間に自然発生した共同体。
(b)北欧貿易権の独占を維持し、独自の艦隊を創設。
(c)リューベックを盟主として、ハンブルク・ブレーメンなどが加盟。
(d)在外商館を設置(ロンドン・ブリュージュ・ベルゲン・ノヴゴロド)。
(e)デンマークとの戦いに勝利して(1370、ストラルズンドの和約)バルト制海権を獲得。
(f)15世紀末の地理上の発見以降、衰退。{2}遠隔地貿易の発達
(1)北ヨーロッパ商圏:北海・バルト海沿岸(海産物・木材・毛皮・穀物など)
(a)ハンザ同盟諸都市:リューベック・ハンブルク・ブレーメン
(b)フランドル地方:アントワープ・ブリュージュ・ガン
(c)イングランド:ロンドン・ブリストル
(2)内陸商業圏(葡萄酒や塩を取引する一方、各国の物産を集積)
(a)神聖ローマ帝国内諸都市
◎西部商圏:アウグスブルク・ニュルンベルク
◎東部商圏:ケルン・マインツ・フランクフルト
(b)フランス王国内諸都市
◎沿岸商圏:ルーアン・ボルドー・マルセイユ
◎中部商圏:リヨン・パリ
◎シャンパーニュ地方:ラニー・トロワ・プロヴァン・バール
→交通の便が良好で、中世商業の中心地のひとつとなる。定期的に大市を開催。
(3)地中海商圏(東方との貿易で得た香辛料や絹製品を輸出)
(a)沿岸商圏:ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ
(b)内陸商圏:ミラノ・フィレンツェ |
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5.西欧集権国家の成立
[1]イングランドとフランス(1)
イングランド |
フランス |
{1}ノルマン朝(1066~1154)
(1)ウィリアム1世(征服王、位1066~1087)
(a)土着のアングロサクソン貴族から土地を没収し、
→ノルマン貴族に奉仕の代償として与える。
(b)全国的な土地台帳(ドームズデーブック)を作成。
→他国に比して極めて強力な集権体制を確立。
(2)ヘンリー1世(位1100~1135)
(a)即位に際し「戴冠憲章」を発布。
→人民の自由を保証した最初のもの
(b)王権が安定して在位中の政情安定。
(3)王位を巡る内乱により、ノルマン朝倒れる。
{2}プランタジネット朝(1154~1399)
(1)ヘンリー2世(位1154~1189)
(a)内乱の後、フランスのアンジュー伯から即位。
(b)アキテーヌ侯のエレアノールと結婚。
→フランスの西半分を併せて領有(アンジュー帝国)
(c)クラレンドン条令(1166)
→農民の連帯責任と陪審制度を規定。
(d)アイルランドへの侵攻始まる(1171)。
(e)晩年に長男から末弟まで離反、フランスで戦死。
(2)リチャード1世(獅子心王、位1189~1199)
(a)ヘンリ2世の三男。父を敗死させて即位。
(b)戦争・冒険を好み、生涯を殆ど陣中で過ごす。
→在位10年中、イングランド滞在は6ヶ月。
(c)第3回十字軍に参加。サラディンと戦う。
→弟ジョンの策謀を聞いて帰国の途につくも、
神聖ローマ帝国で皇帝の捕虜となる。
(d)アキテーヌ地方の反乱制圧中に戦死。
(3)ジョン王(欠地王、位1199~1216)
(a)リチャードの長兄、アーサーを無視して即位。
→後にこれを殺害。臣下の多くがフランスに奔る。
(b)フィリップ2世に敗北、大陸領の大半を喪失。
(c)カンタベリー大司教の任免問題に於いて、
ローマ教皇(インノケンティウス3世)と対立。
→破門され、イングランドを献上して謝罪。
(d)大陸の旧領回復を図るが軍役を拒否された上、
度重なる失政を国民・貴族に責められて孤立。
→譲歩して大憲章(マグナ・カルタ)に署名(1215)。
◎新課税に高位聖職者・大貴族の承認を経る。
◎教会・都市の特権を尊重し、自由な通交を許す。
→法による支配を明文化し、王の圧政に対しての
自由主張の萌芽。イギリス憲法の基礎。
(e)大憲章の署名撤回を画策して内乱を招き、
その対策に追われる中、体調を崩して死去。
(4)ヘンリー3世(位1216~1272)
(a)マグナ・カルタを軽視して専制的政治。
(b)フランス貴族を重用して国内の反発を買う。
(c)シモン=ド=モンフォールらの貴族反乱(1258)
→オクスフォード条令(国王権力を制限)を認める。
(d)シモン=ド=モンフォールの議会(1265)
◎王を屈服させ、新しい議会を召集させる。
◎成員に、州騎士、都市住民の代表者を加える。
→イギリス議会の起源となる。
(5)エドワード1世(位1272~1307)
(a)ブリテン島統一を目指し、ウェールズ併合(1284)。
(b)スコットランド遠征の軍費の為の議会を召集。
◎模範議会(1295)と称され以後の手本に。
○貴族院:僧侶・貴族を成員とする。
○庶民院:各州2名の騎士と各都市2名の市民。
(6)エドワード2世(位1307~1327)
(a)国内諸侯との戦いに敗れる。
→議会に立法参与権への関与を認める。
(b)スコットランドとの戦いに敗れ、独立を許す。
(c)フランスに逃れていた王妃のイザベラが逆上陸。
→捕縛されて幽閉の後に殺害される。
(7)エドワード3世(位1327~1377)
(a)当初は母后イザベラが摂政(~1330)
(b)議会が上下院に分離(1343)。法律の制定・新税の
創設には下院の承認が必要となる。
(c)毛織物工業を保護(有数の輸出国となる) |
{1}カペー朝(987~1328)
(1)ユーグ・カペー(位987~996)
(a)カロリング朝の断絶を受けて王に即位。
(b)諸侯権力強く、当初の王権は弱体。
(2)ロベール2世(敬虔王、位996~1031)
(3)アンリ1世(位1031~1060)
◎ノルマンディー公ウィリアム1世に破れる。
→ノルマンディー公国は自立状態となる。
(4)フィリップ1世(位1060~1108)
(a)フランドル地方へ遠征(1070)。
(b)クレルモンの公会議(1095)開催。
→十字軍の派遣が決定される。(5)ルイ6世(肥満王、位1108~1137)
(a)パリ周辺の貴族と戦い服従させる。
(b)国内都市の自治権獲得闘争始まる。
(6)ルイ7世(若年王、位1137~1180)
(a)第2回十字軍に参加。
(b)妻の所領を巡ってイングランド王の
ヘンリー2世と戦い敗北。
(7)フィリップ2世(尊厳王、位1180~1223)
(a)都市諸侯や富裕な市民に自治権を与え、
地方諸侯の勢力に対抗。
(b)第3回十字軍に参加するが、中途帰国。
(c)ノルマンディー、ブルターニュなどの
イングランド領を次々に奪回。
→これを王領地に組み込んで王権を強化。
(d)アルビジョワ十字軍を組織。
→南フランスの異端(アルビジョワ派)及び、
これを保護した南フランス諸侯を従える。
(8)ルイ8世(獅子王、位1223~1226)
◎アルビジョワ派の討伐を継続。
(9)ルイ9世(聖王、位1226~1270)
(a)アルビジョワ十字軍成功、南仏を王領化。
(b)イングランドからノルマンディーを割譲。
(c)修道士ルブルックをモンゴル帝国へ派遣。
(d)文化芸術に感心を寄せ、その振興に努力。
(e)第6回、第7回十字軍を相次いで起こす。
→第7回十字軍で征行中にチュニスで死去。
(10)フィリップ3世(勇胆王、位1270~1285)
(11)フィリップ4世(美麗王、位1285~1314)
(a)ローマ教皇ボニファティウス8世と対立。
◎有力者を召集してその支持を獲得(1302)。
→後の三部会(身分制議会)の原型。
(b)アナーニ事件(1303)を起こし、教皇庁の
アヴィニョンへの移転を強行。
(c)財政・司法・行政の諸制度改革に着手。
(12)ルイ10世(位1314~1316)
◎封建諸侯の反攻に遭い、王権が衰微。
(13)ジャン1世(位1316)
(14)フィリップ5世(位1316~1322)
(15)シャルル4世(端麗王、位1322~1328)
{2}ヴァロワ朝(1328~1589)
◎フィリップ6世(位1328~1350)
(a)ヴァロワ家出身。カペー家断絶を受け即位。
(b)大陸からのイングランド勢力一掃を企図。
→スコットランドと同盟。 |
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5.西欧集権国家の成立
[2]イングランドとフランス(2)
{1}イングランドとフランスの対立
(1)政治的背景
(a)大陸にまたがるイングランド領をめぐっての争い
→特にフランスにとって統一上の重大な障害。
(b)フランス南西部ギュイエンヌ地方を巡る抗争。
→古くよりイングランドにおける大陸領の拠点。
(2)経済的背景
◎フランス北部フランドル地方を巡る抗争。
→イングランドからの原毛を加工する毛織物工業が発展。
(3)両国関係の緊迫
(a)フランスのカペー朝が断絶。ヴァロワ朝が成立(1328)
→フィリップ6世が即位、イングランドもこれを承認する。
(b)フィリップ6世の統一政策とイングランドの対応
◎イングランドとスコットランドとの係争を利用し、
ギュイエンヌ公領の没収を宣言(1337)。
◎イングランド王エドワード3世、一転してフランスの王位継承権を主張。
→母(イザベラ)がフィリップ4世の娘にあたる。
(c)エドワード3世、軍を率いてノルマンディーへ上陸(1338)
→翌年にはフランス北部へ侵入して戦端を開く(百年戦争、1339~1453){2}百年戦争前期:イングランドの優勢
(1)スロイスの海戦(1340)
→フランス海軍敗退し、両国海峡部の制海権を喪失。
(2)クレシーの戦い(1346)
◎農民中心のイングランド長弓隊がフランスの重装騎兵隊を撃破。
◎エドワード黒太子の活躍はじまる。
◎イングランド軍がはじめて大砲を戦闘に使用。
(3)イングランド軍、1年の攻囲の末にカレーを占領(1347)。
(4)ポワティエの戦い(1356)
→エドワード黒太子指揮のイングランド軍が勝利、フランス王ジャン2世を捕虜とする。
(5)プラティニーの和約(1360)
→フランス王太子シャルルがイングランドの攻勢に耐えて和約。
{3}戦閑期
(1)イングランド
(a)リチャード2世(位1377~1399):エドワード黒太子の子
◎ワット・タイラーのの乱を鎮圧。
◎次第に政治を専制化して議会の反発を招く。
(b)ヘンリー4世(位1399~1413):ランカスター公
◎リチャード2世を追放して即位。
→ランカスター朝(1399~1461)の成立
(2)フランス
(a)シャルル5世(賢明王、位1364~1380)
◎ジャックリーの乱鎮圧、プラティニーの和約を経て即位。
◎王室財政の健全と軍制の改革に努める。
◎プラティニー和約で奪われたフランス領を奪還。
(b)シャルル6世(親愛王、位1380~1422)
◎狂気の発作を生じ、混乱状態となる。
◎オルレアン公、アルマニャック伯とブルゴーニュ公が対立して内乱状態。
{4}百年戦争後期:イングランドの圧倒とフランスの逆襲
(1)ヘンリー5世(位1413~1422)のフランス侵攻
(a)フランスの内乱に乗じてノルマンディー地方に侵入。
(b)国王派と対立するブルゴーニュ派と同盟を締結。
(2)アザンクールの戦い(1415):百年戦争中最大規模の戦闘
→ヘンリー5世麾下のイングランド軍がフランス王軍を撃破。
(3)トロワ条約(1420)
→ヘンリー5世とカトリーヌ(シャルル6世の娘)が結婚。
ヘンリー5世がシャルル6世の王位継承者となる。
(4)ヘンリー6世(位1422~1461):ヘンリー5世の子
→フランスのシャルル6世没後、イングランド・フランス両国の王となる。
大陸の支配権は弱体でフランス領は3分裂の情勢
(a)北部:イングランド領
(b)東部:ブルゴーニュ派
(c)南部:シャルル7世(シャルル6世の子)
(5)シャルル7世(勝利王、位1422~1461):フランスの逆襲
(a)イングランド軍が南下、オルレアンを包囲される。
(b)フランスにジャンヌ・ダルクが出現、オルレアンを解放。
(c)フランス軍反撃に転じて北上。ランスを占領してシャルル7世の戴冠成る(1429)
(d)アラスの和約にてブルゴーニュ公と和約(1435)の後、パリを奪回(1436)。
(e)フォルミニーの戦い(1450)に勝利。ノルマンディー地方を奪回。
(f)カスチヨンの戦い(1453)に勝利。ギュイエンヌ地方を奪回。
→百年戦争が終結。イングランドはカレーを除く全ての大陸領から撤退。 |
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5.西欧集権国家の成立
[3]イングランドとフランス(3)
イングランド |
フランス |
{1}ランカスター朝(1399~1461)
(1)ヘンリー6世(位1422~1461)
(a)ヘンリー5世、シャルル6世の死により即位。
→イングランド、フランス両王国の王となる。
(b)フランスとの百年戦争に最終的敗北。
→カレーを除いて大陸からは撤退。
(c)晩年には精神に失調をきたす。
(2)薔薇戦争(1455~1485)
(a)国内の大貴族、ランカスター家(赤薔薇家)と
ヨーク家(白薔薇家)が王位を巡って争う。
(b)ノーザンプトンの戦い(1460)
→ヨーク派が勝利、ヘンリー6世が捕虜となる。{2}ヨーク朝(1461~1485)
(1)エドワード4世(位1461~1483)
(a)父リチャードの戦死後、後継として王朝を開く。
(b)ヘンリー6世をロンドン塔に幽閉。
(c)ランカスター派の反攻でフランスに亡命(1470)。
→翌年帰国、バーネットの戦い(1471)の後、復位。
(2)エドワード5世(位1483)
(3)リチャード3世(位1483~1485)
(a)エドワード5世から王位を簒奪して即位。
(b)陰険・残忍な素行に過ぎ、糾弾される。
(c)ボスワースの戦い(1485)
→リッチモンド伯(ランカスター家の血流)の
ヘンリー・テューダーに破れ、戦死。
{3}テューダー朝(1485~1603)
(1)ヘンリー7世(位1485~1509)
(a)ヘンリー・テューダーが王として即位。
→ヨーク家のエリザベスと婚姻し、内戦を終結。
(b)度量衡と貨幣を統一して経済流通を促進。
(c)星室庁を創設(国王直属の裁判所)
→ウェストミンスター寺院の「星の間」にて審理。
(d)枢密院を創設。
→諸処の行政官省の長により構成される機関。
→絶対王政に移行するための基礎を確立。 |
{1}ヴァロワ朝(直系ヴァロワ、1328~1498)
(1)シャルル7世(勝利王、位1422~1461)
(a)ジャンヌ・ダルク出現後は勢力を増す。
→イングランド勢をほぼ大陸から駆逐する。
(b)商人のジャック・クールを登用、財政改革。
(c)国内の上流市民と提携し聖俗諸侯を抑える。
(d)官僚制、常備軍を整備。絶対王政の基礎。(2)ルイ11世(位1461~1483)
(a)ムルテンの戦い(1466)
→ブルゴーニュ公シャルルと戦い、農民中心の
王国軍が騎士中心の公国軍を破る。
(b)ナンシーの戦い(1467)
→ブルゴーニュ公シャルルを敗死させ、
ブルゴーニュ公領を併合して王権拡大。
(3)シャルル8世(位1483~1498)
(a)ほぼ国内統一を完成、中央集権体制を確立。
(b)イングランドとエタープル条約を締結(1792)
→ブルターニュ地方の併合に成功。
(c)イタリア戦争を開始(1494~)
→シャルル8世に始まるイタリアへの干渉戦争。
フィレンツェに入城(1495)。メディチ家を追放。
→シャルル8世の死で直系のヴァロワ朝は終わる。
{2}ヴァロワ・オルレアン朝(1498~1589)
◎ルイ12世(位1498~1515)
(a)オルレアン家のシャルル・ドルレアンの子。
(b)ミラノへの征行に出発(1498)
(c)ナポリ王国を占領(1502)。イスパニアと対立。
→後にフランスはナポリを放棄(1504)。
(d)租税の軽減など、内治に功績。 |
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5.西欧集権国家の成立
[4]スペインとポルトガル
{1}西ゴート王国のイベリア支配(470~711)
(1)西ゴート族が西ローマ帝国の混乱に乗じて侵入。(~507)
(2)半島北西のスエヴィ王国を併合するなど常に半島の大半を支配。{2}イスラム勢力の侵入(711~1492)
(1)ウマイヤ朝下のベルベル人によるイベリア半島征服
→へレスの戦い(711)にイスラム軍が勝利。西ゴート王国を滅ぼす。
(2)イスラム諸王朝の半島支配
→後ウマイヤ朝、アルモラヒド帝国、アルモハード帝国、ナスル朝グラナダなど。
キリスト教国の国土回復運動(レコンキスタ)に圧されて国土は漸次減少。
{3}イベリアの中世キリスト教諸国
(1)アストゥリアス王国(718~1037)
(a)西ゴート王国の遺民を中心に半島北西部に建国。
(b)10世紀初頭、首都をレオンに定める(アストゥリアス=レオン王国)。
(2)カスティリャ王国(930?~1479)
(a)レオン王国東部の辺境伯が独立して建国。
(b)フェルナンド1世(位1037~1065)が、レオン王国を併合。
(c)イベリア半島中央部への進出を開始。以後のレコンキスタの中心となる。
◎半島中央部の中枢都市、トレドを奪還し(1085)、後に首都とする。
◎アラゴン・ナバラと連合してイスラム軍に勝利。
→コルドバ、セビリヤ、カルタヘナなどを相次いで回復。
グラナダ王国を除く全てのイスラム勢力を駆逐(1251)。
(3)ナバラ王国(9c~1512)
(a)ピレネー山脈の南西端部に建国。
(b)サンチョ王(位1000~1035)の時に東進し、バルセロナまで達する。
(4)アラゴン王国(1035~1479)
(a)ナバラ王国の東部が分離独立。初代ラミロ1世(ナバラ王サンチョの子)。
(b)イベリア半島東岸域への進出を開始。以後のレコンキスタの中心となる。
◎半島東部の主要都市、サラゴサを長期の攻防の末に占領(1118)。
◎バルセロナ伯領の併合(1138)の後、地中海岸沿いに勢力を伸張。
◎地中海方面への進出(13c~15c)
→バレアレス諸島、サルディニア島、ナポリ王国などを支配して絶頂期に達する。
{3}スペイン王国の成立(イスパニア王国、1479~1931)
(1)カスティリャ王国とアラゴン王国の合同
→アラゴン王子フェルナンドとカスティリャ王女イザベラが結婚、
両国を合併して共同統治を開始。
(2)中央集権体制の発展
→都市と結託して封建的諸侯を抑圧、次第に強力な王権を醸成。
(3)ヨーロッパ屈指の強国へ
(a)グラナダ王国を攻略(1492)レコンキスタを最終的に完成。
(b)コロンブスの西方航海によりアメリカ大陸への道が拓かれる(1492)。
{4}ポルトガル王国の成立(1143~1910)
(1)ローマ教皇の仲介を経て、カスティリャ王国から分離独立。
(2)大西洋岸を南下してリスボンを占領(1147)。後に首都と定める。
(3)13c半ば頃までにレコンキスタをほぼ完了。
(4)アヴィス朝(1385~1580):中央集権体制の確立
(a)ジョアン1世(位1385~1433)
◎アルジュバロダの戦いで、カスティリャ軍を撃破。完全な独立を達成。
◎イングランドに接近し、永久同盟を締結(1386)。
(b)エンリケ王子(航海王子、1394~1460):ジョアン1世の子
◎モロッコに進出し、商業都市セウタを攻略。
◎マディラ島、カナリア諸島、アゾレス諸島などの大西洋諸島の探検を奨励。
◎アフリカ大陸西岸域への航海を推進。
(c)ジョアン2世(位1481~1495)
◎国内の貴族勢力を抑圧して絶対主義の確立に努める。
◎インド航路の開拓を企図し、海洋政策を拡大。
→バルトロメウ・ディアスの喜望峰到達(1488)により展望拓ける。 |
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5.西欧集権国家の成立
[5]神聖ローマ帝国(1)
{1}ザクセン朝(962~1024)
(1)オットー1世(大帝、位962~973)
(a)東フランク王として即位、マジャール人を撃退して国家的基礎を形成。
(b)進軍先のローマにて戴冠し、神聖ローマ帝国の初代皇帝となる。
(2)オットー2世(位973~983)
(a)オストマルク辺境伯領(オーストリアの起源)が成立(978)。
(b)南イタリアに遠征し、侵入していたイスラム勢力を撃退(980~981)
(3)オットー3世(位983~1002)
(4)ハインリヒ2世(聖王、位1002~1024)
(a)イタリアへの複数回にわたる遠征軍派遣(1004、1013、1021)
(b)東方(ポーランド)に対する征服戦争(1004~1018){2}ザリエル朝(1024~1125)
(1)コンラート2世(位1024~1039)
(2)ハインリヒ3世(黒王、位1039~1056)
(a)ベーメン(チェコ)、ハンガリーを征服、東部へ勢力拡大(1041~1042)。
(b)イタリアへ遠征して北部の支配権を確立。
→神聖ローマ帝国の盛時を現出。
(3)ハインリヒ4世(位1056~1106)
(a)聖職叙任権を巡ってローマ教皇グレゴリウス7世と対立。
(b)ウォルムスの公会議(1076)
→皇帝によるローマ教皇の罷免と教会による皇帝廃位。
帝国内諸侯も教会側につく(トリブル国会(1076)で皇帝廃位を決議)。
(c)カノッサの屈辱(1077)
→皇帝がローマ教皇に破門の赦免を哀訴。
(d)国内諸侯の反乱を鎮圧後、グレゴリウスの追放に成功(1084)。
(e)息子(ハインリヒ5世)の反乱に遭い、拘禁させられる。
(4)ハインリヒ5世(位1105~1125)
(a)皇帝にに反旗を翻して挙兵、拘禁の後に即位。
(b)ウォルムス協約でローマ教皇カリストゥス2世と和約。聖職叙任権闘争に終止符。
{3}ホーエンシュタウフェン朝(1125~1254)
(1)コンラート3世(位1138~1152)
(2)フリードリヒ1世(赤髭王、位1152~1190)
(a)即位後、デンマーク、ハンガリー、ポーランドを服従させる。
(b)複数回にわたるイタリア遠征。後にローマ教皇と対立。
(c)第3回十字軍に参加するも小アジアにて事故死。
(3)ハインリヒ6世(位1190~1197)
(a)ドイツ騎士団の萌芽が成立。東方への植民活動がはじまる。
(b)両シチリア王国の王位を兼ね、イタリア全土へ勢力を拡大。
(4)オットー4世(位1198~1215)
(5)フリードリヒ2世(位1215~1250)
(a)シチリア島に居住して国内諸侯に強い権限を付与。帝権を弱体化させる。
(b)ローマ教皇との抗争を繰り返し、しばしば破門される。
(c)バトゥ率いるモンゴル軍の遠征に対し、ワールシュタットの戦い(1241)で惨敗。
(d)サルディニア島が帝国の支配下に入る(1242)。
(6)コンラート4世(位1250~1254) |
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5.西欧集権国家の成立
[6]神聖ローマ帝国(2)
{1}大空位時代(1256~1273)
(1)コンラート4世(位1250~1254)
→彼の死により、ホーエンシュタウフェン朝は断絶(家の断絶は1268)
(2)オランダ伯ウィレム(位1254~1256)
(3)ホーエンシュタウフェン派とヴェルフェン派の抗争
(a)ヴェルフェン家:ホーエンシュタウフェン朝成立前後よりシュタウフェン家と対立。
(b)次期国王としてそれぞれ推薦者を出して対立。国王二重選挙となる。
◎シュタウフェン派:カスティリャ国王
◎ヴェルフェン派:イングランド王弟
→いずれも帝国内へは殆ど訪れず、帝国は実質的に皇帝不在。
※この頃、ルクセンブルク家、ホーエンツォレルン家などの諸家起こる。{2}帝国内諸家の帝位継承時代(1273~1438)
(1)ルドルフ1世(位1273~1291):ハプスブルク家
(a)自領オーストリアを世襲化する事に成功。
(b)婚姻政策など積極的に展開し、ハプスブルク帝国の基礎を形成。
(c)帝国統治よりも自国の領土拡大に執着。
→以後、神聖ローマ帝国の国内分裂と形骸化が鮮明となる。
(2)アドルフ帝(位1292~1298):ナッサウ家
(3)アルプレヒト1世(位1298~1308):ハプスブルク家
(4)ハインリヒ7世(位1308~1313):ルクセンブルク家
(5)ルードヴィヒ4世(位1314~1347):ウィッテルスバッハ家
(6)カール4世(位1347~1378):ルクセンブルク家
(a)金印勅書(黄金文書、1356)
◎皇帝の選挙権を領内の7人の選帝侯に限定。
◎選帝侯の完全な君主権(裁判権、関税徴収権、貨幣鋳造権など)を認める。
→後に他の諸侯にも拡大される。
※7選帝侯
◎宗教諸侯:ケルン大司教、マインツ大司教、トリエル大司教
◎世俗諸侯:ベーメン王、ザクセン侯、ファルツ伯、ブランデンブルク伯
(b)各地に領邦(各諸侯が君主権をもって建設した独立的小国家)が成立
→周辺各国の中央集権化に逆行して分裂(領邦国家体制)。
但し領邦内の中央集権は強力に進行(「国家内の国家」)。
(c)プラハに帝国内で初の大学(カレル大学)を創設。
(7)ウェンツェル帝(位1378~1400):ルクセンブルク家
(8)ループレヒト帝(位1400~1410):ファルツ家
(9)ジギスムント帝(位1411~1437):ルクセンブルク家
(a)ハンガリー王からの即位。王位帝位を兼任。
(b)コンスタンツの公会議を主催(1414~1418)。
→ベーメンの教会改革指導者、フスの火刑を決定してフス戦争を招く。
{3}ハプスブルク朝(1438~1806)
(1)アルプレヒト2世(位1438~1439)
→以後、ハプスブルク家による帝位の世襲が続く。
(2)フリードリヒ3世(位1439~1490)
→ハプスブルク家領の経営第一主義で、帝国内諸侯の自立を放任。 |
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5.西欧集権国家の成立
[7]神聖ローマ帝国(3)
{1}帝国内民族(ドイツ人)の対外膨張
(1)東方植民運動
(a)12c以降、スラブ人やマジャール人居住地域へのドイツ人の植民運動。
→ポーランド、ベーメン、ハンガリー、モラヴィア、フィンランド湾岸など。
(b)一部地域には諸侯領を設置(ブランデンブルク辺境伯領など)。
(c)ドイツ騎士団領の成立(13c)
→ドイツ騎士団がバルト海南岸(プロイセン地方)に入植して成立。
帝国からのドイツ人移民を受け入れて15c頃まで発展。
(2)ドイツ民族圏の遠心化
(a)オーストリア:ハプスブルク家
(b)ベーメン王領:ルクセンブルク家
(c)ブランデンブルク辺境伯領:ホーエンツォレルン家
→ドイツ近代史へも影響を及ぼす大諸侯が次々と成立。
ドイツ人居住域としての重心は次第に東部へ移行。{2}スイスの独立
(1)ローマ帝国、フランク王国などの支配(~10c)
→自由農民が存在、自治権の下で統治。
(2)ハプスブルク家の介入と支配(13c~)
(3)原始3州(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターファルデン)が永久同盟を締結(1291)。
→自由と自治を防衛するための相互援助を誓う。後に他の州も参加。
ハプスブルク家の派遣軍を度々撃破。
(4)14c初め頃に自治権の奪回に成功。
(5)シュワーペン戦争の勝利を経て、事実上の連邦共和国が成立(1499)
→国際的な承認はウェストファリア条約(1648)にて。 |
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5.西欧集権国家の成立
[8]イタリア
{1}イタリア半島南部(教皇領以南):両シチリア王国
(1)フランス系ノルマン人による統治時代(1130~)
(a)ルッジェーロ2世(ノルマン系シチリア伯)による建国。
(b)司法・行政が整備されて中央集権化が進行。
(2)神聖ローマ帝国による支配(1194~)
→ホーエンシュタウフェン朝のハインリヒ6世が両シチリア王位を兼ねる。
(3)フランス(アンジュー家)による支配(1265~)
(4)シチリアの晩鐘(1282)
(a)フランスの苛烈な支配に対してパレルモの住民が反乱し、全島に拡大。
(b)アラゴン王のペドロ3世が反乱側で出兵。
→シチリア島がアラゴンの支配下に入り、半島のナポリ王国と分離。
(5)両シチリアの再併合(1442)
→アラゴン王アルフォンゾ5世がナポリ王を兼ねる。
(6)イタリア戦争(1492~1544)
→両シチリアの再征服を狙うフランスとイスパニアの争いに巻き込まれる。{2}イタリア半島北部(教皇領以北)
(1)都市共和国(コムーネ)の形成
◎周辺各国のような封建制は発達せず、地中海商業などで富を蓄積した
諸都市が独自の共和国を形成して統治。
→ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェなど。
(2)都市間都市内での対立
(a)神聖ローマ皇帝のイタリア遠征でローマ教皇との対立強まる。
→イタリア諸都市が両派に分裂して争う(教皇党(ゲルフ)、皇帝党(ギベリン))。
(b)都市内部においても両派への分裂傾向あり。
◎教皇党:都市の大商人を中心とする上層市民層
◎皇帝党:領主、貴族などを中心とする新興市民層
(3)商工業の振興と都市の発達
(a)ヴェネツィア共和国
◎市民の中から総督を選出して寡頭政治を行う。
◎独自に強力な艦隊を建設し地中海沿岸各地へ進出。
◎宿敵ジェノヴァとの戦いに勝利。トリノの和約(1381)で優位に。
→東方貿易を独占して「アドリア海の女王」と称する。
(b)フィレンツェ共和国
◎皇帝党の上層貴族を追放して共和政に移行(13c)
◎後に共和政が変質、上層市民の寡頭政となる。
→アルビッツィ家、メディチ家など。
(c)ミラノ公国
◎14c以降、ヴィスコンティ家による寡頭支配。
◎14c以降、公国を称し一時中部イタリアまで勢威を及ぼす。
◎ヴィスコンティ家の断絶後(1447)、スフォルツァ家がミラノを支配。 |
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5.西欧集権国家の成立
[9]北欧諸国
{1}北欧3国とフィンランド
(1)デンマーク王国・スウェーデン王国・ノルウェー王国
(a)3国いずれもノルマン人(デーン人・スウェード人・ノール人)による建国。
(b)ノルマン人の大移動期に部族統合が進行して国家形成。
(c)西欧からキリスト教(カトリック)を受容して独自の宗教文化を創造。
(d)11c以降の3世紀間は内乱外圧の影響が大きく混乱。
→国内の聖俗諸侯、神聖ローマ帝国、ハンザ同盟など。
(2)フィンランド
(a)アジア系民族フィン人により建国。
(b)スウェーデンの支配下に入り(1392)、次第にカトリック化。{2}北欧諸国の統合
(1)ヴァルデマール4世(デンマーク王、位1340~1375)
(a)国内の混乱を平定して正常安定化に成功。
(b)王女マルグレーテがノルウェー王に降嫁。
(2)カルマル同盟(1397)
(a)デンマーク女王マルグレーテがノルウェーとスウェーデンの実権を掌握。
(b)3国共同の次期国王としてポンメルンのエリク9世を置くことを決定。
→デンマーク主導の同君連合国家が成立。
※スウェーデンはいち早く同盟から離脱(1532)。
ノルウェーとデンマークの連合は19世紀まで継続。 |
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6.東欧世界
[1]東ローマ帝国(1)
国内情勢 |
国外情勢 |
{1}テオドシウス朝(395~457):末期帝国の不穏
(1)アルカディウス帝(位395~408)
(a)父帝テオドシウスから旧領の東半分を相続。
(b)同盟部族として領内滞在の西ゴート族が反逆、ギリシアに侵入。
(c)政治的に無気力で、アンテミウス(後の西ローマ皇帝)の執政。
(2)テオドシウス2世(位408~450)
(a)宗教、学問諸学に関心を示し、政治的への直接的関与を敬遠。
→親類(プルケリア、エウドキア)、近臣(アンテミウス)に政治を放任。
(b)エフェソスの公会議(431)を召集してネストリウス派を異端とする。
(c)テオドシウス法典の編纂を命じる(438)。
(d)コンスタンティノープル郊外に難攻不落の大城壁を建設(439)。
(e)フン族の王アッティラの侵入(442~)。貢納を要求される。
(3)マルキアヌス帝(位450~457)
(a)元元老院議員。プルケリア(テオドシウス2世の姉)と婚姻し即位。
(b)カルケドンの公会議(451)を開催。
→単性論(キリスト教の一派)を異端として三位一体説を支持。
(c)フン帝国への貢納を打ち切って対抗。
(d)自国領内の安定には成功したが、西帝国との関係は悪化。
→フン族、ヴァンダル族の西帝国侵攻時に支援できず。
(e)東ゴート族がドナウ川を越えてパンノニア地方に移住(454)。{2}レオ朝(457~518):危機の克服
(1)レオ1世(大帝、位457~474)
(a)一兵卒から即位。実力者アスパル(軍長官)を殺害して実権掌握。
(b)領内の異民族から広く募兵して軍の養成に努める。
(c)西のアンテミウス帝と同盟してヴァンダル王国へ侵攻。
→ボナ岬の海戦(468)でローマ艦隊敗れる。
(2)レオ2世(位473~474)
(3)ゼノン帝(位474~491)
(a)レオ2世の父で当初は共治。息子の急逝を受けて単独統治。
(b)レオ大帝遺族のクーデターに遭って一時失脚(475~476)
(c)オドアケル、テオドリックの王位を相次いで承認。
(d)ヴァンダル王国と和平条約を締結。
(4)アナスタシウス帝(位491~518)
(a)先帝の後継不指名を受け、アリアドネ(先帝の皇后)が指名。
(b)北方ブルガール人の侵攻を受ける(499)
→対抗して首都の北方近郊に長城を構築。
(c)自身は単性論を信奉して領内正統派の反感を招く。
(d)宗教政策以外では成功、精励して国庫を充実。
→ユスティニアヌス帝の大遠征の原動力となる。 |
(1)西ゴート族のイタリア侵攻(400)
(2)西ゴート族のイタリア侵攻
→ローマ市略奪を受ける(410)。
(3)西ゴート王国成立(415)
(4)ササン朝ペルシア衰微(425~)
→東方からエフタルが侵入
(5)ヴァンダル王国成立(429)
(6)ペルシアにフン族侵入(438)
(7)カタラウヌムの戦い(451)
→西帝国、フン軍に勝利。
(8)ヴァンダルのイタリア侵攻
→ローマ市略奪を受ける(455)
(9)フン帝国崩壊(453)
→王アッティラが変死。
(10)ローマ市の荒廃
→西帝国皇帝アンテミウスと
軍長官リキメルの内戦
(11)西ローマ帝国滅亡(476)
(12)オドアケル王国成立(476)
→オドアケル、東帝ゼノンに
西帝国の帝位を返上。
(13)フランク王国成立(481)
(14)東ゴート王国成立(493) |
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6.東欧世界
[2]東ローマ帝国(2)
国内情勢 |
国外情勢 |
◎ユスティニアヌス朝(518~610):古代帝国の再現
(1)ユスティヌス帝(位518~527)
(a)先帝の後継不指名を受け、諸機関協議により選出。
(b)キリスト教正統派を奉じ、西方教会と融和。
(c)ササン朝ペルシアとの抗争が激化。
(2)ユスティニアヌス帝(大帝、位527~565)
→先帝の甥。先帝存命中から共同統治。
(a)政治・経済・文化施策
◎皇帝専制体制の確立と官僚制の整備に努める。
◎敬虔にキリスト教を奉じ、異教異学を徹底的に弾圧。
→プラトン以来のアカデメイア学園を閉鎖(529)。
◎重税に疫病が重なり、住民の不満が鬱積。
→ニカの乱(首都住民の暴動)(532)が勃発。
皇后テオドラの激励と将軍ベリサリウスの活躍で鎮圧。
◎ユスティニアヌス法典(ローマ法大全)の編纂(533)
→法学者トリボニアヌスによる、古代ローマ法の集大成。
法概論・法学説・勅法集の3部構成。
◎首都のセント・ソフィア大聖堂を再建。
◎ラテン語を公用語とする。(古代ローマの公用語)
(b)軍事・外交施策(西部国境)
→ベリサリウス、ナルセスらによる西方再征服始まる(533~)
地中海帝国の再現に成功。
◎トリカメロンの戦いに勝利してヴァンダル王国を滅ぼす(534)
→アフリカ・コルシカ・サルディニアを版図に加える。
◎東ゴート王国とのイタリア戦争開始(535~555)
→東ゴート側には周辺諸国から援兵。戦闘は熾烈を極める。
○東ゴート王国からシチリア島を奪取(535)
○ベリサリウス、ローマ市を占領(536)
○ナルセス指揮の東ローマ軍、タギネの戦いに勝利(552)。
○東ローマ帝国軍、モンスラクタリウスの戦いに勝利(553)。
→この後東ゴート王国滅亡。半島が帝国領となる(555~568)。
◎ベリサリウスのイスパニア遠征(554)
→西ゴート王国からコルドバ・カルタヘナを含む半島南部を奪取。
(c)軍事・外交施策(東部国境)
→ササン朝ペルシアとの抗争断続的に続く。
◎ダラスの戦い(530)で侵入するペルシア軍を撃退。
→ベリサリウス、ペルシアに「永遠の平和」を誓わせる。
◎ササン朝ペルシア軍のシリア侵攻(540)
→アンティオキアを占領略奪される。
(3)ユスティヌス2世(位565~578)
(a)突厥(中央アジアのトルコ系騎馬民族)の使節が訪問(568)。
(b)ロンバルド族の侵入、イタリアの大半を奪われる(568)。
(c)東方遠征により、一時カスピ海沿岸域を制圧(576)。
(4)ティベリウス2世(位578~582)
(a)財政を緊縮して諸負担の軽減に努める。
(b)西ゴート王国の反攻、イベリア半島の領土を喪失。
(c)アヴァール族の侵攻によりシルミウムを失陥(581)。
(5)マウリキウス帝(位582~602)
(a)イスパニアを再び攻めて南部域を一時的に奪還(584)
(b)スラヴ諸民族の帝国領への移動始まる(585~)。
(c)ササン朝ペルシアのホスロー2世を援助して和平。
(d)軍の冷遇による不満から反乱を招いて処刑される。
→ユスティニアヌス朝が断絶。
(6)フォカス帝(位602~610)
(a)帝国領内混乱状態に陥り、内憂外患に見舞われる。
(b)ササン朝ペルシア軍の侵入。カルケドンに迫る。
(c)北方からのスラヴ・アヴァール族の侵入が活発化。
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(1)ササン朝ペルシアの再興(513~)
→エフタルの圧力を排除。(2)帝国学者のペルシア亡命(529)
→ユスティニアヌスの弾圧。
(3)ホスロー1世(位531~579)即位
(a)ササン朝ペルシア全盛。
(b)東ローマ帝国と抗争。
→地中海東岸各地へ遠征。
(4)スラヴ諸族の移動(~550頃)
→ドナウ川下流北側まで進出。
(5)アヴァール王国成立(567)
(a)モンゴル系遊牧民による建国。
(b)ドナウ川の北から帝国を圧迫。
(6)ロンバルド王国成立(568)
(a)帝国領のイタリアに侵入。
(b)都市部を除く大半を制圧。
(7)メリテネの戦い(579)
→ササン朝ペルシアと交戦。
(8)ホスロー2世(位590~628)即位
(a)一時東ローマ帝国へ亡命。
→皇帝マウリキウスが支援。
(b)東ローマ帝国攻撃(602~610)
→カパドキア地方を猛進、
首都対岸のカルケドンへ迫る。 |
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6.東欧世界
[3]東ローマ帝国(3)
国内情勢 |
国外情勢 |
◎ヘラクレイオス朝(610~717):勢威の縮退と帝国の変質
(1)ヘラクレイオス帝(位610~641)
→カルタゴ総督の子息。父と共謀して首都に侵攻。新王朝を創始。
(a)政治・経済・文化施策
→以後数世紀に存続する帝国行財政の根幹制度に参与。
◎軍管区制(テマ制)の導入
→領内を軍管区(テマ)に細分して行政単位とし、各管区には
軍民両権を所有する行政官(ストラテゴス)を派遣して統治。
◎屯田兵制の導入
→解放奴隷や入植者に土地を付与して兵役義務を課し、
各管区に配置。軍事力の供給源の確保と安定維持を目指す。
◎公用語をギリシア語に改める。
(b)軍事・外交施策
→ササン朝ペルシア、アラブ・イスラム教徒の興亡に翻弄される。
◎ササン朝ペルシアの攻勢(614~)
○シリア・パレスティナ地方を占領される(614~615)
○小アジア侵攻、首都近郊に迫られる(617)
◎ササン朝ペルシアへの反攻(622~628)
○小アジア、アルメニア地方への遠征を開始(622~)
○ニネベの戦いにてペルシア軍に勝利(627)。
○東ローマ軍の攻勢、ペルシア首都クテシフォンに迫る。
→ササン朝ペルシア降伏、シリア・パレスティナ奪還(628)。
◎イスラム教徒との戦い(635~)
○アラブ・イスラム教徒軍、ダマスクス占領(635)
○ヤルムーク河畔の戦いにてイスラム教徒軍に降伏(636)。
→シリア・パレスティナ・エジプトなど東方領を再び失陥(~639)
以後の帝国領は主にバルカンと小アジア半島となる。
(古代)ローマ帝国的な性質は次第に喪失し、
ギリシア人国家(ビザンティン帝国)の性格が強まる。
(2)コンスタンス2世(位641~668)
(a)ラテラノの公会議(649)でキリスト単性論が斥けられる。
→ローマ教皇マルティヌス1世を配流(653)
(b)リュキア沖の海戦でイスラム艦隊に大敗(655)
(c)シチリアへの遷都を企図して背かれ、暗殺される。
(3)コンスタンティノス4世(668~685)
(a)イスラム帝国軍の断続的な首都侵攻(673~678)
→新兵器「ギリシア火」を運用して撃退に成功、和平成る。
(b)コンスタンティノープルの公会議(681)
→正統派カルケドン信経を承認して西方教会と和解。
(4)ユスティニアノス2世(位685~695)
(a)アフリカの遺領を巡ってイスラム帝国軍と抗争。
(b)失政を重ねて不興を買い、追放される。
→以後、内外の混乱により帝国内無政府状態に陥る(~717)
(5)レオンティオス帝(位695~698)
(a)イスラム帝国軍により、アフリカ最後の拠点カルタゴを失う(698)。
(b)イスラム帝国軍によるアルメニア侵攻(703)。
(c)軍に反乱されて失脚し、帝位を退く。
(6)ティベリオス3世(位698~705)
(7)ユスティニアノス2世(復位、705~711)
(a)追放の報復で大量粛正。帝国の統率力を低下させる。
(b)イスラム帝国軍による小アジア侵攻。首都近郊に迫る(708)。
(c)イタリアへ遠征を行い、ラヴェンナを攻略(710)
(8)フィリピコス帝(位711~713)
(a)北方ブルガリア王国からの圧迫を受ける(712)
(b)イスラム帝国からの圧力続く(712、小アジアへ侵入)
(9)アナスタシオス2世(位713~715)
(10)テオドシオス3世(位715~717)
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(1)ヒジュラ(聖遷、622)
→ムハンマド、メッカを脱出。
(2)ムハンマド、メッカ帰還(630)
(3)アラブ・イスラム軍の猛攻
(a)ダマスクス占領(635)
(b)カデシアの戦い(635)
→アラブ軍、クテシフォン占領。
(c)ヤルムークの戦い(636)
→東ローマ帝国軍を降伏させ、
シリア・パレスティナを奪う。
(d)エジプト遠征(642)
(4)ニハーヴァンドの戦い(642)
→ササン朝ペルシア滅亡。
(5)イスラム軍、東ローマ領の
キプロス島を占領(649)
(6)イスラム軍、東ローマ領の
シチリア島を攻撃(667~669)
(7)アヴァール人のギリシア侵攻
→テサロニカを占領(677)。
(8)第一ブルガリア王国成立(680)
→数世紀間に渡り帝国の脅威。
(9)先帝ユスティニアヌス2世、
ブルガリア亡命(703)
→テルベル王、復位を支援。
(10)ブルガリアの東ローマ侵攻
→テルベル王、首都に迫る(712)。 |
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